獨逸日記
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編集明治十七年十月十二日。伯林に着きたる翌日なり。朝まだきに佐藤三吉わがシヤドオ街 Schadowstrasse の旅店 Hotel garni zum Deutschen Kaiser に音信れ來て、共にカルヽスプラツツ Karlsplatz の旅店 Töpfer's Hotel に宿れる橋本氏綱常がりゆかんと勸めぬ。詣り着きて、拜をなしゝに、橋本氏手をうち振りて、頭地を搶くやうなる禮をばせぬものぞと、先づ戒められぬ。後に人々に聞けば、歐州にては、敎育を受けたりといふ限の少年は、舞踏の師に就きて、いかに立ち、いかに坐り、いかに拜み、いかに跪くが善しと、丁寧にをしへらるゝことなれば、久くこの地にありて、こゝの人とのみ交り居りて、忽ち鄕人の粗野なる態度をなすさまを見るときは、可笑さ堪へがたきものなりとぞ。橋本氏はわれを延きて、フオス街 Vosstrasse 七番地なる我公使舘にゆき、公使に紹介せんとせしが、公使は在らざりき。又カイゼルホオフ Kaiserhof にゆきて、陸軍卿に見えしめむとせしが、こも亦外に出て玉ひぬとの事なりき。扨おのが旅店に伴ひかへりて、午餐をすゝめ、われに吿ぐるやう。政府の君に托したるは、衞生學を修むることと、獨逸の陸軍衞生部の事を詢ふことゝの二つにぞある。されど制度上の事を詢はんは、旣に隻眼を具ふるものならでは、えなさぬ事なり。われ今陸軍卿に隨ひて、國々を歷めぐれば、たとひ一處に駐ることは少きも、見得たるところ聊有りと覺ゆ。また詳に獨逸のみの事を調べしめんためには、別に本國より派出すべき人あり。君は唯心を專にして衞生學を修めよ。若本國より制度上の事問はるゝことあらば、姑く一等軍醫キヨルチング Koerting に結びおきて、相識りて答へば足りなむと諭されぬ。
十三日。橋本氏に導かれて、大山陸軍卿に見えぬ。脊高く面黑くして、痘痕ある人なり。聲はいと優く、殆女子の如くなりき。この日又靑木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして鬚多き人なり。龜井老公の紹介の書を出しゝに、福羽、八杉などの鄕人の上を問ひ、八杉がみまかりしをば、いたく惜まれき。公使のいはく衞生學を修むるは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緖挾みて行く民に、衞生論はいらぬ事ぞ。學門とは書を讀むのみをいふにあらず。歐洲人の思想はいかに。その生活はいかに、その禮儀はいかに、これだに善く觀ば、洋行の手柄は充分ならむといはれぬ。
十四日。又橋本氏を音信れぬ。衞生學を修むることに就きて、順序をたづねしに、先づライプチヒ Leipzig なるホフマン Franz Hofmann を師とし、次にミユンヘン Muenchen なるペツテンコオフエル Max von Pettenkofer を師とし、最後にこゝなるコツホ Robert Koch を師とせよと諭されぬ。われ、さらば直にライプチヒへゆかむといひしに、卿の立たせ玉ふを送りて後にせよと留められぬ。
十五日。夕暮にカルヽ Karl 街なる酒店「クレツテ」Klette にて、岩佐侍醫、樫村敎授及橋本氏を送る會ありて、御國人十七人集ひぬ。舊識なるは、三浦信意、靑山胤通、佐藤三吉などなりき。加藤弘之大人の令息照麿にも此時始て逢ひぬ。
十八日。橋本氏を送らんとて停車塲 Anhalter Bahnhof にゆきぬ。
十九日。三浦中將の旅宿 Zimmerstrasse 96 を訪ふ。色白く鬚少く、これと語るに、その口吻儒林中の人の如くなりき。われ橋本氏の語を吿げて、制度上の事を知る機會或は少からむといひしに、眼だにあらば、いかなる地位にありても、見らるゝものぞといはれぬ。午後ミユルレル Mueller といふ人來ぬ。こは橋本氏の使ふ文章家にて、シヤルンホルスト街 Scharnhorststrasse 7 に住めりとぞ。一等軍醫キヨルチングが宅なるグロオスベエレン街 Grossbeerenstrasse 67 を訪ふ。この人はチユウリンゲン Thueringen 步兵聯隊本部の醫官にて、今陸軍省に在りて庶務を行ふものなり。
二十日。陸軍卿を送りて停車塲 Anhalter Bahnhof に至る。別るゝとき風土に侵されざる用心せよといはれぬ。
二十二日。午後二時三十分、滊車にて伯林を發す。ライプチヒに達せしは五時三十五分なりき。萩原三圭迎へて旅店 Hôtel Stadt Rom に至る。
二十三日。ホフマンの許にゆく。この人瘦長にして意態沈重なり。午後府の東北隅タアル街 Thalstrasse なるヲオル Frau Eduard Wohl といふ寡婦の家の一房を借る。日本の二階に當るところなり。獨逸語にては平屋を第一
朝餐は咖啡と麵包とのみにて、房錢は其價をも含めり。午餐と晚餐とは、料理屋にゆきてなすもよし、又家ありて人を集へて飮食せしむ。われはリイビヒ街 Liebigstrasse 3 なるフオオゲル Frau Vogel といふ媼の許に食ひに行くことゝせり。フオオゲル一家はあるじなる五十許なる媼の外、その娘にてこれも寡婦なる二十許なる女あり。書生には獨逸人ヘエネル、ワウエル、ヘツセ Haenel, Wauer, Hesse 希臘人トラノス Tranos 米人ドイステル Deuster あり。トラウミユルレル Traumueller といふ英人とマイ Mai といふ肥えたる獨逸人とは商賈なり。ルチウス Fraeulein Lucius といふ二十五六歲と覺しき處女のいつも黑き衣着て、面に憂を帶びたるもあり。飯島魁もこゝに來て食へり。
衣は軍服にて伯林に着きしに、陸軍卿見て、目立ちて惡しければ、早く常の服誂へよと敎えられぬ。
房錢は月ごとに四十馬克、午餐と晚餐と五十馬克、これに薪炭料、衣を澣ふ料など合せて百馬克ばかりなり。
二十四日。大學の衞生部に往く。衞生部はリイビヒ街にあり。これより日課に就くことゝなりぬ。
朝起き出つるは、ヨハンネス寺 Johannes Kirche の鐘七點を報ずる頃にて、糧を裹みて途に上る工匠、書を挾みて學校に上がる兒童など、窓の外を過ぐる見ゆ。九時に近くに及びて、大學に出づ。おほよそ獨逸の都會のうちにて、ライプチヒの如く工塲多きはあらじ。煤烟空を蔽ひて、家々の白堊は日を經ざるに黑みて舊りたるやうに見ゆ。さるをわが大學にゆく途に、ヨハンネス谷 Johannesthal といふ處あり。籬にて圍みたる小園あまたありて、その中に小さき亭などあり。こは春夏の候に來て遊ばんために、富人の占め居るものとぞ。大學より歸れば、英語の師イルグネル Ferdinand Ilgner 我房にありて待てり。語學の師は多く貧人なれば、往いて學ぶ徒弟なく、必ず來て敎ふるなり。夜は獨逸詩人の集を涉獵することゝ定めぬ。
二十六日。けふは日曜日なり。禮拜堂の鐘の聲、ひねもす耳に喧し。料理店烟草屋の外は、商家皆戶を閉ぢたり。
三十一日。學長の選擧あり。學生松明を點して、往きて賀す。
十一月一日。
三日。警察署にゆきて寄留證を領す。
九日。ホフマン師の家を訪ふ。白手套は買ひたれど、黑き上衣なきゆえ飯島に借りぬ。
十二日。ハイデルベルヒ Heidelberg なる宮崎道三郞の書到りぬ。對中井上哲次郞のわが盜俠行(水沫集六〇九面)を改刪し、評語を加へたるあり。井上と相識るやうになりたるをば、嬉き事におもひぬ。
十六日。始て雪ふる。舊劇部 altes Theater に往きて、嬉劇 Raub der Sabinerinnen を觀る。午後七時に始りて、十時に終りぬ。
二十七日。ホフマン師に招かる。夫人と相見る。
十二月十五日。ベルツ師 Erwin Bälz 我業室を音信れぬ。夜ホフマン氏ベルツ師とショイベ Botho Scheube とを招きて、われもその宴に陪せしめき。
十七日。ベルツ師に招かれて、酒店に晚餐す。
二十五日。けふは祭日にて、こゝの人々互におくりものす。
二十八日。理學士九里龍作おとづれぬ。久く龍動にありて器械學を修めきといふ。佐藤元萇師の書到る。郵筒に一封書奇數行啼と題したり。披けば紅葉いくひらか机上に翻りぬ。葉の上に題したる詩に。只知君報國滿腔氣、泣對神州一片秋の句ありき。
明治十八年一月一日。こゝの習にては、この日の午前零時に元旦をいはふ。われは此時をば、水晶宮 Krystallpalast の舞踏席にて迎へぬ。おほよそ一堂に集へるもの、知るも知らぬも、「プロジツト、ノイヤアル」Prosit Neujahr ! と呼び、手を握りあふことなり。
四日。丹波敬三、飯盛挺造伯林より來ぬ。萩原の宿にて、日本食調へて饗しつ。
七日。日本茶の分析に着手す。
八日。水晶宮に往きて假面舞を觀る。われは飯島と共に土耳格帽を戴き、黑き假面を被りて入りぬ。
十八日。索遜王國第八步兵聯隊の一等軍醫ウユルツレル Würzler 余を延いて、陸軍中將 モンベエ Monbey 大佐 ロイスマン Leusmann 及ひ軍醫正マイスネル Meissner を訪ふ。中將は偶〻家に在らず、餘の諸氏は快く余を延見したり。
十九日。聯隊の「ミリテエル、カシノ」Militaer-Casino に至る。「カシノ」は猶我陸軍の偕行社のごとし。軍人と交る便あり。
二十三日。ホフマン師の家に晚餐す。
二十六日。家書到る。
二十七日。木越大尉ケムニツツ Chemnitz より至る。西南の役に少尉たりき。銃丸腹を洞し背より出でにきといふ。
二十九日。木越を送りて停車塲に至る。踏氷の戲 (Schlittschuhfahren) を看る。此地白鳥池 Schwaneteich と白馬池 Schimmelteich とあり、皆その堅氷を
二月七日。朝家書至る。妹の歌に
- こと國のいかなる鳥の音をきゝて
- 立かへる春を君やしるらん
ウユルツレル余を誘ひて拿破翁石 Napoleon-Stein に至る。方石あり。其面に耶蘇經文の一句を彫る。背には又數行の文あり。其の年拿破翁此丘上に立ちて親しく戰况を瞻るといへり。歸途來責渠道の泉源を觀る。碑を距ること遠からず。
十一日。化學士クレツチユマン Kretschmann 余を「サント、パウリ」St.Pauli 唱歌會に招く。
十三日。フオオゲルの家に晚餐する時、ルチウス氏馳せ至りて、面白き事ありと叫び、携ふる所の新聞紙を出して余に示す。紙上唱歌會の事を記せる中に、本會の名譽とすべき賓客には、
十七日。シヨイベ Scheube を訪ひ、其藏書を借る。余近ろ日本兵食論及日本家屋論の著述に從事す。故に引用の書を求めたるなり。ゲエゲンバウエル Gegenbauer の解剖書等三部の書を買ひて弟に送る。
二十三日至二十五日。自身に就いて榮養上の試驗をなす。(Selbstversuch) その成績完全ならざるがために世に公にせざりき。
二十七日。シヨイベの家に招かる。ベルツ師匠及萩原三圭座に在り。
三月三日。大學冬期の講畢りて講堂を鎖す。業房は鎖すことなし。
七日。ホフマン師の姑ウンデルリヒ Wunderlich 氏の柩を送る。
九日。家書到る。
十七日。
十八日。村井純之助來る。內務省試驗塲の吏なり。博物學に精し。余の東亞學校敎員たりしとき、此人植物學の敎員たりき。頃ろ龍動博覽會の役員となりて渡海し、伯林より此に來ぬとなり。
二十一日。村井を送りて德停停車塲に至る。歸途飛雪面を撲ち、冷氣骨に徹す。
二十八日。菊池大麓來る。始めて「パノラマ」Panorama 館に相見る。此夕家書又た到る。
三十日。佐方潛造ウユルツブルク Wuerzburg より至る。佐方は駐英公使の族人なり。舊と大學の一等本科生たり。公使の任に赴くに當りて。其課業を止めて獨逸國に來ぬ。衞生學を修めんとすといふ。今より後は余と同じく ホフマン師の門下たるべし。性篤實にして憑もし氣なり。
三十一日。菊池を送りて停車塲に至る。此人は澳國維納府を經て鄕に歸ると云ふ。
四月一日。 ビスマルク候の生誕なり。家々宴を張りて相祝す。
十二日。古莊韜と加藤照麿と來責府に來ぬ。韜は嘉門の子、照麿は弘之の子なり。彼はエナ Jena 私學校の生徒たり。此は伯林の大學生たり。加藤の曰く。伯林より此に至る途中、ウユルツブルク Wuerzburg を經て、伊東氏を見き。此人「クロラアルヒユドラアト」Chloralhydrat を嗜む癖あり。今身體瘦削し、精神昏矒すといふ。
十五日。家書到る。石黑緖方兩軍醫監の書も亦至る。小山內建、淸水郁太郞の病沒、緖方收二郞の結婚を知る。
十八日。飯島魁發軔す。送りて停車塲に至る。夜ニイデルミルレル Niedermueller 氏に誘はれて、トツトマン Albert Tottmann を訪ふ。此人は音樂の師なり。
二十三日。國王の生誕なれば戶ごとに旗を建つ。
二十五日。家書到る。
二十六日。賀古鶴所の書到る。
二十七日。「オステルン」の祭日 Osterfeiertage は此日を以て終り、大學開講す。
二十九日。索遜軍團醫長軍醫監ロオト Wilhelm Roth 氏德停府より來り、諸大學敎授及軍醫とカタリイネン、ストラアセ Katharinenstrasse なるバウマン Baumann の酒店に會す。余も亦與る。ロオト氏は鬚眉皆白し。然れとも談笑の狀少年の人の如し。此人は方今獨乙國軍醫の巨擘なり。余の面を見て、人の介するを待たずして、卿は二等軍醫森氏ならずやと呼び掛け、松本總監、橋本軍醫監等の近况を問ひたり。又云く。五月十三日負傷者運搬演習を德停府に擧行す。請ふらくは來觀せよと。余喜びて諾す。此日眼科敎授コクチウス Coccius 及病躰解剖科敎授ビルヒ、ヒルシユフエルド Birch-Hirschfeld と相識る。
五月二日。大學正廳 Aula に往きてビルヒ、ヒルシユフエルドの初講を聞く。細菌學の沿革及其病躰解剖學との關係を題とす。
三日。トツトマンに招かれて晚餐す。未亡人シユライデン氏、處子シユワアベ氏 Frau Dr. Schleiden, Fräulein Schwabe と相識る。シユライデン氏の夫は著名の博物學士なりき。その植物學の書盛に世に行はる。未亡人は神怪の事を好み、所謂幽靈說 Spiritualismus を信ず。又少く音律に通ず。シユワアベ氏は美貌の少女なり。其語を聞けば、口吻丈夫に似たり。
七日。未亡人に招かれ、馬車を倩ひてそのゴオリス Gohlis の居を訪ふ。來責のゴオリスあるは、猶東京の向島根岸あるが如し。家の四隣には櫻桃乱れ開く。春雨霏々たる中、時に鳥聲を聞く。筵に與る者をトツトマン夫妻、トリエスト Triest うまれの婦人某等とす。シユワアベ氏客を待つこと甚慇懃なり。此日始めてその未亡人の家に寓するを知る。
十二日。午前八時三十分ウユルツレルと共に滊車に上りて、來責を發す。一村を過ぐ。菜花盛に開き、滿地金を布けり。忽にして瀰望皆雪なり。葢蕎花なり。ウユルツレルの曰く。石油の用漸く廣くなりしより、菜花の黃なるを見ること稀なりと。路傍の細溝、水皆鐵を含む。メツケルン Meckern に至る前、褐色炭層を望む。又一村を過ぐ。林檎花盛に開く。櫻梨の如きは皆已に落ち盡せり。ムルデ Mulde 河を渡る。源をエルツゲビルゲ Erzgebirge に發すと云ふ。民屋は多く葺くに瓦を用ゐたり。藁を用ゐるものは稀なり。近ごろ令して藁屋は唯ゝ修復することを許し、新に營むことを許さずと云うふ。牧者の群羊を率ゐたるに遭ふ。圖畫中の物に似たり。オシヤツツ Oschatz を過ぐ。「ウラアネン」Ulanen 兵の營舍あり。灌木あり。箒の如し。その屢〻苅りて屢〻生ずるを以て、僻村の民薪材に充つと云ふ。葢し「スパチウス」Spatius の類なり。十時十五分リイザ Riesa に達す。十分間車を停む。是より易北河の鐵橋を渡る。麥圃の上に吿天子多し。マイセン Meissen の城を望む。一工塲あり。材木を集めて爹兒に浸し、電線柱及鐵道線に用ゐると云ふ。十一時半リヨスニツツ Loessnitz を過ぐ。地形漸く變じ、處々丘陵を望む。ウユルツレルの曰く。此間猶葡萄丘ありと。葢し葡萄の培養は、一年平均の大氣溫度九攝度以上ならでは、功を奏し難し。譬へば彼の細菌の發生必ず一定の溫度に待つことあるが如し。德停の大氣溫度は九、一度なれば、實に歐洲大陸中葡萄を培養す可き地の北界に當れり。已にして德停の騎砲輜重兵營を望む。十二時德停府に達す。行李を四季客舘 Hôtel zu den vier Jahreszeiten に安頓し、正服を着し、ロオト氏の官宅を訪ふ。一室に延かる。數個の机上圖書を堆積せるを見る。余等をして皐比を掩へる「ソフア」の上に坐せしむ。晤談半晌にして、余等を伴ひて陸軍卿フアブリイス Fabrice 伯の署に至り、面謁せしむ。卿名をゲオルグ、フリイドリヒ、アルフレツド Georg Friedrich Alfred といふ。普魯西と索遜との聯合をなすには、此の人與りて力ありき。今六十八歲にて、朱顏白髮、容貌魁偉なり。後司令長官ゲオルグ王 Prinz Georg, Herzog von Sachsen 及市司令官 Stadtcommandant 少將フインケ Finke の署に至り、到着簿に記名す。又將官シユウリヒ Schurich と相見る。客舘に晝餐し、ウユルツレルの姑の家を訪ふ。姑は五十許の婦人、性敏捷にして、善く談ず。ウユルツレルの婦妹、年十五六、秀眉紅頰の可憐兒なり。咖啡を供せらる。ウユルツレルは行李を此家に安頓す。畢りて此家を辞し、レンネ Lenne 街より左折し、街樾 Allee に入る。遙に百合石山 Lilienstein の天半に聳ゆるを望む。漸く進めば、喬木枝を交ふる下、綠草茸々たり。花園に入る。艸花盛に開けり。大理石彫像多し。園の後に栗林あり。紅白の花を着く。野鳩多し。頸に白環あり。本邦の者に比すれば稍〻大なり。「ドロツセル」、「アムゼル」、紅尾鳥 Drossel, Amsel, Rothschwaenzchen 等の諸禽を見る。既にして池沼を得たり。所謂カロラ湖 Carolasee なり。白鳥ありて游泳す。池を一周するに、步々觀を改め、奇幻極なし。動物園に入る。象、犀、麒麟、「ラマ」Lama 等を見る。「ラマ」は性頗る惡しく、動もすれば人の面に唾す。子母獅最も奇とす可し。ウユルツレルの姑の家に晚餐す。夜シユウマン氏酒房 Schuhmann'sche Weinstube に至る。「サン、テミリオン」St. Emilion 酒一瓶を傾く。當壚の婦余を錯り認めて伊地知大尉となす。衆大笑す。此日午前少しく雪ふる。
十三日。陰、午前七時軍服を着し、ウユルツレルと俱に馬車を倩ひて練兵塲に至る。負傷者運搬演習を觀んとてなり。演習中少く雨る。午前十一時三十分式畢る。塑像舘及畫廊を觀る。德停の畫廊は世界の名畫を收む。就中ラフアエルロ Rafaello の童貞女は余の久く夢寐する所なりしが、今に到りて素望を遂ぐることを得たり。客舘に晝餐す。午后五時正服を着し、軍醫會に赴く。會塲はブリユウル磴 Bruehl'sche Terrasse なる「ベルヱデエル」Belvédère 亭なり。亭は易北河の南岸に築ける舊砦なり。王國衞生團の軍醫悉く集る。來賓には陸軍卿、伯林衞生會長軍醫正ダイク Dyck 德停病院外科醫長某等あり。酒酣にしてロオト氏演說す。中に今日の宴、別に遙に東方より來れる客を見る喜あり。此人假に我軍團に投ぜんことを願はゞ、余等はその何れの日なるを問はず、樂みてこれを迎ふ可しといふ語あり。最後に軍團の康寧を祝すとて、滿堂の客三鞭酒の杯を擧げ、「ホオホ」hoch ! と呼ぶこと三たびす。酒間には奏樂あり。軍醫中曾て伯林に在りて坂井直常と同じく學びたりと云ふものあり。夜十二時會散ず。
十四日。陰、午前十時客舘を出て、ロオト氏に從ひて諸兵營及平時病院を巡視す。午後一時巡視畢る。「カシノ」に晝餐す。七時散ず。八時滊車に上りて來責に歸る。時に十時十五分なり。
二十四日。家書到る。
二十六日。伯林に赴く。全權公使と學課の順序を議せんと欲するなり。午前十一時來責を發し、三時三十分伯林に着す。
二十七日。午前公使舘に至る。靑木公使の猶海牙に滯するを聽く。三浦、靑山を訪ふ。古莊に逢ふ。隈川の家に晚餐す。
二十八日。三浦と共に「シヤリテエ」Charité なる病理學試驗塲に至る。三浦の製する所の膽管枝、細尿管、胃癌等の標本を見る。諸友と勝利柱 Siegessaeule の下を經て幕舍 Zelten に至り晚餐す。夜博覽會苑 Ausstellungspark に至る。苑は廢兵街 Invalidenstrasse と古「モアビツト」Ait-Moabit との間に在り。曾て衞生博覽會を此に開く。故に名く。綠樹の間多く電氣燈を點し、又數所の噴水あり。納凉に宜しき地なり。同遊者を靑山、隈川、榊、田中、穗積、片山、加藤等とす。
二十九日。三浦の家にありて日を消す。夜バウエル茶店 Café Bauer に至る。三浦、加藤の球戲を作すを觀る。
三十日。公使舘に至る。公使は未だ歸らず。棚橋軍次を見る。乃ち諸事を委託す。砲兵街 Artilleriestrasse に至る。三浦、古莊及ラアゲルストリヨオム夫人 Frau von Lagerstroem と別る。午后二時三十分アンハルト停車塲 Anhalter-Bahnhof に至り、滊車に上る、車中炎熱堪へ難し。乍にして驟雨至る。凉氣膚を襲ふ。快きこと言ふ可からず。五時三十分來責に着す。
六月五日。黴菌培養法の講習を始む。
十日。夜フオオゲル氏及グレツチユマン氏 Fraeulein Gretschmann と俱に合奏會 Concert を拜焉停車塲 Bayer'scher Bahnhof に聽く。
十一日。ロオト氏又德停府より來る。バルマン Barmann の酒店に會す。コクチウス、ワグネル Wagner ビルヒ、ヒルシユフエルド、シユミツト Schmidt 及軍醫數十名與る。
十五日。家書に接す。米原師の書其中に在り。
二十四日。所謂「ヨハンニス」日 Johannistag にて古來の祭日なり。此祭は未だ基督敎の行はれざる前より有り。昔は永晝短夜の極度に至れる日に此祭を行ひ、所謂「ヨハンニス」火 Johannisfeuer を點したり。火を點する者は猶晝日の永からんを祈る意にして、平相國が沒日を招きしと同日の談なり。點火の習は猶ミユンヘン Muenchen に殘れりと。現今此地にては「ヨハンニス」日を祖先を祭る日とす。猶盂蘭盆の如し。闔府の士女其塋域に集り、花もて編める環を墓上に縣く。亦美觀なり。新聞紙「ヨハンニス」日の事を記して云く。獨逸國中此日を祭る地多し。然れども何の處にか又「ヨハンニス」谷 Johannisthal と「ヨハンニス」人 Johannismaennchen あらんと。谷は上にも云へるが如く、我寓居に近き一區なり。古府を開くとき、砂を掘りし跡なるを、千八百三十二年始めて區畫し、苑囿と爲したり。然れども府の人口漸く殖え、谷の面積漸く隘きは、東京の忍ぶが池と一般なり。此日には樂を谷に奏し、遊人甚多し。苑囿は總じて夏日の遊を主とする故、此頃は谷中綺麗の塵のみなり。「ヨハンニス」人とは谷に近き病院 Johannishospital の庭にて、昔よりの習に依り此日に開帳する除災の守護神なり。
二十七日。夜ゴオリスなるブリユツヘル苑 Bluecher-Garden に至る。大學の助手兩シユミツト Arnold Schmidt, Heinrich Schmidt 及ハイドレン Heidlen の來責を去るを送る筵なり。諸生輩狂詩を作り、印刷して來會の人々に頒ち、同音に之を歌はしむ。
- Denn Dr. Schmidt ergriffes,
- Das Scepter der Percussion;
- Er schwang es kuehnen Muthes
- Und lehrte uns den Ton.
と云ひ、また
- Ich mein' Dr. Heidlen, den wackren,
- Den Alles so ehrt und so liebt,
- Die Waerterin und die Patienten
- Und was es noch sonst etwa gibt.
