「Page:Chiba-machi annai (Shinkichi Masujima, 1911).pdf/30」の版間の差分

Higa4 (トーク | 投稿記録)
→‎未校正: ページの作成:「遂に相闘ふに至った時、胤直は圓城寺方に黨したので、胤房の激怒する處となり大兵を率ひて、攻め寄せ火を猪鼻城に放つた...」
(相違点なし)

2016年1月31日 (日) 08:34時点における版

このページはまだ校正されていません

遂に相闘ふに至った時、胤直は圓城寺方に黨したので、胤房の激怒する處となり大兵を率ひて、攻め寄せ火を猪鼻城に放つたのて、さしも堅牢な城壁も灰燼に歸して了つたのは實に惜んでも餘りある事である。而して臺の中腹から頂にかけ一面櫻樹が植付けられてあるので、花咲き満つる時は湘望皎然白雲の如く、遠く緑の海と相對して、美しい一幅の畫のやうな景を呈する。

  千葉殿の狩屋引いたり枯れ尾花       蕪  村

◎御茶水 お茶の水の舊跡は猪の鼻臺の下、萬菊楼の前にある小さな祠の下の井戸で、縣道に添ふて居る目抜な場所であるが人多く是を知らない。其お茶の水と云ふ所以は往古賴朝が安房上總を經て千葉に來たり豬鼻城に憩ふた時、此井戸から水を汲んでお茶を入れて進めたら殊の外賞美されたと云ふので其名がある。井水は今も絶えず吹き流れて居て、又不動の瀧とも呼ばれてゐる。

◎七ッ塚 七つ塚は千葉常胤の子七人を七天王と稱して祀つたと云ふ説が専ら傳はつてゐるか、七天王は房総三州の各地に亘り離居して居た事故七つ塚の所因も疑はしい。今も醫學校の中に三箇所、其●●にも三箇所の都合六つ丈は残つてゐて、何れも塚には巨松が殖えてある。

◎龍田 旭町の裏猪の鼻の丘蔭に龍田りうだと稱へる水田がある。其昔龍が其所こゝから昇天したとでも云ふ話があるのだらう。維新前千葉神社祭典の折、十二段の舞ひをし乍ら本町通りへかゝつて來る大船の中、龍頭を冠ったまひ方は遙かに東方此田の方に向ひ恭しく一禮した。

◎観音塚 今の海上山千葉寺から東方に去る八丁、永暦元年焔燒前同寺の存した處は聖武帝より三界六道の勅額を賜はつた舊蹟として今も遺つてゐる。

◎姥ヶ臺 千葉寺に姥ヶ臺御殿と云ふのがある、之は千葉家の姥が千葉寺邊に