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|title=雁
|year=1911
|author=森
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[[Category:日本の小説]]
[[Category:青空文庫からインポートしたテキスト]]▼
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=={{
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、{{
上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その{{
この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。それは美男だと云うことである。色の{{
容貌はその持主を{{
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。{{
岡田の{{
この散歩の途中で、岡田が何をするかと云うと、ちょいちょい古本屋の店を{{
岡田が古本屋を覗くのは、今の詞で云えば、文学趣味があるからであった。しかしまだ新しい小説や脚本は出ていぬし、{{
僕は人附合いの余り好くない{{
「好く古本屋で出くわすじゃないか」と云うような事を、どっちからか言い出したのが、親しげに物を言った始である。
その頃神田明神前の坂を降りた曲角に、{{
「君はひどい人だね。僕が切角見附けて置いた金瓶梅を買ってしまったじゃないか」
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「そうそう君が値を附けて折り合わなかったと、本屋が云っていたよ。君欲しいのなら譲って上げよう」
「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰えば{{
僕は喜んで承諾した。こんな風で、今まで長い間壁隣に住まいながら、交際せずにいた岡田と僕とは、{{
=={{
そのころから無縁坂の南側は岩崎の{{
坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の{{
この話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を{{
{{
しかし二日ばかり立ってから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先きの日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸見た。{{
そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで{{
それからは岡田が散歩に出て、この家の前を通る度に、女の顔を見ぬことは殆ど無い。岡田の空想の領分に折々この女が{{
通る度に顔を見合せて、その間々にはこんな事を思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなって、二週間も立った頃であったか、或る夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。その時{{
=={{
岡田は{{
同じ虞初新誌の{{
岡田は窓の女に会釈をするようになってから余程久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。無論家の様子や、女の身なりで、{{
=={{
窓の女の{{
まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を{{
寄宿舎には小使がいた。それを学生は{{
この小使の一人に{{
僕にいつ{{
とにかく学校が下谷から本郷に{{
末造は小使になった時三十を越していたから、貧乏世帯ながら、妻もあれば子もあったのである。それが高利貸で成功して、池の端へ越してから{{
その時末造が或る女を思い出した。それは自分が{{
今では世間の広くなっている末造の事だから、手を廻して西鳥越の方を尋ねさせて見ると、{{
=={{
金の事より外、何一つ考えたことのない末造も、お玉のありかを突き留めるや否や、まだ先方が承知するかせぬか知れぬうちに、自分で近所の借家を捜して歩いた。何軒も見た{{
今一つは無縁坂の中程にある{{
末造は一晩床の上に寝転んで、二つの{{
=={{
松源の目見えと云うのは、末造が為めには{{
さていよいよ目見えをさせようとなった時、避くべからざる問題が出来た。それはお玉さんの支度である。お玉さんのばかりなら{{
この話を持ち込まれた時、末造は自分の思わくの少し違って来たのを{{
しかし末造は飽くまで立派な実業家だと云う{{
そこで{{
=={{
上野広小路は火事の少い所で、松源の焼けたことは記憶にないから、今もその{{
{{
「どうも暮れてしまいますまでは夕日が{{
二階と違って、その頃からずっと{{
間もなく女中が{{
末造は床の間の柱に寄り掛かって、烟草の{{
廊下に二三人の足音がして、「お連様が」と女中が先へ顔を出して云った。「さあ、ずっとお這入なさいよ。檀那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらないが{{
末造はつと席を{{
末造は爺いさんに、「ずっとあっちへお通りなすって下さい」と丁寧に云って、座鋪の方を指さしながら、目をお玉さんの方へ移して、「さあ」と促した。そして二人を座鋪へ入れて置いて、世話をする婆あさんを片蔭へ呼んで、紙に包んだ物を手に握らせて、何やら咡いた。婆あさんはお歯黒を{{
座鋪に帰って、親子のものの遠慮して這入口に{{
最初は爺いさんを邪魔にして、{{
料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家のものが{{
突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。続いて「へい、何か一枚{{
{{
末造には分からなかった。「本当のだの、{{
