「シリヤの聖イサアク全書/第四十七説教」の版間の差分

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<< {{r|此|こ}}の{{r|章|しょう}}の{{r|意義|いぎ}}{{r|及|およ}}び{{r|祈祷|きとう}}の{{r|事|こと}}。 >>
 
{{r|簡短|かんたん}}に{{r|顕|あら}}はせる{{r|此|この}}{{r|章|しょう}}の{{r|意|い}}は{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}し、{{r|我|われ}}らは{{r|此|こ}}の{{r|二十四|にじゅうよ}}{{r|時間|じかん}}の{{r|中|うち}}、{{r|昼|ひる}}も{{r|夜|よる}}も{{r|悔改|かいかい}}に{{r|必要|ひつよう}}を{{r|有|ゆう}}するを{{r|時々|ときどき}}{{r|記憶|きおく}}せんを{{r|要|よう}}すること{{r|是|これ}}なり。{{r|悔改|かいかい}}といふ{{r|言|ことば}}の{{r|意味|いみ}}は{{r|例|たと}}へば{{r|我|われ}}らは{{r|物|もの}}を{{r|真実|しんじつ}}の{{r|性質|せいしつ}}により{{r|確知|かくち}}する{{r|如|ごと}}く、{{r|悔改|かいかい}}も{{r|既往|きおう}}の{{r|罪|つみ}}を{{r|赦|ゆる}}されん{{r|為|ため}}、{{r|悔悟|かいご}}の{{r|念|ねん}}に{{r|充|み}}ち{{r|満|み}}てる{{r|祈祷|きとう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}に{{r|近|ちか}}づく{{r|弱|よわ}}らざる{{r|請願|せいがん}}と、{{r|将来|しょうらい}}を{{r|守|まも}}るが{{r|為|ため}}の{{r|悲哀|ひあい}}とにあり。{{r|故|ゆえ}}に{{r|我|われ}}らの{{r|主|しゅ}}も{{r|我|われ}}らが{{r|薄弱|はくじゃく}}の{{r|為|ため}}にその{{r|支柱|しちゅう}}を{{r|祈祷|きとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|示|しめ}}し{{r|給|たま}}へり、{{r|曰|いは}}く『{{r|&#x5106;醒|けいせい}}せよ{{r|祈祷|きとう}}せよ{{r|誘惑|ゆうわく}}に{{r|入|い}}らざらんが{{r|為|ため}}なり』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#26:41|マトフェイ二十六の四十一]]〕。{{r|祈祷|きとう}}せよ、{{r|怠慢|たいまん}}なるなかれ、{{r|如何|いか}}なる{{r|時|とき}}にも『{{r|&#x5106;醒|けいせい}}し{{r|且|かつ}}{{r|感謝|かんしゃ}}せよ』〔[[コロサイ人への手紙(口語訳)#4:2|コロサイ四の二、三]]〕、『{{r|求|もと}}めよ、{{r|然|しか}}らば{{r|得|え}}ん、{{r|尋|たづ}}ねよ、{{r|然|しか}}らば{{r|遇|あ}}はん、{{r|門|もん}}を{{r|叩|たた}}けよ、{{r|然|しか}}らば{{r|汝|なん}}らの{{r|為|ため}}に{{r|啓|ひら}}かれん、けだし{{r|凡|およ}}そ{{r|求|もと}}むる{{r|者|もの}}は{{r|得|え}}、{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|者|もの}}は{{r|遇|あ}}ひ、{{r|門|もん}}を{{r|叩|たた}}く{{r|者|もの}}には{{r|啓|ひら}}かれん』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#7:7|マトフェイ七の七、八]]〕。