「シリヤの聖イサアク全書/第四十九説教」の版間の差分

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<< {{r|信仰|しんこう}}と{{r|謙徳|けんとく}}の{{r|事|こと}} >>
 
{{r|小|しょう}}なる{{r|人|ひと}}よ、{{r|汝|なん}}は{{r|生命|いのち}}を{{r|得|え}}んを{{r|願|ねが}}ふか、{{r|信仰|しんこう}}と{{r|謙徳|けんとく}}を{{r|己|おのれ}}に{{r|守|まも}}るべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|之|これ}}により{{r|憐|あわ}}れみと{{r|助|たす}}けと{{r|神|かみ}}より{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|告|つ}}げらるる{{r|言|ことば}}とを{{r|得|う}}べく、{{r|同|おな}}じく{{r|亦|また}}{{r|隠密|ひそか}}にも{{r|顕然|あらは}}にも{{r|汝|なん}}と{{r|共|とも}}にする{{r|守護者|しゅごしゃ}}を{{r|得|う}}べければなり、{{r|此|こ}}の{{r|生命|せいめい}}の{{r|供與|きょうよ}}を{{r|得|え}}んを{{r|願|ねが}}ふか。{{r|正直|せいちょく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}を{{r|行|ゆ}}くべし、{{r|知識|ちしき}}を{{r|以|もっ}}てするなかれ。{{r|正直|せいちょく}}は{{r|信仰|しんこう}}を{{r|伴|ともな}}へども、{{r|思念|しねん}}の{{r|軽薄|けいはく}}と{{r|転倒|てんとう}}とは{{r|自負|じふ}}を{{r|伴|ともな}}ひ、{{r|自負|じふ}}は{{r|神|かみ}}より{{r|遠|と}}ざかることを{{r|伴|ともな}}ふ。
 
{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|祈祷|きとう}}に{{r|立|た}}つときは、その{{r|思念|しねん}}は{{r|蟻|あり}}の{{r|如|ごと}}くなるべく、{{r|地|ち}}に{{r|匍匐|ほふく}}する{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}くなるべく、{{r|水蛭|ひる}}の{{r|如|ごと}}くなるべく、{{r|唖|おし}}<ref>投稿者注:まだ話すことができないの意であり、ろうあの人を意味しない。</ref>なる{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}くなるべし。{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|何|なに}}か{{r|知識|ちしき}}により{{r|言|い}}ふあるなかれ、{{r|嬰児|えいじ}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|意思|いし}}を{{r|以|もっ}}て{{r|彼|かれ}}に{{r|近|ちか}}づき、{{r|彼|かれ}}の{{r|前|まえ}}を{{r|行|ゆ}}くべし、{{r|父|ちち}}がその{{r|嬰児|えいじ}}たる{{r|子|こ}}の{{r|為|ため}}に{{r|有|ゆう}}する{{r|父|ちち}}たる{{r|照管|しょうかん}}を{{r|汝|なん}}に{{r|賜|たま}}はらん{{r|為|ため}}なり。{{r|言|い}}ふあり、『{{r|主|しゅ}}は{{r|嬰児|えいじ}}を{{r|守|まも}}る』〔聖詠百十四の五([[詩篇(口語訳)#116:6|詩編聖詠百十]]〕。{{r|嬰児|えいじ}}は{{r|蛇|へび}}に{{r|近|ちか}}づき、{{r|掴|つか}}んで{{r|之|これ}}をその{{r|首|くび}}に{{r|掛|か}}くるも、{{r|蛇|へび}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|害|がい}}せず。{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}が{{r|衣服|いふく}}に{{r|覆|お}}ひ{{r|包|つつ}}まるるも{{r|寒気|かんき}}はその{{r|全身|ぜんしん}}に{{r|透|と}}る{{r|全|まった}}くの{{r|冬|ふゆ}}を{{r|彼|かれ}}は{{r|裸体|らたい}}にて{{r|行|ゆ}}き、{{r|厳寒|げんかん}}{{r|氷凍|ひょうとう}}の{{r|日|ひ}}に{{r|裸体|らたい}}にて{{r|座|ざ}}するも{{r|病|や}}まざるなり。けだし{{r|荏弱|じんじゃく}}なる{{r|肢体|したい}}を{{r|守|まも}}る{{r|測|はか}}る{{r|可|べか}}らざる{{r|照管|しょうかん}}は、{{r|彼|かれ}}の{{r|正直|せいちょく}}の{{r|体|たい}}を{{r|見|み}}えざる{{r|衣服|いふく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|覆|お}}ひ、{{r|彼|かれ}}に{{r|何|なん}}の{{r|害|がい}}をも{{r|近|ちか}}づかしめざるなり。
 