「いえ、近頃は大学の学生さんが遣ってお廻りになります」
「{{
「ええ。支度から何からそっくりでございます。でもお声で分かります」
「そんなら{{
「ええ。お一人しか、なさる方はございません」女中は笑っている。
「{{
「こちらへもちょいちょいいらっしゃった方だもんですから」
爺いさんが{{
女中は黙っていた。
末造が妙に笑った。「どうせそんなのは、学校では出来ない学生なのですよ」こう云って、心の{{
一座の話を黙って聞いているお玉を、末造がちょっと見て云った。
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「わたくし贔屓なんかございませんの」
爺いさんが詞を添えた。「芝居へ一向まいりませんのですから。柳盛座がじき近所なので、町内の娘さん達がみな{{
爺いさんの話は、つい娘自慢になりたがるのである。
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=={{
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話が極まって、お玉は無縁坂へ越して来ることになった。
ところが、末造がひどく簡単に考えていた、この{{
{{
両方の引越騒ぎが片附いたのは、七月の中頃でもあったか。ういういしい詞遣や立居振舞が、ひどく気に入ったと見えて、金貸業の方で、あらゆる{{
末造は一夜も泊って行かない。しかし毎晩のように来る。例の婆あさんが世話をして、梅と云う、十三になる小女を一人置いて、台所で子供の{{
それでもお玉の退屈は、夕方になると、檀那が来て慰めてくれるから、まだ好い。{{
最初一日二日の間、爺いさんは{{
三日四日となった頃には、次第に気が苛々して来て、女中の傍へ来て何かするのが気に障る。もう何十年か奉公人を使ったことがないのに、{{
食事をしまって、窓から外を見ていると、空は曇っていても、雨の降りそうな様子もなく、{{
とうとう一週間立っても、まだ娘は来なかった。恋しい、恋しいと思う念が、内攻するように奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になって、親の事を忘れたのではあるまいかと云う{{
それでも爺いさんはこの頃になって、こんな事を思うことがある。内にばかりいると、いろんな事を思ってならないから、{{
上野公園に行って、丁度{{
=={{
お玉も小さい時から別れていたことのない父親が、どんな暮らしをしているか、{{
何事もなくても、こんな風に{{
お玉は聞いているうちに、顔の色が{{
梅はじっと{{
お玉は跡にそのまま動かずにいる。気の{{
一体お玉の持っている悔やしいと云う概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強いて何物をか怨む意味があるとするなら、それは我身の運命を怨むのだとでも云おうか。自分が何の悪い事もしていぬのに、{{
{{
お玉はこの時もう余程落ち着いていた。あきらめはこの女の最も多く経験している心的作用で、かれの精神はこの方角へなら、油をさした機関のように、{{
=={{
或る日の晩の事であった。末造が来て箱火鉢の向うに据わった。始ての晩からお玉はいつも末造の{{
それに三四日立った頃から、自分が例の通りに箱火鉢の向うに胡坐を掻くと、お玉はこれと云う用もないに立ち働いたり何かして、とかく落ち着かぬようになったのに、末造は段々気が附いて来た。はにかんで目を見合せぬようにしたり、返事を手間取らせたりすることは最初にもあったが、今晩なんぞの素振には何か特別な{{
「おい、お前何か考えているね」と、末造が{{
わざわざ片附けてあるような箱火鉢の{{
末造は覚えず{{
お玉の顔はすぐに真っ赤になった。そして{{
細かい器械がどう動くかは見えても、何をするかは見えない。常に自分より大きい、強い物の迫害を避けなくてはいられぬ虫は、{{
末造は顔で笑って、叱るような物の{{
お玉は火箸で灰をいじりながら、{{
「{{
この話はこれだけで済んだ。とうとうしまいには末造が、そんなにおっくうがるようなら、自分が朝出掛けて来て、四五町の道を連れて行って遣ろうかなどとも云った。
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お玉はこの頃種々に思って見た。檀那に逢って、頼もしげな、気の利いた、優しい様子を目の前に見て、この人がどうしてそんな、厭な商売をするのかと、不思議に思ったり、なんとか話をして、堅気な商売になって貰うことは出来まいかと、無理な事を考えたりしていた。しかしまだ厭な人だとは少しも思わなかった。
末造はお玉の心の底に、何か隠している物のあるのを{{
=={{
翌朝お玉が、池の端の父親の家に来た時は、父親は丁度{{
二三軒隔てては、近頃待合も出来ていて、夕方になれば騒がしい時があるが、両隣は同じように格子戸の締まった家で、殊に朝のうちは、あたりがひっそりしている。{{
お玉は物を{{
箸を置いて、湯呑みに{{
まあ、なんと云う美しい子だろう。不断から自慢に思って、貧しい中にも荒い事をさせずに、身綺麗にさせて置いた積ではあったが、十日ばかり見ずにいるうちに、まるで生れ替って来たようである。どんな{{
わざと黙っている爺いさんは、渋い顔をしている積であったが、不本意ながら、つい{{
「もうお膳を下げまして{{
「早くお膳を下げて、お茶を入れ替えて来るのだ。あの棚にある青い分のお茶だ」爺いさんはこう云って、膳を前へ衝き出した。女中は膳を持って勝手へ這入った。
「あら。{{
「馬鹿言え。お茶受もあるのだ」爺いさんは起って、押入からブリキの{{
「まあ。あの柳原の寄席へ、お父っさんと聞きに行った時、何か御馳走のお話をして、その{{
「如燕のように太ってたまるものか」と云いながら、爺いさんは煎餅を娘の前へ出した。
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「どうだい、工合は。檀那は折々お出になるかい」
「ええ」とお玉は云ったぎり、ちょいと返事にまごついた。末造の来るのは折々どころではない。毎晩顔を出さないことはない。これがよめに往ったので、折合が{{
「そんなら{{
「そうね」と云って、お玉は首を{{
