「半七捕物帳 第一巻/三河万歳」の版間の差分

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|author=岡本綺堂
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*底本:1999年10月10日春陽堂書店発行『半七捕物帳第一巻』
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=== 三 ===
:富蔵の隣りにお{{r|津賀|つが}}という二十五六の{{r|小粋|こいき}}な女が住んでいる。よほど'''{{傍点|だらし'''}}のない女で、旦那取りをしているというのであるが、{{r||さだ}}まった一人の旦那を守っているのでは無いらしく、大勢の男にかかり合って一種の{{r|婬売|じごく}}同様のみだらな生活を営んでいるのだと近所ではもっぱら噂された。そのお津賀のところへ{{r||まれ}}にたずねてくる五十くらいの男があって、それは自分の叔父さんで、一年に一度ずつ商売用で{{r|上州|じょうしゅう}}から出て来るのだと彼女は云っているが、どうも上州者ではないらしく、又ほんとうの叔父さんではないらしい。それも例の旦那の一人であろうと長屋じゅうの者には認められていた。
:四、五日前の夕方に、その叔父という人が久し振りにたずねて来ると、あいにくお津賀はいなかった。かれは独身者で、外へ出るときに表の戸にしっかりと{{r||じょう}}をおろしてゆくので、叔父ははいることが出来なかった。うす暗い{{r|門口|かどぐち}}にぼんやりと立っている男の姿を気の毒そうに見て、井戸端から声をかけたのがこの女房であった。黙っていればよかったが、お津賀の帰るまで隣の家へはいって待っていろと彼女は教えてやった。となりは富蔵の家で、かれは戸をあけ放したままで町内の{{r|銭湯|せんとう}}へ出て行った留守であったが、{{r||}}られるような物のある家では無し、殊にその男の顔を見知っているので、女房も安心してそう教えたのであった。すこし酔っているらしい男は礼を云って隣りへはいって、上がり{{r||がまち}}に腰かけているらしかったが、そのうちに三味線をぽつんぽつんと{{r||}}き出した音がきこえた。かれはお津賀の家へ来ても時々に三味線を弾くことがあるので、女房も別に不思議には思わないで自分の米を{{r||}}いでしまって家へ帰った。
:「それからが騒動なんですよ」と、女房は顔をしかめて話した。「富さんの家で何かどたんばたんという音が聞えたから、どうしたのかと思って駆けつけてみると、富さんは湯あがりの頭から'''{{傍点|ぽっぽっ'''}}{{r||けむ}}を立てて、その叔父さんという人の胸倉を摑んで、ひどい権幕で何か掛け合いを付けているんです。だんだんに{{r||}}いてみると、その人が富さんの猫を{{r||}}ち殺してしまったという一件なんです」
:「なぜ殺したんだろう。だしぬけに踊り出したのかえ」と、半七は訊いた。
:「そうなんですよ。踊り出したんですよ」
:女房の説明によると、富蔵は自分の飼っている白い仔猫に踊りを仕込むために、長火鉢に炭火をかんかん{{r||おこ}}して、その上に銅の板を置く。それは丁度かの文字焼を焼くような趣向である。その銅の板の熱くなった頃に仔猫の胴中を麻縄で縛って、天井から火鉢の上に吊りさげて、四本の足が丁度その銅の板を踏むようにすると、板は焼け切っているから、猫はその熱いのにおどろいて、思わず前後の脚を代る代るにひょいひょい揚げる。それを待ち設けて、富蔵は爪弾きで三味線を弾き出すのである。勿論はじめのうちは猫の足どりを見て、こっちで巧く調子を合わせて行かなければならないのであるが、それがだんだんに馴れて来ると、猫の方から調子にあわせて前後の足をひょいひょいと揚げるようになる。更に馴れて来ると、普通の板や畳の上でも三味線の音につれて足をあげるようになる。観世物小屋で囃し立てる猫の踊りは皆こうして仕込むので、富蔵もふた月ほどかかってこの白猫を馴らした。
