「十七条憲法」の版間の差分

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*訓は飯島忠夫・河野省三編『勤王文庫』第一篇(大日本明道館。大正八年六月十五日発行:{{NDLJP|959961/16}})による。
*口語訳は林竹次郎「ハナシコトバ十七條憲法」『林古溪小篇第一(補訂第三版)』古溪歌會、1935年、{{NDLJP|1272857}} による。
*口語訳(新字新仮名遣)は林(1935)を新字新仮名遣に改め、難読漢字にルビを振り、踊り字を調整したものである。
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第十七に、一體、政治上の事柄は、獨りできめてしまつてはいかぬ。多勢の役人たちと相談してやるがよい。小さな事は、まあ相談には及ぶまいが、大事件と思はれることは、やり損ひがあるといかんから、みんなと相談してきめてゆくのである。多勢で相談すれば、道理にかなつたもつともなところが出て來る。
 
== 口語訳(新字新仮名遣) ==
第一に、なかよくすることが、なにより大切である。さからわないのが{{ruby|肝心|かんじん}}である。{{ruby|人|ひと}}はみんな{{ruby|仲間|なかま}}をくみたがるが、胸のひろいものが少ない。で、なかには君に背き、親にさからい、隣近所の嫌われものになってしまうものなどもある。けれども、上のものと下のものとが、仲よくしあって、むつびあって、よく相談しあえば、物の道理、仕事のすじみちがよくたって、何でも成就しないことはない。
 
第二に、よくよく三つの宝をたっとばねばならぬ。三つの宝というのは、仏と法と僧とである。この三つのものは、一切の生物の心の最後のよりどころであり、すべての国々の政治の大切な根本である。いつの時代でも、いかなる人でも、{{ruby|此|こ}}のおしえを大切にしないものはない。{{ruby|凡|およ}}そ人間というものは、非常な悪人というものは無いものである。教えみちびいてゆきさえすれば、必ず{{ruby|善|よ}}くなるものである。それにつけても、三宝にたよらなければならない。三宝によらなければ、まがった心をなおす{{ruby|方|みち}}がない。
 
第三に、天皇の御命令があったら、必ずかしこまらねばならぬ。君は天である。臣は地である。天は{{ruby|凡|すべ}}てのものを覆いつつみ、地は一切のものを載せて持っており、それによって{{ruby|春夏|はるなつ}}秋冬も{{ruby|工合|ぐあい}}よく行われ、四方の気も通じあうのである。{{ruby|若|も}}しも地が、下にいるのがいやだといって、天をつつまうとするなら、{{ruby|此|こ}}の世界はただちにつぶれてしまう。であるから、君が{{ruby|仰|おお}}せられた{{ruby|言|こと}}をば、臣はつつしんで承り、これに従わねばならぬ。{{ruby|上|かみ}}にたつものが実地に行えば、{{ruby|下|しも}}のものはすぐとなびき従うものである。この通りであるから、{{ruby|詔|みことのり}}を承ったら、必ずかしこまっておうけしなさい。そうしなければ自然、自分で自分をほろぼすことになる。
 
第四に、いろいろの官吏、公吏、役人たち、礼を、行いの土台にしなさい。人民を治めてゆく{{ruby|大本|おおもと}}は、第一は礼である。上の役人が礼を守らなければ、下のものはうまく治まらない。又、下のものが礼を守らなければ、{{ruby|屹度|きっと}}、罰せられることになる。{{ruby|処|ところ}}で、官公吏役人たちに礼があり、人民たちに礼があれば、上下の秩序、位地、次第が、きちんとして乱れることはなく、従って、国家は自然に治まるのである。
 
