=== 三 田舎町 ===
:僕の家に{{r|黒塗(|くろぬり)}}の深い写真箱がある。多分君も見たことがある{{r|筈(|はず)}}だ。種々の写真が{{r|混雑(|ごった)}}に{{r|入(|いれ)}}てある。その{{r|中(|うち)}}に田舎町らしい所を縦に{{r|撮(|と)}}った写真がある。何時ごろからこの写真が僕の――というよりか家の写真箱に入っているのか知らないが、僕が写真箱を{{r|引掻(|ひっか)}}き廻す{{r|毎(|ごと)}}にちょいちょいと沢山の写真の中から現われて僕の眼に触れる僕は気にも止めず、しみじみ手に取って見たこともなかった。
:ところが{{r|此処(|ここ)}}に転地する前の晩、写真箱を持ち出して{{r|従来(|これまで)}}に遊んだことのある名所や温泉や海岸などの写真を{{r|撰(|え)}}り出して見ていると例の田舎町の写真が出て来た。
:古いので{{r|多少(|いくら)}}か変色しているが{{r|然(|しか)}}し{{r|明亮(|はっきり)}}している。初めて手に取って{{r|能(|よ)}}く見た。{{r|何処(|どこ)}}だか{{r|全然(|まるで)}}解らない。何しろ僕の知らない{{r|場所(|ところ)}}だ。{{r|家並(|やなみ)}}は{{r|揃(|そろ)}}っていないがそれでも町の姿は出来ている。
:この写真こそ今度僕が初めて来たこの地の町であったという訳ではない。そうではない。この写真を見た時の心持と{{r|昨日(|きのう)}}の夕暮に初めて此処の町を散歩した時の心持と同じであったというのである。
:僕は写真を見て色々の感想に{{r|耽(|ふけ)}}った、間近の家の軒下に一人の男が{{r|立(|たっ)}}ている。往来はさびれて人ッ子一人{{r|通(|かよ)}}っていない。既に写真である以上、{{r|天涯地角(|てんがいちかく)}}、何処かにこの町が{{r|現存(|げんそん)}}しているに相違ない。しかし僕とは何の縁もない。縁がないだけ、つくづくと{{r|眺(|なが)}}め入れば入るほど言い知れぬ懐かしい心持が加わって来る。写真を横にしても縦にしても、隠れた家の見える{{r|筈(|はず)}}はないがしかも僕はどうかして軒先しか見えない家を{{r|能(|よ)}}く見た心地がした。冬ならば雪も降ろう雨の日は{{r|尚(|な)}}お{{r|淋(|さ)}}びしかろう。夜は軒先に{{r|燈火(|ともしび)}}もちらつくだろう。あの男は今も生きているだろうか、など思いつづけた。
:然るに僕がこの地に来て一月以上にもなるが{{r|昨日(|きのう)}}の夕暮、{{r|所謂(|いわゆ)}}る'''{{傍点|かわたれ'''}}時に初めて町を散步してみた。{{r|褞袍(|どてら)}}の上に帯をしめたままで、別荘を出て{{r|暫時(|しばらく)}}{{r|夕闇(|ゆうやみ)}}に立っていたが、ふと坂を{{r|下(|おり)}}る気になって今までは庭先から眼の下にのみ見ていた此処の{{r|町端(|まちはず)}}れに出た。町とは名のみ{{r|凸凹(|でこぼこ)}}した{{r|礫原道(|いしはらみち)}}を{{r|挾(|はさ)}}んで家が並んでいるばかりである。道の両側に{{r|小溝(|こみぞ)}}があって家の前に人が通るだけの板が渡してある。僕は何思うともなくこの町の入口に立ていた。この時僕の心に'''{{傍点|しんみり'''}}と{{r|潜(|しのび)}}やかに流れこんだ心持は{{r|則(|すなわ)}}ちかの写真を見た時の心持と同じであった。かれは写真、これは実物、しかも僕が全然、この一団の{{r|人寰(|じんかん)}}には縁も'''{{傍点|ゆかり'''}}もないことは同じである。これが過去千年の昔であろうと、{{r|将(|は)}}た渦巻き{{r|畳(|かさ)}}なる{{r|夏雲(|かうん)}}の{{r|谷間(|たにま)}}に眠る町であろうと同じである。時も場所も無関係である。ただ此処に血あり肉あり、生あり死あり、恋あり恨あり{{r|嘆(|なげき)}}あり{{r|喜(|よろこ)}}びある人の世が僕の前に{{r|横(|よこた)}}わっているのである。{{r|挙(|あ)}}げて{{r|永劫(|えいごう)}}の海に落ちゆく{{r|世々代々(|せいせいよよ)}}の人生の流の一支流が僕の前に横たわっているのである。
:僕は'''{{傍点|のそり'''}}のそりと步いた。写真でないからどの家でも見られる。軒先に立って暮れゆく空を{{r|茫然(|ぼうぜん)}}と眺めている男も居た。
:小さな石橋を渡ると右へ{{r|入(|はい)}}る狭い横道がある。突然女の叫ぶ声がその{{r|間(|あいだ)}}から聞えた。声を限りに{{r|罵(|ののし)}}り{{r|叫喚(|わめ)}}いているらしい。僕は思わずその横道に入った。
:此処まで書いて来たが、{{r|最早(|もう)}}疲れ果てたから簡単にする。
:年頃五十ばかりの{{r|狂婦(|きちがい)}}がただ一人叫ぶのであった。
:「畜生!恩知らず、悪党、{{r|馬鹿親爺(|ばかおやじ)!}}!」これだけの事を繰返し繰返し怒鳴っていたのである。
:そして僕が別荘に帰って見ると一人の老人が{{r|訪(|たず)}}ねて来ていた。この老人が狂女の{{r|所謂(|いわゆ)}}る悪党の恩知らずであった。
:詳しいことは次便に申上げる。風が出て海が鳴っている――。
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