「シリヤの聖イサアク全書/第四十八説教」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
細 カテゴリ。その他。 |
細 ルビ。その他。 |
||
12行目:
<< {{r|道徳|どうとく}}の{{r|各種|かくしゅ}}、{{r|及|およ}}び{{r|凡|およそ}}の{{r|道|みち}}の{{r|完|かん}}{{r|備|び}} >>
{{r|凡|およ}}そ{{r|道|みち}}の{{r|完備|かんび}}は{{r|悔改|かいかい}}と{{r|浄潔|じょうけつ}}と{{r|己|おのれ}}を{{r|成全|せいぜん}}するとにあり。{{r|悔改|かいかい}}とは{{r|何|なん}}ぞや、{{r|先非|せんひ}}を{{r|棄|す}}てて{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|哀|かなし}}むなり。{{r|浄潔|じょうけつ}}とは{{r|何|なん}}ぞや、{{r|簡短|かんたん}}に{{r|言|い}}へばすべて{{r|造|ぞう}}を{{r|受|う}}けたる{{r|万物|ばんぶつ}}を{{r|慈|いつくし}}むの{{r|心|こころ}}なり。{{r|己|おのれ}}を{{r|成全|せいぜん}}すとは{{r|何|なん}}ぞや、{{r|謙遜|けんそん}}の{{r|深|ふか}}きなり、{{r|即|すなはち}}すべて{{r|見|み}}ゆるものと{{r|見|み}}えざるもの
{{r|他日|たじつ}}{{r|再|ふたた}}び{{r|問|と}}はれけるは『{{r|悔改|かいかい}}とは{{r|何|なん}}ぞや』と、{{r|答|こた}}へて{{r|言|い}}へり『{{r|砕|くだ}}けて{{r|謙|へりくだ}}る{{r|心|こころ}}なり』と。『{{r|謙遜|けんそん}}とは{{r|何|なん}}ぞや』と{{r|問|と}}はれければ{{r|答|こた}}へて{{r|言|い}}へり『{{r|一切|いっさい}}の{{r|為|ため}}に{{r|死者|ししゃ}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|性状|せいじょう}}を{{r|甘|あま}}んじて{{r|己|おの}}れに{{r|受|う}}けて{{r|之|これ}}を{{r|倍|ばい}}するなり』。『{{r|慈|いつくし}}む{{r|心|こころ}}とは{{r|何|なん}}ぞや』と{{r|問|と}}はれければ{{r|答|こた}}えて{{r|言|い}}へり、『{{r|一切|いっさい}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|為|ため}}、{{r|人々|ひとびと}}の{{r|為|ため}}、{{r|禽鳥|きんちょう}}の{{r|為|ため}}、{{r|獣類|じゅうるい}}の{{r|為|ため}}、{{r|魔鬼|まき}}の{{r|為|ため}}、{{r|及|およ}}び{{r|如何|いか}}なる{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}の{{r|為|ため}}にも{{r|人|ひと}}の{{r|心|こころ}}の{{r|燃|も}}ゆるなり。{{r|彼|かれ}}らを{{r|想起|そうき}}するにより、{{r|又|また}}は{{r|之|これ}}を{{r|看望|かんぼう}}するにより{{r|人|ひと}}の{{r|目|め}}は{{r|涙|なみだ}}を{{r|流|なが}}さん。{{r|心|こころ}}を{{r|包容|ほうよう}}する{{r|大|おほい}}にして{{r|強|つよ}}き{{r|憐憫|れんびん}}と、{{r|大|だい}}なる{{r|忍耐|にんたい}}とにより、{{r|人|ひと}}の{{r|心|こころ}}は{{r|和|やわ}}らげられて{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}が{{r|受|う}}くる{{r|所|ところ}}の{{r|如何|いか}}なる{{r|害|がい}}をも{{r|小|しょう}}なる{{r|哀|かなし}}みをも、{{r|或|あるい}}は{{r|聞|き}}き{{r|或|あるい}}は{{r|見|み}}るに{{r|堪|た}}ふる{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|故|ゆえ}}に{{r|無言|むごん}}なる{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}にも、{{r|真|しん}}{{r|理|り}}の{{r|敵|てき}}の{{r|為|ため}}にも、{{r|之|これ}}に{{r|害|がい}}を{{r|為|な}}す{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}にも{{r|毎々|まいまい}}{{r|涙|なみだ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|祈祷|きとう}}をささげて、{{r|彼|かれ}}らの{{r|守|まも}}り{{r|且|かつ}}{{r|憐|あわれ}}まれんことを{{r|願|ねが}}ひ、{{r|又|また}}{{r|爬虫類|はちゅうるい}}の{{r|為|ため}}にも{{r|同|おな}}じく{{r|大|だい}}なる{{r|憐憫|れんびん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|祈|いの}}り、その{{r|憐憫|れんびん}}はその{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|無|む}}{{r|量|りょう}}に{{r|喚起|かんき}}せられて{{r|神|かみ}}に{{r|似|に}}るに{{r|至|いた}}らん。』
{{r|又|また}}『{{r|祈祷|きとう}}とは{{r|何|なん}}ぞや』と{{r|問|と}}はれければ、{{r|次|つぎ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|答|こた}}へり、『すべて{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}にあるものより{{r|自由|じゆう}}を{{r|得|え}}て{{r|智|ち}}を{{r|閉|と}}づるなり、{{r|即|すなはち}}{{r|心|こころ}}は{{r|未来|みらい}}に{{r|望|のぞ}}む{{r|所|ところ}}のものを{{r|願望|がんぼう}}してその{{r|眼|め}}を{{r|全|まった}}く{{r|之|これ}}に{{r|向|むか}}はしむるなり。しかれども{{r|此|これ}}より{{r|遠|とお}}ざかる{{r|者|もの}}は、{{r|是|こ}}れその{{r|田|た}}に{{r|混合|こんごう}}したる{{r|種子|たね}}を{{r|種|ま}}く{{r|者|もの}}にして、{{r|彼|かれ}}は{{r|牛|うし}}と{{r|驢|うさぎうま}}とを{{r|共|とも}}に{{r|軛|くびき}}に{{r|繋|つな}}ぐ{{r|者|もの}}と{{r|同|おな}}じかるべし』〔[[申命記(口語訳)#22:10|{{r|復傳律令|ふくでんりつれい}}
{{r|又|また}}『{{r|如何|いかん}}して{{r|人|ひと}}は{{r|謙遜|けんそん}}を{{r|求|もと}}むべきか』と{{r|問|と}}はれければ、{{r|下|しも}}の{{r|如|ごと}}く{{r|答|こた}}へり『{{r|罪|つみ}}を{{r|不断|ふだん}}に{{r|記憶|きおく}}すると、{{r|死|し}}に{{r|近|ちか}}づくの{{r|望|のぞ}}みと、{{r|貧|まづ}}しき{{r|衣服|いふく}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|得|う}}べし』。{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|彼|かれ}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|末座|まつざ}}を{{r|擇|えら}}ぶべく、{{r|如何|いか}}なる{{r|場合|ばあい}}にも{{r|極|きわ}}めて{{r|些細|ささい}}なる{{r|賎業|せんぎょう}}を{{r|甘|あま}}んじて{{r|己|おの}}れに{{r|任|にな}}ひ、{{r|不|ふ}}{{r|従順|じゅうじゅん}}なる{{r|者|もの}}とならず、{{r|不断|ふだん}}に{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|守|まも}}りて、{{r|集会|しゅうかい}}に{{r|出|い}}づるを{{r|好|この}}まず、{{r|人|ひと}}に{{r|知|し}}られずして、{{r|何事|なにごと}}にも{{r|選|えら}}ばれざる{{r|者|もの}}となりて{{r|存|そん}}せんことを{{r|願|ねが}}ひ、{{r|何物|なにもの}}をも{{r|制|おさ}}へて{{r|止|とど}}めて{{r|自|みづ}}から{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|指揮|しき}}をなさず、{{r|多|おほ}}くの{{r|人物|じんぶつ}}と{{r|交|まじ}}はるを{{r|嫌|きら}}ひ、{{r|利益|りえき}}を{{r|好|この}}まざるべし。