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『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期の俳人松尾芭蕉による紀行文。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、作品中に多数の俳句が詠み込まれている。芭蕉は弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江
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月日は百代の過客にしてゆきかふ年も又旅人なり舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは日{{く}}旅にして旅をすみかとす古人も多く旅に死せるあり
予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやます海濱にさすらへ去年の秋江上の破屋に蜘のふるすを拂ひてやゝ年もくれ春立る霞の空に白川の關越んとそゞろ神の物につきて心をくるはせ道祖神のまねきにあひて取物手につかずもゝひきの破れをつゞり笠の
草の
おもて八句を庵の柱にかけおき彌生も末の七日明ぼのゝ空朧々として月は有明にて光おさまれる物から不二の峰幽にみへて上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし
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行春や鳥は啼き魚の目は泪
是を矢立の初めとして行道猶すゝまず人々は途中に立並びて後影の見ゆる迄はと見送るなるべしことし元禄にとせにや
室の八島に詣す同行曾良が云此神はこの花さくやひめの神と申て富士一躰なり無
三十日日光山の麓に泊るあるじの云けるやう我名を佛五左衞門といふ萬正直を旨とする故に人かくは申侍るまゝ一夜の草の枕もうちとけて休み給へと云ふいかなる佛の濁世塵土に示現してかゝる桑門の乞食順禮ごとき人をたすけ給ふにやと主のなすことに心をとめてみるにたゞ無智無分別にして正直偏固のものなり剛毅木訥の仁に近きたぐひ
卯月朔日御山に詣拜す徃昔此御山を二荒山とかきしを空海大師開基の時日光と改給ふ{{r|も|一本もナシ}}千
あらたふと
剃すてゝくろかみ山に衣かへ 曾良
曾良は河合氏にして惣五{{r|
廿餘町山を登て瀧あり岩洞の頂より飛流して百尺千巖の碧潭におちたり岩窟に身をひそめて瀧のうらよりみれはうらみの
しばらくは瀧に籠るや夏の初
那須の{{r|
かさねとは八重撫子の名なるべし
やがて人里に至ればあたひを鞍壺に結付て馬をかへしぬくろはねの館代
修
夏山に足駄を拜む首途かな
當
たてよこの五尺にたらぬ草の庵
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と松の炭して岩にかきつけ侍りと聞へ給ふ其跡見んと雲岸寺に杖をひけば人にすゝんでともにいざなひ若き人多く道の程うちさわぎて覺へずかの麓に至る
山はおくあるけしきにて谷道遙に松杉
木啄も庵はやぶらす夏木立
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{{r|と|一本コノとナシ}}取あへぬ一句を柱に殘し侍し是より殺生石に行く舘代より馬にて送らる此口付のおとこ短尺得させよと乞ふやさしき事を望み侍るものかなと
野を
殺生石は
田一枚うへて立さる柳かな
心もとなき日數かさなるまゝに白川のせきにかゝりて旅心定りぬいかで都へと便り求めしもことわりや中にも此關は三關の一にして風
卯花をかざしに關の晴着哉 曾良
とかくして越行くまゝにあふくま川をわたる左に會津根高く右に岩城相馬三春の庄ひたち下野の地をさかひて山つらなるかげ沼といふ所を行にけふは空くもりて影うつらずすか川の驛に等窮といふものを尋て四五日とゝめらる先白河のせきいかに越つるやと問ふ長途の勞身心くるしく風景に魂うばはれ
風流のはしめやおくの田植うた
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此宿の傍に大なる栗の木蔭をたのみて世をいとふ僧ありとちひろふ深山もかくやと閒に覺えられてものにかきつけ侍る
栗といふ文字は西の木とかきて西方
行基{{r|ぼさつ|一本ぼさつのトアリ}}一生杖にもはしらにも此木を用ひ給ふとかや
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世の人のみつけぬ花や軒の栗
等窮か宅を出て五里ばかりの檜皮の宿をはなれて淺香山有り路より近し此あたり沼多しかつみ刈るころもやゝ近うなればいづれの草をはなかつみとはいふぞと人々にたつね侍れども更にしる人なし沼をたづね人にとひかつみ{{く}}と尋ねありきて日は{{r|山のはに|一本□山にトアリ}}かゝりぬ二本松より右にきれて
明れはしのぶもぢ摺の石をたづねて忍の里に行く遙山陰の小里に石なかば土に埋れてあり里のわらべの來て敎へけるむかしは此山の上に侍りしを徃
早苗とる手もとや昔忍ぶずり
月の輪の渡しを越て
笈も太刀も五月にかされ紙幟
五月五日の事なり其夜飯塚にやとる
遙なる行末をかゝへてかゝる病ひ覺束なしといへど羇旅邊土の行脚捨身無常の觀念道路に死なん是天命なりと
