「祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓 (2)」の版間の差分
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| year = 1896
| 年 = 明治二十九
| override_author = [[作者:フェオファン・ザトヴォルニク|{{r|斐沃芳
| override_translator = 堀江 {{r|復|ふく}}
| noauthor =
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:<u>ミンヌ</u> 小児に歩行するを習はす者が小児の{{r|僅|わづか}}に行過ぎて{{r|仆|たふ}}るる時は{{r|復|ま}}たこれを起し{{r|仆|たふ}}れずして當然に歩行することを教ふる如く我等も己の智識が祈祷の時に於て神に向ふより堕落する時はこれを{{r|起|おこ}}しこれを直立せしむべし{{r|仆|たふ}}るる無きを得るまでは{{r|此|かく}}の如くせん。
十七、 己の思想を祈祷の言中に入れ又はこれを込めんことに尽力すべし。もし彼れ幼稚なるに依り疲れて{{r|仆|たふ}}れなば再びこれを{{r|彼処|かしこ}}に導くべし、何となれば変じて{{r|定|さだま}}らざる
:アフ、 全力をもて自から{{r|強|つと}}めて己の智識を完全潔白をもて祈祷にみちびき入れすべて己の思想とすべて己の意念とを其の汝が行為する祈祷の{{r|言|ことば}}をあたふる所の概念に{{r|籠罩|ろうとう}}
十八、 もし{{r|汝|なん}}ぢ{{r|何|いづれ}}の時にか太陽
:アフ、 もし汝は何の時か眞の太陽即ち<u>ハリストス</u>主を見しならばすべての畏れと{{r|虔|つつし}}みとをもて彼れと談話するを得べく彼れを愛するを得べく當然に神たる美に応じて彼を讃榮するを得ん。されどもし見ざりしならばいかんぞこれをすべて為し得んや。
:<u>ミンヌ</u> 神は聖書に録する如く総て恩恵の光線にて光り輝く義の太陽なり、されども霊魂は或は神を愛する時は{{r|蠟|ろう}}となり或は物質を愛する時は泥土とならんことは其の常なり。ヽヽヽ泥土は天然に太陽に乾き{{r|蠟|ろう}}はおのづから融解するが如く霊魂即ち物質を愛し世を愛するの霊魂も神より{{r|諭|さとし}}をうけこれに抵抗して硬固になることは泥土の太陽に於けるが如くなるべく自から己を亡びに投ずることは<u>ファラオン</u>の如くなるべし、されども神を愛するの霊魂は神の働きによりて{{r|蠟|ろう}}の如く鎔解すべく神に属する物の印章を己れにうけこれに依り感化して心神に於て神の{{r|住所|すまい}}となるを致すなり。
十九、 祈祷の<span style="border-bottom: dotted 2px">始め</span>は一言にして{{r|将|は}}た一の智力を張りて附着を最初に逐ふにあり、<span style="border-bottom: dotted 2px">中</span>は智識を其の言ふ所或は思ふ所
:アフ、 良善なる祈祷の始めと堅固なる基とは祈祷する者が其の智識に接近し来れる悪念の戦を一の決然たる言をもて最初に{{r|逐|おひ}}{{r|斥|しりぞ}}くるにあり。中は智識をすべて祈祷の言と思とに籠めて他の何事もたとひ最小の事なりとも断じて思はざるにあり。而して祈祷の完全は智識が大悦して全く神に上昇するにあるなり。故に祈祷を行ひつゝ悪念の来るや直ちにこれを逐ふをもて足れりとせず己の智識を祈祷の言に込めてこれを全く神に{{r|昇|のぼ}}すべし。さればかくの如きの祈祷こそは完全なる且は恩寵に属するの祈祷といふべけれ。
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:アフ、 もし汝は己の智識を習はして汝自己に収存し神と祈祷とより離れざるに習熟せしむる時は食に接するの時といへども汝はこれを己れに止むるを得ん。されどもし{{r|汝|なん}}ぢこれを棄てて{{r|其|それ}}が欲する如く処々方々にさまよふに任かす時は{{r|汝|なん}}ぢ決して彼れの上に権を握る能はざるべし、祈祷の時といへども己が意のままに彼をして汝と共に神の前にあらしむる能はざるなり。