第五に、役人たちは、{{ruby|慾|よく}}深く、物をほしがる心をやめて、ねがいのすじを、うまく、まちがいなくさばかねばならぬ。人民のうったえ、争いは、一日の中には千もある。一日でもそうである。いわんや一年なり二年なりしたら、大した数になるであろう。つまり、訟のないようにせねばならぬ。{{ruby|此|こ}}の頃のさばきをする役人たちは、自分のもうけになるようにするのがあたりまえだと思って、賄賂おくりものの多い少ないによって、さばきをつける。けしからぬことである。するというと、金、財産のある家の{{ruby|訟|うった}}えごとは、石を水の中に投げ込む様に、いつも、まちがいなく通る。金のないものの訴えは、水を石に投げる様に、大抵はねかえされ、取りあわれない。こんな風であるから、貧しい人、財産の無い人たちは、{{ruby|何処|どこ}}へも、どの様にも願い出るみちがない。こんなことでは、役人としても、臣たるつとめを、欠くことになる。
 
第六に、「悪いことを懲らしめ、{{ruby|善|よ}}いことをはげます、」これは昔から、人を治めてゆくものの、{{ruby|善|よ}}いきまり、手本である。そこで、人々は、他人のした{{ruby|善|よ}}い事、ほまれをかくしてはならぬ。悪いことは、なおしておやりなさい。上役には、ていさいよく気に入る様にし、うわべをかざり、ごまかすことは、国家をほろぼすため{{ruby|利|よ}}い道具であり、人民を殺すための{{ruby|刃物|はもの}}である。また、{{ruby|口先|くちさき}}だけでうまく御機嫌を取り、上役に取り入ろうとする人は、きっと、上役に対しては{{ruby|下|した}}のものの悪いことを話し、下のものに対しては、上役のよろしくないことを、そしりかげぐちをきく。{{ruby|此|こ}}の様な人は、君には忠義をつくさず、人民にはなさけをかけぬものである。こんなふまじめなことは、国家に大乱をおこす{{ruby|本|もと}}である。
 
第七に、人にはそれぞれ、つとめ役目がある。むやみに人の仕事に、手出し、口出しをしてはいかん。それにつけても才智のすぐれた、よく物の道理をわきまえた人が、役についておれば、よく治まって、{{ruby|頌音|ほめうた}}がうたわれる。道理にはずれ、こころのまがった人が、役についていると、世の{{ruby|禍|わざわい}}、世の乱れが甚しくなる。一体、{{ruby|此|こ}}の世には、生れつきかしこいというものは少ない。よくよく考え考え、工夫してするから、立派な聖人、すぐれた人にもなれるのである。すべて、大事でも小事でもよい人があればうまく出来る。どんないそがしい時でも、すぐれた人があれば、ゆったりとのびのびと治まってゆく。{{ruby|此|こ}}の様によい人があると、国家は永久にさかえ、あぶないという様なことは無くなる。であるから、昔から、すぐれた王様は、役があるから、それをつとめる人をさがすので、人にやりたいために、役をおくということはしない。
 
第八に、官吏公吏つとめにんたち、御役所へは早く出よ。むやみに早くさがってはいかん。世の中の政治上の務め、{{ruby|公|おおやけ}}の仕事は、十分しっかりやり、粗末には出来ないのである。一日中やってもやりおわることはない。それを、おそく出て来れば急な用にまにあわず、早くさがれば仕事はなげやりになる。
 
第九に、まこと、まじめで、うそいつわりを言わぬことは、人の道を守ってゆく根本である。何事をするにも真心で、しんせつにおやりなさい。{{ruby|善|よ}}くなり、成功するもとは、第一に、この真心である。官吏、公吏が、お互いにまじめに真心をつくしあったら、何でも出来る。まじめに事をする考がなかったら、万事は破滅である。
 
