独仏年誌の計画

 この雑誌は批評雑誌であるが、ドイツの『リテラトゥーア・ツァイトゥング』ではない。我々は次のようなフランス人とドイツ人の詳論を載せるであろう。

 ①今日の問題、憲法、立法、国家経済学、慣習、教養に関して、影響力と重要性を持っている人々と諸体制について。中間の王国の天上の政治は廃止され、人間的な諸事物に関する現実の学問が代わりに置かれる。

 ②新聞と雑誌のレビュー。我々の時代の諸問題に対する新聞と雑誌の関係を特徴づける。

 ③ドイツにおける古い文献と文学のレビュー。これは必然的に従来のドイツ精神をその超越的な、今や腐敗した在り方において批判する結果にならざるを得ない。同様に両国の書籍のレビュー。これによって、我々が入る新しい時代が開始され、継続される。

 我々の仕事は二、三ヶ月中断された。我々はそれを今新たな基礎の上で継続する。

 去年、ドイツ諸政府が伝統的な哲学する自由を終わらせて、最新の哲学の思想を世界に知らせた出版物を弾圧したとき、ドイツ諸政府は、その事が話題になったところでは人民の代表が称賛し、その他いたるところでは人民の大多数が無関心であるのを経験した。この経験は、ドイツで哲学がどれほどまだ国民の関心事からかけ離れているのかを示した。哲学は国民の関心事にならなければならない。大衆の無関心、教養ある人々以下の無教育な人々の敵視はやめなければならない。職務から理性の使用と実現に反する者たちの抵抗は打破されなければならない。人民は哲学を自らの発展の原理にするまでは自由ではないのであり、人民をこのような教養へと高めることが哲学の課題である。

 ドイツでは、学問が実生活に無関心であるかのような虚偽、そうでなくとも、少なくとも学問の天上が人間の大衆にとって手の届かないものであるかのような虚偽が克服しがたかった。理性的な環境の下で、学問の核心は、実践と一般的な意識の形式で万人の所有物になる。しかし、実践的な思想、世界を動かす言葉は、ドイツでは直ちに神聖かつ賤民を超越したあらゆるものに対する暗殺である。神聖かつ高貴であり、人間的でなく自由でないのは、ドイツの学問もドイツ国家も同然であり、両者への裏切りは、人類を無条件に人類のものにすることである。この裏切りが今行われなければならない。

 裏切りは継続されなければならないと言えよう。なぜなら、それはもう実際に始まっているのだから。近年の諸事件は、哲学をドイツでは今までまだ一度も達したことがなかった政治的な重要性へと高めた。そしてそれらの諸事件は、学術的かつ芸術的なオリュンポスの浄福の神々が孤立した生活を送っている文学世界に対する信頼に、かなりの衝撃を与えた。今日人類の興味をひくのは、もはや日常の地平線の彼方で働く知恵の遠く離れた稲妻ではなく、墓に入った亡霊に関する文学の声無き記録ではない。そうではなく本質的に、我々が首を突き出す現実の天候、現在の大気全体の落ち着いた流れあるいは嵐、その大気全体における進行と抵抗の要素の戦い、――この自己内で労働する実在的な人間世界の生活が、人類の興味をひくのだ。

 人類の興味のために活動することが、今日のすべての有能な人間たちの課題である。啓蒙という世界を魅了する文学の偉大な思想は、その大きさ全体において今ようやく実現されるだろう。あらゆる芸術とあらゆる精神、あらゆる名誉欲と失われたくないあらゆる労働は、抗いがたい力をもって学問と国家の自由を教養ある諸国民の中心事項にするために、この思想が用いるだろう。

 我々はこの課題に身をささげた。ドイツの運動は今のところ、あたかも我々が生きている歴史と革命とは無関係であるかのように振る舞う書物の世界へと投げ返された。だから我々はこの偽り言と無関心を取り去って、はっきりと意識したうえで政治的な諸目的を追求するだろう。我々はすべてのものを自由に結びつけるだろう。無関心な学識は哲学者たちにとって存在しない。哲学は自由であり、自由を生み出そうとする。そして我々は自由を本当に人間的な自由、すなわち政治的な自由と理解するのであって、人が自分の勉強部屋で、またその部屋が監獄であっても、自分にまんまと信じ込ませることができる、何か形而上学的な青がすみとは理解しない。

