「半七捕物帳 第一巻/海坊主」の版間の差分

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=== 二 ===
:めいめいの{{r|宿許|やどもと}}へ引き揚げて、やれよかったと初めて落ちつくと共に、どの人の口に{{r||のぼ}}ったのもかの奇怪な人間の噂であった。その{{r|風体|ふうてい}}や挙動が奇怪であるのは云うまでもない、更に奇怪を感ぜしめたのは、彼が誰よりも先に颶風や潮を予報したことであった。老練の船頭すらもまだそれを発見し得ない間に、かれがどうして{{r|逸早|いちはや}}くそれを予覚したのであろうか。はじめは気ちがいの{{r|囈言|うわごと}}ぐらいに聞きながしていた彼の警告が一々図星にあたっていたのである。人か神か、仙人か、諸人はその判断に迷った。
:混乱の折柄で、彼がそれからどうしたか、どこへ行ってしまったか、誰もたしかに見とどけた者はなかったが、最後にここを引き揚げたのは、{{r|築地河岸|つきじがし}}の船宿{{r|山石|やまいし}}の船で、その船頭は清次という若い者であった。乗合いは男五人と女ひとりで、船には{{r|酒肴|しゅこう}}をたくさん積み込んで、潮干狩は名ばかりで、大抵は船のなかで飲み暮らしていたが、午すぎになってから、船を出て、人真似に浅蜊などを少しばかり拾いはじめると、かの颶風に出逢って狼狽して、五人のうち二人は早々に船へ逃げ込んで来たが、ほかの三人と女とが戻って来ないので、ふたりは心配して又探しに出た。
:清次も見ていられないので、一緒にそこらを探してあるいたが、何分にも風が烈しいので、叩きつけるような砂や小石を{{r|眼口|めくち}}に打ち込まれて、度をうしなって暫く立ちすくんでいるうちに、ふたりの男のゆくえを見失ってしまった。やがて眼をあいて再びそこらを探しあるいていると、よほど離れた砂の上にひざまついて、ひとりの女がひとりの男と何か話しているらしいのを遠目に見た。女はどうやら自分の船の客らしいので、清次はもしもしと呼びながら近寄ろうとする時に、又もや颶風がどっと吹きおろして来たので、清次も堪まらなくなって砂地にうつ伏した。かれが頭をあげた時には、その女も男ももう見えなかった。船へ帰ると、五人の男もかの女客もいつの間には無事に戻っていた。
:ただそれだけであれば、別に仔細もないが、その時かの女客と話していたらしい男が奇怪な人間の姿であったように清次の眼に映ったのである。混雑の場合でもあり、又そんなことを詮議すべきでもないので、清次はなんにも云わずに漕いで帰った。
:そこでは何も云わなかったが、かの奇怪な男の噂が出るたびに、清次はそれを人にしゃべった。自分の船の女の客がどうも{{r||}}の奇怪な男と知り合いででもあったらしいと吹聴した。その日の客のうち男ふたりは二度ばかり山石に船をたのみに来たことがあったが、馴染が浅いのでどこの人だか知れなかった。ほかの三人と女ひとりは初めての客であった。したがって彼らのすべてが何者であるか一向判らなかったが、なんでも{{r|下町|したまち}}の町人らしい風俗で、船頭の祝儀も相当にくれた。
:それが半七の耳にはいった。かれはすぐ築地河岸へ出向いて、まず船頭の清次をしらべたが、清次は前にも云ったほかには何も知らないと云った。船宿では{{r|猶更|なおさら}}知らなかった。
:「もしその客のどれかが又来たら、きっとおれの所へ知らせてくれ。悪くすると飛んだ引き合いを食うぞ」
:半七は念を押して帰った。それはもうかの潮干狩から半月ばかり後であった。神田三河町の家へ帰ると、半七はすぐに子分の幸次郎をよんで、清次という若い船頭の身許をしらべろと命令した。幸次郎は受け合って帰ったが、そのあくる日すぐに出直して来た。
:「親分、大抵はわかりましたが、船頭仲間でも{{r||}}いてみましたら、あの清次という野郎は今年二十一か二で、これまで別に悪い噂もなかったと云います」
:「なんにも道楽はねえか」
:「商売が商売だから、酒も少しは飲む、小{{r|博奕|ばくち}}ぐらいは打つようだが、別に鼻につままれるような{{r||いや}}なこともしねえそうですよ。品川の女に{{r|馴染|なじみ}}があるそうだが、これも若い者のことでしょうがありますめえ」
:「身にひきくらべて{{r|贔屓|ひいき}}するな」と、半七は笑った。「だが、まあ、いいや。そこまで判れば大抵の見当は付いた。御苦労ついでに品川へ行って、あいつが此の頃の遊びっぷりをしらべて来てくれ。店の名は判っているだろうな」
:「わかっています。{{r|化伊勢|ばけいせ}}のお辰という女です。すぐに行って来ましょう」
:幸次郎は又出て行ったが、その晩、かれが引っ返して来ての報告は半七を少し失望させた。
:「清次は月に四、五たびは来るそうですが、まあ身分相当といったくれえの使いっぷりで、今月になって二度来たが、別に派手なこともしねえと云いますよ。どうでしょう。もう少しほかを洗ってみましょうか」
