「シリヤの聖イサアク全書/第四十一説教」の版間の差分

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{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|殊|こと}}に{{r|愛|あい}}せよ、{{r|何|なん}}となれば{{r|汝|なん}}を{{r|結果|けっか}}に{{r|近|ちか}}づかしむればなり、されど{{r|舌|した}}は{{r|此|こ}}の{{r|事|こと}}を{{r|言|い}}ひ{{r|顕|あらは}}すに{{r|無力|むりょく}}なり。{{r|先|ま}}づ{{r|沈黙|ちんもく}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|強|し}}いん、その{{r|時|とき}}は{{r|沈黙|ちんもく}}によりて{{r|真|まこと}}の{{r|沈黙|ちんもく}}に{{r|至|いた}}らしむべきものを{{r|我|われ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|生|しょう}}ぜん。{{r|沈黙|ちんもく}}によりて{{r|生|しょう}}ずるものを{{r|神|かみ}}は{{r|汝|なん}}に{{r|感知|かんち}}せしめん、されど{{r|此|この}}の{{r|生涯|しょうがい}}を{{r|始|はじ}}むるならば、{{r|此|こ}}れより{{r|光|ひかり}}は{{r|幾何|いくばく}}{{r|汝|なん}}に{{r|輝|かがや}}くべきか、{{r|予|よ}}は{{r|之|これ}}を{{r|言|い}}ふことも{{r|能|あた}}はざるなり。{{r|兄弟|けいてい}}よ{{r|奇異|きい}}なる{{ul|アルセニイ}}(師父アルセニオス)の{{r|事|こと}}を{{r|記|き}}するを{{r|視|み}}よ、{{r|諸父|しょふ}}{{r|兄弟|けいてい}}ら{{r|彼|かれ}}を{{r|見|み}}んが{{r|為|ため}}に{{r|来|きた}}り{{r|訪|と}}ひけるに、{{r|彼|かれ}}は{{r|黙然|もくねん}}として{{r|一言|いちげん}}も{{r|発|はっ}}せず、{{r|彼|かれ}}らと{{r|共|とも}}に{{r|座|ざ}}し、{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|彼|かれ}}らを{{r|去|さ}}らしめたり、{{r|汝|なん}}は{{r|之|これ}}を{{r|見|み}}て、{{r|此|この}}すべてを{{r|彼|かれ}}は{{r|全|まった}}く{{r|意|こころ}}のままに{{r|行|おこな}}ひ、{{r|最初|さいしょ}}より{{r|己|おのれ}}を{{r|之|これ}}に{{r|強|し}}ひしに{{r|非|あら}}ずと{{r|思|おも}}ふなかれ。{{r|此|こ}}の{{r|行為|こうい}}に{{r|練習|れんしゅう}}するにより、{{r|逐次|ちくじ}}{{r|或|あ}}る{{r|愉快|ゆかい}}が{{r|生|しょう}}じ、{{r|強|し}}いて{{r|身体|しんたい}}を{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|守|まも}}るにみちびかん。{{r|而|しか}}して{{r|此|こ}}の{{r|生涯|しょうがい}}に{{r|於|おい}}て{{r|我|われ}}らに{{r|多|お}}くの{{r|涙|なみだ}}は{{r|生|しょう}}じて、{{r|奇異|きい}}なる{{r|直覚|ちょっかく}}により、{{r|心|こころ}}は{{r|何故|なにゆえ}}か{{r|別々|べつべつ}}に{{r|感|かん}}ぜん、{{r|或|あ}}る{{r|時|とき}}は{{r|辛|かろ}}うじて{{r|感|かん}}ずれども、{{r|或|あ}}る{{r|時|とき}}は{{r|驚|おどろ}}くべく{{r|感|かん}}ぜん、{{r|何|なん}}となれば{{r|心|こころ}}は{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}くなればなり、{{r|故|ゆえ}}に{{r|祈祷|きとう}}を{{r|始|はじ}}むるや、{{r|直|ただち}}ちに{{r|涙|なみだ}}は{{r|流|なが}}るるなり。