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予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやます海濱にさすらへ去年の秋江上の破屋に蜘のふるすを拂ひてやゝ年もくれ春立る霞の空に白川の關越んとそゞろ神の物につきて心をくるはせ道祖神のまねきにあひて取物手につかずもゝひきの破れをつゞり笠の緖付かへて三里に灸すゆるより松島の月先心にかゝりて住る方は人にゆづり杉風か別墅に移るに
 
   草の戶も住かはる{{r|は|一本そトアリ}}ひなの家
 
おもて八句を庵の柱にかけおき彌生も末の七日明ぼのゝ空朧々として月は有明にて光おさまれる物から不二の峰幽にみへて上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし
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是を矢立の初めとして行道猶すゝまず人々は途中に立並びて後影の見ゆる迄はと見送るなるべしことし元禄にとせにや奧羽長途の行脚たゝかりそめに思立ちて吳天に白髮の恨を重ぬといへども耳にふれてはいまた目にみぬさかひ若生きてかへらばと定めなきたのみの末をかけ其日漸く早加といふ宿にたどり着にけり
 
瘦骨の肩にかゝれる物先くるしむたゝ身すからにと出立侍るを紙子一重は夜のふせぎゆかた雨具墨筆のたぐひあるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて路次のはづらひとなれるこそわりなけれ
 
室の八島に詣す同行曾良が云此神はこの花さくやひめの神と申て富士一躰なり無戶室に入て燒給ふちかひのみ中に火火出見の尊生れ給ひしより室の八島と申す又けふりをよみ習し侍るもこの謂也はたこのしろといふ魚を禁ず緣記の旨世につたふ事も{{r|侍る|一本るヲ入レタリ}}なり
 
三十日日光山の麓に泊るあるじの云けるやう我名を佛五左衞門といふ萬正直を旨とする故に人かくは申侍るまゝ一夜の草の枕もうちとけて休み給へと云ふいかなる佛の濁世塵土に示現してかゝる桑門の乞食順禮ごとき人をたすけ給ふにやと主のなすことに心をとめてみるにたゞ無智無分別にして正直偏固のものなり剛毅木訥の仁に近きたぐひ氣稟の淸質尤尊ぶべし
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   剃すてゝくろかみ山に衣かへ  曾良
 
曾良は河合氏にして惣五{{r|郞|一本□トアリ}}と云り芭蕉の下葉に軒をならべて予か薪水の勞をたすくこのたび松島象潟の{{r|眺め|一本なかめをトアリ}}ともにせん事を悅びかつは羈旅の難をいたはらんとたびだつ曉髮を剃て墨染にさまをかへ改て惣五を宗悟とすよりて黑髮山の句有り衣かへの二字力ありて聞ゆ
 
廿餘町山を登て瀧あり岩洞の頂より飛流して百尺千巖の碧潭におちたり岩窟に身をひそめて瀧のうらよりみれはうらみの瀧と申傳へ侍る也
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   しばらくは瀧に籠るや夏の初
 
那須の{{r|黑羽|一本黑羽根トアリ}}といふ所にしる人あればこれより野越にかゝりて直路を行んとす遙かに一村を見かけて行に雨ふり日くる{{r|ゝ|一本コノるナシ}}農夫の家に一夜をかりて明れば又野中を行そこに野飼の馬あり艸刈おのこに歎よれば野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらずいかゞすへきやされども此野は縱橫にわかれて{{r|うね{{く}}|一本うい{{く}}トアリ}}敷旅人の道ふみたかへんあやしう侍れは此馬のとゞまる所にて馬をかへし給へとかし侍りぬちひさきものふたり馬の跡をしたひてはしる獨は小姬にて名をかさねと云聞なれぬ名のやさし{{r|かり|一本かりノ二字ナシ}}ければ
 
