「資本論第一巻/第一章 商品」の版間の差分

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第三章 A 残りB、C,D
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そこで、商品体をその使用価値から離れて見るとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである。しかし労働生産物でさえも、既に我々の手の中で変化している。労働生産物の使用価値から抽象することは、同時にまた、労働生産物を使用価値たらしめる有形的な諸成分及び諸形態からも抽象することになる。斯くして労働生産物は、もはや、テーブルでもなく、家でもなく、糸でもなく、その他何等の有用物でもない。労働生産物のあらゆる有形的性質は消え去っている。それはもはや、指物労働、建築労働、紡績労働、その他如何なる一定の生産的労働の産物でもない。労働諸生産物の有用的性質と共に、それらの物に表現されている諸労働の有用的性質もまた消滅し、これら諸労働の種々なる具体的形態もまた消滅する。諸労働はもはや、互いに相異なるところなく、全てが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元されている。
 
然らば、労働諸生産物の残基は何であるかを考察しよう。右の抽象の後に労働生産物に残るものは、同一なる空幻的の対象性のみである。即ち無差別なる人間労働の、換言すれば、その支出の形式に頓著するところなく考えた人間労働力の支出の、異なる凝結のみである。これらの物は結局ただ、その生産のために人間労働力が支出され、人間労働が蓄積されるということを示すに止まる。これらの物は、斯くの如き共通なる社会的実体の結晶として見るとき、価値<ref group="訳者註">N. Barbon, I. c.p. 16.</ref>(Werth)――商品価値<ref group="訳者註">(Waaren werth.</ref>)――なのである。
 
商品の交換関係に於いては、交換価値なるものは使用価値から全く独立したものとして現はれることは、我々の既に見たところである。然るに、労働諸生産物の使用価値から現実的に抽象してしまうと、上に限定せる如き価値が残る。故に商品の交換関係たる交換価値に現われるところの共通物とは、即ち価値であるということになる。本書の研究が進むにつれて、価値の必然的表章様式又は現象形態としての交換価値の説明に論を戻すことになるが、今は先づ、この形態から独立して価値の性質を考えて見ねばならぬ。
 
要するに、一つの使用価値、即ち財は、抽象的意義に於ける人間労働がその中に対象化され実体化されているが故にのみ価値を有するのである。然らばこの価値の大きさは、如何にして秤量されるか。使用価値の中に含まれているところの『価値形成実体』たる労働の量に依つて秤量されるのである。そして労働の量はまた、労働の時間的継続に依つて秤量され、労働時間<ref group="訳者註">(Arbeitzeit  </ref>)は更らに時、日、等の如き一定の時間部分を尺度とするのである。
 
商品の価値がその生産の進行中に支出された労働の量に依つて決定されるとすれば、人が怠惰であり又は不熟練であればある程、商品を造り上げる為にそれだけ多くの時間を要する訳であるから、彼の造る商品はそれだけ価値多いように見えるかも知れぬ。しかしながら、価値の実体を形成する労働とは、等一なる人間労働、換言すれば同一なる人間労働力の支出を言うのである。商品界の価値全体の中に表現される社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成り立つているが、ここでは総べて一様なる人間労働力と見做される。そしてこれらの個別的労働力の各個は、それが社会的の平均労働力たる性質を有し、また斯くの如き社会的の平均労働力として作用し、従って一商品の生産上に、平均的或は社会的に必要なる労働時間のみを要する限り、いづれも皆同一なる人間労働力である。そしてその社会的に必要なる労働時間とは、現在に於ける社会的に標準を成す生産条件と、労働の熟練及び能率の社会的平均程度とを以つて、何等かの使用価値を生産するに必要な労働時間を指すのである。例えば、イギリスに於いて蒸気織機の採用された結果、一定量の糸を織物にするのに恐らく従来の労働の半ばを以つて事足りるようになったであろう。イギリスの手織工は、この同一の仕事に対して事実上従前通りの労働時間を要したのであるが、彼自身の労働一時間の生産物は、今や半時間の社会的労働を表現するに過ぎなくなり、従って従前の価値の半ばに低落したのである。
 
斯くの如く、一の使用価値の価値の大小を決定するものは、社会的に必要なる労働の量、又はその生産上社会的に必要なる労働時間に外ならぬのであつて<ref>第二版註――『諸種の生活必需品が互いに交換される場合、その価値は、これらの物品の生産上必然的に必要とされ、且つ通例充用されるところの労働量に依つて決定される』(匿名者著『一般金利、特にまた公債その他の金利に関する考想』ロンドン、第36頁)<16>。この匿名書は前世紀に於ける注目すべき一著述であるが、それには刊行の日附が与えられていない。しかしその内容から判断すると、ジョージⅡ世の治下、1739年又は40年の頃、公にされたものであることは明かである。</ref><ref group="訳者註">"Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public Funds etc." Lond., p, 36.</ref>、個々の商品は、この場合、総じてその所属種類の平均見本<ref group="訳者註">(Durchschnittsexemplar  </ref>)と見るべきである<ref>『同一種類のあらゆる生産物は相合して一の分量を成すものであつて、その価格は特殊の事情に頓著なく、全般的に決定されるものである』(ル・トローヌ前掲第893頁)<17>。</ref><ref group="訳者註">Le Trosne l. c. p. 893.</ref>。斯くて同一量の労働を含むところの、換言すれば同一の労働時間に生産され得るところの諸商品は、みな同じ大さの価値を有することになる。一商品の価値が他の各商品の価値に対して有する比例は、前者の生産に必要なる労働時間が後者の生産に必要なる労働時間に対して有する比例に等しい。『価値として見れば、如何なる商品も、凝結したる労働時間の一定量に過ぎぬ』のであ<ref>前掲拙著第6頁<18>。</ref><ref group="訳者註">K. Marx, l. c. p. 6.</ref>る。
 
されば商品の価値の大きさは、その商品の生産に必要なる労働時間が不変<ref group="訳者註">(constan  </ref>)であるとすれば変化することはないであろう。然るにこの労働時間は、労働の生産力に変化ある毎に変化するものである。そして労働の生産力はまた、種々なる事情、なかんづく労働者の熟練の平均程度、科学及びその工芸的応用の発達程度、生産行程の社会的結合、生産機関の範囲及び作用能力、諸種の自然事情、等に依つて決定される。例えば同一量の労働が、豊年には8ブシェルの小麦に依つて代表され、不作の年には僅々4ブシェルの小麦に依つて代表される。まだ同一量の労働が、豊坑に於いては痩坑に於けるよりも多量の金属を供給する等の事実もある。ダイヤモンドは、地表に於いては稀有のものであつて、これを見出すには平均して多大の労働時間を要する。斯くしてダイヤモンドは僅少の量を以つて多大の労働を代表することになるのである。ヤコーブは、果して金の全価値が支払はれたことがあるかを疑つている。ダイヤモンドに至っては尚更である。エシュヴェーゲ<ref group="訳者註">(Eschwage  </ref>)に依れば、1823年ブラジルの諸ダイヤモンド坑に於ける過去80年間の採掘総高は、同国に行われる甘蔗及び珈琲栽培業の一年半の平均生産物の価格にも達しなかつた。しかも前者はより多くの労働、従ってより多くの価値を代表していたのである。同一量の労働も、豊坑に於いてはより多大のダイヤモンドに依つて代表されるのであつて、ダイヤモンドの価値は低落することになる。また若し僅少の労働を以つて炭素をダイヤモンドに化し得るようになるとすれば、ダイヤモンドの価値は煉瓦の価値以下に低落し得るのである。概括して言へば、労働の生産力が大なるに従つて、一物品の生産に要する労働時間は益々小となり、その物品に結晶している労働量、従ってこの物品の価値は益々小となるのである。反対に、労働の生産力が小なれば小なる程、一物品の生産に要する労働時間は益々大となり、斯くしてこの物品の価値もまた益々大となるのである。即ち一商品の価値の大小は、この商品に体現している労働の量に正比例し、その生産力には逆比例して変化するのである。
 