その{{r|肢体|したい}}の{{r|忍耐|にんたい}}により{{r|此|こ}}の{{r|奇異|きい}}なる{{r|習慣|しゅうかん}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|心中|しんちゅう}}{{r|内部|ないぶ}}に{{r|得|え}}たる{{r|人|ひと}}は{{r|大|だい}}なり。{{r|一方|いっぽう}}には{{r|此|こ}}の{{r|生涯|しょうがい}}の{{r|悉|ことごと}}くの{{r|行為|こうい}}を{{r|置|お}}き、{{r|又|また}}{{r|一方|いっぽう}}には{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|置|お}}く{{r|時|とき}}は、{{r|秤量|ひょうりょう}}に{{r|於|おい}}て{{r|沈黙|ちんもく}}の{{r|愈|まさ}}れるを{{r|見|み}}ん。{{r|人々|ひとびと}}には{{r|多|お}}くの{{r|教訓|きょうくん}}あり、{{r|然|しか}}れどももし{{r|誰|たれ}}か{{r|沈黙|ちんもく}}と{{r|親|した}}しむならば、{{r|此|これ}}らの{{r|教訓|きょうくん}}を{{r|守|まも}}るの{{r|行為|こうい}}はその{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}に{{r|贅物|ぜいぶつ}}となるべく、{{r|是|これ}}より{{r|先|さき}}の{{r|行為|こうい}}も{{r|贅視|ぜいし}}せらるべくして、{{r|彼|かれ}}は{{r|自|みづ}}から{{r|此|これ}}らの{{r|行為|こうい}}より{{r|抽|ぬき}}んずる{{r|者|もの}}としてあらはるるなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|完全|かんぜん}}に{{r|近|ちか}}づきしによる。{{r|沈黙|ちんもく}}は{{r|黙想|もくそう}}に{{r|助|たす}}くるなり。{{r|何|なん}}ぞや。{{r|我|われ}}らは{{r|多人|たにん}}{{r|共住|きょうじゅう}}の{{r|院|いん}}に{{r|居|お}}らば、{{r|何人|なんびと}}にも{{r|遇|あ}}はざらんことは{{r|能|あた}}はざるべくして、{{r|黙想|もくそう}}を{{r|大|おい}}に{{r|愛|あい}}すること{{r|天使|てんし}}の{{r|如|ごと}}くなりし{{ul|アルセニイ}}さへも{{r|之|これ}}を{{r|逃|のが}}る{{r|能|あた}}はざりき。けだし{{r|我|われ}}らと{{r|共|とも}}に{{r|居|お}}る{{r|諸父|しょふ}}{{r|兄弟|けいてい}}に{{r|遇|あ}}はざらんことは{{r|能|あた}}はざるべくして、{{r|此|こ}}の{{r|遇|あ}}ふことは{{r|期|き}}せずして{{r|之|これ}}あるべし。{{r|聖堂|せいどう}}{{r|或|あるい}}はその{{r|他|た}}の{{r|所|ところ}}に{{r|行|ゆ}}くは、{{r|人|ひと}}に{{r|免|まぬか}}る{{r|能|あた}}はざればなり。{{r|彼|か}}の{{r|福楽|ふくらく}}を{{r|受|うく}}るに{{r|堪|た}}へたる{{r|人|ひと}}は{{r|此|こ}}のすべてを{{r|知|し}}れり、{{r|即|すなはち}}{{r|人間|にんげん}}の{{r|住所|じゅうしょ}}の{{r|近|ちか}}きに{{r|居|お}}る{{r|間|あいだ}}は、{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|之|これ}}を{{r|逃|のが}}るる{{r|能|あた}}はざるを{{r|知|し}}れり、{{r|而|しか}}してその{{r|居|お}}る{{r|所|ところ}}の{{r|位置|いち}}に{{r|依|よ}}り{{r|同所|どうしょ}}に{{r|居|お}}る{{r|人々|ひとびと}}{{r|又|また}}は{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}らに{{r|面接|めんせつ}}するを{{r|避|さ}}くる{{r|能|あた}}はざることの{{r|屡々|しばしば}}{{r|之|これ}}あるや、{{r|彼|かれ}}はその{{r|時恩寵|ときおんちょう}}によりて{{r|此|こ}}の{{r|方法|ほうほう}}を{{r|教|おし}}へられたり、{{r|即|すなはち}}{{r|不断|ふだん}}の{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|教|おし}}へられたりき。ゆえにもし{{r|或者|あるもの}}らの{{r|為|ため}}に{{r|已|や}}むを{{r|得|え}}ず{{r|戸|と}}を{{r|開|ひら}}く{{r|時|とき}}あるや、{{r|彼|かれ}}らはただその{{r|面会|めんかい}}を{{r|自|みづ}}から{{r|楽|たのし}}むのみにて、{{r|言談|けんだん}}も{{r|要事|ようじ}}も{{r|彼|かれ}}らは{{r|無用視|むようし}}したりき。
 
