「シリヤの聖イサアク全書/第三十七説教」の版間の差分

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<< {{r|神|かみ}}は{{r|何故|なにゆえ}}{{r|神|かみ}}を{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}に{{r|誘惑|ゆうわく}}を{{r|放任|ほうにん}}するか。 >>
 
{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}が{{r|神|かみ}}の{{r|名|な}}の{{r|為|ため}}に{{r|苦|くるしみ}}を{{r|受|う}}けて、その{{r|愛|あい}}を{{r|神|かみ}}にあらはしたるにより、{{r|神|かみ}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|困難|こんなん}}に{{r|留|とめ}}{{r|置|お}}くも、その{{r|愛|あい}}する{{r|所|ところ}}の{{r|者|もの}}より{{r|離|はな}}れざるときは、{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}の{{r|心|こころ}}は{{r|露|ろ}}{{r|面|めん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}を{{r|見|み}}るの{{r|勇|ゆう}}{{r|気|き}}を{{r|受|う}}け、{{r|希望|きぼう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}に{{r|求|もと}}めん。{{r|勇気|ゆうき}}ある{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}の{{r|力|ちから}}は{{r|大|おい}}なり。{{r|故|ゆえ}}に{{r|神|かみ}}の{{r|放任|ほうにん}}するは、その{{r|聖者|せいしゃ}}が{{r|種々|しゅじゅ}}の{{r|哀|かなし}}みを{{r|以|もっ}}て{{r|試|こころ}}みられん{{r|為|ため}}にして、{{r|之|これ}}と{{r|同|おなじ}}く{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|神|かみ}}の{{r|助|たすけ}}と{{r|神|かみ}}が{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|幾|いく}}ばく{{r|照管|しょうかん}}するとを{{r|実験|じっけん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|試知|しち}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|何|なん}}となれば、{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}に{{r|因|よ}}り{{r|尊敬|そんけい}}を{{r|受|うく}}るによる。{{r|之|これ}}を{{r|放任|ほうにん}}するは、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|無|む}}{{r|学|がく}}にして{{r|存|そん}}すれど{{r|彼|かれ}}と{{r|此|これ}}とに{{r|習|なら}}ふを{{r|奪|うば}}はれずして、{{r|経験|けいけん}}によりすべての{{r|為|ため}}に{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}を{{r|得|え}}て、{{r|魔鬼|まき}}より{{r|笑|わら}}はれざらん{{r|為|ため}}なり、{{r|何|なん}}となればもし{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}をただ{{r|善良|ぜんりょう}}なるものを{{r|以|もっ}}て{{r|試|こころ}}みたらんには{{r|他|た}}の{{r|部|ぶ}}{{r|分|ぶん}}に{{r|於|おい}}て{{r|学習|がくしゅう}}することが{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|欠乏|けつぼう}}し、{{r|戦闘|せんとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|盲目|めしい}}なるべきによる。
 
