「半七捕物帳 第一巻/化け銀杏」の版間の差分

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=== 三 ===
:鉄物屋の清太郎が見たという若い女は、気ちがいでなければ何者であろう。おそらく寺の留守坊主に逢いに来る女ではあるまいかと半七は鑑定した。かれは子分どもに云いつけて、その坊主の行状を探らせたが、円養は大酒呑みでこそあれ、{{r|女犯|にょぽん}}の関係はないらしいとのことであった。女の幽霊の正体は容易に判らなかった。
:十二月十六日の朝である。半七が朝湯から帰ってくると、河内屋の番頭の忠三郎が待っていた。
:「やあ、番頭さん。お早うございます」と、半七は挨拶した。「例の一件はなにぶん{{r||はか}}がいかねえので申し訳がありません。まあ、もう少し待ってください。年内には何とか{{r||らち}}をあけますから」
:「実はそのことで出ましたのでございます」と、忠三郎は声をひそめた。「昨晩わたくしの主人が或るところで{{r||}}{{r|一軸|いちじく}}をみましたそうで……」
:「へえ、そうですか。それは不思議だ。して、それが何処にありましたえ」
:忠三郎の報告によると、ゆうべ芝((しば)の{{r|源助町|げんすけちょう}}の三島屋という質屋で茶会があった。河内屋の主人重兵衛も客によばれて行った。その席上で、三島屋の主人がこの頃こういうものを手に入れたと云って、自慢たらだらで出してみせたのが{{r||}}の探幽斎の一軸であった。稲川家の品は忠三郎が途中で奪われてしまって、重兵衛はまだその実物をみないのであるが、用人の話と忠三郎の話とを綜合してかんがえると、その図柄といい、表装といい、{{r|箱書|はこがき}}といい、どうもそれが稲川家の宝物であるらしく思われてならなかった。しかもそれが{{r|贋物|にせもの}}でない、たしかに狩野探幽斎の筆であると重兵衛は鑑定した。よそながら其の品の{{r|出所|しゅっしょ}}をたずねると、{{r|牛込|うしごめ}}{{r|赤城下|あかぎした}}のある{{r|大身|たいしん}}の屋敷から内密の払いものであるが、重代の品を手放したなどということが世間にきこえては迷惑であるから、かならず出所を洩らしてくれるなと頼まれているので、その屋敷の名を明らさまに云うことは出来ないとのことであった。
:その以上に詮議のしようもないので、重兵衛はそのまま帰って来たが、なにぶんにも腑に落ちないので、とりあえず半七の処へ{{r||}}らせてよこしたのであった。主人の話によって考えると、どうしてもそれは稲川家の品である。図柄も表装も箱書も寸分違わないと忠三郎も云った。
:「いよいよ不思議ですね」と、半七も眉をよせた。「その三島屋というのはどんな{{r||うち}}ですえ」
:三島屋は古い{{r|暖簾|のれん}}で、内証も裕福であるように聞いていると、忠三郎は説明した。主人{{r|又左衛門|またざえもん}}は茶の心得があるので、河内屋とも多年懇意にしているが、これまでに別に悪い噂を聞いたこともない。まさか三島屋一家の者がそんな悪事を働く筈もないから、おそらく不正の品とは知らずに何処からか買い入れたものであろうと彼は云った。
:「そうかも知れませんね」と、半七はしばらく考えていた。「どっちにしても、それが確かに稲川の屋敷の品だかどうだか、それをよくよく詮議して置かなければなりませんよ。さもないと、物が間違いますからね。おまえさんがみれば間違いもなかろうが、念のために稲川の屋敷の御用人を一緒に連れて行ったらどうです。二人がみれば間違いはありますまい。だが、最初から表向きにそんなことを云って、万一違っていた時には、おたがいに気まずい思いをしなければなりませんからね」
:「ごもっともでございます。主人も、もし間違った時に困ると心配して居りました」
:「それだから、おまえさんが御用人を連れて行って、うまく話し込むんですね。このお方は書画が大変にお好きで、こちらに探幽の名作があるということを手前の主人から聞きまして、ぜひ一度拝見したいと申されるので、押し掛けながら御案内しましたとか何とか云えば、向うも大自慢だから喜んで見せるでしょう。もし又なんとか理窟を云って、飽くまで見せるのを{{r||こば}}むようならばちっとおかしい。ねえ、そうじゃありませんか。そうなれば、また踏み込んで表向きに詮議も出来ます。どっちにしても、御用人を連れて行って一度見て来てください」