物は価値たらずして使用価値たることを得る。即ち人類に対するその物の効用が、労働に依つて生じたのでない場合がそれであつて、例へば、空気や、処女地や、自然的の牧場や、野生の木材などに於いて見るところである。また、物は商品たらずして有用であり、且つ人間労働の生産物たることを得る。例へば、自己の労働の生産物に依つて自己の欲望を充たす人は、使用価値を造り出すには相違ないが、商品を造り出すものではない。商品を生産するためには、彼は単に使用価値を生産するといふのみでなく、また他人のための使用価値を、即ち社会的使用価値を生産せねばならぬ。〔否、単に他人のために<21>(für andere)使用価値を造るということばかりではない。中世の農民は封建主君のために年貢とすべき穀物<22>(Zinskorn)を造り、僧侶のために十分一税とすべき穀物<23>(Zehntkorn)を造つた。然し年貢とすべき穀物も、十分一税とすべき穀物も、他人のために生産されたものではあるが、そのために商品とはならなかつた。生産物が商品となるためには、それが使用価値として役立つ他人の手に交換を通して移轉されることを要するのである〕<ref>第四版註――この括弧内の説明のないため、マルクスは生産者以外の人に依つて消費される生産物の総べてを、商品視したといふ誤解が生じたので、私はここにこれを挿入することにした訳である。――F・E・</ref>。最後に如何なる物も、使用対象たることなくしては価値たることを得ない。物が無用であるとすれば、その内に含まれている労働もまた無用であつて、斯かる労働は労働とは認められず、従って何等の価値をも形成するものではなきいのである。
 
== 第二節 商品に体現する労働の二重性質 ==
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試みに、1着の上衣と10ヤールのリンネルとのごとき2商品を例にとろう。仮に 10ヤールのリンネル=W とすれば 上衣=2W となるように、右の前者が後者に2倍した価値を有するものとする。
 
上衣は特殊の一欲望を充たすところの使用価値である。これを作り出すには、一定種類の生産的活動を要する。この生産的活動の種類は、その目的や、対象や、用具や、結果などによって決定される。ようやくその有用性が生産物の使用価値によって、または生産物が使用価値であるという事実によって表現される労働を、我々は簡単に有用労働<24>(nüzliche Arbeit)と名付ける。この見地のもとにおいては、労働は常にその利用上の効果に関連して考察される。
 
上衣とリンネルとが、各々質を異にする使用価値である如く、その存在を媒介する所の労働もまた互いに質を異にする。裁縫と機織とが即ちそれである。もし上衣とリンネルとが互いに質を異にする使用価値でなく、従ってまた互いに質を異にする有用労働の生産物でないとすれば、両者は商品として対立することが出来なくなる。上衣は上衣と交換されるものではなく、同じ使用価値は同じ使用価値と交換されるものではないからである。
58行目:
種類の異なった使用価値または商品体の総和には、同様にまた種類を異にする所の、門、科、属、種、変種等に分類される様々な有用労働の総和、換言すれば社会的の分業が現れる。この社会的分業は商品生産の存在条件であるが、しかしその反対に商品生産は社会的分業の存在条件たるものではない。古代インド的な共産社会においては労働は社会的に分割されているが、ただしその共産物は商品となるものではない。尚一層手近な例を挙げれば、いかなる工場においても労働は組織的に分割されているが、この分割は労働者が自己の手になった生産物を交換するという事実によって媒介されるものではない。互いに独立した個別的な私労働の生産物のみが、商品として相対立するのである。
 
要するに、各商品の使用価値には、一定の目的に合致した生産的なる活動<25ref group="訳者註">eine bestimmte zweckmässig produktive Thätigkeit.  </ref>即ち有用労働が含まれている。使用価値なるものは、互いに質を異にする有用労働を含むにあらざれば、商品として相互対立することはできない。生産物が一般に商品の形を採る社会、即ち商品生産者の社会においてこそ、互いに独立した生産者の私営業として相互個別的に営まれる有用労働のかかる質的差異は、複雑に編成された一組織なる社会的分業に発展していくのである。
 
上衣を着るものが裁縫師であろうが、裁縫師の注文客であろうが、それは上衣にとっては区別のないことである。いずれの場合にも、上衣は使用価値として作用する。同様に、裁縫業が特殊の一職業となり、換言すれば社会的分業の独立した一部となったからとて、上衣とそれを生産する労働との関係それ自身は何ら変化する所が無い。衣服を着ようとの欲望に迫られた所にあっては、裁縫師という専業者の生じない以前、人類はすでに数千年の久しきに渡って裁縫していたのである。しかし上衣やリンネル、換言すれば天然自然には存在せざる、素材的富の各要素の存在は常に、特殊の自然素材をば特殊の人間欲望に同化せしむる所の、一定の目的に従ってする特殊の生産的活動によって媒介されなければならなかったのである。要するに労働なるものは、これを使用価値の形成者たる有用労働としてみれば、あらゆる社会的形態から独立した人類存在上の一条件であり、人類と自然との間の代謝機能<26ref group="訳者註">Stoffwechsel zwischen Mensch and Natur  </ref>たる人類生活を媒介すべき永遠の自然的必要事<27>(Naturnotwendigkeit)である。
 
上衣、リンネルなどの如き使用価値、約言すれば商品体は、自然素材並びに労働なる二要素の結合したものである。上衣、リンネルなどに含まれる各種有用労働の総和を控除するとき、つねに残る所のものは、人類の助力なくして自然のまま存在している物質的の地盤である。人類は生産上ただ自然それ自身の為る通りにしかなし得ないのである。即ち素材の形態を変更しうるに過ぎない<ref>「宇宙のあらゆる現象は――人の手によって造られたものと、普遍的の自然律によって生じたものとを問わず――現実的の創造を代表するものではなく、素材の形態変化を代表するに過ぎない。人類の才能が再生産の概念を分析するに従って発見する唯一の要素は、集合離散のみである。かくて土地、空気及び田野の水が穀類に変形すれば、これ即ち価値(使用価値のこと。もっともヴェリはフィジオクラットに対するこの論戦の中で彼自身いかなる種類の価値を論じているかを確かと知らなかったのであるが)及び富の再生産である。人の手によって昆虫の羽がビロードに変じ、または金属の若干分辺が時計を形成する場合についても同様である」(ピエトロ・ヴェリ著「政治経済視察」1773年初刊)クストディ編イタリア経済名著集、近世篇、第105巻第22頁)<28>。</ref>。しかのみならず、この形態変更の労働においても、人類は常に諸種の自然力によって支持される。されば労働は、その所産たる使用価値即ち素材的富の唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティーの言う如く、労働は素材的富の父であり、そして土地はその母である。
68行目:
我々の過程によれば、上衣はリンネルの2倍する価値を有している。しかしこれは量の上の際に過ぎないのであってこの問題は今の所まだ我々に関係が無い。そこで我々は、上位1着の価値がリンネル10ヤールの価値に2倍しているとすれば、リンネル20ヤールは上衣1着と同じ大きさの価値を有することを想起する。上衣もリンネルも、価値としては同じ実体の物であり、同一種類の労働を客観的に言い表したものである。然るに裁縫労働と機織労働とは、互いに質を異にする労働である。ところが同一の人間が裁縫と機織とを交互に行う社会状態、換言すればこの二つの異なった労働方法が畢竟、同一個人の労働の変形に過ぎず、なお未だ別々の個人の固定した専門的機能とならないところの(あたかも我々の専業裁縫師によって今日造られる上衣、明日造られるズボンが、同一なる個人的労働の変化を前提するに過ぎないがごとく)社会状態がある。さらに今日の資本制社会においても、労働需要の方向変化に従い、人間労働の一定部分は、ある時は裁縫の形を以って、ある時はまた機織の形を以って供給されることは、一目瞭然の事実である。もちろん、この労働の形態変化は、故障なしには行われぬかもしれないが、とにかく行われねばならぬものである。
 
生産的活動の定形、従ってまた労働の有用的性質を問題外に置くとすれば、生産的活動について残る所のものは、それが人間労働力の支出であるという事実のみである。裁縫と機織とは、互いに質を異にする生産的活動であるとはいえ、いずれも人間の脳髄や、筋肉や、神経や、手などの生産的支出である。そしてこの意味においては、いずれも人間労働である。裁縫と機織とは、人間労働力支出上の異なった2形態に外ならない。もちろん、人間労働力は、いずれかの形で支出されるためには、それ自身既に多かれ少なかれ発達していることを要する。しかし商品の価値なるものは、そのままの人間労働<29ref group="訳者註">menschliche Arbeit schlechthin  </ref>即ち人間労働一般の支出を表現するものである。
 