 こうして我々は批評雑誌を書き始めるであろう。そして我々は、この雑誌で我々の時代の諸危機を哲学的かつジャーナリスティックに叙述することによって、批評雑誌のこの名称を獲得したいと思う。

 ドイツに関してはなるほど我々は今後もまだ文学との関連を維持するであろう。ここでは作家も政府も、純粋文学以外には何も生み出さないのだから。

 しかし以前は、我々が目論む批評の寄稿者を、絶対に時代の各問題との関連が、さらに問題の特定の文学出版を除いて、自由にした。旧世界に生じる大変動に関係することすべて、可能な限り的確かつ芸術的に練り上げられた形式で一般的な意識にもっていくこと、この、フランス人がもう何度もそのように著しい成功をもって解いた課題は、いまや我々にも当てはまる。ドイツの社会契約とドイツの問題は「ドイツとは何か?ドイツは何になる必要があるのか?」ということである。ドイツ政治は人民のために――すべてのこれらの出版物が書かれるであろう。不滅のフランス人の栄冠が我々を眠らせるはずがない。

 実際、公共生活の運動から生まれ、再び新しい時代の起源を含んでいるそのような出版物の性質は、ドイツの思想と出版物に対して、日常生活が夢に対するような関係にある。目論みの大胆さ、遂行の技術、成功の偉大さは、我々の場合、同じやり方では不可能である。

 このことは我々をフランスへと導く。学問のどんな世俗化も、政治と学問のどんな結合も直接フランスとの結合である。反フランスと反政治、反政治と反自由は、ヨーロッパでは同じことである。フランスはヨーロッパにおける政治的な原理、人間的な自由の純粋な原理であり、フランスが唯一原理である。フランスは人権を宣言し、獲得した。フランスはその獲得を失い、取り戻した。フランスはこの瞬間に、革命を世界へもたらしたヒューマニズムの偉大な諸原理の実現のために戦う。これによってこの国民は「自分のために闘い取るものは、みんなのために勝ち取られるのだ」という世界市民的な使命を持つ。それゆえ、反フランス国民嫌いは政治的な自由に対する見えない嫌悪と完全に同じ意味を持つ。ドイツではどんな人間でも分別と慣習的な解放の物差しを、フランスについて何と判断を下すかで試すことができる。分別が濁れば濁るほど、ドイツの思考方法が卑屈になればなるほど、フランスについての判断はいっそう不当かつ無学なものとなるであろう。一国民が自ら獲得し、そして全ヨーロッパが獲得したすべての自由、それを世界は今享受しているのだが、その国民の偉大さと慣習的な力を、彼は非慣習的と呼ぶであろう。そして自分自身の原理の止揚、俗物性の止揚を、彼は心無しと呼ぶであろう。そして家族の幸せに対する感覚に、彼は無神論的なフランス人たちを今やまったく認めないであろう。ドイツでフランス人たちを理解し承認する人は、すでに一教養人であり、一自由人である。全く自然なことである。ドイツ精神とフランス精神の現実の統一は、ヒューマニズムの原理における出会いであり、そのような統一よりも、相互の学問的な、社交的な、政治的な美徳の認識に劣らず、粗野な国民嫌悪と無学な悪口好きの廃止による個人の慣習化が先決である。両者は精神的な解放である。そしてその点においても我々を恥じ入らせるのがフランス人たちである。フランス人たちは、彼らが我々を嫌う原因を持っている時代には、自発的に精神的な解放に没頭した。フランス人たちは我々を研究し、彼らは我々を尊敬している。いや、フランス人たちは我々と我々の超世界的な学問を過大評価している。そしてフランス人たちが最新の時代の世俗的な変化をまだ知らないならば、彼らがようやくここで本当に我々と出会うことがすぐさまはっきりするであろう。我々は、自由においても、いや教養においても、彼らに後れを取って当然である。レッシングがドイツをフランス精神のくびきから解放しなければならない時代があったなら、間違いなく今我々にとってフランス精神世界の研究、彼らの上品さと教養の研究は、無限の山積と偏見からの解放であり、すべての征服病的かつ暴君的な国民感情の乱用に対する保護であり、そしてついには、人が同じぐらい期待してよければ、政治的な自由と公共的な国家生活を闘い取ることに拍車をかけることである。両国民の最も現実的な統一はその教養の仲介である。そう、そのような統一は自由の勝利である。