{{r|然|しか}}のみならずその{{r|心|こころ}}は{{r|何等|なにら}}の{{r|人々|ひとびと}}の{{r|非謗|ひぼう}}{{r|讒誣|ざんぶ}}よりも{{r|高|たか}}く{{r|上|うえ}}にあり、{{r|嫉妬|しっと}}よりも{{r|上|うえ}}にありて、その{{r|手|て}}は{{r|衆人|しゅうじん}}に{{r|在|あ}}りて{{r|衆人|しゅうじん}}の{{r|手|て}}は{{r|己|おの}}れに{{r|在|あ}}る{{r|如|ごと}}くなる{{r|人|ひと}}とならず、{{r|独|ひと}}り{{r|寂地|せきち}}に{{r|在|あ}}りて{{r|己|おのれ}}の{{r|業|ぎょう}}を{{r|務|つと}}め、{{r|自己|じこ}}を{{r|慮|おもんばか}}るの{{r|外|ほか}}{{r|世|よ}}の{{r|何事|なにごと}}をも{{r|自|みづ}}から{{r|慮|おもんばか}}らざるべし。{{r|簡短|かんたん}}に{{r|之|これ}}を{{r|言|い}}へば{{r|旅行|りょこう}}の{{r|生活|せいかつ}}と{{r|赤貧|せきひん}}と{{r|寂地|せきち}}に{{r|止|とど}}まるとに{{r|在|あ}}るなり、{{r|視|み}}よ、{{r|謙遜|けんそん}}は{{r|是|これ}}より{{r|生|しょう}}じて{{r|心|こころ}}は{{r|浄|きよ}}めらるるなり。
{{r|完全|かんぜん}}に{{r|達|たっ}}したる{{r|者|もの}}の{{r|徴候|ちょうこう}}は{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}し、{{r|即|すなはち}}{{r|人々|ひとびと}}を{{r|愛|あい}}するが{{r|為|ため}}に{{r|日|ひ}}に{{r|十|じゅう}}{{r|回|かい}}{{r|火|ひ}}に{{r|付|ふ}}せらるるとも{{r|厭|あ}}かざらんこと、{{ul|モイセイ}}の{{r|主|しゅ}}に{{r|言|い}}ひし{{r|如|ごと}}くなるべし、{{r|曰|いは}}く『もしかなはば{{r|彼|かれ}}らの{{r|罪|つみ}}を{{r|赦|ゆる}}し{{r|給|たま}}へ、{{r|然|しか}}らずば{{r|汝|なん
{{r|此|こ}}の{{r|一切|いっさい}}の{{r|終|おわり}}は{{r|之|これ}}を{{r|神|かみ}}と{{r|主|しゅ}}とに{{r|統|す}}ぶ。{{r|彼|かれ}}は{{r|人間|にんげん}}を{{r|愛|あい}}するによりその{{r|子|こ}}を{{r|十字架|じゅうじか}}の{{r|死|し}}に{{r|付|わた}}し{{r|給|たま}}へり。けだし{{r|神|かみ}}が{{r|世|よ}}を{{r|愛|あい}}してその{{r|独生|どくせい}}の{{r|子|こ}}を{{r|賜|たま}}ひ{{r|世|よ}}の{{r|為|ため}}に{{r|十字架|じゅうじか}}の{{r|死|し}}に{{r|付|わた}}し{{r|給|たま}}へるは〔[[ヨハネによる福音書(口語訳)#3:16|イオアン三の十六]]〕{{r|他|た}}の{{r|方法|ほうほう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らを{{r|贖|あがな}}ふ{{r|能|あた}}はざるによるに{{r|非|あら}}ず、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}てその{{r|豊富|ほうふ}}なる{{r|愛|あい}}を{{r|我|われ}}らに{{r|教|おし}}へ、その{{r|独生|どくせい}}の{{r|子|こ}}の{{r|死|し}}を{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らを{{r|神|かみ}}に{{r|近|ちか}}づけん{{r|為|ため}}なり。しかれどももし{{r|彼|かれ}}に{{r|更|さら}}に{{r|貴重|きちょう}}なるものがありしならば、{{r|我|われ}}ら{{r|諸族|しょぞく}}を{{r|得|え}}んが{{r|為|ため}}にそのものをも{{r|我|われ}}らに{{r|與|あた}}へ{{r|給|たま}}ひしならん。{{r|彼|かれ}}はその{{r|大|だい}}なる{{r|愛|あい}}により{{r|我|われ}}らの{{r|自由|じゆう}}を{{r|虐|しへた}}ぐるを{{r|喜|よろこ}}び{{r|給|たま}}はず、{{r|彼|かれ}}は{{r|之|これ}}を{{r|為|な}}し{{r|得|う}}るにも{{r|拘|かか}}はらず、{{r|我|われ}}ら{{r|自心|じしん}}の{{r|愛|あい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|彼|かれ}}に{{r|近|ちか}}づかんことを{{r|喜|よろこ}}べり。