と云ふが如し。葢シユミツト Schmidt は診斷學を敎授したるを以て、其事を演べ、ハイドレン Heidlen は美男子なるを以て、此語を爲して之に戲るゝなり。吟歌の間は樂を奏す。軍樂隊を雇へるなり。諸生輩麥酒を喫す。其量驚く可し。獨逸の麥酒杯は殆ど半「リイテル」を容る。而して二十五杯を傾る者は稀なりと爲さず。乃ち十二「リイトル」半なり。余は僅かに三杯を喫することを得。是を極量と爲す。盖し諸生輩の嘲笑を免かる可らざる者あり。
七月一日。家書到る。橋本綱常氏軍醫總監に任ぜらるゝを聞く。
十二日。家書到る。
十五日。一等軍醫の辭令到る。
- 書感
- 一片天書渡海來。千金何意買駑駘。自慙恩澤由報。又拂牀頭卷帙埃。
十九日。萩原、佐方と共に水晶宮苑に至り、二氏を請ひて葡萄磴 Weinterrasse に坐す。苑の此磴あるは猶酒廛の客房 Weinstube あるが如し。葢貴客の坐處なり。既にして晚餐畢り、葡萄酒の瓶も仆れたるとき、余は方纔二氏に向ひ、官等昇進の爲め心計の祝筵なれば、更に一盞を傾けて歡を竭されんことを乞ふといふ意を演べ、三鞭酒を薦め、此より苑內を遊步せり。此夜も合奏 Concert ありて苑內に遊客頗る多かりき。
二十五日。ベルツ師又來責府に來り、余が試驗室を訪はる。曰く。日本に赴くこと近きに在りと。此夜家書又到る。石黑軍醫監の書封中に在り。
頃日來此地暑甚しかりき。唯雨過ぐる後心神始めて爽然たり。初夜月に乘じて逍遥苑 Promenade (府の舊郭を擁する街樾なり) に至る。處々に椅榻あり。然れとも多くは少年男女の爲に占められて、空榻を得ること殆ど稀なり。然れども此輩相偎し相倚る狀、慣れ見る故を以て奇と爲すものなし。暑中諸生輩は扁舟に棹してプライセ Pleisse と名づくる小渠を溯洄するを無上の樂とす。余は與らず。此一二日は天候一變し、冷雨窓を打ち、夜は纊を襲ぬる程なり。
頃日又十字街頭に老婦の小車を停むるあり。是れ櫻の實を賣るなり。圓斗にて量り、新聞反古を卷きて之を包む。これを「ヂユウテ」 Dute と名づく。一包五乃至十片錢 Pfennige なり。貴婦人と雖、此卷紙を手にし、且食ひ且行く。恬として愧づる色なし。實の大さ拇指頭の如し。味甚美なり。櫻賣の小車は巨獒に牽かしむ。亦奇なり。
三十日。夕、友人等强いて勸めてプライセ Pleisse に遊ばしむ。友人等の曰く。艣を搖すことは吾等自ら任じて、敢えて君を勞せずと。午後八時家を出て二三の街 Peterssteinweg, Zeitzerstrasse, Suedstrasse を過ぎ、槍橋 Spiessbruecke に至る。河岸處々に今戶渡口の渡守の板屋の如きものを作れり。此〻にて舟を借るなり。舟は日本にて競漕に用ゐるものに似て一梃艣より三梃艣までの差あり。舟首には黃燈、舟尾には赤燈を點じ、其進退を識別す可からしむ。余等も亦舟を借り、河上に泛ぶ。河幅は狹くして、僅に二舟を並び行る可し。游人甚多し。舟多くは美人を載す。或は風琴を奏し、或は唱歌す。既にして二橋の下を過ぎ、河幅少く開く。忽ち十五六の少女の服飾陋しからざるが、自ら漿を蕩するを見る。友人余を顧みて曰く。君彼女兒に愧ぢざるやと。余因りて戲に棹郞を學びしが、兩腕の運動齊一ならず、心を右腕に用ゐれば左腕主とする所を失ふ。乃ち啞然として大に笑ふ。然れども數十分の後には筋肉の共動宜きことを得て、復た他人に讓らざるに至れり。未だ幾ならず。數點の燈火水に映ずるを見る。盖し水に架したる酒亭なり。(Restaurant von Frau Bastanier)
舟を此に繫ぎ、醃魚と麥酒とを求む。既にして纜を解きて南行す。兩岸密樹鬱蒼、梢間より洩れ出づる月光は波面に數條の帶を畫き、淸風徐に來り、人をして羽化の想あらしむ。コンネヰツツ Connewitz の近傍より舟を廻らし、夜十二時家に歸る。友人はグスタアフ、ワグネル Gustav Wagner ヒヨオゼル Hoesel 等なり。
二十七日。德停客舘 Hôtel zu Stadt Dresden の園中に花燈會を開くを聞く。往いて觀る。我に所謂酸漿提燈なり。長き者は略〻我國の提灯に似たれども、圓き者は形毬の如し。其工の粗拙笑ふ可し。葢し器械の用盛なる國にては、赤手にて物を製することは段々拙くなるものなり。我國提灯の美なるは、猶蝦夷人の轆轤を用ゐずして作れる盆のごとき歟。
八月二日。米人トオマス Thomas と逍遥苑 Promenade を周り、歸途其居を訪ひ。「オツペンハイメル」 Oppenheimer 酒を酌みて談話す。トオマス Thomas は性質溫和にして言辞虛飾なし。余其人と爲りを愛す。談偶〻婚嫁に及ぶ。トオマス Thomas 悽然として云く。余は終身娶婦の望を絕てりと。余其故を問ふ。曰く。我家は世々勞瘵を病みて死す。余復た患を子孫に及ぼすに忍びず。而して故里一少女あり。望を余に屬す。雁書往復、今に到りて止まず。余措いて答へざらんことを欲すれども能はずと。因りて其小照を出して示す。余其意を憐み、慰めて曰く。今コツホ Robert Koch 結核菌の發明あり。人傳屍鬼疰の妄を辨ず。君の身今健全なり。宜く强壯なる婦を娶りて强壯なる兒を育す可しと。トオマスは博言學を修め、敎育學舘 Paedagogium の業に從事せんとす。今夏試を受け、試畢れば鄕に歸るなり。
三日。谷口謙の書到る。官署組織の變を記す。又諸學士の事を報じて云く。江口は相易らず風車と一般、賀古は木强にして無頓着、小池は歸朝、舊に依りて傲慢云々と。余其舊態依然たるを想ひ、覺えず絕倒す。
八日。家書到る。此日學校を鎖づ。
九日。トオマス及其一友人 (失名、右手二指を缺く) とロイドニツツ Reudnitz なる城窖 Schlosskeller と云ふ舞踏塲に赴く。トオマスは歐米の若き人には稀なる事にて、未だ曾て舞踏を試みずと云ふ。されど之を觀ることをば好めり。此舞踏塲は上等客の爲めに設くる者に非ず。此に來る婦人は、多く行酒女 Kellnerinnen の類なり。トオマスは新に米國より來れる友に此境界を示さんとて伴ひ來れるなり。此日ホフマン師の家を訪ふ。鈴索を引くこと屢〻なれども、一人の應ずるものなし。盖し全家の旅行せるなり。
十日。田中正平の書伯林より至る。正平は羅馬字會員なり。其一節に曰く。近頃羅馬字會は書法を改めて、これを報じ來れり。故に余は其要領を君に傳へんと欲して果さゞりき。然るに君の書を見れば早くこれを知り給ふ如しと。余が田中に贈りし書簡も、羅馬字もて記したりし故、斯く云ふなり。葢し余は羅馬字會の法則を知れるには非ず。略〻ヘバアン Hepburn の法に依り、一種の寫音 phonetische Transscription を試みたるに、偶然符合したるなり。
十三日。ホフマン師及軍醫ウユルツレルの家を訪ふ。皆逢はず。佐方の曰く。一昨日途上ウユルツレルの車上より高く帽を擧て揮くを見たり。同車の人ありしや否は知らず。思ふに發途の時にやありけんと。
頃日暑中旅行の流行は、實に驚く可きものあり。游人中には我意に悖れども、止むことを得ずして游ぶ者あり。某の曰く。余は暑中酒家の園中に坐し、一盞の麥釀を喫するを以て樂とすれども、奈にせん荊妻の强いて旅行を勸むるありと。余婦人の果して旅行を好むや否を試問するに、未だ必ずしも然らず。其相識の婦人皆旅行するときは、自家のみ鄕に留りて、人の盤纒乏きを疑はんを慮り、夫を勸めて旅行するなり。故に相識の婦人程近き浴塲を訪へば、己れは去りてアルペン Alpen 山に上り、以て他日誇稱の資となさんと願ふなり。オツトオ、ロケツト Otto Roquette 嘗て畫工の徒らに遠游に耽りて、四邊の好景を顧みざるを笑ひたりき。嗚呼、豈特に畫工のみならんや。
飯島の去りてより、余は其舊室に遷れり。架上の洋書は己に百七十餘卷の多きに至る。鎖校以來、暫時閑暇なり。手に隨ひて繙閱す。其適言ふ可からず。盪胸決眦の文には希臘の大家ソフオクレエス、オイリピデエス、エスキユロス、Sophokles, Euripides, Aeskylos の傳奇あり。穠麗豐蔚の文には佛蘭の名匠オオネエ、アレヰイ、グレヰル Ohnet, Halévy, Gréville の情史あり。ダンテ Dante の神曲 Comedia は幽昧にして恍惚、ギヨオテ Goethe の全集は宏壯にして偉大なり。誰か來りて余が樂を分つ者ぞ。
余に午餐を供するフオオゲル氏 Frau Vogel の家にも、官廨庠序の休暇以還、來賓の更迭少なからず。今の坐上の客は左の如し曰。ワイガント Weigand 小學敎員にして、傍ら大學の講說を聞く。談話に巧なれども斗筲の小人なり。曩に舟行を與にしたる一人は此人なり。當時同行せしヒヨオゼルは放學中歸鄕せり。曰來責府觀象臺の吏某、余等戲に目して觀星先生 Sternwaerter と爲す。善く戲謔す。曰波蘭人二人、一は矮軀にして寡言なり。一は美貌にして辯を好む。並に名を知らず。槪して波蘭人の名は其語に通ずる者ならでは口舌に上すこと難し。マロン Maron といふ人の日本支那紀行に曰く。日本人の性は大に波蘭人に似たり。往古同統なる可しと。其妄笑ふ可しと雖、波蘭人の人に接すること慇懃に、傾盖故きが如く、動作敏捷、而も中心守る所あるは、頗る日本人に似たるを覺ゆ。唯ゞ余が識る所の數人に就きて言へば、間〻恭敬度に踰え、諛に近きことあり。殊に其婦人を敬するは鱟の媚に似たり。曰く紅衣の女子、名を失す。淡碧の瞳、明黃の髮、性甚だ溫和なり。數週前より行儀見習ひの爲めにとて來たり。曰小童ワルテル Walther 富商の子なり。年十三。無邪氣にして愛すべし。其他前日記する所の人々は、或は避暑、或は移居、今復た此家に來らず。
十五日。穗積、樋山、佐藤の三氏伯林より至る。穗積は航西の時、余と舟を同うせし人なり。樋山は曾て判事たり。今伯林に在りて律を學ぶ。佐藤は米國留學生にして專ら農學を修む。
十六日。來游の諸氏と那破崙石に至り、コンネヰツツ Connewitz を經て還る。
十七日。朝穗積來て別を吿ぐ。
十八日。ルチウス Lucius 氏避暑の遊より歸る。
十九日。夜二波蘭人と水晶宮 Krystallpalast に至りて樂を聞く。此日波蘭人の名を識る。一をクペルニツク Cupernik と云ひ一をラツニンスキイ Lazninsky と云ふ。エリイ、バルナタン Elie Barnathan 及マリオン Marion と語る。彼は土耳格の人、巴里にて敎育を受けたりと云ふ。美貌の風流才子なり。樂を市樂堂 Conservatorium der Musik in Leipzig に學ぶ。此は里昂府の商賈、亦た樂人。
二十日。微雨。午後クペルニツクの居を訪ふ。又ホフマン師を訪ふ。夫人を見る。師は既に其避暑の遊より歸りたれど、今偶〻家に在らず。此日英國婦人ステンフオオス氏 Miss Stainforth 余等の午餐夥伴に入る。年十七八。嬌眸穠眉にして其髮深黑なり。亦樂を市樂堂に學ぶ。
二十二日。夜フオオゲル氏及ステンフオオス氏と同じく拜焉停車塲 Bayer'scher Bahnhof に至る。天寒きが故に奏樂なし。夜半家に歸る。婢の曰く。我情郞此に在り。君に謁せんことを請ふと。忽ち見る一人ありて白色の日本浴衣を着、婢の背後より躍出するを。卽ち癲狂學を修むる留學生榊俶なり。榊は伯林よりウユルツブルク Würzburg に至り、歸途余を訪ふなり。
二十三日。是日は前年家鄕を發せし日なり。萩原と舊を話す。書をトオマスのサスニツツ Sassnitz auf Ruegen の浴塲に在るに寄す。頃日余も亦避暑に意なきにあらず。その敢えてせざる所以の者は二あり。曰余は近ろ一顯微鏡を購求す。器械の精良なる、以て人に誇示す可し。然れども其價も亦廉ならず。約五百麻 (百二十五圓) を費せり。亦贅澤なる遊を爲すことを欲せず。曰獨乙大十二軍圑 (薩索尼軍圑) の秋季演習は今二十七日に始り、九月中旬に終る。余曾て伯林に赴き、公使に請ふにこれに參與することを以てす。其成否は未だ詳ならずと雖、漫りに遠遊すべきにあらず。夜榊及フオオゲル氏、ルチウス氏と俱に全視畫舘 Panorama 及キツチング及ヘルビヒ Kitzing und Helbig の酒店に至る。
二十四日。夜榊等と俱に米飯を炊ぎ食す。
二十五日。榊伯林に還る。ホフマン師及ウユルツレルと試驗室に相見る。ウユルツレルは此日午後避暑の遊より歸れるなり。夜佐方と德停客舘 Hôtel zu Stadt Dresden に至る。隣席に一獨逸人あり。自ら云ふ。余はベンシユ Johannes Baensch-Drugulin と稱す。印刷を以て業と爲す。近ごろ一藥店の爲に支那文もて記したる票文を刻したりと。余の曰く。何の藥ぞ。曰く。珊䔍尼なり。余笑いて曰く。是れ余の譯する所なり。ベンシユ曰く。然らば君は支那人か。曰く。否余は日本の軍醫なり。而して支那文を能くす。日本の語は支那の語と毫も相類する所なし。日本人は唯ゞ支那の文字を借るのみ。現時羅馬字會といふもの起こる。又文字を西歐に借らんとす。日本人は未だ必ずしも支那文を能くせず。藥賈の余に邂逅せしは偶然のみと。
二十六日。夜、薩索尼國兵部鄕王の允可を經て予に演習に參與することを命ず。乃ち行李を理め、出發の準備を爲す。
二十七日。晴、午前十一時廿五分德停々車塲 Dresdner Bahnhof に至り來責を發す。是より先き二十六日午後五時兵部省の書至る。出發時期の翌日午前六時なるを見る。行李を聯隊に輸送するに暇あらず。故に十一時廿五分滊車に上りてマツヘルン Machern に赴き、大隊と會することゝしたり。十二時マツヘルンに着す。獨逸の村落は今まで見たることなき故、いと珍らかなる心地せり。ウユルツレルの兵僕停車塲に迎ふ。乃ち僕をして行李を荷はしめ、宿舍 Quartier に至る。我宿舍はパウル、スネツトゲル Paul Snetger の城居なり。破石門より苑に入る。苑中白木槿花盛に開く。家は白堊もて塗り、瓦を葺く。中央に一塔を築く。甚だ高し。石階の左右には石獅子あり。家裡の粧飾多く戰國の餘風あり。穹㝫及四壁には鬼神龍蛇を畫き、柱には武器及獸首を刻す。食卓に樓上に就く。醇釀佳殽頗る口に適す。無花菓を饗す。甚だ美なり。主人夫妻の他、スネツトゲル、ワルテル、バアゼル氏の三處女 Elise Snetger, Helene Walther, Fraeulein Basel 座に在り。スネツトゲルは瘦小慧敏にして雄辯人を驚かす。ワルテル氏は紅顏豐頰亦言語に善し。然れども眉目甚だ美ならず。バアゼル氏は寡言にして沈靜、婉柔愛す可し。午後打毬戲を爲す。遊畢りて苑を逍遥す。廣濶なることロオゼンタアル Rosenthal に讓らず。埃及尖塔の摹型あり。又一塔あり。甚だ高し。スネツトゲル氏鎖鑰を開き、客を導きて登る。四顧平野。麥圃松林と相半す。皆云ふ。此塔尖は鐵道より望む可しと。塔の一室簿册を備へ、登覽者の姓名を錄す。余邦文もて姓名を記す。女兒等舟を池中に泛べんと欲す。時已に晚きを以て果さず。晚餐の時主人起ちて演說し、三鞭酒を傾け、諸將校の健康を祝す。余等も亦杯を擧げ一族の昌榮を賀す。午後十時半、眠に就く。牀は所謂天盖牀 Himmelbett なり。紅幔を垂る。同じく城中に宿する者を大隊長少佐ワグネル Wagner、大尉フオン、オヨオル von Oehr、一等軍醫ウユルツレル、少尉ビイデルマン男 Baron von Biedermann と爲す。
二十八日。晴、午前六時大隊長部下を旅舘の前に閱す。既にして率ゐ去る。七時ウユルツレル及計官フアルクネル Falkner と俱に馬車を倩ひて途に上る。松柏の林を過ぐ。平原あり。紅花滿目。盖し「ハイデクラウト」Heidekraut なり。九時第一大隊とトレプゼン Trebsen に會同し、休憩す。聯隊司令官大佐ロイスマン Leusmann, 中佐ビユロウ男 Baron von Buelow, 少佐フオン、リヨオベン von Loeben と相見る。大佐は曾て其家を訪ひしことありて相識れり。十時三十分ネルハウ Nerchau に着す。太陽客舘 Gasthof zur Sonne (R. Lorentz) を宿舍と爲す。宿舍名けて「ガストホオフ」と云へど、純然たる農家なり。窓に纏へる葡萄は累々たる琉璃珠を垂れ、時に野禽の來てこれを啄むあり。ワグネル少佐と共に午餐す。餐畢る。二三士官と客舘苑內の椅子に倚りて雜談す。乍ち郵吏來て余に二封の書を呈す。一は家書にして一は飯島魁の書なり。士官等爭ひて日本郵券を求む。乃ち悉く與ふ。夜村劇を觀る。劇塲は我宿舍の階上なり。結構我東京の寄せに似たり。演する所を伯林の陣中說法僧 Feldprediger von Berlin と爲す。名題の役をはメツチエル Metzer といふ俳優勤む。塲に上る婦人は皆無塩なり。觀畢る。既に十時三十分なり。余將に寢室に入らんとす。一人ありて曰く。君十字架會員 Kreuzbruder たることを欲せざるかと。余其何物なるを知らずして、戲に諾す。其人余を延いて一卓の傍に至る。卓の中央十字形を畫く。此周圍に一釘を下す者は會員たり。釘の位置に從ひ、鐵鎚󠄀一下十片より二十五片に至る。之を擊つこと拙きときは數十下にあらでは木に入らず。余四下にして一麻を與へたり。乃ち薄片鐵十字形の會員證を授けらる。千八百八十五年ネルハウの文字を刻す。會に法則あり。其一節に云く。凡そ新に會員となる者は。生涯の失錯三條を擧げて社員に示す可し。然れども巳に許嫁若くは結婚したる者は只二條を示して足ると。意結婚を以て失錯と爲すなり。其他戲謔多くこれに類す。盖し此の如くにして蓄ふる所の金は、以て貧民を救助するなり。而して斯會の卓は既に獨逸國に遍しと云ふ。十二時眠に就く。
二十九日。晴、午前七時十五分大隊と俱に徒步ネルハウを發し、九時ブリヨオゼン Broesen に達す。全旅團と會同す。中將フオン、ルウドルフ von Rudorff 及少將フオン、チエルリイニイ von Cerrini di Monte Varchi と相見る。チエルリイニイ余を認めて伊地知大尉と爲す。爲に一笑を發す。十時砲擊を始む。十一時演習畢る。十二時三十分旅舘に歸る。午後一時ワグネル Wagner と俱に午餐す。公使より書𨌺來る。余に示すに薩索尼陸軍卿の余が從軍を許可したる書を以てするなり。六時晚餐す。余が側に坐したる豫備軍大尉ヘルジヒ Helsig は、現に來責府大學の圖書を管理す。飯島魁と相識る。夜將校と骨牌戲を爲す。此日一士官に質すにニコライ Assessor Nikolai の事を以てす。ニコライはフオオゲル氏食卓の客にして豫備少尉なり。此聯隊の第四中隊に屬す。余は演習中其旅舘を訪はんことを約せしなり。士官の曰く。軍隊來責府を發する日、ニコライは脚疾あるが爲に從行を辞したりと。又聞く、木越大尉は演習中鎖骨を挫き、歸休したりと。
三十日。晴、日曜日に丁る。演習なし。中佐フオン、ビユロウ von Buelow, 大佐ロイスマン Leusmann, 其他將校數十人と共に午餐す。午後ウユルツレルと同じくムルデ Mulde 河畔に逍遥す。後大尉メツソウ Messow と同じくウユルシユヰツツ Wuerschwitz 村に至る。旅舘に歸れば、既に點灯時なり。此日日曜日なるを以て兒童皆新衣を着く。葢し小都會の風然りと爲す。
三十一日。晴、午前七時十五分客舍を出で、デヂツツ Deditz に近き磔柱山 Galgenburg の上に至る。假設敵の陣地に居りて、演習を觀んがためなり。假設敵は少佐フオン、リヨオベン von Loeben 及大尉メツソウ Messow これを率ゐたり。一老翁あり。其女と同じく馬に騎りて來觀す。女兒深碧色の衣を着け、白馬に騎る。衷甸一輛ありてこれに隨ふ。婦人數名を載す。一士官の曰く。是れドヨオベン Doeben の人フオン、ビユロウ von Buelow の一族なり。七女あり。其一は已に少佐某に嫁せり。余前年演習中某家に宿す。主人余等が爲に舞踏會を催す。余も亦其一女と舞ふことを得たりと。十一時舍に歸る。大尉フオン、オヨオル von Oehr, 中尉メエルハイム Meerheimb, 少尉ミユルレル Mueller と共に苑內に午餐す。午後六時將校數十人と會食す。
九月一日。晴、ネルハウ府セダン祭 Sedanfest の幹事書を贈りて曰く。明日午後八時太陽客舘に於いて興行す。請ふ賁臨せられんことをと。余明日の露營に與るを以て謝絕す。此日演習なし。
二日。晴、午前七時旅舘を發し、七時五十五分ブリヨオゼン Broesen に着す。演習あり。國王來觀す。此日の演習には騎砲兵あり。午後一時ハウビツツ Haubitz 村に接せる郊野に至る。少焉にして會計官數輛の車を率ゐ來る。車には薪、藁及び士官の行李を載す。巳にして哨兵の分遣、卒伍の布置、天幕の開張畢る。兵卒は穴を掘り、負ひ來る所の薄片鐵筒に馬鈴薯及醃肉を盛りて煮、麪包と併せ食ふ。食計官はハウビツツ村の酒店より机卓椅榻を借り來り、將校の爲めに食卓を設く。食器は一行李中に收めて運輸し來れり。行李は小なれども、巧に許多の椀皿を收む。椀皿は皆被陶鐵なり。瞥見すれば陶器の如し。夜帳幕中に臥す。
三日。晴、午前九時三十分假設敵をラアゲヰツツ Ragewitz に襲ふ。十一時ラアゲヰツツ附近に休憩し、グロツテヰツツ、シユモルヂツツ Grottewitz, Schmorditz を經て客舍に歸る。時に十二時三十分なり。
四日。陰、午前六時四十五分大隊と共にネルハウを發し、カンネヰツツ Cannewitz にて他隊と會同し、ザルカ Sarka 村の近傍にて敵と相接す。十二時ガステヰツツ Gastewitz に達し、行李を安頓す。午後四時三十分ムツチエン Mutzen に赴く。盖し第百七聯隊の將校と同じく晚餐する約あればなり。九時三十分ガステヰツツに歸る。此日ニコライと邂逅す。脚疾は已に全く癒えたり。
五日。陰、西風、大隊と共にガステヰツツを發し、ラアゲヰツツの近傍に南面して陣す。亦假設敵なり。南軍はチヨツパハ Zschoppach より攻擊し來る。演習畢る。道をブリヨオゼン、グレシユヰツツ Broesen, Greschwitz に取りてドヨオベン Doeben に至る。途に雨に逢ふ。ドヨオベンの旅舘は古城なり。城の結構略ゞマツヘルン Machern 城に似たり。其位置は東ムルデ Mulde 河に臨み、右に煉瓦造の水車廠を觀る。對岸は淺茅生の原にて、岸邊に數百株の柏あり。城の直下は鐵道なり。城主をフオン、ビユロウ von Bülow と稱す。耳順の老人なり。余等をして其來賓簿に署名せしむ。老人其六女を出して客を拜せしむ。マリア Maria (Mimi) は頗る美なり。一女あり。美目盼たり。イイダ Ida と稱す。一女あり、眉頭常に愁を帶ぶ。其名を失す。トオニイ Toni は瘦軀にして巨眼、アンナ Anna は鼻低く額出づ。ヘレエネ Helene は罷癃なり。晚餐後撞球 Billard の遊を爲す。同じく宿る者を少佐ワグネル Wagner, 少尉フオン、ビイデルマン von Biedermann, 大尉ヘルジヒ Helsig 及ウユルツレルとす。此日伯林公使舘の書至る。曰く德停府の冬季軍醫學講習會に陪列すること、既に薩索尼國王の許可を得たりと。是れ余が曾て公使舘に赴き請求したる第二事なり。
六日。日曜日に丁る。碧落洗ふが如く。旭光林を照し、微風はムルデ河上に細紋を描き、對岸の郊原には牧者の群羊を牽ゐ行くを見る。此日右方に水車廠を隔てゝ一部落を見る。是れが余等が曾て淹滯せる所のネルハウなり。午後二時少佐ワグネル Wagner と馬車に上り、グリムマ Grimma の獵堂 Schuetzenhaus に至る。國王の招筵に赴くなり。是より先きガステヰツツ Gastewitz に着する日招狀に接す。獵堂は頗る宏壯なり。器具は王宮より搬し來る。陶器はマイセン Meissen の製にして、支那に摸したり。白地に紅綠の花卉を畫く。又銀皿もて食を供す。會する者百三十餘人。皆將官及佐官なり。余外國の將校たるを以て之に與ることを得たり。來集の軍醫には、軍醫監ロオト Wilhelm Roth, 軍醫正ドヨオレル Doehler 及チムメル Zimmer, 其他軍醫正七人ありしが、其名を失す。食畢る。國王步して余が前に至る。余禮を行ふ。獨乙に來りて怎麼の感かある。又來遊の主なる目的は何ぞ等の問訊あり。余は簡單に答へたり。ロオト Roth 氏余を延いてゲオルグ王 Prinz Georg の前に至り、數語を交ふ。又曾て德停府にて謁せしことある兵部卿フオン、フアブリイス von Fabrice 伯とも語ることを得たり。瑞典の一大尉あり。余と語る。獨乙語に熟せざる人と見ゆ。大尉は曾て德停府負傷者運搬演習のとき之を見たり。然れども初め其の瑞典人たるを知らざりき。已にして獵堂を出で、大佐ロイスマン、少佐ワグネルと共に金獅客舘 Gasthof zum goldnen Loewen に至る。途次數百の兒童余に尾し來る。盖しグリムマにて日本人を見るは甚だ稀なるが故なり。大佐ロイスマン Leusmann 大聲にて驢と呼び羊と呼ぶ。罵詈百出、群童漸くにして散ず。夜ワグネルと俱に城に歸る。
七日。晴、昧旦ドヨオベン Doeben を發す。ワアゲルヰツツ Wagelwitz 村の傍にて演習あり。騎兵の我軍隊を襲擊せるために頗る物議を來したり。此日余は軍醫正リユウレマン Ruehlemann と馬車に乘りて演習を觀たり。演習將に終らんとす。余リユウレマンと別れ、ワアゲルヰツツ村に入る。ウユルツレルの或は村裡に在らんを慮りてなり。余立ちて一酒亭の前に在り。忽ち人の鞭を把りて輕く我肩を叩くあり。顧視すれば十五六の少女馬車の上に在り。紅頰碧眼。嫣然として笑ひて曰く。君が帽甚だ美なり。請ふ兒をして熟視せしめよと。余笑ひて之を諾す。一村落の女兒その人を憚らざること此の如し。後ムツチエン Mutzen に達す。一商賈の家に投ず。主人をチイラツク E. Thierack と名づく。我に所謂小間物商なり。待遇頗る渥し。二女ありエムミイ Emmy と云ひマチルデ Mathilde と云ふ。又オルハア Olga といふ親族の女兒ビルナ Birna より來て此家に客たり。曰く。曾て女伴ヘレエネ Helene (醫某の女) と來責府に往きて、「パウリイネル、バル」Pauliner Ball に與りしとき、女伴は一日本人と舞踏したりと。余其飯島なるを知る。余も亦其舞會に與りしを吿げ、以て奇遇と爲すなり。オルハアは淸瘦の好女兒なり。惜むらくは八年來重聽の病ありといふ。
八日。天陰。午前七時客舍を出で、大隊と共にギヨツトヰツツ Goettwitz の傍に小憩す。是よりロツテリツツ Rotteritz を經てイエゼヰツツ Ieesewitz の傍に至り、演習す。一時ムツチエンに歸り、ベルゲル Berger の酒店に小酌す。
九日。晴雨定らず。七時大隊と共にムツチエンを離れ、キヨルミツヘン Koellmichen 及メルシユヰツツ Merschwitz の北に陣す。後ガステヰツツ Gastewitz の近傍に至る。十一時演習畢る。ガステヰツツの酒店に飮む。午後一時ムツチエンに歸る。此日石坂惟寬の書至る。山根大尉の齎し來る所なり。夜オルハア其伯母 (余が住する雜貨店の向ひに住す) と「ステレオスコオプ」Stereoscope を携え來り、圖を觀て談笑す。
十日。陰。此日演習なし。午前十時の頃雷雨ありしが、忽ちにして天晴れたり。午後二時大佐ロイスマン以下數十人と會食す。
十一日。陰。午前七時ムツチエンを發す。此夜露營し、翌日グリムマに赴かんとす。八時三十分ラアゲヰツツ Ragewitz の傍に至る。十二時演習畢り、露營の準備を爲す。幕を張る時急雨至る。既にして撤營の令あり。又ムツチエンに歸らざるべからず。幕を收めて途に上る。時に風起り雲飛ぶ。余ウユルツレルと隊伍に後れ、徐步して歸る。ムツチエンに近き松林に至れるとき、黑雲天を蔽ひ、雷霆地に轟ぎ、風雨交〻至る。忽ち救を求むるの聲あり。諦視すれば一村童の六七歲許りなるが、演習を觀んとて野外に出で、歸途此雷雨に逢ひ、咫尺もわからぬ闇となりしに驚きて、聲を發せしなり。余送りて其家に至らんことを約す。村童喜色掬す可し。村に入りて行くこと未だ幾ならず。兒童は左の方なる農家を指し、是れ兒が家なりと云ふ。乃ち別る。チイラツクの家に達す。夜大隊長以下數十人と村の小獵堂 Gasthof zum Schuetzenhaus に飮む。
十二日。風雨。午前六時チイラツク氏に別を吿げ、馬車一輛を倩ひ、ラアゲヰツツ Ragewitz に至る。演習全く畢る。車を驅りてグリンマに至る。將校數百人と獵堂に會食す。四時グリンマを發して來責府の寓に歸る。時に午後六時なり。是日歸途ウユルツレルの曰く。今日は吾妻の生誕なれば、家に歸りて洗塵の杯を兼ねたる祝筵を開かんとすと。余家に歸りて直に賣花店に赴き、盆栽一株を買ひ、人をしてウユルツレルの家に送致せしむ。是より例のフオオゲル氏の居に至る。フオオゲル氏は酒食を調へて余を待ち居たり。フオオゲル氏の曰く。頃日我家に午餐する者甚だ衆し。一佛蘭西人、四英國婦人あり。又リイスヘン Lieschen の君の歸るを待つこと久しと。余怪みて其何人なるを問ふ。卽ち紅衣の女兒なり。
十三日。朝家書又至る。應渠翁の書に曰く。參商一隔、いかにおはすらんと筆はとれど書やるすべもなく、こゝろ迷ひぬるは、綣戀之情かたみに同じかるべし。まづ尊堂も弊廬も無事なるはうれし。扨本月一日大洪水、堅固なる千住橋並吾妻橋押流し、外諸州の水災抔慘狀、こは追々新聞等にて御聞に觸候はん。略之。五月雨にこゝろ亂るゝふる里をよそに凉しきつきや見るらむなど口にまかせ候。政之。御令妹このほど御歌は上達、感入候也。書餘讓後信。努力加餐。不宜。七月十一日。應渠再拜。牽舟賢契榻下。是日フオオゲル氏の家に午餐す。クレンチユ氏 Miss Clench 姉妹及其母と叔母とを見る。ルチウス Lucius 氏余を其室に延き、今月十一日の生誕に人々の寄せたる花卉を眎す。日暮トオマス Thomas 浴塲より歸る。少將フオン、チルスキイ von Tschirsky 大佐ロイスマン、少佐ワグネル、軍醫正チムメル Zimmer 及軍醫正リユウレマンを訪ひ、演習中の好意を謝す。
十四日。晴。午前ホフマン師を訪ふ。二時間餘談話す。午後八時「カツシノ」に至る。軍醫正リユウレマン、チムメルの二氏及軍醫ウユルツレルと會するなり。ウユルツレルの曰く。明旦來責府を發し、德停府に赴くと。
二十三日。家書至る。舊の東亞醫學校の俊髦高野寬一郞の書亦至る。
二十七日。片山國嘉伯林より來る。萩原の家にて米飯鯉魚膾を喫す。食後「ボオレ」Bowle 酒を製し、之を酌みて歡を盡す。「ボウレ」酒 Bowle は菓を截りて種々の酒類を雜ぜ盛りたる壺の中に投じたる者なり。片山フオン、レエマン氏 Fraeulein von Lehmann の事を語る。其略に曰く。伯林府に一處女ありフオン、レエマン氏と名づく。素と某伯の子なり。嘗て自ら誓ひて以爲へらく。必ず一日本人を得て夫と爲さんと。此願をおこしゝには許多の原因もある可けれど、主に在伯林の日本留學生は學問も出來、金も多く持ち居るやうに見ゆると、駐劄諸官員の先例あると、又某伯の貧窶にして產ある洋人に嫁することの難きとに依るものなるべし。而して此撰に當りたる者は靑山胤通なりき。一日集會にて相識となり、同じく遊步し、同じく觀劇し、納采の日さへ遠からじと聞こえたりき。一夜靑山は此少女と共に博覽會園 Ausstellungspark に遊び、一薔薇花を買ひて贈り、暫く物語せし末、何か忘れしことありとて歸りたり。同學某々は少女と同じく此に留りしに、偶然此苑に來合はしたる一日本書生あり。名を榊俶といふ。身の丈け高く色白く、洋人に好かるゝ風采あり。故鄕一婦あるをも顧みずして、巧に媚を此少女に呈したり。少女は何とか思ひけん、靑山の贈りし花を把りて此男にぞ與へける。二三日の後、加藤照麿の許へ一封の書來りぬ。謂へらく。先の日苑內にて相見たる榊君に密に話したきことあり。動物園にて會したし。此旨を榊君に傳へ賜はれとのことなり。加藤は兼ねて靑山の自負を憎み居りし故、一策を運らし、靑山を訪ひて云ふ。某の日某の時動物園に來給へ、一奇劇を見せ申さんと。隈川宗雄此謀を洩れ聞き、哀れとや思ひけん、實を靑山に吿ぐ。靑山大に少女の誠なきを怒り、書を贈りて交を絕ちたり。榊とても既婚の人なれば、此少女の招に應ず可くもあらず。少女は前科を悔い、靑山に謝したれども、靑山應ぜず。少女平生の願は畫餅に歸したりとぞ。