ブルジョア的社会において、将官なり銀行家なりは極めて重大な役目を演じ、反対にそのままの人間はすこぶるみすぼらしい役目を演ずるのであるが<ref>へ―ゲル著『法理哲学』(ベルリン、1840年刊、第250頁第190節)<34>を参照せよ。</ref>、ここにいう人間労働についてもやはり同様である。即ち人間労働とは、特別の発達なき通例の各人が、平均してその身体組織の中に有する単純労働力の支出を意味する。もちろんこの単純なる平均労働<30ref group="訳者註">einfache Durchschnittsarbeit  </ref>それ自身は、国と文化時代との異なるに従って性質を変更するものであるが、しかし一定の社会について言えば、それは一定している。複雑なる労働<31ref group="訳者註">komplicirtere Arbeit.  </ref>は要するに、単純労働の強められたもの<32>(potenzirte)、或はむしろ倍化されたもの<33>(multiplicirte)に過ぎないのであつて、少量の複雑労働は多量の単純労働に等しきものとなる。この換算が絶えず行われることは経験の示すところである。ある商品は最も複雑なる労働の産物であるかも知れない。しかもその価値によって、それは単純なる労働の生産物と等しからしめられ、斯くして又単純なる労働の一定量を代表するに過ぎないものとされる<ref>ここでは、例えば労働者が一日の労働に対して受ける賃金または価値のことをいうのではなく、労働者の一日の労働か対象化される商品価値についていうのであつて、これは読者の注意を要する所である。労働といふ範疇は、 我々の説明の如き上の段階に於いては、尚いまだ存在していないのである。</ref>。種類の異った各労働がその尺度単位としての単純労働に換算される様々の比例は、生産者の背後における社会的行程に依つて定められるものである。従って生産者から見れば、それは習慣に依つて与えられるかの観を呈して来る。以下、論旨を単純にするため、各種の労働力は直接に単純労働力を代表するものと見る。これによって換算の労が省かれることになるのである。
 
即ち価値としての上衣及びリンネルを考察する場合には、その使用価値の差異から抽象するのであるが、それと同様に、これらの価値によって代表される労働を考察する場合にも、その有用形態たる裁縫及び機織なる差異から抽象することになるのである。使用価値としての上衣及びリンネルは、布と糸とを以ってする目的の一定した生産的活動の結合であり、反対に価値としての上衣及びリンネルは、同一種類の単なる労働凝結物であるが、それと同様に、これらの価値に含まれている労働は、布と糸とに対する生産的関係を通して有意義となるものではたく、ただ人間労働の支出としてのみ意義あるものである。上衣及びリンネルなる使用価値の構成要素が裁縫と機織であるのは、この双方が互いにその質を異にしているからであり、又この双方が各々上衣価値とリンネル価値との実体となるは、その特殊の質から抽象して、いずれも人間労働の質という等一の質を有するものとされる限りに於いてのみ、言い得ることである。ところが上衣とリンネルとは、単に価値一般であるばかりではなく、又一定の大きさを有する価値である。そして我々の仮定に従えば、上衣1着の価値はリンネル10ヤールに2倍している。然らば、これら両価値の大小の差はどこから生じて来るか。それは即ち、リンネルは上衣に比して半分の労働しか含んでおらず、従って後者を生産するには、前者を生産するに比し2倍の時間に渡って労働力を支出せねばならないということから生するのである。 斯くの如く使用価値についていえば、商品に含まれている労働は単に質的にのみ考慮に入るのであるが、価値の大小については、単に量的にのみ、即ち質のどん詰まりなる人聞労働に約元された後にのみ考慮に入るのである。前の場合には労働の『如何にして』と『何』とが問題であるが、後の場合には労働の『幾許』が、時間的蓄積が問題となる。一商品の価値の大小は、その商品に含まれている労働量を代表するものであるから、一定の比例に於ける諸商品は、常に同じ大さの価値でなければならない訳である。上衣の生産に必要なあらゆる有用労働の生産力が不変であるとすれば、上衣の価値の大きさは、上衣自身の量が増すに従って大となる。今、1着の上衣がx日数の労働時間を代表するとすれば、2着の上衣は2x日数の労働時間を代表することになり、以下それに準じて行く。然るに一着の上衣の生産に必要なる労働が2倍に増大し、又は半分に低減したと仮定すれば、前の場合には、1着の上衣は従来2着の上衣が持っていただけの価値を有することになり、又後の場合には、2着の上衣は従来1着の上衣が持っていただけの価値しか有しないことになる。もっともいずれの場合にも、 1着の上衣は従来と同じ役をなし、それに含まれている有用労働は従来と同じ品質を有しているのであつて、ただその生産に支出された労働量が変化しただけである。より多量の使用価値は、それ自身より大なる素材的富を代表する。2着の上衣は1着よりは多い。2着の上衣は2人に着せ得るが、1着の上衣は1人にしか着せられない。しかし素材的富の量は増大しても、それに応じて価値の大きさは同時に減じ得る。この対抗的運動は、労働の二重性から生ずるものである。生産力たるものは常に、有用的な具体的な労働の生産力を意味する事は言うまでもない。そしてそれは事実上、与えられたる期間に於ける、一定の目的に従って営まれる生産的活動の作用程度を決定するに過ぎない。されば有用労働なるものは、その生産力の増減に正比例してより豊富なる生産物源泉ともなり、又より貧弱なる生産物源泉ともなるのである。反対に、生産力の変化は、価値に体現する労働そのものに対しては何等の影響をも及ぼすものではない。生産力たるものは元来、労働の具体的な有用的な形態の一属性であるから、この形態から抽象し去るとき、生産力はもはや労働に対して何等の関係をも有ち得るものではなくなる。従って生産力はいかに変じても、同一の労働が同一の期間に造り出す価値量は不変である。しかし同一の期間に造り出される使用価値の量には、様々なる差異が生じて来る。即ち生産力が増進すれば、より多量の使用価値を生ずるが、生産力が低減すれば、より少量の使用価値を生ずことになるのである。従って、労働の豊度を増進 せしめ、かくしてまた労働より生ずる使用価値の量を増大せしむる生産力変化によって、この使用価値の生産に必要たる労働時間の総体が短縮されるとすれば、かかる揚合には右の増大した使用価値総量の価値の大きさは減少することになる。それと反対の場合には、反対の結果が生じて来る。
 
如何なる労働も、一面から見れば、生理的意味における人間労働力の支出である。そして斯くの如き、等一なる人間労働すなわち抽象的の人間労働という資格に於いては、如何なる労働も商品価値を造り出す。また他の方面から見れば、一切の労働は一定の目的に合致せる特殊の形態<35ref group="訳者註">in besonderer zweckbestimmter Form  </ref>を採った人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用な労働という資格に於いては、一切の労働は使用価値を生産するものである<ref>第二版註。『労働のみが、如何なる時にもあらゆる商品の価値を評定し比較し得る所の、最終かつ現実的の尺度であること』を証明せんがために、アダム・スミスは次の如く言っている。――『同一量の労働は、如何なる時、如何なる所においても、 労働者自身にとっては同一の価値を有しておらねばならぬ。彼の健康、力、活動等が常態にあると仮定し、また彼の有し得る熟練か平均程度のものであると仮定すれば、彼は常にその休息、自由及び幸福の同一量を割愛しなければならぬ」(『諸国民の富』第一巻、第五章)<36>  一方に、アダム・スミスはこの場合(いかなる場合にもそうとは限らないのであるが)商品の生産に支出された労働量が価値を決定するという事と、労働の価値が商品価値を決定するという事とを混同している。従って彼は、同一量の労働が常に同一の価値を有するとの論証を与えようとしたのであるが、他方に又、彼は労働なるものは商品の価値に体現される限り労働力の支出としてのみ考慮に入ることを感知していた。しかしこの場合にもまた、労働力の斯かる支出をば単に休息、自由及び幸秘の犠牲とのみ解し、通例の生命活動<37(normale Lebensbetätigung. )であるとはしておらない。勿論、彼は近世の賃金労働者を眼前に置いていたのであろ。―― 前に註[9]に引用したアダム・スミスの匿名先駆者は、スミスよりも遥か適切にこう言っている。『ある者はこの生活必需品を準備するため一週の間労働に従事していた。.....そして交換により異なった物品を彼に与える所の他の人は、自分にとって丁度同一量の労働及び時間を要しただけのものを計算するよりも適切には、適当の等価なるものが果して何であるかを算定することは出来ない。この事実は畢竟するところ、一方の人の物品によって代表される一定時間の労働が他方の人の物品によって代表される同一時間の労働と交換されることに外ならないのである』(前掲『一般金利特にまた公債利子に関する考想』ロンドン、第39頁)。〔第四版註。英語には、労働のこの2つの異った方面について、2つの異った言い現しを有するという長所がめる。即ち使用価値を造り出して質的に限定される所の労働は labour と対照して work(仕事〕といわれ、価値を造り出して量的にのみ計量される所の労働は work と呼ばれる。英訳本第14頁の註を見よ。F.E.〕</ref>。
 
