「半七捕物帳 第一巻/化け銀杏」の版間の差分
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=== 四 ===
:師走の町の寒い風に吹かれながら、日の暮れかかる頃に半七は下谷へ出て行った。御成道の横町で古道具屋をたずねると、
:「おお、立派な帝釈様がある。それは幾らですかえ」と、半七はそらとぼけて訊いた。
:それを口切りに、半七はこのあいだの探幽斎の掛物のことを話し出した。
:「わたしはあれを買った万さんを{{r|識
:「だって、おまえさん」と、亭主は少し口を尖らせて云い訳らしく云った。「まったくお値段との相談ですよ。中身は善いか悪いかは知りませんが、あの表装だけでも三分や一両の値打ちはありますからね。して見れば、中身は{{r|反故
:「そりゃあお前さんの云う通りだ。万さんもなかなか慾張っているからね。ときどき{{r|生爪
:「さあ、生まれは何処だか知りませんが、ここへ持って来たのは、裏の大工の{{r|家
:裏の大工は{{r|峰蔵
:「そりゃあまったく気の毒だね。なぜ又そんなやくざな奴に娘をやったんだろう」
:「なに、長作もはじめは堅い男だったんですが、ふいと魔が{{r|魅
:「その長作の家はどこだね」
:「すぐ向う裏です。露地をはいつて二軒目です」
:半七はその足で向う裏の長作の家をたずねると、女房のお豊が内から出て来た。お豊はようよう十八九で、まだ娘らしい女振りであったが、さすがにもう眉は{{r|剃
:「長さんはお{{r|家
:「今ちょいと出ましたが……。どちらから」
:「わたしは松円寺の近所から来ましたが……」
:「また誘い出しに来たんですか」と、お豊はひたいを{{r|皺
:「なぜです」
:「なぜって……。おまえさんは{{r|藤代
:松円寺のそばに藤代{{r|大二郎
:「お察しの通り、藤代の御屋敷に行くんですが、まだ誰にも{{r|馴染
:「いけませんよ。なんのかのと名をつけて誘い出しに来ちゃあ……。誰がなんと云っても、内の人はそんなところへはやりませんよ」
:「長さんはほんとうに留守なんですかえ」
:「嘘だと思うなら家じゅうをあらためて御覧なさい。今日は用達しに出たんですよ」
:「そうですか」と、半七は{{r|框
:「内の人は留守なんですよ」と、お豊はじれったそうに云った。
:「留守でもいいんです。実はね、わたしの知っている本郷の者が、このあいだの晩に森川宿を通ると、化け銀杏の下に女の幽霊の立っているのを見たんです。野郎、臆病なもんだから碌々に正体も見とどけずに逃げてしまったんですよ。いや、いくじのねえ野郎で……。江戸のまん中に化け物なんぞいる筈がねえ。わたしなら直ぐに取っ捉まえてその化けの皮を剝いでやるものを、ほんとうに惜しいことをしましたよ。ははははは」
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:「勿論わたしが見た訳じゃあねえんだから、間違ったら、ごめんなさいよ」と、半七はお豊の顔をのぞきながら云った。「ねえ、おかみさん。その幽霊というのはお前さんじゃありませんでしたかえ」
:「冗談ばっかり」と、お豊はさびしく笑っていた。「どうせわたしのようなものはお化けとしか見えませんからね」
:「いや、冗談でねえ、ほんとうのことだ。その幽霊は藤代の屋敷へ自分の亭主を迎えに行ったんだろうと思う。惚れた亭主は{{r|博奕
:お豊は急にうつむいて、前垂れの{{r|端
:「そりゃあほんとうに察していますよ」と、半七はしみじみ云い出した。「亭主は道楽をする。{{r|節季
:話を半分聞きかけて、お豊は{{r|衝
:「いけねえ。いけねえ。幽霊が死んだら{{r|蘇生
:泣き狂うお豊を無理に引き摺って、半七は再び家のなかへ連れ込んだ。
:「親分さん。済みません。どうぞ殺して……殺してください」と、お豊はそこに泣き伏した。彼女は半七の身分を覚ったらしかった。
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:「先月の二十四日の晩だろうね」
:「左様でございます」
:「もう{{r|斯
:「博奕に勝って、その{{r|質
:「その羽織はまだあるかえ」
:「いいえ、もう質に入れてしまいました」
:「おめえのお父っさんも、その晩に森川宿へ行ったろう。なんの用で行ったんだ」