{{r|今|いま}}や{{r|汝|なん}}は{{r|或|あ}}る{{r|測|はか}}るべからざる{{r|照管|しょうかん}}のあるを{{r|信|しん}}ずるか、その{{r|軟弱|なんゃく}}と{{r|平生|へいぜい}}{{r|病|やまい}}あるとにより{{r|何等|なにら}}の{{r|害|がい}}をも{{r|直|ただち}}に{{r|受|う}}くべき{{r|軟弱|なんゃく}}なる{{r|身|み}}は、{{r|之|これ}}と{{r|反対|はんたい}}なる{{r|者|もの}}の{{r|間|あいだ}}に{{r|照管|しょうかん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|保護|ほご}}せられて、その{{r|勝|か}}つ{{r|所|ところ}}とならざるなり。{{r|主|しゅ}}は{{r|嬰児|えいじ}}を{{r|守|まも}}る、{{r|然|しか}}れどもただ{{r|此|こ}}の{{r|身|み}}の{{r|小|しょう}}なる{{r|者|もの}}を{{r|守|まも}}るのみならず、{{r|世|よ}}に{{r|智者|ちしゃ}}と{{r|称|しょう}}せらるる{{r|者|もの}}をも{{r|守|まも}}る、{{r|故|ゆえ}}に{{r|彼|かれ}}らは{{r|己|おのれ}}の{{r|智識|ちしき}}を{{r|棄|す}}てて、{{r|彼|か}}の{{r|全|まった}}く{{r|充分|じゅうぶん}}なる{{r|睿智|えいち}}に{{r|倚頼|いらい}}し、その{{r|望|のぞみ}}を{{r|嬰児|えいじ}}に{{r|擬|ぎ}}して、その{{r|後|のち}}{{r|彼|か}}の{{r|学習|がくしゅう}}の{{r|労|ろう}}を{{r|以|もっ}}ては{{r|感|かん}}ずる{{r|能|あた}}はざる{{r|智慧|ちえ}}を{{r|既|すで}}に{{r|学|まな}}びぬ。{{r|神智|しんち}}を{{r|得|え}}たる{{ul|パウェル}}は{{r|絶妙|ぜつみょう}}に{{r|之|これ}}を{{r|言|い}}へり。{{r|曰|いは}}く『{{r|此世|このよ}}に{{r|於|おい}}て{{r|智|ち}}なる{{r|者|もの}}と{{r|意|おも}}ふ{{r|者|もの}}あらば{{r|智|ち}}とならんが{{r|為|ため}}に{{r|愚者|ぐしゃ}}となるべし』〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#3:18|コリンフ前三の十八]]〕と。さりながら{{r|汝|なん}}は{{r|信仰|しんこう}}の{{r|尺度|しゃくど}}に{{r|達|たっ}}せしめんことを{{r|神|かみ}}に{{r|願|ねが}}ふべし、{{r|汝|なん}}は{{r|此楽|このたのしみ}}を{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|感|かん}}ずるならば{{r|最早|もはや}}{{r|汝|なん}}を{{ul|ハリストス}}より{{r|背|そむ}}かしむるものあらずと{{r|此時|このとき}}{{r|予|よ}}に{{r|告|つ}}ぐるを{{r|難|かた}}んぜざるべし。{{r|又|また}}{{r|汝|なん}}が{{r|毎時|まいじ}}{{r|地|ち}}に{{r|属|ぞく}}するものより{{r|遠|と}}く{{r|捕|とら}}へ{{r|去|さ}}られて、{{r|此|こ}}の{{r|劣弱|れつじゃく}}なる{{r|世|よ}}と{{r|世|よ}}にある{{r|所|ところ}}のものの{{r|想起|そうき}}とより{{r|隠|かく}}されんことも{{r|汝|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|難|かた}}からざるべし。{{r|此事|このこと}}の{{r|為|ため}}に{{r|懈|おこた}}らずして{{r|祈|いの}}るべく、{{r|切|せつ}}に{{r|之|これ}}を{{r|願|ねが}}ふべく、{{r|之|これ}}を{{r|受|う}}くるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は{{r|大|だい}}なる{{r|勉励|べんれい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|嘆願|たんがん}}すべし。{{r|而|しか}}して{{r|又弱|またよわ}}らざらんことを{{r|祈|いの}}るべし。もし{{r|先|ま}}づ{{r|己|おのれ}}を{{r|強|し}}ひ、{{r|信仰|しんこう}}によりその{{r|慮|おもんばか}}りを{{r|神|かみ}}に{{r|托|たく}}してその{{r|慮|おもんばか}}る{{r|所|ところ}}のものを{{r|神|かみ}}の{{r|照管|しょうかん}}に{{r|換|か}}ふるならば、{{r|之|これ}}を{{r|賜|たま}}はらん。{{r|神|かみ}}は{{r|汝|なん}}が{{r|意思|いし}}の{{r|全|まった}}く{{r|純潔|じゅんけつ}}なるを{{r|以|もっ}}て{{r|自己|じこ}}に{{r|信任|しんにん}}せずして、{{r|神|かみ}}その{{r|者|もの}}に{{r|信任|しんにん}}し、{{r|自己|じこ}}の{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|倚頼|いらい}}せずして、{{r|勉|つと}}めて{{r|神|かみ}}に{{r|倚頼|いらい}}するの{{r|此|この}}{{r|自由|じゆう}}を{{r|汝|なん}}に{{r|於|おい}}て{{r|見|み}}るあらば、{{r|彼|か}}の{{r|知|し}}るべからざる{{r|能力|のうりょく}}は{{r|汝|なん}}に{{r|寓|やど}}るべく、{{r|汝|なん}}は{{r|彼|か}}の{{r|能力|のうりょく}}の{{r|疑|うたがい}}なく{{r|汝|なん}}と{{r|共|とも}}にするを{{r|明|あきらか}}に{{r|感|かん}}ぜん、{{r|是|これ}}{{r|即|すなはち}}{{r|多|お}}くの{{r|者|もの}}が{{r|之|これ}}を{{r|己|おの}}れに{{r|感|かん}}じて{{r|火|ひ}}に{{r|赴|おもむ}}くも{{r|恐|おそ}}れず、{{r|水中|すいちゅう}}を{{r|行|ゆ}}くも{{r|溺|おぼ}}れんを{{r|懼|おそ}}れてその{{r|意|い}}に{{r|躊躇|ちゅうちょ}}するを{{r|為|な}}さざる{{r|能力|のうりょく}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|信|しん}}は{{r|心|こころ}}の{{r|感覚|かんかく}}を{{r|堅|かた}}むるによる、{{r|故|ゆえ}}に{{r|或|あ}}る{{r|見|み}}えざるものが{{r|人|ひと}}を{{r|勧|すす}}めて{{r|恐|おそ}}るべき{{r|事物|じぶつ}}の{{r|現象|げんしょう}}に{{r|注意|ちゅうい}}せざらしむると、{{r|感覚|かんかく}}の{{r|為|ため}}に{{r|堪|た}}ふべからざる{{r|現象|げんしょう}}を{{r|看望|かんぼう}}せざらしむるとを{{r|人|ひと}}は{{r|自|みづ}}から{{r|感|かん}}ずればなり。
 