:根気よく馴らして教えて、猫もどうやら斯うやら商売物になろうとしたところを、かの男に突然撲り殺されてしまったのである。勿論、殺した方にも相当の理窟はあった。かれは框に腰をかけてぼんやりと待っている退屈まぎれに、壁にかけてある三味線をふと見付けて、少し酔っている彼はその三味線をおろしてぽつんぽつんと弾きはじめると、長火鉢の傍にうずくまっていた白猫が、その爪弾きの調子にあわせて俄かに踊り出した。彼は実にびっくりした。うす暗い夕方の{{r|逢魔|おうま}}{{r||とき}}に、猫がふらふらと起って踊り出したのであるから、異常の恐怖に襲われた彼は、もう何もかんがえている余裕もなかった。彼は持っている三味線を持ち直して猫の脳天を力任せになぐり付けると、猫はそのままころりと倒れて死んだ。そこへ飼い主の富蔵が帰って来た。
:誰がなんと云おうとも、ひとの留守へ無断にはいり込むという法はないと富蔵は怒った。おまけに大切な商売物をぶち殺してしまって、この始末はどうしてくれると彼は眼の色を変えて{{r||たけ}}った。その事情が判ってみると、男もひどく恐縮していろいろにあやまったが、富蔵は承知しなかた。自分も係り合いがあるので、かの女房も一緒に口を添えてやったが、富蔵はどうしても{{r||}}かないで、殺した猫を生かして返すか、さもなくばその{{r||つぐな}}い金を十両出せと迫った。それをいろいろにあやまって、結局半金の五両に負けて貰う事になったが、男にはその五両の持ち合わせがないので、どうか{{r|大晦日|おおみそか}}まで待ってくれと頼むのを、富蔵は無理におさえ付けて、腕ずぐでその紙入れを引ったくってしまった。しかし紙入れには三分ばかりしか{{r|這入|はい}}っていなかったので、富蔵はまだ料簡しないで、これから俺と一緒に行ってすぐに其の金を工面しろと責めているところへ、丁度にお津賀が帰って来て、きっと自分が受け合うから今夜のところは勘弁してくれと頻りに富蔵をなだめて、無事にその男を自分の家へ連れ込んだ。
:富蔵の猫はこういう事情で失われたのであった。かれが半七に対して、飽くまでも知らないと強情を張っていたのは、たとい自分に相当の理があるとは云え、物取り同様に相手を{{r|手籠|てご}}めにして、その紙入れを無体に取りあげたという、うしろ暗い{{r||かど}}があるからであろうと想像された。
:「それからどうしたね。その男は{{r|後金|あとがね}}を持って来たらしいかえ」と、半七はまた訊いた。
:「その晩は無事に済んで、その人はそれからお津賀さんの家で{{r|小一刻|こいっとき}}も話して帰ったようでしたが、その明くる晩また出直して来ると、なんだかお津賀さんと喧嘩をはじめて、両方が酔っていたらしいんですが、お津賀さんはその人をつかまえて表へ突き出してしまったんです」
:「ひどい女だな」と、亀吉は眼を丸くした。
:「そりゃなかなか強いんですから」と、女房は嘲るように笑っていた。「お前さんのような意気地なしはどうだとか斯うだとか云って、そりゃあもうひどい権幕で……。かりにも世間に対しては叔父さんだとか云っている人を、さんざん小突きまわして、表へ突き出してしまったんです。それでも其の人はなんにも云わないで、おとなくし{{r|悄々|しおしお}}と出て行きました。もっともお津賀さんにかかっちゃあ大抵の男はかなわないかも知れませんよ」
:「そのお津賀さんというのは家にいるかえ」と、半七はうしろを見返りながら訊いた。
:おなじ裏長屋でもお津賀の家は小奇麗に住まっているらしく、軒には{{r|亀戸|かめいど}}{{r|雷除|らいよ}}けの{{r|御札|おふだ}}が貼ってあった。表の戸は相変らず錠をおろしてあるので、内の様子はわからなかった。
:「ゆうべから帰って来ないようですよ」と、女房はまた笑った。
:「で、どうだい。隣りの富蔵とはおかしいような様子はないかね」
:「そりゃあ判りませんね。あの人のことですから」
:「そうだろう」と、半七も笑った。「いや、日の短けえのに{{r|手間費|てまづい}}をさせて済みません。さあ、亀。もう行こうぜ」