されば{{ul|ハリストス}}は{{r|自|みづ}}から{{r|我|われ}}らを{{r|愛|あい}}するにより、その{{r|父|ちち}}に{{r|従順|じゅうじゅん}}し、{{r|罵詈|ばり}}と{{r|哀|かなし}}みとを{{r|喜|よろこ}}んで{{r|己|おの}}れに{{r|受|う}}けしこと、{{r|聖書|せいしょ}}に{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いは}}く『その{{r|前|まえ}}にある{{r|喜|よろこ}}びに{{r|易|か}}へて{{r|辱|はずかしめ}}を{{r|意|い}}とせず{{r|十字架|じゅうじか}}を{{r|忍|しの}}び{{r|給|たま}}へり』〔[[ヘブル人への手紙(口語訳)#12:2|エウレイ十二の二]]〕、ゆえに{{r|主|しゅ}}はその{{r|付|わた}}さるる{{r|夜|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|言|い}}へり、{{r|曰|いは}}く『{{r|是|これ}}{{r|我|われ}}の{{r|體|たい}}{{r|世|よ}}の{{r|為|ため}}に{{r|與|あた}}へて{{r|生|せい}}を{{r|得|え}}せしむる{{r|者|もの}}なり』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#22:19|ルカ二十二の十九]]〕、{{r|又|また}}{{r|言|い}}へり、『{{r|是|これ}}れ{{r|我|われ}}の{{r|血|ち}}、{{r|衆|お
問 {{r|希望|きぼう}}はかくの{{r|如|ごと}}く{{r|美|び}}にして、{{r|希望|きぼう}}の{{r|生涯|しょうがい}}とその{{r|行為|こうい}}とは{{r|易|やす}}く、{{r|且|かつ}}その{{r|行為|こうい}}は{{r|速|すみやか}}に{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|成就|じょうじゅ}}するは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。
28行目:
答 {{r|此時|このとき}}{{r|聖者|せいしゃ}}の{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|天然|てんねん}}の{{r|欲望|よくぼう}}{{r|起|おこ}}り、{{r|彼|かれ}}らに{{r|此|この}}{{r|杯|さかづき}}を{{r|飲|の}}ましめて、{{r|彼|かれ}}らを{{r|酔|よ}}はしむるによる。ゆえに{{r|彼|かれ}}らはもはや{{r|労苦|ろうく}}を{{r|感|かん}}ぜずして、{{r|患難|かんなん}}の{{r|為|ため}}に{{r|無|む}}{{r|感覚|かんかく}}となり、すべて{{r|進行|しんこう}}を{{r|続|つづ}}くる{{r|間|あいだ}}に{{r|於|おい}}て{{r|彼|かれ}}らは{{r|思|おも}}ふなるべし、{{r|進行|しんこう}}は{{r|空気|くうき}}に{{r|依|よ}}りて{{r|成|な}}り、{{r|人間|にんげん}}の{{r|足|あし}}を{{r|以|もっ}}てせずと、けだし{{r|路|みち}}の{{r|艱難|かんなん}}は{{r|彼|かれ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|見|み}}えずして、{{r|彼|かれ}}らの{{r|前|まえ}}には{{r|丘陵|きゅうりょう}}もなく、{{r|急流|きゅうりゅう}}もなく{{r|路|みち}}の{{r|崎嶇|きく}}は{{r|坦|たいら}}げられん{{r|云々|うんぬん}}〔[[イザヤ書(口語訳)#40:4|イサイヤ四十の四]]〕、{{r|而|しか}}して{{r|毎時|まいじ}}{{r|毎刻|まいこく}}その{{r|注意|ちゅうい}}を{{r|父|ちち}}の{{r|懐|ふところ}}に{{r|向|むか}}はしむるによる、さればその{{r|希望|きぼう}}は{{r|彼|かれ}}らに{{r|遠|とお}}く{{r|隔|へだ}}たりて{{r|見|み}}えざるものをも{{r|瞬間|しゅうかん}}に{{r|指示|さししめ}}す{{r|如|ごと}}く、{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|信仰|しんこう}}の{{r|眼|め}}を{{r|以|もっ}}て{{r|熟|じゅく}}{{r|視|し}}する{{r|者|もの}}に{{r|之|これ}}を{{r|察知|さっち}}せしむるに{{r|似|に}}たり、けだし{{r|遼遠|りょうえん}}なるものを{{r|望|のぞ}}む{{r|希望|きぼう}}の{{r|為|ため}}に{{r|心霊|しんれい}}の{{r|部分|ぶぶん}}を{{r|悉|ことごと}}く{{r|焼|や}}かるること{{r|火|ひ}}を{{r|以|もっ}}てするが{{r|如|ごと}}く、{{r|在|あ}}らざる{{r|所|ところ}}のものも{{r|彼|かれ}}らの{{r|為|ため}}には{{r|現在|げんざい}}するものとなるなり。