「ふん」と云って、爺いさんは得心の{{
お玉は父親と顔を見合せて、急に{{
「だって随分いろいろな事をして、一代のうちに{{
「さあ。それはそんな物かも知れないな。だが、なんだかお前、檀那を信用していないような、物の言いようをするじゃないか」
お玉はにっこりした。「わたくしこれで段々えらくなってよ。これからは人に馬鹿にせられてばかりはいない積なの。{{
父親はおとなしい一方の娘が、めずらしく{{
「大丈夫よ。お父っさんがいつも、たあ坊は正直だからとそう云ったでしょう。わたくし全く正直なの。ですけれど、この頃つくづくそう思ってよ。もう人に騙されることだけは、御免を{{
「そこで檀那の言うことも、うかとは信用しないと云うのかい」
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「そうなの。あの方はわたくしをまるで赤ん坊のように思っていますの。それはあんな目から鼻へ抜けるような人ですから、そう思うのも無理はないのですけれど、わたくしこれでもあの人の思う程赤ん坊ではない積なの」
「では何かい。何かこれまで檀那の{{
「それはあってよ。あの婆あさんが度々そう云ったでしょう。あの人は奥さんが子供を置いて亡くなったのだから、あの人の世話になるのは、本妻ではなくっても、本妻も同じ事だ。只世間体があるから、{{
爺いさんは目を大きくした。「そうかい。{{
「ですから、わたくしの事を奥さんには{{
爺いさんは飲んでしまった烟草の吸殻をはたくのも忘れて、なんだか急にえらくなったような娘の様子をぼんやりと眺めていると、娘は急に思い出した様に云った。「わたくしきょうはもう帰ってよ。こうして一度来て見れば、もうなんでもなくなったから、これからはお父っさんとこへ毎日のように見に来て上げるわ。実はあの人が{{
「檀那にことわって来たのなら、午もこっちで食べて行けば{{
「いいえ。不用心ですわ。またすぐ出掛けて来てよ。お父っさん。さようなら」
お玉が立ち上がるとたんに、女中が慌てて履物を直しに出た。気が利かぬようでも、女は女に遭遇して観察をせずには置かない。道で{{
「じゃあ又来るが好い。檀那に宜しく言ってくれ」爺いさんは据わったままこう云った。
お玉は小さい紙入を{{
たよりに思う父親に、苦しい胸を訴えて、一しょに不幸を歎く積で這入った{{
もう上野の山をだいぶはずれた日がくわっと照って、中島の弁天の{{
=={{
或る晩末造が無縁坂から帰って見ると、お上さんがもう子供を寝かして、自分だけ起きていた。いつも子供が寝ると、自分も一しょに横になっているのが、その晩は据わって{{
末造の床は一番奥の壁際に、少し離して取ってある。その枕元には座布団が敷いて、烟草盆と茶道具とが置いてある。末造は座布団の上に据わって、烟草を吸い附けながら、優しい声で云った。
「どうしたのだ。まだ{{
お上さんは黙っている。
末造も再び譲歩しようとはしない。こっちから{{
「あなた今までどこにいたんです」お上さんは突然頭を持ち上げて、末造を見た。奉公人を置くようになってから、次第に詞を上品にしたのだが、差向いになると、ぞんざいになる。ようよう「あなた」だけが維持せられている。
末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云わない。{{
「もう何もかも分かっています」鋭い声である。そして末の方は泣声になり掛かっている。
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「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」さも意外な事に遭遇したと云うような調子で、声はいたわるように優しい。
「ひどいじゃありませんか。好くそんなにしらばっくれていられる事ね」夫の落ち着いているのが、{{
「困るなあ。まあ、なんだかそう云って見ねえ。まるっきり見当が附かない」
「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしにそう云って下さいと云っているのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物なんぞを拵えて」鼻の低い赤ら顔が、涙で{{
「{{
お上さんはしゃくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。「どこにだって、あなたのような人があるでしょうか。いくらお金が出来たって、自分ばかり{{
「廃せと云えば」末造は再び女房の手を振り放した。「子供が目を覚すじゃないか。それに女中部屋にも聞える」{{
末の子が寝返りをして、何か夢中で言ったので、お上さんも覚えず声を低うして、「一体わたしどうすれば{{
「どうするにも及ばないのだ。お前が人が{{
「誰だって好いじゃありませんか。本当なんだから」乳房の圧はいよいよ加わって来る。
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「本当でないから、誰でも好くはないのだ。誰だかそう云え」
「それは言ったってかまいませんとも。{{
「なにまるで{{
お上さんは顔を末造の胸から離して、悔やしそうに笑った。「魚金のお上さんだと、そう云っているじゃありませんか」
「うん。あいつか。おお方そんな事だろうと思った」末造は優しい目をして、女房の逆上したような顔を見ながら、{{
お上さんの頭は霧が掛かったように、ぼうっとしているが、もしや{{
末造は折々烟草を呑んで{{
お上さんは小さい目を{{
「馬鹿言え。己がお前と云うものがあるのに、{{
「だってお前さんのようにしている人を、女は好くものだから、わたしゃあ心配さ」
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=={{
真実と作為とを{{
末造夫婦は{{
さいわい夫が内にいるので、朝の涼しいうちに買物をして来ると云って、お常は女中を連れて広小路まで行った。その帰りに仲町を通り掛かると、{{
お常は最初芸者かと思った。若し芸者なら、{{
店の前の女は、傍を通り過ぎる誰やらが足を駐めたのを、殆ど意識せずに感じて、振り返って見たが、その通り過ぎる人の上に、なんの注意すべき点をも見出さなかったので、蝙蝠傘を少し内廻転をさせた{{