:女房に挨拶して、ふたりは露路の外へ出た。
:「親分。不思議なことがあるもんですね」
:「むむ、広い世間にはいろいろのことがある」と、半七はうなずいた。「だが、まあ、ここまで足を運んだ効能はある。それでもう大抵{{r|見当|けんとう}}は付いたが、今度はその鬼っ児に出どころだ。いや、それもすぐ判るだろう。それでお前の方はもう{{r|年明|ねんあ}}けらしい。おれは脇へ廻るからここで別れようぜ」
:「富の野郎はどうしましょう」
:「さあ、今のところじゃあしようがねえ。まあ打っちゃって置け」
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:「大きに御苦労。その市丸のところへ近ごろ女がたずねて来たらしい様子はねえか」
:「来ました、来ました。女中に聞いたら、なんでも小粋な二十五六の女が二、三度たずねて来たそうです。お前さんよく知っていますね」
:「むむ、知っている」と半七は笑っていた。「もう大抵判っているんだから、きょうはこのくらいにしておこう。おめえも{{r||かぞ}}{{r||}}にここでいつまでも{{r|納涼|すず}}んでもいられめえ。家へ帰って{{r||かかあ}}{{r|熨斗餅|のしもち}}を切る手伝いでもしてやれ」
:「じゃあ、もうようがすかえ」
:「もうよかろう」
:ふたりは連れ立って神田へ帰った。寒い風は夜通し吹きつづけたので、火事早い江戸に住んでいる人達はその晩おちおち眠られなかった。とりわけて御用を持っているからだの半七は、いよいよ眼が冴えてまんじりともしなかった。あくる朝七ツ(午前四時)頃から寝床をぬけだして、{{r|行燈|あんどん}}の灯で煙草をのんでいると、割れるように表の戸を叩く者があった。
:「誰だ。誰だ」
:「わっしです。亀です」と、外であわただしく呼んだ。
:「豆腐屋か、馬鹿に早えな」
:家の者はまだ起きないので、半七は自分で起って戸をあけると、亀吉は息をはずませて転げ込んで来た。
:「親分。富蔵が{{r||}}られた」
 
 
=== 四 ===
:見す見す猫をなくしたのを強情に知らないと云い張って、たとい一時でも親分の前で自分に恥をかかした富蔵を、亀吉は心から憎んでいた。きのう半七に別れてから彼は吉原へ遊びに行ったが、あまり好くも扱われなかったむしゃくしゃ腹で、引き前に{{r||くるわ}}を飛び出して、{{r|阿部川町|あべかわちょう}}の友達を叩き起して泊めて貰った。彼もこの強い風に枕を{{r||ゆす}}られておちおち眠られずにいる耳もとに、人の立ち騒ぐような声が遠くひびいた。火事かしらとすぐに飛び起きてその騒がしい方角へ駈け付けてみると、果たして火事に相違なかったが、それは稲荷町の長屋の一軒焼けで鎮まった。
:火事は先ずそれで済んだが、済まないのは、その火元に男が死んでいたことである。死んだ男はかの富蔵であった。一つ長屋のお津賀の死骸も井戸から発見された。
:「こういうわけだから私ひとりじゃいけねえ。お前さんも早く来ておくんなせえ」
:「よし、すぐに行く。なにしろ飛んだことになったものだ」
:半七は身支度をして、亀吉と一緒に出てゆくと、師走二十九日のあかつきの風は、{{r|諸刃|もろは}}の大きい{{r||つるぎ}}{{r||}}ぎ倒そうとするように吹き払って来た。ふたりは{{r|眼口|めくち}}をふさいで転げるようにあるいた。稲荷町へ行き着いてみると、富蔵の家は半焼けのまま{{r||くず}}れ落ちて、{{r||}}せるような白い煙りは狹い路地の奥にうずまいて{{r||みなぎ}}っていた。町内の者も長屋の者も、その煙りのなかに群がって'''{{傍点|がやがや'''}}と騒いでいた。
:「どうも騒々しいことでした」
:きのうの女房を見掛けて半七が声をかけると、あわて{{r||まなこ}}のかれも一朱くれたきのうの人を見忘れなかった。
:「きのうはどうも……。でも、まあ、この風でこのくらいで済めば小難でした」