このごろのさみだれに道いと惡しく身つかれ侍れはよそながら眺めやりて過ぐる蓑輪かさしまもさみだれの折にふれたりと
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岩沼にやどる
武隈の松にこそ目さむる心地すれ根は土際より二{{r|木|木一本本トアリ}}にわかれて昔のすがたうしなはずとしらる先能因法{{r|し|一本し師トアリ一本づトアリ}}おもひ出徃昔陸
武隈の松みや申せ遲さくら 擧白
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名取川渡りて仙台に入るあやめふく日也旅宿を求めて四五日逗留す
ここに畫工加右衞門といふものあり聊心あるものと聞て知る人に成る此者年頃さだかならぬ名跡を考置き侍ればとて一日案
猶松島鹽がまの所々畫にかきて送るかつ紺のそめ
あやめ草足に結ばん草鞋の
かの畫づに任せてたどり行けばおくの細道の山際にとふの菅あり今も年々十符のすげごもを調へて
壺碑 市川村多賀城
つぼのいしふみは高六尺餘
むかしよりよみ置るうた枕多く語りつたふといへども山崩れ川流て道改り石は埋りて土にかくれ木は老て若木にかはれば時うつり代變じて其跡たしかならぬ事のみをこゝに至て疑なき千
それより野田の玉川冲の石をたづぬ末の松山は寺を造てすゑの松山といふ{{r|あひ{{く}}|一本松のあひ{{く}}トアリ}}みな墓原にて羽をかはし枝を連るちぎりの末も終は{{r|かくのみ|一本かくの如きトアリ}}と悲しさもまさりて鹽がまのうらに入相のかねを聞く
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早朝鹽釜明神に詣づ國守再興せられて宮ばしらふとしく彩椽きらびやかに石の階九仭にかさなり朝日朱の玉垣を輝かすかゝる道のはて塵土の境まで神靈あらたにましますこそ吾國の風俗なれといと貴けれ
神前に{{r|寶塔|一本古き寶燈トアリ}}有かねの{{r|
日既に午に近し舟をかりて松島に渡る其間二里餘雄じまの礒につく
抑事ふりにたれど松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖をはぢず東南より{{r|海入て|にヲ落セシナラン}}江の中三里浙江の潮をたゞゆ島々の數を盡して欹ものは天を指ふすものは波に{{r|圃|匍ノ誤リナリ}}匐あるは二重にかさなり三重にたゝみて左にわかれ右に連る負るあり抱あり兒孫を愛するがごとし松のみどり濃に枝葉汐風に吹たはめて屈曲をのづからためたるがごとし其けしき窅然として美人の
雄島がいそは地づつきて海に出たる島也雲居
松島や露に身をかれ時鳥 曾良
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予は口を閉て眠らんとしてねられず舊庵をわかるゝ時素堂松島の詩有原安適松がうら島の和歌を送らる袋をといてこよひの友とす且杉風濁子が發句あり
十一日端岩寺に詣當寺三十二世のむかし眞壁の平四
十二日平泉と心さしあねはのまつ
三代の
夏草や兵ども{{r|が|が一本のトアリ}}夢の跡
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卯花に兼房みゆる白毛哉 曾良
兼て耳驚したる二堂開帳す經堂は三將の像をのこし光堂は三代の棺ををさめ三尊の佛を安置す七寶ちりうせて玉の扉風にやぶれ金のはしら露霜に朽て既頽廢空
五月雨のふりのこしてや光堂
南部道遙にみやりて岩手の里に泊る小
三日風雨あれてよし{{r|なき|一本なくトアリ}}山中に逗留す
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のみしらみ馬の尿する枕もと
主の云く是より出羽國に大山を隔てゝ道さだかならざれば道しるべの人を賴みて越べきよしを申すさらばと云て人を賴侍れば究竟の若者反脇差をよこたへ樫の材を携へて我らか先に立て行くけふこそ心危きめにも逢へき日なれと辛き思ひをなして後について行く主のいふにたがはず高山森々として一鳥聲きかず木の下やみしげりあひて夜行かごとし雲端に土ふる心地して篠の中ふみ分{{く}}水をわたり岩に蹶て肌につめたき汗を流して最上の庄に出づかの案
尾花澤にて
凉しさを我宿にしてねまる也
這出よかひやか下の蟾の
まゆはきを俤にしてべにの花
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蠶飼する人は古代の姿かな 曾良
山形領に立石寺といふ山寺あり慈覺大師の開基{{r|にして|一本しノ字ナシ}}殊に{{r|勝閑|一本
閑さや岩に{{r|しみ込|一本しみ入るトアリ}}せみの聲
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五月雨をあつめて{{r|早し|一本涼しトアリ}}最上川
六月三日羽
有難や雪をかほらす南谷
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四日本坊に於て俳諧興行
五日權現に詣當山開闢能除大師{{r|の|一本はトアリ}}いづれの代の人といふ事をしらず延喜式に羽洲里山の神社とあり書寫
八日月山にのぼる木綿しめ身に引つけ寶冠に頭を包み