{{r|蓋|けだ}}し{{r|汝|なん}}は{{r|思|おも}}ふならん、{{r|或者|あるもの}}は{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}を{{r|此|こ}}の{{r|心的|しんてき}}{{r|知識|ちしき}}により{{r|受|う}}けんと。{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|此|こ}}の{{r|心的|しんてき}}{{r|知識|ちしき}}を{{r|以|もっ}}て{{r|受|う}}くるを{{r|得|え}}ざるのみならず、{{r|感覚|かんかく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|之|これ}}に{{r|触|ふ}}るることも、{{r|或|あるい}}は{{r|心的|しんてき}}{{r|知識|ちしき}}を{{r|熱心|ねっしん}}に{{r|研究|けんきゅう}}する{{r|或者|あるもの}}に{{r|之|これ}}を{{r|賜|たま}}はることも{{r|能|あた}}はざるなり。もし{{r|彼|かれ}}らの{{r|中|うち}}{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}に{{r|近|ちか}}づかんを{{r|願|ねが}}ふ{{r|者|もの}}ありとも、{{r|此|こ}}の{{r|心的|しんてき}}{{r|知識|ちしき}}とその{{r|機微|きび}}の{{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|術計|じゅっけい}}とその{{r|多|お}}くの{{r|複雑|ふくざつ}}なる{{r|方法|ほうほう}}とを{{r|棄|す}}てて{{r|嬰児|えいじ}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|思|おもい}}の{{r|状態|じょうたい}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|立|た}}てざる{{r|間|あいだ}}は{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}に{{r|毫|ごう}}も{{r|近|ちか}}づく{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|返|かへ}}つて{{r|彼|かれ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|大|だい}}なる{{r|妨害|ぼうがい}}となるものは{{r|心的|しんてき}}{{r|知識|ちしき}}の{{r|習慣|しゅうかん}}と{{r|理|り}}{{r|解|かい}}とにして、{{r|漸々|ぜんぜん}}{{r|之|これ}}を{{r|消滅|しょうめつ}}せざる{{r|間|あいだ}}は{{r|妨|さまたげ}}とならん。{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|純然|じゅんぜん}}{{r|無雑|むざつ}}にして{{r|心的思念|しんてきしねん}}には{{r|照|て}}り{{r|輝|かがや}}かざるなり。{{r|霊智|れいち}}が{{r|多|お}}くの{{r|思念|しねん}}より{{r|自由|じゆう}}を{{r|得|え}}て{{r|浄潔|じょうけつ}}の{{r|独一|どくいち}}{{r|醇正|じゅんせい}}に{{r|達|たっ}}せざる{{r|間|あいだ}}は、{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}を{{r|感|かん}}ずる{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|視|み}}よ、{{r|此|こ}}の{{r|知識|ちしき}}の{{r|定法|ていほう}}は{{r|彼|か}}の{{r|世|よ}}の{{r|彼|か}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|感|かん}}ずるにあり、ゆえに{{r|彼|かれ}}は{{r|多|お}}くの{{r|思念|しねん}}を{{r|排斥|はいせき}}す。{{r|此|こ}}の{{r|心的|しんてき}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|多|お}}くの{{r|思念|しねん}}の{{r|外|ほか}}{{r|他|た}}の{{r|智力|ちりょく}}の{{r|醇正|じゅんせい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|受|う}}くるを{{r|得|う}}べきものを{{r|識|し}}る{{r|能|あた}}はざることは、{{r|主|しゅ}}の{{r|言|い}}ひ{{r|給|たま}}ひし{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いは}}く『もし{{r|転|てん}}じて{{r|幼児|おさなご}}の{{r|如|ごと}}くならずば{{r|神|かみ}}の{{r|国|くに}}に{{r|入|い}}るを{{r|得|え}}ず』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:3|マトフェイ十八の三]]〕。しかれども{{r|視|み}}よ{{r|多|お}}くの{{r|者|もの}}は{{r|此|この}}{{r|醇正|じゅんせい}}に{{r|達|たっ}}せずして、{{r|返|かえ}}つてその{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|行為|こうい}}により{{r|天国|てんごく}}に{{r|於|おい}}て{{r|享|う}}くべき{{r|部分|ぶぶん}}の{{r|守|まも}}られんを{{r|希望|きぼう}}することは、{{r|主|しゅ}}が{{r|種々|しゅじゅ}}に{{r|形容|けいよう}}し{{r|給|たま}}へる{{r|福音|ふくいん}}の{{r|真福|しんぷく}}を{{r|了會|りょうかい}}するにより{{r|我|われ}}ら{{r|之|これ}}を{{r|確知|かくち}}するを{{r|得|う}}べくして、{{r|主|しゅ}}は{{r|此|こ}}の{{r|真福|しんぷく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|各種|かくしゅ}}の{{r|生涯|しょうがい}}に{{r|於|おけ}}る{{r|多|お}}くの{{r|変化|へんか}}を{{r|我|われ}}らに{{r|示|しめ}}し{{r|給|たま}}ひき、{{r|何|なん}}となれば{{r|各人|かくじん}}は{{r|神|かみ}}に{{r|進行|しんこう}}する{{r|種々|しゅじゅ}}の{{r|途|みち}}に{{r|於|おい}}て{{r|悉|ことごと}}くの{{r|方法|ほうほう}}により{{r|天国|てんごく}}の{{r|門|もん}}を{{r|自己|じこ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|開|ひら}}くべきによる。
 
さりながらもし{{r|転|てん}}じて{{r|幼児|おさなご}}の{{r|如|ごと}}くならずば、{{r|誰|たれ}}も{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}をうくる{{r|能|あた}}はざるべし。けだしただ{{r|是時|このとき}}より{{r|彼|か}}の{{r|天国|てんごく}}の{{r|楽|たのしみ}}を{{r|感|かん}}ずるを{{r|得|う}}るなり。{{r|天国|てんごく}}のことは{{r|人皆|ひとみな}}{{r|言|い}}ふ{{r|彼|かれ}}は{{r|霊的直覚|れいてきちょっかく}}なりと。{{r|此|こ}}の{{r|直覚|ちょっかく}}は{{r|思念|しねん}}の{{r|働|はたらき}}を{{r|以|もっ}}て{{r|得|え}}らるべきにあらず、ただ{{r|恩寵|おんちょう}}により{{r|之|これ}}を{{r|味|あじわ}}ふを{{r|得|う}}べくして、{{r|人|ひと}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|潔|いさぎよ}}うせざる{{r|間|あいだ}}は、{{r|之|これ}}を{{r|聞|き}}くだに{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|力|ちから}}を{{r|有|ゆう}}せざるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|誰|たれ}}も{{r|学|まな}}んで{{r|之|これ}}を{{r|得|う}}る{{r|能|あた}}はざればなり。{{r|子|こ}}よ、もし{{r|汝|なん}}は{{r|人々|ひとびと}}より{{r|離|はな}}れて{{r|沈黙|ちんもく}}し、{{r|信仰|しんこう}}によりて{{r|生|しょう}}ぜらるる{{r|心|こころ}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}し、{{r|此世|このよ}}の{{r|知識|ちしき}}を{{r|忘|わす}}れて、{{r|之|これ}}に{{r|触|ふ}}るるだもあらずんば、{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|求|もと}}めずして{{r|汝|なん}}に{{r|得|え}}らるべし。{{r|言|い}}ふあり、{{r|塔|とう}}を{{r|建|た}}てて{{r|之|これ}}に{{r|油|あぶら}}を{{r|注|そそ}}げよ、さらばその{{r|中|うち}}に{{r|於|おい}}て{{r|宝|たから}}を{{r|発見|はっけん}}せんと。されどもし{{r|心的|しんてき}}{{r|知識|ちしき}}の{{r|縄|なわ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|縛|しば}}らるるならば、{{r|此|この}}{{r|縄|なわ}}を{{r|脱|だっ}}するよりも{{r|鉄械|てっかい}}を{{r|脱|だっ}}するは、{{r|汝|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|更|さら}}に{{r|易|やす}}しと{{r|予|よ}}が{{r|言|い}}ふは{{r|不適当|ふてきとう}}にあらざるべし。{{r|汝|なん}}は{{r|誑惑|きょうわく}}の{{r|網|あみ}}より{{r|常|つね}}に{{r|遠|と}}ざからざるべく、{{r|主|しゅ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|勇気|ゆうき}}と{{r|主|しゅ}}に{{r|対|たい}}するの{{r|希望|きぼう}}とを{{r|如何|いか}}にして{{r|有|ゆう}}すべきを{{r|決|けっ}}して{{r|了解|りょうかい}}せざるべく、{{r|何|いず}}れの{{r|時|とき}}も{{r|剣|つるぎ}}の{{r|尖|さき}}を{{r|往来|おうらい}}し、{{r|如何|いか}}にしても{{r|憂慮|ゆうりょ}}なくして{{r|居|お}}る{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|汝|なん}}は{{r|主|しゅ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|宜|よろ}}しく{{r|生活|せいかつ}}すると{{r|憂慮|ゆうりょ}}なくして{{r|居|お}}らんことを{{r|弱|よわ}}きと{{r|正直|せいちょく}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|祈祷|きとう}}すべし。けだし{{r|影|かげ}}の{{r|形|かたち}}に{{r|伴|ともな}}ふ{{r|如|ごと}}く、{{r|憐|あわ}}れみも{{r|謙遜|けんそん}}に{{r|伴|ともな}}ふ。{{r|終|おわ}}りにもし{{r|此|これ}}を{{r|学|まな}}ぶを{{r|願|ねが}}はば{{r|劣弱|れつじゃく}}なる{{r|思念|しねん}}に{{r|決|けっ}}して{{r|手|て}}を{{r|貸|か}}すなかれ。もしもろもろの{{r|害|がい}}ともろもろの{{r|悪|あく}}とすべての{{r|危険|きけん}}とが{{r|汝|なん}}を{{r|囲繞|いにょう}}して{{r|汝|なん}}を{{r|嚇|おど}}すありとも、{{r|之|これ}}を{{r|念頭|ねんとう}}に{{r|掛|か}}くるなかれ、{{r|之|これ}}を{{r|歯牙|しが}}にも{{r|置|お}}くなかれ。
 