{{r|彼|かれ}}らはその{{r|思念|しねん}}を{{r|全|まった}}く{{r|彼処|かしこ}}に{{r|引|ひき}}{{r|伸|の}}ばして、{{r|常|つね}}に{{r|彼処|かしこ}}に{{r|達|たっ}}するに{{r|急|きゅう}}なり、{{r|而|しか}}して{{r|或|あ}}る{{r|道徳|どうとく}}を{{r|成|な}}すに{{r|近|ちか}}づくや、{{r|彼|か}}れ{{r|一|ひと}}つの{{r|為|ため}}に{{r|労|ろう}}せず、{{r|悉|ことごと}}くの{{r|道徳|どうとく}}を{{r|総合|そうごう}}して{{r|一|いち}}{{r|時|じ}}に{{r|全|まった}}く{{r|之|これ}}を{{r|成|な}}す、{{r|何|なん}}となれば{{r|此|これ}}らの{{r|偉|い}}{{r|人|じん}}はその{{r|進行|しんこう}}を{{r|成|な}}すに{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}の{{r|如|ごと}}く{{r|大|たい}}{{r|路|ろ}}に{{r|由|よ}}らずして、{{r|自|みづ}}から[[wikt:捷径|{{r|捷径|しょうけい}}]]を{{r|選|えら}}ぶによる、{{r|是|こ}}れ{{r|或|あ}}る{{r|著名|ちょめい}}なる{{r|者|もの}}らの{{r|速|すみやか}}に{{r|住所|じゅうしょ}}に{{r|達|たっ}}する{{r|所以|ゆえん}}なり。{{r|此|この}}{{r|希望|きぼう}}は{{r|彼|かれ}}らを{{r|焼|や}}くこと{{r|火|ひ}}の{{r|如|ごと}}し、されば{{r|彼|かれ}}らは{{r|急|いそ}}ぎて{{r|已|や}}まざる{{r|進行|しんこう}}に{{r|休息|きゅうそく}}を{{r|與|あた}}ふる{{r|能|あた}}はずして、{{r|喜|よろこ}}んで{{r|之|これ}}を{{r|成|な}}す。{{ul|イエレミヤ}}が{{r|言|い}}ふ{{r|所|ところ}}のものは{{r|彼|かれ}}らにも{{r|之|これ}}あらん、{{r|曰|いは}}く『{{r|我|わ}}れ{{r|彼|かれ}}の{{r|名|な}}を{{r|想起|そうき}}せず、{{r|又|また}}{{r|彼|かれ}}の{{r|名|な}}によりて{{r|言|い}}はず、{{r|然|しか}}るに{{r|我|わ}}が{{r|心|こころ}}にありて{{r|燃|も}}ゆる{{r|火|ひ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|我|わ}}が{{r|骨|ほね}}に{{r|透|とお}}る』〔[[エレミヤ書(口語訳)#20:9|イエレミヤ二十の九]]〕{{r|神|かみ}}を{{r|忘|わす}}れざる{{r|記憶|きおく}}は{{r|神|かみ}}の{{r|約束|やくそく}}を{{r|望|のぞ}}む{{r|希望|きぼう}}の{{r|為|ため}}に{{r|酔|よ}}はしめらるる{{r|彼|かれ}}らの{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}く{{r|活動|かつどう}}す。
{{r|道徳|どうとく}}の
問 {{r|人間|にんげん}}の{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}とは{{r|何|なん}}ぞや。
42行目:
{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}は{{r|不|ふ}}{{r|節制|せっせい}}の{{r|起|おこ}}るべき{{r|集会|しゅうかい}}と、{{r|人々|ひとびと}}の{{r|集合|しゅうごう}}、{{r|騒擾|そうじょう}}、{{r|喧騒|けんそう}}、{{r|遊歩|ゆうほ}}、{{r|周旋|しゅうせん}}{{r|又|また}}は{{r|娯楽|ごらく}}などを{{r|一見|いっけん}}するも、{{r|決|けっ}}して{{r|之|これ}}に{{r|礎|ささ}}へられざるべく{{r|言語|げんご}}、{{r|談話|だんわ}}、{{r|喚呼|かんこ}}{{r|及|およ}}び{{r|排欝|はいうつ}}には{{r|注意|ちゅうい}}を{{r|向|む}}けざるべし。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}し{{r|独居|どくきょ}}してすべての{{r|人|ひと}}に{{r|遠|とお}}ざかり、{{r|寂寞|せきばく}}たる{{r|地|ち}}に{{r|在|あ}}りて{{r|自己|じこ}}の{{r|為|ため}}に{{r|配慮|はいりょ}}しつつ、{{r|黙想|もくそう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|衆人|しゅうじん}}と{{r|絶縁|ぜつえん}}するを{{r|最|もっとも}}{{r|愛|あい}}するなり。