「資本論第一巻/第一章 商品」の版間の差分
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物の有用性は、この物を使用価値たらしめる<ref>『如何なる物の自然的価値も、その物が諸種の必要を充たし、又は人間生活の諸便宜に応ずる適当性ということに存している』(ジォン・ロック著『利子低減の諸結果に関する研究』1691年初刊、1777年ロンドン出版ロック全集本、第2巻第28頁)。17世紀に於いても尚、イギリスの著述家たちが使用価値の意味でworthなる言葉を使用し、また交換価値の意味でvalueなる言葉を使用していたことを、我々はしばしば発見する。これは全く、現実の物に対してはチュートン系の言葉を使用し、主観に反射された物に対してはラテン系の言葉を使用することを好む国語の精神に一致するところである。</ref>。しかしこの有用性は、空中に浮んでいるものではない。それは商品体の諸性質に基くものであつて、商品体を離れては存在しない。されば鉄、小麦、ダイヤモンドなどの如き商品体それ自身が一の使用価値、即ち財なのである。商品体のこの資格は、商品体の使用上の諸能性を占有するために、人類が多くの労働を費したか、少しの労働しか費さないかに懸るものではない。我々は使用価値を考察するに当り、つねに、その一定の分量を前提する。例へば何ダースの時計、何ヤールのリンネル、何トンの鉄などという如くである。商品の使用価値は、特殊の一学科たる商品学<ref>ブルジョア的社会に於いては、如何なる人も、商品の購買者として、百科辞典的商品知識を有すといふ擬制が行はれている。</ref>に材料を供給するものである。使用価値なるものは、使用又は消費に依つてのみ実現される。富の社会的形態の如何を問はず、使用価値は常にその実材的内容を形成する。そして我々がここに考究せんとする社会形態に於いては、それは同時にまた、交換価値の実材的負担者たるのである。
交換価値は先づ、分量関係即ち一種類の使用価値が他種類の使用価値と交換される<ref>『価値は斯々の一物と斯々の他物、一生産の斯々の尺度と斯々の他の尺度との間に存する交換関係の中に成立つものである』(ル・トローヌ著『社会的利益について』デール編フヰジオクラット、パリー、1846年刊、第889頁)。<
一定の商品、例えば1クォターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金、約して言へば、種々様々な比例に於ける他の諸商品と交換される。されば小麦は、単一の交換価値のみを有するものではなく、多数の交換価値を有しているのである。然るにx量の靴墨も、y量の絹も、z量の金なども、総べて皆、1クォターの小麦の交換価値であるから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは交互に置き換へ得るところの、又は互いにその大きさを等しくするところの交換価値であらねばならぬ。そこで第一に、斯くいう結論が生じて来る。即ち、同じ一商品の有効なる各交換価値は、一つの等一物を言い表している。第二にまた、総じて交換価値なるものは、それ自身と区別し得る或内容の表章様式即ち『現象形態』たり得るのみである。
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幾何学上の単純なる一例を以つて、この事実を明かにしよう。如何なる直線形にしろ、その面積を決定し比較するためには、これを三角形に分解する。そしてまた、この三角形それ自体は、これをその目に見える形とは全く異つた言ひ現し、即ちその高さと底との積の二分の一に約元する。これと同様に、諸商品の交換価値もまた、それに依つてより多量なり少量なりを表現されているところの一共通物に約元し得るのである。
この共有物は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、又はその他の自然的性質ではあり得ない。商品の有形的性質は総じてそれが商品を有用ならしめ、使用価値たらしむる限りに於いてのみ、考慮に入るものである。他方にまた、商品の使用価値からの抽象こそ、商品の交換比例をば一目瞭然的に特徴するところのものである。この交換比例の内部に於いては、一つの使用価値はそれが適当なる比例を以つて存在しさえすれば、他の如何なる使用価値とも同じに通用する。或はまた、老バーボンの言う如く、『一種類の商品と他種類の商品とは、その交換価値の大さが等しければ共に同じものである。同じ大さの交換価値を有する物の間には、何等の差異も区別もない』<ref>『100ポンドに値する鉛なり鉄なりは、100ポンドに値する銀なり金なりと同じ大さの価値あるものである』
そこで、商品体をその使用価値から離れて見るとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである。しかし労働生産物でさえも、既に我々の手の中で変化している。労働生産物の使用価値から抽象することは、同時にまた、労働生産物を使用価値たらしめる有形的な諸成分及び諸形態からも抽象することになる。斯くして労働生産物は、もはや、テーブルでもなく、家でもなく、糸でもなく、その他何等の有用物でもない。労働生産物のあらゆる有形的性質は消え去っている。それはもはや、指物労働、建築労働、紡績労働、その他如何なる一定の生産的労働の産物でもない。労働諸生産物の有用的性質と共に、それらの物に表現されている諸労働の有用的性質もまた消滅し、これら諸労働の種々なる具体的形態もまた消滅する。諸労働はもはや、互いに相異なるところなく、全てが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元されている。