 我々ドイツ人は、宗教と政治において我々の古いガラクタを探し出し、ほこりをはたき、磨くことに多くの時間を無駄にしてきた。その際、我々は一部目を悪くして、洞察力のあるロマン主義者になった。しかし、フランス人が形而上学的で空想的な領域で風波の舵なしに押し流されている一方で、その中で我々はさらにこの労働から確かな指針として我々の役に立つ秩序感覚と論理的な炯眼を手に入れた。政治的な領域ではとても凌駕できないほど頭脳明晰であるラムネーとプルードンでさえ、サン=シモン主義者とフーリエ主義者にまったく思い出さないことについて、例外を認めないのである。

 我々ドイツ人にとって、そのような奇妙なドイツ人は教育されていない人たちにも思えるかもしれないが、恣意と幻想からヘーゲルの体系を解放したのである。それが従来の全形而上学の超越的な世界全体を、理性の王国としてうちたてることによって、その論理学的な確実性と首尾一貫性の長所を享受するために、理性の超越を止揚することだけが我々に残されていた。ヘーゲルの体系の天上から直接に人間的な理性に属する地上へ、人は天体図を自分で地上でその方向感覚に使用する操縦士の分別をわきまえた人に達した。この天体図は我々ドイツ人にとってヘーゲルの体系の論理学であり、それ自体が再び天上の、孤立した形式における体系全体である。

 直接に人間的な自由と純粋なヒューマニズムの要求に達したか、あるいは老齢の人類がまだ囚われている天上の経済全体を、宗教と政治におけるロマン主義的な山積全体を、以前、体系的に、すなわち哲学的にやり遂げ、どの点においても克服してきたかどうかは大きな違いである。ヘーゲル哲学から生まれる自由の要求は、それゆえより単純な意志ではなく、より動機づけられた意志であり、より自由で善良な意志ではなく、必然的な帰結であり、偶然の産物ではなく、ドイツ精神の歴史の結果であり、今もはや何も抵抗できないドイツ精神の従来の労働全体に関するその意識の形式である。というのも、この時代精神に抵抗したものが生じることができたなら、過去あるいはこの時代精神の従来の労働とそのすばらしさ、まさにこれを見抜いたことは、この時代精神の功績であるからだ。以前はそのような企図が成功しえた。というのも、当時、ドイツでは自由の要求が非常に荒廃し無学であったので、その要求自体はまさにあの過去の絶対的な尊敬以外にはまったく何も含んでいなかったからである。しかし、まず最初に、人がこの思想を実行しようとしたとき、過去は古い官僚の専制政治であった。それから、この思想が再び自己主張したとき、人はどうやらまださらに一歩後退し、ロマン主義あるいはキリスト教的・ゲルマン的な復古原理を官僚国家の改革に用いることができた。しかし、これはすでに失敗した試みと呼ばれねばならない。二人のドイツ国王がこの改革によって中世に還って働こうとしたが無駄に終わって以来、ロマン主義の無力は政治において明確に証明されている。しかし、復古と革命の精神の分離が撤回不能に実行されたことによって、少なくとも非常に多くのものが得られた。古い天上の王国の特権と我々の時代の人間的な自由が死を賭けて敵対している。そして革命はその側面であらゆる道徳的かつ知的な力をもっている。自由の名において言われたどんな真の言葉でも、大昔の老朽化した骨董品の建物は震え、そしてその住人と守衛は、自由を打ちのめすのにエリコの角笛は必要ないと感じている。この不安がドイツで我々に言葉を禁止した。禁止は宿敵の表現であるが、また死の恐怖の表明でもあり、それゆえまさに我々の将来の保証である。このような敗北はすでに勝利である。