店は仲町の南側の「たしがらや」であった。「たしがらや{{
お常が四五歩通り過ぎた時、女中が{{
黙って{{
もう一月余り前の事であった。夫が或る日横浜から帰って、みやげに蝙蝠の日傘を買って来た。柄がひどく長くて、張ってある切れが割合に小さい。背の高い西洋の女が手に持っておもちゃにするには好かろうが、ずんぐりむっくりしたお常が持って見ると、極端に言えば、{{
酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るように云った。
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「ねえ、奥さん。そんなに好い女じゃありませんでしょう。顔が平べったくて、いやに背が高くて」
「そんな事を言うものじゃないよ」と云ったぎり、相手にならずにずんずん歩く。女中は当がはずれて、不平らしい顔をして附いて{{
お常は只胸の{{
「あら、奥さん。どこへいらっしゃるのです」
お常はびっくりして立ち留まった。下を向いてずんずん歩いていて、我家の{{
女中が無遠慮に笑った。
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=={{
朝の食事の跡始末をして置いて、お常が買物に出掛ける時、末造は烟草を呑みつつ新聞を読んでいたが、帰って見れば、もう留守になっていた。若し内にいたら、なんと云って{{
お常はこれだけの事を器械的にしてしまった。そして{{
こんな事を繰り返し繰り返し思っては、何遍か思想が初の{{
そこへ末造が這入って来た。お常はわざとらしく取り上げた団扇の柄をいじって黙っている。
「おや。又変な様子をしているな。どうしたのだい」上さんがいつもする「お帰りなさい」と云う挨拶をしないでいても、別に腹は立てない。機嫌が{{
お常は黙っている。衝突を避けようとは思ったが、夫の帰ったのを見ると、悔やしさが込み上げて来て、まるで反抗せずにはいられそうになくなった。
「又何か{{
「わたしどうしようかと思っていますの。帰ろうと云ったって、帰る内は無し、子供もあるし」
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「なんだと。どうしようかと思っている。どうもしなくたって好いじゃないか。天下は太平無事だ」
「それはあなたは太平楽を言っていられますでしょう。わたしさえどうにかなってしまえば{{
「おかしいなあ。どうにかなるなんて。どうなるにも及ばない。そのままでいれば{{
「たんと茶にしてお{{
「いやにひねくれた物の言いようをするなあ。いない方が好いのだって。大違だ。いなくては困る。子供の面倒を見て貰うばかりでも、大役だからな」
「それは跡へ綺麗なおっ母さんが来て、面倒を見てくれますでしょう。{{
「分からねえ。二親揃って附いているから、継子なんぞにはならない筈だ」
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「いいえ。そうじゃないでしょう。あれは無縁坂の女のを買った序に、ふいと思い附いて、わたしのをも買って来たのでしょう」さっきから蝙蝠の話はしていても、こう具体的に云うと同時に、お常は悔やしさが込み上げて来るように感ずるのである。
「お手の筋」だとでも云いたい程適中したので、末造はぎくりとしたが、反対に{{
「それは同じのを買って遣ったのだから、同じのを持っているに極まっています」声が際立って鋭くなっている。
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「なんの事だ。呆れたものだぜ。好い加減にしろい。なる程お前に横浜で買って遣った時は、サンプルで来たのだと云うことだったが、もう今頃は銀座辺でざらに売っているに違ない。芝居なんぞに好くある奴で、これがほんとの無実の罪と云うのだ。そして何かい。お前、あの吉田さんの女に、どこかで逢ったとでも云うのかい。好く分かったなあ」
「それは分かりますとも。ここいらで知らないものはないのです。別品だから」にくにくしい声である。これまでは末造がしらばっくれると、ついそうかと思ってしまったが、今度は余り強烈な直覚をして、その出来事を目前に見たように感じているので、末造の{{
末造はどうして逢ったか、話でもしたのかと、{{
お常は黙っていた。しかし憎い女の顔に難癖を附けた夫の詞に幾分か感情を融和させられた。
561 ⟶ 565行目:
=={{
末造の家の空気は次第に沈んだ、重くろしい方へ傾いて来た。お常は折々只ぼうっとして{{
家の中の事を{{
末造は黙って女房を観察し出した。そして意外な事を発見した。それはお常の変な素振が、亭主の内にいる時殊に甚しくて、留守になると、却って{{
末造はいつもより早く内を出たり、いつもより遅く内へ帰ったりするようになった。しかしその結果は非常に悪かった。早く出た時は、女房が最初は只驚いて黙って見ていた。遅く帰った時は、最初の度にいつもの{{
末造は又考えて見た。女房は己の内にいる時の方が機嫌が悪い。そこで内にいまいとすれば、強いて内にいさせようとする。そうして見れば、求めて己を内にいさせて、求めて自分の機嫌を悪くしているのである。それに就いて思い出した事がある。{{
そこで己はどうだ。金の出来るまでは、人になんと云われても構わない。乳臭い青二才にも、旦那と云ってお辞儀をする。踏まれても{{
お常奴己になぐって貰いたくなったのだ。当人には気の毒だが、こればかりはお{{
=={{
無縁坂の人通りが繁くなった。九月になって、大学の課程が始まるので、国々へ帰っていた学生が、{{
朝晩はもう涼しくても、昼中はまだ暑い日がある。お玉の家では、越して来た時掛け替えた{{
その頃の学生は、七八分通りは{{
お玉は父親を幸福にしようと云う目的以外に、何の目的も有していなかったので、無理に堅い父親を口説き落すようにして人の{{
この時からお玉は自分で自分の言ったり{{
それからお玉が末造を遇することは{{
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この時お玉と顔を{{
まだ名前も知らず、どこに住まっている人か知らぬうちに、度々顔を見合わすので、お玉はいつか自然に親しい心持になった。そしてふと自分の方から笑い掛けたが、それは気の{{