二十八日。秋冷膚を侵し、細雨霏々たり。午後三時獨逸婦人會 Allgemeiner Deutscher Frauenverein 第十三總集に赴く。此會は千八百六十五年に創立せられたり。發起者をオツトオ、ペエテルス氏 Frau Louise Otto-Peters と名づく。フオオゲル氏の族なり。第十三總集は來責府クラアメル街 Kramerstrasse 第四號にて開く。時は九月二十七日より二十九日に至るといふ。然れども男子の傍聽は、此日と其翌午後とのみ許可す。會する者數百人。男子は僅に十人許なりき。演說婦人中カツセル Cassel 府の人カルム氏 Fraeulein Marie Calm の言最も衆を動かしたり。此會の志す所は主として救恤、看護に在りといふ。午後六時閉會。十時拜焉停車塲 Bayerischer Bahnhof に赴く。フオオゲル氏のプラウエン Plauen より歸るを迎ふるなり。フオオゲル氏は親族中洗兒の事ありしが爲めにプラウエンに往きぬといふ。
二十九日。午後三時ニイデルミユルレル氏 Frau Dr. Niedermueller (フオオゲル氏の女) と俱に再び婦人會に赴く。演說中シユミツト氏 Fraeulein Augusta Schmidt 及ゴルドシユミツト氏 Frau Henriette Goldschmidt の言最も聽くべし。後者は盖しニイデルミユルレル氏の舊師なり。此日シユライデン氏 Frau Schleiden も亦會塲に在り。
三十日。午後四時ウユルツレルとライヒス、ストラアセ Reichsstrasse の酒店に會して、ミユンヘン宮釀 Muenchener Hofbraeu を飮む。
十月一日。宮崎津城 (道三郞) 及井上巽軒ハイデルベルヒ Heidelberg より到る。フオオゲル氏の家に住す。余が勸むる所に從ふなり。津城は余と同じく西に航せし一人にして溫厚の君子なり。巽軒は此囘始て相見る。容貌古怪、面上少しく痘瘢あり。雄辯快談傍ら人なきが若し。其詩集及東洋哲學史の草稿を示さる。此夜獨逸に來しより以來始て東洋文章の事を談ず。快言ふべからず。
二日。荒木卓爾伯林より來る。巽軒の室に相見る。
三日。樫村淸德維納より至る。余が家に宿す。
四日。樫村、井上、萩原、佐方と同じく水晶宮に至る。影戲を觀る。此日家書至る。
五日。樫村を送りて停車塲に至る。夜第百七聯隊の「カシノ」に至る。カルヒ Karg の演說を聽く。
六日。英語の師イルグネル Ilgner と別る。凡そ西洋言語の師は猶ほ東洋音樂の師のごとし。金を與ふれば拜して受く。其內或は「プロフエツソル」Professor の稱ある者あり。奇と謂ふ可し。余のイルグネルに於るや、全一年の敎育を受け、恩誼少なからず。敷金を贈りて謝したり。
十日。日本兵食論大意を作り、石黑軍醫監の許に奇す。
十一日。午後六時十五分滊車に上りて來責府を發す。是より先きホフマン師に別れんとて其家を訪ひしが、旅中にて遇はず。一等軍醫ウユルツレルにも面り別を吿ぐることを得ず。フオオゲル氏の家にては皆愁を帶びて別を惜しみたり。ルチウス氏は別に臨みて余が小照を求む。發車塲に來れる人々は萩原三圭、佐方潛造、蘇格蘭人フエヤヱザア及墨人トオマスなり。八時三十分德停府に達す。四季客舘 Hôtel zu den vier Jahreszeiten に投ず。舘の主人は猶ほ余が面を記憶せり。此日日曜日なるを以て舘の食堂來客多し。
十二日。天氣晴朗。午前十時軍醫監ロオトを訪ふ。兵部省、參謀本部等の到着簿に記名す。十二時衞戍病院にて開會式あり。講習會の諸敎官及之に與る諸軍醫と相見る。此日客舘の窓より街上の敷石を補繕するを見る。鐵鎚もて石を打ちこむさま甚奇なり。夜始て古市 Altstadt なる宮廷戲園 Hoftheater に至る。女優ウルリヒ Ulrich といふ者アドリヤンヌ Adrienne に扮す。
十三日。講習始まる。敎授ネエルゼン Neelsen 剖觀法を敎ふ。ネエルゼンは準低く顋出づ。容掦らす。畫廊及伊太利畫歷代畫展覽會に至る。後者は皆寫眞圖なり。午後四時僦屋に遷る。既ち尼院大街十二號 Grosse Klostergasse 12, II Etage にして、未亡人バルトネル氏 Frau Dr. Baltner の所有なり。家は易北河の南岸アウグスツス橋 Augustusbruecke の畔に在り。𤄃き居室と小臥房とあり。居室には銅板フアウスト、マルガレエタの圖を揭ぐ。此家は來責の僑居に優る。
十四日。軍醫正ステツヘル Stecher の講筵に與る。頒白翁にして鬚髯多く、身幹低し。一等軍醫シル Schill 菌學を講ず。容貌偉大、明髮長髯なり。夜ロオトと僧院大街 Grosse Bruedergasse なるレンネル酒店 Restaurant Renner に會す。酒間ロオトの曰く。曩日松本、橋本の手簡を讀みて大に惑へりと。故を問ふ。曰く。松本の手簡は必ず掌記の手に成り、松本の記名を經たるのみならん。橋本の手簡は伯林調の最甚き者にて、獨逸人と雖、伯林に生れ伯林に長じたる者に非るよりは作ること能はざる可し。又松本は軍醫總監に非ずや。橋本は一軍醫監にして恣に其命令を變更す。是れ奇中の奇なりと。余の曰く。閣下の疑故なきに非ず。橋本とても必ず松本に問ひて變更す可きなれど、其時日なき故に、かくは計らひたるならむ。東洋の諺に將の外にあるや君の命だに奉ぜざる所ありと云へり。且橋本の歸るや、松本は致仕し、橋本これに代りぬと。ロオトの曰く。嗚呼然る歟。陸軍卿の隨行は定めて人の羨む所なるべしと。橋本氏の書實はミユルレル E. Müller と云ふ伯林兒の手に成れり。ロオトの言中れり。
十五日。軍醫正ベツケル Becker の講說始まる。白首にして其性剛毅なり。一等軍醫ゼルレ Selle は容貌圑々珍聞の鯰公に髣髴たり。一等軍醫フイツシエル Fischer は演說人の眠を催す可し。軍醫正ヘルビヒ Helbig は澁舌聞くに堪へず。此日ロオトの軍陣衞生學講義も亦た始まる。談論極て老鍊なり。
十六日。講說常日の如し。以下必ずしも記せず。夜アンナ、ハアヱルランド Anna Haverland の朗讀を索遜客舘 Hôtel de Saxe に聞く。讀む所は「デル、ヰルデエ、ヤグト」Der wilde Jagd の一篇なり。抑揚頓挫の妙言ふ可からず。
十七日。德停府の兵器庫、戎衣庫、兵車庫等を觀る。壯大驚く可し。
二十日。德停府武庫中銃砲を藏する部を觀る。小銃あり。我邦維新前のものにて鷹の羽の徽章あり。
二十一日。家書至る。
二十三日。始て爐を開く。
二十四日。澣衣廠、麪包製造所を觀る。防腐麪包あり。薄片鐵中に入れ、空氣の流通を絕ちて後燒きたる者なり。鐵筒は截りて副木に代ふ可しと云ふ。
二十五日。ヰルケ Wilke とロオトの家に午餐す。ヰルケは三等軍醫にて衞生司令部 Sanitaets-Direction に奉職す。美貌の才子なり。佛蘭西、西班牙二國の語に通ず。近ろ又英語を學べり。性毫も邊幅を修めず。余甚だ之を愛す。ロオトの家を辞し、歸途大學麥酒廠 Academische Bierhalle に飮む。代言人ヰルケ Wilke と相識る。軍醫ヰルケの友なり。肥胖にして朴直。大に我邦の代言先生と同じからず。余ヰルケの名の出づる所を問ふ。代言ヰルケの云く。「ヲルフ」Wolf (狼) の義なり。相見て大笑す。
二十八日。夜勝利神堂 Victoria-Salon に至る。來責府の水晶宮に似て劣れり。電氣燈の機關を觀る。
二十九日。早川步兵大尉伯林より至る。此府の獵兵大隊に付屬す。
三十日。地學協會 Verein der Erdkunde に至る。ロオト氏麻拉利亞地方論を演す。
十一月一日。樂をブリユウル磴 Bruehl'sche Terrasse に聽く。
六日。囚獄を觀る。家三層。下層より上層を見るに目を障ふる者なし。梯と欄と皆空隙を存ずるなり。其目的は全屋を通視し、囚人を監守するに在れども、衞生上より觀れば、換氣の便此法に若くは莫し。作業室換氣窓は相對して兩壁に在り。排氣孔は烟筒の傍に在り。熱を借りて氣を吸ふ。暖室には熱水法を用ゐたり。其管小なり。室隅の便壺巨管に通ず。甚だ淸淨。癲狂室は四壁布を張りて裝滿す。便壺常の如し。其葢堅牢にして壺緣に連る。
七日。始て輦下戲園 Residenz-Theater に至る。規模甚小なり。ヰルケの誘引せるなり。
八日。ロオトの家に招かれて晚餐す。ロオトに家族なし。愛犬あり。卓に近きて食を求む。余肉を與ふ。ロオト余が着る所の軍服を見て曰く。ブラウンシユワイヒ Braunschweig にて往時此の如き服を用ゐたり。要するに英國の軍服に佛國の等級章を附けたるなり。余は甚だ之を見ることを愛すと。日本畫二幅を示さる。皆俗匠の手に出でたるものなり。余爲に之を辨ず。一室に佛壇の如き者あり。ロオト自ら起ちて其扉を開き、余をして之を覗はしむ。裏面寫眞圖數百を懸く。曰く是れ孛佛戰中余が部下の醫員なり。既に歿したる者甚衆しと。
十日。ステツヘル余を第二「グレナヂイル」聯隊 Grenadierregiment の「カシノ」Casino に招く。饗する所の肴饌豐美、三鞭酒も亦良かりき。
十三日。家書至る。此日府病院を觀る。會議室は壁に支那畫を貼し。天井に東西南北、春夏秋冬等の文字を刻す。一人の之を解する者なし。余爲に之を譯す。曰ふ此室は往時拿破崙の宿する所なりと。消毒室は熱蒸氣を大鐵匣中に通じ、毒芽を撲滅するなり。內面の鐵柱は皆布もて卷きたり。鏽を避くるなり。衣服等は鈎に掛けて消毒す。若し索にて縛し匣內に投ずるときは、其縛處皺襞を生じ、法の之を除くべきなし。色布は匣內にて其美を失ふことなし。唯ゞ革類は熱に堪へざるを以て、別に硫氣消毒室を設く。窖あり。ジユヱルン Suevern 粉もて汚水を淨め、之を街衢の排水管に通ず。此法毒芽を撲滅せざるを以て良法とは謂ひ難し。園內希臘海神 Poseidon の巨像あり。偉觀なり。
十四日。夜寸間を偸み、始て新市 Neustadt の戲園に至る。
十八日。ロオトの家に晚餐す。
十九日。德停衞戍病院にて衞生將校會 Dresdner Sanitaets-Offiziers-Gesellschaft の第百五十九集を開く。會頭はロオト及フリイデリヒ C. Friedrich なり。一等軍醫バルメル Balmer 參謀旅行中衞生將校の作業 Die Thaetigkeit des Saniaetsoffiziers bei den Generalstabsuebungsreisen と云ふ題にて演說す。余は客員として日本陸軍衞生部の編制 Die Organisation des japanischen Sanitaetscorps の一題を演す。
二十日。懺悔日 Busstag なれば病院を鎖せり。
二十二日 (日曜)。午前一等軍醫ミユルレル Mueller 三等軍醫ヰルケとシユウマン Schumann の酒店に會す。午後ヰルケと馬車を傭ひて大苑を遊覽す。寒氣膚を裂くが若くなるに遊人尙絡繹たり。
二十三日。夜兩ヰルケと麥酒廠 Bierhalle に至る。此旗亭の婢ベルタ Bertha は法律家ヰルケの情婦なり。其性頗る貞靜にして、此社會の人に似ず。ヰルケ嘗て爲めに屋を賃し、月每に數金を送らんと約す。婢の曰く。君の好意は謝するに堪へたり。若し合巹の禮を擧ぐることを得ば、今の業固より廢すべし。然らずして君の家に住み君の食を食ひ徒に君の愛を受けば、是れ其業の賤き旗亭の婢に百倍せん。敢て辞すと。
二十四日。始て雪ふる。醫師ヰルケ Wilke に就いて西班牙語を學ぶこと此日より始まる。
二十五日。軍醫監ロオト、普魯士海軍副醫官ワイス Weiss とアウセンドルフ食店 Restaurant Aussendorf に會す。ワイスは曾て東海に航し、再び長崎に泊せりと云ふ。長崎娼婦の寫影を示す。一坐其美を劇賞す。之を見るに、容貌艶麗なりと雖、卑俗の氣鼻を襲ふ。戲にワイスに問ふ。一刻の價幾何と。曰く三十弗。
二十六日。再び民類學展覽塲 Ethnologisches Museum に入る。舘長マイエル Meyer と相識る。マイエルは醫學士なり。後專ら博物學及民類學に從事す。曾て一び印度地方に赴けり。舘中の列品、其携へ歸る所の者多し。唯ゞ其人は則ち大に邊幅を修む。余の好まざる所なり。
二十七日。夜地學協會に至る。ワイスの演說を聞く。朝鮮支那市街の不淨を說くとき、衆皆余を視て冷笑す。長崎投錨の段に至りては、ワイス一語の之を評する莫し。若し余をして席に在らざらしめば、其罵詈或は測る可らず。
二十八日。夜軍醫監ロオトの筵に「カシノ」に赴く。歸途普魯士軍醫正ハイルマン Heilmann 及ヰルケと中央骨喜堂 Café central に至る。
ニ十九日。木越大尉ケムニツツ Chemnitz より來る。日本飯を早川大尉の家に炊ぐ。
三十日。家書至る。木越ケムニツツに歸る。
十二月一日。德停府瓦斯製造所 (Loessnitzstrasse 6) を觀る。
二日。夜軍醫正クリイン Klien の筵に赴く。夫人及息ルウドルフ Rudolpf を見る。
三日。午後一時病院を出で易北上流の右岸なる森城 Waldschloesschen に午餐し、軍醫監ロオトと「サロツペ」Saloppe に會し、俱に德停府水道の源を觀る。易北河に近き處に機關室あり。地底の水を吸出す。水騰りて丘上に達すれば、二箇の貯水石室に入る。其一は現に水を排去したるを以て、其延袤を觀ることを得たり。役員「リチウム」Lithium を燒いて之を照す。紅光室に滿つ。
五日。頃日寒暑鍼零下十五攝度にて連日雪ふり、易北河は上流より氷雪の大塊を流し來り、波面黑白の紋を生ず。白きは氷雪にて、黑き者は水なり。是日夜德停醫學會 Dresdner medicinische Gesellschaft (Zeughausplatz 3) に至る。某醫の演說を聽く。其要小兒の腹膜炎に特發 idiopatisch の者ありと云ふに過ぎず。自己の實驗を擧げて証明したり。ネエルゼン、ズスドルフ、ステツヘル Neelsen, Sussdorf, Stecher 席に在り。
六日 (日曜)。一年志願醫トレンクレル Trenkler とリンケ混堂 Linke'sches Bad (Bautznerstrasse) に午餐す。此堂には每週二囘舞踏會を開く。其客には軍人多し。婦女は店婦 Verkaeuferin, 酒店の婢等なり。軍人中往々將校あり。此堂名を唱ふることを耻ぢ、別名を設けたり。所謂財務議官 Herr Commerzienrath の舞筵是なり。餐畢る。車を倩ひてロシユヰツツ Loschwitz に至る。此村德停を距ること遠からず。村にシルレル屋 Schillerhaeuschen あり。壁上の小板に是れシルレルが其友キヨルネルに奇居して筆を「ドン、カルロス」の曲に下しゝ處なり (Hier schrieb Schiller bei seinem Freunde Koerner am Don Carlos) の數行を記す。レナルド Lenard 氏を訪ふ。主翁、主母、嫡子中尉マツクス Max, 次子某と出でゝ余を迎ふ。咖啡を饗し、談話す。女フリイダ Frieda 出でゝ謁す。嬌姿西京美人に似たり。頃刻にして親族の少年エミイル、フオイグト Emil Voigt 來る。中學生徒たり。余に質すに日本風俗の事を以てす。主母の云く。我兒フリイダ長成此の如し。猶ほ土偶を玩びて自ら娛めり。是れ其近ろ購ふ所なりと。一土偶を出して示す。大さ三四歲の兒の如し。衣飾頗美。主母又云く。土偶の衣飾は婚儀の式に從ひ、其色白を用ゐ。頭上には綠環を戴けり。吾兒の早晚此装を作さんこと老母の願なりと。女恥を含みて其饒舌を遮らんとすれども能はず。主客粲然たり。既にして晚餐の卓に就く。仕女アンナア Anna 亦美。食後廊に出で、易北河を望む。西方に萬點の燈火水に映ずるを見る。卽ち德停府なり。夜半辭して還る。
七日。課業後ゲエヘ工塲 Fabrik Gehe und Comp. に至る。其煉藥の法、皆蒸氣機械に籍る。壯大驚く可し。夜工學校 Polytechnicum に至る。ハアゲン Hagen の演說を聞く。此堂は千八百七十二年より七十五年に至る間ハイン Heyn の建築する所なり。前房を經て石階を上る。壯大目を駭かす。正廳 Aula の美、亦罕に觀る所なり。ハアゲンの演說は電氣燈の現况と題す。
八日。夜工兵營の「カシノ」に至り晚餐す。中尉シヨオンブロオト Schoenbrot の招に應ずるなり。
九日。 タラント Tharandt に留學せる山林學生二人來り訪ふ。夜醫師ヰルケと曲馬戲 Circus Herzog を觀る。
十日。夜ヘルビヒの演說を「カシノ」に聞く。始て所謂「プウドレツト」Poudrette を見る。乾きたる糞の版なり。
十一日。午後プラウエン Plauen に至り、滊機製麪塲を見る。プラウエンはポストプラツツ Postplatz より鐵道馬車にて達す可し。夜地學協會に至る。ロオトの演說を聽く。在亞弗利加洲一等軍醫ヲルフ Wolff の書翰󠄀を朗讀し、其近情に基きて拓殖地の未來を辯ず。後ロオトと同じく晚餐す。エムマ Emma 酒を行る。
十二日。夜「ゲエヘ、スチフツング」Gehe-Stiftung の演說を「ビヨルゼンザアル」Boersensaal (Waisenhausstrasse 11) に聽く。演者はキルヒホツフ Kirchhoff にて、其題は海外なる獨逸國の保護地 Die ueberseeischen Schuetzgebiete des deutschen Reichs と云ふ。前日ロオトの演する所と大同小異なり。ロオトは其演說着實を旨として毫も修飾せず。キルヒホツフは巧を音聲の抑揚等に用ゐたり。夜キルヒホツフ、ロオト、エヱルス等と酒亭シヨツプフネル Schoepfner (Landhausstrasse 4, 5) に會す。
十三日 (日曜)。午後五時婦人會 Damengesellschaft に衞戍病院「カシノ」に赴く。婦人會は德停府軍醫の妻及許嫁女より組織す。數年來此企ありしが、此日始て第一集を催したり。是會は夫壻乃至未婚軍醫等皆與ることを得べし。食卓にてロオト起ちて祝辞を讀む。韻語なり。婦人中最も美なるはエヱルス夫人なり。漆黑の髮、雪白の膚、巨眼隆準、尤物と稱すべし。顋は微しく出でたり。然れども疵瘕と爲すに足らず。會長はクリイン夫人なり。瘦小にして能辯。ハアゼ夫人は嬌にして痴、シル夫人は醜にして悍。他は畧す。會散ず。軍醫正ニコライ Nikolai, 軍醫バルメル及ヰルケとアンゲルマン酒店 Restaurant Angelmann (Pillnitzerstrasse 51) に至りて麥酒を酌む。夜半家に歸る。
十四日。夜工學校に至り、トヨブレル Toebler の演說を聽く。試驗を衆に示すには投影器 Projector を用ゐたり。試驗中管內水銀の凸面に格魯兒化水銀卽昇汞を注ぎ平面とならしめ、又柄ある圓板を稀酒精に泛べたる油球の中に囘轉し、木星の環に等しき油環を生ぜしめ、囘轉甚だ速かなるとき木星の星に比すべき小油球を生ぜしむる等の事あり。彼は重力、此は分子力なれども、其相似たるや是の如し。後ヰルケとポルレンデル Pollaender に至る。法學士ズツツレエブ Sutzleb, 醫師シユツチエンマイステル Schuetzenmeister 及「ゲリヒツラアト」ヰサント Gerichtsrath Wisand 先づ在り。余等の來るを待てり。麥酒を酌みて談話す。午後九時三十分家に歸る。
十五日。三等軍醫ラアデストツク Georg Radestock 及同トレンクレルに誘はれ、オストラ、アルレエ Ostra-Allee なる學堂 Gewerbehaus に至り、樂を聽く。歸途佛國客舘 Hôtel de France に飮む。ヰルスドルツフエル街 Wilsdrufferstrasse に在り。
十七日。歲暮他に遷るべき諸醫官を會同し、衞戍病院の「カシノ」に飮む。
十八日。夜獵兵大隊の「カシノ」に至る。軍醫正ニコライの招に應ずるなり。
十九日。中尉シヨオンブロオトとアウセンドルフ酒店に會す。
二十日。夜早川大尉とアンゲルマン酒店に會す。
二十三日。午後二時德停を發し、來責に赴く。フオオゲル氏の招に應ずるなり。ヰルケと行を同くするを以て、先づ彼得街 Peterstrasse なる魯國客舘 Hôtel de Russe に投ず。夜萩原三圭を其觀象街 Sternwartenstrasse の居に訪ふ。
二十四日。ヰルケと別る。ヰルケは其父兄の家に赴けり。先づ匿名してフオオゲル氏に贈遺し、午後六時自ら其扉を叩く。少焉にして扉を開く者あり。嬌聲「ドクトル」來ると叫ぶ。卽ちリイスヘンなり。フオオゲル氏庖厨より出てゝ喜び迎ふ。且曰く。今日の贈は人々其の何人より來るを知らざりしに、君の曾て愛する所の少年ワルテル Walther は獨り君の筆札を認めたり。ワルテルは方纔爺孃の許に還りぬと。既にして巽軒、津城、ニイデルミユルレル氏、ルチウス氏皆出でゝ余の約を踐めるを謝す。來責を去るや、降聖節に至らば再び相見んと云へり。故に此の如し。ニイデルミユルレル氏の云く。君は何時に此に着し、何處に行李を安頓し玉へるか。曰く。昨夕着し、行李は魯國客舘に在り。曰く。相見ざること二三月。何ぞ吾等を疎んじ玉ふこと此に至るや。明旦は必ず我家の一室に遷り玉へ。昨日以來灑掃して君の來るを待てりと。余同行あるを以て客舘に投じたりと謝す。鄕誠之助と相見る。誠之助はハルレ Halleに在りて經濟學を修む。曾て津城とハイデルベルヒに同居したりしことある故、此祭日にも亦津城を訪へるなり。快濶の少年にて、好みて撞球戲を爲す。已にして祭日贈遺 Bescherung を始む。一室に大卓を置き、貽を其上に列べ、室の一端には綠樹を建て、飾るに金銀紙、設色糖菓等を以てし、枝上に許多の燭を燃し、家族を會同して貽を分つ。フリイダ、オツトオ Frieda, Otto の二兒並び立ちて降聖誌を暗誦す。贈遺畢る。晚餐の饗あり。シユワアブ夫人 Schwab も亦在り。トリエスト Triest の人。曾て余とシユライデン夫人の家に相識る。
二十五日ニイデルミユルレルの家に遷る。此日ニコライ、マイ Mai の二人と別室に食す。後リイスヘンと廊に逢ふ。曰く。今日は何故に別室に食し玉へるか。ルチウス氏も亦不平なりと。言ひ畢りて迯れ去る。
二十六日。「パノラマ」Panorama に至る。
二十七日。 大學衞生部に至る。僕ライヘンバハ Reichenbach 猶在り。曰く。ホフマン師はニユルンベルヒ Nuernberg に在りて未だ歸らず。ウユルツレルは德停府に在りと。是より先き二十四日の曉にホフマン師の居を訪ひしが已に出發後なりき。夜井上とアウエルバハ窖 Auerbachskeller に至る。ギヨオテの「フアウスト」Faust を譯するに漢詩體を以てせば何如抔と語りあひ、巽軒は終に余に勸むるに此業を以てす。余も亦戲に之を諾す。
二十八日。ヲオル夫人を訪ふ。
二十九日。田中正平伯林より至る。
三十日。午餐の際德停府に還らんと欲する意を吿ぐ。客散ずる後ルチウス氏、リイスヘンと余を一室に招き、交る〳〵歲を此家に迎へんことを勸む。余初め二十六日を以て德停に歸らんことを期せしに、早く既に八日の淹滯を爲したり。今にして去らずば去る時あらじとおもひぬ。乃ち强ひて別を二婦人に吿げたり。婢エムマ Emma ヘドヰヒ Hedwig 等に至るまで、別を惜まざるなし。ニイデルミユルレル氏、ルチウス氏等と咖啡を喫し、離合の常なきこと坏語りあひ、車を倩ひて發車塲に至る。宮崎津城來り送る。午後六時十五分來責を發し、二時間を經て德停の居に達す。
明治十九年一月一日。零時余大僧院街の旗亭アウセンドルフに在り。「ボオレ」Bowle 酒の杯を擧げて賀正 Prosit Neujahr ! を呼ぶ。卓邊に坐する者は兩ヰルケ、尉官シヨオンブロオト、賈人オツトオ、ライン Otto Rein, 主婦アウセンドルフ氏、其親戚の少女アンナア Anna (綽號ビムス Bims) の六人なり。一時を過ぎて家に歸る。午前九時起ちて咖啡を喫す。遙かに家人の雜煮饌の箸を擧ぐるを想ふなり。昨夜は眠りしもの少き故、萬戶寂寥、全都の人尙夢寐の中に在り。午後二時新正を賀せんが爲めに王宮に赴く。其儀は我邦と殊なること莫し。唯〻アルベルト Albert 王の終始直立して禮を受け、禮を行ふ者王の面前二步の處に進むを異なりとす。又感ず可き者は黃絨に綠白の緣を取りたる「リフレエ」衣 Livrée を着し、濃紫袴を穿きたる宮僮 Lakái なり。階の西側に並立して瞬だにせざるさま石人の如し。八時三十分再び王宮に赴く。所謂「アツサンブレエ」Assemblée なり。先ず紅布を敷きたる石階を陞る。階と廊とは瓦斯燈もて照せり。許多の華麗なる室を過ぐ。一室あり。日本支那の陶器を陳ねて四壁を飾る。總て室內は數千萬の蠟燭もて照せり。來賓の賞牌勳章は其光を反射して人目を眩し、五彩爛然たる號衣 Uniformen は宮女の白衣と相映ず。宮女は胸背の上部を露し、裾の地を拂ふこと孔雀尾の如し。既にして宮僮杖を取りて床を撞くこと丁々聲あり。賓客室の左右に分れ、威儀を正しくして待つ。白髲 Perruecke を戴ける宮隷を摔手とし、アルベルト Albert 王は妃を携へて出づ。王は白頭にして妃は暗髮なり。王妃は背後の一室に至り、卓に倚りて座す。宮人侍す。客禮を行ふ。王妃笑を帶び頤を動して答禮す。菓子咖啡の饗あり。辞して歸る。
二日。家書至る。
三日 (日曜)。石黑氏の書到る。曰ふ軍事を學ばんとて多く日を費すこと勿れ。宜く普通衞生の一科を專修すべしと。
四日。軍醫監ロオトの需に應し、一週五時間日本語を敎授す。敎授はロオトの家に於てす。之の與る者はマイエル A. B. Meyer ヰルケ Georg Wilke 及ロオトなり。
五日。講習會を開く。
六日。午後零時三十分ロオトとフアブリイス伯夫人 Graefin von Fabrice を訪ふ。夫人は名をアンナア、フオン、デル、アツセブルク Anna von der Asseburg といふ。フアブリイス伯に嫁して二男一女を生む。男子は皆騎兵士官なりといふ。夫人は肥胖矮小にして善く談ず。夜グレエフエ Graefe 及ヰルケと酒亭クナイスト Kneist (Grosse Bruedergasse) に會す。エルランゲル麥酒 Erlanger Bier を酌む甘美他種に過ぐ。
七日。家書至る。
八日。夜地學協會に至る。
九日。ロオトとシユウマン酒店に會す。
十一日。夜フアブリイス伯夫人の招に應じ、大臣官舍 Ministerhôtel (Seestrasse) の夜會 Soirée に赴く。余が官舍に達したるは午後八時三十分なりき。主人夫妻は業房 Arbeitszimmer に出でゝ客を迎ふ。余軍醫正チイグレル Ziegler と室に入る。伯の曰く。聞く森君は頃日衞生將校會にて逸逸語もて演說したりと。眞耶。余の曰く。諾。曰く。余は之を聞くことを得ざりしを憾とすと。此夜の來客は七百人許。世に聞こえたる人々多ければ、煩を憚らずして其一斑を錄す。大臣はフオン、ノツチツツ、ワルヰツツ von Nottitz-Wallwitz 以下五六名とす。公使は澳太利のヘルベルト男 Baron von Herberth-Ratkeal, 拜焉のルウトハルト von Ruthardt, 北米のクヌウプ Knoop 等あり。陸軍省のトイヘル Teucher, 內務省のヘエペ Haepe, 警視廳のツアツプフ Zapf, 裁判所のマンゴルト von Mangoldt, 記錄局のポツセ Posse, 鐵道局のプラニツ von der Planitz, 皆世に聞えたる人々なり。外交官フリイゼン Friesen は嘗て書を著して庿堂往時の秘策を說き、ウヨルマン Woermann は世界知名の圖書舘に長たり。リプシウス Lipsius の築きたる摟堂、ポオエルス Pauwels の寫したる丹靑も或は千載に傳ふ可し。スツツドニツツ氏 Frl. von Studtnitz は巾幗にして一新聞 (Für's Haus) の編輯長たり。モンツ將軍 General Graf von Monts は猶矍鑠として拿破崙の往時を談ぜり。俳優にはオステン von den Osten あり。容貌魁偉。余曾てそのヰルムヘルム、テル Willhelm Tell に扮せるを見しが、現に彼の虐政の覊絆を脫せんと欲して、命を鴻毛よりも輕んじたる人物は斯くありけんと思はるゝ程なりき。フリヨツセル氏 Frl. Floessel は余曾てその傳奇月桂と乞杖と Lorbeerbaum und Bettelstab の中なるアグネス Agnes に扮せるを見たり。一雙の嬌眸能く落第の才子 (Heinrich) を鑒識し、月桂を贈りて詩卷を求むる處、余をして數行の淚を墮さしめたり。此夜純白の衣を着け、花束を手にして出づ。嬌姿比なし。若し夫れジヤコモ氏 Frl. Diacomo は紅臉を呈し、美ならずと云ふに非ず。唯〻桃紅の李白に於ける觀を爲すのみ。又瑞典砲兵大尉クロオンエルム Kronjelm 伯の夫人は今宵服飾第一と稱せらる。軍人はルウドルフ、シユワインゲル、デツケン將官 von Rudorff, von Schweingel, von den Decken 等を始として數百人ありき。メツテルニヒ公夫人 Fuerstin Metternich は偶〻此地に客たりしに、故ありて至らず。九時三十分薩索尼王近衞の服を着けて臨會す。近衞騎兵聯隊の樂手樂を奏して迎ふ。十時三十分散會す。
十三日。夜王宮の舞踏會に赴く。會は午後八時半に始り、夜一時半に終わる。來賓六百人。貴顯にはザツクセン、マイニンゲンの公子 Erbprinz Bernhardt von Sachsen-Meiningen 其配と共に來り、又ワイマル及シヨオンベルヒの公子 Prinz Alexander von Weimar, Prinz Clemens Schoenberg あり。外交團 Corps diplomatique の貴人甚衆し。射手聯隊 Schuetzenregiment の樂手樂を奏し、波蘭舞 Polonaise を以て開會す。首たる二對は國王と紅衣のマイニンゲン夫人 Prinzessin von Meiningen と、マイニンゲン公子 Prinz von Meiningen と黃衣の國母となり。先頭舞 Vortaenzer の役は中尉マンゴルト、ライボルト von Mangoldt-Reiboldt これを勸めたり。十一時饗宴堂 Bankettsaal 及隅儀堂 Eckparadesaal を開いて晚餐を賜ふ。隅堂は花卉もて飾りたり。珍羞は年魚と牡蠣となり。
十五日。地學協會に至る。
十七日 (日曜) 。志賀泰山タラント Tharandt より至る。ビヨオム氏 Agathe Boehm を伴ひて共に劇を觀る。
十八日。夜ヰルケ、グラウベ、トイヘル、ブリイムヘン Wilke, Graube, Teucher, Bliemchen 等とポルレンデル Pollaender に會す。
十九日。ロオトの曰く。今日は君の生誕なり。筵を催さんと欲すれども寸暇なし。請ふらくは明晚八時三十分我家に來れと。余喜び諾す。主婦その自ら編める所の履を贈る。
二十日。夜ロオト余がために生誕の筵をその家に開く。來賓二十餘名。ロオト余を延いて一机卓の前に至り、演說す。卓には貽を列す。則ち麥酒盞一葢に千八百八十六年一月十九日の紀念のために一等軍醫森林太郞に贈るヰルヘルム、ロオト Wilhelm Roth, d. St. A. Rintarau Mori z. E. 19. Jan. 1886 の文を彫る。村婦牡牛の置き物一。曆本一。キヨオニヒ Koenig 著獨逸文學史一。卷首に一詩を題す。曰く。
- "Japanisch zu lernen
- Was fiele wohl schwerer,
- Doch danken wir herzlich
- Dem freundlichen Lehrer;
- Es moeg' ihn erinnern am heimischen Strand'
- Dies Buch an die Jahre im deutschen Land'.