{{r|多|お}}くの{{r|神父|しんぷ}}は{{r|此|この}}{{r|面会|めんかい}}により{{r|自己|じこ}}を{{r|保護|ほご}}するを{{r|得|え}}、{{r|福者|ふくしゃ}}の{{r|面会|めんかい}}は{{r|彼|かれ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|教訓|きょうくん}}となるを{{r|利用|りよう}}して、{{r|霊神上|れいしんじょう}}の{{r|富|とみ}}を{{r|増|ま}}すを{{r|得|え}}たりき。{{r|然|しか}}るに{{r|或神父|あるしんぷ}}は{{r|人々|ひとびと}}に{{r|行|ゆ}}かんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|望|のぞみ}}の{{r|起|おこ}}るや、{{r|己|おのれ}}を{{r|石|いし}}に{{r|繋|つな}}ぎ、{{r|或|あるい}}は{{r|縄|なわ}}にて{{r|縛|しば}}り、{{r|或|あるい}}は{{r|飢渇|きかつ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|疲|つか}}らしたりき。けだし{{r|飢餓|きが}}は{{r|感覚|かんかく}}を{{r|鎮|しず}}むるに{{r|多|お}}く{{r|助|たす}}くればなり。
 
{{r|兄弟|けいてい}}よ、{{r|予|よ}}は{{r|大|おい}}にして{{r|奇異|きい}}なる{{r|多|お}}くの{{r|神父|しんぷ}}らを{{r|見|み}}るに、{{r|彼|かれ}}らは{{r|行為|こうい}}よりも、{{r|感覚|かんかく}}の{{r|斉整|せいせい}}と{{r|身体|しんたい}}の{{r|習慣|しゅうかん}}とを{{r|多|お}}く{{r|慮|おもんばか}}れり、けだし{{r|思慮|しりょ}}の{{r|斉整|せいせい}}は{{r|是|これ}}より{{r|生|しょう}}ずればなり。{{r|多|お}}くの{{r|事故|じこ}}は{{r|不意|ふい}}に{{r|人|ひと}}と{{r|遇会|ぐうかい}}してその{{r|自由|じゆう}}の{{r|界限|かいげん}}を{{r|脱|だっ}}せしめん。ゆえに{{r|人|ひと}}は{{r|預|あらかじ}}め{{r|求|もと}}めたる{{r|弱|よわ}}らざる{{r|習慣|しゅうかん}}により、その{{r|感覚|かんかく}}を{{r|保護|ほご}}せらるるなくんば、{{r|長|なが}}く{{r|自|みづ}}から{{r|己|おのれ}}を{{r|省察|せいさつ}}せざるべくして、{{r|己|おの}}が{{r|原始|げんし}}の{{r|平安|へいあん}}なる{{r|状態|じょうたい}}を{{r|見|み}}ざるべければなり。
 
{{r|心|こころ}}の{{r|大|だい}}なる{{r|進歩|しんぽ}}は{{r|自己|じこ}}の{{r|希望|きぼう}}のことを{{r|思念|しねん}}するにあり。{{r|行為|こうい}}の{{r|大|だい}}なる{{r|進歩|しんぽ}}は{{r|一切|いっさい}}の{{r|解脱|げだつ}}にあり。{{r|死|し}}の{{r|記憶|きおく}}は{{r|外部|がいぶ}}の{{r|肢体|したい}}の{{r|為|ため}}に{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|連鎖|れんさ}}となるべし。