岡田が始て帽子を取って会釈した時、お玉は胸を躍らせて、自分で自分の顔の赤くなるのを感じた。女は直覚が鋭い。お玉には岡田の帽子を取ったのが発作的行為で、故意にしたのでないことが明白に知れていた。そこで窓の格子を隔てた{{
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妾も檀那の家にいると、世間並の保護の{{
梅が真っ赤になって、それを拾って這入る跡から、男は無遠慮に上がって来て、お玉の炭をついでいる箱火鉢の向うに据わった。なんだか色々な事を云うが、取り留めた話ではない。監獄にいた時どうだとか云うことを{{
お玉はこわくて泣き出したいのを我慢して、その頃通用していた{{
こんな出来事があったので、お玉は心細くてならぬ所から、「隣を買う」と云うことをも覚えて、変った菜でも{{
師匠はお{{
或る日の朝お貞が裏口から、前日にお玉の遣った何やらの礼を言いに来た。暫く立話をしているうちに、お貞が「あなた岡田さんがお近づきですね」と云った。
お玉はまだ岡田と云う名を知らない。それでいて、お師匠さんの云うのはあの学生さんの事だと云うこと、こう聞かれるのは自分に辞儀をした所を見られたのだと云うこと、この場合では厭でも知った振をしなくてはならぬと云うことなどが、稲妻のように心頭を{{
「あんなお立派な方でいて、大層品行が好くてお出なさるのですってね」とお貞が云った。
633 ⟶ 637行目:
=={{
お玉の所へ末造の来る度数は、時の立つに連れて少くはならないで、{{
無論末造のこう云う考には、身勝手が交っている。なぜと云うに、物質的に女房に為向ける事がこれまでと変らぬにしても、又自分が女房に対する詞や態度が変らぬにしても、お玉と云うものがいる今を、いなかった昔と同じように思えと云うのは、無理な要求である。お常がために目の内の{{
或る日末造は{{
その頃まだ珍らしい{{
もう内を飛び出してから余程時間が立ったように思って、川岸を跡へ引き返しつつ{{
末造は又どこを当ともなしに、{{
末造は爼橋を渡った。右側に{{
末造は紅雀の籠を提げて爼橋の方へ引き返した。こん度は歩き方が緩やかになって、折々籠を持ち上げては、中の鳥を覗いて見た。喧嘩をして内を飛び出した気分が、拭い去ったように消えてしまって、不断この男のどこかに潜んでいる、優しい心が表面に浮び出ている。籠の中の鳥は、籠の揺れるのを{{
今川小路を通る時、末造は茶漬屋に寄って{{
=={{
末造がお玉に買って遣った紅雀は、図らずもお玉と岡田とが{{
この話をし掛けたので、僕はあの年の気候の事を思い出した。あの頃は亡くなった父が秋草を{{
僕は或る日曜日の夕方に、北千住から上条へ帰って来た。書生は皆外へ出ていて、下宿屋はひっそりしていた。自分の部屋へ{{
「岡田君。いたのか」
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「うん」返事だか、なんだか分からぬような声である。僕と岡田とは随分心安くなって、他人行儀はしなくなっていたが、それにしてもこの時の返事はいつもとは違っていた。
僕は腹の中で思った。こっちもぼんやりしていたが、岡田も{{
「好いどころじゃない。実はさっき帰ってからぼんやりしていた所へ、君が隣へ帰って来てがたがた云わせたので、奮って明りでも附けようと云う気になったのだ」こん度は声がはっきりしている。
僕は廊下に出て、岡田の部屋の障子を開けた。岡田は丁度鉄門の真向いになっている窓を開けて、机に{{
岡田は僕の方へ振り向いて云った。「きょうも又妙にむしむしするじゃないか。僕の所には蚊が二三{{
僕は岡田の机の横の方に{{
「ふん。二百十日のなし崩しとは面白いねえ。なる程そうかも知れないよ。僕は空が曇ったり晴れたりしているもんだから、出ようかどうしようかと思って、とうとう午前の間中寝転んで、君に借りた{{
「どんな事だい」
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=={{
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岡田はこんな話をした。
雲が慌ただしく飛んで、物狂おしい風が一吹二吹衝突的に起って、{{
「あんな本を読んだ跡だからねえ、僕はさぞ馬鹿げた顔をして歩いていただろうと思うよ」と、岡田は云った。
暫くして右側が岩崎の屋敷の石垣になって、道が{{
大勢の女の目が只一つの物に集注しているので、岡田はその視線を{{
この時家の主人らしい稍年上の女が、慌ただしげに、しかも遠慮らしく岡田に物を言った。蛇をどうかしてくれるわけには行くまいかと云うのである。「お隣へお{{
この話をする時岡田は、「その主人の女と云うのがなかなか別品なのだよ」と云った。しかし前から顔を見知っていて、通る度に挨拶をする女だとは云わなかった。
岡田は返辞をするより先きに、籠の下へ近寄って蛇の様子を見た。籠は隣の裁縫の師匠の家の方に寄せて、窓に吊るしてあって、蛇はこの家と隣家との間から、{{
「何か刃物はありませんか」と岡田は云った。主人の女が一人の小娘に、「あの台所にある出刃を持ってお{{
岡田は待ち兼ねたようにそれを受け取って、{{
岡田は腕木に{{
その時「籠を卸して上げましょうか」と、とんきょうな声で云ったものがある。集まっている一同の目はその声の方に向いた。声の主は酒屋の小僧であった。岡田が蛇退治をしている間、寂しい日曜日の午後に無縁坂を通るものはなかったが、この小僧がひとり通り掛って、{{
「そんなら小僧さん済みませんが」と女主人が頼んだ。小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ這入った。間もなく窓に現れた小僧は{{
小僧は一しょに附いて来た女中に、「籠はわたしが持っているから、あの血を掃除しなくちゃ行けませんぜ、畳にも落ちましたからね」と、高慢らしく忠告した。「本当に早く血をふいておしまいよ」と、女主人が云った。女中は格子戸の中へ引き返した。
岡田は小僧の持って出た籠をのぞいて見た。一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶる{{
小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」と云った。「うん、取るのは{{