- Dr. A. B. Meyer,
- Dr. G, Wilke,
- Dr.W. Roth.
- Dresden, 19. Jan. 1886."
詩は軍醫監の作に係る。是より淸觴異味、歡を盡して別れしは、十二時三十分の頃なりき。
二十一日。夜ミユルレル及エヱルスの演說を「カシノ」に聽く。
二十二日。中濱東一郞の書伯林より至る。
二十六日。醫師ヰルケの生誕なり。バイロン Byron 詩集一卷を贈る。中濱東一郞伯林より至る。停車塲に迎ふ。中濱の曰く。伯林に着せし時は此快なかりきと。四季客舘 Hôtel zu den vier Jahreszeiten に投ぜしめ、伴ひてヘルマン Herrmann 酒店に入る。店は城街 Schlossstrasse に在り。主婦をベルタ Bertha と云ふ。頗る美。此日ロオト余に贈るに小照を以てす。
二十七日。中濱と共に劇を觀る。後ロオトの瑞典國人某等とアウセンドルフ Aussendorf に在るを聞き、往いて會す。
二十八日。中濱來責に赴く。家書至る。
二十九日。夜地學協會の招に應じ、日本家屋論を演ず。此夕の演者は余一人のみ。然れども新聞の廣吿を見て來り聽くもの堂に滿つ。酒を賣る少女エンマ Emma その多く售れたるを謝す。タラントの志賀も亦來り聽けり。
三十一日 (日曜日) 。午前十一時闕に赴く。新任士官と俱に妃に謁す。其式。余等一堂に環立して竢つ。妃出づ。一宮女隨ひ來りて閾の邊に留る。一宦者名簿を手にし、人每に其名を呼ぶ。妃其人に對して一二語を交へ、右手を伸ぶ。余等之を把りて接吻す。夜工兵士官二三人と猨馬戲 Circus Herzog を看る。侏儒を「クラウン」Clown と稱す。戲謔百出、人の笑を博す。
二月二日。萩原三圭の書至る。曰く。今日は豚兒
- 寄萩原國手賀令息午生君誕辰
- 明治十七年二月午日午時擧一兒呼爲午生眞天造嘉祥
- 若此誰復疑吾與乃翁相識久稜々逸氣老不衰賢郞又曾
- 寄小照龍種早已現嬌姿君不見曰午曰馬乾之象由來健
- 行不敢遲他年展足向何境文耶武耶法耶醫應比良驥奔
- 千里能紹其氣遂有誰逢此佳辰獻詩句顧我駑劣獨自嗤
- 雖然諂諛丈夫媿一語又須存箴規聞說駕御術非一莫忽
- 緊縱得其宜
後井上巽軒の詩を得たり。云く。萩原國手有佳兒。名命午生葢得宜。豈啻康强如健馬。也當進益速於馳。
三日。家書至る。賀古鶴所の病頗る重きを聞く。
五日。劇ギヨオテの「フアウスト」を演す。往いて觀る。
八日。夜ヰルケ等と
十日。宮中の舞踏會に赴く。宮媛中一人の甚だ舊相識に似たるものあり。然れども敢て言はず。既にして此媛余が側を過ぐ。忽ち余を顧みて曰く。何ぞ君の健忘なると。嗚呼、余之を知れり。是れ野營演習中相見たる所のフオン、ビユロウ von Buelow 氏の一女にしてイイダ Ida と名づくるものなり。奇遇と謂ふ可し。
十二日。少將シユウリヒ Schurig の招に應じ、新街「カシノ」Neustaedter-Casino の舞踏會に赴く。大佐ポルチウス Portius 及法官ヰイサンド Wiesand の女と相識る。ポルチウス氏は豐頰の女子なり。能く曾て德停に客たりし日本人の名を記す。分毫も謬なし。洋人中多く得難し。ヰイサンドは絕だ矯小、明眸皓齒、姿態羞を帶ぶる者の如し。唱歌を善くす。曰く。妾頃日始て「フアウスト」を讀むことを許さると。葢しグレエトヘンの事あるが爲めに禁ぜられたりしならん。新街「カシノ」は酒店バハ Bach's Restauration の樓上に設く。會長少將シユウリヒは匹夫より起り、功に依りて今の位に到れる人なりと云ふ。
十三日。家書至る。
十四日。夜一等軍醫エヱルスの筵に赴く。魯西亞軍醫ワアルベルヒ Ferdinand Wahlberg, 中佐ナウンドルフ von Naundorff 等與る。エヱルスの夫人オチリイ Ottilie 快談人耳を悅ばしむ。
十五日。夜樂をマインホルト堂 Meinhold's Saele (Moritzstrasse) に聽く。此會は舞師エルヰツツ Wilhelm Jerwitz が樂人オイレ Eule の窮を救はんとて開きたるなり。余エルヰツツを識る。故に赴く。
十七日。夜彼得堡客舘 Hôtel Stadt Petersburg の舞踏會に赴く。ルウドルフ氏 Frl. Rudolf 余が卓隣 Tischnachbarin たり。
十八日。夜ワアルベルヒの演說を「カシノ」に聽く。
十九日。午後二時十五分汽車に上りて德停府を發す。伯林にて開ける普魯士軍醫會に赴くなり。同行者をロオト、ヰルケ及ワアルベルヒと爲す。五時半伯林に着し、莫愁客舘 Hôtel Sanssouci に投ず。ロオトの常に宿する處なり。軍醫雜誌の記者一等軍醫グルウベ Grube と語る。後普魯士の軍醫五六人 (一等軍醫ゾムメル Sommer 其中に在り) とバウエルの骨喜店 Café Bauer (Unter den Linden) に會し、相伴ひて戲園「ライヒスハルレ」Theater der Reichshalle (Leipzigerstrasse) に至る。名は戲園と稱すと雖、來責の水晶宮、德停の「ヰクトリヤ」堂 Victoriasalon の類に過ぎず。矮人を觀る。其最小なる者は高さ五十仙米。謂ふ英國に產すと。凡そ上等社會の人は此種の興行を樂み觀ること少し。所以者何と云ふに、醉人私窩兒と肩を交る虞あればなり。唯ゞ余等他方より來る者は、一たび此塲に入るも亦妨なし。若夫れ久く伯林に在る邦人にして、之に劇塲の事を問へば、答へて此地の劇塲は皆日本の輕業見せ物小屋の類なりと曰ふ者あり。陋なりと謂ふべし。夜十一時ロオト等とフウト食店 Hut'sche Restaurantion (Potsdamerstrasse) に會す。
二十日。公使舘に至る。小松原英太郞を訪ひて逢はす。ラアゲルストリヨオム夫人 Frau von Lagerstroem (Artilleriestrasse) の家に至る。
二十一日。トヨツプフエル食店 Restauration Toepfer に朝餐し、公使舘に至りて小松原と議する所あり。三宅秀を砲兵街 Artilleriestrasse に訪ふ。逢はず。三浦、榊、加藤、河本、隈川、靑山、北里、田中等を雅典食店 Restauration zu Stadt Athen (Griechische Weinstube; Leipzigerstrasse) に招き饗應す。
二十二日。書をヒルシユワルド August Hirschwald の店に購ふ。ラアゲルストリヨオムの家を訪ひ、
二十三日。田中正平を訪ふ。正平余に貽るに其小照及プリヨルス Robert Proelss の戲曲及演劇史二卷を以てす。午後客舘に歸る。五時三十分伯林を發す。三浦余を送りてアンハルト停車塲 Anhalter Bahnhof に至る。八時三十分德停府に歸る。
二十四日。夜一等軍醫ミユルレルの筵に赴く。ミユルレルは嘗て來責府に在りてホフマン師の助手たり。其軍裝水を受くる試驗は載せて衞生記錄 Archiv fuer Hygiene に在り。同じく招かれたる人々の中書籍舘吏ホヨオブレル Hoebler 夫婦あり。ホヨオブレル余と日本の風俗を談ず。其婦白皙頗美なり。此夜主婦を延いて食卓に至り、其傍に坐す。
二十五日。フライタハ Freytag の著祖先錄 Ahnen を田中正平に贈る。句を題して曰く。
- Wie auf dem kleinen Schiff in Sturmeswuth
- Nach einem Ziel' Gefaehrten streben,
- Wie in der Schlacht der Kameraden Muth
- Sie nicht verlaesst auf Tod und Leben,
- So ringen wir gewiss zu jeder Stund'
- Um Ruhm des Vaterlandes allein.
- Als Zeichen vom geschloss'nen edlen Bund
- Sei dir gewidmet dieses Buechlein !
- Berlin, am 25. Februar 1886
- Dr. Rintaro Mori,
- Berlin, am 25. Februar 1886
是より先き余の諸友と伯林に會するや、座間北里柴三郞田中正平と爭論したり。北里の曰く。凡そ三學部の卒業生は醫學部の卒業生を蔑視す。余其何の意なるを知らす云々。北里の言或は當る所も有る可けれど、此會に來りて此語を發す。固より宜きを得たりと謂ふ可らず。余素と田中と相識る。翌田中を訪ふ。其抗抵せざりしを謝す。田中余に贈るに戲曲及演劇史を以てす。余其意を感す。故に此贈あり。
二十七日。此日軍陣衞生學の講筵を閉づ。是を講習會の終と爲す。夜三等軍醫ヘツセルバハ Hesselbach をアウセンドルフ Aussengorf の酒亭に餞す。ヘツセルバハは面上縱橫刀痕を殘し、性激怒し易き人物なれども、神を信ずることの厚き、妄語を嫌ふことの嚴なる、大に取る可き所あり。常に余を呼びて化外人 Heide と爲す。余の耶蘇宗に轉ぜざるを罵る。
二十八日。軍醫正チイグレル Ziegler の筵に赴く。隣席の女をグリイマン氏 Fraeulein Gliemann といふ。紅頰金髮なり。又一少女あり、西班牙語を善くす。其の許嫁婦にして、不日南米に航すといふ。此日家書到る。天山遺稿刻成るを聞く。亡友松田氏も亦た地下に瞑するなる可し。
三月一日。小池正直の書至る。
二日。夜代言人ヰルケの筵に赴く。情婦ベルタ Bertha, 軍醫ヰルケ座に在り。ベルタは行酒女の籍を脱し、今學校に入りて勉學す。
三日。日本語の敎授を終る。
四日。夜「カシノ」に至り、諸友に吿別す。
六日。夜地學協會の招に應じ、其年祭に赴く。此夜の式場演說は日本と云ふ題號にて、其演者はナウマン Edmund Naumann なり。此人久しく日本に在りて、旭日章を佩びて鄕に歸りしが、何故にか頗る不平の色あり。今三百人餘の男女の聽衆に對して、日本の地勢風俗政治技藝を說く。其間不穩の言少からず。例之ば曰く。諸君よ。日本の開明の域に進む狀あるを見て、日本人其開明の度歐洲人に劣れるを知り、自ら憤激して進取の氣象を呈はしたる者と思ひ玉ふな。是れ外人の爲に偪迫せられて、止むことを得ず、此狀を成せるなりと。又其結末に曰く。是にて先づ日本形勢の槪略を演じ畢れり。今一笑話を以て結局とせん。或る時日本人一隻の輪船を買ひ求めたり。新に航海の技を學べる日本人は、得意揚々之に上りて海外に航したり。數月の後、故鄕の岸に近づきしに、憐む可し、此機關士は機關を運轉することを知りて、之を歇止するを知らず。近海を逍遥して機關の自ら休む時を待てり。日本人の技藝多く此の如し。余は他日其弊を脱せんことを望むと。余はこれを聞きて平なること能はずと雖、是れ實に今夕の式場演說にして、人の論駁を容さず。余は懊惱を極めたり。ロオト余が色を見て我前に至りて曰く。君不平の色あり。何の故ぞや。余を以て觀れば、ナウマンの論は大に日本將來の開化を願ふ意あり。頗る妥當なる者の如しと。余以爲らく、ロオト日本開明の度を知らず、故にナウマンの言を以て宜きを得たりと爲す。ロオトの有識を以てして猶且此の如し。况んや他人をやと。余の不平は益〻加はり、飮啖皆味を覺えず。ナウマンは余と相對して坐す。ロオトはナウマンの左に坐す。先づ會長某の演說あり。又某軍醫は起ちて諸國婦人社會の現况を演じ、遂に獨逸婦人の幸福を賀し、貴婦人萬歲を唱へたり。既にしてロオト起ち遠征の利を述べてナウマンを賞し、次いで遠來の客に及べり。所謂遠來の客とは余と魯國のワアルベルヒとを指すなり。ナウマン答辞を陳ぶ。中に曰へることあり。余は久しく東洋に在りしが、佛敎には染まざりき。所以者何といふに、佛の曰く。女子には心なしと。貴婦人よ。余は之を信ずること能はず。余の佛敎に染まざりしは此が爲なりと。余はこれを聞きて驚き且喜びたり。夫れ式塲演說は駁す可らず。酒間の戲語は辯ず可し。今他を談笑の下に屈するときは、以て今夕の恨を散ずるに足らん。余はロオトに發言を請ひしに、ロオト直ちに會長に吿げ、會長も亦諾したり。余起ちて演說す。其大意に曰く。在席の人々よ。余が拙き獨逸語もて、人々殊に貴婦人の御聞に達せんとするは他事に非ず。余は佛敎中の人なり。佛者として演說すべし。今ナウマン君の言に依れば、佛者は貴婦人方に心なしといふとの事なり。されば貴婦人方は、余も亦此念を爲すと思ひ給ふならん。余は辯ぜざることを得ざるなり。夫れ佛とは何ぞや。覺者の義なり。經文中女人成佛の例多し。是れ女人も亦覺者と爲るなり。女人既に能く覺者となる。豈心なきことを得んや。貴婦人方よ。余は聊か佛敎信者の爲に冤を雪ぎ、余が貴婦人方を尊敬することの、決して耶蘇敎徒に劣らさるを証せんと欲するのみ。請ふらくは人々よ、余と與に杯を擧げて婦人の美しき心の爲に傾けられよと。語未だ畢らず。一等軍醫エヱルス Ewers は其夫人と余の傍に來りて曰く。荊妻婦人の總代と爲り、君の演說を謝すと。其他一等軍醫バアメル、ヰルケ等皆余か演說を賞す。余の快知る可し。ロオト笑を含みて曰く。Immer verschmitzt ! (如例黠) と。是より舞踏の餘興あり。余は舞踏すること能はさるを以て、家に歸り眠に就けり。後ワアルベルヒ、志賀、松本、と此夜の事を語る。ワアルベルヒの曰く。諸君は森子に謝せざる可らず。森子は談笑の間能く故國の爲に冤を雪ぎ讐を報じたり。駁したる所は些細なれども、人をして他の議論の多く此の如く妄誕なるべきを思はしめたり。是れ全日本形勢論を駁したるに同じと。
七日。午時早川大尉とシユウマン酒店に會す。午後三時別筵に赴く。是れロオトの催せるなり。陸軍病院長クリイン夫妻を始とし、來客甚だ多し。酒間ロオト其作る所の詩を誦す。中間嗚咽して止まず。余も亦覺えず淚を灑ぎたり。別に臨みて曰く。余君を見ること他の索遜に來遊せる醫官と同じからず。君は實に我良友なり。請ふらくは時に安否を報じ、余が意を慰めよと。乃ちペツテンコオフエル Pettenkofer に與ふる書を托せらる。葢し紹介狀なり。午後九時汽車に上りて德停府を發す。ミユンヘン府に赴くなり。余が留學年も早く既に半を過ぎたり。衞生學には許多の專家あり。獨りホフマンにのみ從ひ居らんこと策の得たる者に非ず。是れ余のミユンヘン府に赴きペツテンコオフエルを訪はんと欲する所以なり。來り送る者を兩ヰルケ、志賀泰山及松本脩と爲す。志賀、松本は余と同じく汽車に上り、タラント Tharandt に歸れり。同行者を魯醫ワアルベルヒとす。是より先き余軍醫ヰルケ及ワアルベルヒと車を同くす。途上交誼の厚薄を論ず。既にして相誓ひて曰く。今より相諼れざること兄弟のごとくならんと。遂に相呼びて爾と曰ふ。ワアルベルヒは醫にして詩人なり。好みて傳奇を作る。其作中芬蘭の劇場にて世人の喝采を博したる者甚だ多し。年既に五十に近けれども、活潑々地少年の人の如し。常に芬蘭を以て故國と爲す。其魯國に屬するを甘んぜざる者の若し。ワアルベルヒは余と俱にミユンヘンに至り、是より來責伯林ストツクホルム Stockholm を經て、其鄕ヘルシングフオルス Helsingfors に歸るなり。
八日。天明車窓より地方を望見せんとするに、氷紋の爲に障碍せられ、一斑をだに窺ふこと能はず。卽ち刀を拔いて之を削る。只見る飛雪天に滿ち、車は已に拜焉國境を踰えたるを。彼北獨逸の百里の平野には似もやらず、丘陵起伏、松柏鬱茂せり。農婦を見る。紅或は綠の布を纏ひたり。葢し古の俗なり。午前十一時ミユンヘン府に着し、獨帝客舘 Hôtel Deutscher Kaiser に投ず。岩佐新を鐘街 Glockenstrasse № 12 (Fraeulein Schmidt's Pension) に訪ふ、逢はず。此日街上を見るに、假面を戴き、奇恠なる裝を爲したる男女、絡繹織るが如し。葢し一月七日より今月九日 Aschermittwoch に至る間は所謂謝肉祭 Carneval なり。「カルネ、ワレ」carne vale は伊太利の語、肉よさらばといふ義なり。我舊時の盆踊に伯仲す。夜ワアルベルヒと ゲルトネルプラツツの Gaertnerplatz 劇塲に入る。後中央會堂 Centralsaal に至る。假面舞盛を極む。余も亦大鼻の假面を購ひ、被りて塲に臨む。一少女の白地に綠紋ある衣裳を着、黑き假面を蒙りたるありて余に舞踏を勸む。余の曰く。余は外國人なり。舞踏すること能はず。女の曰く。然らば請ふ來りて俱に一杯を傾けんことをと。余女を拉いて一卓に就き、酒を呼びて興を盡す。歸途女を導いて其家の戶外に至る。曰く。兒伯母と此に住む。晝間は冠肉厨 Kronfleischkueche (Frauenstrasse 12) に在りて酒を行る。兒が名をバベツテ Babette と爲す。請ふらくは一たび來り訪へと。余往いて訪はず。其眞僞を知るに由なし。客舘に歸りて眠に就く。室暖に褥軟なり。昨宵車中の苦を償ふに足る。
九日。到着屆の爲に奔走す。兵部省、軍團司令部、衞戍司令部等に至る。軍醫總監フオン、ロツツベツク von Lotzbeck, 軍醫正パハマイル Pachmayr を訪ふ。既にして大學衞生部に至る。助敎エムメリヒ Emmerich 在り。曰く師は家に在りと。卽ち其家に至る。輦轂街 Residenzstrasse № 1 (Hofapotheke, III Etage) に在り。濶大なれども華麗ならず。ペツテンコオフエル余を其作業室に延く。廣面大耳の白頭翁なり。弊衣を纏ひて書籍を堆積したる机の畔に坐す。余ロオトの翰を呈し、來由を陳ず。ペツテンコオフエルの曰く。緖方正規久く余が許に在り。余これを愛すること甚し。子も亦正規の如くならんことを望むと。辞して家に還る。
十日。衞戍病院 (Oberwiesenfeld) に至る。院は女神堡街 Nymphenburgerstrasse とダツハウ街 Dachauerstrasse との間なる高原に在り。長さ四百四十四米突、廣さ百三十四米突、病者四五百人を容る。 ミユンヘン府軍人の數は六千七百人許なる故、每百七、五の比準に當る。院內は淸潔ならず。德停府の病院に輸くること一着なるべし。醫官の服裝擧動も亦慊らざるものあり。醫長は軍衣に平服の襟と襟飾とを着けたり。一年壯兵醫某あり。廊上上官と會して帽を脱せり。パハマイル Pachmayr 余を延いて外科室を巡視す。又軍陣衞正部あり。軍醫正ポルト Port 之が長たり。ポルトは五十許の老人にて、軀幹長大なり。常に口を開き、放心の狀を爲せり。然れども性學を好む。嘗て兵營諸室の窒扶斯罹患死亡數を調査して、世人の注意を促しゝことあり。今急造材料法 Improvisationstechnik の試驗に從事す。樹枝、電線、硝子瓶等の其用を成すは世人の已に知る所なり。又貯肉罐を載りて種々の用に供し、生木の枝を折り、皮を去り、小刀にて輕く削り、繃帶品を製す。菌學室あり。ハンス、ブフネル Hans Buchner に此に逢ふ。夜民顯府醫會 Deraertzliche Verein in Muenchen の集同に赴く。チイムセン、ヰンケル Ziemssen, Winckel 等の諸家を見る。醫某飮水の窒扶斯原因たる說を唱ふ。ペツテンコオフエル起ちて駁す。其痛快を極めたり。後笑ひて曰く。余三十年來同一の事を說く。世人未だ覺らず。歎󠄀ず可き哉と。
十一日。午前居を蒭街 Heustrasse (№ 16, b, III Etage; bei J. Palm) に卜す。家は大學衞生部と相對す。頗る便なり。僦居主人は商賈にして、夫妻皆淳朴。一女あり、年十四。善く洋琴を皷す。十一時衞生部に至り、ペツテンコオフエル師と學科の事を談ず。レンク Renk に逢ふ。
十二日。師の翰を持ちて大學評議官ノイヒイル Universitaetstath Neuhierl を大學本部に訪ふ。夜始て宮廷戲園に至る。壯麗比なし。塲二千五百人を容る。演する所はジイゲルト G. Siegert の作なり。「クリテムネストラ」Klytaemnestra といふ。クララ、チイグレル Clara Ziegler 女主人公に扮し、ブランド氏 Fraeulein Bland エレクトラ Elektra に扮す。伎倆皆觀るに足る。
十三日。レンクを訪ふ。
十四日 (日曜)。ロツツベツクの家に午餐す。夫人佛語を善くす。來客中アンゲレル Angerer, ロオトムンド August von Rothmund junior 夫妻、軍醫正ポルト、拜焉國步兵第二聯隊長大佐某及大尉某あり。アンゲレルは曾てウユルツブルク Wuerzburg 大學に在りて助敎たり。時に我總監學生たり。故に相識れり。余はロオトムンド夫人の左に坐す。夜始て輦下戲園 Residenztheater に至る。一等軍醫正ヱエベル Weber 及びワアルベルヒの誘う所なり。劇塲は宮廷戲園と相隣す。甚だ細小。僅に看客八百人を容る。然れども建築の美實に宮廷戲園に遜らず。演する所はカルデロン Calderon の怪夫人 Ladama duende なり。
十五日。一等軍醫ヱエベル、ワアルベルヒと同じく大學聯合會「バワリヤ」Bavaria に赴く。後「コロツセウム」Colosseum に至る。倡優ありて技を奏す。卑俗見るに足らず。
十七日。早起。仕女窓を開き雀を飼ふ。余偶然戶外を望めば、晴日テレジア牧 Theresienwiese の綠を照し、拜焉神女 Bavaria の像半空に屹立す。牧場の南、遙に山嶽を望む。余初め此家を僦す。曾て此奇觀あるを慮らず。自ら迂濶を笑ふなり。此日師余を延いてフオイト Carl Voit を見る。亦白頭の人なり。師に比すれば言動稍〻圭角あり。
十八日。午前七時ワアルベルヒの伯林に之くを送る。石黑石坂の書至る。夜岩佐新を訪ふ。新と速記法を講究すること此夜を以て始とす。
二十日。再びフオイトを生理學部に訪ふ。其裝置を觀る。
二十一日 (日曜)。岩佐と酒店「サント、ペエテル」St. Peter に午餐す。
二十四日。拜焉國第二步兵聯隊の士官とルイトポルド街 Luitpoldstrasse なる酒店「シヨツテンハンメル」Schottenhammel に會す。
二十五日。畫工原田直二郞を其藝術學校街 Akademiestrasse の居に訪ふ。直二郞は原田少將の子なり。油畫を善くす。
二十九日。家書至る。
四月三日。岩佐と神女堡 Nymphenburg に至る。往くに滊機街車 Dampftrambahn を用ゐたり。其製鐵道馬車の如し。之を行るに蒸滊を以てす。然れども速力甚だ大ならず。堡はアデルハイド、フオン、サヲエン Adelhaid von Savoyen の創築に係る。苑囿の狀佛蘭西を摸す。故に人呼びて第二のヱルサイユ Versailles 城と爲す。大理石像多し。池沼あり。水淸澄。游魚多し。
九日。家書又至る。
十二日。波蘭人クペルニツク Coupernik と邂逅す。樂人なり。曾て來責府に在り。余と同じくフオオゲル氏の家に午餐す。今ミルラ Mirrha と呼ぶ巴里の歌妓と漫遊す。狂態想ふ可し。
十八日 (日曜)。大佐ベルリイ、デ、ピノ Joseph von Belli de Pino, 軍醫正ポルト、一等軍醫ヱエベル等來りて余を訪ふ。ポルトと語ロオトの事に及ぶ。ポルトの曰く。ロオトは他日獨逸國軍醫總監たるべき人なり。遲くとも皇太子フリイドリヒ Friedrich 殿下卽位の日には此任官あるべし。皇太子とロオトとは交情太だ厚く、相爾汝すること既に久し。然れども其負氣倨傲 (geniale Unverschaemtheit) は余の喜ばざる所なりと。余其意を問ふ。曰く。古來薩索尼國大學敎授の助手は必ず新學士より採用す。而るにロオトの軍醫監に任ぜられて、薩索尼の軍團に入るや、古例に遵はず、悉く其部下の軍醫を以て助手の員に充てたり。而して世人敢えて議することなし。豈英雄人を欺くことの甚だしき者に非ずやと。此日シユワアンタアレル街 Schwanthalerstrasse なる素食厨 Vegetarianerkueche に午餐す。素食敎 Vegetarianismus は植物のみを以て人間の眞成なる食料となすものにして、此店は此輩の爲に設けたる料理店なり。ミユンヘン府は世界知名の榮養論者フオイトの在る地なるに、猶此妄說を奉ずる者あり。豈奇恠ならずや。客十人あり。中に女子二人あり。給仕は女子なり。其献立左の如し。
- Menu:
- Kraeutersuppe
- Erbsenpurée
- Hirse
- Kaiserschmar
- Zwitschen oder Aepfelcompot
- Fruchtsaft
- Apfelwein
醬油を加へざる野菜料理なれば其無味は論なし。醫學生徒九人とアンデツクス Andechs に遊ぶ。午前六時家を出で、滊車に上りてスタルンベルヒ Starnburg に至る。地スタルンベルヒ湖 Starnbergersee oder Wuermsee に臨む。此より步してアンデツクスに抵る。村を過ぐること四五。路傍耶蘇磔柱の像多し。村民加特力敎を奉ずるに因るなり。行くこと三時間アンデツクスの丘に達す。丘湖に臨む。アムメル湖 Ammersee と名づく。丘上寺院あり。住僧に請ひて什寶を見る。後院內の釀房 Braeustuebl に酌む。僧ヤアコツプ Jacob といふ者あり。釀酒管長たり。肥大にして遲鈍。家猪と髣髴たり。酒を行る者も亦皆緇衣。余覺えず絕倒す。余客と皆醉ふ。歸途車を倩ふ。所謂梯車 Leitwagen なり。エムメリヒは毛布を纏ひ、尖帽を戴き、長竿頭に古靴を結び付け、之を推し立てゝ車首に坐す。生徒等皆狂歌す。興を盡して歸る。
二十六日。篤次郞の書至る。志賀泰山敎授法の苛酷にして生徒の憤懣せるを報ず。因りて謂へらく。志賀の性人に對しては甚苛なれども、己に對しては甚寬なり。其親眷中の人を待つも、亦寬に過ぐ。嘗て德停府に來り、余と飮みて夜半に至る。余の曰く。請ふらくは我室に宿せよ。長椅あり。毛布あり。泰山の曰く。余は臥床ならでは眠ること能はずと。遂に客舍に投ぜり。是れ己に對することの甚寬なるに非ずや。泰山は已に嫁し、二兒あり。其の家に在るや、必ず洋饌を供せしむ。割烹甚だ精し。故に其子は東京市中の西洋料理店に往くごとに、料理の無味を責む。况んや米食抔はその耐ふる所に非ずといふ。若し此子にして或は旅行し、或は兵役に服する等の事あらば、其不便何如ぞや。余は泰山の其親眷中の人を待つこと寬に過ぐと以爲へり。志賀の性此の如し。固よりスパルタ Sparta 風の生活を好む余の首肯すること能はざる所なりと雖、余は只だ一技一藝ある人を棄てざるのみ。若夫れ伯林一友人の書中、志賀と云へる天保錢云々と云へるは、酷論の甚しきものといふべし。