{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|香餌|こうじ}}は{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|花|はな}}{{r|咲|さ}}く{{r|希望|きぼう}}によりて{{r|生|しょう}}ぜらるる{{r|喜|よろこび}}にあり、{{r|知識|ちしき}}の{{r|成長|せいちょう}}は{{r|不断|ふだん}}の{{r|実験|じっけん}}にありて、{{r|之|これ}}により{{r|智|ち}}は{{r|二|に}}{{r|様|よう}}の{{r|変化|へんか}}の{{r|為|ため}}に{{r|内部|ないぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|日々|ひび}}に{{r|実験|じっけん}}に{{r|附|ふ}}せらるるなり。けだし{{r|寂寥|せきりょう}}の{{r|為|ため}}に{{r|時|とき}}として{{r|我|われ}}らに{{r|煩悶|はんもん}}の{{r|起|おこ}}るあらば、〔{{r|是|こ}}れ{{r|或|あるい}}は{{r|神|かみ}}の{{r|照覧|しょうらん}}によりて{{r|遣|つか}}はさるるならん〕{{r|最優越|いとゆうえつ}}なる{{r|希望|きぼう}}の{{r|慰藉|いしゃ}}を{{r|有|ゆう}}す、{{r|即|すなはち}}{{r|我|われ}}らが{{r|心中|しんちゅう}}にある{{r|信仰|しんこう}}の{{r|言|ことば}}を{{r|有|ゆう}}するなり。{{r|捧神者|ほうしんしゃ}}の{{r|一人|いちにん}}は{{r|善|よ}}く{{r|言|い}}へり、{{r|信|しん}}ずる{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}に{{r|神|かみ}}を{{r|愛|あい}}するは、その{{r|生命|せいめい}}の{{r|亡|ほろ}}ぶる{{r|時|とき}}にも、{{r|充分|じゅうぶん}}の{{r|慰|なぐさ}}めなりと。その{{r|意|い}}{{r|言|い}}へらく、{{r|未来|みらい}}の{{r|幸福|こうふく}}の{{r|為|ため}}に{{r|現在|げんざい}}の{{r|快楽|かいらく}}とその{{r|安寧|あんねい}}とを{{r|軽|かろ}}んずる{{r|者|もの}}に{{r|患難|かんなん}}は{{r|何|なん}}の{{r|毀損|きそん}}をか{{r|被|こうむ}}らしむべきと。
 
{{r|兄弟|けいてい}}よ、{{r|予|よ}}は{{r|汝|なん}}に{{r|左|さ}}の{{r|誡命|かいめい}}を{{r|與|あた}}へんとす、{{r|汝|なん}}は{{r|世|よ}}に{{r|対|たい}}して{{r|憐憫|れんびん}}の{{r|心|こころ}}を{{r|有|ゆう}}するを{{r|自己|じこ}}に{{r|感|かん}}ずるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、{{r|矜恤|きょうじゅつ}}の{{r|重権|じゅうけん}}を{{r|常|つね}}に{{r|執|と}}るべしといふもの{{r|是|これ}}なり。{{r|我|われ}}らが{{r|慈悲|じひ}}{{r|心|しん}}は{{r|神|かみ}}の{{r|性|せい}}と{{r|神|かみ}}の{{r|実体|じったい}}とに{{r|存|そん}}する{{r|所|ところ}}の{{r|同形|どうけい}}とその{{r|真実|しんじつ}}なる{{r|状態|じょうたい}}とを{{r|我|われ}}ら{{r|自己|じこ}}の{{r|中|うち}}に{{r|見|み}}るが{{r|為|ため}}に{{r|鏡|かがみ}}となるべし。{{r|我|われ}}らは{{r|光明|こうめい}}なる{{r|意|い}}{{r|願|がん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|生涯|しょうがい}}に{{r|進|すす}}むが{{r|為|ため}}に、{{r|此|これ}}らのものを{{r|以|もっ}}て{{r|照明|しょうめい}}せられん。{{r|残忍|ざんにん}}にして{{r|無慈悲|むじひ}}なる{{r|心|こころ}}は{{r|決|けっ}}して{{r|浄潔|じょうけつ}}ならざらん。{{r|憐|あわれ}}み{{r|深|ふか}}き{{r|人|ひと}}は{{r|自己|じこ}}の{{r|医|い}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}は{{r|慾|よく}}の{{r|暗黒|あんこく}}を{{r|内部|ないぶ}}より{{r|一掃|いっそう}}すること、{{r|恰|あたか}}も{{r|烈風|れっぷう}}の{{r|如|ごと}}くなればなり。{{r|福音的|ふくいんてき}}{{r|生命|せいめい}}の{{r|言|ことば}}に{{r|依|よ}}るにこは{{r|吾人|ごじん}}が{{r|神|かみ}}に{{r|貸与|たいよ}}する{{r|善良|ぜんりょう}}なる{{r|債|おいめ}}なり。
 
