「公教要理説明/03-20」の版間の差分

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}}
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=={{r|第|だい]}}六十六{{r|課|くゎ}} {{r|信者|しんじゃ}}としての{{r|心得|こゝろゑ}}==
 
{{ruby|信者|しんじゃ}}に{{ruby|取|と}}って{{ruby|大事|だいじ}}なのは、{{ruby|日|ひ}}に{{ruby|日|ひ}}に{{ruby|心|こゝろ}}を{{ruby|新|あらた}}にして{{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|御心|みこゝろ}}に{{ruby|叶|かな}}ふやう<u>イエズス、キリスト</u>と{{ruby|心|こゝろ}}を{{ruby|合|あは}}せて{{ruby|日々|にちゝゝ}}の{{ruby|己|おの}}が{{ruby|業務|げふむ}}を{{ruby|熱心|ねっしん}}に{{ruby|務|つと}}める{{ruby|事|こと}}である。
 
-304-
===417●{{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|御心|みこゝろ}}に{{ruby|適|かな}}ふには{{ruby|如何|どう}}せねばなりませぬか===
▲{{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|助力|じょりき}}を{{ruby|祈|いの}}り、<u>イエズス、キリスト</u>の{{ruby|言行|げんかう}}に{{ruby|倣|なら}}ひ、{{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|命|めい}}を{{ruby|守|まも}}るは{{r|勿論|もちろん}}、{{ruby|何事|なにごと}}も{{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|御光栄|みさかえ}}の{{ruby|為|ため}}にと{{ruby|云|い}}ふ{{ruby|心|こゝろ}}から{{ruby|行|おこな}}はねばなりませぬ。
 
{{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|御心|みこゝろ}}に{{ruby|叶|かな}}ふことは、{{ruby|人|ひと}}に{{ruby|取|と}}って{{ruby|何|なに}}より{{ruby|大切|たいせつ}}である、{{ruby|御心|みこゝろ}}に{{ruby|叶|かな}}ふなら、{{ruby|此世|このよ}}にても{{ruby|後|のち}}の{{ruby|世|よ}}にても{{r|幸福極|さいはひきはま}}る{{ruby|状態|ぜうたい}}にある。{{ruby|吾行|わがおこなひ}}が{{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|御心|みこゝろ}}に{{ruby|叶|かな}}ふ{{ruby|行|おこなひ}}たり{{ruby|得|え}}んが{{ruby|為|ため}}には、{{ruby|助力|じょりき}}の{{ruby|聖寵|せいてう}}に{{ruby|由|よ}}り{{r|心|こゝろ}}が{{ruby|照|てら}}され、{{ruby|強|つよ}}められなければならぬ。{{ruby|其|それ}}が{{ruby|為|ため}}に{{ruby|先|ま}}づ
==={{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|助力|じょりき}}を{{ruby|祈|いの}}る===
が{{ruby|必要|ひつえう}}である。{{ruby|叉|また}}<u>イエズス</u>{{r|様|さま}}は{{ruby|殊更|ことさら}}に{{ruby|信者|しんじゃ}}の{{ruby|模範|もはん}}にて{{ruby|在|ましま}}せば、{{ruby|何|ど}}う{{ruby|仰|おっ}}しゃったか、{{ruby|何|ど}}の{{ruby|通|とほり}}に{{ruby|行|おこな}}ひ{{r|給|たま}}ふたかを{{ruby|平生|へいぜい}}{{ruby|考|かんが}}へて、{{r|之|これ}}に{{ruby|肖|あやか}}りたい、{{ruby|今若|いまも}}し{{ruby|私|わたし}}の{{ruby|傍|そば}}に{{ruby|居給|ゐたま}}ふならば{{ruby|私|わたし}}は{{ruby|何|ど}}の{{ruby|様|やう}}にして{{ruby|御心|みこゝろ}}を{{r|喜|よろこ}}ばせ{{ruby|申|まう}}す{{ruby|事|こと}}が{{ruby|出来|でき}}ようかと{{ruby|考|かんが}}へて{{ruby|見|み}}るがよい。
==={{ruby|天主|てんしゅ}}の{{ruby|命|めい}}を{{ruby|守|まも}}るは{{r|勿論|もちろん}}===
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