然らば、労働諸生産物の残基は何であるかを考察しよう。右の抽象の後に労働生産物に残るものは、同一なる空幻的の対象性のみである。即ち無差別なる人間労働の、換言すれば、その支出の形式に頓著するところなく考えた人間労働力の支出の、異なる凝結のみである。これらの物は結局ただ、その生産のために人間労働力が支出され、人間労働が蓄積されるということを示すに止まる。これらの物は、斯くの如き共通なる社会的実体の結晶として見るとき、価値<
商品の交換関係に於いては、交換価値なるものは使用価値から全く独立したものとして現はれることは、我々の既に見たところである。然るに、労働諸生産物の使用価値から現実的に抽象してしまうと、上に限定せる如き価値が残る。故に商品の交換関係たる交換価値に現われるところの共通物とは、即ち価値であるということになる。本書の研究が進むにつれて、価値の必然的表章様式又は現象形態としての交換価値の説明に論を戻すことになるが、今は先づ、この形態から独立して価値の性質を考えて見ねばならぬ。
要するに、一つの使用価値、即ち財は、抽象的意義に於ける人間労働がその中に対象化され実体化されているが故にのみ価値を有するのである。然らばこの価値の大きさは、如何にして秤量されるか。使用価値の中に含まれているところの『価値形成実体』たる労働の量に依つて秤量されるのである。そして労働の量はまた、労働の時間的継続に依つて秤量され、労働時間<
商品の価値がその生産の進行中に支出された労働の量に依つて決定されるとすれば、人が怠惰であり又は不熟練であればある程、商品を造り上げる為にそれだけ多くの時間を要する訳であるから、彼の造る商品はそれだけ価値多いように見えるかも知れぬ。しかしながら、価値の実体を形成する労働とは、等一なる人間労働、換言すれば同一なる人間労働力の支出を言うのである。商品界の価値全体の中に表現される社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成り立つているが、ここでは総べて一様なる人間労働力と見做される。そしてこれらの個別的労働力の各個は、それが社会的の平均労働力たる性質を有し、また斯くの如き社会的の平均労働力として作用し、従って一商品の生産上に、平均的或は社会的に必要なる労働時間のみを要する限り、いづれも皆同一なる人間労働力である。そしてその社会的に必要なる労働時間とは、現在に於ける社会的に標準を成す生産条件と、労働の熟練及び能率の社会的平均程度とを以つて、何等かの使用価値を生産するに必要な労働時間を指すのである。例えば、イギリスに於いて蒸気織機の採用された結果、一定量の糸を織物にするのに恐らく従来の労働の半ばを以つて事足りるようになったであろう。イギリスの手織工は、この同一の仕事に対して事実上従前通りの労働時間を要したのであるが、彼自身の労働一時間の生産物は、今や半時間の社会的労働を表現するに過ぎなくなり、従って従前の価値の半ばに低落したのである。
斯くの如く、一の使用価値の価値の大小を決定するものは、社会的に必要なる労働の量、又はその生産上社会的に必要なる労働時間に外ならぬのであつて<ref>第二版註――『諸種の生活必需品が互いに交換される場合、その価値は、これらの物品の生産上必然的に必要とされ、且つ通例充用されるところの労働量に依つて決定される』(匿名者著『一般金利、特にまた公債その他の金利に関する考想』ロンドン、第36頁)<16>。この匿名書は前世紀に於ける注目すべき一著述であるが、それには刊行の日附が与えられていない。しかしその内容から判断すると、ジョージⅡ世の治下、1739年又は40年の頃、公にされたものであることは明かである。</ref><ref group="訳者註">"Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public Funds etc." Lond., p, 36.</ref>、個々の商品は、この場合、総じてその所属種類の平均見本<
されば商品の価値の大きさは、その商品の生産に必要なる労働時間が不変<
物は価値たらずして使用価値たることを得る。即ち人類に対するその物の効用が、労働に依つて生じたのでない場合がそれであつて、例へば、空気や、処女地や、自然的の牧場や、野生の木材などに於いて見るところである。また、物は商品たらずして有用であり、且つ人間労働の生産物たることを得る。例へば、自己の労働の生産物に依つて自己の欲望を充たす人は、使用価値を造り出すには相違ないが、商品を造り出すものではない。商品を生産するためには、彼は単に使用価値を生産するといふのみでなく、また他人のための使用価値を、即ち社会的使用価値を生産せねばならぬ。〔否、単に他人のために<21>使用価値を造るということばかりではない。中世の農民は封建主君のために年貢とすべき穀物<22>を造り、僧侶のために十分一税とすべき穀物<23>を造つた。然し年貢とすべき穀物も、十分一税とすべき穀物も、他人のために生産されたものではあるが、そのために商品とはならなかつた。生産物が商品となるためには、それが使用価値として役立つ他人の手に交換を通して移轉されることを要するのである〕<ref>第四版註――この括弧内の説明のないため、マルクスは生産者以外の人に依つて消費される生産物の総べてを、商品視したといふ誤解が生じたので、私はここにこれを挿入することにした訳である。――F・E・</ref>。最後に如何なる物も、使用対象たることなくしては価値たることを得ない。物が無用であるとすれば、その内に含まれている労働もまた無用であつて、斯かる労働は労働とは認められず、従って何等の価値をも形成するものではなきいのである。
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== 脚注 ==
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== 訳者註 ==
<references group="訳者註" />
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