もし{{r|汝|なん}}は{{r|汝|なん}}を{{r|保護|ほご}}する{{r|為|ため}}に{{r|全|まった}}く{{r|充分|じゅうぶん}}なる{{r|主|しゅ}}に{{r|一|ひと}}たび{{r|己|おのれ}}を{{r|托|たく}}し、その{{r|汝|なん}}を{{r|照管|しょうかん}}するに{{r|信任|しんにん}}して、{{r|主|しゅ}}に{{r|随行|ずいこう}}するならば、{{r|復|また}}{{r|何事|なにごと}}も{{r|掛慮|けいりょ}}するなかれ、{{r|己|おの}}が{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|告|つ}}げて{{r|次|つぎ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}ふべし『{{r|予|よ}}が{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|一|ひと}}たび{{r|付|わた}}したる{{r|者|もの}}は{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|何等|なにら}}の{{r|事|こと}}に{{r|対|たい}}しても{{r|充分|じゅうぶん}}なり。{{r|予|よ}}は{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}にあらざるも{{r|彼|かれ}}は{{r|此|これ}}を{{r|知|し}}る』と。その{{r|時|とき}}は{{r|神|かみ}}の{{r|奇蹟|きせき}}を{{r|実|じつ}}に{{r|看破|かんぱ}}すべく、{{r|如何|いか}}なる{{r|時|とき}}にも{{r|神|かみ}}は{{r|近|ちか}}くして、{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るる{{r|者|もの}}を{{r|救|すく}}ひ、{{r|神|かみ}}の{{r|照管|しょうかん}}は{{r|見|み}}えずといへども{{r|彼|かれ}}らを{{r|如何|いか}}に{{r|囲繞|いにょう}}するを{{r|看破|かんぱ}}せん。しかれども{{r|汝|なん}}と{{r|共|とも}}にする{{r|守護者|しゅごしゃ}}は{{r|肉体|にくたい}}の{{r|目|め}}には{{r|見|み}}えざるにより、{{r|汝|なん}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|疑|うたが}}つて{{r|在|お}}らざるものの{{r|如|ごと}}く{{r|思|おも}}ふべからず、けだし{{r|彼|かれ}}は{{r|汝|なん}}を{{r|安|やす}}んぜしめん{{r|為|ため}}に{{r|肉体|にくたい}}の{{r|目|め}}にも{{r|現|あら}}はるること{{r|度々|たびたび}}{{r|之|これ}}あればなり。
 
{{r|人|ひと}}はすべて{{r|有形|ゆうけい}}なる{{r|助|たすけ}}と{{r|人間|にんげん}}の{{r|希望|きぼう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|放棄|ほうき}}し、{{r|信念|しんねん}}と{{r|清|きよ}}き{{r|心|こころ}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|跡|あと}}に{{r|随|したが}}ふならば、{{r|直|ただ}}ちに{{r|恩寵|おんちょう}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|伴|ともな}}ひ、{{r|種々|しゅじゅ}}の{{r|助|たすけ}}を{{r|以|もっ}}てその{{r|力|ちから}}を{{r|彼|かれ}}にあらはさん。{{r|先|ま}}づ{{r|此|こ}}の{{r|身体|しんたい}}に{{r|関|かん}}する{{r|顕然|けんぜん}}なるものにその{{r|力|ちから}}を{{r|洩|もら}}し、その{{r|照慮|しょうりょ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|助|たす}}けを{{r|彼|かれ}}にあらはすは{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|照管|しょうかん}}の{{r|力|ちから}}を{{r|大|おい}}に{{r|彼|かれ}}に{{r|感得|かんとく}}せしめん{{r|為|ため}}なり。{{r|顕然|けんぜん}}なるものを{{r|了解|りょうかい}}するにより{{r|神秘|しんぴ}}なるものにも{{r|信|しん}}を{{r|置|お}}くは、その{{r|思想|しそう}}の{{r|幼稚|ようち}}とその{{r|生涯|しょうがい}}とに{{r|如何|いか}}に{{r|適当|てきとう}}なるや。けだし{{r|人|ひと}}は{{r|此事|このこと}}に{{r|意|い}}を{{r|致|いた}}さずんば{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|要用|ようよう}}なるものを{{r|如何|いか}}にして{{r|備|そな}}ふべけんや、{{r|人|ひと}}に{{r|近|ちか}}づきて{{r|屡々|しばしば}}{{r|危険|きけん}}に{{r|充|み}}たさるる{{r|多|お}}くの{{r|打撃|だげき}}が{{r|人|ひと}}のその{{r|事|こと}}を{{r|思|おも}}うこともせざる{{r|際|さい}}に{{r|過|すぎ}}{{r|去|さ}}ることあり、これその{{r|際|さい}}に{{r|恩寵|おんちょう}}は{{r|冥々|めいめい}}に{{r|且|かつ}}{{r|最|もっとも}}{{r|不可思議|ふかしぎ}}に{{r|之|これ}}を{{r|彼|かれ}}より{{r|反拒|はんきょ}}するものにして、{{r|彼|かれ}}を{{r|守|まも}}ること{{r|恰|あたか}}も{{r|鳥|とり}}のその{{r|雛|ひな}}を{{r|養|やしな}}ひ、{{r|翼|つばさ}}を{{r|張|は}}りて{{r|之|これ}}に{{r|何|なん}}の{{r|害|がい}}をも{{r|近|ちか}}づかしめざる{{r|如|ごと}}くするなり。{{r|恩寵|おんちょう}}は{{r|人|ひと}}に{{r|害|がい}}の{{r|接近|せっきん}}したりしことと{{r|無害|むがい}}にして{{r|存|そん}}したることとを{{r|人|ひと}}に{{r|目撃|もくげき}}せしむるなり。{{r|神秘|しんぴ}}にして{{r|識|し}}る{{r|可|べか}}らざるものに{{r|関|かん}}しても{{r|恩寵|おんちょう}}はかくの{{r|如|ごと}}く{{r|人|ひと}}を{{r|教|おし}}へ、{{r|解|かい}}し{{r|難|がた}}く{{r|悟|さと}}り{{r|易|やす}}からざる{{r|意思|いし}}{{r|及|およ}}び{{r|思念|しねん}}の{{r|狡獪|こうかい}}をその{{r|目前|もくぜん}}にあらはす。ゆえに{{r|人|ひと}}は{{r|彼|かれ}}らの{{r|関係|かんけい}}とその{{r|互|たがい}}の{{r|連合|れんごう}}とその{{r|誘惑|ゆうわく}}とその{{r|中|うち}}{{r|何|なん}}の{{r|思念|しねん}}に{{r|人|ひと}}は{{r|緝捕|しゅうほ}}せらるると、{{r|彼|かれ}}らは{{r|如何|いか}}に{{r|互|たがい}}に{{r|相|あい}}{{r|生|しょう}}じて{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|害|がい}}するとを{{r|易|たや}}すく{{r|捜索|そうさく}}するを{{r|得|う}}べし。{{r|而|しか}}して{{r|又|また}}{{r|恩寵|おんちょう}}は{{r|魔鬼|まき}}のすべての{{r|奸計|かんけい}}とその{{r|悪念|あくねん}}の{{r|潜|ひそ}}まる{{r|匿所|かくれが}}を{{r|人|ひと}}の{{r|目前|もくぜん}}にあらはして、{{r|之|これ}}を{{r|辱|はずかし}}め、{{r|未来|みらい}}を{{r|瞭解|りょうかい}}する{{r|才能|さいのう}}を{{r|人|ひと}}に{{r|入|い}}れ、その{{r|正直|せいちょく}}の{{r|為|ため}}に{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|光|ひかり}}の{{r|照|て}}らしかかるは{{r|機微|きび}}なる{{r|思念|しねん}}を{{r|理解|りかい}}するの{{r|能力|のうりょく}}を{{r|充分|じゅうぶん}}に{{r|覚知|かくち}}せしめんが{{r|為|ため}}にして、もし{{r|之|これ}}を{{r|確知|かくち}}せずんば、{{r|人|ひと}}は{{r|何|なに}}を{{r|忍受|にんじゅ}}すべきか、{{r|之|これ}}を{{r|示|しめ}}すこと{{r|宛|あたか}}も{{r|指|ゆび}}を{{r|以|もっ}}て{{r|示|しめ}}す{{r|如|ごと}}し。さればその{{r|時人|ときひと}}は{{r|大|だい}}なるも{{r|小|しょう}}なるもすべての{{r|事|こと}}を{{r|祈祷|きとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|造成者|ぞうせいしゃ}}に{{r|願|ねが}}はざるべからずとの{{r|意|い}}は{{r|此|こ}}れより{{r|人|ひと}}に{{r|生|しょう}}ずるなり。
 