 もっとも、フランス人たちがこれを聞けば、彼らはこう言うだろう。「三十年の戦闘中に、その死の不安の中で古い専制政治が公共精神のあらゆる自由な感情の全面的な破壊に踏み切り、将来の世代にこの静かな希望以外に何も自由を残しておかなかったところまで、すなわち、実際に多くの時間とあらゆる地域を失うというところまでは存在してこなかった」と。――そうだ、我々は、将来への保証が、そのように良くそして将来自身ほど良くない、我々にとって少なくともいつも非常に疑わしいままである実在性であることを認める。我々がフランスの温かく迎える土地に足を踏み入れる前に、我々がそれについて絶望しなければならなかったこと、さらにただ我々の思想の自由な発言と公表を再び我々の力の内に手に入れることによる以外に、我々はこの事実をより簡潔に認めることができなかった。それにもかかわらず、純粋な原理の分野での苦労は無駄ではなかった。我々ドイツ人がとても大きな力を費やした超世界的な領域における仕事は無駄にはされなかった。この苦労と仕事は、昔の繰り返された認識と説明によって、新たな原理の最もラディカルな獲得をもたらす。その成果はフランス人たちを開放的にし、フランス人たちが十八世紀の哲学とその革命を通して作った大変動を、永遠に確保するよう命じる。才気あふれるシャトーブリアンとラムネーのキリスト教的な熱中のこのことと今のフランスの若者の大部分のロマン主義的な欲望を十分証明するように、ちょうど高貴な無思慮さでフランス人たちがよく耽っている、あの野生的な天才性と自制心のない空想のあらゆる誘惑に対して、我々が最新のドイツ哲学をフランス人たちに教えることに成功するなら、我々はフランス人を守るのである。我々ドイツ人が専制政治に仕えて、革命という世界史の最も偉大な行為と戦ったとき、我々は自由に対して罪を犯した。だから今ドイツ哲学が、フランス精神に忍び寄る誘惑――善良なドイツ人が対ナポレオン解放戦争以来そのように屈辱的に敗れた誘惑――からフランス精神を守ることができれば、それは償いであろう。宗教的かつ詩的な空想の邪道を知るに至らなかった素朴さ、その道をあの形而上学的な天体図に詳細に記録せず、永遠に特徴を知らない無邪気さは決して安心できない。人類の形而上学的な素朴さにおいて昔から厚かましくも世界に神秘を示す聖職者は、神秘自体を知っていたのでも信じていたのでもないが、神秘の体系を組み立てた。この素朴さの上に人間とその自由が犠牲に捧げられた中世の聖遺物の体系全体が置かれていた。とりわけドイツ人たちは、このだまされ非人間化された時代に属しているという名声を持っている。世界がギリシャ風の人類の明るい高さからキリスト教的・ゲルマン的な気性の野蛮さの薄暗い深さへと落下したのは、我々の先祖の形而上学的な無邪気さ以外に誰に責任があるというのか?そしてこの千年の無邪気さが、革命に耐え抜くのは当然であったし、古い王国のガラクタ全体の崩壊によってさえ賢くならないのは当然であった!――ドイツ人たちが今世紀の始めにその自主性を再び獲得したとき、ドイツ人たちは再びこのガラクタに従事した。そしてドイツ人たちが昔の悪行によって現実性に到達できなかったことを、少なくともドイツ人たちは途方もない憧れと安らぎをもって思い出した。長い間ドイツ人たちは自分たちの皇帝的・教皇的な栄光を思い出していたが、それから、この思い出の真っ最中に、ドイツ人たちに同じ理解が生まれた。そして最新の哲学が提供したのは、今やドイツ人たちも進んで過去の諸幻想との関係を断ち、そして時効無き人権の名において「キリスト教的・ゲルマン的」な中世に宣戦布告するという現象であった。このことはフランスへの贖罪であり、これはさらに、すでに述べたとおり、フランスにとって好ましい結果とならなけばならない仕事であり、そしてこれは最終的に同じ人間原理におけるドイツとフランスの国民の統一であり、抗うことのできない両国民の自由の同盟であり、今後両国民の共通の運命は、両国民の政治意識の変えられない事実である。

