「コンチリサンの略」の版間の差分

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*出典:『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943890 日本に於ける公教会の復活. 前編]』「附録」p18、大正4年、天主堂、[[w:浦川和三郎|浦川和三郎]] 編
*(参考:『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918407 切支丹禁制の終末]』p205、大正15年、同文館、[[w:姉崎正治|姉崎正治]] 著)
*一部の漢字は旧字体を新字体に置き換えています。(靈、聽、勸、讀、歸、覺など)
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:::第一 コンチリサンの{{r|上|うへ}}に{{r|於|おい}}てなすべき四ヶ{{r|條|でう}}の{{r|心|こころ}}{{r|得|え}}の{{r|事|こと}}
 
{{r|第|だい}}一の{{r|心|こころ}}{{r|得|え}}といふは、ゼズスは{{r|御|おん}}{{r|憐|あはれ}}み{{r|深|ふか}}く{{r|在|ましま}}す{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|人間|にんげん}}の{{r|御親|おんおや}}なるが{{r|故|ゆゑ}}に、{{r|如何|いか}}なる{{r|罪人|ざいにん}}も、{{r|其科|そのとが}}を{{r|悔|くや}}み{{r|悲|かな}}しみ、{{r|悪|あく}}を{{r|改|あらた}}め、{{r|善|ぜん}}に{{r|帰|き}}して、{{r|扶|たす}}かれがしと{{r|思召|おぼしめ}}すのみなり。これに{{r|依|よ}}りて、ゼンチヨ{{註|異教者}}の{{r|時|とき}}、{{r|作|つく}}りと{{r|造|つく}}りし{{r|罪科|つみとが}}を{{r|赦|ゆる}}し{{r|給|たま}}はんために、バプチズモのサガラメントを{{r|御定|おんさだ}}めたまひ、{{r|其|その}}{{r|御|おん}}{{r|功|く}}{{r|徳|どく}}を{{r|請|う}}け{{r|奉|たてまつ}}るを{{r|以|もつ}}て、{{r|罪|つみ}}と{{r|沈|しづ}}みしものを{{r|不残|のこらず}}{{r|消滅|せうめつ}}して、{{r|罪|つみ}}の{{r|代|かは}}りに{{r|受|う}}くべき{{r|苦|く}}{{r|患|げん}}をも{{r|達|たつ}}して{{r|御赦|おんゆる}}し{{r|給|たま}}ふもの{{r|也|なり}}。{{r|猶|なほ}}{{r|此上|このうへ}}に、{{r|人|ひと}}の{{r|浅|あさ}}ましき、{{r|身|み}}の{{r|習|なら}}はしにて、バプチズモの{{r|以後|いご}}、{{r|又|また}}{{r|科|とが}}に{{r|落|お}}つべき{{r|事|こと}}を{{r|憐|あはれ}}み{{r|給|たま}}ひて、{{r|其|その}}{{r|後悔|こうくわい}}の{{r|為|ため}}にコンピサンの{{r|秘蹟|サガラメント}}を{{r|定|さだ}}め{{r|置|お}}き{{r|給|たま}}ふもの{{r|也|なり}}。かるが{{r|故|ゆゑ}}に、いかなる{{r|罪科|つみとが}}なりといふとも、{{r|御|ご}}{{r|名代|みょうだい}}と{{r|定|さだ}}め{{r|給|たま}}ふコンヱソルに{{r|教|をしへ}}のままに{{r|達|たつ}}して、コンピサンを{{r|申|まを}}すに{{r|於|おい}}ては、{{r|所有|あらゆる}}{{r|罪過|つみとが}}を{{r|悉|ことごと}}く{{r|赦|ゆる}}し{{r|給|たま}}ふべき{{r|事|こと}}、{{r|何|なん}}の{{r|疑|うたが}}ひあらんや。