五月十九日。家書至る。
二十二日。午前余猶試驗所に在り。エムメリヒ來て余に吿げて曰く。今日ヘルリイゲルスグロイト Helriegelsgreuth の村酒店を借りて學生の決鬪を行ふ。盍ぞ往いて觀ざると。余喜びて諾す。獨逸の學生は多く其の團 Corps 某の壯年一會 Burschenschaft と唱へ相結合して異様の衣を着、異様の語を吐く。是れ中古士風の遺にして、愛すべきところも少なからねど、亦弊害の甚しきものあり。卽ち決鬪是なり。夫れ壯年の士の劍を弄ぶは固より可なり。然れども爭論の末決を私鬪 Duell に訟へ、法律の許さゞる所に出でゝ自ら是とす。豈憎む可きにあらずや。况や身體を毀傷し、其の瘢痕に附するに名譽瘢 Renommirschmiss の名を以てするに於てをや。然りと雖、決鬪は戰爭と同じ。その廢絕は言ひ易くして行はれ難し。唯ゞこれを個人の良心に委ねずして社團の制裁に附するものは、獨逸大學の惡弊といふべし。哲學者ロオゼンクランツ Rosenkranz 嘗て詳にこれを論ぜり。學者讀まざるべからず。此日十一時滊車に上りてヘルリイゲルスグロイト村に赴く。發車場にて一人に遭ふ。容貌魁梧、朱顏白鬚、余を揖して曰く。君は日本人に非ずや。 失禮なる言にはあれど、君の面貌一目して其日本人たるを知る可きが若くなるに、亦大に葱嶺以西の民に似たる所あり。余はヨハンネス、ランケ Johannes Ranke なり。平生人類學に從事す。若し君の小照を惠まれなば、余の喜これに過ぎじと。余の曰く。君の名は余日本に在るの日より知れり。所以者何といふに、君の生理書は余好みて讀み、大に裨益を得たるを以てなり。余が像は敢て惜まず。唯だ君の圖と交換することを願ふのみと。ランケ諾す。別れてエムメリヒと車に上る。途上一工塲を望む。屠塲の骨を集め、膠及肥料を製する處なり。既にして車グロオスヘツセルロオヘ Grosshessellohe に達す。更に衷甸を僦ひ、村に向ひて馳す。左方にイザアル Isar の流を望む。城ありて水に枕む。塑像に名あるシユワアンタアレル Schwanthaler の舊居なり。今一英婦人に屬す。城を距ること未だ幾ならず、ヘルリイゲルスグロイト村を得たり。河畔の小村落にして、一酒家あり。其小亭に外科器械繃帶及格鬪に用ゐる武器を備へ、鬪塲を程近き丘上に設けたり。亭と鬪塲とに往くには、林下の小逕を過ぎざる可からず。此逕には一學生ありて來者を誰何す。葢し警察吏の闖入を防ぐなり。抑〻獨逸の國法決鬪を嚴禁して、而して實は隨處にこれを行ふものは、官默許して問はざることの致す所なり。就中大學生の如きは、その爭を法廷に見ることを喜ばず。故に警察吏を防ぐと曰ふは、主としてその偶〻至るを防ぐのみ。鬪塲には大學生數十人叢立す。中央に鬪者對立す。各一介者 Sekundant あり。鬪者の物の具附けたる樣又奇怪なり。決鬪の鎧は名づけて鬪衣 Paukwichs といふ。その劍は名づけて鬪刀 Rappier といふ。介者は大庇の帽を戴き、鬪者は其頭を露せり。腹卷は上、胸に及べり。介者は大なる領 Cravatte を纏へども、鬪者は革帶の廣きを幾重ともなく頸に卷き附けたり。腕は肩より以下一面に之を包み、手には革の手袋を穿てり。其他大なる眼鏡を以て目を障ふ。鏡は望遠鏡の如き筒を備へ、硝子は嵌せず。逆上して面色朱の如き鬪者が此眼鏡を掛けたる樣は、恰も新に釜中より出でたる章魚の如くなり。介者は號令す。構へよ Auf die Mensur ! の語にて刀を交へ、擊て Los ! の語にて揮ひ、止めよ Halt ! の語にて止む。二三度刀を打ち合はする每に、休憩 Pause し、刀の屈曲せるを撓め直す。此役は鬪者の右に在るものこれに任す。介者は左に在り。休憩を除き、十五分にて鬪止む。互に握手して和を講ず。刀は甚だ鈍し。然れども瘡骨に及ぶこと稀なりとせず。此日十數對の鬪あり。葢し數月間の券を折るなるべし。一對を部 Partie と名づく。一部の瘡を療する間には他部物の具を着く。是の如きこと終日なり。夜又汽車に上りてミユンヘンの居に歸る。
二十五日。榊俶ザルツブルク Salzburg より至る。癲狂病院を巡視する途次此を過ぐるなり。土地案內は岩佐に委任し、余は夜のみ酒店にて會話することゝ定めたり。
二十八日。加藤照麿伯靈より來る。加藤は試驗畢りて學士の稱を受く。昔三昧橋畔小幾孃の家を訪ひたる風流の餘習全く除かれ、日間はハインリヒ、ランケ Heinrich Ranke の許に往きて小兒科の講を聽き、初夜東洋骨喜店 Café Orient の園中に至りて一盞の麥酒を傾くるを樂む。行止溫和、共に坐すれば春風の中に在る心地す。
二十九日。原田加藤及岩佐とアマリイ街 Amalienstrasse なる伊太利酒店 (Joseph Wisinteiner) に至り、「キアンチイ」Chianti を飮み「ポレンタ」Polenta を食ふ。「ポレンタ」は伊太利人の常食にして、我米飯に伯仲す。余は
六月六日 (日曜)。エムメリヒとテエゲル湖 Tegernsee に遊ぶ。午前六時府を發し、汽車にてイザアルの流をグロオスヘツセルロオヘ Grosshessellohe の邊に橫ぎり、ダイゼンホオフエン Daisenhofen を過ぐ。此處ミユンヘン府水道の貯水所あり。シヤフトラハ Schaftlach にて車を換へ、グムンド Gmund に至る。卽ち湖畔なり。女子ありて綠帽羽を插み、楫を橫へ客を待つ。余等舟に上り、頃刻にして酒家 (Steinmetz) に近き岸に着す。此より先き湖上の光景を看るに、水天一碧、時に丘陵の眼界を遮るあり。近岸の處は流光水に漾ひ、一幅の畫圖の如くなり。酒家に午睡し、日暮府に歸る。
七日。夜ペツテンコオフエル師余を薔薇園 Rosengarten に招く。圓錐木戲 Kegelschieben を爲すなり。師は一代の耆宿なりと雖、遊戲する狀は我黨と殊なることなし。東洋人の自ら尊大にすると殊なり。
十三日。夜加藤岩佐とマクシミリアン街 Maximilianstrasse の酒店に入り、葡萄酒の杯を擧げ、興を盡して歸りぬ。翌日聞けば拜焉國王此夜ウルム湖の水に溺れたりしなり。王はルウドヰヒ Ludwig 第二世と呼ばる。久しく精神病を憂へたりき。晝を厭ひ夜を好み、晝間は其室を暗くし、天井には星月を假設し、床の四圍には花木を集めて其中に臥し、夜に至れば起ちて園中に逍遥す。近ごろ多く土木を起し、國庫の疲弊を來しゝが爲めに、其病を披露して位を避けしめき。今月十二日の夜、王は精神病專門醫フオン、グツデン von Gudden と共にホオヘンシユワンガウ Hohenschwangau 城よりスタルンベルヒ湖 Starnbergersee 一名 Wurmsee に近きベルヒ Berg と云ふ城に遷りぬ。十三日の夜王グツデンと湖畔を逍遥し、終に復た還らず。既にして王とグツデンとの屍を湖中に索め得たり。葢し王の湖に投ずるや、グツデンはこれを救はんと欲して水に入り、死を共にせしものなるべし。屍を檢せしものゝ謂へらく。グツデンは王を助けて水を出でんと欲し、其領を握みしならん。グツデンの屍は手指を傷け、爪を裂きたり。されど王の力や强かりけん、袞衣は醫の手中に殘り、王は深處に赴きぬ。醫は追ひて王に及び、水底にて猶王の死を拒みし如し。グツデンの面上には王に抓破せられたる瘢痕ありと。慘も亦甚し。王の未だ病まざるや、人主の德に詞客の才を兼ね、其容貌さへ人に勝れ、民の敬愛厚かりしが、西洋の史乘にも例少き死を遂げしこと、哀む可きに非ずや。グツデンは特に精神病の醫たるのみならず、平生神經中心系の學に諳熟し、鳴世の著述あり。又詩賦を好む。其狂婦の歌人口に膾炙す。其死も亦職責を重んじたる跡分明にして、永く杏林に美名を赫すに足る。
二十七日 (日曜)。加藤岩佐とウルム湖に遊び、國王及グツデンの遺跡を弔す。舟中ペツテンコオフエル師と其令孫とに逢ふ。
七月十二日。家書至る。去月來炎熱に苦みしに、數日前より忽然冷氣膚を侵せり。試驗室は今日權に爐を開き、僅に室內溫度の攝氏十八度に達するを見たり。炎凉の變斯く迄なるは近年稀なりと府民語りあへたり。
十五日。長沼守敬伊國ヱネチア Venezia より來る。余問ひて曰く。君伊國に在りしならば、必ず緖方惟直君の事を知るならん。僕の東京を發するや、其舍弟にして僕の親友たる收二郞より、惟直君の墳墓のことを聞き、僕の足其地を躡むことあらば必ずこれを弔せんと約したり。願くは其詳なるを語れと。長沼の曰く。惟直君の墳墓は予の領事舘の吏輩と議して建つる所なり。其地はチミテ ロ、サン、ミキエル Cimitero St. Michiell と曰ふ。業成る後之を日本に報じたりしが、果々しき返事も無し。惟直と惟準とは何如なる親疎の關係あるにか。墳墓は兎まれ角まれ、困難なるは惟直君の遺胤の事なりと。余驚き問ひて曰く。遺胤とは何如。長沼の曰く。惟直君はこれを日本政府に秘したれども、伊太利の一女子と宗門上立派なる結婚の式を行へり。既にして一女兒を擧ぐ。今母と共に存す。惟直君の歿するや、母子若干の遺金を得たり。而れども是金も亦竭きたれば、窮困の狀見るに忍びず。遺子の面貌は太だ惟直君に似たりと。余長沼に問ふに母子の居を以てす。曰く。家の番號などは記せざれどプゴ橋 Ponte di puguo といへる橋を渡り、收生女 Leratrice の家を問ふべし。母子此に寓せり。然れども君其貧苦の狀を見ば、必ず盤纏を輕くするならんと。日本人の歐洲に在りて兒を生ませしは、獨り惟直氏のみならず。既に伯林にも梅某の子、中村某の子あり。皆面色黃を帶び、骨格邦人に似たりと云ふ。梅某の情婦は余伯林に在りしとき、余と俱に一盞の咖啡を喫したることありき。客窓排悶の末、遺子を海外に留むるは、其情より論ずれば、復た怪むに足らず。唯〻撫育の費を送らで、母子をして飢餓に逼らしむるは、いと悲む可き事なり。獨乙の法、一兒の養育料は大槪一時二千麻を投じて足る。留學生の如き、此資力なくして醜を遺すならん。
十八日。長沼と神女堡 Nymphenburg に遊ぶ。途に二兒に逢ふ。所謂「チゴイネル」Zigeuner (Githanos) なり。面色黧黑、眼光烱々たり。余の曰く。汝等余と神女堡に遊ぶに意なきか。曰く。何ぞ敢えて辞せんと。乃ち之を伴ひて行く。二兒は府內の咖啡店に在りて、胡弓を鳴らし錢を求むるものなり。遊人余等を見て、或は四個の日本人を見よと呼び、或は四個の「チゴイネル」Zigeuner を見よと呼ぶ。遂に彼此を辨ずること能はざるなり。余長沼と相見て大笑す。既にして神女堡に至り、麥酒一樽蘿蔔數根を買ひ、樹陰に坐して飮啖す。路上多少の艶郞妖姬、皆驚いて此奇異なる群を顧盻す。日歿の頃家に歸る。
二十七日。長沼去りてストラアスブルク Stassburg に赴く。
二十八日。公使品川彌二郞、其子彌一、近衞公、姉小路伯と伯林より至る。拜焉客舘 Bayrischer Hof に投ず。
二十九日。朝往いて公使を訪ひ、俱に朝餐す。公使容貌憔悴す。然れども軀幹偉大なり。言辞は甚謙にして、絕て夸大の氣象なし。曰く性酒を嫌ふ。一滴咽を下すこと能はず。因りて常に「シヨコラアデ」Chocolade を喫す。近衞公身体豐實、語氣活發、華族中の人とは思はれぬ程なり。姉小路は曾て來責にて相識る。聞く氏は素と宮中の小舍人なり。其學資は、聖上より出ず。他年公使となるは、恐くは此人ならんと。彌一郞ボン Bonn に留學す。愛す可き少年なり。夜公使の一行と英吉利骨喜店 Englisches Café に至りて樂を聽く。公使余に問ふに麥飯の利害を以てして曰く。參議などの貴官は今皆麥飯を喫すと。余大澤の論を是とし、高木の說を非とし、毫も翼蔽する所なし。公使又曰く。諸君善く酒を飮む。曾て聞く。拜焉の民飮むに「マアスクルウグ」Maasskrug を以てすと。諸君も亦時に之を用ゐること無きかと。余近衞公、加藤照麿と一「クルウグ」Krug を傾く。歡を竭して歸る。「クルウグ」は一「リイテル」の麥酒を容るゝ陶器なり。
三十日。朝公使及姉小路伯を送りて停車塲に至る。午後近衞公、加藤、岩佐とウルム湖に遊ぶ。近衞公加藤と角觝の戲を作す。其相對するの狀を見るに、公は身短くして肥え、加藤は長くして瘦す。觀者皆笑ふ。已にして加藤を攫み、一間許りも投げ出したり。其膂力想ふ可し。加藤は是より數日間頭痛に苦みたり。是より余公と競走を爲す。余敗北す。然れども角觝と違ひ、頭痛だけは免れたり。
三十一日。近衞公と彌一郞を送りて停車塲に至る。
八月五日。
七日。七時十五分加藤を送りて停車塲に至る。放學の日を以て瑞西に往くなり。此日家書至る。
九日。午前七時三十分ミユンヘン府を發し、伯靈府に赴く。我軍醫部購求する所の器械を檢するなり。車レエゲンスブルク、エエゲル Regensburg, Eger etc. 等を經、麥畝の蟲聲斷えず耳を慰め、時に細流の石間に潺々たるを見る。「ハイデクラウト」Heidekraut の盛に開くを見て、往年野營の事を想ひ起せり。來責を過ぎしは午後六時の頃なりき。フオオゲル氏の家にては今同邦人の集りて晚餐する頃ならんなど思い出でぬ。猶記すべきことこそあれ、レエゲンスブルクにて車を下り、一盞の麥酒を喫せしとき、店婢余を見て微笑す。熟視すればミユンヘン府英吉利骨喜店 Englisches Café の舊婢なり。其名をだに好くも知らねど、知らぬ地にて識る人に逢ふはいと喜ばしきものなり。午夜伯林府に着く。カルゝスプラツツ Karlsplatz なるトヨツプフエル客舘 Toepfer's Hôtel に投ず。曾て橋本總監の寓せし所の家なり。
十日。商店に至る。午後三浦信意、田中正平と語る。井上巽軒繼いで至る。詩文を談ず。已にして俱に一酒店に至る。美少艾あり。巽軒と相識る。興を盡して歸る。
十一日。器械を點檢し畢る。書を公使舘に遺して歸る。公使は未だ府に還らず。大久保學而事を執る。午餐後バウエル骨喜店 Café Bauer に至り、日々新聞を讀む。客舍に歸れば、三浦信意來て余を待てり。北里柴三郞繼いで至る。共に學事を談ず。午後八時別を吿げ、車に上りてミユンヘン府に歸る。
十三日。府の戲園レツシング Lessing の作哲人ナタン Nathan der Weise を演す。余長松篤棐と往いて觀る。ポツサルト Possart のナタン Nathan に扮したるは、實に人の耳目を驚かすに足れり。
十四日。長松去る。送りて發車塲に至る。
十五日。原田直二郞其妾宅をランドヱエルストラアセ Landwehrstrasse に卜す。妾名はマリイ Marie フウベル Huber 氏。曾て「ミネルワ」骨喜店 Café Minerva の婢たり。容貌甚だ揚らず。面蒼くして軀瘦す。又才氣なし。兩人の情は今膠漆にも比べつ可し。原田の曾て藝術學校に在るや、チエチリア、プフアツフ Caecilia Pfaff といふ美人あり。エルランゲン Erlangen 府大學敎授の息女なり。黧髮雪膚、眼銳く準隆し。語は英佛に通じ、文筆の才も人に超え、乃父の著作其手に成る者半に過ぐと云ふ。余未だ親く其人に接せざれども、曾て其圖を原田の家に見るに、才氣面に顯れ、女中の大丈夫たること、問はでも知らるゝ程なりき。此女子藝術學校に在りて畫を學ぶ際原田と相識り、交情日に渥く、原田の爲めに箕箒を執らんと願ふこと既に久し。然れども原田は毫も動かさるゝこと無きものゝ如くなりき。而るに今や此一小婢の爲めに家を營む。余は怪訝せざることを得ず。盖し原田の意、チエチリイは良家の女なり、若しこれと約せば一生の大事なり、マリイは旗亭の婢なり、以て一時の歡を爲すに足るといふに在らん。抑〻チエチリイの如き才女と婚を約すると、マリイの如き才なく貌なき婢と通ずると、孰れか快く孰れか快からざる。且チエチリイは資產あり。嘗て原田と俱に私財を擲ちて巴里に遊學せんと議したりと云ふ。マリイの父母は貧窶甚し。他日の紛紜恐らくは免れ難からん。要するに原田の所行は不可思議と謂ふべし。原田は素と淡きこと水の如き人なり。余平生甚だこれを愛す。故にその此の如き行あるや、余又甚だこれを惜む。
十八日。晚餐後一碗の骨非を喫せんとて、東洋骨喜店 Café Orient に入る。隣房余を呼ぶ者あり。顧視すれば匈牙利の人チルチエル Zilzer なり。白面矮軀、美髯あり。美術修行は名のみにて、骨非店に居諸を送る懶惰漢なり。是より先き、余岩佐とチルチエルに此家に會ふ。他余等の名刺を請ひ得たり。後數日巴里產の歌妓ミルラ Myrrha と相識る。ミルラ岩佐の名を聞く。驚いて曰く。曾て一白皙人に逢ふ。自ら岩佐と稱す。妾に刺を贈れり。亦日本人なりと。因りて請ひて其刺を見る。眞成に岩佐の物なり。以て岩佐に示す。岩佐の曰く。此刺は製してより後未だ日を經ず。曾て一靴匠に與へしことあると、チルチエルに贈りしことあるとのみ。且刺背佛文數行あり。チルチエル佛語を善くす。是れ其贈者たること必せり。我名を濫用すること此に至る。忍ぶ可きに非ず。好し、彼をして一驚を喫せしめんと。乃ち東洋骨喜店に至り、刺の佛文ある者を婢に托し、チルチエルの來るを待ちて返戾せしむ。然るにチルチエルは此事ありしより後、啻に懺悔の意なきのみならず、岩佐を敵視す。故に岩佐は日夕東洋骨喜店に入らずと云ふ。此日余チルチエルの呼ぶを聞き、往いて其意を問ふ。チルチエルの曰く。君は今獨坐し給ふ如し。話したきこともあれば、吾黨の間に光臨せられば幸甚ならん。余其坐間を窺ふに、骨喜店の名物たる羊質虎皮の壯年のみ。余は心に快しとはせねど、其所謂話したきことは、大槪余の知る所にして、早晚一段落をなさゞるべからず。乃ち往いて座に着きたり。チルチエルの曰く。近ろ岩佐君の刺を得たり。裏面に數行の佛文あり。余岩佐君の意を解すること能はず。君此事を知れりや。或は思ふ、岩佐君はその曾て贈る所の刺の余に濫用せられたるを疑ひて、此刺を余に投じたるならんと。是れ余を輕視することの甚きなり云々。余の曰く。佛文は何の語なりしか。曰確には記せねど、君來て此卓に坐する意なきやと云ふ樣なることなり。曰然る歟。岩佐の此擧ありしことは予毫も知らず。但ゞ余は君が岩佐の君を自家坐する所の卓に招く文を看て、却りて奇怪なる解釋を下したるに驚くのみと。チルチエルは言を左右に託して歸り去れり。余は暫く留まり坐したり。因りて在席者の何人たるを叩くに或はハイデルベルヒ Heidelberg 逆旅の番頭なりと云ひ、或は伯林の陶磁商なりと云ふ。其他は推知す可し。話次番頭の曰く。君大學諸生輩の決鬪を見たりや。余の曰く。見たり。曰君は定て此の如き事を嫌ひ給ふならん。僕も亦太だ厭へりと。余故らに少しく聲を勵まして曰く。諸生輩の爲す所は固より兒戲に過ぎず。若し夫れ一身の榮譽に關する事あるに當りては、余別に說ありと。番頭呆然語なし。
二十日。原田岩佐と「グリユウンワルド」Gruenwald (Dachauerstrasse) に晚餐す。
二十六日。始てソイカ Soyka に試驗塲に逢ふ。矮にして瘦す。八字髯甚長し。鼻頭少しく紅。近視度の靉靆を帶びたり。
三十日。レエマン Lehmann 鄕に還る。鄕は瑞西チユウリヒ Zuerich なり。其妹の婚禮に與るなり。禮畢らば伯林の自然學者集同に赴き、九月の末に歸らんと云ふ。送りて發車塲に至る。夜王國骨喜店 Café Royal に至る。一邦人に逢ふ。橫山又二郞と曰ふ。此に來て地底古物學Palaeontologie を修むとぞ。瘦小にして色黑し。洋服にて日本風の禮を行ひ、隣席の人々を驚かしたり。
三十一日。原田直二郞マリイを携へてミツテルワルド Mittelwald に赴く。避暑兼ねて景を寫さんと云ふ。三浦守治伯靈より至る。別後の情を話す。
九月一日。三浦と宮廷釀家 Hofbraeuhaus を訪ふ。
二日。午前十一時より三浦とスタルンベルヒに游ぶ。舟を泛ぶ。
- 望斷鵠山城外雲。詞人何事淚紛々。艙窓多少綺羅客。不憶波間葬故君。
又詩各〻一首を作りて路易二世と侍醫屈顚とを詠ず。
- 當年向背駭群臣。末路悽愴泣鬼神。功業千秋且休問。多情偏是愛詩人。 路易二世
- 埋骨烏湖万頃波。烱心高節動人多。平生著作足千古。別有一篇狂婦歌。 屈顚
レオニイ Leoni にて舟を下り、小憩す。郵便局あり。端書を永松篤棐に寄す。
- 渺茫烟水接天開。鷗鷺眠邊醉倚臺。湖上風光無限好。扁舟憐汝不同來。
又纜を解いてスタルンベルヒに歸る。舟中日暮れたり。賦して三浦に示す。
- 相逢不忍還分手。一去從斯路更賖。日落波間遠巒歿。只餘離恨滿秋湖。
三日。三浦リンダウ Lindau に向ひて發す。送りて發車塲に至る。三浦別に臨みて歸鄕後千住の居を訪はんことを約す。此夕獨り汽車に上り、スタルンベルヒに達し、拜焉客舍 Bayerischer Hof に投じたり。殘暑を避け、兼ねて著述する所あらんとするなり。初夜湖畔を逍遥す。岸の常夜燈に夏蟲の幾萬となく集れるを見る。
四日。水に枕める石級上に朝餐す。蒸餅の餘れるを投ずれば雀許多來り啄む。日出の景色えも言はれず。舟にてレオニイに至り、此に午餐す。夜天陰る。星處々に見ゆ。太だ凉し。
五日。此處は汽車の往復繁く。喧しきことミユンヘンの居より甚しければ、便船してレオニイに赴き、「レオニイ」客舍 Gasthof Leoni に投ず。湖畔の小園、栗の木蔭を成し、頗る意に適す。「チゴイネル」族の群あり。熊を引き來りて避暑の客を慰む。此民は盜すとて人々忌み嫌へども、其衣服など雅致ありて面白きものなり。日暮近郊を步す。岸のあたりは水淸く、底なる砂石數ふ可し。客舍に近き漁家、皆壁に神像を畫く。舊敎の風然るなり。水淺き處に家を建つ。床なし。婦人の游泳する處なりといふ。人工の甲蟲能く自ら動く者、護謨の絲を附けたる毬など賣る翁あり。一ツ二ツ買ひて兒童に與ふ。九時過るまで月を看て庭上に坐す。
六日。朝騷雨過ぐ。永松ドラツヘンフエルス Drachenfels に在りて書を寄す。原田岩佐等の書も亦至る。
七日。好天氣なり。ロツトマン丘 Rottmannshoehe に登る。途に一人あり。二兒を曳いて來る。余を呼びて曰く。君は一等軍醫某君に非ずやと。葢し拜焉參謀本部の幕僚なり。既にして丘上に達す。客舍あり。結構其美を極む。碑あり。其銘の畧に曰く。畫工カルヽ、ロツトマン Karl Rottmann 曾て此丘に登り、喚びて湖上第一勝と作すと。ロツトマンはハイデルベルヒ Heidelberg の人。千八百五十年ミユンヘンに終わる。畢生力を寫景に竭すと云ふ。碑の傍に小苑あり。薔薇花盛に開く。
八日。陰。冷氣膚に透る。又ロツトマン丘に上る。ヂイフエンバハ Diefenbach の兒に客舍の前に逢ふ。ヂイフエンバハは畫工にして所謂素食家 Vegetarianer なり。その素食法を奉ずること極めて嚴にして、髮を斷らず、爪を除かず。身には一枚の綿布を纏へるのみ。其子も亦父親と同じ生活を營めり。余兒に薦むるに檸檬水を以てす。辞して飮まず。時に樓上の窓を啓いて鐸を鳴す者あり。仰ぎ見れば則ちヂイフエンバハなり。兒走りて舍に歸る。ヂイフエンバハは巨眼紅鬚、身は瘦せたれども、衰弱の色は見えず。歸途丘の半腹にて榻上に橫臥すること半晌。對岸スタルンベルヒの人家歷々數ふ可し。
九日。朝雨。家書至る。
十日。晴。步してアムメルランド、アムバハ Ammerland, Ambach に至る。
十一日。晴。湖邊に坐し、書を讀む。
十二日。晴。舟を湖上に泛ぶ。大尉アウグスト、カルヽ August Karl 夫妻及其兒アルベルト Albert と相識る。夫人は明色の人にして、身の長余より一岌高きが、順良なる人なり。曾て伊國に遊びしことなどありて、談話いと面白し。殊に話ヱネチヤ Venezia に及びしときは、稱揚口を絕たず。余書中にて讀みしことを擧げて之に質すに、答ふる所鑿々として據あり。アルベルト Albert は余に馴れ、余と相逢ふ每に、延いて母の許に至る。曰く。盍ぞ又伊太利の事を話せざるやと。大尉は此日ミユンヘンに歸れど、妻と兒とは猶レオニイ Leoni に留ると云ふ。客舍は余と同じ。
十三日。晴。日本家屋論第二稿略〻整頓す。
十四日。加藤歸府の報あり。駁
十五日。風雨。冷甚し。
十六日。雨。アルベルト母とミユンヘンに歸る。相訪問する約あり。居はシユワアンタアレル街にて余が家を距ること遠からず。
十七日。晴。昨日の雨にて客多く去りし故、此朝食堂に入りしときは、余と一婦人其侍婢と三人のみなり。婦人は中尉の妻にて貴族なりと人の云ふを聞きしが、此時余に詞を掛けたり。名はドオリス、フオン、ヴヨオドケ Doris von Woedtke とて、家はミユンヘン府ゼンドリング門逵 Sendlingsthorplatz に在りとぞ。余に借すに稗史數卷を以てす。曰く歸府の後返されんも可なりと。
十八日。陰。ミユンヘン府に歸る。
十九日。朝加藤照麿、石川千代松と余が歸府を聞きて來り訪ふ。共に「コロツセウム」Colosseum に至る。石川は動物博士なり。快活にして田中正平の風あり。
二十一日。夜加藤余を伴ひて曲馬塲に至る。ベルンハルヂイネ Bernhardine Nicolaisen といふ少女、技は甚だ拙けれども、年齒十五六、嬌姿人を惱ませり。
二十三日。又コペルニツク Copernik に逢ふ。
二十四日。加藤と設色偶人を看る。(Chromoplastisches Panorama.) 基督磔刑の狀を摸す。淺草奧山の活人形に劣るとも勝ることなし。一笑して出づ。
二十五日。谷口謙伯靈に到ると報ず。その受くる所の學資は余の額に比すれば頗る多しとぞ。
二十六日。午餐後シユワアンタアレル街を散步す。アルベルトに邂逅す。
二十七日。巌佐新瑞西より歸る。
二十八日。岩佐と加藤の家に晚餐す。
二十九日。濱田ストラアスブルク Strassburg より來る。ヰンケル Winckel に從ひて婦人科を修むるなり。濱田は老成人にて、絕て吾輩諸生の態度なし。
三十日。加藤居をゼンドリング門逵 (9. I. 1.) に遷す。新居の窓前は噴水空に迸り、綠樹日を蔽ふ。眞に奇景なり。
十月一日。夜原田直二郞マリイとコツヘル Kochel より、レエマン伯林より歸る。
二日。朝レエマンを訪ふ。曰く。明後日は試驗室を開かんと。ロオトの書至る。曰く。君の日本軍醫部編成の記及患者統計表は萬國軍醫事業進步年報中に收めたり。同書一部及謝金二十七麻は次便に送致せん云々。