 ドイツ人の意識のフランス革命の根本思想への帰還は、我々に別の側面から、我々が今まで途方もない見通しをもってなおざりにしてきた実在性をもたらす。フランスは革命以来、哲学の実現に従事してきた国であり、フランスはどこまでも哲学の国である。フランスが実践に関して、時に諸原理を見失ったことを非難できるのなら、フランスが称賛すべき勇気と精神をもって繰り返し諸原理に帰還し、そして他の民族が今まで成し遂げなかったほどに自分たちの生活全体を諸原理で充満させたことを告白しなければならない。それゆえ、この国の地盤はささげられている。ある古典的な、ある男性的な、ある途方もない真の文学全体が、形式と内容によって魅了しながら、その土地に生まれた。我々ドイツ人はそのようなものをほとんどあるいはまったく持っていない。そう、我々はまだ一度も、人が日々我々に出す精神料理を、ただ純粋かつ誠実に喜んで享受する必要を感じたことがないのである。我々の文学と我々の政治的な生活はどこからどこまでも腐っており、万一ある作家と政治家が十分に素朴であるなら、一に対して全が、わずかなものに対して多くのものが生み出される逆転した世界の体系を誠実に信奉することは、真実であり表現の尊敬であり、それは無価値であり、何かあるもののように非常に危険な無邪気さである。どのようにして我々は、一国民を襲うかもしれないこの最大の悲惨から、その国民の公共性全体の慣習的な荒廃から、救われ得るのだろうか?

 我々は自分たちで自由かつ真の公共性をそれが見つかる場所に探さなければならない。そこで、出版の自由のために、よく通る声を、世間一般に精力的な叫び声をあげるためには、ドイツ国民は鈍すぎる。だから今、我々は、フランス人たちも自分たちの革命前にそうしなければならなかったように外国で書き、印刷しなければならない。

 自己確信的かつ無慈悲に、束縛された奴隷の歯軋りを断念する自由、世界を荒らし、世界の顔を殴るのではなく、世界を獲得し、世界を魅了し、世界を自分自身を超えて高めようとする自由、美しさに世界の掟を、真理に世界の物差しと目的を見つける自由から自分自身と理性の永遠の掟に不誠実になることよりも、真の出版の自由の一例を目の前にすること、自分自身を支配して諸々の掟を課す自由、何にも動揺しない自由からひとつの見解を得ることが我々ドイツ人にとって問題である。そう、諸君、この自由をめぐって。君たちは我々を長い間あちこち引っ張って足元で踏みつけ、我々の労働を無慈悲に台無しにして根絶やしにし、君たちの野蛮と、怒りに対する無知が我々の憤怒をかきたてた。そのうえ、君たちが正当な情熱の表現をもまた歪曲したとき、君たちは最後にまだなお我々を指差し、君たちの官僚が我々の出版物を印刷に回し、君たちの自由な出版が我々の出版物を解したように、我々の出版物から我々の性格をうまく表現した。これは闘争ではない。これは束縛の嘲笑であり、人間の権利と名誉をもてあそぶ行為である。このような行為は我々にとっても君たちにとっても十分である。君たちは我々を恐れたからそのようなことをするのだ。しかし、君たちは我々に対して何ら恐れることはない。そのことを君たちは今まで父親のように気にかけた。君たちは戦おうとする。今空気と太陽は同じである。しかし、検閲が我々を粉飾するように、すなわち検閲対策が我々を変装させるようにではなく、我々が存在するように、我々が今現れるなら、我々が今やあまり得にならない光において姿を現すことを君たちは恐れることはない。

 我々は出版の自由を見い出す。我々は突然出版の自由に入る。もはや検閲下でさえ我々に書くことが認められないのは当然だった。それは最も並外れた、起こり得る跳躍であり、最も屈辱的な立場から最も名誉ある立場へ、全般的な抑圧から完全な自由への跳躍である。だが、この跳躍は自然である。古い環境は我々が手に負えなくなったために、もはや我々に我慢ならなかった。我々は、突然この世に生まれるのに十分なほど、そして自由な雰囲気の空気を吸ったり吐いたりするのに十分なほど、自分たちがドイツの暗闇の母胎の中で強くなったことを証明するだろう。

