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○扨翁が友、豐前中津侯の醫官前野良澤といへるものあり、此人幼にして孤となり、其伯父淀侯の醫師宮田全澤といふ人に養れて成り立ちし男なり、此全澤博學の人なりしが、天性奇人にて、萬事其好む所常人に異なりしにより、其良澤を敎育せし所も又非常なりしとなり、其敎に、人といふ者は世に廢れんと思ふ藝能は、學置て末々までも絕へざる樣にし、當時人のすてはてゝせぬ事になりしをば、これを爲して世の爲に、後に其事の殘る樣にすべしと敎へられしよし、如何樣其敎に違はず、此良澤といへる男も、天然の奇士にてありしなり、專ら醫業を勵み、東洞の流信じて其業を勤め、遊藝にても世にすたりし{{r|一節切|ひとよぎり}}を稽古して其祕曲を極め、またをかしきは、猿若狂言の會ありと聞て、これも稽古に通ひし事もありたり、如{{re}}此奇を好む性なりしにより、靑木君の門に入て和蘭の橫文字と、其一二の國語をも習ひしなり、{{註|後に著せる蘭譯筌といふものを見るに、それより以前の事とみえしに、同藩の坂江鷗といふ隱士、一日蘭書の殘篇を良澤へ見せ、これは讀わけ解すべきものにやといひしに、是を借り受けてつく{{ぐ}}思ふに、國異に言殊なるといへども、同じく人のなす所にして、なすべからざる所のものにあらんやと志ざせしに、扨これに取付べきの便なきを、憾み居たりしことなり、夫より不圖靑木先生此學に通じ給ふと聞き、遂に其門に入りてこれを學び、和蘭文字略考抔といふ著書を授かり、先生の學び識れる所をば聞書せりとなり、}}是は其頃靑木先生長崎より歸府の後の事と聞ゆ、先生長崎へ行かれしは延享の頃にやと思はる、良澤の入門は寶曆の末明和の初年、歲四十餘の時なりしが、これ醫師にて常人の學べる始なるべし、
○扨翁が友、豐前中津侯の醫官前野良澤といへるものあり、此人幼にして孤となり、其伯父淀侯の醫師宮田全澤といふ人に養れて成り立ちし男なり、此全澤博學の人なりしが、天性奇人にて、萬事其好む所常人に異なりしにより、其良澤を敎育せし所も又非常なりしとなり、其敎に、人といふ者は世に廢れんと思ふ藝能は、學置て末々までも絕へざる樣にし、當時人のすてはてゝせぬ事になりしをば、これを爲して世の爲に、後に其事の殘る樣にすべしと敎へられしよし、如何樣其敎に違はず、此良澤といへる男も、天然の奇士にてありしなり、專ら醫業を勵み、東洞の流信じて其業を勤め、遊藝にても世にすたりし{{r|一節切|ひとよぎり}}を稽古して其祕曲を極め、またをかしきは、猿若狂言の會ありと聞て、これも稽古に通ひし事もありたり、如{{re}}此奇を好む性なりしにより、靑木君の門に入て和蘭の橫文字と、其一二の國語をも習ひしなり、{{註|後に著せる蘭譯筌といふものを見るに、それより以前の事とみえしに、同藩の坂江鷗といふ隱士、一日蘭書の殘篇を良澤へ見せ、これは讀わけ解すべきものにやといひしに、是を借り受けてつく{{ぐ}}思ふに、國異に言殊なるといへども、同じく人のなす所にして、なすべからざる所のものにあらんやと志ざせしに、扨これに取付べきの便なきを、憾み居たりしことなり、夫より不圖靑木先生此學に通じ給ふと聞き、遂に其門に入りてこれを學び、和蘭文字略考抔といふ著書を授かり、先生の學び識れる所をば聞書せりとなり、}}是は其頃靑木先生長崎より歸府の後の事と聞ゆ、先生長崎へ行かれしは延享の頃にやと思はる、良澤の入門は寶曆の末明和の初年、歲四十餘の時なりしが、これ醫師にて常人の學べる始なるべし、


○然れども、其頃は常人の漫りに橫文字を取扱ふ事は遠慮せし事なり、すでに其頃本草家と呼れり後藤梨春といへる男、和蘭事の見聞せしを書集め、紅毛談という假名書の小を著し開板せしに、其內に彼二十五文字を彫り入しを、何方よりか咎を受け、絕板となりたることもありしとぞ、
○然れども、其頃は常人の漫りに橫文字を取扱ふ事は遠慮せし事なり、すでに其頃本草家と呼れり後藤梨春といへる男、和蘭事の見聞せしを書集め、紅毛談という假名書の小を著し開板せしに、其內に彼二十五文字を彫り入しを、何方よりか咎を受け、絕板となりたることもありしとぞ、


○また其のち、山形侯の醫師安富寄碩といふ者、麴町に住いたり、此男長崎に遊學し、彼地にて二十五文字を習ひ、且つ其文字にて、いろは四十七文字を綴り合
○また其のち、山形侯の醫師安富寄碩といふ者、麴町に住いたり、此男長崎に遊學し、彼地にて二十五文字を習ひ、且つ其文字にて、いろは四十七文字を綴り合