「ユダヤ人問題によせて」の版間の差分

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 キリスト教的な国家は'''自分の本質'''からしてユダヤ人たちを解放できない。だが、ユダヤ人は自分の本質からして解放されることができないのだ、とバウアーは付け加えている。国家がキリスト教的であり、そしてユダヤ人がユダヤ教的である間は、両者は解放を授与することも、また受領することも不可能である。
 
 キリスト教的な国家はユダヤ人に対して、ただキリスト教的な国家のやり方でしか関わることができない。すなわち特権を与えるやり方で関わるのである。キリスト教的な国家はユダヤ人を残りの臣下たちから隔離することを許すのだが、しかしユダヤ人に他の隔離された諸領域の圧迫を感じさせるのであり、しかもユダヤ人が支配的な宗教に対して'''宗教的な'''対立にあるだけに、いっそう強く圧迫を感じさせるのである。しかしユダヤ人もまた、国家に対してただユダヤ的な態度でしか関わることができない。すなわち国家に対して異分子として関わるのである。ユダヤ人は現実的な国籍には自分のキメラ的な<ref>原語はchimärische。従来は「妄想的」と訳されていた。マルクスは、ユダヤ人の国籍を、ライオンの頭、蛇の尾、ヤギの胴をもち、口から火を吐くというギリシャ神話の怪獣[[w:キマイラ|キマイラ]]に例えている。</ref>国籍を対置し、現実的な法には自分の幻覚の法を対置し、自分は人類から隔離される権利があると思い込み、歴史的な運動には原理的に関与せず、一般的な人間の未来とは無関係な未来を待ち焦がれ、自分をユダヤ民族の一員だと考え、ユダヤ民族を選ばれた民だと考えるのである。
 
 それでは、君たちユダヤ人たちはどんな権限に基づいて解放を求めるのだろうか?自分たちの宗教のためにか?君たちの宗教は国家宗教の仇敵である。国家市民としてか?国家市民などドイツには存在しない。人間たちとしてか?君たちは、自分たちが訴えている相手のような、人間ではない。
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 '''ドイツ'''ユダヤ人にはとりわけ政治的な解放一般の欠陥と国家の明瞭なキリスト教性が対置されている。しかしながら、バウアーの考えでは、ユダヤ人問題は特殊なドイツの事情から独立した一般的な意義を持っているのである。それは、宗教の国家に対する関係の問題、'''宗教的な偏見と政治的な解放の矛盾'''の問題である。政治的に解放されたいユダヤ人でも、解放を行う国家およびそれ自身解放されるべきである国家でも、宗教からの解放が条件として置かれたのである。
 
[…]
 
<center>
'''Ⅱ'''
 
'''『今日ユダヤ人とキリスト教徒は自由になれるか』'''
 
ブルーノ・バウアー著(『21ボーゲン』p.56-71)</center>
 
 この形式の下でバウアーは'''ユダヤ教ととキリスト教'''の関係を、批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係そのもののように扱っている。批判に対するユダヤ教とキリスト教の関係は「自由になる能力」に対するユダヤ教とキリスト教の関係である。