:「小難はおめでてえが、なにか変死があるというじゃありませんか。焼け死んだのですか」と、半七は何げなく訊いた。
:「それが判らないんです。あの富さんが焼け死んで……。お津賀さんも……」
:「そうですか」
:半七はすぐに火元へ行った。もうこうなっては{{r|仮面|めん}}をかぶっていられないので、かれは自分の身分を名乗って、{{r|家主|いえぬし}}立ち合いで焼け跡をあらためた。近所の人達が早く駈け付けて、すぐに叩き毀してしまったので、半焼けと云っても七分通りは毀れたままで焼け残っていた。半七はその家のまわりを見廻りながら、ふとその隣の稲荷の{{r||ほこら}}に眼をつけた。
:「この稲荷さまは無事だったんですか」
:「火の大きくならなかったのも、お稲荷様のおかげだと云って、長屋じゅうの者も喜んでいます」と、家主は云った。
:「喜ぶのは間違っている」と、半七はあざ笑った。「お稲さまに{{r|御利益|ごりやく}}があるなら、はじめからこんな騒ぎを{{r|仕出来|しでか}}さねえがいい。家を焼いて、人を殺して、御利益もねえもんだ。いっそ{{r|刷毛|はけ}}ついでにこの稲荷も{{r||}}してしまっちゃあどうです」
:無法なことを云うとは思ったらしいが、相手が相手なので、家主は苦り切って黙っていると、半七は{{r|足下|あしもと}}にまだ'''{{傍点|ちろちろ'''}}と燃えている木のきれを拾って{{r|松明|たいまつ}}のように振りあげた。
:「ようがすかえ。この稲荷に火をつけますぜ」
:「お前さん。どんでもないことを……」
:家主はあわててその腕を押えると、半七は委細かまわず又呶鳴った。
:「ええ、構うものか、こんな稲荷……。さあ、焼くぞ、こんな{{r|燧石箱|ひうちばこ}}のような小っぽけな{{r||ほこら}}は、またたく間に灰にしてしまうぞ。{{r|野良狐|のらぎつね}}が隠れているなら早く出て来い」
:稲荷様もこれには驚いたのかも知れない。その声に応じて正面の扉がさっとあいた。しかも這い出して来たのは野良狐ではなかった。それは頭から{{r||すす}}を浴びた五十前後の男であった。
:「お前は市丸太夫だろう。正直にいえ」と、半七はかれの腕をつかんだ。「どうも稲荷様の中で'''{{傍点|ごぞごぞ'''}}いうと思ったら、案の{{r||じょう}}こんな狐が這い込んでいた。さあ、番屋へ来い」
:町内の自身番へ引っ立てられて行った男は、果たして{{r||}}の市丸太夫であった。かれはふところに{{r|小刀|こがたな}}を呑んでいたが、その刃には血の痕がなかった。
:「お前は富蔵を殺して、火をつけたのか」
:「恐れ入りました」と、市丸太夫は白状した。「全くわたくしは富蔵を殺そうと存じてまいりました。しかし殺さないうちに火事が出て、富蔵は焼け死んだのでございます」
:「なぜ富蔵を殺そうとした」
:「わずかの金に差し支えましたのでございます」
:かれは誤って富蔵の猫を殺した始末を正直に申し立てた。それは長屋の者の推察通り、彼は一昨年の春からお津賀に関係して、毎年江戸へ出るたびに彼女のところへ訪ねて来て、松の内に稼ぎためた金の大部分を絞り取られていた。今年も一年ぶりで訪ねて来ると、あいにくお津賀は留守で、{{r||はか}}らずも隣りの猫を殺すような間違いを仕出来してしまった。
:「お津賀のあつかいで、その場だけでも勘弁して貰ったのですが、あと金四両一分の{{r|工面|くめん}}がなかなか付きません。仲間の者も春にならなければ、まとまった金を貸してくれることは出来ませんので、わたくしも途方にくれました。差し当りお津賀の着物でも{{r||しち}}に入れて、なんとか融通して貰おうと存じまして、その明くる晩出直して相談にまいりますと、剣も'''{{傍点|ほろろ'''}}の挨拶で断わられました。ふた言三言云い合っていますうちに、お津賀は気の強い女で、とうとう私をつかまえて表へ突き出してしまいました。いい年を致して若い女に係り合いまして、飛んだ恥を申し上げなければなりません。それで{{r|悄々|しおしお}}帰りますと、あくる日お津賀がわたくしの宿へ押し掛けて参りまして、後金を早くどうかしてくれなければ近所へ対して面目がないと{{r|強請|せが}}みます。その日はまあなんとか{{r||なだ}}めて帰しますと、あくる日もまた押し掛けて来てやかましく申します。宿の手前、仲間の手前、お津賀のような女に毎日押し掛けて来られましては、わたくしもどうしてよいか、実に消え入りたいくらいで……」