   かさねとは八重撫子の名なるべし
 
やがて人里に至ればあたひを鞍壺に結付て馬をかへしぬくろはねの代淨坊寺何某の方に音づる思ひかけぬ主の悅び日夜語ゝけて其弟桃翠などいふが朝夕勤とふらひ自の家にも伴ひて親屬の方にも招かれ日をふるまゝにひとひ郊外に逍遙して犬追物の跡を一見し那須の篠原を分て玉藻の前の古墳をとふそれより八幡宮に詣つ與市扇の的を射し時別しては我國氏神正八幡とちかひしも此神社にて侍と聞ば感應殊にしきりに覺らるくるれば桃翠{{r|か家|一本かナシ}}にかへる
 
修驗光明寺と云有りそこにまねかれて行者堂を拜す
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と松の炭して岩にかきつけ侍りと聞へ給ふ其跡見んと雲岸寺に杖をひけば人にすゝんでともにいざなひ若き人多く道の程うちさわぎて覺へずかの麓に至る
 
山はおくあるけしきにて谷道遙に松杉黑く苔したゝりて卯月の天いま猶寒し十景つくる所橋を渡て山門に入る扨かのあとはいづくの程にやと後の山によぢのほれは石上の小庵岩窟にむすびかけたり妙禪師の死關法雲法師の石室を見るが如し
 
   木啄も庵はやぶらす夏木立
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   卯花をかざしに關の晴着哉  曾良
 
とかくして越行くまゝにあふくま川をわたる左に會津根高く右に岩城相馬三春の庄ひたち下野の地をさかひて山つらなるかげ沼といふ所を行にけふは空くもりて影うつらずすか川の驛に等窮といふものを尋て四五日とゝめらる先白河のせきいかに越つるやと問ふ長途の勞身心くるしく風景に魂うばはれ懷舊に腸を斷てはか{{く}}しうおもひめくらさず
 
   風流のはしめやおくの田植うた
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   早苗とる手もとや昔忍ぶずり
 
月の輪の渡しを越て瀨の上といふ宿に出づ佐藤庄司が舊蹟は左の山ぎは一里半ばかりに{{r|有飯塚|一本り字アリ}}飯塚の里鯖野と聞て尋ね{{く}}行くに丸山といふに大手の跡など尋ねあたる是庄司か舊舘なり人のおしゆるに任せて泪をおとし又かたはらの古寺に一家の碑を殘す中にも二人が嫁しるし先哀なり女なれどもかひ{{く}}しき名の世に聞へつるものかな墮淚の{{r|石碑|一本石ノ字ナシ}}も遠きにあらず寺に入て茶を乞へばこゝに義經の太刀辨慶が笈をとゞめて什物とす
 
   笈も太刀も五月にかされ紙幟
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岩沼にやどる
 
武隈の松にこそ目さむる心地すれ根は土際より二{{r|木|木一本本トアリ}}にわかれて昔のすがたうしなはずとしらる先能因法{{r|し|一本し師トアリ一本づトアリ}}おもひ出昔陸奧守にて下りし人此木を伐て名とり川の橋杭にせられたるなどあればにや松は此たび跡もなしとは詠みたり代々あるは伐りある{{r|ひは|一本ひナシ}}植づきなどせしと聞くに今はた千歲のかたちとゞのほひてめでたき松のけしきになん侍し
 
   武隈の松みや申せ遲さくら  擧白
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名取川渡りて仙台に入るあやめふく日也旅宿を求めて四五日逗留す
 
ここに畫工加右衞門といふものあり聊心あるものと聞て知る人に成る此者年頃さだかならぬ名跡を考置き侍ればとて一日案內すみやぎ野のはぎ{{変体仮名2|志|}}げりあひて秋のけしきおもひやらるゝ玉田橫野のつゝじか岡はあぜひさく頃なり日影ももらぬ松の林に入てこゝを木の下といふとぞむかしもかく露深けれはこそみさふらひみかさとはよみたれ藥師堂天神のみやしろなど拜みてその日はくれぬ
 