{{r|此|こ}}のすべてに{{r|於|おい}}て{{r|神|かみ}}に{{r|依頼|いらい}}せしめん{{r|為|ため}}、{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|恩寵|おんちょう}}が{{r|人|ひと}}の{{r|意思|いし}}を{{r|堅|かた}}むるときは、{{r|漸々|ぜんぜん}}{{r|人|ひと}}は{{r|試惑|しわく}}に{{r|入|い}}るを{{r|始|はじ}}むべくして{{r|恩寵|おんちょう}}が{{r|人|ひと}}にその{{r|量|りょう}}に{{r|応|おう}}ずる{{r|試惑|しわく}}を{{r|遣|つか}}はすを{{r|許|ゆる}}すは、{{r|人|ひと}}をして{{r|試惑|しわく}}の{{r|力|ちから}}を{{r|忍耐|にんたい}}せしめん{{r|為|ため}}なり。{{r|而|しか}}して{{r|此|これ}}らの{{r|試惑|しわく}}に{{r|於|おい}}てその{{r|助|たすけ}}の{{r|切|せつ}}に{{r|人|ひと}}に{{r|近|ちか}}づくは、{{r|人|ひと}}が{{r|漸々|ぜんぜん}}{{r|学|まな}}んで{{r|智慧|ちえ}}を{{r|求|もと}}め、{{r|神|かみ}}に{{r|依頼|いらい}}してその{{r|敵|てき}}を{{r|軽|かろ}}んずるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|勇気|ゆうき}}ならん{{r|為|ため}}なり。けだし{{r|人|ひと}}が{{r|霊界|れいかい}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|智慧|ちえ}}を{{r|得|え}}て{{r|自己|じこ}}の{{r|照管者|しょうかんしゃ}}を{{r|認識|にんしき}}し、{{r|自己|じこ}}の{{r|神|かみ}}を{{r|感|かん}}じて、{{r|彼|かれ}}を{{r|信|しん}}ずるに{{r|窃|ひそか}}に{{r|確立|かくりつ}}せんことは、ただその{{r|堪|た}}ふる{{r|所|ところ}}の{{r|試験|しけん}}の{{r|力|ちから}}に{{r|依|よ}}るにあらずんば{{r|能|あた}}はざるなり。
30行目:
{{r|恩寵|おんちょう}}は{{r|人|ひと}}の{{r|念頭|ねんとう}}に{{r|多少|たしょう}}{{r|自負心|じふしん}}が{{r|現|あらは}}れて{{r|人|ひと}}の{{r|己|おのれ}}を{{r|高|たか}}く{{r|見|み}}るや、{{r|直|ただ}}ちに{{r|人|ひと}}に{{r|対|たい}}する{{r|試惑|しわく}}の{{r|益々|ますます}}{{r|烈|はげ}}しく{{r|且|か}}つ{{r|強|つよ}}まるに{{r|放任|ほうにん}}すべくして、{{r|人|ひと}}が{{r|己|おのれ}}の{{r|弱|よわ}}きを{{r|認識|にんしき}}し、{{r|走|はし}}りて{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|謙遜|けんそん}}に{{r|捕|とら}}へらるるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}くならん。{{r|此|これ}}により{{r|人|ひと}}は{{r|神|かみ}}の{{r|子|こ}}を{{r|信|しん}}ずると{{r|望|のぞ}}むとを{{r|以|もっ}}て{{r|成人|せいじん}}の{{r|量|りょう}}に{{r|達|たっ}}し、{{r|高|たか}}められて{{r|愛|あい}}に{{r|至|いた}}らん。けだし{{r|神|かみ}}の{{r|人|ひと}}に{{r|対|たい}}する{{r|奇異|きい}}なる{{r|愛|あい}}は{{r|人|ひと}}がその{{r|望|のぞ}}みを{{r|破壊|はかい}}せんとする{{r|境遇|きょうぐう}}に{{r|居|お}}る{{r|時|とき}}に{{r|認識|にんしき}}せらるるなり、{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}に{{r|神|かみ}}はその{{r|力|ちから}}を{{r|人|ひと}}の{{r|救|すくい}}に{{r|於|おい}}て{{r|現|あら}}はし{{r|給|たま}}ふ。けだし{{r|人|ひと}}は{{r|安息|あんそく}}と{{r|自由|じゆう}}の{{r|中|うち}}に{{r|在|あ}}りては、{{r|神|かみ}}の{{r|力|ちから}}を{{r|決|けっ}}して{{r|認識|にんしき}}せざるべくして、{{r|神|かみ}}もただその{{r|沈黙|ちんもく}}の{{r|地|ち}}と{{r|野|の}}とに{{r|於|おい}}てする、{{r|即|すなはち}}{{r|人々|ひとびと}}と{{r|共|とも}}に{{r|居|お}}り{{r|共|とも}}に{{r|集|あつ}}まりて{{r|喧騒|けんそう}}するを{{r|奪|うば}}はれたる{{r|処|ところ}}に{{r|於|おい}}てするの{{r|外|ほか}}、{{r|何処|いずこ}}にもその{{r|働|はたらき}}を{{r|現然|げんぜん}}とあらはさざりき。
 