:「内の人を迎えに行ったのでございます」と、お豊は云った。「藤代様のお屋敷の大部屋で毎日賭場が開けるもんですから、長作はその方へばかり入り{{r|浸
:「それから長作はどうした」
:「あくる朝は仕事に出るからと云って家を出て、やぱりいつもの博奕場へはいり込んだようでございました。それからはちっとも家に落ち着かないで……。それまではどんなに夜が更けても、きっと家へ帰って来たんですが、その後はどこを泊まりあるいているのですか、三日も四日もまるで帰らないことがあるもんですから、わたくしも心配でたまりません。お父っさんの耳へ入れますと、また余計な苦労をかけなければなりませんから、わたくしがそっと藤代様のお屋敷に迎いに行きましたが、夜は御門が厳重に閉め切ってあるので、女なんぞは入れてくれません。どうしようかと思って、松円寺の塀の外に立っていて、いっそもうあの銀杏に首でも{{r|縊
:「長作はそれぎり帰らねえのか」
:「それから二、三度帰りました」
:「掛地や羽織のほかに金をみせたことはねえか」
:「掛地や羽織を持って帰って来たときに、博奕に勝ったと云って、わたくしに十両くれました。けれども、その後に又そっくり取られてしまったからと云って、その十両をみんな持ち出してしまいました。だんだんに押し詰まっては来ますし、家には{{r|炭団
:「そうか。よし、それでみんな判った。いや、まだ判らねえところもあるが、そこはまあ{{r|大目
:半七はすぐ家主を呼んで来てお豊を引き渡した。それから更に峰蔵を自身番へ呼び出して調べると、正直な彼は恐れ入って素直に申し立てた。
:「実はあの晩、長作を迎いに行きまして、ちょうど行き違いになって松円寺のそばを通りますと、化け銀杏の下に一人の男が倒れていました。介抱して主人の家へ送りとどけてやりましたが、その男は河内屋の番頭で、胴巻に入れた金と大切な掛地と{{r|双子
:お豊が井戸へ飛び込もうとした仔細もそれでわかった。
:半七が大抵想像していた通り、かれは亭主の悪事を知っていたのであった。
:その明くる日の夕方、長作は藤代の屋敷へはいろうとするところを、かねて網を張っていた仙吉に召捕られた。忠三郎を投げ倒したのは周道のいたずらで、長作はなんにも係り合いのないことであった。彼はその晩博奕に負けてぼんやり帰ってくると、雪まじりの雨のなかに一人の男が倒れているのを見つけたので、初めは介抱してやるつもりで立ち寄ったが、かれの胴巻の重そうなのを知って、長作は急に気が変った。まず胴巻だけを奪い取って行きかけたが、毒食らわば皿までという料簡になって、彼は更に忠三郎が大事そうに抱えている風呂敷包みを奪った。羽織まで剝ぎ取った。しかも悪銭は身につかないで、百両の金も酒と女と博奕でみんなはたいてしまった。
:「舅や女房はなんにも知らないことでございます。どうぞ御慈悲をねがいます」と、彼は云った。
:実際なんにも知らないと云えないのであるが、さすがに{{r|上
:寺社奉行の命令で、松円寺の化け銀杏は往来に差し出ている枝をみな{{r|伐
:これだけの話を聴いても、わたしにはまだ判らないことがあった。
:「お豊が古道具屋へ売った探幽の鬼は{{r|贋物
:「そうです、そうです」と、半七老人はうなずいた。「稲川の屋敷でも初めから贋物をつかませるほどの悪気はなかったのですが、五百両を半分に値切られたので、苦しまぎれに贋物を河内屋へ渡して、ほん物の方を又ほかへ売ろうと{{r|企
:「どうしてそんな贋物が拵えてあったのでしょう。初めから企んだことでもないのに……」
:「それはこういうわけです。探幽のほん物は昔から稲川の家に伝わっていたんですが、なんでも先代の頃にどこかでその贋物を見つけたんだそうです。贋物とはいえ、それがあんまりよく出来ているので、こんなものが世間に伝わると、どっちが真物だか判らなくなって、自分の家の宝物に{{r|瑕
:河内屋からわたくしのところへ礼に来ましたが、とりわけて番頭の忠三郎はひどくそれを恩にきて、その後もたびたびわたくしを訪ねてくれました。それが今帰って行った水原さんで、維新後に河内屋は商売換えをしてしまいましたが、水原さんは横浜へ行って売込み商をはじめて、それがとんとん拍子にあたって、すっかり盛大になったんですが、それでも昔のことを忘れないで、わたくしのような者とも相変らず附き合っていてくれます。実はきょうも、例の化け銀杏の一件を話して帰ったんですよ」
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