== 第三節 価値形態すなわち交換価値 ==
商品は鉄、リンネル、小麦などの如き使用価値即ち商品体の形で世に現れる。この形は、それらの物のありのままの現物形態である。しかしながら、これらの物は二重物なるが故にのみ、即ち使用対象であると同時にまた価値負担者(Werthträger)であるが故にのみ、商品たるのである。換言すれば、これ等の物は現物形態(Naturalform)と価値形態(Werthform)との二重形態を有する限りに於いてのみ、商品として現われ、又は商品の形を採ることになるのである。
 
商品の価値対象性(Werthgegenständlichkeit)は掴みどころのないものであつて、それはこの点に於いてクイックリー夫人<ref group="訳者註">Dame Quickly. シェークスピアの『メリー・ワイヴズ・オブ・エンゾーア』に出るカイウス博士の女中で洗濯、料理、裁縫、婚姻、媒酌何でもするという至極重宝な女。  </ref>とは違うのである。商品体は感性的に粗造な対照性を有するものであるが、それと正反対に、商品の価値対照性には自然素材の一点一粒も混ぜられていない。されば個々の商品を如何に捻って見ても、それが価値物(Werthding)として掴み所のないことに代わりはない。しかしながら商品なるものは、同一の社会的単位なる人間労働の表章である限りに於いてのみ、価値対象性を有すること、従って又商品の価値対象性は、純社会的のものであることを想起するとき、この価値対象性は商品対商品の社会的関係によってのみ現われ得ることは、自明の事実となるのである。実際のところ、我々は真に価値を見出すために、それを匿まっている商品の交換価値即ち交換関係から出発したのであるが、今またこの価値現象形態に論を戻さなければならない。
 
商品はその使用価値の種々雑多なる現物形態とすこぶる際立って対照した共通の価値形態なる貨幣形態(Geldform)を有することは何人も――他の事は知らなくても――知る所である。さりもっぱら、我々は故にブルジョア的経済学によって未だかつて試みられたことのない一事を成し途げなければならない。それは即ち、右の貨幣形態の起原を論証すること、換言すれば商品の交換開係に含まれる価値表章(Werthausdruck)の発達を、その最も単純にして最も目立たぬ姿から、人目を眩惑する貨幣形態に至るまで、追跡することである。これによつてまた、貨幣の謎は消減することになるのである。
 
最も単純なる価値関係は、種類の異つた単一の商品――それは如何なる商品であつても構わない――に対する一商品の価値関係であることは明らかである。かくて二つの商品の価値関係は、一商品に対する最も純粋な価値表章を供給することになるのである。
 
=== A. 単純、個別または偶生の価値形態 ===
 
x量 A商品=y量 B商品  又は
 
A商品x量はB商品y量に値している。
 
20ヤールのリンネル = 1着の上衣 又は
 
リンネル20ヤールは、上衣一着に値している。
 
==== (1)  価値表章の両極。相対的価値形態と等価形態 ====
あらゆる価値形態の秘密は、右の単純なる価値形態の中に伏在している。従ってこれが分析こそ、困難の中堅たるもので
 
種類の異った二つの商品AとB(即ち上例でいえばリンネルと上衣)は、この場合、二つの異った役目を演ずることは明らかである。すなわちリンネルは上衣によってその価値を言い表し、上衣はこの価値表章の材料として役立つのである。第一の商品は能動の役目を演じ、第二の商品は被動の役目を演ずる。第一の商品の価値は、相対的価値として表現されている。換言すれば、それは相対的の価値形態(relative Werthform)にある。第二の商品は等価として作用する。換言すれば、それは等価形態(Aequivalentform)にある。
 
相対的価値形態と等価形態とは、相互に従属し交互に制約する不可分的な二要素<ref group="訳者註">Moment (英訳 element)  </ref>であると同時に、又互いに相排斥しあるいは相対抗する両極端、換言すれば同一なる価値表章の両極である。これ等の両形態は常に、価値表章によって相互関連せしめられる異なった商品の間に配置される。例えば、リンネルの価値はリンネルでは、言い現わし得ない。20ヤールのリンネル = 20ヤールのリンネル なる言い現しは、何らの価値表章ともなるものではない。この方程式はむしろ反対に、20ヤールのリンネルは20ヤールのリンネル以外の、即ちリンネルなる使用対象の一定量以外の何ものでもないという事を語るに過ぎないのである。要するに、リンネルの価値はただ相対的にのみ、即ち他の商品によってのみ言い現わされ得るのである。さればリンネルの相対的価値形態なるものは、他の何らかの商品がリンネルと対立して等価形態に在ることを前提する。他方に、等価として作用するこの他の商品は、同時に又相対的価値形態にあり得るものではない。この商品は自己の価値を言い現わすものでなく、ただ他商品の価値表章の材料たるに過ぎないのである。 勿論 20ヤールのリンネル = 1着の上衣 なる言い現し、即ちリンネル20ヤールは上衣1着に値するという言い現しは 1着の上衣 = 20ヤールのリンネル という、即ち上衣1着はリンネル20ヤールに値するという転倒された関係を含む。しかし上衣の価値を相対的に言い現わすためには、この方程式を転倒する必要がある。そしてかくするや否やリンネルは上衣に代って等価となるのである。斯くの如く、同一の商品は、同一の価値表章に於いて、同時に相対及び等価の両形態を採ることは出来ないのであつて、これ等の両形態はむしろ両極的に相排斥するものである。
 
所で一つの商品が相対的価値形態に在るか、又はその反対の等価形態に在るかという事は、全く価値表章に於ける各場合の位置に依って定まるものである。換言すれば、それが自己の価値を言い現わす商品であるか、言い現わされる商品であるかの如何に依って、定まる事である。
 
==== (2)相対的価値形態 ====
 
===== a 相対的価値形態の内容 =====
一商品の単純なる価値表章が、いかように二商品間の価値関係内に伏在するかを見出すためには、まず量的方面から全く切り離して、この価値関係を観察する必要がある。然るに大抵の人は、それと正反対の方法をとって、価値関係の中に、二種類の商品の定量が等位に置かれる比例のみを見て、異った物の大小はそれを同一の単位に約元するとき、初めて量的に比較し得るに至ることを看過する。異った物の大小はこれを同一なる単位の言い現しとして見るとき、初めて同一分母の大きさ、従ってまた通約し得る大きさとなるのである。<ref>サミュエル・ベーリーと同様にして価値形態の分析に従事した少数の経済学者たちは、第一に価値形態と価値とを混同したるため、第二に又、実際的ブルジョアの粗硬なる影響を受けて最初から量的定性にのみ着眼したるため、遂に何等の結果にも到達することが出来なかった。『量の支配が ..... 価値を構成するのである』(ベーリー著『貨幣とその変遷』 ロンドン、1837年刊、第11頁)</ref>
 
20ヤールのリンネル = 1着の上衣 であるにしろ、または =20着の上衣 であるにしろ =x着の上衣 であるにしろ、換言すればリンネルが少数の上衣に値するにしろ、多数の上衣に値するにしろ、 いずれにしてもこれ等の比例は常に、リンネルと上衣とが価値の大きさとしては同一単位の言い現しであり、同一性質の二物であることを意味している。 リンネル = 上衣 はこの方程式の基礎となるのである。
 
しかしこれ等の二商品は質的に等位におかれるとはいえ、その演ずる役目は同一ではない。これによって、リンネルの価値のみが言い現わされるのである。いかにしてか。リンネルの「等価」又はリンネルと「交換され得る物」としての、上衣に関連せしめられることによってである。この関係に於いては、上衣は価値の存在形態(Existenzform)、即ち価値物として通用する。なぜならば単に斯かる物としてのみ、上衣はリンネルと同一であるからである。
 