三日。日曜日なるが上に所謂十月祭 Oktoberfestなるを以て、余が芻街の僑居の邊は、雜沓甚し。祭場はテレジア牧なり。競馬自轉車の競走等あり。其他雜伎を奏し、奇獸を眎すなど、往時神田の防火地の景况と殆ど相同じ。甚しきは人魚と名け、裸婦人を見するに至る。水虎の見せもの、復た何ぞ撰ばん。競馬のときは王族皆來り觀る。車駕の祭塲に至るとき、街側の甃道 Trottoirs に待ち受けたる人は云ふも更なり、兩側の家は皆窓を開き、車を望みて萬歲と呼ぶ。王族左右を顧みて答禮す。慇懃甚し。此日祭塲にては全牛を煮たり。是も祭式に屬する由なり。
四日。河本來る。伴ひて酒店「シユニヨル」Schnoell に至る。太陽街 Sonnenstrasse に在り。婢ケエチイ Kaethi 頗る姿色あり。曾て岩佐と相識る。
五日。河本去る。
六日。井上巽軒來る。瑞西行の歸途なり。又「シユニヨル」に飮む。詩文を談ず。
七日。夜井上を伴ひて劇を觀る。演する所を餐菫者 Veilchenfresser とす。獨軍尉官の狀態を摸寫す。頗る興あり。
九日。原田を訪ふ。その作る所のミツテンワルド及コツヘルの圖を觀る。近衞老公、岩佐、濱田等の肖像半ば成れるものあり。
十三日。ヰルケ Wilke 索遜より至る。ヰルケは現に來責府病院にありてチイルシユ Tiersch の助手たり。今將にチロオル Tirol に遊ばんとす。來りて余を訪ふなり。夜俱に「コロツセウム」Colosseum に至る。高絙伎等を見る。三兒あり。木琴 Xylophon を奏す。其最幼なる者は約三四歲。頗る奇とす可し。
十四日。ヰルケ去る。
十五日。英人演する所の所謂日本劇を觀る。題して御門 Mikado と云ふ。役名などは皆支那人の名に類す。一美人の名をユムユム Yum-Yum と稱するにて、其一斑を窺ふ可し。然れども衣飾器物は皆眞の日本品なり。「宮さん〳〵お馬の前にひら〳〵するのはなんぢやいなとことんやれ〳〵な」又は「おゝさびつくりしやつくりと」などの歌を唱ふ。ピツチイ、シング Pitti-Sing と云ふ役を勤むる少女フオルステル Kathi Forster と云ふもの日本服の着けかた殊に良しなどゝ同學中の評あり。
二十一日。ヰルケ又來る。チロオルより歸るなり。夜伴ひてバムベルヒ客舍 Bamberger Hof に至る。滑稽連 Komikergesellschaft の「ヱルシユ」Welsch と名くる者を觀る。卑俚甚し。聲妓中一人は曾て咖啡店にて瞥見したる私窩兒なり。他は推知す可し。
二十二日。ヰルケ去る。
二十三日。天氣好し。土曜日。午後加藤、原田、濱田、岩佐と會す。加藤の發意にてスタルンベルヒ湖に遊ぶ。舊酒亭をレオニイ村に訪ふ。秋色滿目、墜葉路を蔽ひ、夏日の綺羅塲と同じとは思はれず。蓬頭荊釵の主婦出でゝ余を迎ふ。曰く。「ドクトル」復た來れりと。纔に前遊の夢幻に非るを悟る。
二十八日。レンク Renk に誘はれ、府の樂堂「オデオン」Odeon に至り、新設の照夜及換氣法の利害を試驗す。夜家に歸る。家書に接す。
三十日。旗亭「シユニヨル」の主人「フラウエンキルヘ」Frauenkirche の側なる家に轉徏す。久く日本人喫餐の處に定まり居りしに、今他處に轉ずるは何とやら不快なる心地す。人々ケエテに別るゝを傷むも可笑し。
三十一日。大尉カルヽの子アルベルト加藤の家主シヤウムベルヒ Schaumberg の子オツトオ、リイゼ Otto, Lise 等を伴ひて「パノプチイクム」Panopticum を觀る。蠟偶の見せ物なり。帝王后妃名士佳人を摸す。詩人シエツフエル Joseph von Scheffel の像の如きは、人をして其風采を想見せしむるに足る。
十一月一日。中濱東一郞來責府より至る。余とペツテンコオフエル師の試驗塲を分つ。
三日。在模拿姑府邦人と會す。天長節を祝するなり。會塲を龍動市舘 Hôtel Stadt London と爲す。卽ちシユニヨルの新旗亭なり。助敎授シユワアゲル Schwager 氏花卉一瓶を寄す。
七日。諸氏と寫影す。天長節宴の餘興なり。
九日。夜中濱とイザアル河畔を步す。月色絕好。
十三日。丹波敬三ブダペスト Budapest に往きし歸途此に立ち寄り、此日土曜日に當るを以て、余等を誘ひてレオニイに遊ぶ。汽車のスタルンベルヒに達するや、馬車二輛を雇ひ、湖を環りてレオニイに至る。酒を呼びて興を盡し、此に泊す。
十四日。朝レオニイ客舍に在りて夢醒む。同行者皆眠る。余咖啡一盞を喫し畢り、步してロツトマン丘の左なる小寺院に至る。避暑遊の時未だ見るに及ばざりしを以てなり。右邊亞爾伯山を望む。曙光と相映じ、其美言はん方なし。午時舟を命じて歸る。諸氏は猶午後の興を失はじとて留れり。丹波余を送りて馬頭に至る。舟の遠かるを見、手巾を振ひて別意を表す。忽ち足を失して水中に墜つ。幸にして水淺く、傷くこと無かりき。
十六日。中澤氏伯林より來る。應用化學を修む。撞球戲の妙手なり。
十七日。家書至る。
十八日。雪ふる。夜中澤と「グリユウンワルド」客舘に會す。栗を喫す。煨栗は冬時盛に之を賣る。賣る者は皆伊太利人なり。栗を君 Maroni, Signore の聲街に滿つ。
二十一日。大尉カルヽの家に午餐す。夜ヲルフ Wolf の旗亭に會す。原田直二郞を送るなり。愛妾マリイも亦た侍す。原田の遺子を妊めり。
二十二日。午前七時十五分原田を送りて停車塲に至る。原田は瑞西を經て伊太利に赴き、佛蘭西より舟に上ると云ふ。
二十九日。家書至る。レエマン余に代りて余が亞兒箇兒に關する試驗の成績を形貌學及生理學會 Gesellschaft fuer Morphologie und Physiologie に演す。大に緖家の喝采を博せり。
十二月四日。三宅醫科大學長此府に着す。
六日。三宅余等の試驗塲に來る。ペツテンコオフエル師と語る。
七日。大尉カルヽを訪ふ。
十二日。三宅を送りて停車塲に至る。羅馬府に赴く心算なりといふ。
十六日。ミシエル、レヰイ Michel Lévy 著す所の衞生書 Traité d'hygiène 巴里より至る。是れ余が佛國醫籍を購ふ初なり。故に記す。
十七日。ペツテンコオフエル師余を招く。是より先き余駁拏烏蔄論を作る。ナウマンが普通新聞 Allgemeine Zeitung に投じたる一文章日本聯島の地と民と Land und Leute der japanischen Inselkette 及其の民顯府人類學會 Anthropologische Gesellschaft (リユウジンゲル Ruedinger 之に長たり) に演したる日本論に向ひて一攻擊を試みたるなり。ナウマンの文辞は彼德停府地學會の祭日に演したる一篇と大同小異にて、獨逸の諸府何處にか渠が此妄言を擅にせざりし所あらん。最後に其口舌のみにては飽かず思ひて、遂に獨逸語を操る學問社會に貴重せらるゝ普通新聞 (此新聞の價値は先月瑞西國チユウリヒ府に歿したる諷世嘲俗に名ある文士シエル Johannes Scherr が終焉に近き日まで之を病牀に讀ませて聞きしにても明ならん) に揭錄せしめたりしは、憎む可き事といふべし。余が駁文をば一友人に筆削せしめ、之をペツテンコオフエル師の許に託し置き、閑ある時に一覽し、若し可とせられなば、之を其友人たる普通新聞の編緝者ブラウン Braun に送られんことを請ひしに、此日同君余を招き、一書翰を手にし、余を呼びて曰く。君の駁論は已に閱したり。君自ら此稿と此翰とを携へて編緝局に至るを可とす。ブラウンも亦奇なる文士と相識るを喜ぶなるべし。余が書は君に慝す可きに非ず。請ふらくば余が讀むを聽けと。其文の大意に謂へらく。森學士は我衞生學敎室の同人 Mitarbeiter なり。貴局新聞に記載せるナウマン氏の文を讀みて、太く其實に悖るを僧み、駁文一篇を草す。森君は獨り醫學及他の自然學の敎育を受けたるのみならず、其內外の書籍を讀み、古今の事蹟に通じたるは、其文に徵して明たり。羅甸の諺に謂はずや。訟を斷ずる人は原吿被吿の双方を聞くに非では不可なりと。君若しナウマンの文を編錄して、森君の文を容れざらん乎。恐らくば君が平生の言に違はん。僕想ふに此の如き愛國者ある國 (das Land, wo ein so warmes Herz fuer ihn schlaegt) はナウマンの杞憂の如く顚覆滅亡する憂なからんとなり。讀み了りて余が稿を出し、其自ら添削せる處を示し、余が同意を表するを待ちて、稿と書とを余に渡して曰く。渠の許に往け。君の此擧は甚だ善し Gehen Sie zu ihm ! Das haben Sie gut gemacht. といへり。師は多言せず。然れども其文飾せざる數語は能く人の心肝に銘ず。余好意を謝し、辞して試驗室を出で、シユワンタアレル街七十一號なる編緝局に至る。ブラウンを見る。ブラウン名はオツトオ Otto 一の肥胖翁なり。明色の鬚髯其方面を繞る。余が稿本と標目と師の書狀とを見る。曰君自ら之を草せるや。曰然り。曰ナウマンは現に民顯府に在り。君渠と相識るや。曰曾て其面を識る。未だ其人と爲りを詳にせず。曰ナウマンの文は大に吾曹の意に適せり。果して實に乖く者ありや。曰一にして足らず。曰十四日內には君の文を揭載する好機會あらん。校合は君自ら之に任ずるや。曰諾。余は宿所を記したる名刺を留め、再會を約して歸れり。嗚呼彼の日本癖あるロオトすら、ナウマンの演說を聞き、余が之に服せざる故を解せざりき。ブラウンの未だ余を識らず、未だ余が稿を閱せずして之を疑ふ意あるは、盖し怪むに足らず。
十八日。午前伻新聞社より來る。既に全文を印刷せり。想ふにブラウン余が歸後に稿本を翻閱し、其意を翻したるなる可し。余直ちに校合して返附す。午後一時ペツテンコオフエル師の招宴にシユライヒ酒店 Restauration Schleich に赴く。師の夫人及レンクの妻を宴に與る二女子とす。余が坐は師の夫人の左にして、レンクの妻と相對す。來客には師の部屬の助敎授輩と中濱東一郞とあり。師起ちて演說す。荊妻と余とは每歲尾に我事業を輔翼し、余と喜憂を共にする諸彥を會し、粗餐を供するを以て快樂とせり。今茲の會は別に一事の賀す可きあり。是れ諸彥の熟知する所なり。(レンクの妻を斜視す。其新婚を慶するなり。) 又一の言ふ可き事あり。今余と喜憂を共にする諸彥を見るにつけ、曾て余と喜憂を共にして今在らざる人々こそなつかしけれ。卽ちソイカ、ヲルフヒユウゲル Wolffhuegel 緖方の諸彥是なり。此會や宜く舊誼を懷ひ新交を渥うし、共に眞成なる衞生學の進步を謀ることを忘るゝこと無かるべし云々。レンク余等に代りて答ふ。午後三時散會す。師の所謂喜憂を同じうするものは吾これを知れり。師は老いたり。そのコツホと論鋒を交ふるや、時に强弩の餘勢に似たるものあり。吾黨の此人を欽慕し來りて敎を請ふを見ては、師の心中盖し空谷跫音の念あるならん。
十九日 (日曜)。加藤の家に夜會あり。小艾の善く歌ふ者を召して伎を奏せしむ。往觀を約して果さず。濱田曰く。菊池軍醫ストラアスブルクに來りて書を寄すと。三浦伯靈より書を寄す。家に送るべき物あらば速に其僑居に搬致せしめよと云ふ。書を作りて其好意を謝す。
二十日。午前十時レンク氏余等を伴ひて郭外ハイドハウゼン Heidhausen の人工酪製造所に至る。原料は牛脂、牛乳、油、及塩なり。副產物を硬脂とす。壓搾して人工酪と分つ。味は甚だ美ならず。然れども必ずしも厭嫌す可きに非ず。北獨逸と英吉利とに輸送し、工人の食に供すと云ふ。塩を混じたるを以て、筐裡に藏すれば半歲味を變ぜずとぞ。歸途中濱と郭外の小酒店に午餐す。市內の半價にて飽まで食ふことを得たり。其の珍膳に非ざるは言はでも明なり。然れども一皿の米粒肉汁、一大塊の牡牛肉、蒸餅及牛酪は滋養には餘あり。店を出でゝマクシミリヤン橋上よりイザアルの下流を望む。稠霧枯林を鎖し、深綠の水其間を流るゝさま、一幅の書圖の若し。寒を忍びて佇立する者多時。カルヽ門 Karlsthor を過ぐ。一少女ありて後より余を呼ぶ。顧視すれば嘗てフインステルワルデルの咖啡店にありて日本人を品評したるアンナなり。曰く今カルヽ門骨喜店 Café Karlsthor に在り。請ふらくは暇時來り訪へと。夜染匠濠 Faerbergraben なる鹿號釀屋 Hirschbraeuhaus に往き、民政會 Demokratischer Verein の演說を聞く。家に歸りて家書に接す。
二十一日。午後三時レンク余等を導きて製粉處 Kunstmuehle に至る。壯大なること德停府のものに讓らず。水力もて全機關を運轉す。
二十二日。三宅伊太利より歸る。「グリユウンワルド」客舘に會す。三宅曰く。フイレンチエ Firenze 大學の衞生部はその觀象裝置未だ必ずしも民顯のものに劣らずと。
二十三日。濱田來り訪ふ。此日試驗室を鎖す。
二十四日。大尉カルヽの家に晚餐す。基督木 Christbaum に火を點したるを見る。燐寸插み一箇を贈らる。
二十五日。ロオトの書至る。叙勳のことを述ぶ。又余が曾て十月の半ばに印刷して送寄せし日本兵食論 (Archiv fuer Hygiene Bd. V) の事を言ふ。三宅訪はる。所謂
二十六日。三宅去る。
二十八日。家書至る。
二十九日。駁拏烏蔄の文新聞 (№ 360) に出づ。惜む可し冒頭に校合の行き屆かぬ所あり。されど議論の主とする所にあらねば、只ゞ書狀もて編輯局まで言ひやりしのみ。是は他日ナウマンの辨駁を受くべきを慮りてなり。レエマンの余が試驗に就きての演說醫事週報 Muenchener medicinische Wochenschrift № 51) に出づ。
明治二十年一月一日。午前零時加藤、岩佐、中濱及濱田の四氏と英骨喜店 Café l'Anglais の舞踏會に在りて、「プンシユ」酒 Punsch の盃を擧げ、新年を祝す。二時家に歸りて眠に就く。新年の祝詞には師父、軍醫總監ロツツベツク及大尉カルヽの家を巡りたり。橫山子來り訪ふ。此人は依然日本風なり。
二日。軍醫正キヨルチング Koerting 遙にハムブルクより書を寄す。其昇進して聯隊醫となれるを報じ、且曰く。此埠頭に來りて復た隊醫と爲るに意なき歟と。
十一日。昨日と今日との新聞 (№ 10, 11, 1887) にナウマン長文を作りて攻擊を試む。尤も笑ふ可きは日本顚覆の一段を筆記者の誤となして抹却し去らんと欲する一事なり。何ぞ其れ怯なるや。余駁拏烏蔄文第二篇を作る。師の閱を乞ふ。
十九日。ロオトの書至る。余が生誕を賀するなり。師と拜焉聯合銀行 Bayerische Vereinsbank に至り、其電氣燈及換氣裝置を覽る。
二十一日。ロツツベツクの舞踏會に招かる。細故あり行くこと能はず。
二十三日。自轉車俱樂部 Bicycle-Club 舞踏會を中央廳 Centralsaele に開く。余も亦與る。アルヌルフ王 Prinz Arnulf 余と語る。「スタアツラアト」Staatsrath 某、宮延攻玉匠 Hofjuwelier 等の女會長某と席を同うす。余も此に至りて同く飮む。
三十日。石黑氏の書至る。日本にて歐風流行の事を述ぶ。婦人の服は善く云へば孔雀、惡く言へば洋墨壺に似たりといふ語あり。
三十一日。頃日は寒溫遷移の時にて一周に一度程つゝ雪ふることあり。されど積ることは絕て無し。
二月二日。家書至る。封中阿篤阿君阿潤の寫影に接す。
十三日。拜焉國軍醫總監の夫人アンナ Anna von Lotzbeck の招に應じ、小兒假面舞會 Kindermaskenfest に赴く。法皇公使 Nuncius と會塲に相見る。此人は方今政治社會に名高し。此改年の頃より歐洲大陸の人心は恟々として、開戰の布吿あるを今日か明日かと待つさまなりき。東はブルガリヤ Bulgarien の事に關して、魯澳の間穩ならず、西は佛國兵備を盛にして陸軍卿ブウランジエエ Boulanger の徒陽に平和を說き、暗に獨乙の隙を窺ふ。されば獨乙の國會はビスマルク Bismarck を主として、平時兵員を增す議を唱へしに、反政府黨の領袖たるヰンドホルスト Windthorst は認めて必要ならずと做し、爭論數日に亘り、遂に反政府黨多數を占めたり。是に於いてビスマルクは維廉帝の詔を議堂に朗誦して國會を解散せり。是れ一月十四日のことなり。此時に當りて、羅馬法皇はビスマルクと氣息相通ずる人なる故、僧官ヤコビイニイ Cardinal Jacobini をして書を作りて在民顯府の公使ピエトロ Pietro に寄せしめ、加特力敎徒のビスマルクの議に從はんことを謀れり。余の相見たるは此書を受けたる公使なり。要するに法皇はビスマルク手中の一木偶に過ぎず。而して公使は此木偶に役せらるゝ木偶とやいふべき。
十九日。軍人舞踏會 Veteranenball に西端廳 Westendhalle に赴く。
二十日。夫人アンナを訪ふ。
二十六日。加藤照麿の維納に之くを送りて停車塲に至る。人々その去るを惜しめり。
三月十一日。一等軍醫ヱエベル Weber 余を誘ひて郭外なる「ツアツヘル」釀窖 Zacherlkeller に至る。舊大學生等國帝誕辰の前此預祝を爲すなり。此窖は特種の麥酒 (Salvatorbier 一名 Zacherlbier) に名あり。堂は綠葉もて飾り、一隅に帝王の胸像を置く。來客は六百人許。酒酣にして一人起ちて壽頌を演ぶ。維廉の功業を贊する處に至りては、外人も亦仰慕の情なきこと能はず。夜半家に歸る。雪甚し。
十九日 (土曜)。劇を觀る。
二十五日。橫山又二郞とヒルト Hirth を訪ふ。此人財巨萬を累ぬ。所謂東洋癖ありて、好みて日域の骨董書畫を聚む。家屋の結構壯大偉麗なること民顯府中其比なし。來り觀る者日に數十人。余等の應接所に入るや、既に五六の客あり。男女打ち雜れり。主余等を延いて諸室を見す。家凡そ三層、層々奇境を開く。人をして驚歎せしむ。日本の刀槍甲冑を以て壁を飾る具と爲す。奇と謂ふ可し。一女客柄鏡 Lorgnette を手にし、嬌聲を發して曰く。美なる哉。此の如き粧飾は天才あるにあらでは成就せざるべしと。余を以て之を觀れば唯〻錢のみ。何ぞ天才を要せん。余主人と語ること霎時のみ。未だ其平生を審にせず。惟ふに凡庸の人ならん。家書至る。陸軍々醫學校落成の事を報ぜらる。高等女黌舞踏會の景况一讀解頤す。飯島は靚粧の美人を撰み、穗積は弊衣の醜婦を擇む云々。孰れも交際法に達する者と謂ふ可らず。彼は好惡に從ひて己れに克つこと能はざる者歟。然らずば肆意のみ。此は一風にて面白けれど、その擇まるゝ婦は將に嗔りて曰はんとす。渠何ぞ吾を醜として來り要すると。應渠翁中風の事山海萬里を隔てゝ徒に心を傷ましむるのみ。緖方收二郞佳人の奇遇數卷を寄す。大に覊愁を慰む。
四月二日。橫山又二郞と劇を輦下戲園に觀る。男兒のみにては餘りに興なければとて、フアンニイ Fanny Grosshauser と云ふ少女を伴ふことゝなれり。劇はラロンジユ L'Arronge のクラウス學士 Dr. Klaus なり。主人公醫を業とす。一夜婦と少女とを携へて筵に赴く。興酣なるとき僕來りて病家の請を吿ぐ。乃ち之に赴かんと欲す。婦留むれども聽かず。女の曰く。兒盟ひて醫の妻と爲らずと。主人公の曰く。請ふ爺の語を聽け。爺が新婚の初なりき。妻と夜會に赴きしに、席間一貧家の病の劇なるを吿ぐあり。爺新婦の意に悖らんことを恐れ、敢て直に之に應ぜず。席散ずる後先づ婦を家に導き、衣を更めずして病家に至れば、破壁暗燈一童の死したる姉の側に蹲るを見る。床に臨みて審に之を診す。爺が夜會服の領に插みたる白薔薇花忽ち床の下に落つ。童拾ひて唇に當て、憐むべき姉 Arme Schwester ! と呼ぶ。其狀猶目前に在り。爺が汝儕の言に隨はざるも亦故なきに非ずと。言ひ畢りて私に淚を拭ふ。女も亦垂泣す。曰く。兒盟ひて醫の妻と爲らんと。主人公笑ひて女の頭を撫で、癡兒なる哉 Du, ein Naerrchen ! と云ひ、將に席を退かんとするとき幕閉づ。此段最も人を感ず。喝采鳴りも止まざりき。
三日。家書至る。
四日。師と試驗所に語る。余の伯林行に意あるを吿げ、民顯府にて成就したる試驗結果數項を託し、上木の手續を賴み置きたり。(Ueber die diuretische Wirkung des Bieres; Ueber Agrostemma Githago; Ethnographisch-hygienische Studie ueber die Wohnhaeuser der Nipponer; Experimentelle Untersuchungen ueber die giftige Wirkung des Anilindampfes.) 午后岩佐と英吉利公苑を逍遥す。其新居を訪ふ。
五日。午後濱田、中濱、岩佐とグロオスヘツセルロオヘに至る。足をイザアルの流に濯ふ。新鮮牛乳一椀を喫して歸る。
九日。軍醫學上新著の要項一卷稿成る。石黑氏に郵致す。
十一日。中濱、濱田、岩佐とスタルンベルヒ湖に泛ぶ。
十二日。伊太利國醫事新報至る。余が兵食論を登載す。
十四日。師父軍醫總監及大尉カルヽの諸家を訪ひて吿別す。師父偶〻アウグスブルク Augsburg に在りて逢はず。
十五日。午前仲濱に逢ふ。別を吿ぐ。
- 萬里離家一笈輕。鄕人相遇若爲情。今朝吿別僧都酒。泣向春風落羽城。〈自注。民顯府之名。自僧字出。(monacus) 有名于麥酒。伯林古語。(perlin) 脱落羽毛之義。舊時土人牧牛羊於此。〉
又別に臨みて詩を舞師某の筆跡帖に題す。
- 踏舞歌應囑
- 雕堂平若鏡。電燈粲放光。千姬鬪嬌艶。濃抹又淡妝。
- 須臾玲瓏天樂起。凌波女伴駕雲郞。錦靴移步諧淸曲。
- 双々對舞擬鴛鴦。中有東海萬里客。黑袍素襟威貌揚。
- 風流豈讓碧瞳子。輕擁彼美試飛翔。金髮掩乱不遑整。
- 汗透羅衣軟玉香。曲罷不忍輙相別。携手細語興味長。
- 知否佳人寸眸銳。早認日人錦繡膓。君不見詩譏屢舞不譏舞。君子亦登踏舞塲。
午後六時五十五分汽車民顯府を發す。
十五日。民顯府を發し、普國伯林府に赴く。ロオベルト、コツホ Robert Koch に從ひて細有機物學を修めんと欲するなり。發車塲に來りて余を送る者を橫山又二郞と爲す。他人は余が發程の時刻を知らず。葢し國內を往返するに必ず之を送迎するは素と無益に屬す。余故に諸人に報ぜず。車已に發す。乍ち車室內奇臭あるを認む。同室の婦人の曰く。此れ死鼠の臭なりと。榻下を索む。見る所なし。余の曰く。臭褐色炭を焚くに似たり。恐らくは車燈の瓦斯の導管の罅隙より洩出するならんと。起ちて燈火を掩へる硝子鐘の周匝を嗅ぐ。果して鐘の一側臭尤も甚しきを覺ゆ。停車塲に達して室を換へんことを請ふ。空室なきを以て應ぜず。窓戶を啓けば婦人寒に耐へずと訴ふ。窮困比なし。ニユルンベルヒ Nuernberg に至りて他室に遷ることを得たり。然れども室內立錐の地なし。終夜眠らず。
十六日。午時伯林府に達す。トヨツプフエル客舘 Toepfer's Hôtel に投ず。午後公使舘に至りて來府の由を陳す。晚與倉某と食堂に相逢ふ。與倉は獸醫なり。曰ふ曾て米に學ぶと。
十七日。谷口謙の居を訪ふ。名倉幸作と其居を同うす。名倉は知文の子三等軍醫なり。相伴ひて獸苑 Thiergarten に至り、凱旋塔に登る。四方皆家人烟濛々、塔の西卽ち苑なり。林木の芽を放つを見る。東皇の駕將に至らんとするを知るなり。
十八日。谷口と乃木川上兩少將を其客舘に訪ふ。伊地
十九日。會計監督野田豁通を訪ふ。晚隈川宗雄に谷口の家に逢ふ。
二十日。北里余を誘ひてコツホ Koch を見る。從學の約を結ぶ。大陸骨喜店 Café Continental に至る。南米の人ペニヤ、イ、フエルナンデス Peña y Fernandes に邂逅す。德停府交遊中の一人なり。亦コツホに學ぶ。
二十一日。龜井子を訪ふ。楠秀太郞と相識る。龜井子は瘦癯、顏色蒼然、人をして寒心せしむ。家人寄する所の寢衣を出して余に授く。余問ひて曰く。既に良師を得たまふや否。曰未だし。曰之を得るに意ありや。曰未だ思ひ到らず。曰航西なされしは何故なるか。曰く美學 Aesthetik を修むるなり。曰僕の識る所ミユルレル Mueller といふ者あり。獨乙語の師と爲すに宜し。君意あらば此人をして君を訪はしめんと。辞して歸る。午後武島務を訪ふ。三等軍醫なり。
二十二日。靑山胤通を訪ふ。龜井子訪はる。
二十三日。ミユルレルを訪ふ。龜井子の家に赴き、語學の事を談ぜんことを請ふ。
二十四日。ミユルレル至る。曰く。今朝龜井子の家に行きしが在らざりき。余老衰屢〻行くことを欲せず。願くは君龜井子をして余を訪はしめよと。余諾す。ロオト氏年報材料の稿成る。寄送す。
二十五日。警察署に至り、滯府の事を陳ず。山根大尉と語る。石黑氏の書至る。夜武島誕辰の祝宴に赴く。
二十六日。隈川宗雄來る。伊太利酒店に至りて晚餐す。隈川は當今此に在る醫生中最も學問に志ある者の如し。
二十七日。家書至る。
二十九日。島田を訪ふ。小倉、妻木、加治等在り。小倉は自ら政治學を修むと稱する少年なり。妻木は建築家、加治は畫工なり。
三十日。夜隈川の家にて日本料理を喫す。
五月一日。野田豁通を訪ひて逢はず。
二日。菌學月會始まる。フランク Frank とフレンケル Fraenkel と講師たり。此日レンク Renk に大學衞生部に逢ふ。レンク素とペツテンコオフエル師の助手たり。今ヲルフヒユウゲルに代りて衞生衙門內の一地位を占む。
六日。石坂の書至る。
七日。靑山、佐藤(三吉)二氏の歸途に上るを送らんとて、「クレツテ」Klette と云ふ洒店 (Karlstrasse) に會す。
八日(日曜)。午后ルイイゼ街 Louisenstrasse を逍遥す。偶〻ロオト Roth の車に上るを見る。其伯林に在るを知るなり。日暮谷口とロオトを其客舍に訪ふ。年報の事を話す。
十二日。石黑渡來の密報來る。途にゴレビエウスキイ Golebiewsky に逢ふ。元と索遜の軍醫たり。譾劣浮薄にして祿を失ふ。今伯林に開業す。
十三日。靑山を送りて佛特力街停車塲に至る。
十四日。家書至る。
二十四日。コツホ師諸生を導きてストララウ Stralau に至る。水道の源を觀る。余北里、隈川等と與る。歸途ルムメルスブルヒ Rummelsburg に至る。地小湖に枕む。景致愛す可し。一群の遊人あり。男女相半す。迷藏の戲を爲す。傍若無人。余儕呆然たり。
二十五日。夜菌學講習生議してフランク、フレンケルの二講師を ミユンヘン釀屋 Muenchenerbraeu (Franzoesische Strasse) に招き、饗應す。
二十七日。菌學月會局を結ぶ。コツホ師の衞生試驗所に入る。
二十八日(土曜)。午後加治とクレツプス氏珈琲店 Café Krebs (Neue Wilhelmstrasse) に至る。美人多し。云ふ賣笑婦なりと。一少女ありて魯人ツルゲネエフ Turgenieff の說部を識る。奇とす可し。