{{r|道徳|どうとく}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}するや、{{r|残忍|ざんにん}}にして{{r|猛烈|もうれつ}}なる{{r|患難|かんなん}}の{{r|八方|はっぽう}}より{{r|汝|なん}}に{{r|傾注|けいちゅう}}するを{{r|怪|あや}}しむなかれ、{{r|何|なん}}となれば{{r|事|こと}}の{{r|困難|こんなん}}を{{r|伴|ともな}}はずして{{r|成就|じょうじゅ}}するものは、{{r|道徳|どうとく}}とも{{r|思惟|しい}}せられざるによる。けだし聖{{ul|イオアン}}の{{r|言|い}}ひし{{r|如|ごと}}く{{r|彼|かれ}}が{{r|名|な}}づけて{{r|道徳|どうとく}}と{{r|称|しょう}}せらるるも{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}なるなり、{{r|言|い}}へらく『{{r|道徳|どうとく}}は{{r|困難|こんなん}}を{{r|迎|むか}}ふるを{{r|例|れい}}とす、もし{{r|安息|あんそく}}と{{r|連|つらな}}るならば、{{r|彼|かれ}}は{{r|非難|ひなん}}に{{r|値|あたい}}す』{{r|福|ふく}}なる{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}{{ul|マルク}}は{{r|言|い}}へり、『{{r|凡|すべ}}て{{r|行|おこな}}ふ{{r|所|ところ}}の{{r|道徳|どうとく}}は{{r|神|しん}}の{{r|誡命|かいめい}}を{{r|実行|じっこう}}するときは{{r|十字架|じゅうじか}}と{{r|名|な}}づけらるべし』と。{{r|故|ゆえ}}に{{r|主|しゅ}}の{{r|国|くに}}に{{r|於|おい}}て{{ul|イイスス}} {{ul|ハリストス}}に{{r|在|あ}}りて{{r|生|せい}}を{{r|渡|わた}}らんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|者|もの}}は{{r|皆|みな}}{{r|窘逐|きんちく}}せられん〔[[テモテへの第二の手紙(口語訳)#3:12|ティモフェイ後三の十二]]〕。けだし{{r|主|しゅ}}は{{r|言|い}}へり、『{{r|我|われ}}に{{r|従|したが}}はんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|者|もの}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|捨|す}}て、その{{r|十字架|じゅうじか}}を{{r|負|お}}ひて{{r|我|われ}}に{{r|従|したが}}へ』〔[[マルコによる福音書(口語訳)#8:34|マルコ八の三十四]]〕。{{r|安息|あんそく}}に{{r|生|い}}きんことを{{r|欲|ほっ}}せざる{{r|者|もの}}は『{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|生命|せいめい}}を{{r|喪|うしな}}ひて{{r|之|これ}}を{{r|得|え}}ん』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#16:25|マトフェイ十六の二十五]]〕。{{r|彼|かれ}}が{{r|汝|なん}}に{{r|先|さき}}だちて{{r|汝|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|十字架|じゅうじか}}を{{r|供|そな}}へたるは、{{r|汝|なん}}{{r|自己|じこ}}の{{r|為|ため}}に{{r|死|し}}を{{r|定|さだ}}め、その{{r|後|のち}}{{r|己|おのれ}}の{{r|生命|いのち}}をささげて{{r|彼|かれ}}に{{r|従|したが}}はん{{r|為|ため}}なり。
 
{{r|強|つよ}}きこと{{r|失望|しつぼう}}の{{r|如|ごと}}きはあらず、{{r|誰|たれ}}か{{r|之|これ}}を{{r|征服|せいふく}}するに{{r|右|みぎ}}の{{r|手|て}}を{{r|以|もっ}}てせんか、{{r|或|あるい}}は{{r|左|ひだり}}の{{r|手|て}}を{{r|以|もっ}}てせんか、{{r|彼|かれ}}は{{r|頓着|とんちゃく}}せざるざり。{{r|人|ひと}}がその{{r|意中|いちゅう}}に{{r|希望|きぼう}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|奪|うば}}ふときは、{{r|之|これ}}より{{r|狂妄|きょうぼう}}なるものはあらざるべし。{{r|何等|なにら}}の{{r|敵|てき}}も{{r|彼|かれ}}には{{r|抵抗|ていこう}}する{{r|能|あた}}はざるべく、{{r|如何|いか}}なる{{r|患難|かんなん}}のことを{{r|聞|き}}かしむるも{{r|彼|かれ}}の{{r|念|ねん}}を{{r|弱|よわ}}らしめず{{r|何|なん}}となればすべて{{r|遇|あ}}ふ{{r|所|ところ}}の{{r|患難|かんなん}}は{{r|死|し}}より{{r|軽|かろ}}くして、{{r|彼|かれ}}はその{{r|死|し}}を{{r|己|おの}}れに{{r|受|う}}けんが{{r|為|ため}}にその{{r|首|こうべ}}を{{r|垂|た}}るればなり。もし{{r|汝|なん}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|場所|ばしょ}}に{{r|於|おい}}て{{r|如何|いか}}なる{{r|行為|こうい}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|如何|いか}}なる{{r|時|とき}}に{{r|何事|なにごと}}をか{{r|成|な}}さんと{{r|欲|ほっ}}するもその{{r|意思|いし}}にて{{r|目的|もくてき}}と{{r|行為|こうい}}と{{r|哀|かなし}}みとを{{r|預想|よそう}}するならば、{{r|汝|なん}}の{{r|前|まえ}}に{{r|顕|あら}}はるるすべての{{r|不便|ふべん}}{{r|不利|ふり}}に{{r|抵抗|ていこう}}するが{{r|為|ため}}に{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|勇気|ゆうき}}にして{{r|怠|おこた}}らざる{{r|者|もの}}となるのみならず、{{r|彼|か}}の{{r|安息|あんそく}}に{{r|突進|とっしん}}する{{r|思念|しねん}}の{{r|為|ため}}に{{r|常|つね}}に{{r|生|しょう}}じて{{r|汝|なん}}を{{r|嚇|おど}}し{{r|且|かつ}}{{r|恐|おそ}}れしむる{{r|意思|いし}}は{{r|汝|なん}}の{{r|此|これ}}らの{{r|思慮|しりょ}}により{{r|汝|なん}}より{{r|逃走|とうそう}}せん。さればすべて{{r|汝|なん}}と{{r|遭遇|そうぐう}}する{{r|困難|こんなん}}なるものと{{r|不便|ふべん}}なるものとは{{r|汝|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|便利|べんり}}にして{{r|容易|ようい}}なるものとならん。{{r|汝|なん}}の{{r|所期|しょき}}<ref>投稿者注:期待するところ。</ref>に{{r|反対|はんたい}}なるものは{{r|度々|たびたび}}{{r|汝|なん}}と{{r|偶会|ぐうかい}}するあらん、{{r|然|しか}}れどもかくの{{r|如|ごと}}きものの{{r|絶|たえ}}て{{r|全|まった}}く{{r|汝|なん}}と{{r|偶会|ぐうかい}}せざることも{{r|亦|また}}{{r|往々|おうおう}}{{r|之|これ}}あるべし。
 