他方にまた、リンネルの固有の価値性(Werthsein)<ref group="訳者註">『価すること』と訳したところもある。  </ref>が前方に現われて来る。換言すれば、それは独立した一表章を与えられるのである。なぜならば、リンネルはただ価値としてのみ、自己の等価物又は自己と交換され得る物としての上衣に相関的となるからである。同様に酪酸はギ酸プロピルとは異った物質である、しかし双方とも、同じ化学的実体から成り立っている。即ちいずれも炭素(C)、水素(H)、及び酸素(O)から成り、しかも同じ割合の結合、即ち C4H8O2 を有している。そこで今、ギ酸プロピルを酪酸と等位に置くときは、この関係に於いて先ずギ酸プロピルは単に C4H8O2 の存在形態に過ぎないものと見倣されるであろう。そして次に、酪酸もまた C4H8O2 から成るといわれるであろう。斯くの如く、ギ酸プロピルを酪酸と等位に置く事によって、両者の化学的実体はその物体的形態から区別して言い現わされることになるのである。 商品はこれを価値として見れば、人間労働の単なる凝結であるという時、我々の分析によって商品は価値抽象(Werthabstraktion)に約元されることになるが、しかしその現物形態とは異った何等の価値形態をも付与されることにはならない。然るに、他商品に対する一商品の価値関係に於いてはそうではない。この場合には、一商品の価値性質(Werthcharakter)は他商品に対するそれ自身の関連を通して現われて来る。 例えば、上衣を価値としてリンネルと等位に置くとき、上衣に含まれている労働はリンネルに含まれている労働と等位に置かれることになる。ところが上衣を造る裁縫は、リンネルを造る機織とは異った一つの具体的労働である。しかし機織と等位に置かれることによって、裁縫は事実上これらの両労働に於ける現実的等一物、即ち双方に共通した人間勢労働という性質に約元されることになる。この迂回によって、機織もまた価値を織る限りに於いては裁縫と区別せらるべき何等の特徴をも有しないこと、換言すれば抽象的の人間労働であることが明かになる。種類の異なった商品の等価表章によってのみ、価値形成労働の特殊性質が鮮明にされる。けだし商品に含まれている種類の異った諸労働は、この等価表章に依って事実上その共通物なる人間労働一般に約元されることになるからである<ref>第二版註。ウィリアム・ペテー以後に価値の性質を看破した最初の経済学者の一人である着名なフランクリンは言う。 ――『商業なるものは総じて、一つの労働を他の労働と交換する事に外ならないのであるから、あらゆる物の価値は労働によって最も正確に秤量される』(スパークス編『フランクリン集』ボストン、1836年刊、第二巻、第267頁)。斯くあらゆる物の価値を『労働によって』秤量する時、交換される諸労働の差異は抽象し去られて、等一なる人間労働に約元されるということは、フランクリンの意識しなかった所である。彼はこの事実を知らなかった。しかし彼が言っているのは、正にその事である。即ち彼れは初めに『一つの労働』と言い、次に『他の労働』と言い、最後にあらゆる物の価値の実体として、それ以上の名を付せず単に、『労働』と言っている。</ref>。
 
しかし、リンネル価値を構成する労働の特殊性質を言い現わしただけでは、まだ十分でない。流動状態にある人間労働力、即ち人間労働は、価値を造り出すけれども価値ではない。それは凝結した状態に入り、対象的形態を採ったとき価値となるのである。リンネルの価値を人間労働の凝結として言い現わすためには、我々はそれをリンネル自身とは物的に異っていて、しかも同時にリンネルにも他の商品にも共通した一つの「対象性」(Gegenständlichkeit)として言い現わされなければならない。この問題は既に解決されている。
 
リンネルの価値関係に於いては、上衣はリンネルと質の等しい物、即ち同一性質の物として通用する。それは一つの価値であるからである。従ってそれはこの場合、価値が現われてゆく所の物、換言すればその捕捉し得べき現物形態を以って価値を代表している所の物として通用する。勿論、上衣なる商品の現物体は、単なる使用価値である。上衣は我々の掴む最初のリンネルの一片と同様に、価値を言い現わすものではない。この事実は要するに、上衣はリンネルに対する価値関係以外に於いてよりも、その以内に於いての方が、多くの意義を有している――もっとも人によっては、 金縁付きの上衣を着ていると、それを着ていない時よりも意義がある如く――ことを論証するに過ぎない。
 
上衣の生産に於いては事実上、裁縫の形で人間の労働力が支出せられた。即ち上衣の中には人間の労働力が蓄積さ れているのである。この方面から見れば、上衣は即ち『価値の負担者』である。もっとも上衣の斯かる性質それ自体は、上衣が如何に擦り切れても、その糸目から透いて見える訳ではない。そしてリンネルの価値関係に於いては、上衣はただこの方面からのみ、即ち体現された価値として、価値物体としてのみ意味を有している。リンネルは上衣がボタンをかけた盛装に誤られず、その中にこれと血筋の繋がった美しい価値の魂を認めたのである。しかしリンネルから見て価値が同時に上衣の形を採ることなくんば、上衣はリンネルに対して価値を言い現わし得るものではない。それは丁度、Bな る個人から見て陛下の地位が同時に又Aなる個人の風貌容姿を帯び、従って君主の代わる毎にその容貌や、毛髪や、他のいろいろなものを変更することなければ<ref group="訳者註">原文では A と B とを取り違えているように思われる。英訳本ではここに訳した通りになっている。私も意味の上から英訳本の方が正しいと信じ、暫くそれによることにした。  </ref>、AはBに対して陛下たり得ないのと同様である。
 
上衣がリンネルの等価たる価値関係に於いては、上衣形態が価値形態として通用し、リンネルなる商品の価値は、上衣なる商品の現物体を通じて言い現わされる。即ち一商品の価値は、他商品の使用価値によって言い現わされることになるのである。リンネルはこれを使用価値として見れば、感性的に上衣と異なる一物であり、また価値として見れば、『上衣に等しき物』であって、上衣たるが如く見える。斯くしてリンネルは、その現物形態とは異った価値形態を与えられることになる。リンネルの価値性(Werthsein)商品上衣との交通を通じて語っていることは我々の認める所である。ただリンネルは、己れ一人だけに通ずる言語、即ち商品語を以ってその思想を洩らすのである。リンネルはその価値が人間労働という抽象的性質から見た労働によって形成されることを語らんとするに、上衣なるものは、それがリンネル自身と等しく通用する限り、即ち価値である限り、自身と同一の労働から成ると言うのである。リンネルはその崇高なる価値対象性がその粗硬なる現物体とは異なるものであることを語らんとするに、価値は上衣のように見え、従ってリンネル自身はこれを価値物として見れば、上衣と全て瓜二つだと言うのである。ついでに言うが、商品語もヘブライ語の外に尚幾多の、多かれ少なかれ正確な方言を有している。例えばラテン系の動詞ヴァレレ、ヴァレル、ヴァロアール<ref group="訳者註">Valere (イタリア ) 。 Valer (スペイン). Valoir (フランス)。いずれも『値する』の意。  </ref>は、ドイツ語の「ヴェルトザイン」<ref group="訳者註">Werthsein. 『値すること』『価値性』  </ref>よりもより適切に、Bなる商品をAなる商品と等位に置くことは、Aなる商品自身の価値表章たる事を言い現すものである。パリーは聖祭も同然だ!<ref group="訳者註">Paris vaut Lien tine messe! パリは真に聖祭に値する。  </ref>
 
価値関係によって、商品Bの現物形態は、商品Aの価値形態とたり、換言すれば、商品Bの現物体は商品Aの価値鏡となるのである<ref>ある意味に於いて、人もまた商品の如くである。人は鏡を手にしてこの世に来たるものではなく、また『我は我なり』と主張するフィヒテ流の哲学者としてこの世に来たるものでもないから、彼はまず他の人の姿を映して見る。ペテロなる人はまず自分に等しいものとしてのポーロなる人に連携して、初めて人としての自分自身に連携するのである。しかしまた、皮膚と頭髪とを有するポーロは、かくの如き現身のポーロとして、人類なる種族の現象形態として、ペテロの目に映ずるのである。</ref>。商品Aは、価値体として、即ち人間労働の体化としての商品Bに関連せしめられること(beziehen)によって使用価値Bを自分自身の価値表章とする。斯く商品Bの使用価値によって言い表された商品Aの価値こそ相対的価値なる形態を有するものである
 