この時まで残っていた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思ったか、{{
「さあ僕もそろそろお{{
女主人はうっとりと何か物を考えているらしく見えていたが、この{{
岡田が手を洗っている最中に、それまで蛇の{{
新しい{{
小僧は手をひろげて鳥籠を押さえていながら、「も少しで蛇が首を入れた穴から、生きている分の鳥が逃げる所でした」と云った。
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岡田は手を洗ってしまって、女のわたした手拭でふきつつ、「その手を放さずにいるのだぞ」と小僧に言った。そして何かしっかりした糸のような物があるなら貰いたい、鳥が籠の穴から出ないようにするのだと云った。
女はちょっと考えて、「あの{{
「結構です」と岡田が云った。
女主人は女中に言い附けて、鏡台の{{
「先ず僕の為事はこの位でおしまいでしょうね」と云って、岡田は戸口を出た。
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女主人は「どうもまことに」と、さも詞に窮したように云って、跡から附いて出た。
岡田は小僧に声を掛けた。「小僧さん。御苦労{{
「ええ。坂下のどぶの深い処へ棄てましょう。どこかに縄は無いかなあ」こう云って小僧はあたりを見廻した。
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「縄はあるから上げますよ。それにちょっと待っていて下さいな」女主人は女中に何か言い附けている。
その{{
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「うん。女のために蛇を殺すと云うのは、神話めいていて面白いが、どうもその話はそれぎりでは済みそうにないね」僕は正直に心に思う通りを言った。
「馬鹿を言い給え、未完の物なら、発表しはしないよ」岡田がこう云ったのも、{{
僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいと云ったが、実は今一つすぐに胸に浮んだ事のあるのを隠していた。それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、{{
大学の小使上がりで今金貸しをしている末造の名は、学生中に知らぬものが無い。金を借らぬまでも、名だけは知っている。しかし無縁坂の女が末造の{{
=={{
岡田に蛇を殺して貰った日の事である。お玉はこれまで目で会釈をした事しか無い岡田と親しく話をした為めに、自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じた。女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。そう云う時計だとか{{
お玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。最初に考えたのは、何か品物を梅に持たせて礼に遣ろうかと云う事である。さて品物は何にしようか、藤村の{{
丁度同じ道を往ったり来たりするように、お玉はこれだけの事を順に考え逆に考え、お化粧や台所の指図に一旦まぎれて忘れては又思い出していた。そのうち末造が来た。お玉は酌をしつつも思い出して、「何をそんなに考え込んでいるのだい」と{{
翌日になった。この日は岡田が散歩に出なかったか、それともこっちで見はずしたか、お玉は恋しい顔を見ることが出来なかった。その次の日は岡田が又いつものように窓の外を通った。窓の方をちょいと見て通り過ぎたが、内が暗いのでお玉と顔を見合せることは出来なかった。その又次の日は、いつも岡田の通る時刻になると、お玉は{{
お玉は箱火鉢の{{
それからはお玉は自分で物を言おうか、使を遣ろうかと二様に工夫を凝らしはじめた。そのうち夕方は次第に涼しくなって、窓の障子は開けていにくい。庭の掃除はこれまで朝一度に{{
そこでお玉は一時こんな事を思って、無理に諦めを附けていた。わたしはあれきり岡田さんにお礼を言わないでいる。言わなくては済まぬお礼が言わずにあって見れば、わたしは岡田さんのしてくれた事を恩に{{
しかしお玉はその恩に被ていると云うことを端緒にして、一刻も早く岡田に近づいて見たい。唯その方法手段が得られぬので、{{
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お玉は気の勝った女で、末造に囲われることになってから、短い月日の間に、周囲から陽に{{
そのうち秋日和に窓を開けていて、又岡田と会釈を交す日があっても、切角親しく物を言って、手拭を手渡ししたのが、少しも接近の階段を形づくらずにしまって、それ程の事のあった{{
末造が来ていても、箱火鉢を中に置いて、向き合って話をしている間に、これが岡田さんだったらと思う。最初はそう思う度に、自分で自分の横着を責めていたが、次第に平気で岡田の事ばかり思いつつも、話の調子を合せているようになった。それから末造の自由になっていて、目を{{
いつの間にか十一月になった。小春日和が続いて、窓を開けて置いても目立たぬので、お玉は又岡田の顔を毎日のように見ることが出来た。これまで薄ら寒い雨の日などが続いて、二三日も岡田の顔の見られぬことがあると、お玉は{{
お玉は父親を一週間に一度ずつ位はきっと尋ねることにしているが、まだ一度も一時間以上腰を落ち着けていたことは無い。それは父親が許さぬからである。父親は往く度に優しくしてくれる。何か{{
若し父親が末造の職業を聞いて心持を悪くしはすまいかと、お玉は始終心配して、尋ねて往く度に様子を見るが、父親は全く知らずにいるらしい。それはその筈である。父親は池の端に越して来てから、{{
それでも近所には、あの隠居の内へ尋ねて来る好い女はなんだろうと{{
爺いさんは格子戸を開けて{{
お玉はきょう機嫌の{{
=={{
時候が次第に寒くなって、お玉の家の流しの前に、下駄で踏む{{
朝目を醒まして起きずにはいられなかったお玉も、この頃は梅が、「けさは流しに氷が張っています、も少しお休になっていらっしゃいまし」なぞと云うと、つい布団にくるまっている様になった。教育家は{{