{{r|臥榻|ねどこ}}に{{r|就|つ}}く{{r|時|とき}}は{{r|告|つ}}げて{{r|言|い}}ふべし、{{r|曰|いは}}く『{{r|臥榻|ねどこ}}よ、{{r|恐|おそ}}らくは{{r|汝|なん}}は{{r|是|この}}{{r|夜|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|予|よ}}が{{r|為|ため}}に{{r|棺|ひつぎ}}とならん、{{r|暫時|ざんじ}}の{{r|眠|ねむり}}に{{r|代|か}}へて{{r|永遠|えいえん}}なる{{r|未来|みらい}}の{{r|眠|ねむり}}の{{r|是|この}}{{r|夜|よ}}に{{r|於|おい}}て{{r|予|よ}}に{{r|来|きた}}る{{r|無|な}}きや{{r|否|いな}}やを{{r|知|し}}らず』と。{{r|故|ゆえ}}に{{r|汝|なん}}に{{r|足|あし}}のある{{r|間|あいだ}}に{{r|練修|れんしゅう}}を{{r|追逐|ついちく}}して、{{r|最早|もはや}}{{r|得|う}}べからざる{{r|連鎖|れんさ}}の{{r|為|ため}}に{{r|縛|しば}}らるるに{{r|先|さき}}だつべし。{{r|汝|なん}}に{{r|手|て}}のある{{r|間|あいだ}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|祈祷|きとう}}に{{r|釘|くぎ}}して、{{r|死|し}}の{{r|来|きた}}るに{{r|先|さき}}だつべし。{{r|汝|なん}}に{{r|目|め}}のある{{r|間|あいだ}}に{{r|涙|なみだ}}をこれに{{r|満|み}}たして、{{r|塵埃|じんあい}}に{{r|暗|くら}}まさるるに{{r|先|さき}}だつべし。{{r|薔薇|しょうび}}は{{r|僅|わずか}}に{{r|之|これ}}に{{r|向|むか}}つて{{r|風|かぜ}}の{{r|吹|ふ}}くあらば、{{r|凋|しぼ}}まん。かくの{{r|如|ごと}}く{{r|汝|なん}}の{{r|内部|ないぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|汝|なん}}の{{r|組織|そしき}}に{{r|入|い}}り{{r|来|きた}}る{{r|元行|げんこう}}の{{r|一|いつ}}に{{r|向|むか}}つて{{r|風|かぜ}}の{{r|吹|ふ}}くあらば、{{r|汝|なん}}は{{r|死|し}}せん。{{r|人|ひと}}よ{{r|死|し}}は{{r|臨|のぞ}}んで{{r|汝|なん}}の{{r|前|まえ}}に{{r|在|あ}}り、{{r|汝|なん}}{{r|之|これ}}をその{{r|心|こころ}}に{{r|思|おも}}ひ、{{r|不断|ふだん}}{{r|自己|じこ}}に{{r|告|つ}}げて{{r|言|い}}ふべし、{{r|曰|いは}}く『{{r|視|み}}よ、{{r|予|よ}}が{{r|為|ため}}に{{r|来|きた}}れる{{r|使者|ししゃ}}は{{r|最早|もはや}}{{r|戸|と}}の{{r|側|かたわら}}にあり。{{r|如何|いかん}}して{{r|予|よ}}は{{r|座|ざ}}すべきか、{{r|予|よ}}の{{r|移|うつ}}るは{{r|永遠|えいえん}}にして、{{r|復|ま}}た{{r|帰|かえ}}るあらず』と。
 
{{ul|ハリストス}}と{{r|対談|たいだん}}するを{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}は、{{r|遁世者|とんせいしゃ}}となるを{{r|愛|あい}}さん。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|衆人|しゅうじん}}と{{r|共|とも}}に{{r|居|お}}るを{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}は{{r|此世|このよ}}の{{r|友|とも}}なり。もし{{r|悔改|かいかい}}を{{r|愛|あい}}するならば、{{r|黙想|もくそう}}をも{{r|愛|あい}}すべし。