{{r|然|しか}}して{{r|殊|こと}}にその{{r|言|ことば}}を{{r|証定|しょうてい}}するが{{r|為|ため}}に{{r|夜半|やはん}}{{r|来|きた}}りて{{r|餅|ぱん}}を{{r|求|もと}}めたる{{r|友|とも}}の{{r|喩|たとひ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らを{{r|大|だい}}なる{{r|勉励|べんれい}}に{{r|進|すす}}ましめ{{r|給|たま}}へり、{{r|主|しゅ}}は{{r|言|い}}へり{{r|誠|まこと}}に『{{r|汝|なん}}らに{{r|語|つ}}ぐ、{{r|彼|かれ}}は{{r|友|とも}}なるが{{r|故|ゆえ}}に{{r|起|お}}きて{{r|彼|かれ}}に{{r|與|あた}}へざるも、その{{r|切迫|せっぱく}}に{{r|依|よ}}りて、{{r|需|もと}}むる{{r|如|ごと}}く{{r|彼|かれ}}に{{r|與|あた}}へん』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#11:8|ルカ十一の八]]〕{{r|故|ゆえ}}に{{r|汝|なん}}ら{{r|祈祷|きとう}}せよ、{{r|怠慢|たいまん}}なるなかれと。{{r|吁|ああ}}{{r|勇気|ゆうき}}の{{r|為|ため}}に{{r|得|え}}も{{r|言|い}}はれざる{{r|何等|なにら}}の{{r|奨励|しょうれい}}なるや。{{r|施与|しよ}}{{r|者|しゃ}}が{{r|我|われ}}らを{{r|勉励|べんれい}}して{{r|求|もと}}めしむるは、{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|賜|たまもの}}を{{r|我|われ}}らに{{r|與|あた}}へんが{{r|為|ため}}なり。それ{{r|彼|かれ}}は{{r|彼|かれ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|慈恵|じけい}}なるものをば、その{{r|自|みづ}}から{{r|知|し}}る{{r|如|ごと}}く、すべて{{r|摂理|せつり}}し{{r|給|たま}}ふならば、{{r|彼|かれ}}の{{r|此|この}}{{r|言|ことば}}は{{r|我|われ}}らを{{r|勇気|ゆうき}}と{{r|希望|きぼう}}とに{{r|励|はげ}}ます{{r|為|ため}}に{{r|大|だい}}なる{{r|力|ちから}}を{{r|満|み}}たさるるなり。けだし{{r|主|しゅ}}は{{r|背離|はいり}}の{{r|出来|でき}}{{r|得|う}}べきことを{{r|死|し}}する{{r|以前|いぜん}}に{{r|我|われ}}らより{{r|奪|うば}}はずして、{{r|徳行|とくこう}}より{{r|邪悪|じゃあく}}に{{r|移|うつ}}るべき{{r|此|この}}{{r|変化|へんか}}は{{r|我|われ}}らに{{r|甚|はなは}}だ{{r|近|ちか}}くして{{r|人|ひと}}と{{r|人|ひと}}の{{r|性|せい}}は{{r|反対|はんたい}}なるものを{{r|自己|じこ}}に{{r|受|う}}け{{r|易|やす}}きを{{r|知|し}}るにより、{{r|不断|ふだん}}{{r|祈祷|きとう}}に{{r|勉励|べんれい}}して{{r|奮闘|ふんとう}}すべきを{{r|命|めい}}じ{{r|給|たま}}へり。もしも{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|保証|ほしょう}}の{{r|国|くに}}のあるならば、{{r|人|ひと}}の{{r|此国|このくに}}に{{r|達|たっ}}するや、その{{r|性|せい}}は{{r|是|この}}{{r|時|とき}}{{r|直|ただ}}ちに{{r|要求|ようきゅう}}より{{r|上|うえ}}にあるべく、その{{r|為|な}}す{{r|所|ところ}}も{{r|畏懼|いく}}より{{r|上|うえ}}にあるべく、{{r|而|しか}}して{{r|神|かみ}}はその[[wikt:照管|{{r|照管|しょうかん}}]]を{{r|以|もっ}}て{{r|之|これ}}を{{r|遂|と}}げしめて、{{r|祈祷|きとう}}に{{r|奮闘|ふんとう}}すべきことは{{r|命|めい}}じ{{r|給|たま}}はざりしならん。けだし{{r|来世|らいせい}}に{{r|於|おい}}ては{{r|或事|あること}}の{{r|請願|せいがん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}に{{r|祈祷|きとう}}を{{r|献|ささ}}げざるべければなり。{{r|此|こ}}の{{r|自由|じゆう}}の{{r|郷|きょう}}に{{r|在|あ}}りては{{r|我|われ}}らが{{r|性|せい}}は{{r|反対|はんたい}}を{{r|恐|おそ}}るる{{r|畏懼|いく}}の{{r|下|もと}}にありて、{{r|変化|へんか}}と{{r|背離|はいり}}とを{{r|受|う}}けざるべし、{{r|何|なん}}となればすべてに{{r|完全|かんぜん}}すればなり。