「資本論第一巻/第一章 商品」の版間の差分

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が、説明の尚早を避けるため、ここでは商品形態それ自身に関する他の一例を以つて浦足することにしょう。もし、 諸商品に口あらば、彼等はこう言うであろう。我々の使用価値は人類にとつて関係あるものであるかも知れない。しかしそれは、物としての我我に属するものではない。物としての我々に属するものは、我々の価値である。これは、我々自身が商品物<Waarendinge>としてなす交通によって説明される所である。我々は交換価値としてのみ相互に関係するものであると。
 
ところで商品が経済学者のロを通して語る所を聴け。曰く『価値(交換価値)は物の性質であり、富(使用価値)は人の性質である)この意味における価値は必然的に交換を含むものであるが、富はそうではない』<ref>匿名者著『経済上における就中価値及び需給に関する言葉上の論争についての観察』ロンドン1821年刊第16頁。</ref>。『富(使用価値)は人の属性であり、価値は商品の属性である。ある一人、又はある一団体は富裕であり、一つのその真珠は、一つのダイヤモンドは価値豊かである。……一つの真珠又は一つのダイヤモンドは、真珠もしくはダイヤモンドとして価値を有してい る』<ref>サミュエル・ーリー前掲、第165頁。</ref>。
 
従来、如何なる化学者も、真珠又はダイヤモンドの中に交換価値を発見したことはなかつた。然るに批判的の深味を得意とする所の、この化学的実体の経済上における発見者たちは、物の使用価値は物的性質からは独立しているに反し、価値は物それ自身に属するという風に考える。彼等の斯かる見解は、物の使用価値なるものは人類にとり交換に依ることなく、物と人との間の直接の関係を通して実現されるのであるが、価値の方は反対に社会的行程なる交換を通してのみ実現されるという特殊の事実によって確証される。これについて、かの善良なるドッグベリー<ref group="訳者註">Dogberry, Scacoal. シェイクスピア劇マッチ・アドー・アバウト・ナッシング中の人物。  </ref>のことを想起しないものがあるであろうか。彼は夜衛シーコールに向つて「身なりのいい人になるのは境遇の賜物だが、読み書きができるようになるのは天性だ』と教えたのであった<ref>前掲『観察』の著者及びサミュエル・ペーリー、が、リカルドを非難して、彼は交換価値をば単なる相対的のものから 絶対的のものに転化せしめたと言っているが、事実にむしろ反対で、彼は交換価値としてのこれらの物(例えばダイヤモンドや真珠)に関する外観的の相対性をば、かかる外観の背後に隠れている真実の関係に、即ち人間労働の単なる表章としての相対性に約元したのである。リカルド学徒がベーリーに対して答えた所は、放胆的であつて正鵠に当たる所がなかつたのであるが、それは畢竟、価値と価値形態(又は交換価値)との間の内部的関係につき、リカルドその人によって何等の解決も与えられていないことを見出したからに外ならないのである、</ref>。