{{
「やあ。寐坊だなあ」こう云って箱火鉢の前に据わったのは末造である。
「おや。御免なさいましよ。大そうお早いじゃございませんか」{{
お玉はしゃがんで{{
「なぜ」と云いつつ、末造は{{
「だって顔を洗わなくちゃ」
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「だって見ていらっしゃっちゃ、洗えませんわ」
「むずかしいなあ。これで好いか」末造は{{
お玉は肌も脱がずに、只{{
末造は最初背中を向けていたが、暫くするとお玉の方へ向き直った。顔を洗う間末造に背中を向けていたお玉はこれを知らずにいたが、洗ってしまって鏡台を引き寄せると、それに末造の紙巻を銜えた顔がうつった。
「あら、ひどい方ね」とお玉は云ったが、そのまま髪を{{
「おい急ぐには及ばないよ。何も用があってこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこないだお前に聞かれて、今晩あたり来るように云って置いたが、ちょいと千葉へ往かなくてはならない事になったのだ。話が旨く運べば、あすのうちに帰って来られるのだが、どうかするとあさってになるかも知れない」
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櫛をふいていたお玉は「あら」と云って振り返った。顔に不安らしい表情が見えた。
「おとなしくして待っているのだよ」と、{{
「まあお茶も上げないうちに」と云いさして、投げるように櫛を櫛箱に入れたお玉が、見送りに{{
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朝飯の膳を台所から運んで来た梅が、膳を下に置いて、「どうも済みません」と云って手を衝いた。
箱火鉢の傍に据わって、火の上に{{
「でもついお茶を上げるのが遅くなりまして」
「ああ。その事かい。あれはわたしが御挨拶に云ったのだよ。檀那はなんとも思ってはお{{
けさ御膳を食べている主人の顔を梅が見ると、めったに機嫌を悪くせぬ性分ではあるが、特別に嬉しそうに見える。さっき「何をあやまるのだい」と云って笑った時から、ほんのりと赤く{{
お玉はじっと梅の顔を見て、機嫌の好い顔を一層機嫌を好くして云った。「あの、お前お内へ{{
梅は{{
「あの今晩は檀那様がいらっしゃらないだろうと思うから、お前内へ往って泊って来たけりゃあ泊って来ても好いよ」お玉は重ねてこう云った。
「あの本当でございますの」梅は疑って問い返したのでは無い。過分の恩恵だと感じて、この{{
「譃なんぞ言うものかね。わたしはそんな罪な事をして、お前をからかったり何かしやしないわ。御飯の跡は片附けなくっても好いから、すぐに往っても好いよ。そしてきょうはゆっくり遊んで、晩には泊ってお出。その代りあしたは早く帰るのだよ」
「はい」と云ってお梅は嬉しさに顔を真っ赤にしている。そして父が車夫をしているので、車の二三台並べてある入口の土間や、{{
食事が済んだので、お梅は膳を下げた。片附けなくても好いとは云われても、洗う物だけは洗って置かなくてはと思って、{{
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梅をせき立てて出して置いて、お玉は{{
そしてその頭の中には、極めて楽観的な写象が往来している。一体女は何事によらず決心するまでには気の毒な程迷って、とつおいつする癖に、既に決心したとなると、男のように{{
膳を膳棚にしまって箱火鉢の所に帰って据わったお玉は、なんだか気がそわそわしてじっとしてはいられぬと云う様子をしていた。そしてけさ梅が{{
=={{
西洋の子供の読む本に、{{
僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかない」に{{
然るにその青魚の未醤煮が{{
「あなた青魚がお{{
「さあ青魚は嫌じゃない。焼いたのなら随分食うが、未醤煮は閉口だ」
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「まあ。お上さんが存じませんもんですから。なんなら玉子でも持ってまいりましょうか」こう云って立ちそうにした。
「待て」と僕は云った。「実はまだ腹も透いていないから、散歩をして{{
「それでもなんだかお気の毒様で」
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「馬鹿を言え」
僕が立って{{
「おい。岡田君いるか」
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僕は釘に掛けてあった帽を取って被って、岡田と一しょに上条を出た。午後四時過であったかと思う。どこへ往こうと云う相談もせずに上条の格子戸を出たのだが、二人は門口から右へ曲った。
無縁坂を降り掛かる時、僕は「おい、いるぜ」と云って、{{
「何が」と口には云ったが、岡田は僕の詞の意味を解していたので、左側の格子戸のある家を見た。
家の前にはお玉が立っていた。お玉は{{
お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれていた。岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足の{{
僕は第三者に{{
岡田は{{
坂下の{{
「ええ。何が」
「何がも何も無いじゃないか。君だってさっきからあの女の事を思って歩いていたに違ない。僕は度々振り返って見たが、あの女はいつまでも君の後影を見ていた。おおかたまだこっちの方角を見て立っているだろう。あの左伝の、目迎えて{{
「その話はもうよしてくれ給え。君にだけは{{
こう云っているうちに、池の{{
「あっちを廻ろうか」と、岡田が池の北の方を指ざした。
「うん」と云って、僕は左へ池に沿うて曲った。そして十歩ばかりも歩いた時、僕は左手に並んでいる二階造の家を見て、「ここが{{
「妙な対照のようだが、桜痴居士も余り廉潔じゃないと云うじゃないか」と、岡田が云った。
僕は別に思慮もなく、{{
福地の{{
「僕もそう思った。しかしまさか{{
