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現時千神社に鎮座せる所謂妙見尊王の由来である。<br />
現時千神社に鎮座せる所謂妙見尊王の由来である。<br />
而して後年一條天皇は勅旨して比所を勅願所と定められ、千葉家丗一代の間綿続し、徳川家康公又深く當寺を崇敬し祭典料として永代二百石を寄附せられて来たが、明治戊辰の春王政復古となり神佛混淆改制に當り、寺院では祭典が出来ないので、妙見寺の稱を改めて妙見社とし、天御中主命を祭り、相殿には軽津主命と日本武命の二神を祭り、後再び縣社千葉神社と稱せらるゝに至ったのである。本社は古へは堂宇壮麗を極めて居たが、明治七年火災の爲め堂塔悉く烏有に歸して見るべきものは無くなつた其後屡々再築の議は唱へられたが兎角遅延に付せられ、僅か十六坪程の仮堂の儘になってゐるのは誠に惜しむべきであると有志の主唱に依り夫れ{{〱}}準備をして居るから名社千葉神社の再建を見るも恐らく遠い事てはあるまい。尚境内には十二小社を祀れる外、千葉招魂社を建て、戦死者の忠魂を祭る霊場となつてゐる。
而して後年一條天皇は勅旨して比所を勅願所と定められ、千葉家丗一代の間綿続し、徳川家康公又深く當寺を崇敬し祭典料として永代二百石を寄附せられて来たが、明治戊辰の春王政復古となり神佛混淆改制に當り、寺院では祭典が出来ないので、妙見寺の稱を改めて妙見社とし、天御中主命を祭り、相殿には軽津主命と日本武命の二神を祭り、後再び縣社千葉神社と稱せらるゝに至ったのである。本社は古へは堂宇壮麗を極めて居たが、明治七年火災の爲め堂塔悉く烏有に歸して見るべきものは無くなつた其後屡々再築の議は唱へられたが兎角遅延に付せられ、僅か十六坪程の仮堂の儘になってゐるのは誠に惜しむべきであると有志の主唱に依り夫れ{{〱}}準備をして居るから名社千葉神社の再建を見るも恐らく遠い事てはあるまい。尚境内には十二小社を祀れる外、千葉招魂社を建て、戦死者の忠魂を祭る霊場となつてゐる。