 我々の出版の自由は我々に(我々はそれを期待するのだが)新世代の作業場から不滅の作品を供給するだろう。我々の出版の自由が真剣かつ献身的な哲学と形式の研究成果として出てくるやいなや、我々の出版の自由は現実的な自由である。だが、我々の出版の自由は、君たち、屈服した老人世代にも、出版の自由を、少なくとも我々に対して、もたらすだろう。君たちは、これが本当の荒涼としたモヤモヤしたイメージにならないように、慣習、分別、美しさのない粗野な古きドイツの幽霊にならないように気をつけよ。君たち全員で力を合わせよ。君たちは自由の敵としては自由ではないかもしれないが、少なくとも名誉はよく引き寄せられ、よく肩を並べた召使を獲得しようと務める。君たちが卑劣さなく論争し、野蛮さなく我々の敵であり、残酷さなくドイツ的に、悪道さなく愛国的に、裏切りなく忠実に人類の永遠の権利で振るまえるなら、これは君たちにも新たな環境を解放するだろう。でなければ、我々が君たちに差し出す機会を君たちが逃したことは我々の責任ではない。

 だが、我々に向かってくるドイツの出版の自由の形式がどれほど取りやめになろうとも、その内容は知られており、その目論みは世の中みんなの機嫌を損ねた。そう、ヘリコン山全体が下に向かい、すべての文筆活動の女神たちがよきドイツの出版から帯を拝借すれば、その女神たちは、仕えている体制についての一般的な不機嫌をなだめることに成功しなかったであろう。ドイツの名前の屈辱は一般的に感じられた事実であり、屈辱が期待の天上で起きただけに、屈辱はより一層苦痛に、そこで直接1840年と41年の期待に続いて、文字通り一国民全体を期待の天上から同じぐらいの速さで下へ突き落とした。感じられた屈辱も発言の機会を得ることが必要であり、その屈辱が将来の世代のために歴史の大著に判明かつ読みやすく書き記されることが必要である。しかし、それだけでは十分ではない。古い体制の暴露が必要である。その暴露は内側から露見し、人間的な自由の回復によって、同様に新たな政治体制を創立するだけでなく、それによって従来の歴史の大部分を占める人類の計画通りの抑圧と同じくらい時代を画する。

 そのような内容、すなわち直接的かつ本質的な内容を批評に与える時代がやって来た。すべての前兆は、世界の状況認識をめぐる熱狂と啓蒙主義者の労働する意欲も、両方とも恐れなければならない努力も、本当の危機が近いことを証明している。我々はここである友人の呼びかけを思い出す。彼はこう言った。「古いドイツのすべての窓を屋根まで見たまえ。諸々の哲学の天窓さえふさがれている。これによって革命の太陽は過ぎ去り、人間の心を元気づけ人間の感覚を自由にすることなく再び沈むかもしれない。さあ、我々は陰気な建物の屋根を持って、太陽の光を四隅に輝かせよう。」

 このことを我々は我々の批評によって目論むのであり、そして諸君、これが新時代である。  これによって、引き離された諸個人による革命の新世界との個人的な仲介が行われるのではない。否、原理は今やドイツからフランスに、そしてフランスからドイツへとやって来た。しかし、諸原理の友好は一国民全員がもう一方の国民を訪問することである。諸個人はただ一般意志を実行することを任されているに過ぎない。ドイツ哲学が政治的になればなるほど、人民の共感はより強く現れた。共感を故郷に残しておくこのことは、その帰還の際にその共感を倍再び見つけるであろう。ドイツ精神とフランス精神の利害は、互いにある明らかな緊張の中にあるが、この緊張は決定的に友好的なものである。

 我々が今まで叙述した直接的な批評を除いて、我々は上にまだ今後もドイツ諸新聞を続けて監視することを、そのような逆検閲のやり方を予告した。その監視は根本的にまったく同じ事であり、古い政治のあの直接的な解明のように、ただより無害であり、人は急所をたたき、そして――それらを支える精神に当てる。同時に我々はそのようにドイツの諸新聞にとって失われた良心を叙述する。だが、古いエリニュスが一位格の良心として悲劇的に悠々と歩いてくる間に、我々は近代的なものを、少なくともドイツの諸新聞に対して、最も喜劇的な効果を与えることができると考える。

 最後に、我々はここでも旧世界を根底から変える点に当てることに成功するという条件下で(ゲルスドルフのレパートリーとシュヴァーベンの諸年報の逆の関係の中で)より少なくなればなるほど価値においてますます高く保つ巫女の書物のような書評を期待する。

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原文:

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翻訳文:

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