猶松島鹽がまの所々畫にかきて送るかつ紺のそめ緖つけたるわらつ一足餞すさればこそ風流のしれものこゝにいたりてその實をあらはす
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   壺碑  市川村多賀城
 
つぼのいしふみは高六尺餘橫三尺ばかり{{r|ばかりか|一本か字ナシ}}苔をうがちて文字幽也四維國界の數里を{{変体仮名2|志|}}るす{{r|御城|一本城ハトアリ}}神龜元年按察使鎭守府將軍大野朝臣東人之所里也天平寶字六年參議東海東山節度使同將軍惠美朝臣獦修造而十二月朔日と有り{{r|聖武皇帝|一本皇ノ字ナシ}}の御時にあたれり
 
むかしよりよみ置るうた枕多く語りつたふといへども山崩れ川流て道改り石は埋りて土にかくれ木は老て若木にかはれば時うつり代變じて其跡たしかならぬ事のみをこゝに至て疑なき千歲の記念今眼前に古人の心を閱す行脚の一德存命の悅び羇旅の勞れをわすれてなみだもおつるばかり也
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それより野田の玉川冲の石をたづぬ末の松山は寺を造てすゑの松山といふ{{r|あひ{{く}}|一本松のあひ{{く}}トアリ}}みな墓原にて羽をかはし枝を連るちぎりの末も終は{{r|かくのみ|一本かくの如きトアリ}}と悲しさもまさりて鹽がまのうらに入相のかねを聞く
 
五月雨の空聊晴れて夕月夜かすかにまがきが島もほど近し蜑の小舟こぎつれて肴わかつ聲{{く}}につなでかなしもとよみけん心も{{変体仮名2|志|}}られていと哀也その夜盲法師の琵{{r|巴|琶ノ誤也}}をならしておく上るりといふ物をかたる平家にもあらず舞にもあらず鄙びたる調子うちあげて枕近う{{r|かしまし|一本かしがましトアリ}}けれど流石に邊土の遺風忘れざるものから殊勝に覺えらる
 
早朝鹽釜明神に詣づ國守再興せられて宮ばしらふとしく彩椽きらびやかに石の階九仭にかさなり朝日朱の玉垣を輝かすかゝる道のはて塵土の境まで神靈あらたにましますこそ吾國の風俗なれといと貴けれ
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日既に午に近し舟をかりて松島に渡る其間二里餘雄じまの礒につく
 
抑事ふりにたれど松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖をはぢず東南より{{r|海入て|にヲ落セシナラン}}江の中三里浙江の潮をたゆ島々の數を盡して欹ものは天を指ふすものは波に{{r|圃|匍ノ誤リナリ}}匐あるは二重にかさなり三重にたゝみて左にわかれ右に連る負るあり抱あり兒孫を愛するがごとし松のみどり濃に枝葉汐風に吹たはめて屈曲をのづからためたるがごとし其けしき窅然として美人の顏を粧ちはやぶる神の昔大やまずみのなせるわざにや造化の天工いづれの人か筆を揮ひ詞をつくさん
 
雄島がいそは地づつきて海に出たる島也雲居禪師の別室の跡坐禪の石など有りはた松の木陰に世をいとふ人もまれ{{く}}見へ侍りて落穗松笠などうち烟たる艸の庵しづかにすみなしいかなる人と{{r|も|一本はトアリ}}しられずなから先懷敷立寄るほどに月海にうつりて晝のなかめ又改む江上にかへりて宿を求れば窓をひらき二階をつくりて風雲の中に旅寢するこそあやしき迄妙なる心地はせらるれ
 
   松島や露に身をかれ時鳥  曾良
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十一日端岩寺に詣當寺三十二世のむかし眞壁の平四郞出家して入唐歸朝の後開山す雲居禪師の德化によりて七堂いから改りて金壁壯嚴光かゝやき佛土成就の大伽藍とはなれりける彼見佛聖の寺はいづくにやと慕はる
 