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:幸次郎はかさねて受け合って帰ったが、別に取り留めたことも探し出さないとみえて、それから又半月ほど過ぎるまで、この一件に就いてはなんの新らしい報告も持って来なかった。人の噂も七十五日で、潮干狩の噂はだんだんに消えて行った。半七もほかの仕事に忙がしく追われていたが、それでも彼の頭にはまだこの一件がこびり付いて離れなかった。
:「あの船頭はどうした」と、半七はときどきに催促した。
:「親分も執念ぶけえね」と、幸次郎は笑っていた。「わっしも{{r|如才|じょさい}}なく気をつけてはいますが、どうもなんにも当りがねえんですよ」
:「その客というのもそれぎり来ねえか」
:「それぎり顔をみせねえそうです」
:こうして四月も過ぎ、五月になって{{r|梅雨|つゆ}}らしい雨が毎日ふりつづいた。五月十日の朝である。半七がいつもより少し朝寝をして、{{r|楊枝|ようじ}}をつかいながら縁側へ出ると、となりの庭の{{r|柘榴|ざくろ}}の花があかく濡れていた。外では{{r|稗蒔|ひえまき}}を売る声がきこえた。
:「ああ、きょうも降るかな」
:{{r|鬱陶|うっとう}}しそうに薄暗い空をみあげていると、表の格子ががたぴしと明けて、幸次郎があわただしく飛び込んで来た。
:潮干狩の一件以来、幸次郎は半七に催促されるのが苦しいので、築地河岸の船頭はいうまでもあく、{{r|芝浦|しばうら}}から{{r|柳橋|やなぎばし}}、神田川あたりの船宿をまわって、絶えずなにかの手がかりを見つけ出そうと{{r||あせ}}っているうちに、けさ偶然にこんなことを聞き出したのである。しかもそれはゆうべのことで、神田川の網船屋の船頭の{{r|千八|せんぱち}}というのがおなじみの客をのせて{{r|隅田川|すみだがわ}}{{r||かみ}}の方へ夜網に出た。客は本郷の湯島に屋敷をかまえている{{r|市瀬三四郎|いちせさんしろう}}という旗本の隠居であった。あずま橋下からだんだんに{{r|綾瀬|あやせ}}の方までのぼって行ったのは夜も四ツ(午後十時)をすぎた頃で、雨もひとしきり{{r|小歇|こや}}みになった。もちろん濡れる覚悟であったから、客も船頭も{{r|蓑笠|みのかさ}}をつけていたが、雨がやんだらしいので隠居は笠をぬいだ。笠の下には手ぬぐいで頰かむりをしていた。
:「{{r|素人|しろうと}}は笠をかぶっていると、思うように網が打てない」
:隠居は自分でも網を打つのである。今夜はあまり獲物が多くないので、かれは少し{{r||}}れ気味でもあった。
:「網を貸せ。おれが打つ」
:船頭の手から網を取って、隠居は暗い水の上にさっと投げると、なにか大きな物がかかったらしい。{{r||こい}}{{r||なまず}}かと云いながら、千八も手つだって引き寄せると、大きい獲物は魚ではなかった。それはたしかに人の形であった。水死の{{r|亡骸|なきがら}}が夜網にかかるのは珍らしくない。船頭はこれまでにもそんな経験があるので、又お客様かといやな顔をした。かがり火の光りでそれが男であることを知ると、彼はすぐに流そうとした。
:「むかしの船頭仲間には一種の習慣がありましてね」と、半七老人はここでわたしに説明してくれた。「身投げのあった場合に、それが女なら引き上げて助けるが、男ならば助けない。なぜと云うと、女は気の狭いものだから詰まらないことにも命を捨てようとする。死ぬほどのことでもないのに死のうとするのだから助けてやるが、男の方はそうでない。男が死のうと覚悟するからには、死ぬだけの理屈があるに相違ない。どうしても生きていられないような事情があるに相違ない。いっそ見殺しにしてやる方が当人の為だ、と、まあこういうわけで、男の身投げは先ず助けないことになっている。それが自然の習慣になって、ほかの水死人を見つけた時には、女は引き上げて介抱してやるが、男は大抵突き流してしまうのが多い。男こそいい{{r||つら}}の皮だが、どうも仕方がありませんよ」
:ここの船でも船頭が男の水死人を突き流そうとするのを、隠居は制した。
:「まあ、引き上げてやれ。なにかの縁でおれの網にはいったのだ」
:こう云われて、千八も争うわけには行かなかった。かれは指図の通りに網を{{r|手繰|たぐ}}って、ともかくもその男を船のなかへ引き上げると、かれは死んでいるのではなかった。網を出ると、彼はすぐにあぐらをかいた。
:「なにか食い物はないか。腹が{{r||}}った」
:隠居も千八もおどろいていると、男はそこにある{{r|魚籠|びく}}に手を入れて、生きた小魚をつかみだしてむしゃむしゃと食った。二人はいよいよ驚かされた。
:「まだ何かあるだろう。酒はねえか」と、彼はまた云った。「ぐずぐずしていやあがると、これだぞ」
:かれは腹巻からでも探り出したらしい、いきなりに{{r|匕首|あいくち}}を引きぬいて、二人の眼さきに突きつけたので、船頭は又びっくりした。しかし一方は武家の隠居である。すぐにその刃物をたたきおとして再び彼を水のなかへ投げ込んでしまった。
:「はは、悪い{{r|河獺|かわうそ}}だ」と、隠居は笑っていた。
:しかし、それが河獺でないことは判り切っていた。千八はただ黙っていると、隠居はこれに興をさましたらしく、今夜はもうこれで帰ろうと云った。船頭はすなおに漕いで帰った。
:この報告を終って、幸次郎は半七の顔色をうかがった。