岩に腰をかけてしばし休らふほど三尺ばかりなる櫻のつぼみ半開けるありふりつむ雪の下に埋れて春をわすれぬ遲ざくらの花の心わりなし炎天の梅花こゝにかほるがごとし行尊僧正のうたもこゝにおもひ出て猶まさりて覺ゆすべて此山中の微細行者の法式として他言する事を禁ずよりて筆をとゞめて記さず坊にかへれば阿闍梨の需に依て三山順
凉しさやほのみか月の羽
雲のみね幾つくづれて月の山
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湯どの山錢ふむ道の泪哉 曾良
羽
あづみ山吹浦かけてゆふすゞみ
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江山水陸の風光數をつくして今きさかたに方寸をせ{{r|め|め一本むトアリ}}酒田のみなとより東北の方山をこへ磯を傳ひ砂をふみて其際十里日影やゝ傾く頃汐風眞砂をふき上もうろうとして鳥海の山かくる闇中に莫作して雨も又奇也とせば雨後の晴色又たのもしと蜑のとまやに膝を容て雨のはるゝを待つ
その朝そらよく霽れ朝日はなやかにさし出るほとに象潟の{{r|渚に|一本渚ノ字ナシ}}舟をうかぶ先能因島に舟をよせて三年幽居の跡をとぶらひむかふの岸に舟をあかれば花の上こぐとよまれしさくらの老木西行法師のかたみを殘す江上に御陵あり神功{{r|皇宮|后ノ誤リナリ}}の御墓といふ寺を干
此寺の方丈に座して簾を捲ば風景一眼の{{r|中に|一本中にノ二字ナシ}}盡て南に鳥海天をさゝへ其蔭うつりて江にあり西はむや{{く}}の關路をかぎり東に堤を築て秋田にかよふ道遙に海北に構へて浪うち入る所を汐ごしといふ江の縱
象潟や雨に西施かねぶのはな
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象がたや料理何くふ神祭 曾良
蜑の家や
岩上にみさこの巢を見る
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浪こへぬ契ありてや雎鳩のす 曾良
酒田の名殘日をかさねて北陸道の雲にのそむ遙々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里ときく鼠の關をこゆれば越後の地に
文月や六日も常の夜には似ず
あら海や佐渡に
今日は親不知子知らず犬もとり駒返しなどいふ北
白波のよする渚に身をはふらかしあまのこの世を淺ましう下りて定めなき契日々の業因いかにつたなしと物いふをきゝ{{く}}ねいりて朝たび立に我らにむかひて行衞しらぬ旅路のうさ餘り覺束なうかなしく侍れば見へがくれにも御跡をしたひ侍ん衣のうへの御情に大悲のめぐみをたれて結
一家に遊女も
曾良にかたればかきとゝめ侍る
くろべ四十八か
早
卯花山くりから谷を越て金澤は七月中の五日也爰に大坂よりかよふ商人何{{r|處|處ハ某ノ誤リナリ}}と{{r|いふ者は|一本いふ者ありトアリ}}それが旅宿をともにす一笑といふ{{r|もの|一本はヲ入レタリ}}此道にすける者のほの{{ぐ}}聞へて世にしる人も侍しに去年の冬早世したりとて其兄追善をもよほすに
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ある艸庵にいざなはれて
秋凉し手
途中吟
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しほらしき名や小松吹萩薄
此所太田の神社に詣づさねもりが甲錦の切あり徃昔源氏に
むさんやな甲の下のきり{{ぐ}}す
山中に行{{r|ほど|一本ほどにトアリ}}白根がだけあとに見なして
石山の石より白し秋の風
山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるじとするものは久米之助とていまだ小童也彼がいふ俳諧を好て洛の貞室若かりしむかし爰に來し頃風雅に辱しめられて洛に
曾良は腹をいたみていせの國長島といふ所に先立て行くに
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終夜秋風きくやうらの山
と殘す一夜のへたて千里に同じわれも秋風を聞つゝ衆寮に臥せは明ほのゝ{{r|空近う|一本□□のトアリ}}
けふは越前國へと心早卒にして堂下に下るを若き僧ども紙硯をかゝへ階の下まで追來る折ふし庭中の柳ちれば
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物かいて扇引さく名殘哉
五十町山に入て永平寺を禮す道元
福井は三里許なれば夕飯したゝめて出るにたそがれの路たど{{く}}し爰に等栽といふ古き隱士有りいづれの年にか江
市中ひそかに引入りてあやしの小家に夕
白根がだけかくれて比那か{{r|島|嵩ノ誤リナリ}}
その夜月晴たり明日の夜もかく有るべきにやといへば越路の習猶あすの夜の晴陰はかりがたしとあるじに酒すゝめられて
月
十五日亭主のことばにたがはす雨降る
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浪の間や小貝もましる萩の塵
其日の有まし等栽に筆とらせて寺にのこす路通も此みなとまで出むかひてみのゝ國へと伴なふ駒にたすけられて大垣の庄に入れば曾良も伊勢より來り合ひ越人も{{r|馬をはせて|一本馬をとばせてトアリ}}如行が家に入りあつまる前川子荊口父子その外したしき人々とぶらひて蘇生の者に逢ふがごとく且
蛤のふた見にわかれ行秋ぞ
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