十二日平泉と心さしあねはのまつ緖だへの橋など聞傳へて人跡まれに雉兎蒭蕘の行かふ道そこともわかず終に道ふみたがへて石の卷といふ湊に出づこかね花さくとよみて奉たる金花山海上に見渡し數百の廻船入江に{{r|つたひ|一本つどひトアリ}}人家地を爭てかまどのけふり立つゝけたり思ひかけず斯る所にも來れる哉と宿からんとすれどさらに宿かす人なし漸くまどしき小家に一夜をあかして明れば又しらぬ道まどひ行く袖のわたり尾ぶちの牧まのゝかや原などよそめに見て遙なる堤を行く心ぼそき長沼にそふて戶伊麻といふ所に一宿して平泉に至るその間廿里{{r|ほどゝ|一本ほどノ二字ナシ}}覺ゆ
 
三代の榮耀一{{r|睦|睡ノ誤リナリ}}のうちにして大門のあとは一里こなたに有りひでひらが跡は田野に{{r|成て|一本ありてトアリ}}金鷄山のみ形を殘す先たかだちにのぼれば北上川南部より流るゝ大河也衣河は和泉か城をめぐりて高の下にて大河に落入る康衡等か舊跡は衣か關を停て南部口をさしかため{{r|痍|夷ノ誤リナリ}}をふせぐと見へたり偖も義勝つて此城にこもり功名一時のくさむらとなる國破れて山河あり城春にして草靑みたりと笠うち敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ
 
   夏草や兵ども{{r|が|が一本のトアリ}}夢の跡
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江山水陸の風光數をつくして今きさかたに方寸をせ{{r|め|め一本むトアリ}}酒田のみなとより東北の方山をこへ磯を傳ひ砂をふみて其際十里日影やゝ傾く頃汐風眞砂をふき上もうろうとして鳥海の山かくる闇中に莫作して雨も又奇也とせば雨後の晴色又たのもしと蜑のとまやに膝を容て雨のはるゝを待つ
 
その朝そらよく霽れ朝日はなやかにさし出るほとに象潟の{{r|渚に|一本渚ノ字ナシ}}舟をうかぶ先能因島に舟をよせて三年幽居の跡をとぶらひむかふの岸に舟をあかれば花の上こぐとよまれしさくらの老木西行法師のかたみを殘す江上に御陵あり神功{{r|宮|后ノ誤リナリ}}の御墓といふ寺を干滿珠寺をといふ此ところに行幸ありし事いまだ聞かずいかなる事にや
 
此寺の方丈に座して簾を捲ば風景一眼の{{r|中に|一本中にノ二字ナシ}}盡て南に鳥海天をさゝへ其蔭うつりて江にあり西はむや{{く}}の關路をかぎり東に堤を築て秋田にかよふ道遙に海北に構へて浪うち入る所を汐ごしといふ江の縱橫一里ばかり俤松島にかよひてまたことなり松島は笑ふが如く象潟はうらむるがごとし寂しさに悲しみを加へて地勢魄をなやますに似たり
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   早稻の香や分入道はありそうみ
 
卯花山くりから谷を越て金澤は七月中の五日也爰に大坂よりかよふ商人何{{r|處|處ハ某ノ誤リナリ}}と{{r|いふ者は|一本いふ者ありトアリ}}それが旅宿をともにす一笑といふ{{r|もの|一本はヲ入レタリ}}此道にすける者のほの{{ぐ}}聞へて世にしる人もしに去年の冬早世したりとて其兄追善をもよほすに
 
   塚も動け我泣聲は秋の風
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   しほらしき名や小松吹萩薄
 
此所太田の神社に詣づさねもりが甲錦の切あり徃昔源氏に屬せしとき義朝公よりたまはらせ給ふとかやけにも平氏の物にあらず目庇より吹返しまで菊唐草のほりもの金をちりばめ龍頭に鍬形打たり貞盛討死の後木曾義仲願狀にそへて此社にこめられ侍るよし樋口の次郞が使せし事共まのあたり緣起に見へたり
 