:若い女にさいなまされている老人の{{r|懺悔|ざんげ}}を、半七は嘲るような又あわれむような心持で聴いていると市丸太夫は恐る恐る語りつづけた。
:「そういう次第で、わたくしも途方に暮れて居りますうちに、宿の女中から{{r|不図|ふと}}こんなことを聞きましたのでございます。昨年の夏頃から宿に奉公して居りましたお{{r||きた}}という若い女中が{{r||ぬし}}の定まらない{{r||たね}}をやどして、だんだん{{r|起居|たちい}}も大儀になって来たので、この七月に暇を取って新宿の{{r|宿許|やどもと}}へ帰って、十月のはじめに女の児を無事に生み落しました。ところがその赤児はどうした因果か、生まれるときから上顎に二本の長い{{r||きば}}が生えている鬼でございまして、本人は勿論、兄弟たちも世間へ対して外聞が悪いと申して、ひどく困っているということを聞きましたので、わたくしはすぐにそのお北の家へたずねて参りました。お北とは顔馴染みでございますので、本人に逢ってその赤児をみせて貰いますと、なるほど立派な因果者でございます。正直のところわたくしはとても差し当って四両一分の工面は付きませんから、この因果者を富蔵のところへ持って行って、猫の{{r|形代|かたしろ}}に受け取って貰おうと存じまして、この児をよそへやる気はないかと訊きますと、実は持て余しているところだから、片輪を承知で貰ってくれる親切な人があれば、何処へでもやりたいと申します。それでは一度相談して来ようと約束して帰りまして、その足でお津賀のところへ行って相談しますと、隣りの富蔵はあいにく居りませんでしたが、お津賀はその話を聞きまして、それがまったく商売になりそうなものならば富さんも承知してくれるかも知れないから、ともかくもその因果者を連れて来てみせろと申しました」
:「それでとうとうその赤ん坊を取って来たのか。おめえも無慈悲な男だな」と、半七は{{r|苦々|にがにが}}しそうに云った。
:「重々恐れ入りましてございます。無慈悲は万々承知して居りましたが、なにぶんにも背に腹は換えられないと存じまして……。お北の方へはよいように話をしまして、ともかくもその鬼っ児を受け取ってまいりますと、ちょうど途中で才蔵に逢いました。松若はわたしくの宿へたずねて来る処でございましたから、これは幸いだと存じまして、あらましのわけを話して其の児をお津賀の家へとどけてくれるように松若に頼みました。松若もわたくしと一緒に行ったことがあるので、お津賀の家はよく知っている筈でございます。それは二十六日の宵の五ツ(午後八時)少し前でございましたが、松若はそれぎり帰ってまいりません。どうしたのかと案じて居りますと、そのあくる日の午過ぎにお津賀が又押し掛けてまいりまして、あの因果者はどうしたと催促いたします。ゆうべ松若にとどけさしたと云いましてもなかなか承知しませんで、いろいろ面倒なことを申しますので、わたくしもいよいよ困り果てました。そればかりでなく、だんだんその様子を見ていますと、お津賀はどうも富蔵と{{r|情交|わけ}}があるのではないかと思われるような所もございますので、わたくしもなんだか{{r|忌々|いまいま}}しくなりまして、今思えば恐ろしいことでございます。いっそ富蔵とお津賀を殺してしまえば、誰に{{r||いじ}}められることは無いと存じまして、夜店で買いました小刀をふところに入れて、昨晩の夜ふけに稲荷町へそっと忍んでまいりますと、案の通りお津賀は隣りの家へはいり込んで、富蔵と差し向いで睦じそうに酒を呑んでいました。