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り、平良文の孫なる忠常の子常将は下総權介に任せらるゝに際し、前述した如く、千葉氏を名乗るに至り、猪鼻に城を構へ、三代常兼の世に及んて一度び上総の大椎に移つたが大治元年六月一日再び千葉の地に移つて、愈々此所を居城と定める事になつたのである。千葉常将から五代の孫は即ち千葉家に一新紀元を劃した、千葉常胤の代てある。時に源頼朝が兵を起し、鎌倉幕府を創始するに當つて、常胤は賴朝の旗下に馳せ、爾来平氏なりし千葉家氏は茲に變じて源家に属する事になつたのである。(尤も其の以前常将の代より源家とは関係が深かつた)されば一度び平氏亡て源氏の世となるや、常胤の一族は勢を得、各所より千葉の地に集り来るもの多く、百般の事潮く盛んならんとするに至つたのてある。千葉集は記して曰く「大治元年丙午六月朔、始めて千葉を立つ(町の事なるべし)凡そ一萬六千軒なり、表八千軒裏八千軒、小路表裏。五百八十餘、曾場鷹大明神より御達報稲荷の宮の御前まで七里の間御宿なり(六丁一里なるべし)」云々、以て當時如何に繁盛であったかと云ふ事は察するに餘りあらうと思ふ。斯くして鎌倉源氏は過ぎ、南北朝時代には、千葉家は北朝に属して尊氏に従ひ、後寛永十年六月十六日千葉の介重胤は江戸に於て客死した、そこで千葉氏の宗統は意に亡びた。是れ始めて千葉家を起せし常将の時より算して實に約六百年てある。<br />
り、平良文の孫なる忠常の子常将は下総權介に任せらるゝに際し、前述した如く、千葉氏を名乗るに至り、猪鼻に城を構へ、三代常兼の世に及んて一度び上総の大椎に移つたが大治元年六月一日再び千葉の地に移つて、愈々此所を居城と定める事になつたのである。千葉常将から五代の孫は即ち千葉家に一新紀元を劃した、千葉常胤の代てある。時に源頼朝が兵を起し、鎌倉幕府を創始するに當つて、常胤は賴朝の旗下に馳せ、爾来平氏なりし千葉家氏は茲に變じて源家に属する事になつたのである。(尤も其の以前常将の代より源家とは関係が深かつた)されば一度び平氏亡て源氏の世となるや、常胤の一族は勢を得、各所より千葉の地に集り来るもの多く、百般の事潮く盛んならんとするに至つたのてある。千葉集は記して曰く「大治元年丙午六月朔、始めて千葉を立つ(町の事なるべし)凡そ一萬六千軒なり、表八千軒裏八千軒、小路表裏。五百八十餘、曾場鷹大明神より御達報稲荷の宮の御前まで七里の間御宿なり(六丁一里なるべし)」云々、以て當時如何に繁盛であったかと云ふ事は察するに餘りあらうと思ふ。斯くして鎌倉源氏は過ぎ、南北朝時代には、千葉家は北朝に属して尊氏に従ひ、後寛永十年六月十六日千葉の介重胤は江戸に於て客死した、そこで千葉氏の宗統は意に亡びた。是れ始めて千葉家を起せし常将の時より算して實に約六百年てある。

△千葉氏滅後 一度び千葉氏の有を離れた千葉街は、其後屡々領主が變つて、徳川の代には所謂「千葉宿」となつて存し、佐倉領に属して巨商富豪は門を閉し、或ひは去つて、花卉隠約たりし庭苑も雑草の蓬生するに任ぜるに至つた。後世享和の俳人成美が或時千葉に旅して
△千葉氏滅後 一度び千葉氏の有を離れた千葉街は、其後屡々領主が變つて、徳川の代には所謂「千葉宿」となつて存し、佐倉領に属して巨商富豪は門を閉し、或ひは去つて、花卉隠約たりし庭苑も雑草の蓬生するに任ぜるに至つた。後世享和の俳人成美が或時千葉に旅して
若菜摘む人さへ見へず千葉屋敷
若菜摘む人さへ見へず千葉屋敷