二十一、 カ〕{{r|大|おほい}}に完全なる祈祷の{{r|大|おほい}}なる行為者はいひき曰く『我が智識をもて五言をいふを善しとす』云々〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#14:19|コリンフ前十四の十九]]〕されども彼れより最幼稚なる者に於てはこれと事異なり。ゆえに我等は不完全なる者として性質に加へて数の多きにも必要を有す、けだし後者は前者を助くる者なればなり。{{r|葢|けだ}}し聖書に言へらく怠らずして<span style="border-bottom: dotted 2px">祈祷する者に</span>{{r|潔|きよ}}き<span style="border-bottom: dotted 2px">祈祷を{{r|與|あた}}ふ</span>
:イリ、 祈祷に於て完全の練達者たる聖使徒<u>パウェル</u>いへらく祈祷に於て一の方語をもて萬言をいはんよりも智識に於て五言をいふを勝れりとすと。然れどもかくの如きは祈祷に習熟せざる者の力に及ばざるなり、故に我等は祈祷の性質に未だ習熟せざる者として祈祷の数に要用あり、即ち祈祷の言の多きに{{r|須|ま}}つあり。けだしかかる祈祷の言の多きは潔き祈祷の代保となればなり、何となればたとひ潔からざるも労して怠らずに祈祷する者は終に神より潔き祈祷をうくるによる。
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:<u>ミンヌ</u> 初心なる者或は不完全なる者の為に身体上の労は霊神上の生活に上進せんが為に{{r|最|もっとも}}有益なり、されば彼等はこれを{{r|首|おも}}なる行為として第一に置かざるべからず。されども直ちに智と心にて働くことを能くする完全なる者の為めには身体上の労は既に{{r|首|おも}}なる行為にあらずして附加物たり。霊神上幼稚なる者の為めには多くの叩拝も長時手を挙ぐることも徹夜の{{r|儆醒|けいせい}}も他の身体上の働きも要用にして智は此等の助けによりて祈祷に練習するを致さん。されども完全なる者は体にて何も為さざる時といへども祈祷す、けだし智に於て弱わるなく心中に働く所の不断の祈祷を得たればなり。
二十二、 祈祷には或は不潔あり或は{{r|廃滅|はいめつ}}あり或は{{r|竊去|ぬすみさり}}あり或は{{r|発|はつ}}{{r|怒|ど}}
:アフ、 祈祷は或は{{r|汚|お}}{{r|穢|わい}}をもて或は{{r|頽廃|たいはい}}をもて或は{{r|竊去|ぬすみさり}}をもて或は怒罵をもて種々に{{r|傷|そこな}}はるるなり。去りながら如何なるは祈祷の{{r|汚|お}}{{r|穢|わい}}にして如何なるは祈祷の{{r|頽廃|たいはい}}なるか如何なるは{{r|潜竊|せんせつ}}にして如何なるは{{r|怒罵|どば}}なるか。祈祷の不潔汚穢は誰か身体は神の前に立てども其心は不順序なる妄想と不適当なる意念に旋転するの時にこれあり、祈祷の頽廃は祈祷の時に於て自己の心が不要無益の事を思ふて其配慮に己を委ぬるの時にあり、潜竊は心が俄に己れより奪去られ{{r|消|きえ}}{{r|失|う}}せて我れに{{r|疏|そ}}{{r|遠|えん}}なるものの如く何処にあるを自ら知らずよりてこれを自己に戻す時にも何も記憶する能はざるの時にあり、怒罵は或る仇敵の附着が近づきて成るべく我等の注意を奪ひ祈祷を{{r|擾|み}}だし虔恭を{{r|吹|ふき}}{{r|散|ち}}らさんと欲して怒らしめ且{{r|嘲|あざけ}}り{{r|罵|ののし}}るの時にあり。
二十三、 もし我等神前に立つに當り
:アフ、 もし我等は他の人々と同伴をなして祈祷するときは我等の為めにただ智と心とをもて心霊の内部の感動を神の前にあらはすべくして悲哀なる{{r|將|は}}た涙脆き面貌をばなさず、我等が心中にあるものを身体にて表すべき何等の記号もなすなうして足れり。これ或者は我等を敬せず又或者は往々我等を嘲笑しこれによりて己れに於ては誘惑と擾乱とに陥り他に対しては発怒することのあらざらんが為なり。然れども我れ一人にして他の我を見て嗤ふ者のあらざる時はもし我等欲するならば面貌も祈祷者の面貌をなし哀声を発し涕泣し手を天に挙ぐべし、たとへば地上の或る大王を其の目前に見しが如く神の前に畏れと虔恭とをあらはして地に伏拝するを重ぬべし。けだし不完全なる者は通常先づ其の心中にあるべき所のものを外形の上にあらはし其後此の外形上のものにより心霊に於ても最初ただ其の外形上に表示せられし眞實の感覚と情性とが形つくらるればなり。
二十四、 ア〕凡て債の免しを得ん
