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現時千神社に鎮座せる所謂妙見尊王の由来である。
而して後年一條天皇は勅旨して比所を勅願所と定められ、千葉家丗一代の間綿続し、徳川家康公又深く當寺を崇敬し祭典料として永代二百石を寄附せられて来たが、明治戊辰の春王政復古となり神佛混淆改制に當り、寺院では祭典が出来ないので、妙見寺の稱を改めて妙見社とし、天御中主命を祭り、相殿には軽津主命と日本武命の二神を祭り、後再び縣社千葉神社と稱せらるゝに至ったのである。本社は古へは堂宇壮麗を極めて居たが、明治七年火災の爲め堂塔悉く烏有に歸して見るべきものは無くなつた其後屡々再築の議は唱へられたが兎角遅延に付せられ、僅か十六坪程の仮堂の儘になってゐるのは誠に惜しむべきであると有志の主唱に依り夫れ準備をして居るから名社千葉神社の再建を見るも恐らく遠い事てはあるまい。尚境内には十二小社を祀れる外、千葉招魂社を建て、戦死者の忠魂を祭る霊場となつてゐる。

△寒川神社 寒川字仲宿、都川河口の邊にあり。祭神は天照大御神、寒川比古命、寒川比賣命の三神を祀る。勧請の年月等は詳らかでないが、千葉家盛衰記、佐倉風土記等に依つて見ても、延喜式内の古社であると云ふ事は明らかだ。尚本社宮殿の下には石櫃に納めたものがあつて霊験顕著との説あり、往古は海上を走る船も、當社の前を過ぐる時は禮帆と云って、帆を少し下げて行き、乗馬者は馬を下り恭しく禮をして過ぎた。若し一度び犯す時は神の崇を受けるとの事、又神事の砌は鎰取の者葺を以て庭篝を養いたと云ふ事である。而して社殿は文明十三年辛丑九月二十日破損した爲め原胤次が改築したが、後又焼失したので、今では三尺四方の小祠がある許り、近く改築の工事を起す由。境内には大消、稲荷等の七社を祀ってゐる。