{{r|此故|このゆえ}}に{{r|主|しゅ}}の{{r|命|めい}}じ{{r|給|たま}}ひしは、ただ{{r|祈祷|きとう}}と{{r|自己|じこ}}を{{r|守|まも}}るが{{r|為|ため}}のみにあらずして、{{r|我|われ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|常々|つねづね}}{{r|起|おこ}}る{{r|所|ところ}}のものの{{r|機微|きび}}にして{{r|思議|しぎ}}す{{r|可|べか}}らざるが{{r|故|ゆえ}}に、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|不意|ふい}}に{{r|屡々|しばしば}}{{r|発見|はっけん}}するものの{{r|状態|じょうたい}}は{{r|我|われ}}らの{{r|知識|ちしき}}を{{r|以|もっ}}て{{r|曉|さと}}る{{r|能|あた}}はざるによるなり。けだし{{r|我|われ}}らの{{r|意|い}}は{{r|甚|はなは}}だ{{r|堅固|けんご}}にして、{{r|善|ぜん}}に{{r|膠着|こうちゃく}}すといへども、{{r|主|しゅ}}の[[wikt:照管|{{r|照管|しょうかん}}]]は{{r|我|われ}}らを{{r|誘惑|ゆうわく}}の{{r|境|さかい}}に{{r|棄|す}}て{{r|且|かつ}}{{r|投|とう}}ずる{{r|一回|いっかい}}のみにあらざることは、{{r|福|ふく}}なる{{ul|パウェル}}(パウロ)の{{r|言|い}}ひし{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いはく}}く『{{r|黙示|もくし}}の{{r|至大|しだい}}なるによりて{{r|我|わ}}が{{r|高|たか}}ぶらざらん{{r|為|ため}}に、{{r|一|ひとつ}}の{{r|刺|とげ}}は{{r|我|わ}}が{{r|肉体|にくたい}}に{{r|與|あた}}へられたり、{{r|即|すなはち}}{{ul|サタナ}}の{{r|使|つかい}}なり、{{r|我|われ}}を{{r|撃|う}}たん{{r|為|ため}}{{r|我|わ}}が{{r|高|たか}}ぶらざん{{r|為|ため}}なり、{{r|我|われ}}{{r|三次|みたび}}{{r|主|しゅ}}に{{r|之|これ}}を{{r|我|われ}}より{{r|離|はな}}さんことを{{r|求|もと}}めたり{{r|然|しか}}れども{{r|主|しゅ}}は{{r|我|われ}}に{{r|謂|い}}へり、{{r|我|われ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}は{{r|汝|なん}}に{{r|足|た}}れり。けだし{{r|我|われ}}の{{r|力|ちから}}は{{r|弱|よわ}}き{{r|中|うち}}に{{r|行|おこな}}はる』〔[[コリント人への第二の手紙(口語訳)#12:7|コリンフ後十二の七、九]]〕。
 
{{r|主|しゅ}}よ、{{r|是|こ}}れ{{r|既|すで}}に{{r|汝|なん}}の{{r|旨|むね}}ならば、{{r|我|われ}}らの{{r|幼稚|ようち}}なるも、{{r|汝|なん}}に{{r|導|みちび}}かれて{{r|自|みづ}}から{{r|覚醒|かくせい}}せんが{{r|為|ため}}に、{{r|此|こ}}のすべてのものを{{r|要求|ようきゅう}}す、{{r|矧|いは}}んや{{r|人|ひと}}も{{r|我|われ}}と{{r|同|おな}}じく{{r|汝|なん}}の{{r|愛|あい}}に{{r|酔|よ}}はしめられ、{{r|酩酊|めいてい}}の{{r|中|うち}}に{{r|在|あ}}りて、{{r|世|よ}}には{{r|目|め}}を{{r|全|まった}}く{{r|注|そそ}}がざるにより{{r|引誘|いんゆう}}せられて、{{r|善|ぜん}}なる{{r|者|もの}}に{{r|追随|ついずい}}するに{{r|於|おい}}てをや、ただに{{r|是|これ}}のみに{{r|非|あら}}ず、{{r|汝|なん}}は{{r|我|われ}}に{{r|肉体|にくたい}}の{{r|舌|した}}にて{{r|説明|せつめい}}する{{r|能|あた}}はざる{{r|黙示|もくし}}と{{r|直覚|ちょっかく}}とを{{r|與|あた}}へ、{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