===== '''b 相対的価値形態の量的限定性''' =====
価値を言い表わさるべき各商品は、15シェッフェルの小麦、100斤のコーヒーなどの如き一定量の使用対象である。斯くの如き一定の商品量は、一定量の人問労働を含むものである。されば価値形態は、単に価値一般を言い現わすばかりでなく、又量的に限定された価値即ち価値の大小をも言い現わすべきものとなる。かくて商品Bに対する商品A即ち上衣に対するリンネルの価値関係に於いては、上衣なる商品種類は単に価値体一般として質的にリンネルと等位に置かれるのみではなく、又例えば20ヤールなる一定量のリンネルに対して、例えば1着の上衣というが如き一定量の価値体または等価物が等位に置かれることとなるのである。
 
20ヤールのリンネル = 1着の上衣  または 『20ヤールのリンネルは1着の上衣に値する』 という方程式は、1着の上衣には20ヤールのリンネルに於けると正確に等量の価値実体が含まれていること、即ちこれら2個の商品量はともに同じ分量の労働、同じ大きさの労働時間に値することを前提する。ところが20ヤールのリンネル、または1着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織もしくは裁縫上の生産力(''Productivekraft'')に変化のある都度変化するものである。そこで以下、かくの如き変化が価値大小の相対的表章に及ぼす影響を研究しなければならない。
 
'''(一)'''、上衣の価値が不変で、リンネルの価値が変化する場合<ref>『価値』という言い現わしは、この揚合――上段の設明に於いても時に臨んで暫行的に用いた如く――量的に限定された価値、即ち価値量の意味に用いてある。</ref>。例えば亜麻栽培地の豊度が減じたため、リンネルの生産に要する労働時間が2倍に増大したとすれば、リンネルの価値もまた二倍に増大する。斯くて 20ヤールのリンネル = 1着の上衣 は 20ヤールのリンネル = 2着の上衣 となるであろう。なぜならば、1着の上衣は今や20ヤールのリンネルに比べて僅かに2分の1の労働時間しか含まない事になるからである。反対に例えば、機織の改良された結果、リンネルの生産に必要なる労働時間が半分に減じたとすれば、リンネルの価値もまた半減して、今や 20ヤールのリンネル = 2分の1着の上着  となる。されば商品Aの相対的価値、即ち商品Bによって言い現わされた商品Aの価値は、商品Bの価値に変化なしとすれば、商品Aの価値に正比例して増大しまたは減少するのである。
 
'''(二)'''、上衣の価値が変動して、リンネルの価値が不変である場合。例えば羊毛の牧穫思わしからざるため、上衣の生産に必要なる労働時間が2倍に増大したとすれば、20ヤールのリンネル = 1着の上衣 は 20ヤールのリンネル = 2分の1着の上衣 となる。反対にもし上衣の価値が半分に減じたとすれば、20ヤールのリンネル = 2着の上衣となる。即ち商品Aの価値に変化なき時は、商品Bによって言い現わされるAの相対的価値は、Bの価値変化に逆比例して増減することとなるのである。
 
以上(一)及び(二)における種々なる場合を比較するとき、相対的価値の同一なる分量変化が全く反対の原因から生じ得ることが知られる。即ち 20ヤールのリンネル = 1着の上衣 なる方程式は、
 
(1)リンネルの価値が2倍に増大した結果としても、または上衣の価値が半分に減じた結果としても、20ヤールのリンネル = 2着の上衣 なる方程式に転化され、更に
 
(2)リンネルの価値が半分に減じた結果としても、又は上衣の価値が2倍に増大した結果としても20ヤールのリンネル = 2分の1着の上衣 なる方程式に転化されるのである。
 
'''(三)'''、リンネル及び上衣の生産に必要なる労働が、時を等しうして同一の方向に同一の比例を以って変化することもあり得る。かかる揚合には、双方の価値が如何ほど変化しても、 20ヤールのリンネル = 1着の上衣 なる方程式には変化がない。リンネル及び上衣のかかる価値変化は、価値不変なる第三の商品と比較して見れば解る。若しあらゆる商品の価値が同時に同一の比例を以って増騰し又は低落するとすれば、相対的価値には変化が生じないであろう。この場合における現実的の価値変化を知るには、右の価値騰落以後、同一の労働時間を以って生産せられる商品量が従前 に比して一般に大となつたか、小となつたかを見るべきである。
 
'''(四)'''、リンネルと上衣各々の生産に必要なる労働時間、従って各々の価値は、時を等しうして同一の方向に、しかし異なった比率を以って、又は反対の方向その他の様式に変化し得る。そして斯種の在り得べき一切の変化の結合が一商品の相対的価値に及ぼす影響は、単純に上記(一)(二)(三)なる各場合の応用に依って知られる所である。要するに、価値量の現実的変化は相対的表章(即ち相対的価値の大小)に依って一点の疑いをも残さざる様に、又は一つの余す所なき迄に、反映されるものではない。商品の価値の不変であっても、相対的価値は変化し得る。また価値は変化しても、相対的価値は不変なることもあり得る。最後に又、価値量とその相対的表章とが同時に変化してもかかる変化は必ずしも相一致するものでないのである。<ref>第二版註。価値量とその相対的表章との間のかかる不一致は、俗学的経済学によりお定まりの鋭さを以って利用された所である。例をあげて見よう。――『Aと交換されるBが増進する結果、Aが低減する(Aの生産に支出される労働が減少せざるに)ことを一度許容するとせよ。然らば汝の普遍的な価値律は立ちどころに倒れてしまう。 ..... 彼(リカルド)にして若し、Aの価値がBに比べて増進するとき、Bの価値がAに比べて低減することを許すとすれば、彼は正に、商品の価値は常にその商品の中に体化されている労働に依って決定されるという大命題の根底を履えすことになる。けだしAの費用に於ける変化が、Aと交換される所のBに関係させて見たAの価値を変化せしむるのみではなく、またBを生産する労働の分量に何等の変化も生ぜざるに、Aの価値に比べて、Bの価値を変化せしめるとせば、それこそ一つの物品に付与された労働の分量が、その物品の価値を左右<64>すると主張する説を覆す以上に尚、物品の生産費か価値を左右すると主張する説をも、覆すことになるからである』(ブロードハースト著『経済学』ロンドン、1842年刊、第11及び14頁)。ブロードハースト氏は同様にこうも言い得るのである。―― 試みに10/20、10/50、10/100  等の分数を見よ。10なる数字は不変である。しかしその相対的の大きさ、即ち分母 20、50、100 等に比例した大きさは不断に減少してゆく。かくて、例えば10なる整数の大きさは、その中に含まれている 1 なる単位の数に依って『左右』されるという大原則は覆されることになる。</ref>
 