二十九日。始て大和會に臨む。大和會は在獨逸日本人を以て組織す。小松原英太郞等幹事たり。每月最尾の日曜日に之を開く。麥酒を喫し、新聞を讀みて逍遣するのみ。福島大尉頃ろ此に至る。亦臨む。福島は公使舘附の士官にして、在獨逸陸軍留學生取締の命を帶ぶ。余も亦取り締まらるる一人なり。
三十日。家書に接す。小池の譯する所の日本の實事の日々新聞に載せられたるを見る。
三十一日。コツホ師實驗の題目を授く。夜乃木、川上兩少將の家に會す。小松宮を始とし、伯林に滯在せる武官畢く集る。麥酒葡萄酒茶菓等の饗あり。今より每月第二の日曜日を以て此に會すべき約を爲す。
六月一日。南人の夢にだに知らざる長日短夜の時節は來りぬ。窓に倚りて衣を縫ふ貧婦は燈油を省くを喜び、午夜に旗亭を出る醉客は街頭の竿燈を見て無用の長物なりと罵るも可笑し。頃日專ら菌學を修む。北里、隈川の二氏と師の講筵にて出で會ひ、週ごとに一二度郊外に遊ぶより外興あることもなし。
四日。兩氏と壯泉 Gesundbrunnen の一私苑に至る。此日は猶ほ暮天の冷氣身に快からねばにや、遊人いと少し。
七日。夜隈川の家にて日本食を饗せらる。
十二日(日曜)。川上、乃木兩少將の家に會す。
十五日。居を衞生部の傍なる僧房街 Klosterstrasse に轉ず。(№ 97 I bei A. Kaeding; Berlin C.) これに遷るには樣々の故あり。公には衞生部に近きが故なりと云へど、是は必ずしも主たるにあらず。マリイ街の戶主ステルン Stern は寡婦なり。年四十許。其女姪トルウデル Trudel (Gertrud の略稱) と同じく居る。並に浮薄比なく、饒舌にして遊行を好み、常に家裡に安居する程ならば、寧ろ死なんと云へり。されば余が許に來る書狀物品等も、余の在校中は受け取り置く者なく、又來客あれども應ずるものなし。且十七歲のトルウデルの夜我室を訪ひ、臥床に踞して談話する杯、面白からず。二女は固より惡意あるにはあらず。又其謀る所は一目して看破すべし。然れども平生曾て都人士の敎育あるものに接せしことなく、學問に從事する者を呼びて腐儒 Stockgelehrte となし、余を以て其魁首となせり。余はこれを厭ひて囘避したるなり。今の居は府の東隅所謂古伯林 Alt-Berlin に近く、或は惡漢淫婦の巢窟なりといふものあれど、交を比鄰に求むる意なければ、屑とするに足らず。喜ぶ可きは、余が家の新築に係り、宏壯なることなり。友人來り觀て驚歎せざるなし。前街は土瀝靑を敷き、車行聲なく、夜間往來稀なれば、讀書の妨となることもなし。戶主ケエジング料理店を開き居る故、三餐ともに家にて供せしむ。衞生部との距離步程五分時に過ぎず。余復た何をか求ん。
十六日。晚隈川、北里と好眺苑 Bellevue に至る。ゴリビエウスキイの妓を携へて飮むを見る。共に語らず。
二十日。家書至る。
二十六日。夜谷口を訪ふ。谷口の曰く。僕は留學生取締と交際親密なり。既に渠の爲めに一美人を媒すと。
二十八日。早川大尉を訪ふ。櫻桃子を食ひて閑話す。
三十日。龜井子爵余に名刺入一箇を贈る。余其胃病を療す。故に此贈あり。此日北里の曰く。武島務歸朝の命を受く。子之を知るや。曰曾て聞けり。曰島田輩の說く所に依れば、福島の谷口の讒を容れて此命を下しゝ者の若し。君の意何如。石黑の來るに遭はゞ、僕其の果して谷口を信ずるや否を見んと欲す。曰君石黑に對して谷口の事を可否せんは乃ち不可なること莫らんや。曰固より敢てせず。
七月二日。夜龜井子爵の宅を訪ふ。風雨甚し。石黑忠悳氏書をゲヌア Genua より寄す。
十七日。中濱東一郞の電報民顯府より至る。石氏の其地を發するを報ずるなり。停車塲に至りて迎ふ。俱に來る者を子爵松平乘承、田口大學敎授、獨逸人ヂツセ Disse 及北川乙次郞とす。太子客舘 Hôtel Kronprinz に伴ひ行きて投宿せしむ。此日石氏の來るをば谷口にのみ報じて同じく迎へたり。他人は吿ぐるに暇あらざりしなり。
十八日。山口、井口の兩大尉至る。フリイドリヒ、カルヽ岸 (Friedrich Karl Ufer 1. bei Frau Fusch) に僑居す。石氏も亦此に轉ず。
十九日。石氏の爲めに語學の師を雇ふ。例のミユルレル是なり。
二十一日。石氏の爲めに日本政府の赤十字同盟に入る報吿を作る。
二十二日。石氏余等を帝國食店 Restaurant Imperial (Unter den Linden 16) に招き、午餐を供す。
二十三日。伊東侍醫、鈴木愛之助と同じく太子客舘に投宿するを聞きて往いて見る。
二十六日。家書至る。
二十七日。石氏に隨ひて寺庭村 Tempelhof なる第二衞戌病院を觀る。一等軍醫シヤイベ Scheibe 獨國陸軍省の命を受けて石氏の屬員と爲る。病院長ミツヘル A. Michel と相識る。
二十八日。夜龜井子爵の宅を訪ふ。初め子瘧を患ふ。此時全く治す。
三十一日。 ミユルレルの家に晚餐す。
八月二日。伊東侍醫留別の筵に臨む。始て伯林府にて著名なる酒亭「ドレツセル」Dressel (Unter den Linden 50) の料理を味ふ。
三日。朝伊東、鈴木二氏の維納に赴くを送りて停車塲に至る。此日奧靑輔を葬る。淋に罹り、尿浸潤に轉じ、內臟轉移に死す。葬地は癈兵院 Invalidenhaus に近き墓地なり。
四日。軍醫監コオレル von Coler を訪ふ。其夫人と相見る。軍醫監スツツクラアド Stuckrad と話す。
五日。石氏と陸軍省醫務局に至る。コオレル、シヤイベと公事を談ず。谷口も亦與る。午後石氏及谷口と軍醫學校 Friedrich-Wilhelm-Institut を觀る。一等軍醫アメンデ Amende 延接す。
六日。寺庭村に近き輜重廠 Traindepot を觀る。廠は輜重大隊營の側に在り。
七日。石氏谷口及北川と博覽會苑 Ausstellungspark に至り、美術博覽會を觀る。繒畫の部最も觀るべし。自然主義の漸く藝術の境を襲ひ、暗畫法 Dunkelmalerei 衰へて明畫法 Pleinairismus 起ること是なり。今年の會にシユミツト氏 Frau Schmidt von Preuschen といふものあり。此婦人死王 Mors Imperator と題して、死に帝王の形を賦し、これを會に致しつ。會の委員受けず。婦人怒りて獨逸帝に訴ふ。帝慈諭して曰く。朕老いたりと雖、帝王の形せる死の畫を厭ふ心なし。朕が爲に名畫の擯斥せられんことは望む所に非ずと。婦人此手書を以て委員に逼る。委員の曰く。曩に擯斥の理由を明言せざりしものは、卿の婦人たるを以て、敬意を損ぜんことを恐れてなり。余等豈獨り老天子の爲めに憚るものならんや。卿の畫と其着想と藝術の本意に乖きたり。故に受けざるのみと。婦人彌〻怒りて、ライプチヒ街 Leipzigerstrasse の一大厦を借り、其畫を掛けて衆に示す。衆說婦人に左袒せず。就中一新聞あり。婦人を嘲りて曰く。卿の畫は名實並に陋なり。「モルス」(mors) の語は羅甸にして女性なり。之に男性の帝王 (Imperator) と云ふ語を捏合するは笑ふに堪へたり。宜く女帝 (Imperatrix) と改むべし云々。然れども亦婦人を憐みて、博覽會委員の過酷を攻むる者あり。狂言作者ヰルデンブルツフ Wildenbruch 是なり。其主旨に以爲へらく。委員の畫の着想を以て藝術の本意に乖けりとなすは、未だ以て其畫を擯くる理由と爲すに足らず。此の如くならば、委員の偏僻能く藝術の衰頽を致さんと云ふ。
九日。石氏と慈惠院 Charité を巡視す。一等軍醫ゾンメル Sommer 婦人室を監す。昨年の軍醫會にて余と相見たることあり。シヤイベ此日より石氏の許に來りて陸軍醫務を講ず。余と谷口と舌人たり。
十一日。石氏に隨ひて諸官員の宅を訪ふ。
十二日。野田會計監督の許に赴き、獨逸計吏某の軍醫部定額金の事を講ずるを聞く。此講は二三日を費して終るべし。
十三日。家書至る。
十六日。定額金の事を聽き畢る。
十七日。石氏に隨ひてモアビツト Moabit なる市病院を觀る。院長グツトマン Guttmann と話す。口吻俗醫に類す。說く所學理に合はざることあり。花卉を病院內に置きて、其衞生上の利益鴻大なること、特り病者の目を娛ましむるのみならずと云ふが若き、卽是なり。
十九日。石氏と第一衞戍病院を觀る。院はシヤルンホルスト街 Scharnhorststrasse に在り。一等軍醫ヱルネル Werner 引接す。老實の士なり。
二十日。隈川來る。俱に片山國嘉の居を訪ふ。日本食の饗あり。山川の兒亦在り。 ゛
二十三日。名倉幸作伯林を發してヴユルツブルク Wuerzburg に赴く。ロオト索遜より來る。紅海亭 (Restaurant zum rothen Meer; Friedrichstrasse, Rosmarinstrasse Ecke) に會す。曰ふ。直に東普魯西に向ひて發すと。副醫官ブルダハ Burdach の居を訪ふなり。送りて停車塲に至る。別に臨みて新刊年報一部を贈らる。我文を載す。
二十六日。石氏とシヤイベの家に晚餐す。其夫人と相識る。
二十七日。石氏と同居する所の佛國婦人某氏と俱にペルガモン總視畫舘 Pergamon-Panorama を觀る。畫堂は博覽會苑の裡に在り。ペルガモンはスミルナ Smyrna の北、小亞細亞の西岸に在り。昔フイレタイロス Philetairos の都を建つる處なり。オイメネス Eumenes 第二世 (195-159 a. Chr.) 羅馬の民と力を倂せて前小亞細亞を略するに至り、都城の規模漸く大に、其傳統者アツタロス Attalos 第二世の時、風俗文物より百般の工藝に至るまで、其盛を極めたりと云ふ。此府久く埋歿して世人の之を顧みる者なかりしに、千八百六十六年獨逸人フウマン Humann 彫石を發掘し、千八百七十八年發掘の大工事を起し、遂に全府の遺趾をして復た天日の光を被らしむることゝはなれり。畫工はフアブリチウス、ピイチユ Ernst Fabricius, Ludwig Pietsch の二人なり。
二十八日。大倭會に赴く。
二十九日。石氏訪はる。俱に衞生部に至る。
三十日。石氏將に維也納府に行かんとす。予に隨ひ行かんことを命ず。
三十一日。橫山又二郞民顯府より來る。之を停車塲に迎へ、トヨツプフエル客舘に伴ひ、晝餐の後誘ひて金石博物舘に至る。後動物園に入る。
九月一日。石氏と車を同うして獨乙帝の軍を閱するを觀る。
三日。夜小松宮殿下を送る。
四日。石氏を訪ふ。乃木少將に逢ふ。
七日。家書至る。
十三日。山邊丈夫訪はる。逢はず。石君とシヤイベの居を訪ふ。その妻兒と話す。妻はワイセンフエルス Weissenfels 富家の子なり。淳良人に可なり。兒トルウドヘン Trudchen 圓臉慢膚愛す可し。
十四日。民顯府より來れる中濱東一郞と獸苑を散步す。
十五日。旅行の準備を爲す。
十六日。午前八時汽車「アンハルト」停車塲 AnhalterBahnhof を發す。同行者を石君、谷口、田口等とす。 シヤイベ石君を送りて發車塲に至る。ノイニイテンドルフ Neunietendolf に午餐す。偶〻食卓に對坐する白頭翁を見れば、德停府にて相識れる軍醫ベツケル Becker なり。曰く伯林に赴くと。長隧道を經てオオベルホオフ Oberhof に出づ。道チユウリングン Thueringen に入る。山光水色來りて車窓に逼る。夕八時ウユルツブルクに着す。橋本軍醫總監の子春、名倉三等軍醫、舊東京大學生多田某等來り迎ふ。帝王街 Kaiserstrasse なる國民客舘 Hôtel national に投宿す。春余と書を寄せて相慰問すること已に久し。今其人を見る。倜儻愛す可し。石君曰く。綱常君よりは寧ろ左內君に似たりと。
十七日。起ちて客窓を啓けば、城逵 Schlossplatz の苑、綠樹露を帶び、秋花香を吐く。快比なし。
- 今朝山靄入簾來。忽覺豁然枯肺開。囘首北都雲氣暗。石筒林立吐靑煤。
橋本君の居を訪ふ。總監も亦曾て此家に住みきと云ふ。往いてジイボルド Siebold の像を見、宮苑 Hofgarten を步す。古城趾あり。城濠に蜀黍を植ゑたり。新園 Neue Anlage を經て客舍に歸る。午後三時春等と小汽船「コルネリウス」Cornelius 號に上り、マイン Main 河を下り、フアイツヒヨツホハイム Veitshoechheim に至る。岸皆酒山。酒山とは丘陵上の葡萄田なり。
- 酒山狹江起。綠影落淸波。有客涎千尺。何唯遭麴車。
フアイツヒヨツホハイムにて一苑に入る。酒亭ありて憩ふ可し。歸舟日落つ。舷に倚りて瞻望すれば、飛沫面を撲つ。快絕。夜ユリウス逍遥路 Juliuspromenade を步し、僧官ユリウス Bischof Julius の像を見る。ユリウスは耶蘇會徒 Jesuit なり。新敎及猶太敎の民を逐ひ、其產を奪ひて事業を起せり。今の大學も其樹つる所なり。
十八日。午前十時田口と別れ、ヴユルツブルクを發す。四時カルヽスルウエ Karlsruheに着す。カルヽ、フリイドリヒ街 Karl Friedrich Strasse なる日耳曼客舘 Hôtel Germania に投ず。松平乘承の既に此に來れるを聞く。
十九日。主家街 Herrenstrasse (25) なる巴丁救護社 Badischer Hilfsverein に赴く。後軍醫監アイレルト Eilert を訪ふ。逢はず。陸軍病院に之き、醫長ヰンクレル Winkler と話す。醫官チイグレル Medicinalassessor Ziegler を訪ふ。逢はず。
二十日。雨。軍醫監アイレルト救護社の第一議長オツトオ、ザツクス Otto Sachs 來り訪ふ。午餐後谷口と市苑 Stadtgarten を散步す。苑の一部は之を劃して動物檻を設く。四時大臣ツルバン Turban, 軍醫監ホツフマン Hoffmann 及ザツクスの家を訪ふ。
二十一日。一等軍醫ロオス Loos 來り迎ふ。石君谷口と同じく陸軍病院及榴彈卒隊 Grenadier の營を觀る。是より議院 Staendehaus に至り、會議日割表等を受領す。
二十二日。午前赤十字各社委員會 Delegiertencommission を開く。日本赤十字社の代表人たる松平乘承之に赴く。余舌人として隨行す。國際會の議事規則 Geschaefts-Ordnung を議定す。議長伯爵ストルベルヒ Otto Graf zu Stolberg は獨逸中央社長たり。容貌優美、一目して其貴人たるを知る。議員中人の目を注ぐは瑞西萬國社長モアニエエ Moynier, 米婦人バルトン氏 Miss Clara Barton なり。モアニエエは矮軀短首、頭髮頒白、大鼻の中央にして屈折したるさま、國匠畫くところの木葉天狗に髣髴たり。バルトン氏は面色淡黃、雜白の頭髮を中央にて分ち、左右に梳りたり。眼光人を射る。數〻發言して其長處を現はしたるは佛國のエリサン Albert Elissen, 魯國のオオム Geheimer Rath von Oom, 索遜のクリイゲルン von Criegern 等なり。日本委員は別に意見もなきこと故、唯ゞ多敷決などを取るとき、大意を松平君に譯傅し、起立せしむ。歸途一人ありて余等に近く。軀幹魁偉、白頭朱顏、其顱の形雲谷畫の阿羅漢像に似たり。曰く余は和蘭の人ポムペ Pompe van Meerdervoort なり。余の曰く君は新醫學を我日木に輸入したるポムペなる乎。曰く然り。乃ち松本翁健在せり又家君間接に足下の門より出づなどゝ吿げて分る。午後三時石君、谷口と同じく日本政府の代議士として萬國會に臨む。ストルベルヒ議長たり。會員中知名の醫家はロングモオア Sir Thomas Longmore なるべし。長軀瘦面、英人の特相なれども、面容常に笑を帶ぶる處、例の冷淡なる英紳士風と自ら殊なる所あり。紅色の軍服古くして斑なるも面白し。此人軍醫監にして大學敎授を兼ぬ。普國軍醫監コオレル、拜焉國軍醫總監ロツツベツクも亦在り。會傷は議院 Staendehaus なる故、階上には貴族席あり、大侯及夫人臨まる。ストルベルヒ開會演說をなすに當り、特に日本の事を述ぶ。余石君以下に吿げて起立して謝意を表せしむ。又モアニエエ及ロングモオアに石君を引き合はせ、舌人となりて語を交へしむ。夕八時大臣ツルバンの家に招かる。大侯、大侯夫人石君に挨拶あり。余傅譯す。バルトン氏と語る。ツルバン氏の女は紅頰の少艾、客に接すること頗る懇切、余と語ること敷十分時なりき。
二十三日。午前十時臨會。此日防腐療法を軍隊に用ゐることを勸むる議出づ。余日本委員一同に代り、日本陸軍には已に公然此法を用ゐる法則を設け、且其材料を備へたることを報ず。午後二時半カルヽスルウエ擔架團 Karlsruher Krankentraeger Corps の演習を觀る。私社なれども救護者の制服は皇后陛下の親ら定められたる所なりと云ふ。五時三十分大侯宮に赴く。カルヽ王 Prinz Karl 及其夫人 レナアル Graefin von Rénard と語る。レナアルは頗る言辭に善し。多く東洋紀行を讀み、我邦の事に熟す。大侯夫人は石君に對して日本陸軍の防腐療法を普施することの速なるを賞讚す。八時カルヽスルウエ軍醫會にグロオセ氏客舘 Hôtel Grosse に赴く。石君演說す。余傅譯す。此日ブラジリヤ Brasilien 帝ドン、ペドロ Don Pedro に謁す。白頭の老人なり。古言學に邃しと云ふ。伊國人ソンメル Chevalier Guelfo von Sommer と語る。曰く僕君が日本兵食論を譯し、新誌に揭げ、曾て一本を君に寄せたることありと。余偶然相見る喜を叙し、更に今囘維納の會に出さんとて草したる文 (Zur Nahrungsfrage in Japan) 數部を贈る。
二十四日。午前十時臨會。此日ジユネフ國際社各政府の認可を受くることを要する議出づ。ハイデルベルヒ Heidelberg 大學敎授シユルチエ Schulze の國際法上より論究して之を贊成したる演說は大に人聽を驚かせり。普魯西の吏ヘプケ Preussischer Legationstrath Dr. R. Hepke 之を駁す。少く過激なりき。午後二時會塲にてグラスケ敎授 Professor Graske 新彈 (Lorenz's Compound Bullet) の說を演ぶ。新彈は小銃彈の鋼鐵薄皮を被れる者にして、物に中りたる後分裂變形すること稀なり。故に創傷單純にして治し易しといふ。三時造彈廠 Deutsche Metall-Patronen-Fabrik Lorenz に至り、新彈射的試驗を觀る。ロングモオア其夫人と亦來る。七時樂を聚珍會舘 Museums-Gesellschaft に聽く。シエツフエル Scheffel の詩 Lied der Margaretha を唱へたる女優、音調最美、容色も人に超えたり。
二十五日。巴丁巴丁市 Baden-Baden の遊あり。午前十時汽車カルヽスルウエを發し、午時市に達す。卽ち羅馬時代の古市 (Civitas Aurelia aquensis) 是なり。鑛泉全歐に名あり。來り浴する者甚だ衆し。停車塲より馬車にてホオヘンバアデン Hohenbaden の古城に至る。城は高丘の上に在り。第十七世紀佛兵に毀たる。今存ずる所は其外郭なり。其下民家碁布オオス溪 Oosthal 迂囘し、眺望頗美なり。府知事余等を城庭 Schlosshof に迎へ、食を供し、樂を奏す。是より佛特力泉 Friedrichsbad を觀る。ロツツベツク夫人と再會す。夕六時會話廳 Conversationssaal に會す。盛饌を供せらる。前園には十字形の大燈を點す。歸車中ポムペと語る。余等に向ひて曰く。諸君の中森氏の面大に林紀君に似たり。林紀君の倭蘭に在るや、殊に婦人と葛藤を生じ、余をして機外神 Deus ex machina の役を勤めしめたり。森氏の性亦之に類することなき乎と。又曰く。余が日本に在りて行ひたる所は今や只ゞ歷史上價値を存ずるのみ。而れども常時は隨分至難なる境に逢ひしことありと。
二十六日。午前十時臨會。歐洲の諸會は歐洲外の戰あるに臨みて傷病者の救助を爲すべきや否の問出づ。是れ和蘭中央社の出す所にして、眼中唯ゞ歐洲人の殖民地あるを見て發したる倉卒の問なり。余石君の同意を請ひし後曰く。本題は單に歐洲の諸會を以て救助を爲す者と見倣したる問なり。若し決を取るに至らば日本委員は贊否の外に立つべしと。米國委員は默然たり。議論百出して決を取るに至らず。
二十七日。午前十時臨會。前議を繼ぐ。余石君の許可を得て後曰く。日本委員は前日演べたる說を維持す。畢竟本題を國際會に出さんと欲せば、宜く「一大洲の赤十字社は他の大洲の戰に」云々と云ふ如き文に改むべきなり。是れ修正案を提出するには非ず。之を言へば則ち足れり。若し夫れ本題に反對せる塲合卽ち亞細亞外の諸邦に戰あるときは、日本諸社は救助に力を盡すこと必然ならんと思考す。全會壯哉 (Bravo ! ) と呼び、謹聽と呼ぶ。背後の一議員會員簿を閱して曰く。學士森林太郞 (Rintaro Mori, Dr.) なり。大學の科程を經たる者は自ら殊なる所あり云々。ポムペ偶〻書記席より自席に歸る。余が傍を經、余が肩を撫し、一笑して去る。書記の役を勤る佛人エリサン Elissen 來りて演說の草案を請ふ。余素より卽席にて考へたること故草案なし。乃ち此意を述ぶ。曰く高說關係する所甚だ大なり。聞きたる所に依りて記錄せしむべしと。魯國式部官ユセフオヰツチユ von Jusevovitsch, Wirklicher Staatsrath 我說を稱贊す。此人は聖彼得堡の貴人は斯〻るものにやと思ふ程優美なる骨相あり。獨逸人ヱエベル Weber 曰く。本題は未熟なり。宜く次會に廻すべし。又余が說を補足して曰く。某大洲と區分するは現今單に地學上の餘習に止まり、民學上の意味なし。且歐洲外と云ふ中には米國の大なるもあるに非ずや。又歐洲諸會の歐洲外の戰に對する擧動は是れ一の塲合に過ぎず。本會に出すまでもなし云々。遂に本題は次廻に巡すことに決す。ジユネフ盟約を軍隊に知らしむる策を議す。余石君に吿げて日本にてジユネフ盟約に注釋を加へ士卒に頒ちたる報吿をなし、其印本數部を會に示す。全會傾聽す。ユセフオヰツチユ後より指にて余が背に觸て曰く。驚歎々々と。是より會員の日本委員を見ること前日と其趣を殊にせり。此日の議中ジユネフに記念碑を建つることの可否に至り、クネゼベツク von dem Knesebeck, Cabinetsrath の演說喝采を博せり。曰く建碑の議往日一時の熱中に出づ。且ジユネフ諸君の意を推測するに、人心中の記念碑 (ein Monument im Herzen) を重んじ、金石の記念碑をば輕んぜらるゝならんと。遂に否決す。尋いで閉會式あり。此日塲を出でゝ馬車に上る時、石君雙手もて我手を摻りて曰く。感謝々々と。以上記する所の他、石君の起草、余の飜譯にて印刷し、會員に頒ちたる書あり。日本赤十字前紀 (Vorgeschichte des Rothen Kreuzes in Japan) 是なり。石君公報の尾に曰く。忠悳獨逸語に熟せず。佛蘭語の若きは其未だ曾て學ばざる所なり。故に今囘の會谷口謙、森林太郞の補助を得ること多し。會塲にての應答は森林太郞をして負擔せしめたり云々。谷口醉中余に謂て曰く。今囘の會君の盡力多きに居る。僕力の君に及ばざるを知る。然れども僕微りせば誰か能く石黑の爲めに袵席の周旋を爲さんと。午後吿別の訪問を爲す。宮中の夜會に列す。大侯夫人余に向ひて賞詞あり。
二十八日。爽且東洋急行列車 Orient-Express-Zug に乘り、カルヽスルウエを發す。夕に維納府に着し、寵人街 Favoriten-Strasse なる勝利神客舘 Hôtel Victoria に投ず。維納行は石君の日本政府を代表して萬國衞生會に臨まるゝに隨ふなり。同君已に內務省の官僚北里柴三郞、中濱東一郞を派して此府に在り。余と谷口とは私人の格を以て會に臨む。故に維納に滯する間は公務なし。
二十九日。ロオト、コオレル等を「テゲツト」客舍 Tegethof に訪ふ。逢はず。丸山作樂、有賀長雄等と會す。
三十日。朝自著日本食論拾遺 (Zur Nahrungsfrage in Japan) 二百部を國際會記室 Secretariat に送致し、會員に頒たしむ。共中數部は會の閱覽室 Lesezimmer に排列したり。同著には石君の序文あり。中濱北里來る。俱に會に臨む。ペツテンコオフエル、ロオトと語る。ソイカ、シユステル、リヨフレル Soyka, Schuster, Loeffler 等を見る。又始てヲルフヒユウゲル Wolffhuegel を見る。此日松平子爵余等と別れ、「テゲツト」客舍に移る。
十月一日。朝丸山作樂訪はる。石君に對して明治日報社業の事を語る。始て石井南喬の其庶務を管理したるを知る。會に臨む。
二日。棚橋軍次の家に晚餐す。其夫人と相見る。伊東侍醫、有賀文學士等與る。
三日。棚橋石君を延きて陸軍省に至る。余等隨ふ。ホルド少將 von Hold と語る。元帥メルケル von Merkel, Feldmarchall-Lieutenantに謁す。
四日。陸軍病院を觀る。約色弗院 Josephinum の故趾是れなり。軍醫總監ヱンチエル、ホオル Wenzel Hoor 導引す。ヱンチエル、ホオルは澳國政府及陸軍省の派出員として、萬國赤十字會に臨めり。故にカルヽスルウエにて相識る。家書に接す。
五日。馬埓街 Rennweg の步兵營を觀る。聯隊醫官フアウルハアベル Faulhaber 導引す。武庫 Arsenal に隣れる砲兵營を觀る。少將スポンネル Sponner, 大尉ハイシヒ Heissig, 聯隊醫ツオツヘル Zocher を率いて導引す。ツオツヘルは肥胖の老父、喘ぐこと吳牛の如し。
六日。乃木少將の「テゲツト」客舍に在るを聞く。往いて訪ふ。逢はず。楠瀨と語る。
七日。陸軍病院中化學試驗塲及蠟型陳列塲を觀る。
八日。夜九時維訥府を發す。德停にて谷口と別る。谷口はマグデブルク Magdeburg に赴き、棚橋の妻の妹と見合するなり。
九日。日曜午時伯林府に還る。
十日。衞生試驗所にて試驗を始む。
十一日。家書至る。夜龜井を訪ふ。在らず。
十二日。楠秀太郞來る。淸水格亮及龜井家從の書簡を得たり。答書を作りて官郵に附す。