{{r|安息|あんそく}}の{{r|望|のぞ}}みは、{{r|如何|いか}}なる{{r|時|とき}}にも{{r|人々|ひとびと}}をして{{r|大|だい}}なるものと{{r|善|ぜん}}なるもの、{{r|又|また}}は{{r|道徳|どうとく}}をも{{r|忘却|ぼうきゃく}}せしむるは、{{r|汝|なん}}の{{r|知|し}}る{{r|所|ところ}}なり。しかれども{{r|此世|このよ}}に{{r|肉体|にくたい}}の{{r|為|ため}}に{{r|生活|せいかつ}}する{{r|者|もの}}らも、もし{{r|不|ふ}}{{r|快|かい}}を{{r|忍耐|にんたい}}するをその{{r|心|こころ}}に{{r|決|けっ}}せずんば、その{{r|願意|がんい}}を{{r|全|まった}}く{{r|遂行|すいこう}}するを{{r|得|う}}る{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|実験|じっけん}}は{{r|此|これ}}を{{r|証明|しょうめい}}するにより、{{r|言|ことば}}を{{r|以|もっ}}て{{r|此事|このこと}}を{{r|勧|すす}}むるの{{r|要|よう}}あらず、{{r|何|なん}}となれば{{r|昔|むかし}}より{{r|今|いま}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|人々|ひとびと}}の{{r|衰弱|すいじゃく}}するは、{{r|他|た}}の{{r|何|なん}}の{{r|為|ため}}にもあらず、{{r|即|すなはち}}{{r|此|これ}}が{{r|為|ため}}にして、ただに{{r|勝|かち}}を{{r|奏|そう}}せざるのみならず{{r|最良|さいりょう}}なるものをも{{r|奪|うば}}はるるなり。{{r|故|ゆえ}}に{{r|簡短|かんたん}}に{{r|之|これ}}を{{r|言|い}}はんに、もし{{r|人|ひと}}は{{r|天国|てんごく}}のことを{{r|軽|かろ}}んずるならば、{{r|是|こ}}れただ{{r|些細|ささい}}なる{{r|此世|このよ}}の{{r|安楽|あんらく}}の{{r|望|のぞみ}}によるなり。{{r|而|しか}}して{{r|人|ひと}}にはただ{{r|此|こ}}の{{r|一|いつ}}の{{r|望|のぞみ}}のみにあるに{{r|非|あら}}ずして、{{r|烈|はげ}}しき{{r|打撃|だげき}}と{{r|恐|おそ}}るべき{{r|試惑|しわく}}とはすべてその{{r|望|のぞみ}}に{{r|専心|せんしん}}{{r|注意|ちゅうい}}する{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|頻|しき}}りに{{r|備|そな}}へらるるも{{r|人|ひと}}の{{r|思想|しそう}}は{{r|此|こ}}れと{{r|相適|あいてき}}するなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|肉欲|にくよく}}が{{r|之|これ}}を{{r|制御|せいぎょ}}するによる。
 
{{r|鳥|とり}}は{{r|止|とど}}まる{{r|所|ところ}}を{{r|狙|ねら}}ひつつ{{r|網|あみ}}に{{r|近|ちか}}づくを{{r|誰|たれ}}か{{r|知|し}}らざらん。{{r|境遇|きょうぐう}}と{{r|場所|ばしょ}}と{{r|或|あるい}}は{{r|他|た}}の{{r|何事|なにごと}}を{{r|以|もっ}}てか{{r|隠|かく}}し{{r|掩|お}}はるるものに{{r|於|おけ}}る{{r|我|われ}}らの{{r|知識|ちしき}}も{{r|小|しょう}}なる{{r|鳥|とり}}の{{r|知識|ちしき}}に{{r|比|ひ}}して{{r|往々|おうおう}}{{r|及|およ}}ばざる{{r|所|ところ}}ありて、ただ{{r|之|これ}}により{{r|魔鬼|まき}}は{{r|最初|さいしょ}}より{{r|安息|あんそく}}の{{r|約|やく}}とその{{r|事|こと}}の{{r|思念|しねん}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らを{{r|捉|とら}}ふるなり。
 
{{r|予|よ}}は{{r|意|い}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|こと}}を{{r|進行|しんこう}}せしめんと{{r|欲|ほっ}}して、{{r|此説教|このせっきょう}}の{{r|為|ため}}に{{r|最初予想|さいしょよそう}}したる{{r|目的|もくてき}}より{{r|離|はな}}れたり、{{r|何|なん}}ぞや、{{r|我|われ}}らは{{r|主|しゅ}}の{{r|為|ため}}に{{r|首途|かどで}}をなさんことを{{r|欲|ほっ}}するすべての{{r|行動|こうどう}}に{{r|於|おい}}てその{{r|意|い}}に{{r|患難|かんなん}}を{{r|預想|よそう}}して{{r|目的|もくてき}}となし、{{r|行路|こうろ}}の{{r|終|おわり}}をその{{r|始|はじめ}}に{{r|仔細|しさい}}に{{r|確定|かくてい}}するは、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|肝要|かんよう}}なること{{r|是|これ}}なり。{{r|人|ひと}}は{{r|主|しゅ}}の{{r|為|ため}}に{{r|或|あ}}る{{r|事|こと}}を{{r|始|はじ}}めんと{{r|欲|ほっ}}するや、{{r|如何|いかん}}して{{r|度々|たびたび}}{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|問|と}}ふか、『{{r|此事|このこと}}に{{r|安息|あんそく}}ありや、{{r|此|この}}{{r|行路|こうろ}}を{{r|労|ろう}}なくして{{r|便利|べんり}}に{{r|過|す}}ぎ{{r|得|う}}べき{{r|方法|ほうほう}}あらざるか、{{r|或|あるい}}は{{r|此|この}}{{r|行路|こうろ}}には{{r|身体|しんたい}}を{{r|疲|つか}}らすべき{{r|患難|かんなん}}あらざるか』と。{{r|視|み}}よ、{{r|我|われ}}らは{{r|何処|いづこ}}にもあらゆる{{r|方法|ほうほう}}を{{r|講|こう}}じて{{r|安息|あんそく}}を{{r|強|し}}ひて{{r|求|もと}}むるを。{{r|人|ひと}}よ、{{r|汝|なん}}は{{r|何|なに}}を{{r|言|い}}ふか。{{r|天|てん}}に{{r|昇|のぼ}}り{{r|彼処|かしこ}}の{{r|国|くに}}をうけ、{{r|神|かみ}}と{{r|体合|たいごう}}し、{{r|彼処|かしこ}}の{{r|福楽|ふくらく}}に{{r|安|やす}}んじ、{{r|諸天使|しょてんし}}と{{r|交|まじ}}はり、{{r|永久|えいきゅう}}{{r|不死|ふし}}の{{r|生命|せいめい}}を{{r|受|う}}けんを{{r|願|ねが}}ふて、{{r|此|この}}{{r|行路|こうろ}}に{{r|労苦|ろうく}}の{{r|有|あ}}りや{{r|無|な}}しやを{{r|問|と}}ふか。{{r|奇怪|きかい}}の{{r|事|こと}}かな。{{r|此|こ}}の{{r|暫時|ざんじ}}の{{r|世|よ}}に{{r|属|ぞく}}するものを{{r|願|ねが}}ふ{{r|者|もの}}は、{{r|恐|おそ}}るべき{{r|海浪|かいろう}}を{{r|渉|わた}}り、{{r|過|す}}ぎ{{r|易|やす}}からざる{{r|路|みち}}を{{r|過|す}}ぐるを{{r|敢|あえ}}てして、その{{r|為|な}}さんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|所|ところ}}の{{r|事|こと}}に{{r|労苦|ろうく}}{{r|或|あるい}}は{{r|悲哀|ひあい}}の{{r|有無|うむ}}のことは{{r|絶|たえ}}て{{r|言|い}}はざるにあらずや。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|我|われ}}らは{{r|何|いづ}}れの{{r|所|ところ}}にも{{r|安息|あんそく}}を{{r|探問|たんもん}}す。さりながらもし{{r|如何|いか}}なる{{r|時|とき}}にも{{r|十字架|じゅうじゅか}}の{{r|行路|こうろ}}を{{r|心|こころ}}に{{r|想像|そうぞう}}するならば{{r|如何|いか}}なる{{r|悲|ひ}}{{r|哀|あい}}は{{r|此|この}}{{r|行|こう}}{{r|路|ろ}}より{{r|易|やす}}からざるか、{{r|思|おも}}ふべきなり。
 