{{r|之|これ}}に{{r|依|よ}}りて{{r|誰|たれ}}なりとも、バプチズモの{{r|以後|いご}}、モルタル{{r|科|とが}}{{註|重罪}}に{{r|落|お}}ちたらん{{r|程|ほど}}の{{r|人|ひと}}は、{{r|其科|そのとが}}の{{r|御|おん}}{{r|赦|ゆるし}}を{{r|蒙|かうむ}}るべきために、コンチリサンを{{r|申|まを}}さずして{{r|叶|かな}}はぬといふことを{{r|能|よ}}く{{r|辨|わきま}}へよ。{{r|然|しか}}れども{{r|時|とき}}として{{r|其|その}}ところに{{r|神父|パテル}}の{{r|在合|ありあひ}}なきか、{{r|又|また}}は{{r|神父|パテル}}の{{r|言|ごん}}{{r|語|ご}}{{r|未|いま}}だ{{r|通|つう}}ぜざるか、{{r|其外|そのほか}}コンピサンの{{r|望|のぞみ}}ありても{{r|叶|かな}}はざる{{r|仕|し}}{{r|合|あは}}せ{{r|有|あ}}るときの{{r|為|ため}}に、{{r|此|この}}コンチリサンの{{r|道|みち}}を{{r|以|もつ}}て{{r|定|さだ}}め{{r|給|たま}}ふもの{{r|也|なり}}。コンチリサンとは、{{r|真実|しんじつ}}に{{r|深|ふか}}き{{r|後悔|こうくわい}}の{{r|事|こと}}{{r|也|なり}}。{{r|然|さ}}れば、いかなる{{r|悪逆|あくぎゃく}}{{r|極|きはま}}りたるキリシタンなりといふとも、{{r|心|こころ}}に{{r|真実|しんじつ}}のコンチリサンを{{r|催|もよほ}}し、コンピサンを{{r|申|まを}}すべき{{r|仕|し}}{{r|合|あは}}せあらん{{r|時|とき}}は{{r|必|かな}}らず{{r|申|まを}}すべしと{{r|思|おも}}ひ{{r|定|さだ}}むるにおいては、{{r|假令|たとひ}}{{r|當|とう}}{{r|座|ざ}}にコンピサンを{{r|申|まを}}さずとも{{r|有程|あるほど}}の{{r|罪科|つみとが}}を{{r|悉|ことごと}}く{{r|赦|ゆる}}し{{r|給|たま}}ひて、ガラサを{{r|賜|たま}}はるべきもの{{r|也|なり}}。{{r|斯|かく}}のごとき{{r|深|ふか}}き{{r|後悔|こうかい}}{{r|達|たつ}}して、{{r|重|かさ}}ねてモルタル{{r|科|とが}}に{{r|落|お}}ちざる{{r|内|うち}}{{r|死|し}}するにおいては、{{r|其人|そのひと}}のアニマ{{r|扶|たす}}かるべき{{r|事|こと}}うたがひなし。{{r|是|これ}}に{{r|付|つ}}いて{{r|偽|いつは}}り{{r|給|たま}}ふ{{r|事|こと}}{{r|叶|かな}}ひ{{r|給|たま}}はざるゼズスの{{r|御|おん}}{{r||ことば}}に「{{r|何時|なんどき}}にてもあれ、{{r|悪人|あくにん}}の{{r|其|その}}{{r|身|み}}の{{r|科|とが}}を{{r|心|こころ}}の{{r|底|そこ}}より{{r|悔|くや}}み{{r|悲|かな}}しむにおいては、{{r|其科|そのとが}}を{{r|御|ご}}{{r|赦免|しゃめん}}し{{r|給|たま}}ふ」との{{r|御|おん}}{{r|約束|やくそく}}なり。{{r|然|しか}}れば{{r|何|いづ}}れのキリシタンも、{{r|真実|しんじつ}}のコンチリサンの{{r|催|もよほ}}しを{{r|能々|よくよく}}{{r|知|し}}るべき{{r|事|こと}}{{r|肝要|かんえう}}なり。{{r|此|この}}{{r|儀|ぎ}}は{{r|則|すなは}}ち{{r|此巻|このまき}}の{{r|第|だい}}二ヶ{{r|條目|でうもく}}にあり。
 