十八日。始て高橋繁と相見る。熊本の人。醫をストラアスブルクに學ぶ。長岡の醫生小林某日本婦人を伴ひて伯林に來り、 トヨツプフエル氏客舘に宿す。日本服を着て此に來り、絕て交を日本人に通ぜず。踪跡頗奇なり。余試に往いて訪ふ。小林曰く。將に來責府に赴き、醫學を修めんとす。婦人篤次郞を識る。曰く。君は千住の森氏の阿兄か。篤次郞君に比するに面長からずと。
十九日。家書至る。
二十日。新聞紙至る。羅馬字雜誌 (第十一册第二十六號) 阿君の文を載す。
二十一日。夜普國軍醫學會に赴く。軍醫監ヱエゲネル Wegener 議長たり。ヱエゲネルは獨逸皇太子の侍醫なり。皇太子喉頭に瘤を生じ、英醫マツケンヂイ Mackenzie 之を療す。ヱエゲネル關らず。世以て慙と爲す。知名の內科醫ライデン Leiden 神經病論 Neuro-Pathologie を講ず。盖し得意の科なり。叙論冗長、人をして欠伸せしむ。面貌は麻木の狀の如し。余心これを怪む。
二十二日。福島の新居を訪ふ。聞く陰疾ありと。谷口の選豈其人を得ざる耶。
二十三日。谷ロマグデブルク Magdeburg に赴く。早川の宴に赴く。兩少將、野田、福島、楠瀨、山根等皆至る。伊地知大尉形而上諭 Metaphysik の事を話す。淺薄笑ふ可し。楠瀨曰く。聞く君曾て金を小倉庄太郞に貸すと。已に淸算せしや。曰く曾て貸したることなし。曰く小倉は君に返すと稱して余に百二十麻を借りたり。所謂小倉庄太郞は兩少將の僕なり。初め獨逸に來り居て、政治學を修むと稱す。面貌俊美、辯口あり。貪窶にして學校に留まること能はず。將官憫みて扶持す。一日余を訪ひて曰く。嘗てチユウビンゲン Thuebingen 大學に在りし時借財あり。今百二十麻を請求せらる。急に之を辨ずるに苦む。君餘裕あらば之を繕へと。余諾す。小倉曰く。此事秘を要す。他言すること勿れ。曰く可なり。後余維納に在り。小倉書を寄せて曰く。聞く君乃木少將と現に維訥に在りと。少將或は君に問ふに僕が借りたる金の事を以てせば、請ふらくは已に返すと吿げよ。敢て請ふと。余書を作りて答へて曰く。貴諭を領す。僕の金を君に授くるや共に他人に吿ぐること無きを誓ふ。僕默然たること魚の如し。將官は果して何人より之を知るか。僕大に之を疑ふ。若し僕をして足下の人と爲りを知らざらしめんか。或は將に疑ひて曰はんとす。小倉金を余に返すと詐り、之を其主に受け、徒然散擲せりと。然れども僕は足下の此事なきを知る。僕今餘資あり。請ふらくは以て念と爲すこと莫れと。歸途兩將官とシルレル骨喜店 Café Schiller に至る。
ニ十四日。フランクを問ふ。逢はず。
二十五日。衞生試驗材料を求めんが爲めに、伯林下水第五放線系統の操作局 Betriebsbureau に至る。局長ゴルドウスキイ Goldowsky と話す。夜石君の家を訪ふ。石君齋藤修一郞及中濱東一郞の事を話す。其一。ジイボルト Siebold 頃ろ伯林に滯す。一日石君を訪ふ。曰く咋夜一咖啡店に入る。日本人を見る。頗る齋藤修一郞君に似たり。頭に紅帽を戴く。帽の前面に一星章を懸く。金色爛然たり。店僮以て日本貴公子と爲す。待遇甚だ渥し。滿塲の人怪みて注視す。一士官の曰く。其の戴く所の帽は魯國騎兵の帽にして、帽前の星章は魯國の某勳章なりと。其人果して齋藤氏乎。其星章果して魯帝授くる所の勳章乎。何ぞ妄用の甚きや。魯帝若之を聞き勳を褫ふことあらば、實に日本の辱なり。其二。中濱の伯林に在るや、石君の家に寄寓す。妓某と狎る。去後妓書を中濱の寓に致す。石君の手に落つ。然れども其の何人に寄するを知らず。衆に問ふ。或は之を知る。敢て吿げざるなり。加藤照麿往いて吿ぐ。石君書を中濱に寄せて之を責む云々。
二十六日。武島務に逢ふ。曾て三等軍醫たり。私費留學す。資金至らず。大に窮す。遂に將に戶主に訴へられんとす。福島之を聞きて歸朝を命ず。石君の至るや、命じて其職を辞せしむ。或は曰く。金に窮するは人々免れざる所なり。其離職に至るは、某の讒に由ると。果して然るや否。務性强梗屈せず。彼名倉幸作兒女態を作す比に非ず。言論慷慨愛す可し。
二十七日。下水喞筒操作所 Pumpstation に至り、操作監ラシユケ Betriebsinspector Paul Laschke の誘導を請ひ、中央屠塲に入り、下水を汲む。以て試驗材料と爲すなり。午後六時石君敎をシヤイベに受く。谷口と余と舌人たり。
二十八日。井上巽軒に逢ふ。巽軒今伯林東洋語學校の敎官たり。ランゲ Lange と俱に日本語を授く。余に贈るに寫影一葉を以てす。
二十九日。大和會に臨む。
三十日。佛語を學ぶ。師をベツク Bernhard Beck (Schmidstrasse № 8) と爲す。ベツク謝金を受けず。余之に授くるに日本語を以てす。是より每日曜日午前相會することを約するなり。夜劇を宮廷戲園 Schauspielhaus に觀る。演する所はシエエクスピイヤ Shakespeare ハムレツト Hamlet なり。
三十一日。ミユルレルを訪ふ。彫工多胡と話す。小倉庄太郞は曾てトユウビンゲンに在り。自ら伯爵某と稱し、日本大藏大臣は我父なりと云ひ、一種の制服を擬造して之を着たり。多胡一日爲換官金四百麻を領取せんことを小倉に托す。未だ小倉の奸詐此の如きを知らざるなり。小倉金を奪ひて與へず云々。
十一月一日。夜圖師崎警官とクレツプス氏骨喜店に會す。
二日。夜高橋繁、井上哲二郞と酒家「クレツテ」に會す。
三日。井上勝之助天長節の宴を公使舘に開く。余正裝之に赴く。領事ヲルフゾオン Wolfsohn, (猶太敎徒なり、或は曰く其女甚美なり)ジイボルト、齋藤修一郞等を見る。龜井子爵亦在り。頗る健全。座間石君乃木に謂て曰く。森子の正服舊製に依る。肩章及腰帶なし。之を谷口の新正服に比すれば甚だ劣れり。故に旅中人谷口を呼びて軍醫正君とし、森を軍醫君とせりと。乃木余に向ひて曰く。然し得なることも有りしならん。余急に答へて曰く。そこ等は油斷なく利用せり。一座大に笑ふ。土方試を受けて落第せることを話す。曰く問題中外國人は養兵の學校に入るを許すべきや否といふものあり。余は外國人なり。此間に答ふること能はず。是れ問者の罪なりと。余私に曰く。果して然らば李斯復た客を逐ふを諫むること能はざるなり。
四日。夜石君の爲めに傅譯す。
五日。小倉來る。罪を謝す。且曰く。巷說眞に非ず。請ふ之を信ずること勿れ。曰く。余も其眞に非ざることを望む者なり。願くは品行を改めて復た他人の口頭に挂らざれ。唯ゞ余に問ふに君の事を以てする者あらば余は知らざるを以て答へんのみ。請ふ憂と爲すこと勿れ。乃ち別る。家書至る。
六日。夜ミユルレルを訪ふ。法理を談ず
七日。午前公使舘に至り、有森と話す。人と爲り慷慨愛す可し。夜一瀨に大和會堂に邂逅す。其人と爲り快活喜ぶ可し。惜むらくは人に傲る癖あるに似たり。皆法家なり。
八日。夜平島、平井等と「クレツテ」に會す。平島は野にして禮儀少く、平井は柔にして氣骨に乏し。亦並に法家なり。
九日。井上巽軒の佛敎耶蘇敎と孰れか優れると云ふ論を聞く。大意謂ふ。佛の如來には人性なし。耶蘇の神に優れり。佛の大乘は因果を說く。而して重きを後身に歸せず。其小乘との差此に在り。耶蘇の未來說に優れり。佛は覺者なり。耶蘇の神子と稱するに優れり云々。余問ひて曰く。今哲學には定論と認むる者なきに似たり何如。曰く凡そ萬有學に根する者は皆今日の哲學なり。其他フエヒネル Fechner の心理 Psychologie, カント Kant の道德 Ethik 皆定論なり。
十日。石君と「クレツテ」に晚餐す。
十一日。夕シヤイベの講あり。武島と逢ふ。
十二日。夜宴を大和會堂に張りて斯波淳六郞の英吉利に之くを送る。席間檜山と法學の事を話す。檜山大にギヨツチンゲン Goettingen のイヘリング Ihering を贊揚す。且曰く。君がナウマンを駁する文をイヘリングに示しゝに、其の偏ならざるを賞したり。宮崎津城も亦此人を敬すること他師に過ぐ。君何ぞ其二三の著を讀まざると。余喜びて諾す。
十三日。夜ミユルレルを訪ふ。
十四日。グツトマンを訪ふ。獨逸醫事週報の編輯長なり。余が在橫濱の米人シモンス Simmons を駁する文を揭載せんことを請ふ。グツトマン直ちに之を諾す。且曰く。曩には北里醫學士あり。我社に文を投ずる約を締べり。君も亦能く我通信員たらん乎。曰く可なり。再會を約して歸る。夜石君を訪ふ。小池正直の書を得たり。石君曰く。足立軍醫正の書來る。橋本軍醫總監の意を承くる者なり。謂ふ。森林太郞の洋行は事務取調を兼ぬ。其歸朝の前必ず一たび隊附醫官の務を取らしむべし。然らずは陸軍省に對して體面惡しからんと。余對へて曰く。林太郞は唯ゞ命令を聞くのみ。意見を陳ず可きに非ず。謹みて諾す。曰く。孰れ福島取締と相談すべしと。家に歸りて小池の書を披く。曰く。老兄は軍隊に附け、谷口は專ら石君の補助とし、事務上の事同君と同じく取調べさせたき局長の心中なり。或は谷口の要求にはあらずや。例の陰險家ゆゑ萬事注意せられよ。うかとするときは毒螫を蒙らん。秘々。往日維納に客たり。谷口醉ふ。余に謂て曰く。僕足下の薦擧に賴りて軍醫本部に入る。遂に航西の命を受くる幸あり。內橋木總監の眷顧を得、外三浦中將の應援ありて能く此に至れりと雖、當初足下の一言亦與りて力あり。僕性忍べり。禍害を人に及ぼすも、其結果の僕の爲めに利あるときは、復た顧慮するに遑あらず。祗ゞ足下に於いては僕欺くに忍びずと。若し小池の推察をして信ならしめん乎。谷口の余を除くに刄を籍らず毒を須ゐず、單ゞこれを遠くるのみなりしは、聊以て前日の友誼に報ずる意ならん。
十五日。午後始て雪ふる。夜大和會堂に至る。
十六日。下水役人ラシユケとグライフスワルド街 Greifswalderstrasse なる屠馬塲に至る。衞生試驗の材料たる汚水を採酌するなり。夜隈川に逢ふ。其日本食試驗を行ふに意あるを聞き、之を贊揚す。
十七日。夜大和會堂に至る。一人を見ず。因りて獨坐莊子を披覽す。午夜家に歸る。
十八日。夜石君を訪ふ。斯波に逢ふ。曰ふ。明夕伯林を發すと。
十九日。夜「ヨスチイ」骨喜店 Café Josty に至る。
二十日。夜ミユルレルを訪ふ。哲二郞も亦至る。東洋語學の事を論ず。後仙賀と話す。日々新聞の通信員なり。經濟學を修む。曰く。獨逸の學士分類立系の癖あり。經濟論中生產消耗の兩章を分つに至る。無益ならずや云々。
二十一日。石君を訪ふ。松平の書維納より至る。谷口の婚成らざるに似たりと。川上少將蛋白尿を患ふるを聞く。
二十二日。家書至る。川上少將を訪ふ。逢はず。
二十三日。家書至る。シヤイベを訪ふ。妻の姪あり。年十六七。可怜の少艾なり。
二十四日。石君報じて曰く。江口軍醫來れり。明晚相會する約あり。子蓋ぞ來らざると。
二十五日。江口と石君の家に會す。伴ひて片山國嘉の家に至る。
二十六日。大和會の例會あり。演說す。その略に曰く。諸君よ。本員は前會散ずる後大海原尙義君と話し、少しく感觸する所あり。後二三君の同意を得て其考案を牢うし、遂に今日諸君の淸聽を煩はすことゝはなれり。余は本會の一弊を發見したり。之を除かば會の盛を致すことを得るならん。此意見を陳ずるに先ちて、用語法上一言すべきことあり。會社、集會、會議、懇親會、皆單に會と曰ふ。その名一なりと雖、其實は相殊なり。大和會の集會には會則に依るに例會と臨時會との別あり。此別は開時の常と非常とより生ず。共性質は一なり。余は此集會に常に二要素ありて相鬪ふを見る。一は懇親會の要素なり。其目的會員相集りて盟を踐み歡を竭すに在り。二は會議の要素なり。會あれば會務を生ず。內會則に依りて秩序を整へ、外國法を守りて位置を堅うす。會員の進退、會費の出納、皆これに屬す。事務の決行には會議を要す。この二つの者、彼は逸して此は勞す。彼は論談を嫌ひ、他人の演說中飮啖し、私語又は高談し、席を離れ角觝するに至る。此は彼の反對者に妨げられ、意見透徹せず、或は逡巡して復た饒舌せじと云ふに至る。此の如く反對の性質を懷ける二要素の同時同所に相鬪ふあり。會の盛大を欲すと雖豈得べけんや。故に此敝を救ふは本會の急務なり。策に曰く。大和會の集會は宜しく二分して會議及懇親會と爲すべし。勞時には逸を顧みず、逸時には勞を忘る。以て兩つながら其所を得るなり。例之ば例會にして三時間を費さば、初一時間を會議とし、他の二時間を歡を竭す用に供すべし。會議時には整肅を事とし、懇親會の要素の來りて紊乱することを允さず、懇親時に至りては理窟を脫し、或は風流文雅、或は角觝擊劍、自由に快を取りて可なり。若し議項なきときは三時間を擧げて懇親會とす。或は曰はん。懇親は大和會の起れる所の主眼なり。會の集會は縱令三分一なりとも、時を眞面目なる議事に費し、議席に束縛せらるゝことを願はずと。然れども在獨逸日本人の大和會は、猶在獨逸魯人伊人等の結べる本國會のごとくならん。各〻外に在りて其愛國心を養成し忘失せしめざるを目的とす。魯人は「スラアウ」人主義、伊人は伊太利主義、日本人は大和魂是なり。豈特り擧杯相屬するのみを會の主眼とせんや。且會則に友誼の語あり。友誼は友情と底蹊あり。誼は義なり、義務なり。宜なるかな會則に相戒むと云ひ、謝絶除名の條あること。盖し大和會は尋常の懇親會にあらず。尋常の懇親會は單に禮法を守れば足る。而して直に國の警察法の下に立てり。大和會は否ず。一体を爲し、機關を形り、會則ありて之を連結し、之を維持す。是れ事を議することの止むべからざるに至る所以なり。若し强ひて大和會は普通の懇親會なりと云はゞ、請ふらくは彼會則を癈毀し去り、大和會の烏合の飮啖會なるを明にせよ。又曰はん。會務には幹事の在るあり。必ずしも衆と議せず。集會時間は唯ゞ懇親を事として可なりと。是れ虛言のみ。これを集會の歷史に徵するに。余之に陪すること三四囘に過ぎざれども、每囘議項出で、議論蜂起す。既往猶然り。未來想ふべし。而して議する所の要領を得ざるは、一に會則の不倫に本づく。今一例を擧げんか。大和會は從前每次集會費を集めて計算す。譬へば宵越の餞なき江戶兒の如し。有森子前度の提議にして行はれ、大和會財產あるに至らば、其取扱は會則もて定めざる可からず。是れ議事の最重大なる者にして。會則に關する事項なり。有森君の提議は會の財產に名づけて資本金となす。人或は嘲りて曰く。是れ會をして商業に從事せしむるに似たりと。葢し資本とは「フオン」(Fond) の義なり。何ぞ必ずしも認めて商業となさん。又會則を見るに、幹事あれば議事を須ゐずと云ふ說の虛なるを證するに足るものあり。曰く。幹事は事務を管理す。決定すと曰はず。決定して而後に施行し、施行して始て管理の要を見る。而して決定は議事の結果なり。以て會則の議事の必要を認むるを知るに足る。或は又曰はん。幹事に決定を委托せば、議事の繁を免れんと。委托に二あり。悉く委托すると、事に依りて委托し事に依りては又委托せざるとなり。後者は議事に待つことあり。其繁一なり。又悉く委托せんか。是れ本會の根抵を撼搖するなり。本會員は皆同等にして、幹事は唯ゞ會の旨を承けて執行す。此同等の秩序は悉皆委托の法と並立せず。若し悉皆委托の法行はれて、彼秩序乱れんか。會員は幹事の制御を蒙むるに至ること必せり。卽ち一たび幹事を撰むときは、其任期間はこれに制御せらるゝなり。而して會はこれを禁ずること能はず。是れ彼の箒を役する術士の說なり。聞說らく。獨逸國の諸會其幹事に主權あるが爲めに敝を受くること少からず。學術上の會尙然り。是れ千八百四十八年以來の諸會社の國會を摸倣せる餘禍なり。大和會にして復たこれを襲かば、識者の笑を奈何せん。會の某事を幹事に委托するは可なり。唯ゞその委托の區域は隘からんことを要す。區域彌〻隘ければ、會議の項目彌〻繁なり。是れ勢の止むことを得ざるなり。故に曰く。本會に議事あるは當然なり。宜しく懇親と分立せしめて、以て彼此相害ふことなからしむべしと。此議にして行はれば、須らく先づ議事規則を設けて、彼不備の會則を再閱すべし。敢て言ふ。
二十七日。夜與倉獸醫とトヨツプフエル氏客館に語る。
二十八日。石君とコオレルを訪ひ、隊附事務を學ぶが爲めに、普魯士の軍隊に入らんと欲する事を話す。
三十日。シヤイベ來る。
十二月二日。石君、谷口とシヤイベ、ヱルネルに誘はれ、伯林府消毒所及伯林第一系統下水排送所を見る。並にライヘンベルゲル街 Reichenbergerstrasse に在り。那威の軍醫某も亦來る。
三日。夜巽軒と會す。巽軒獨逸の詩人フロオレンツ Florenz を伴ひ來る。フロオレンツ名はカルヽ、アドルフ Karl Adolf 猶少年なり。余に詩稿を示す。中にウヽランド Uhland を詠ずる作あり。ハイネ Heine を客と爲し、彼を揚げ此を抑ふ。頗る誦す可し。曰ふ。將に譯東洋詩一卷を梓せんとす。譯する所は李太白と井上巽軒との詩なりと。余肚裏に謂へらく。西人の東詩を譯する、支那には毛詩に止り、日本には古今の春の部に止る。フロオレンツの擧洵に稱す可し。然れども李太白と巽軒とをして相對せしむるは、奇に過ぎたりと。フロオレンツ自ら曰く。梵文及漢字に通ずと。
六日。家書至る。朝北里來る。曰く。聞く福島頃ろ稍く某の姦を識り、人に武島を辱めしを悔ゆと。
九日。山口大佐、石井大尉の伯林に來り、皇太子客館 Kronprinzen-Hôtel に投ぜるを聽き、往いて訪ふ。
十日。西園寺全權公使來る。停車塲に迎ふ。土方、佐々木等とヨスチイ菓子店 Conditorei Josty (Potsdamer-platz) に會す。始て西鄕の子を見る。
十二日。陸軍省に赴く。石君の命を受け、シヤイベと器械購人の事を話するなり。早川の病を訪ふ。數日前鼻痔を截除せしが、未だ痊えず。夜福島を訪ふ。此日石君田口大學敎授とステツチン Stettin に赴く。
十四日。石君田口と俱にステツチンに至り。曾て東京に在りしシユルチエ Schultze を訪ふ。
十五日。書を大日本私立衞生會に寄す。石君等還る。
十八日。仙賀と哲學を談ず。
十九目。田口余に胎るに大學紀要中に印せられたる徽毒菌論一篇を以てす。シヤイベ舅姑をマグデブルク Magdeburg に訪ふ。來りて別を吿ぐ。
二十日。北里來る。江口の毫も學問の精神なく、言論陋甚しきを說く。
二十三日。新調の軍服至る。
二十四日。祭夕なり。江口、片山等と石君の家に會す。日本料理の饗あり。
二十五日。夜隈川を訪ふ。頃日自体試驗に從事し、單に蔬食を食ふ。勇敢愛す可し。
二十六日。大和會にて新任の公使西園寺公望を迎へ、姉小路の鄕に歸るを送る。
二十七日。夜ミユルレルを訪ふ。
二十八日。公使宴を張りて同邦人を招く。余も亦與る。乃木少將の祝辞嚅々解す可らず。石君雄辯坐人を驚かす。大意謂ふ。大和會にて橫山氏の公使に對して陳べたる語中、在歐洲の東洋公使は事務少し、宣く書生を輔助することを務むべし云々。然れども魯境の鐵路一たび功を竣へなば、東洋と西洋と何ぞ交際の密ならざることを憂へん。公使他年の多事想見すべし。余は公使の其多事なるが中に閑を偸みて書生を輔助せられんことを望むことを得るのみ。公使答辞あり。唯ゞ才鈍く任重きを以て夙夜憂慮すとの意なり。
三十日。石君を訪ふ。
三十一日。友侶と除夜の宴を開く。
明治二十一年一月一日。石君及谷口と車を傭ひ、賀正の禮に諸家に赴く。
二日。大和會の新年祭なり。獨逸語の演說を爲す。全權公使西園寺公望杯を擧げて來りて曰く。外邦の語に通曉すること此域に至るは敬服に堪へず。
三日。楠子來り訪ふ。
四日。龜井子爵の宴に赴く。子爵頃日大學に入る。亦健康なり。
八日。川上少將を訪ふ。少將病あり。蛋白尿を見る。ゲルハルト Gerhardt 一たび之を診し、石君谷口と之を療す。余を床前に延いて坐せしめ、語りて曰く。我邦の陸軍、從來司計の官を優遇し、司命の官を劣待す。是れ弊風なり。須く除去すべし。又其曾て西鄕に從ひて北海に赴きたる事を話す。南洲の風采を想ひ、慷慨す。深更に至りて辞し歸る。
九日。余高橋
十日。夜石君と話す。
十一日。獨逸戲園 Deutsches Theater に至る。「ドン、カルロス」Don Carlos を觀る。ゲスネル Gessner の美、ポオザ Posa の技、最も嘉す可し。
十二日。アルツウル、ハイネ Arthur Heine 來る。貧書生なり。命じて文稿を淨書せしむ。午後石君と公使舘に至る。
十六日。北里、早川來る。
十七日。石君を訪ふ。
十八日。夜早川來る。余爲めにクラウゼヰツツ Clausewitz の兵書を講ず。クラウゼヰツツは兵事哲學者とも謂ふ可き人なり。其書文旨深邃、獨逸留學の日本將校等能く之を解すること莫し。是より早川の爲めに講筵を開くこと每週二囘。
十九日。近衞步兵第三聯隊の營を觀る。石君谷口と同じく至る。
二十日。近衞龍騎兵第二聯隊の營及陸軍囚獄を觀る。
二十三日。高橋發軔す。余に著述上梓の事を托す。
二十四日。近衞野砲兵第二聯隊の營及癈兵院を觀る。癈兵院長官陸軍大尉ヱルフエン von Welfen 余等を延いて一室に入る。裝飾頗美なり。一隅同氏の大理石像あり。語次曰く。此癈兵院は佛特力大帝 Freidrich der Grosse の創立する所なり。其銘に曰く。傷きたれども敗れざる兵の爲めにすと。亦た爽快の語ならずやと。偶〻ミユルレル至る。曾て日本に在りし人なり。
二十九日。シルレル骨喜店 Café Schiller に至る。
三十日。早川至る。
三十一日。夜樂を工家堂 Archtectenhaus (Freidrichstrasse) に聽く。
二月十四日。北里、江口、片山、隈川等來る。江口は輕躁浮薄、歐洲文藝の林に入れども。毫も華を採り實を拾ふに意なく、利辯巧に官人に媚び、病家を得るを以て榮と爲す。學者は之と齒するを恥ぢ、世人は見て之を侮れり。一日海江田氏病あり。江口を招く。江口至る。利口饒舌其歡心を買はんと欲す。海江田は薩の人。氣槩あり。大に江口の侫を嫌ふ。之を却けて佐藤恒久を聘す。又齋藤修一郞の陰蝨に罹るや、石君方を授けて歸る。江口往いて訪ふ。之を聞きて曰く。若し石君の藥にして功を奏せずんば請ふらくば一方を献ぜんと。齋藤曰く。若し第一方にして功を奏せずんば石君當に第二方を授けらるべし。敢て辞すと。江口𧹞然たり。餘は推知すべし。夜宴に公使舘に赴く。
十五日。家書至る。雞林醫事の譯稿成る。
十六日。ライン J. J. Rein と文書往復を始む。ラインは日本と題せる風土物產記の編者なり。是より先き、橫山又次郞書を寄せて曾て日本產の介族の事を叙述せし獨逸人リシユケ Lischke の居を問ふ。余も知らざる故、諸家に問合せたり。ライン彼ナウマンとの爭論を知る。余に詳細なる答書を贈り、リシユケの骨既に朽つる事を以て吿げらる。
十七日。ヒルゲンドルフ Hilgendorf の答書至る。言ふ所ラインに同じ。
十八日。北里、江口等と片山の家に會す。北里ペエケルハアリング Pekelharing と脚氣細菌の事に就きて爭端を開けるを語る。
二十一日。石君とコオレル及シヤイベを訪ふ。
二十二日。午前石君訪はる。
二十三日。早川來る。曰く。江口と云ふもの、その云爲頗る怪むべし云々。
二十九日。早川を訪ふ。
三月八日。家書至る。阿君の小金井敎授に嫁する可否を問ふ。電報を發して同意を表す。陸軍省醫務局に至る。コオレルと語らんことを欲するなり。在らず。其家に至りて逢ふ。公使舘に福島を訪ふ。在らず。書を遺して去る。皆入隊の事に關す。午後獨逸帝病篤き報あり。全都騷然たり。
九日。獨逸帝維廉第一世崩ず。
十日。普國近衞步兵第二聯隊の醫務に服すべき命あり。隊務日記の稿を起す。
四月一日。遷居す。ハアケ市塲 Haacke'scher Marktと名くる大逵の角に在りて、大首座街 Grosse Praesidenten-Strasse 第十號の第三層屋なり。室內裝飾頗美なるに、出窓 Balkon の下には大鐵盤を置き、中に花卉を植ゑ、蔦蘿之に纏ふ。書架は廉價なる故購ひ求めたる私有物なり。新に獲たる奇書を插列し、時に意に適する簡册を抽いて之を讀む。以て無聊を醫するに至る。頃日大抵六時三十分に起ち、盥漱換衣し、七時に咖啡麵包を喫し、七時三十分に門前の鐵道馬車に乘れば、八時前に佛特力街 Friedrichstrasse なる普魯士國近衞步兵第二聯隊第一及第二大隊の營に達することを得るなり。此處にて所謂給養班勤務 Revierdienst を果し、轉じてカルヽ街 Karl-strasse なる第三大隊の營に赴き、事を操ること前の如し。班務は我邦軍隊の朝診斷と稱へ來れる者に匹當す。是よりトヨツプフエル客舘に午餐す。石君とは此舘にて每日相見ることを得るなり。其他田口大學敎授も此に午餐す。午後は時々聯隊醫官キヨオレル Rudolph Koehler の國會岸 Reichstagsufer の居を訪ひて命令を受くることあり。班務は日曜日、祭日と雖、休むことなし。近著一篇 (Ueber pathogene Bacterien im Canalwasser) あり。コツホ師これをその雜誌 (Zeitschrift fuer Hygiene) に揭載せしむ。
五月十四日。南方より還れる名士ヰルヒヨオ Virchow を其シエルリング街 Schellingstrasse (10) の居に訪ひ、自著日本家屋論を携へて閱を請ふ。ヰルヒヨオの還るや、國會の政友は定額規則 Etatsgesetz の闕の爲に其演說を求め、病王は英醫 Mackenzie の治を主るありと雖、猶其解屍學上の審査に待つことあり。斯くまで引く手許多なる中に、大學の講筵をば、卽時に皆開けり。是れ世の驚嘆する所なり。今白面の一書生來りて拙陋なる著作の閱を請へるに、ヰルヒヨオ乃ち喜び迓へて數刻の閑談あり、遂に稿本を留めしめ、一閱の後人類學會 Anthropologische Gesellschaft に送り、印刷せしめんと約す。實に多々益〻辨ずと謂ふ可きなり。語次三浦の新著を寄する事に及び、其篤學を稱讚す。余又曾て譯する所の雞林醫事の事を擧げて氏の意見を訽ふ。曰く。宜しく之を伯林民學舘 Ethnologisches Museum の長バスチヤン Bastian の許に齎し、去就を定むべしと。翌日舘に至り、バスチヤンを見る。東洋人種源流及宗敎の事を談ず。雞林醫事の譯稿を留めて還る。
詠柏林婦人七絕句
試衣娘子艶如花。時樣粧成豈厭奢。自道妃嬪非有種。平生不上碧燈車。
一杯笑療相如渴。粗服輕妝自在身。冷淡之中存妙味。都城有此賣漿人。
紅燭揭簷賣綠醅。幾多小室暖如煨。怪他娘子殊嗜好。特向書生笑口開。
嬌喉唱出斬新詞。插句時看意匠奇。萬卷文章屬無用。多君隻闋解人頤。
效顰主婦曳長裳。途遇尖鍪百事忘。誰識庖中割羊肉。先偸片臠餽阿郞。
二八早看顏色衰。堪驚絳舌巧譏訾。柏林自有殊巴里。唯賣形骸不賣媚。
家積餘財兒讀書。老來休笑立門閭。鍾鳴十二竿燈暗。一𥴧腥風賣鮑魚。