こんな話をして、池の北の方へ往く小橋を渡った。すると、岸の上に立って何か見ている学生らしい青年がいた。それが二人の近づくのを見て、「やあ」と声を掛けた。柔術に凝っていて、学科の外の本は一切読まぬと云う{{
「こんな所に立って何を見ていたのだ」と、僕が問うた。
石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁った{{
「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云った。
「届くことは届くが、{{
「遣って見給え」
岡田は{{
石原は笑った。「そう物の{{
岡田は不精らしく石を拾った。「そんなら僕が逃がして遣る」つぶてはひゅうと云う{{
「中った」と、石原が云った。そして{{
「どうして取る」と、岡田が問うた。僕も覚えず耳を{{
「先ず今は時が悪い。もう三十分立つと暗くなる。暗くさえなれば、僕がわけなく取って見せる。君達は手を出してくれなくても好いが、その時居合せて、僕の頼むことを聴いてくれ給え。雁は御馳走するから」と、石原は云った。
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「面白いな」と、岡田が云った。「しかし三十分立つまでどうしているのかい」
「僕はこの{{
僕は岡田に言った。「そんなら二人で池を一周して来ようか」
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=={{
僕は岡田と一しょに花園町の{{
石段の下を南へ、弁天の方へ向いて歩く二人の心には、とにかく雁の死が暗い影を{{
その話はこうである。岡田は今夜己の部屋へ来て話そうと思っていたが、丁度己にさそわれたので、一しょに外へ出た。出てからは、食事をする時話そうと思っていたが、それもどうやら駄目になりそうである。そこで歩きながら{{
僕は折々立ち留まって、「驚いたね」とか、「君は果断だよ」とか云って、随分ゆるゆる歩きつつこの話を聞いた積であった。しかし聞いてしまって時計を見れば、石原に分れてからまだ十分しか立たない。それにもう池の周囲の殆ど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはずれ掛かっている。
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「このまま往っては早過ぎるね」と、僕は云った。
「蓮玉へ寄って{{
僕はすぐに同意して、一しょに蓮玉庵へ引き返した。その頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かった蕎麦屋である。
蕎麦を食いつつ岡田は云った。「切角今まで遣って来て、卒業しないのは残念だが、{{
「そうだとも。機逸すべからずだ。卒業がなんだ。向うでドクトルになれば同じ事だし、又そのドクトルをしなくたって、それも憂うるに足りないじゃないか」
「僕もそう思う。只資格を{{
「支度はどうだい。随分慌ただしい旅立になりそうだが」
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「そうかなあ。いつか花月新誌で読んだが、成島柳北も横浜でふいと思い立って、即坐に決心して舟に乗ったと云うことだった」
「うん。僕も読んだ。柳北は内へ手紙も出さずに立ったそうだが、僕は内の方へは{{
「そうか。{{
「僕もどんな物だか分からないが、きのう柴田{{
「はあ。そんな本があるかねえ」
「うん。非売品だ。{{
こんな話をしているうちに、時計を見れば、もう三十分までに五分しかなかった。僕は岡田と急いで蓮玉庵を出て、石原の待っている所へ往った。もう池は闇に{{
待ち受けていた石原は、岡田と僕とを引っ張って、池の縁に出て云った。「時刻は丁度好い。達者な雁は皆{{
「なる程。{{
「なに。背の立たない{{
石原の踏み込んだ処を見ると、泥は{{
石原は{{
「どうして持って行こう」と僕が云うと、石原が袴を穿きつつ云った。
「岡田君の{{
石原は素人家の一間を借りていた。主人の婆あさんは、余り人の好くないのが取柄で、獲ものを分けて遣れば、口を{{
岡田は苦笑しつつも雁を持った。どんなにして持って見ても、外套の{{
=={{
「さあ、こう云う風にして歩くのだ」と云って、石原と僕と二人で、岡田を中に挟んで歩き出した。三人で初から気に掛けているのは、無縁坂下の四辻にある交番である。そこを通り抜ける時の心得だと云って、石原が盛んな講釈をし出した。なんでも、僕の聴き取った所では、心が動いてはならぬ、動けば{{
「して見ると、巡査が虎で、我々三人が酔人だね」と、岡田が冷かした。
「{{
角を曲れば、{{
突然岡田の左に引き添って歩いていた石原が、岡田に言った。「君円錐の立方積を出す公式を知っているか。なに。知らない。あれは{{
こう云っているうちに、三人は四辻を通り過ぎた。巡査は我々の通る横町の左側、交番の前に立って、茅町を根津の方へ走る人力車を見ていたが、我々には只無意味な{{
「なんだって円錐の立方積なんぞを計算し出したのだ」と、僕は石原に言ったが、それと同時に僕の目は坂の中程に立って、こっちを見ている女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。僕は池の北の端から引き返す{{
僕は石原の目を{{
この時石原の僕に答えた詞は、その響が耳に{{
石原も女を見ることは見たが、只美しい女だと思っただけで意に介せずにしまったらしかった。石原はまだ{{
三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。{{
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僕と岡田とは、その晩石原の所に夜の{{
上条へ帰った時は、僕は{{
一本の{{
僕は今この物語を書いてしまって、指を折って数えて見ると、もうその時から三十五年を経過している。物語の一半は、親しく岡田に{{
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▲[[Category:青空文庫からインポートしたテキスト]]
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