==== (3)等債形態 ====
Aなる一商品(リンネル)の価値が、種類の異ったBなる一商品(上衣)の使用価値に依つて言い現わされるとき、後者それ自身の上に等価という特殊の価値形態が印刻されることは、我々の既に見た所である。リンネルなる商品は、上衣がその物体的形態とは異つた価値形態を採る事なくして自己と等位に通用されるという事実に依つて、それ自身の価値性を表明する。即ちリンネルは実際のところ、上衣が直接自己と交換し得るという事実に依つて、それ自身の価値性を言い現わすものである。されば一商品の等価形態とは要するに、それが他商品と直接交換され得ること<Austauschbarkeit>形態なのである。上衣の如き商品種類が、リンネルの如き他の商品種類に対して等価の役をつとめるとしても、従って、リンネルと直接交換され得る形態に在るという特殊の性質が上衣に与えられるとしても、上衣とリンネルとの交換され得べき比率は、それだけではまだ確められたことにならないのである。リンネルの価値の大小は一定しているのであるから、この比率は上衣の価値の大小に懸る訳である。上衣が等価として、リンネルが相対的価値として言い現わされているにしろ、あるいは反対に、リンネルが等価として、上衣が相対的価値として言い現わされているにしろ、いずれにしても上衣の価値の大小が、その生産に必要なる労働時間に依つて決定され、従って価値形態からは独立して決定されることに変わりはない。しかし上衣なる商品種類が価値表章上、等価の位置を占めるや否や、その価値量はもはや、価値量としての表章を受けなくなる。価値方程式の上からいえば、上衣なる商品種類はむしろ一つ物の定量として作用するに過ぎなく なる。 例えば、40ヤールのリンネルは何かに『値して』いる。何に値しているかといえば、即ち2着の上衣に値しているのである。上衣なる商品種類はこの場合、等価の役割を演じ、換言すれば上衣なる使用価値はリンネルに対し価値体として通用するのであるから、従って又一定量の上衣はリンネルなる一定の価値量を言い現すに十分のものとなる。かくて、2着の上衣は40ヤールのリンネルの価値量を言い現し得る。しかしそれは自分自身の価値量、即ち上衣の価値量を言い現し得るものではない。この事実、即ち等価なるものは、価値方程式上つねに一つ物の、一つの使用価値の単純なる形態を有するに過ぎないという事実の皮相的解釈こそ、かのベーリー並びに彼の先駆者たり後継者たる多くの人々をして、価値表章の中に単なる量的比率を見るの錯誤に陥らしめたものである。しかも事実はむしろ、商品の等価形態なるものは、何らの量的価値決定をも含むものではない。等価形態を考察する際、我々の注意に上る第一の特色は、使用価値がその反対物たる価値の現象形態となるという事実である。商品の現物形態は価値形態となる。しかしここに注意すべきことは、この物対物<quid pro quo >はこれを商品B(上衣なり、小麦なり、鉄なり)の立場から見れば、他の随意の一商品A(リンネルなど)が、それと関連せしめられる価値開係の内部にのみ、ただこの関係の範囲内にのみ、行われるという事実である。如何なる商品も、それ自身に対しては等価関係に立つことが出来ず、従って又、自身の現物形態を以つて自身の価値の表章たらしめることは出来ないのであるから、勢い他の商品を等価として、それに関係しなければならないことになる。 即ち他商品の現物形態を以つて、自己の価値形態たらしめなければならないことになるのである。
 
いま商品体としての商品体、即ち使用価値としての商品体に応用される一つの尺度を以つて、この事実を例解しよう。棒砂糖は物体なるが故に、重さを有している<ist schwer >。従って目方がある<hat Gewicht>。しかし如何なる棒砂糖を眺めても、擦つても、その目方は分からない。いま、予め目方の確定された様々なる鉄片を採る。鉄片の具体的形態は、俸砂糖の具体的形態と同様に、それ自身として考察するときは、重さの現象形態ではない。しかし棒砂糖を重さとして言い現わすには、それを鉄との重量関係に置く。この関係に於いては、鉄は重さ以外には何物をも代表せざる物体として作用する。されば鉄の各分量は、砂糖の目方の尺度として役立ち、砂糖体に対しては単なる代表された重さ<Schwere>、即ち重さの現象形態を代表することになる。そしてこの役目は、砂糖なり、目方の確定せらるべき他の何等かの物体なりが、鉄との間に結ぶ右の関係の内部においてのみ、鉄によつて演ぜられるのである。若しいずれにも重さが無いとすれば、両者はこの関係に入ることが出来ず、かくして一方は他方の重さの表章としては役立ち得なくなるであらう。双方を秤皿に載せるとき、いづれも重さとして同一物であること、従ってまた一定の比率に置いて見れば、いづれも同じ目方のものであることを、我々は事実において知るのである。斯くの如く、目方の尺度としての鉄体は、捧砂糖に対して単に重さのみを代表するのであるが、それと同様に、上記の価値表章に於いても、上衣体はリンネルに体して単に価値を代表するだけのものである。しかしこの点で、類似は終わってしまう。鉄は棒砂糖の目方の表章たる資格を以つて、これ等の両物体に共通の現物性質なる重さを代表するのであるが、上衣はリンネルの価値表章たる資格を以つて、これ等の両物体の超自然的性質たる価値、即ち純粋に社会的のものを代表するのである。
 
一つの商品なる例えばリンネルの相対的価値形態が、この商品の現物体及びその諸性質とは全く異った或る物、例えば上衣に等しき物として、それ自身の価値性を言い現すとき、この表章それ自体は一つの社会的関係を包蔵するものであることを暗示している。等価形態の場合は反対である。けだし等価形態なるものは、上衣の如き商品体がそのままの姿で価値を言い現わしているということ、換言すれば本来的に価値形態を具備しているということを本領としているのである。これは、上衣商品がリンネル商品に対して等価の位置に立つ価値関係の内部に於いてのみ、言い得る事である。<ref>(ニ十一)かかる反射関係に総じて一種特別なものである。例えば、ある人は他の人々が彼に対して臣民たる関係に立つが故にのみ国王である。然るに後者に前者が国王なるが故に、その臣民たるものと考えている。</ref>しかし物の諸性質は、他物に対するその物の関係から生ずるのではなく、むしろ斯かる関係を通じて顕証されるに過ぎないのであるから、上衣はその等価形態、即ち直接交換し得るという性質を、重さや保温性と同様に本来具備しているように見える。この点に、等価形態の謎的性質が由来しているのである。この謎的性質は、等価形態が完全に発達し、貨幣の形をとつて経済学者の前に現われるに及んで、初めて彼のブルジョア的に粗雑な注意に上るのであつて、その時彼は金銀に換うるに、それほどまばゆくない諸商品を以つてすることにより、又嘗て商品等価の役目を演じたあらゆる商品の目録をば常に新たなる浦足を以って積み上げることに依つて、金銀の神秘的性質を解き去ろうとする。20ヤールのリンネル = 1着の上衣 というごとき最も単純なる価値表章が、既に等価形態の謎を提出して居ることは、彼の気付かなかつた所である。
 
等価として役立つ商品の現物体は、常に抽象的人間労働の体化たるものであって、それは一定の有用な具体的な労働の産物たることを常とする。かくしてこの具体的労働は、抽象的の人間労働を、言い現わしたものとなるのである。例えば、上衣が抽象的人間労働の単なる体現として通用するとき、事実上上衣の中に体現されている裁縫もまた、抽象的人間労働の単なる体現形態として通用することになる。リンネルの価値表章を通して見られる裁縫の有用性なるものは、この労働によって衣服従って又人の身なりが造られるという点に存するものではなく、むしろ価値たる事、従って又リンネルの価値に対象化されている労働から少しも区別し得ざる労働の凝結たる事を認めしむる一つの物体が、それによって造られるという点に存しているのである。斯様な価値鏡となるためには、裁縫それ自体が人間労働たる抽象的性質以外の何物をも反射しないことを必要とする。
 
裁縫なる形態に於いても、機織なる形態に於いても、人間労働力が支出されるという点に差異はない。即ち双方とも人間労働の一般的性質を具備しているのであつて、例えば価値生産という如き一定の場合に於いては、いずれもこの見地の下にのみ考慮に入り得るのである。これ等すべての点を通じて、神秘的な所はない。しかし商品の価値表章になると、問題が転倒して来る。一例を挙げれば、機織は機織たるその具体的形態に於いてでなく、人間労働たる一般的性質において、リンネルの価値を形成するという事実を言い現わすためには、リンネルの等価を生産する所の裁縫なる具体的労働が、抽象的人間労働の明瞭なる体現形態として機織に体立して来るのである。
 
斯くの如く、具体的労働がその反対物なる抽象的人間労働の現象形態になるという事実こそ、等価形態の第二の特色たるのである。
 
しかしこの具体的労働なる裁縫は、無差別なる人間労働の単なる表章として通用するとき、他の労働、即ちリンネルの中に含まれている労働と等一の形態を有し、従って他のあらゆる商品を生産する所の労働と同様に私的労働であるとはいえ、しかも直接に社会的なる形態を採つた労働となるのであつて、さればこそ、それは他の商品と直接に交換し得る生産物となつて現われるのである。斯く、私的労働がその反対の形態なる直接社会的の形態を採つた労働になるという事は、即ち等価形態の第三の特色たるのである。
 
