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{{ns}}どもことさら萬葉をばもてあつかはれけるとぞ。さののわたりの雪の夕ぐれ。花のさかりをおもかげにしてなどいふ名歌も。此人々は万葉よりこそよみ出されたれ。後鳥羽院も歌の心ひろくしること此集に過ずとこそ仰られけれ。又源氏の物語などをも此ごろはいたく{{r|・|よイ}}みあかす人{{r|・|々イ}}もなきにや。紫式部が源氏。白氏が文集。身にそへぬ事はなしとこそ{{r|後京極殿|良經}}も仰られけれ。俊成卿も源氏見ぬ歌よみは口おしとぞ判の詞にもかゝれて侍る。又狹衣の歌を源氏にまさりたりといふこと心うし。歌も詞もふしぎのもの也。及ぶもの有まじきとぞ順德院の御記にもあそばし侍るなる。時うつり風變ずることはりはさることなれども。歌よみの翫ばぬことになり侍るはいかなる事にか{{r|・|はいとイ}}おぼつかなし。又連歌といふことは歌よむ人のゐむことになれり。是もいかゞとぞ覺侍る。爲氏卿は日本のものゝ上手を唐國へつかはされば。我身は連歌の{{r|・|名イ}}にてや人のくにまでもわたるべきなど狂言申されけるとかや。後鳥羽院の御代には連歌の上手をば柿本の衆と名付られ。わろきをば栗本の衆と名付られ侍りき。柿本の長者と{{r|な|てイ}}る。ことなる嚴重の事ぞ{{r|か|侍イ}}し。同じき御時とねゐ{{r|も|とイ}}の。百のかけものゝおりも。定家卿は四十とられたるとぞ日記にも侍る。爲家卿も齡たけては歌案じつゞくるはむづかしきとて。朝夕連歌をのみせられけるとぞ承し。後嵯峨院の御代には弁內侍。少將內侍などいひし女房連歌しにて。いとはへ{{ぐ}}しき事ども侍りき。この比地下にのみ翫ことになれる。いと無念なるわざ也。{{r|連歌|花の本イ}}の{{r|ことば|詞}}。歌{{r|と|に}}たがひたらば{{r|。|文}}たゞ歌のやうにおもしろき句共もせられ侍れば。子細有まじきに。歌の毒とて一向にすてられ侍るは。昔にはたがひたる
{{ns}}どもことさら萬葉をばもてあつかはれけるとぞ。さののわたりの雪の夕ぐれ。花のさかりをおもかげにしてなどいふ名歌も。此人々は万葉よりこそよみ出されたれ。後鳥羽院も歌の心ひろくしること此集に過ずとこそ仰られけれ。又源氏の物語などをも此ごろはいたく{{r|・|よイ}}みあかす人{{r|・|々イ}}もなきにや。紫式部が源氏。白氏が文集。身にそへぬ事はなしとこそ{{r|後京極殿|良經}}も仰られけれ。俊成卿も源氏見ぬ歌よみは口おしとぞ判の詞にもかゝれて侍る。又狹衣の歌を源氏にまさりたりといふこと心うし。歌も詞もふしぎのもの也。及ぶもの有まじきとぞ順德院の御記にもあそばし侍るなる。時うつり風變ずることはりはさることなれども。歌よみの翫ばぬことになり侍るはいかなる事にか{{r|・|はいとイ}}おぼつかなし。又連歌といふことは歌よむ人のゐむことになれり。是もいかゞとぞ覺侍る。爲氏卿は日本のものゝ上手を唐國へつかはされば。我身は連歌の{{r|・|名イ}}にてや人のくにまでもわたるべきなど狂言申されけるとかや。後鳥羽院の御代には連歌の上手をば柿本の衆と名付られ。わろきをば栗本の衆と名付られ侍りき。柿本の長者と{{r|な|てイ}}る。ことなる嚴重の事ぞ{{r|か|侍イ}}し。同じき御時とねゐ{{r|も|とイ}}の。百のかけものゝおりも。定家卿は四十とられたるとぞ日記にも侍る。爲家卿も齡たけては歌案じつゞくるはむづかしきとて。朝夕連歌をのみせられけるとぞ承し。後嵯峨院の御代には弁內侍。少將內侍などいひし女房連歌しにて。いとはへ{{ぐ}}しき事ども侍りき。この比地下にのみ翫ことになれる。いと無念なるわざ也。{{r|連歌|花の本イ}}の{{r|ことば|詞}}。歌{{r|と|に}}たがひたらば{{r|。|文}}たゞ歌のやうにおもしろき句共もせられ侍れば。子細有まじきに。歌の毒とて一向にすてられ侍るは。昔にはたがひたる