第十に、ぷりぷりするな、腹をたてるな、恐ろしい顏をするな。人がさからったからとて、腹をたてるものでない。人々には、それぞれ心持ちがある。その心持ちはそれぞれ、自分のがんばりになっている。{{ruby|先方|むこう}}がよしと思えば、こちらでは悪いと思う。こちらが{{ruby|善|よ}}いと思えば、{{ruby|先方|むこう}}では悪いと思う。{{ruby|此方|こちら}}はすぐれているともきまっていないだろう、{{ruby|先方|むこう}}はきっと愚だともきまっていなかろう。むこうもこちらも、お互いに、{{ruby|凡夫|ぼんぷ}}である。{{ruby|善|よ}}いとか悪いとか、そう、ぞうさなくきめられるものではない。お互いに賢だ愚だといいあっても、つまりは環に{{ruby|端|はし}}が無い様なものである、とりとめ様もない。であるから、{{ruby|先方|むこう}}の人がおこったからとて、{{ruby|此方|こちら}}が、つりこまれて一緒に怒ってはいかん。しくじらぬ用心が大切である。たとい、自分だけで{{ruby|善|よ}}いと思っていることがあっても、大勢の人たちにまじっては、{{ruby|強|し}}いてさからわぬ様になさい、一緒におやりなさい。
 
第十一に、下役のものに手柄があったか、しくじりがあったかを、よくよく見抜いて、賞も罰も、必ずまちがいない様にしなさい。{{ruby|此|こ}}の頃、往々、御褒美が功のないところへ与えられたり、罰が罪のない人に加えられたりすることがある。政治にたずさわる人たち、上役の人たちは、よく気をつけて、賞罰を、はっきりと、まちがわぬようにしなさい。
 
第十二に、地方地方の官吏公吏たちは、人民から、勝手に租税を取りたててはならぬ。一国に二人の君は無く、人民には二人の主君は無いはずである。{{ruby|此|こ}}の国中の人民には、天皇御一人が御主人である。役人たちはみな、天皇の臣下である。それが何の理由で、天皇と同じ様に、人民から、勝手に税を取るのであるか、いかぬ、いかぬ。
 
第十三に、役人たるものは、それぞれの同役のつとめ役柄を、よく知りあわねばならぬ。多くの役人の中には、病気で欠勤するものもあろうし、役所の御用で出張するものもあろう。その場合には、その仕事に、滞りのないようにする。不在であるとわかったら、仲よく一致共同して、その仕事をしてやる。私は知らなかった。私には関係がないといって、公務の邪魔になる様なほったらかしをしてはならぬ。
 
第十四に、すべての役人たち、そねみ、ねたみの心をもってはならぬ。自分が人をねたみにくめば、人もまた自分をねたみにくむ。ねたみ、うらやみ、にくむということの、わざわいは、はてがわからぬ。恐ろしいものである。ところが、大抵の人は、{{ruby|智慧|ちえ}}が自分よりすぐれているものにあうと、結構だとは思わないで、{{ruby|之|これ}}をにくむ。才、はたらきが、自分よりまさっているものをそねみねたんで、陥れようとする。であるから、五百年もたって、賢い人に、{{ruby|ある|或}}いはあうことが出来るかもしれんが、千年たっても、一人のえらいすぐれた聖人は出て来ない。嫉妬の心から、聖人賢人を世に出すまいとするからである。しかし、それではいかん。すぐれたものがなければ、国は治らぬ。
 
第十五に、自分の{{ruby|私情|わたくしごころ}}をすてて、公のためにつくすのが臣の道である。自分の事ばかり考えるから、すぐと恨み怒ることになる。恨んだり怒ったりすれば、きっと人々と共同一致することが出来ぬ。共同一致が出来ぬから、つまり、私心が公のことを妨げることになる。又、恨んだり怒ったりすれば、国家の法律制度をもこわすことになり、取り締まられることにもなる。であるから、第一条に、上下のもの仲をよくするのが大切だといったのである。
 
第十六に、人民を使うのには、時節を見なければならぬ。冬になるとひまがあるから、その時は使ってもよい。春から秋にかけては、農耕、養蚕の大切な時節であるから、使うわけにはいかぬ。農耕しなければ食べ物がない。かいこをかわなければ、きるものがない。
 
第十七に、一体、政治上の事柄は、独りできめてしまってはいかぬ。多勢の役人たちと相談してやるがよい。小さな事は、まあ相談には及ぶまいが、大事件と思われることは、やり損いがあるといかんから、みんなと相談してきめてゆくのである。多勢で相談すれば、道理にかなったもっともなところが出て来る。
 
== 註 ==