:「承知いたしました」
:忠三郎は匆々に帰った。
:その晩にでも再びたずねて来るかと、半七は心待ちに待っていたが、忠三郎は姿をみせなかった。その明くる日も来なかった。おそらく用人の方に何か差し支えがあって、すぐには行かれなかったのであろうと思いながら、半七は内心すこし{{r|苛々|いらいら}}していると、その晩に子分の仙吉が顔を出した。
:「親分。探幽の一件はまだ心当りが付きませんかえ」
:「むむ。ちっとは心当りがねえでもねえが、どうもまだしっかりと摑むわけにも行かねえで困っているよ」
:「そうですか。いや、それについて飛んだお笑いぐさがありましてね。なんでも物を握って見ねえうちは、{{r||ぬか}}よろこびは出来ませんね」と、仙吉は笑った。
:「おめえ達のお笑いぐさはあんまり珍らしくもねえが、どうした」と、半七はからかうように{{r||}}いた。
:「それがおかしいんですよ。わっしの町内に{{r|万助|まんすけ}}という{{r||せり}}呉服屋があるんです。こいつはちっとばかり書画や{{r|骨董|こっとう}}の方にも眼があいているので、商売の片手間に方々の屋敷や{{r|町屋|まちや}}へはいり込んで、書画や古道具なんぞを売り付けて、ときどきには旨い儲けもあるらしいんです。その万助の奴がどこからか探幽の掛軸を買い込んだという噂を聞いて、だんだん調べてみると、それがおまえさん、鬼の図だというんでしょう」
:「むむ」と、半七も少しまじめになって向き直った。「それからどうした」
:「それからすぐに万助の家へ飛び込んで、よく調べてみると、万助の奴め、ぼんやりしている。どうしたんだと訊くと、その探幽が贋物だそうで……」
:半七も思わず笑い出した。
:「まったくお笑いぐさですよ」と、仙吉も声をあげて笑った。「なんでも二、三日まえ、あいつが{{r|御成町|おなりまち}}の横町を通ると、どこかの古道具屋らしい奴と紙屑屋とが往来で立ち話をしている。なに心なく見かえると、その古道具屋が何だか古い掛物をひろげて紙屑屋にみせているので、そばへ寄って覗いてみると、それが鬼の図で狩野探幽なんです。万助の奴め、そこで急に商売気を出して、その古道具屋にかけ合って、なんでも思い切って踏み倒して買って来たんです。古道具屋も、探幽だが何だか、碌にわからねえ奴だったと見えて、いい加減に{{r||やす}}く売ってしまったので、万助も大喜び、とんだ掘り出しものをして一と身代盛りあげる積りで、家へ帰って女房なんぞにも自慢らしく吹聴していたんですあ、実は自分にもまだ確かに見きわめが付かねえので、ある{{r|眼利|めき}}きのところへ持って行って鑑定して貰うと、なるほどよく出来ているが{{r|真物|ほんもの}}じゃあない、これはたしかに贋物だと云われて、万助め、がっかりしてしまったんです。野郎、千両の{{r|富籤|とみくじ}}にでも当った気でいたのを、大番狂わせになったんですからね。はははははは。いや、万助ばかりじゃあねえ、わっしも実はがっかりしましたよ」
:「いや、がっかりすることはねえ」と、半七は笑いながら云った。「仙吉。おめえにしちゃあ大出来だ。これからもう一度万助のところへ行って、その贋物を売った道具屋はどんな奴だか、よく訊いて来てくれ」
:「でも親分、それは贋物ですぜ」
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:「承知しました」
:仙吉は匆々に出て行った。
:あくる朝になっても忠三郎は顔をみせないので、半七は日本橋辺へ用達しに行った足ついでに、{{r|通旅籠町|とおりはたごちょう}}の河内屋をたずねると、忠三郎はすぐに出て来た。かれは気の毒そうに云った。
:「親分さん。まことに申し訳ございません。早速うかがいたいと存じて居りますのですが、なにぶんにも稲川様のお屋敷の方が埒が明きませんので……」
:「御用人が一緒に行ってくれないんですかえ」
115行目:
:「親分、わかりました」
:「判ったか」
:「万吉の奴をしらべて、すっかり判りました。贋物を売った古道具屋は御成道の横町で、亭主は左の{{r|小鬢|こびん}}に禿があるそうです」
 
=== 四 ===