もし{{r|神|かみ}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|之|これ}}を{{r|識|し}}らしめずして、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|之|これ}}に{{r|習|なら}}はすと{{r|言|い}}ふならば、{{r|是|こ}}れ{{r|即|すなは}}ち{{r|神|かみ}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|牛|ぎゅう}}{{r|驢|ろ}}と{{r|同|どう}}{{r|視|し}}して、{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|自由|じゆう}}をも{{r|有|ゆう}}せざる{{r|者|もの}}と{{r|為|な}}さんを{{r|欲|ほっ}}すと{{r|言|い}}ふを{{r|意味|いみ}}するなり、{{r|人|ひと}}は{{r|先|ま}}づ{{r|悪|あく}}なるものの{{r|実験|じっけん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|試|こころ}}みられずんば、{{r|善|ぜん}}なるものに{{r|趣|しゅ}}{{r|味|み}}を{{r|有|ゆう}}せずして、{{r|善|ぜん}}なるものに{{r|遇|あ}}ふときは、{{r|認識|にんしき}}と{{r|自由|じゆう}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|之|これ}}を{{r|益用|えきよう}}すること{{r|自己|じこ}}の{{r|所有|しょゆう}}の{{r|如|ごと}}くせざるべし。{{r|経験|けいけん}}と{{r|練習|れんしゅう}}とにより、{{r|実際|じっさい}}に{{r|借来|かりきた}}れる{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}は{{r|如何|いか}}に{{r|愉|ゆ}}{{r|快|かい}}にして、{{r|久|ひさ}}しき{{r|経験|けいけん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|之|これ}}を{{r|自己|じこ}}に{{r|得|え}}たる{{r|者|もの}}に{{r|如何|いか}}なる{{r|力|ちから}}を{{r|與|あた}}ふるか、{{r|此事|このこと}}は{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|助|たすけ}}をも、{{r|同|おなじ}}く{{r|又|また}}{{r|天性|てんせい}}の{{r|劣弱|れつじゃく}}と{{r|神|かみ}}の{{r|力|ちから}}の{{r|助|たす}}けとをも{{r|経験|けいけん}}して{{r|之|これ}}を{{r|確信|かくしん}}したる{{r|者|もの}}は{{r|之|これ}}を{{r|認識|にんしき}}するなり。けだし{{r|神|かみ}}は{{r|先|ま}}づその{{r|力|ちから}}を{{r|止|とど}}めて{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|助|たす}}けず、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}をして{{r|天性|てんせい}}の{{r|無|む}}{{r|力|りょく}}と{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}の{{r|困難|こんなん}}と{{r|敵|てき}}の{{r|悪謀|あくぼう}}と、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}が{{r|何者|なにもの}}と{{r|戦|たたか}}ひて{{r|天性|てんせい}}に{{r|如何|いか}}なるものを{{r|衣|き}}ると、{{r|神|かみ}}の{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|如何|いか}}に{{r|保護|ほご}}せらるると、その{{r|路|みち}}を{{r|幾何|いくばく}}{{r|進行|しんこう}}すると、{{r|神|かみ}}の{{r|力|ちから}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|幾何|いくばく}}{{r|高|たか}}うすると、{{r|又|また}}{{r|此|この}}{{r|力|ちから}}が{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|遠|とお}}ざかるならば、{{r|慾|よく}}と{{r|戦|たたか}}ふに{{r|幾何|いくばく}}{{r|無|む}}{{r|力|りょく}}なるとを{{r|自|じ}}{{r|覚|かく}}せしむるならば、ただその{{r|時|とき}}に{{r|於|おい}}て{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|之|これ}}を{{r|認識|にんしき}}せん、{{r|因|よ}}りて{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|此|この}}すべてにより{{r|謙遜|けんそん}}を{{r|受|う}}けて、{{r|神|かみ}}に{{r|近|ちか}}づき、その{{r|助|たすけ}}を{{r|待|ま}}ちて、{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}を{{r|専|もっぱ}}ら{{r|務|つと}}むるを{{r|始|はじ}}むるなり。もし{{r|神|しん}}{{r|意|い}}により{{r|多|お}}くの{{r|悪|あく}}に{{r|陥|おちい}}りて{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|経験|けいけん}}を{{r|求|もとめ}}{{r|得|え}}ずんば、{{r|此|こ}}のすべてを{{r|何処|いづこ}}より{{r|借|か}}り{{r|来|きた}}るべきか、{{r|使徒|しと}}の{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いは}}く『{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}の{{r|至|し}}{{r|大|だい}}なるによりて{{r|我|わ}}が{{r|高|たか}}ぶらざらん{{r|為|ため}}に{{r|一|ひとつ}}の{{r|刺|とげ}}は{{r|我|わ}}が{{r|肉体|にくたい}}に{{r|與|あた}}へられたり、{{r|即|すなはち}}{{ul|サタナ}}の{{r|使|つかい}}なり』〔[[コリント人への第二の手紙(口語訳)#12:7|コリンフ十二の七]]〕。さりながら{{r|人|ひと}}は{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}に{{r|於|おい}}て{{r|神|かみ}}の{{r|助|たすけ}}を{{r|幾回|いくかい}}か{{r|実験|じっけん}}して、{{r|堅|かた}}き{{r|信仰|しんこう}}を{{r|求|もと}}め{{r|得|う}}べく、{{r|之|これ}}により{{r|恐|おそ}}れざるものとなるべく、その{{r|得|え}}たる{{r|練習|れんしゅう}}により{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}に{{r|勇敢|ゆうかん}}なることをも{{r|求|もと}}め{{r|得|う}}べし。
 
{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}は{{r|凡|すべて}}の{{r|人|ひと}}に{{r|益|えき}}あり、けだし{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}は{{ul|パウェル}}に{{r|益|えき}}あるときは『{{r|凡|およそ}}の{{r|口|くち}}{{r|塞|ふさ}}がり、{{r|世|よ}}は{{r|皆|みな}}{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|罪|つみ}}あるを{{r|到|いた}}す』〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#3:19|ロマ三の十九]]〕。{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}{{r|者|しゃ}}の{{r|試|こころ}}みらるるは{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}にその{{r|富|とみ}}を{{r|増|ま}}さん{{r|為|ため}}なり、{{r|衰弱|すいじゃく}}{{r|者|しゃ}}の{{r|試|こころ}}みらるるは{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}{{r|己|おのれ}}を{{r|有害|ゆうがい}}なるものより{{r|保護|ほご}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|睡眠|すいみん}}に{{r|耽|ふける}}{{r|者|もの}}の{{r|試|こころ}}みらるるは{{r|覚醒|かくせい}}に{{r|準|じゅん}}{{r|備|び}}せん{{r|為|ため}}なり、{{r|遠|とお}}く{{r|離|はな}}れし{{r|者|もの}}の{{r|試|こころ}}みらるるは{{r|神|かみ}}に{{r|近|ちか}}づかん{{r|為|ため}}なり、{{r|神|かみ}}に{{r|親|した}}しき{{r|者|もの}}の{{r|試|こころ}}みらるるは{{r|勇気|ゆうき}}を{{r|以|もっ}}て{{r|楽|たのし}}まん{{r|為|ため}}なり。{{r|凡|すべ}}て{{r|学|まな}}ばざる{{r|子|こ}}の{{r|父|ちち}}の{{r|家|いえ}}より{{r|富|とみ}}を{{r|受|うく}}るは、{{r|己|おのれ}}の{{r|助|たすけ}}とならざらん。{{r|此|これ}}により{{r|神|かみ}}は{{r|先|ま}}づ{{r|疲|つか}}らして、その{{r|後|のち}}{{r|賜|たまもの}}を{{r|施|ほどこ}}す。{{r|苦|にが}}き{{r|薬|くすり}}を{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|健康|けんこう}}を{{r|楽|たのし}}むを{{r|得|う}}べからしむる{{r|主宰|しゅさい}}に{{r|光栄|こうえい}}は{{r|帰|き}}す。