「ユダヤ人問題によせて」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
内容を「{{header | title = ユダヤ人問題によせて | author = カール・マルクス}} {{新訳}} == 翻訳について == *底本...」で置換
1行目:
{{db|重複}}
{{header
| title = ヘーゲル『法の哲学』の批判ユダヤ人問題によせて
| author = [[w:カール・マルクス|カール・マルクス]]}}
{{新訳}}
 
 
<center>序文</center>
 
 
 ドイツにとって''宗教の批判''は本質的には終わっており、宗教の批判は全ての批判の前提である。
 
 誤りの''祭壇と暖炉〔すなわち家庭〕のための天国的な弁論''が論駁されてから、誤りの''世俗の''存在は評判を傷つけられている。人間は、超人的な人を探した天国という空想的な現実の中に、ただ自分自身の反映しか見つけなかったら、自分が本当の現実を探す場所、そして自分が本当の現実を探さなければならない場所に、ただ自分自身の''外見''だけを、すなわちただ非人間的な人だけを見つけようとはもはや思わないであろう。
 
 不信仰な批判の基礎は「''人間が宗教をつくり''、宗教は人間たちをつくらない」ということだ。もっと言うと宗教とは、まだ自分自身を手に入れていないか、あるいはまたもや自分を失ってしまった人間の自己意識と自己感情である。しかし、''人間''、それは世界の外で屈み込んでいる抽象的な存在ではない。人間、それは''人間の世界''であり、国家であり、社会性である。この国家、この社会性が宗教、すなわち''ひっくり返った世界意識''を生み出すのは、それらが''ひっくり返った世界''だからである。宗教はこのひっくり返った世界の一般的な理論であり、その百科的概説書であり、一般向けの形でのその論理であり、その精神主義者の名誉に関わる点であり、その熱狂であり、その道徳的な認可であり、その格式張った補遺であり、その一般的な慰安と正当化の根拠である。それが人間存在の''空想的実現''であるのは、''人間存在''が本当の現実を何も占有していないからである。したがって、宗教に対する戦いは間接的に''先ほどのひっくり返った世界''に対する戦いであり、そのひっくり返った世界の精神的な''香り''が宗教である。
 
 ''宗教的''貧窮は一つには現実的な貧窮の''表現''であり、そして一つには現実的な貧窮に対する''抗議''である。宗教は窮迫した生物のうめき声であり、宗教が気の抜けた状態の精気であるように、心ない世界の気持ちである。それは民衆の''阿片''である。
 
 民衆の''幻想的な''幸福としての宗教の廃止は民衆の''現実的な''幸福の要求である。民衆の状態についての幻想を捨てるよう、要求することは、''幻覚を必要とする状態をやめるよう、要求すること''である。したがって、宗教の批判は''萌芽''では''涙の谷の批判''であり、涙の谷の''後光という聖なる光''が宗教である。
 
 批判が鎖から想像上の花々を引き裂いたのは、人間が空想なき、慰安なき鎖を身にまとうためではなく、鎖を投げ捨て、生き生きした花を摘むためであった。宗教の批判が人間たちを失望させるのは、理性に戻った人間のように人間が考え、行動し、失望し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身の周りを回るため、そして自分の現実的な太陽の周りを回るためである。宗教は、人間が自分自身の周りを回らない限り、人間の周りを回る、単なる幻想的な太陽である。
 
 したがって、''真実の向こう側''が消えた後に、''こちら側の真実''を確立することが''歴史の使命''である。人間的自己疎外の''神聖な姿態''を暴露した後に、自己疎外をその''非神聖な姿態''の中で暴露することが、さしあたり、歴史の役に立っている''哲学の使命''である。これによって、天国の批判が地上の批判に、''宗教の批判''が''法の批判''に、''神学の批判''が''政治の批判''に変わる。
 
 これ以降続く詳論――この仕事への一貢献である――はさしあたり原型にではなく模写に、すなわちドイツの国家および法の''哲学''に結びついている。その理由は他でもなく、それが''ドイツ''に結びついているからである。
 