の{{r|勤|つとめ}}を{{r|見|み}}、{{r|且|かつ}}その{{r|声|こえ}}を{{r|聞|き}}かしめて、{{r|聖徳|せいとく}}を{{r|充|み}}ち{{r|満|み}}てる{{r|汝|なん}}の{{r|直覚|ちょっかく}}を{{r|賜|たま}}はるに{{r|於|おい}}てをや、しかれども{{r|此|この}}すべてに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|我|わ}}れ{{ul|ハリストス}}によりて{{r|成全|せいぜん}}せられたる{{r|人|ひと}}は、{{r|自己|じこ}}を{{r|保護|ほご}}するが{{r|為|ため}}に{{r|不充分|ふじゅうぶん}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|予|よ}}は{{ul|ハリストス}}の{{r|心|こころ}}を{{r|得|え}}たるに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|機微|きび}}にして{{r|予|よ}}の{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|悟|さと}}る{{r|能|あた}}はざるものあるによる、{{r|故|ゆえ}}に{{r|主|しゅ}}よ、{{r|予|よ}}が{{r|弱|よわ}}きと、{{r|患難|かんなん}}と、{{r|牢獄|ろうごく}}と、{{r|械&#x7E6B;|かいけい}}<ref>投稿者注:罪人の自由を奪うための刑具のこと</ref>と、{{r|窮乏|きゅうぼう}}とに{{r|於|おい}}て{{r|喜|よろこ}}ぶは{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}なり。これ{{r|性|せい}}によるか、{{r|性|せい}}の{{r|子|こ}}によるか、{{r|或|あるい}}はその{{r|敵|てき}}によるか、{{r|今|いま}}はただ{{r|予|よ}}の{{r|弱|よわ}}きを{{r|喜|よろこ}}んで{{r|忍受|にんじゅ}}す、{{r|即|すなはち}}{{r|試惑|しわく}}に{{r|於|おい}}て{{r|予|よ}}の{{r|弱|よわ}}きを{{r|忍受|にんじゅ}}す、{{r|神|かみ}}の{{r|力|ちから}}の{{r|我|われ}}に{{r|宿|やど}}らん{{r|為|ため}}なり。もし{{r|此|この}}すべての{{r|後|のち}}{{r|汝|なん}}の{{r|住所|じゅうしょ}}が{{r|予|よ}}の{{r|中|うち}}に{{r|膨張|ぼうちょう}}{{r|展開|てんかい}}して、{{r|予|よ}}も{{r|汝|なん}}に{{r|近|ちか}}づきて{{r|守|まも}}られれん{{r|為|ため}}、{{r|試惑|しわく}}の{{r|杖|つえ}}に{{r|必要|ひつよう}}を{{r|有|ゆう}}するならば、{{r|予|よ}}は{{r|知|し}}る、{{r|我|われ}}より{{r|多|おほ}}く{{r|汝|なん}}に{{r|愛|あい}}せらるる{{r|者|もの}}はあらずして、{{r|随|したがつ}}て{{r|汝|なん}}は{{r|我|われ}}を{{r|衆人|しゅうじん}}より{{r|高|たか}}うしたるを。{{r|且|かつ}}{{r|汝|なん}}は{{r|奇異|きい}}にして{{r|光栄|こうえい}}なる{{r|力|ちから}}を{{r|識|し}}るを{{r|予|よ}}の{{r|同労者|どうろうしゃ}}たる{{r|使徒|しと}}の{{r|一人|いちにん}}にも{{r|予|よ}}に{{r|與|あた}}へし{{r|如|ごと}}くには{{r|與|あた}}へ{{r|給|たま}}はずして、{{r|汝|なん}}は{{r|予|よ}}を{{r|選器|せんき}}と{{r|名|な}}づけ{{r|給|たま}}へり、〔{{r|行実|ぎょうじつ}}九の十五([[使徒行伝(口語訳)#9:15|使徒{{r|実|ぎょうじつ}}九の十五]]〕{{r|何|なん}}となれば{{r|汝|なん}}の{{r|愛|あい}}の{{r|法|ほう}}を{{r|予|よ}}は{{r|誠実|せいじつ}}に{{r|守|まも}}るによる。