けだし{{r|悔改|かいかい}}は{{r|黙想|もくそう}}{{r|以外|いがい}}に{{r|完全|かんぜん}}を{{r|遂|と}}ぐる{{r|能|あた}}はざればなり。もし{{r|誰|たれ}}か{{r|之|これ}}に{{r|抗言|こうげん}}するならば、{{r|彼|かれ}}と{{r|争|あらそ}}ふなかれ。もし{{r|黙想|もくそう}}、{{r|即|すなはち}}{{r|悔改|かいかい}}の{{r|母|はは}}を{{r|愛|あい}}するならば、{{r|黙想|もくそう}}の{{r|為|ため}}に{{r|汝|なん}}に{{r|傾注|けいちゅう}}する{{r|身|み}}の{{r|小害|しょうがい}}も、{{r|詰責|きっせき}}も、{{r|侮辱|ぶじょく}}も{{r|欣然|きんぜん}}として{{r|之|これ}}を{{r|愛|あい}}すべし。{{r|此|この}}{{r|予備|よび}}なくんば、{{r|乱|みだ}}されずして{{r|自由|じゆう}}に{{r|黙想|もくそう}}を{{r|守|まも}}るあたはざるべし。{{r|然|しか}}れども{{r|如上|じょじょう}}のものを{{r|軽|かろ}}んずるならば、{{r|神|かみ}}の{{r|旨|むね}}に{{r|依|よ}}り、{{r|黙想|もくそう}}に{{r|分|ぶん}}を{{r|有|ゆう}}するものとなりて、{{r|神|かみ}}の{{r|意|い}}に{{r|適|てき}}する{{r|丈|だけ}}{{r|黙想|もくそう}}を{{r|守|まも}}るを{{r|得|え}}ん。{{r|黙想|もくそう}}に{{r|固着|こちゃく}}するは{{r|不断|ふだん}}に{{r|死|し}}を{{r|待|ま}}つなり。{{r|此|こ}}の{{r|慮|おもんばか}}りなくして{{r|黙想|もくそう}}に{{r|就|つ}}く{{r|者|もの}}は{{r|悉|ことごと}}くの{{r|方法|ほうほう}}を{{r|用|もち}}ひて{{r|我|われ}}らの{{r|堪忍忍耐|かんにんにんたい}}するを{{r|要|よう}}するものを{{r|担|にな}}ふ{{r|能|あた}}はざるべし。
 
{{r|思慮|しりょ}}ある{{r|者|もの}}よ、{{r|己|おの}}が{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|幽静|ゆうせい}}なる{{r|居住|きょじゅう}}と、{{r|黙想|もくそう}}と、{{r|篭居|ろうきょ}}とを{{r|撰択|せんたく}}するは、{{r|条規|じょうき}}の{{r|外|ほか}}に{{r|出|い}}づる{{r|行為|こうい}}の{{r|為|ため}}に{{r|非|あら}}ず、{{r|又之|またこれ}}を{{r|遂|と}}げんとにも{{r|非|あら}}ざるを{{r|知|し}}るべし。けだし{{r|衆人|しゅうじん}}と{{r|交際|こうさい}}するは、{{r|身|み}}の{{r|勉励|べんれい}}の{{r|為|ため}}に{{r|多|お}}く{{r|助|たす}}くる{{r|所|ところ}}あるは、{{r|人々|ひとびと}}の{{r|知|し}}る{{r|所|ところ}}なり。されどもし{{r|此事|このこと}}が{{r|緊要|きんよう}}なりしならば、{{r|或|あ}}る{{r|神父|しんぷ}}らは{{r|人々|ひとびと}}と{{r|共|とも}}に{{r|居|お}}り、{{r|之|これ}}と{{r|交|まじ}}はるを{{r|棄|す}}てざりしなるべく、{{r|然|しか}}して{{r|或者|あるもの}}は{{r|墓畔|ぼはん}}に{{r|生活|せいかつ}}せざりしなるべく、{{r|又或者|またあるもの}}は{{r|幽静|ゆうせい}}の{{r|家|いえ}}に{{r|篭居|ろうきょ}}するを{{r|自|みづ}}から{{r|撰択|せんたく}}せざりしならん、{{r|然|しか}}るに{{r|彼|かれ}}らは{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|肉体|にくたい}}を{{r|大|おい}}に{{r|弱|よわ}}らし、{{r|之|これ}}をその{{r|課|か}}せられたる{{r|規則|きそく}}を{{r|遂行|すいこう}}する{{r|能|あた}}はざるに{{r|放棄|ほうき}}して、すべて{{r|出来得|できう}}る{{r|丈|だけ}}の{{r|薄弱|はくじゃく}}と、{{r|身体|しんたい}}の{{r|疲|ひ}}{{r|労|ろう}}と{{r|共|とも}}に{{r|彼|かれ}}らを{{r|捕|とら}}ふる{{r|重|おも}}き{{r|病|やまい}}を{{r|更|さら}}に{{r|喜|よろこ}}んで{{r|生涯忍耐|しょうがいにんたい}}し、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}らは{{r|己|おのれ}}の{{r|足|あし}}にて{{r|立|た}}つことも、{{r|或|あるい}}は{{r|通常|つうじょう}}の{{r|祈祷|きとう}}を{{r|為|な}}すことも、{{r|或|あるい}}はその{{r|口|くち}}にて{{r|讃栄|さんえい}}することも{{r|能|あた}}はざるのみならず、{{r|聖詠|せいえい}}{{r|或|あるい}}はその{{r|他|た}}{{r|身体|しんたい}}にて{{r|行|おこな}}ふ{{r|所|ところ}}のものを{{r|遂行|すいこう}}せざりしも、{{r|彼|かれ}}らは{{r|悉|ことごと}}くの{{r|規則|きそく}}に{{r|換|か}}えて、{{r|一|いつ}}の{{r|身体|しんたい}}の{{r|薄弱|はくじゃく}}と{{r|黙想|もくそう}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|充分|じゅうぶん}}となしたりき。かくの{{r|如|ごと}}くして{{r|彼|かれ}}らはその{{r|生命|いのち}}の{{r|日|ひ}}をすべて{{r|自|みづか}}ら{{r|送|おく}}りぬ。{{r|而|しか}}して{{r|此事|このこと}}の{{r|全|まった}}く{{r|無益|むえき}}なるものの{{r|如|ごと}}く{{r|見|み}}ゆるに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|彼|かれ}}らの{{r|中|うち}}{{r|一人|いちにん}}もその{{r|庵|いおり}}を{{r|棄|す}}つるを{{r|願|ねが}}はざりしのみならず、その{{r|規則|きそく}}を{{r|執行|しっこう}}せざるが{{r|故|ゆえ}}に、{{r|何|いづ}}れの{{r|所|ところ}}にか{{r|外|ほか}}に{{r|行|ゆ}}き、{{r|或|あるい}}は{{r|聖堂|せいどう}}に{{r|行|ゆ}}きて、{{r|他|た}}の{{r|聲音|せいおん}}と{{r|奉事|ほうじ}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|楽|たのし}}ましむることをも{{r|願|ねが}}はざりき。
 
{{r|己|おのれ}}の{{r|罪|つみ}}を{{r|感|かん}}じ{{r|始|はじ}}めたる{{r|者|もの}}は、{{r|人衆|じんしゅう}}{{r|稠密|ちゅうみつ}}の{{r|中|うち}}に{{r|居|きょ}}を{{r|有|ゆう}}し、{{r|祈祷|きとう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|死者|ししゃ}}を{{r|復活|ふっかつ}}せしむる{{r|者|もの}}より{{r|高|たか}}し。{{r|己|おの}}が{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|嘆息|たんそく}}して、{{r|一時間|いちじかん}}を{{r|送|おく}}る{{r|者|もの}}は、{{r|面会|めんかい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|全社会|ぜんしゃかい}}に{{r|益|えき}}を{{r|與|あた}}ふる{{r|者|もの}}より{{r|高|たか}}し。{{r|自|みづ}}から{{r|己|おのれ}}を{{r|見|み}}るを{{r|賜|たま}}はりし{{r|者|もの}}は、{{r|天使|てんし}}を{{r|見|み}}るを{{r|賜|たま}}はりし{{r|者|もの}}より{{r|高|たか}}し。けだし{{r|後者|こうしゃ}}は{{r|身体|しんたい}}の{{r|目|め}}を{{r|以|もっ}}て{{r|接|せっ}}すれども、{{r|前者|ぜんしゃ}}は{{r|心霊|しんれい}}の{{r|目|め}}を{{r|以|もっ}}て{{r|見|み}}ればなり。{{r|独居的|どっきょてき}}{{r|哀泣|あいきゅう}}を{{r|以|もっ}}て{{ul|ハリストス}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|者|もの}}は、{{r|集会|しゅうかい}}の{{r|中|うち}}に{{r|在|あ}}りて{{r|己|おのれ}}を{{r|頌讃|しょうさん}}せらるる{{r|者|もの}}より{{r|愈|まさ}}れり。