:アフ、 凡て王に叩拝するが為めに其の面前に立たんと欲する者は大なる畏れと心の憂愁と謙遜とに必要を有す、まして己が債の免しを請願せんとの望みをもて王に行く所の者に於てをや。けだし王は其のかくの如き衷情の悲嘆と涕泣とをもて来るを見て必ずこれを恤れみこれに其の願ふ所を賜ふべければなり。かくの如く我等も罪の赦を願ふの祈祷に於て至極の謙遜と大なる悲嘆と涕泣とをもて神に就くべし。さらば神は我等に赦さん。
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:アフ、 いまだ罪の暗獄にある所の我等はもしこれより脱せんと欲せば<u>ハリストス</u>にきくこと<u>ペートル</u>が神使にききし如くすべく来りて彼を<u>イロド</u>の獄より出さんとしたるにききし如くすべし。<u>ペートル</u>躊躇せずして天使の旨に{{r|遵|したが}}ひしにが鐵鎖は直ちに彼より脱し門開けて彼れは{{r|出|い}}でて死より{{r|赦|すく}}はれたりき。我等も従順の帯を緊帯し履を穿ちて命ぜられし所を行ふに用意し己が旨を{{r|袪|すて}}て全く裸体となり祈祷に於て願ひつゝ<u>ハリストス</u>に就かん、さらば彼は我等に其の旨を行ふを賜ふべし。其時神は我等の{{r|中|うち}}に居りて{{r|自|みづ}}から我等が心の梶を{{r|持|ぢ}}し我等の霊を治めて我等を災と危きとより{{r|衛|まも}}らん。
二十五、 世を愛すると{{r|奢侈|しゃし}}を好むとより{{r|起|た}}ちて{{r|費|ひ}}{{r|心|しん}}を{{r|擲|す}}つべし、思念を{{r|脱|ぬ}}ぎすつべし、身体を拒絶すべし、けだし祈祷は見ゆると見えざる世界より遠く離るるに{{r|外|ほか}}ならざればなり。『天にありては誰か我が為にす』、誰もあるなし。『地にありては汝と{{r|與|とも}}にするの{{r|外|ほか}}何を願はん』、ただ放心せずして常に祈祷に於て汝に配するの外何も願ふものあるなし。或者は富を或者は榮を或者は得るを望む、されど<span style="border-bottom: dotted 2px">余はただ神と與にする</span>を渇望し我が無欲の<span style="border-bottom: dotted 2px">依頼</span>を彼れに<span style="border-bottom: dotted 2px">負はせん</span>。〔[[詩篇(口語訳)#73:25|聖詠七十二の二十五、二十八]]〕
:アフ、 もし良善にして神に喜ばるる祈祷を行はんを欲するならば起ちて偏愛と世慮とを自ら棄て己の智を悉くの思念と妄想とより脱し己の心を汚穢なる情慾より潔め己がもろもろの意思を{{r|縛|ばく}}し身体と肉情の虚傲とを絶ち而して汝が悉くの望を神に{{r|献|ささ}}ぐべし。けだし祈祷は暫時なる此世とすべて此世にある所のものを忘るるに{{r|外|ほか}}ならざらんこと預言者が神に言ひし如くなればなり、曰く主や我れ天に向ひ{{r|將|は}}た地に向ひてただ一の汝が光榮なる顔の外何を尋ねんや、今も汝は知る我が祈祷に於て汝と離れずして止まり汝の美に注意すると愛するとをもて汝に配合するの外我れ眞に何も願ふものあらざることを、或者は富を望み或者は榮を或者は得るを望む、されども我れに於てすべての願と志望の向ふ所は汝と配合せんことを願ふにあり、火の鐵に徹するが如く汝の恩寵にて燃着せられんことを願ふにあり、されば我が疑はずして望む如く汝は我を悉くの欲情より潔めて我が霊を光り輝くものとなさん。
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:アフ、 奮熱の信仰と希望とは祈祷に羽翼を與ヘ天に高飛せしむべし。信仰と希望となくんば一の智識はいかなる祈祷を建つること能はず、{{r|啻|ただ}}に其の神に昇りて果を結ぶべきもののみにあらず。
二十七、 我等欲に従ふ者も切に主に祈願すべし、{{r|葢|けだし}}今日無欲なる者もすべて欲より
:アフ、 欲に占有せられつるも全然の熱心とすべての信仰とをもて我等を吾が悉くの淫蕩より潔めんことを神に切願せん、けだし今日潔められて頌揚せらるる所の者も同く亦嘗て欲に占有誘惑せられたるものなればなり、されども彼等は悉くの熱心をもて主に祈願したりしかば主は彼等を此の欲より救ひて其の悪臭と悪性質とより潔め給ひしなり。
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