すべてを{{r|縮少|しゅくしょう}}すると、{{r|無|む}}{{r|所求|しょきゅう}}と{{r|欠乏|けつぼう}}と{{r|赤貧|せきひん}}とは{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|大|おほい}}に{{r|欲|ほっ}}する{{r|所|ところ}}なり。{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|願|ねが}}はしきは{{r|己|おの}}れに{{r|多|おほ}}くの{{r|事|こと}}を{{r|有|ゆう}}して、{{r|間断|かんだん}}なく{{r|動作|どうさ}}するにあるには{{r|非|あら}}ずして、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|自由|じゆう}}にして{{r|存|そん}}して、{{r|掛念|けねん}}を{{r|有|ゆう}}せず、{{r|此|この}}{{r|世|よ}}のことに{{r|擾|みだ}}されず、かくの{{r|如|ごと}}くしてその{{r|思念|しねん}}を{{r|外|ほか}}に{{r|出|いだ}}さざるにあり。けだし{{r|多|おほ}}くの{{r|事|こと}}に{{r|立|たち}}{{r|入|い}}るならば、{{r|思念|しねん}}を{{r|擾|みだ}}さずして{{r|居|お}}る{{r|能|あた}}はざるべきを{{r|彼|かれ}}は{{r|信認|しんにん}}す、{{r|何|なん}}となれば{{r|多|おほ}}くの{{r|行為|こうい}}には{{r|多|おほ}}くの{{r|掛慮|けいりょ}}と{{r|多|おほ}}くの{{r|複雑|ふくざつ}}なる{{r|思念|しねん}}の{{r|集合|しゅうごう}}するあり、ゆえに{{r|人|ひと}}は{{r|最|もっとも}}{{r|欠|か}}く{{r|可|べか}}らざる{{r|些少|さしょう}}の{{r|必要|ひつよう}}を{{r|除|のぞ}}くの{{r|外|ほか}}、{{r|思念|しねん}}の{{r|平安|へいあん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|悉|ことごと}}く{{r|世慮|せいりょ}}の{{r|外|ほか}}に{{r|在|あ}}るの{{r|事|こと}}は{{r|最早|もはや}}{{r|止|や}}むべくして、{{r|極|きわ}}めて{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|思念|しねん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|只管|ひたすら}}に{{r|配慮|はいりょ}}する{{r|思想|しそう}}をば{{r|放下|ほうか}}せん。{{r|然|しか}}してその{{r|要求|ようきゅう}}が{{r|人|ひと}}の{{r|極|きわ}}めて{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|思念|しねん}}を{{r|遮|さえぎ}}りて{{r|已|や}}まざるときは、{{r|人|ひと}}は{{r|且|かつ}}{{r|忍|しの}}び{{r|且|かつ}}{{r|害|がい}}する{{r|状態|じょうたい}}にあらん。{{r|即|すなはち}}{{r|是|この}}{{r|時|とき}}より{{r|慾|よく}}の{{r|為|ため}}に{{r|門|もん}}は{{r|開|ひら}}けて、{{r|静|しず}}かに{{r|思慮|しりょ}}することは{{r|遠|とお}}ざかり、{{r|謙遜|けんそん}}は{{r|逃亡|とうぼう}}して、{{r|平和|へいわ}}の{{r|門|もん}}は{{r|閉|と}}ざさるるなり。{{r|此|こ}}のすべての{{r|後|のち}}に{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}はすべての{{r|多事|たじ}}より{{r|己|おのれ}}を{{r|不断|ふだん}}{{r|保護|ほご}}す、その{{r|時|とき}}は{{r|彼|かれ}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|寧静|ねいせい}}と{{r|安息|あんそく}}と{{r|平和|へいわ}}と{{r|温柔|おんじゅう}}と{{r|恭敬|きょうけい}}とに{{r|居|お}}るを{{r|認|みと}}められん。