もし{{r|人|ひと}}は{{r|最初|さいしょ}}より{{r|患難|かんなん}}{{r|労苦|ろうく}}を{{r|軽|かろ}}んずる{{r|者|もの}}とならずんば、{{r|決|けっ}}して{{r|戦|たたかい}}に{{r|勝利|しょうり}}を{{r|得|う}}る{{r|者|もの}}あらざるべく、{{r|朽|く}}つべき{{r|栄冠|えいかん}}をさへ{{r|受|う}}けずして、その{{r|願|ねがい}}の{{r|讃美|さんび}}すべきに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|之|これ}}を{{r|遂|と}}ぐるに{{r|至|いた}}らざるべし、{{r|何|なに}}を{{r|以|もっ}}ても{{r|神|かみ}}の{{r|事|こと}}を{{r|務|つと}}めず、{{r|賞賛|しょうさん}}すべき{{r|善行|ぜんこう}}の{{r|一|いつ}}にも{{r|進歩|しんぽ}}せず、{{r|安息|あんそく}}に{{r|引誘|いんゆう}}するの{{r|思|おもい}}を{{r|許|ゆる}}して、{{r|自|みづ}}から{{r|之|これ}}と{{r|親|した}}しみ、{{r|等閑|とうかん}}、{{r|怠慢|たいまん}}{{r|及|およ}}び{{r|怯懦|きょうだ}}を{{r|生|しょう}}じ、{{r|之|これ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|全|まった}}く{{r|衰弱|すいじゃく}}するに{{r|至|いた}}らん、{{r|此事|このこと}}を{{r|全|まった}}く{{r|信用|しんよう}}せざる{{r|人|ひと}}ありや、{{r|恐|おそ}}らくはあらざらん。
 
{{r|心|こころ}}が{{r|道徳|どうとく}}に{{r|奮熱|ふんねつ}}し{{r|始|はじ}}むるその{{r|時|とき}}は{{r|視覚|しかく}}、{{r|聴覚|ちょうかく}}、{{r|鼻覚|びかく}}、{{r|味覚|みかく}}、{{r|触覚|しょっかく}}の{{r|如|ごと}}き{{r|外部|がいぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}も{{r|彼|か}}の{{r|天然|てんねん}}の{{r|力|ちから}}に{{r|超|こ}}ゆる{{r|稀有|けう}}{{r|非常|ひじょう}}なる{{r|困難|こんなん}}に{{r|勝|かち}}を{{r|譲|ゆず}}らざるべし。{{r|而|しか}}して{{r|天然|てんねん}}の{{r|刺激|しげき}}が{{r|適時|てきじ}}にその{{r|働|はたらき}}を{{r|顕|あら}}はすならば、{{r|身体|しんたい}}の{{r|生命|せいめい}}は{{r|糞土|ふんど}}より{{r|軽|かろ}}からん。けだし{{r|心|こころ}}が{{r|精神|せいしん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|奮熱|ふんねつ}}し{{r|始|はじ}}むるときは、{{r|身|み}}は{{r|患難|かんなん}}の{{r|為|ため}}に{{r|憂|うれ}}へざるべく、{{r|畏|おそ}}れざるべく、{{r|恐|おそ}}れて{{r|縮|ちぢ}}まらざるべく、{{r|心|こころ}}は{{r|堅|かた}}く、{{r|金剛石|こんごうせき}}の{{r|如|ごと}}くなりて、あらゆる{{r|試惑|しわく}}に{{r|抵抗|ていこう}}せん。{{r|我|われ}}らも{{ul|イイスス}}の{{r|旨|むね}}を{{r|奉|ほう}}ずる{{r|精神|せいしん}}の{{r|奮熱|ふんねつ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|熱中|ねっちゅう}}せん、さらば{{r|我|われ}}らが{{r|意中|いちゅう}}に{{r|怠慢|たいまん}}を{{r|生|しょう}}ずべき{{r|何等|なんら}}の{{r|不注意|ふちゅうい}}も{{r|我|われ}}らより{{r|逐払|おいはら}}はれん、{{r|何|なん}}となれば{{r|熱心|ねっしん}}は{{r|勇気|ゆうき}}と{{r|心霊|しんれい}}の{{r|能力|のうりょく}}と{{r|身体|しんたい}}の{{r|勉励|べんれい}}とを{{r|生|しょう}}ずればなり。{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|魔鬼|まき}}に{{r|向|むか}}つて{{r|天賦|てんぷ}}の{{r|強|つよ}}き{{r|熱心|ねっしん}}を{{r|動|うご}}かすならば、{{r|魔鬼|まき}}に{{r|何等|なんら}}の{{r|力|ちから}}ありや。{{r|然|しか}}して{{r|憤心|ふんしん}}は{{r|亦|また}}{{r|熱心|ねっしん}}の{{r|所産|しょさん}}と{{r|名|な}}つけらる。もし{{r|憤心|ふんしん}}はその{{r|力|ちから}}を{{r|働|はたら}}かし、{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|恐|おそ}}れざるものとなれるすべての{{r|力|ちから}}に{{r|強|つよ}}きを{{r|加|くわ}}ふるときは、{{註|{{r|苦行者|くぎょうしゃ}}{{r|及|およ}}び{{r|致命者|ちめいしゃ}}らが{{r|忍耐|にんたい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|受|う}}くる{{r|殉教|じゅんきょう}}の{{r|栄冠|えいかん}}も{{r|天然|てんねん}}の{{r|刺激|しげき}}によりて{{r|生|しょう}}ずる{{r|此|こ}}の{{r|熱心|ねっしん}}と{{r|憤心|ふんしん}}の{{r|二|ふたつ}}の{{r|働|はたらき}}を{{r|以|もっ}}て{{r|得|え}}らるるなり}}{{r|人々|ひとびと}}は{{r|猛烈|もうれつ}}なる{{r|苦難|くなん}}の{{r|中|うち}}に{{r|在|あ}}りて{{r|怖|おそ}}れざる{{r|大胆|だいたん}}なる{{r|者|もの}}とならん。{{r|神|かみ}}は{{r|我|われ}}らにもかくの{{r|如|ごと}}き{{r|憤心|ふんしん}}を{{r|與|あた}}へて{{r|神|かみ}}を{{r|悦|よろこ}}ばしめん。「アミン」。
 
== 脚注 ==