{{r|第|だい}}二の{{r|心|こころ}}{{r|得|え}}といふは、{{r|人|ひと}}{{r|或|あるひ}}は{{r|病|びやう}}{{r|気|き}}に{{r|犯|をか}}さるるか、{{r|或|あるひ}}は{{r|陣闘|じんとう}}に{{r|赴|おもむ}}くか、{{r|或|あるひ}}は{{r|船渡|ふなわた}}りするか、{{r|何|いづ}}れにても{{r|如此|かくのごとき}}{{r|命|いのち}}の{{r|危|あやふ}}き{{r|事|こと}}に{{r|懸|かか}}らんとき、{{r|其|その}}{{r|身|み}}にモルタル{{r|科|とが}}ありと{{r|辨|わきま}}へ、コンピサンを{{r|申|まを}}さんと{{r|望|のぞ}}めども、コンヱソル<ref name="chuu1" />の{{r|仕|し}}{{r|合|あは}}せなきにおいては、{{r|則|すなは}}ち{{r|此|この}}コンチリサンを{{r|催|もよほ}}さずして{{r|叶|かな}}はぬこと{{r|也|なり}}。一つには{{r|誰|たれ}}もアニマの{{r|助|たす}}かりを{{r|歎|なげ}}き{{r|求|もと}}めずして{{r|叶|かな}}はざる{{r|事|こと}}なれば{{r|也|なり}}。二つには{{r|何|いづ}}れの{{r|人|ひと}}も{{r|肝要|かんえう}}なる{{r|時|とき}}はコンチリサンをなせとの{{r|御|ご}}{{r|掟|おきて}}なれば{{r|也|なり}}。{{r|肝要|かんえう}}なる{{r|時|とき}}といふは{{r|右|みぎ}}にいひし{{r|時|とき}}の{{r|事也|ことなり}}。{{r|爰|ここ}}にまた{{r|心|こころ}}{{r|得|う}}べき{{r|一大|いちだい}}{{r|事|じ}}あり、{{r|縦|たと}}ひ{{r|死|し}}するに{{r|近|ちか}}からずといふとも、{{r|何時|なんどき}}にても{{r|科|とが}}に{{r|落|お}}ちたりと{{r|心|こころ}}{{r|得|う}}るにおいては、{{r|時|じ}}{{r|日|じつ}}を{{r|移|うつ}}さず、{{r|即|そく}}{{r|時|じ}}に{{r|善|ぜん}}に{{r|立上|たちあが}}るべき{{r|事也|ことなり}}。{{r|其故|そのゆゑ}}はモルタル{{r|科|とが}}ありながら{{r|死|し}}せば、{{r|助|たす}}かる{{r|事|こと}}{{r|曾|かつ}}て{{r|叶|かな}}はざれば、{{r|人|ひと}}の{{r|上|うへ}}にいつ{{r|何時|なんどき}}、{{r|死期|しご}}{{r|来|きた}}るべきもしれざれば{{r|也|なり}}。{{r|即|そく}}{{r|時|じ}}に{{r|善|ぜん}}に{{r|立上|たちあが}}るべき{{r|道|みち}}といふはコンピサン{{r|叶|かな}}はぬにおいては、コンチリサンの{{r|外|ほか}}になしと{{r|能|よ}}く{{r|心|こころ}}{{r|得|え}}よ。{{r|然|しか}}る{{r|時|とき}}は{{r|後|ご}}{{r|生|しやう}}を{{r|願|ねが}}ふべき{{r|程|ほど}}のものは、{{r|各|おのおの}}{{r|此道|このみち}}を{{r|心|こころ}}にかけずんばあるべからず。