「真美大観/平等院鳳凰堂寫眞」の版間の差分

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Kareha (トーク | 投稿記録)
『真美大観 第一册』から『平等院鳳凰堂寫眞』
 
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*建築家未詳
 
[[w:平等院鳳凰堂#境内|鳳凰堂]]は、關白[[w:藤原頼|頼道]]が、永承六年(西暦一〇五一年)に、山城の國宇治川の左岸に、建築せしめたる、北向の一佛殿にして、藤原時代(西暦第十一世紀)建築物の好模範と稱せらる、其形は、鳳凰の下翔するに象れるなり、其體部に當る中殿は、正面三十四尺を三間に、側面二十六尺を二間に分ち、兩翼に當る中殿は、幅十三尺、長三十二尺餘左右に延び、十八尺前方に折れて、矩形を爲し、尾に象る殿後の歩廊は、幅十四尺、長三十六尺あり、兩翼端に、方十八尺の樓あり、其結構圖の上部に出せる二小圖の如くして、裝像を設く、此建物は瓦葺にして、屋角に銅製の鳳凰を置けり、柱、桁等の外部は、端塗にして、宛然、延暦時代(西暦第八世紀の終)の趣あり、内部の構造は、此圖に由りては知る能はざれど、中殿内部の高は二十六尺あり、折り上げ格天井にして、格像、支輪に至るまで、皆、極彩色の模樣を施せり、中央に金、銀、瑠璃、螺鈿を嵌入したる天蓋ありて、光彩燦然たり、其下の須彌壇、また、螺鈿を嵌し、羽目は金銅の薄板に、牡丹唐獅子を彫む、壇上には、佛工の巨擘[[w:定朝|定朝]](西暦第十一世紀)が刻める、丈六尺の阿彌陀の坐像を安置す、其相好の端嚴殊勝なる、渇仰の念に堪えざらしむ、四周の壁面、及び扉の内面には、九品淨土の曼荼羅を描けり、畫者は繪所の長者宅磨爲成にして、能筆を以て稱せられたる藤原俊房、感無量壽經の文を其上に録せり、承塵上の壁間には五十有餘の菩薩の木造を貼附し、雲中供養の状を示せり、建設以來久しきを經たるが故に、裝飾に蟲蝕朽損多けれど、尚、觀る者をして、嘆賞措く能はざらしむ、惟ふに建立の當時に、此堂に詣れるものは、彌陀の淨土に往生せるが如き想を爲しヽならん、堂前の池を阿字池といふ、蓮花あり、夏時は紅白の花を開き其美觀言う可からず。
 
== Hô-wô-dô (Phoenix Temple) ==