これ等の最後に述べた等価形態の二特色は、思想形態や、社会形態や、自然形態など幾多の形態と相並んで、更に価値形態をも初めて分析した所の大思想家に遡って考えるとき、より理解し易きものとなる。その大思想家というのは即ちアリストテレスのことである。 アリストテレスはまず、商品の貨幣形態なるものが単純なる価値形態(換言すれば、任意に選んだ何等かの商品をもってする一商品の価値表章)の更に発達した容姿に過ぎないことを明かに述べている。即ち彼は 5ベッド = 1家屋 は 5ベッド = 幾許かの貨幣 と『異なるところがない』と言っている。
 
彼は又、この価値表章を含む価値関係が更に、家屋がベッドと質的に等しいものとされる事、並びにかかる本質上の等一性なくんば、これ等の感性的に異つた物は、通約し得べき大きさとして相互に関係せしめられ得るものでない事を認めている。彼は言う。――『交換は等一なくして存在し得るものではなく、等一は通約性なくして存在し得るものではない』と。が彼はここで行き詰まってしまって、価値形態のそれ以上に進んだ分析を放棄している。『しかし斯く種類の異つた物が通約され得るという事』、換言すれば質的に等しいという事は、『本当は不可能である。』かかる等一はこれ等の物のその性質には関係なきものであつて、『実地の必要に対する応急策』たり得るに過ぎないのであると。
 
要するに、アリストテレスは、彼のそれ以上に進んだ分析が如何なる点で頓挫したかを自ら語っている訳であつて、即ち価値概念の欠如という事がその頓挫の原因となつたのである。ベッドの価値表章に於いて、家屋がベッドに比して代表する所の等一物、換言すれば、家屋とベッドとの双方に共通する所の実体は何であるか。斯様な物は、『本当は存在し得るものでない』と、アリストテレスは言う。何故存在し得ないか。ベッドと家屋との双方に於ける現実的の等一 物が家屋に依って代表される限り、家屋はベッドに比して等一物を代表することになる。そしてその等一物とは即ち人聞労働のことである。
 
然るに商品価値の形態に於いては一切の労働が等一なる人間労働、即ち同じ値打のものとして言い現はされるという事実をば価値形態それ自身の中から看取することを、アリストテレスにとって不可能ならしめた原因がある。それは即ち、ギリシアの社会は奴隷労働に立脚するものであって、人類及びその労働力の不等を自然的の基礎にしていたという事実である。一切の労働は人間労働一般であるが故に、又その限りにおいてのみ、等一であり同じ値打のものであるという、価値表章の秘密は、人類平等の概念が既に固定して先入的俗見となつた時、初めて解明し得るものである。しかしかかる事実は、商品形態が労働生産物の一般的形態となり、従って又商品所有者としての人類相互の関係が、支配的の社会関係となっている社会のもとに、初めて行われ得ることである。アリストテレスは商品の価値表章の中に統一関係を発見した点に、天才の閃きを示しているが、彼の生存せる社会の歴史的制限によって、この等一関係なるものが『本当は』いかなる事実に存しているかを見出すことを妨げられたのである
 
==== (4)単純価値形態の総体<du Ganze der einfachen werthform > ====
一商品の単純なる価値形態は、種類の異なった他の一商品に対する価値関係、換言すれば交換関係の中に含まれている。商品Aの価値は、商品Bを以つてそれと直接に交換し得るという事実に依つて、質的に言い現わされる。語を換えていえば、一商品の価値は、それが『交換価値』として表現される事に依り、独立した形に言い現わされるのである。本章の冒頭においては、通俗的に商品は使用価値及び交換価値であると言つたが、それは巌密にいうと誤りである。商品は使用価値即ち使用対象であって、かつ『価値』なのである。商品はその価値が現物形態とは異なる特殊の現象形態を、交換価値な る形態を採るとき、かかる二重物として表現されるのであつて、この形態は商品を他から切り離して観察する時は決して存在するものでなく、種類の異つた他の一商品との価値関係または交換開係に於いてのみ得られることになるのであ る。これだけの事を心得て置けば、右の如き言い方も有害とはならず、却って省略の目的に役立つのである。 商品の価値形態、換言すれば価値表章なるものは、商品価値の性質に起因するものであつて、反対に価値及び価値大小が交換価値なる表章様式に起因するものでないことは、先の分析に依つて論証された所である。しかもこの後の見解こそ、マーカンチリスト及びその近世的蒸し返し屋なるフェリエー、ガニール<ref>第二版註。エフ・シー・エー・フェリエー(税関副検査官)著『商業に関連して考察せる政府」パリ 1805年刊。シャール・ガリール著『経済学体系』第二版、パリ  1821年刊。</ref>等、並びに彼らの反対論者なるバスチア及びその一派の如き近世自由貿易商入等の抱いていた妄想なのである。マーカンチリストは価値表章の質的方面に重きを置き、かくして貨幣に依り完成姿容を与えられる所の、商品の等価形態を特に強調する事になつたのである。これに反して、如何なる価格を以っても商品を売り飛ばしてしまわなければならぬ近世自由貿易行商人は、相対的価値形態の量的方面に重きを置くのであつて、彼等から見れば、商品の価値も価値大小も、交換関係による表章以外の所、換言すれば、日々の物価票以外の所には存在するものでない。スコツトランド人マクラウドは、ロムバード街<ref group="訳者註">Lombard Street ロンドン市の有名な銀行街。英国金融の中心。広く銀行金融社会の意に用いられる。  </ref>の錯乱したる観念をば出来得る限り学識的に粉飾する任務を以って、迷信的なマーカンチリストと啓蒙された自 由貿易行商人とを総合せしむることに成功したのである。
 
我々は商品Bへの価値関係に含まれている商品Aの価値表章を仔細に観察することに依つて、この関係の内部に於いては商品Aの現物形態は単に使用債値の姿容としてのみ、又商品Bの現物形態は単に価値形態、即ち価値姿容<74>としてのみ通用する事を明ら
 
かにした。斯くして各商品の中に包まれている使用価値と価値との内部的対立は、外部的の対立に依り、換言すれば価値が言い現はさるべき商品を直接単に使用価値としてのみ通用せしめ、反対に価値を言い現す方の商品を直接単に交換価値としてのみ通用せしむる二商品間の関係に依つて表現される事となる。要するに一商品の単純なる価値形態は、その商品の中に含まれている使用価値と価値との対立の単純なる現象形態となるのである。 如何なる社会状態の下に於いても、労働生産物は使用対象たるものであつて、ただ使用物品の生産上支出された労働をその「対象的」性質として、価値として表現せしむる歴史的に限定された一つの発展時期に於いてのみ、労働生産物は商品に転化されるのである。そこで商品の単純なる価値形態は、同時に又、労働生産物の単純なる商品形態であり従って商品形態の発達なるものは、価値形態の発達と一致するということになる。
 
単純なる価値形態が不十分である事は、一見して知られる。この価値形態は、一列の転形を遂げる事に依って初めて価格形態に熟成する所の胚種形態に過ぎないのである。
 
商品Aの価値が他の何等かの商品Bに依つて言い現はされるという事は、要するにAの価値がそれ自身の使用価値から区別されるという事に過ぎない。従ってこの表章は、Aをそれ自身とは異なって何等かの単一なる商品種類との交換関係に置くだけであつて、他のあらゆる商品に対するAの質的等一対びに量的比例を表現するものではないのである。 一商品の単純なる相対的価値形態は、他の一商品の単一なる等価形態を伴う。かくして上衣なる商品はリンネルの相対的価値表章たる開係に於いては、リンネルという単一の商品種類についてのみ等価形態、即ち直接に交換し得る形態を採ることになるのである。
 
だが、単一なる価値形態は、おのずからより完全なる形態に推転するものである。単一なる価値形態に依つても、Aなる一商品の価値が、種類の異った単一の商品を以って言い現わされることは事実である。しかしこの第二の商品が如何なる種類の物であるか、即ちそれが上衣であるか、鉄であるか、小麦又はその他の物であるかという事は、どうでもいい問題である。そこで甲なる商品種類に対して価値関係に入るか、乙なる商品種類に対して価値関係に入るかに従って、同一商品についても種々異った単純なる価値表章が生ずることになる。<ref>第二版註。例えばホーマーについて見るに、一つの物の価値は種々異つた一列の諸物によって言い現わされる。</ref> 斯様な可能的価値表章の数は、他の異った商品種類の数に依ってのみ制限される、かくて商品の個別的価値表章は、種々異った単純なる価値表章の絶えす延長し得る一列に転化される訳である。
 
== 脚注 ==