{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}には{{r|性急|せいきゅう}}も、{{r|祖卒|そそつ}}も、{{r|擾乱|じょうらん}}も、{{r|短気|たんき}}にして{{r|軽浮|けいふ}}なる{{r|思|おも}}ひも{{r|決|けっ}}してあらずして、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|彼|かれ}}は{{r|平安|へいあん}}に{{r|居|お}}る。もし{{r|天|てん}}の{{r|地|ち}}に{{r|接|せっ}}することありとも、{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}は{{r|驚|おどろ}}かざるべし。{{r|凡|すべ}}ての{{r|沈黙者|ちんもくしゃ}}は{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}に{{r|非|あら}}ず、されど{{r|凡|すべ}}ての{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}は{{r|沈黙者|ちんもくしゃ}}なり。{{r|謙遜|けんそん}}ならざる{{r|者|もの}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|節|せっ}}せず、{{r|然|しか}}れども{{r|己|おのれ}}を{{r|節|せっ}}するの{{r|不|ふ}}{{r|謙遜者|けんそんしゃ}}を{{r|多|おほ}}く{{r|見|み}}るべし。{{r|温柔|おんじゅう}}にして{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|主|しゅ}}の{{r|言|い}}ひ{{r|給|たま}}ひしものは{{r|亦|また}}{{r|此|これ}}を{{r|意味|いみ}}す。{{r|曰|いは}}く、『{{r|我|われ}}は{{r|温柔|おんじゅう}}にして{{r|謙遜|けんそん}}なれば{{r|我|われ}}に{{r|学|まな}}べ、{{r|汝|なん
{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}には{{r|彼|かれ}}を{{r|擾動|じょうどう}}{{r|撹乱|かくらん}}せしめんとする{{r|切迫|せっぱく}}なる{{r|事|こと}}は{{r|決|けっ}}してあらず、{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}は{{r|神|かみ}}に{{r|祈願|きがん}}することをも、{{r|或|あるい}}は{{r|祈祷|きとう}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}するや{{r|祈祷|きとう}}を{{r|賜|たま}}はることをも、{{r|或|あるい}}は{{r|他|た}}の{{r|何物|なにもの}}をか{{r|願|ねが}}ふことをも{{r|敢|あえ}}てせずして{{r|何|なに}}を{{r|祈祷|きとう}}するをも{{r|知|し}}らざるにあり、ただ{{r|彼|かれ}}はその{{r|面|おもて}}を{{r|地|ち}}に{{r|俯伏|ふふく}}するやその{{r|崇拝|そうはい}}する{{r|所|ところ}}の{{r|尊厳者|そんげんしゃ}}の{{r|面|おもて}}より{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|出|い}}づる{{r|一|ひとつ}}の{{r|憐|あわれ}}みと{{r|惠|めぐ}}みとを{{r|待|ま}}ち、{{r|悉|ことごと}}くの{{r|思念|しねん}}を{{r|緘黙|かんもく}}して、その{{r|心|こころ}}の{{r|内部|ないぶ}}の{{r|眼|め}}は{{r|至聖所|しせいしょ}}の{{r|讃美|さんび}}の{{r|門|もん}}に{{r|昇|のぼ}}せらるるなり、{{r|彼処|かしこ}}の{{r|里|さと}}は{{r|冥闇|めいあん}}にして、その{{r|前|まえ}}には{{ul|セラフィム}}の{{r|目|め}}も{{r|塞|ふさ}}がり、その{{r|仁惠|じんけい}}は{{r|軍隊|レギオン}}を{{r|励|はげ}}ましその{{r|祝讃|しゅくさん}}に{{r|立|た}}たしめて、{{r|彼|かれ}}らの{{r|悉|ことごと}}くの{{r|品位|ひんい}}を{{r|黙|もく}}せしめん。{{r|而|しか}}してただ{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}ふを{{r|敢|あえ}}てせん、{{r|曰|いは}}く『{{r|願|ねが}}はくは{{r|主|しゅ}}よ{{r|汝|なん
{{DEFAULTSORT:しりやのせいいさあくせんしよたい48}}
|