{{r|何人|なんびと}}も{{r|左|さ}}の{{r|使徒|しと}}の{{r|言|ことば}}を{{r|此間|このあいだ}}に{{r|提出|ていしゅつ}}するなかれ、{{r|曰|いは}}く『{{r|我|われ}}は{{ul|ハリストス}}より{{r|絶|た}}たれんことをも{{r|亦|また}}{{r|或|あるい}}は{{r|願|ねが}}ふなり』と〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#9:3|ロマ九の三]]〕。{{ul|パウェル}}の{{r|力|ちから}}を{{r|受|う}}けし{{r|者|もの}}には{{r|此|これ}}を{{r|為|な}}すをも{{r|命|めい}}ぜられん。しかれども{{ul|パウェル}}が{{r|世|よ}}を{{r|益|えき}}する{{r|為|ため}}に、{{ul|パウェル}}に{{r|居|お}}る{{r|所|ところ}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|摂取|せっしゅ}}せられたることは、{{r|彼|かれ}}の{{r|自|みづ}}から{{r|證|しょう}}せし{{r|如|ごと}}く、{{r|自己|じこ}}の{{r|意|い}}のままに{{r|之|これ}}を{{r|為|な}}したるにあらざりき。けだし{{r|彼|かれ}}{{r|言|い}}ふ『{{r|我|わ}}が{{r|分|ぶん}}の{{r|為|な}}すべき{{r|所|ところ}}を{{r|傳|つた}}へずば{{r|我|われ}}は{{r|禍|わざわい}}なる{{r|哉|かな}}』〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#9:16|コリンフ前九の十六]]〕。されば{{ul|パウェル}}を{{r|選|えら}}びしは、{{r|彼|かれ}}に{{r|悔改|かいかい}}の{{r|方法|ほうほう}}を{{r|示|しめ}}さんが{{r|為|ため}}に{{r|非|あら}}ずして、{{r|人間|にんげん}}に{{r|福音|ふくいん}}を{{r|傳|つた}}へしめんためなり、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|大|おい}}に{{r|余|あまり}}ある{{r|能力|のうりょく}}を{{r|受|う}}けたりき。
 
さりながら{{r|兄弟|けいてい}}よ、{{r|我|われ}}らの{{r|心|こころ}}に{{r|世|よ}}が{{r|死|し}}する{{r|迄|まで}}は、{{r|我|われ}}らは{{r|黙想|もくそう}}を{{r|愛|あい}}せん。{{r|常|つね}}に{{r|死|し}}の{{r|事|こと}}を{{r|記憶|きおく}}し、{{r|此|これ}}を{{r|思|おも}}ふてその{{r|心|こころ}}は{{r|神|かみ}}に{{r|近|ちか}}づき、{{r|世|よ}}の{{r|虚|むな}}しきを{{r|軽|かろ}}んぜん、さらば{{r|世|よ}}の{{r|快楽|かいらく}}は{{r|我|われ}}らが{{r|眼中|がんちゅう}}に{{r|賤|いやし}}んぜらるべく、{{r|黙想|もくそう}}の{{r|不断|ふだん}}の{{r|寂寥|せきりょう}}を{{r|病体|びょうたい}}に{{r|於|おい}}て{{r|喜|よろこ}}んで{{r|忍耐|にんたい}}せん。{{r|巌穴|がんけつ}}と{{r|地|ち}}{{r|窟|くつ}}と〔[[ヘブル人への手紙(口語訳)#11:33|エウレイ(ヘブライ)十一の三十三]]〕に{{r|居|お}}りて、{{r|我|われ}}らが{{r|主|しゅ}}の{{r|光栄|こうえい}}なる{{r|黙示|もくし}}の{{r|天|てん}}より{{r|来|きた}}るを{{r|待|ま}}つ{{r|者|もの}}らと{{r|共|とも}}に{{r|楽|たのし}}みを{{r|享|う}}けん{{r|為|ため}}なり。
 
{{r|彼|かれ}}と{{r|彼|かれ}}の{{r|父|ちち}}と{{r|彼|かれ}}の{{r|聖神|せいしん}}とに{{r|光栄|こうえい}}、{{r|尊敬|そんけい}}、{{r|権柄|けんぺい}}{{r|及|およ}}び{{r|威|い}}{{r|厳|げん}}は{{r|世々|よよ}}に{{r|帰|き}}す。「アミン」。