   むさんやな甲の下のきり{{ぐ}}す
 
山中に行{{r|ほど|一本ほどにトアリ}}白根だけあとに見なして步む左の山ぎはに觀音堂あり花山法皇三十三所の順禮とげさせ給ひて後大慈大悲の像を安置し給ひて那谷と名付給ふと{{r|也|一本かやトアリ}}那知谷組の二字をわかち侍しとぞ奇石さま{{ぐ}}に古松うへならべて萱ふぎの小堂岩の上につくりかけて殊勝の土地なり
 
   石山の石より白{{変体仮名2|志|}}秋の風
 
溫泉に浴す其功有明に次と云
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   山中や菊はたおらぬ湯の匂
 
あるじとするものは久米之助とていまだ小童也彼がいふ俳諧を好て洛の貞室若かり{{変体仮名2|志|}}むかし爰に來し頃風雅に辱しめられて洛に歸て貞德老人の門人と成て世に{{変体仮名2|志|}}らる功名の後此一村判詞の料をうけずといふ今更むかしがたりとは成ぬ
 
曾良は腹をいたみていせの國長島といふ所に先立て行くに
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   けふよりや書付けさん笠の露
 
大聖{{r|持|寺ノ誤ナリ}}の城外{{r|今|全ノ誤ナリ}}昌寺といふ寺に泊る猶加賀の地也曾良も前の夜このてらにとまりて
 
   終夜秋風きくやうらの山
 
と殘す一夜のへたて千里に同じわれも秋風を聞つゝ衆寮に臥せは明ほのゝ空近う{{r|空近う讀經|一本□□讀經のトアリ}}讀經聲すむまゝに鐘板鳴て食堂に入る
 
けふは越前國へと心早卒にして堂下に下るを若き僧ども紙硯をかゝへ階の下まで追來る折ふし庭中の柳ちれば
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此一首にて數景盡したりもし一辨を加るものは無用の指を立るがごとし
 
丸岡天龍寺の長老古きちなみあれば尋ぬ亦金澤の北枝といふものかりそめに見過て此所までしたひ來る所々の風景過さす思ひつゞけて折ふしあはれ成る作意など聞ゆ今既に別にのぞみて
 
   物かいて扇引さく名殘哉
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五十町山に入て永平寺を禮す道元禪師の御寺也邦機千里を避てかゝる山陰に跡をのこし給ふも貴きゆへありとかや
 
福井は三里許なれば夕飯{{変体仮名2|志|}}たゝめて出るにたそがれの路たど{{く}}し爰に等栽といふ古き隱士有りいづれの年にか江戶に來て予を尋{{r|は|一本ねしトアリ}}遙十とせあまり也いかに老さらぼひて有るにや將死けるにやと人に尋ね侍ればいまだ存命してそこ{{く}}とおしふ
 
市中ひそかに引入りてあやしの小家に夕顏へちまのはへかゝりて鷄頭箒木に扉をかくす扨は此うちにこそと門を扣けば侘しげなる女の出でいづくよりわたり給ふ道心の御坊にやあるじは此あたり何某のもとに行きぬもし用あらば尋給へといふかれが妻なるべしとしらる昔物語にこそかゝる風情は侍れとやがて尋逢てその家に二夜泊りて名月はつるがのみなとにと旅だつ等栽もともに送らんと裾おかしうかゝげて路の枝折とうかれたつ
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   名月や北國日和さだめなき
 
十六日空晴たればますほの小貝ひろはんと種の濱に舟を走らす海上七里有り天屋何某といふもの破籠小竹筒などこまやかにしたゝめさせ僕あまた舟に取のせて追風時の間に吹つけぬ濱はわづかなる蜑の小家にて侘しき法花寺有りこゝに茶をのみ酒を煖めて夕昏の淋し感にたへたり
 
   寂しさや須磨に勝たる濱の秋