わたくしは{{r||かっ}}となってすぐに飛び込もうかと存じましたが、なにぶんにも相手は二人でございますから、何だか{{r|気怯|きおく}}れがして、しばらく様子を窺って居りますと、ふたりはだんだんに酔いが廻って来まして、つまらないことから喧嘩をはじめましたが、お津賀もきかない気の女ですから、とうとう立ち上がって摑み合いになろうとするはずみに、そばにある{{r|行燈|あんどん}}を倒しました。富蔵はもう酔っているので自由に身動きも出来ません。お津賀はあわててその火を揉み消そうとしましたが、これも酔っているので思うようには働けません。唯うろたえてまごまごしているうちに、火はだんだん拡がってお津賀の裾や袂に燃え付きました。わたしは{{r|呆気|あっけ}}に取られて眺めていますと、お津賀はもうからだ中が一面の火になってしまいまして……」
:その当時の凄惨な光景を思い出すさえ恐ろしいように、市丸太夫は身ぶるいした。
:「結い立ての天神髷を振りこわして、白い顔をゆがめて、歯を食いしばって、{{r|火焙|ひあぶ}}りになって{{r|家中|うちじゅう}}を転げ廻って、苦しみもがいている女の姿は……。わたくしのような臆病者にはとてもふた目とは見ていられませんので、思わず眼をふさいでしまいますと、お津賀ももう堪まらなくなったのでございましょう。{{r||かまち}}から土間へ転げ落ちたような物音がきこえました。わたくしは'''{{傍点|はっ'''}}と思って再び眼をあきますと、お津賀の燃えている姿は井戸の方へ……。からだの火を消す積りか、それともいっそ一と思いに死んでしまう積りか、それはわたくしにも能く判りませんでしたが、ともかくも井戸側の上で火の粉が'''{{傍点|ぱっ'''}}と散ったかと思うと、お津賀の姿はもう見えなくなったようでございました。富蔵は……どうしたのか存じません。もうその頃には家中いっぱいの火になっていました。その騒ぎを聞きつけて近所の人達が'''{{傍点|ばたばた'''}}駈け付けて来ましたので、わたくしも度を失いまして、ここらにうっかりしていて、とんだ{{r|連坐|まきぞえ}}を受けてはならないと、前後のかんがえも無しにあの稲荷の{{r||ほこら}}の中に隠れましたが、もしその火が大きくなってこっちに焼けて来たらどうしようかと、実に生きている空もございませんでした。幸いに火は一軒焼けで鎮まりましたが、大勢の人が人もを取りまいて'''{{傍点|わやわや'''}}騒いでいるので、いつまでも出るに出られず、わたくしも途方に暮れているところを、とうとうお前さんに探し当てられてしまいました。行燈を倒したときに、わたくしも早く駈け込んで、一緒に手伝って消してやればよかったのでございましょうが、わたくしは唯びっくりして居りまして……」
:びっくりしていたばかりではない。そこに残酷な復讐の意味が含まれているらしいのを半七は想像しないわけには行かなかった。
:「おめえが{{r|直接|じか}}に手をおろさないで、お津賀も富蔵も一度に片付けてしまえば、こんな世話のねえ事はねえ」と、半七は皮肉らしく云った。「だが、おめえも罪な人間だ。才蔵の松若はおめえの使に行く途中で{{r||こご}}えて死んでしまったぜ」
:「松若が死にましたか」と、市丸太夫は更にその顔を蒼くした。
:「その鬼っ児をかかえて行く途中で、あんまり酒を飲み過ぎたせいだろう。食らい酔ったままで鎌倉河岸にぶっ倒れて、可哀そうに凍え死んでしまったんだ。鬼っ児に別条はねえ。親元が判ったらこっちから渡してやる。おめえにうっかり渡して、又なにかの種に使われちゃあ堪まんねえから」
:市丸太夫はもう一言もなかった。彼はゆがんだ{{r|皺面|しわづら}}を灰いろにして、死んだ者のようにうずくまっていた。
 
 
:長い牙を持った因果者の赤児は、生みの母のお北に引き渡された。市丸太夫は表向きに彼を罪にすべき{{r||かど}}もないので、ただ叱り置くというだけで{{r||ゆる}}されたが、すぐに宿を引き払って故郷へ帰った。それから後の江戸の春に市丸太夫の万歳すがたはもう見えなくなった。
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