{{r|此|こ}}のすべての{{r|為|ため}}、{{r|特|こと}}に{{r|伝道|でんどう}}の{{r|業|ぎょう}}の{{r|大|おほい}}に{{r|進歩|しんぽ}}して{{r|将来|しょうらい}}{{r|益々|ますます}}{{r|拡張|かくちょう}}するが{{r|為|ため}}にも{{r|有益|ゆうえき}}なりしならば、{{r|汝|なん}}は{{r|予|よ}}に{{r|自由|じゆう}}を{{r|賜|たま}}ふべかりしを{{r|予|よ}}は{{r|幾分|いくぶん}}か{{r|理会|りかい}}するなり。しかれども{{r|汝|なん}}は{{r|予|よ}}が{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|患難|かんなん}}と{{r|憂慮|ゆうりょ}}なくして{{r|居|お}}らざらんことを{{r|嘉|よ}}みし{{r|給|たま}}へり、けだし{{r|汝|なん}}の{{r|福音|ふくいん}}を{{r|世|よ}}に{{r|傳|つた}}ふる{{r|事業|じぎょう}}の{{r|大|おほい}}に{{r|増加|ぞうか}}するは、{{r|予|よ}}が{{r|試惑|しわく}}により{{r|益|えき}}を{{r|得|え}}て、{{r|予|よ}}の{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|汝|なん}}によりて{{r|健全|けんぜん}}に{{r|守|まも}}らるる{{r|程|ほど}}{{r|汝|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|重要|じょうよう}}なるには{{r|非|あら}}ざるに{{r|因|よ}}る。
 
{{r|終|おわり}}に、{{r|思慮|しりょ}}ある{{r|者|もの}}よ、もし{{r|此|この}}すべては{{r|試惑|しわく}}の{{r|大|だい}}なる{{r|賜|たまもの}}にして、{{r|人|ひと}}が{{r|称揚|しょうよう}}せられて、{{ul|パウェル}}と{{r|同|おな}}じく{{r|神|しん}}に{{r|入|い}}る{{r|程|ほど}}は、{{r|更|さら}}に{{r|愈々|いよいよ}}{{r|畏懼|いく}}と{{r|戒慎|かいしん}}とに{{r|必要|ひつよう}}を{{r|有|ゆう}}して、その{{r|遭遇|そうぐう}}する{{r|所|ところ}}の{{r|試惑|しわく}}より{{r|益|えき}}を{{r|刈|か}}るならば、{{r|誰|たれ}}か{{r|此|こ}}の{{r|奪|うば}}ひし{{r|者|もの}}らが{{r|充|み}}ち{{r|満|み}}てる{{r|保証|ほしょう}}の{{r|国|くに}}に{{r|達|たっ}}して、〔[[マタイによる福音書(口語訳)#11:12|マトフェイ十一の十二]]〕{{r|我|われ}}らと{{r|偕|とも}}ならずしては{{r|全|まつた}}きを{{r|受|う}}けざる{{r|為|ため}}に〔[[ヘブル人への手紙(口語訳)#11:40|エウレイ十一の四十]]〕{{r|聖|せい}}なる{{r|天使|てんし}}らにも{{r|與|あた}}へられざる{{r|堅固|けんご}}なる{{r|者|もの}}となり{{r|得|う}}べきものを{{r|受|う}}け、すべて{{r|霊神上|れいしんじょう}}にも{{r|肉体上|にくたいじょう}}にも{{r|反対|はんたい}}する{{r|所|ところ}}のものを{{r|受|う}}けて、{{r|全|まった}}く{{r|不変|ふへん}}{{r|不易|ふえき}}なる{{r|者|もの}}とならんことを{{r|欲|ほっ}}するか、{{r|試惑|しわく}}が{{r|彼|かれ}}にその{{r|思|おもい}}にも{{r|近|ちか}}づかざらんことを{{r|欲|ほっ}}するか。{{r|然|しか}}して{{r|此世|このよ}}の{{r|法|ほう}}は{{r|悉|ことごと}}くの{{r|聖書|せいしょ}}に{{r|顕|あら}}はされたる{{r|如|ごと}}く、その{{r|意|い}}{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}し、{{r|即|すなはち}}もし{{r|毎日|まいにち}}{{r|幾千|いくせん}}の{{r|打撃|だげき}}を{{r|常|つね}}に{{r|受|う}}くるも{{r|畏避|いひ}}{{r|退怯|たいきょう}}するなかれ、{{r|場裡|じょうり}}に{{r|馳走|ちそう}}するを{{r|止|とど}}むるなかれ、{{r|何|なん}}となれば{{r|我|われ}}らは{{r|一|いつ}}の{{r|些細|ささい}}なる{{r|機会|きかい}}に{{r|勝利|しょうり}}を{{r|奪|うば}}ふて{{r|栄冠|えいかん}}を{{r|受|う}}くべきによる。