 ドイツのステータス・クオ自身と結びつけようとすれば、たとえ唯一の適切な方法、すなわち否定的な方法であっても、結果はいつも''時代錯誤''のままであろう。我々の政治の現在を否定することさえ、諸々の近代的な国民の歴史的物置小屋の中に、すでに埃まみれの事実として見い出される。私が白粉をつけたカツラを否定しても、私はまだ白粉の着いてないカツラをつけているのである。私が1843年のドイツの状態を否定しても、フランスの年号によれば、私は1789年にはほとんど立っていないし、現在の焦点においてはなおさらそうである。
 
 そう、ドイツの歴史は、その民族の誰もが歴史的天国で模範も見せたのでもなければ、模倣もされることのない運動を誇っているのである。すなわち、我々は諸々の近代的な国民の革命を分かち合うことなしに、諸々の近代的な国民の復古を分かち合ったのである。我々が復古させられたのは、第一に、他の諸国民が革命を試みたからであり、そして第二に、他の諸国民が反革命を耐え忍んだからであり、一度目は、我々の諸侯が恐怖を抱いたからであり、そして二度目は、我々の諸侯が恐怖をまったく抱かなかったからである。我々が、我々の羊飼いたちを先頭に、自由の社会にいたのは、いつもただ一度だけ、''自由の社会の埋葬の日''にであった。
 
 今日の下劣さを昨日の下劣さによって正当だと認める学派、革のムチが年を経た、先祖伝来の、歴史的な革のムチであるなり、革のムチに対するどんな農奴の叫び声も反逆的だと宣言する学派、イスラエルの神がその僕モーセにしたように、歴史がただ自分のア・ポステリオリしか示さない学派、すなわち''歴史法学派''は、それゆえ、自分がドイツの歴史の創作でなかったら、ドイツの歴史を創作したであろう。シャイロック、しかし召使いのシャイロックである歴史法学派は、民衆の心臓から切り取られる各1ポンドの肉のために、自分の証明書に、自分の歴史的な証明書に、自分のキリスト教的・ゲルマン的証明書にかけて誓うのである。
 
 これに対して、血筋によるドイツ主義者であり、反省による自由思想家である温厚な熱狂家たちは、チュートン人の原始林の中に我々の歴史の向こう側に我々の自由の歴史を探し求める。しかし、我々の自由の歴史が原始林の中にしか見つけられないのなら、何によって我々の自由の歴史は雄豚の自由の歴史から区別されるのだろうか?そのうえ、周知のように「森に叫ぶと、森からこだまが鳴り響く」。ではチュートン人の原始林よ安らかに!
 
 ドイツの状態には''戦争''を!もちろん!ドイツの状態は''歴史の水準以下に''立っており、''あらゆる批判以下''であるが、人間性の水準以下にある犯罪者が''死刑執行人''の対象のままであるように、それは批判の対象のままである。ドイツの状態との戦闘中に批判は頭の激情ではない。それは激情の頭である。それは解剖のメスではない。それは武器である。批判の対象は、自分が論駁したい敵ではなく、''全滅''させたい''敵''である。なぜなら、ドイツの状態の精神は論駁されているのだから。それ自体で独立してそれは''考えるべき''対象ではなく、軽蔑されるべき、また軽蔑された''存在''である。批判は、この対象については片が付いているのだから、独自にこの対象との自己理解は要らない。それはもはや''自己目的''としてではなく、ただ''手段''としてのみ為される。その本質的なパトスは''憤怒''であり、その本質的な仕事は''告発''である。
 
 
== 翻訳について ==
*底本 : [http://books.google.co.jp/books?id=WA8uAAAAMAAJ&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 『独仏年誌』の原文Deutsch-Französische Jahrbücher](Google Books)
*訳者 : 荒川幸也
 
 
[[Category:独仏年誌|へーげるほうてつがくのひはゆだやじもんだいによせて]]
 
[[de:Zur Kritik der Hegel’schen Rechtsphilosophie]]
[[en:Selected Essays by Karl Marx/A Criticism Of The Hegelian Philosophy Of Right]]
[[ko:헤겔 법철학의 비판을 위하여, 서설]]