「シリヤの聖イサアク全書/第二十九説教」の版間の差分

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<< {{r|知識|ちしき}}の{{r|他|た}}の{{r|方法|ほうほう}}と{{r|其|その}}{{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|意味|いみ}}。 >>
 
{{r|有形|ゆうけい}}なるものを{{r|学|まな}}び、{{r|或|あるい}}は{{r|有形|ゆうけい}}なるものより{{r|傳|つた}}へらるるを{{r|五官|ごかん}}にて{{r|受|うく}}る{{r|知識|ちしき}}は、{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}{{r|的|てき}}{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}と{{r|名|な}}づけらるるなり。{{r|然|しか}}して{{r|思想|しそう}}する{{r|者|もの}}の{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|無|む}}{{r|形|けい}}なる{{r|霊物|れいぶつ}}の{{r|性|せい}}を{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|学|まな}}ぶ{{r|知識|ちしき}}は{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}と{{r|名|な}}づけらるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|精神|せいしん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|感受|かんじゅ}}して、{{r|五官|ごかん}}を{{r|以|もっ}}てせざればなり、{{r|而|しか}}して{{r|此|この}}{{r|二種類|にしゅるい}}はその{{r|観察|かんさつ}}の{{r|時|とき}}に{{r|際|さい}}し、{{r|外|そと}}より{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|来|きた}}るなり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|與|あた}}へらるる{{r|知識|ちしき}}は{{r|超自然的|ちょうしぜんてき}}と{{r|名|な}}づけられ、{{r|殊|こと}}に{{r|不可思議|ふかしぎ}}なるものにして、{{r|知識|ちしき}}よりは{{r|一層上|いっそううえ}}にあり。{{r|而|しか}}して{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}の{{r|直覚|ちょっかく}}を{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|受|うく}}るは、{{r|初|はじ}}め{{r|二|に}}{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}に{{r|於|おけ}}る{{r|如|ごと}}く{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|外|ほか}}にある{{r|物体|ぶったい}}より{{r|之|これ}}を{{r|受|うく}}るにあらず、{{r|却|かえっ}}て{{r|此|この}}{{r|直覚|ちょっかく}}は{{r|自己|じこ}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|物体|ぶったい}}に{{r|拘|かか}}はらず、{{r|忽然|こつぜん}}、{{r|迅速|じゅんそく}}、{{r|且|かつ}}は{{r|望外|ぼうがい}}にその{{r|内面|ないめん}}より{{r|顕|あら}}はれ{{r|来|きた}}るなり、{{r|何|なん}}となれば{{ul|ハリストス}}の{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}く『{{r|天国|てんごく}}は{{r|汝|なん}}らの{{r|衷|うち}}にあり』〔[[ルカによる福音書(口語訳)#17:21|ルカ十七の二十一]]〕、{{r|前表|ぜんひょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|希望|きぼう}}を{{r|養|やしな}}ふによるに{{r|非|あら}}ず、{{r|顕然|けんぜん}}として{{r|来|きた}}るにあらず、{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|智力|ちりょく}}に{{r|印|いん}}せられたる{{r|形象|けいしょう}}の{{r|内部|ないぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|思|おも}}ふことなく{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}に{{r|顕|あら}}はるるなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|智|ち}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|於|おい}}て{{r|物体|ぶったい}}を{{r|尋|たづ}}ぬるに{{r|非|あら}}ざればなり。
 
{{r|第一|だいいち}}の{{r|知識|ちしき}}は{{r|不断|ふだん}}の{{r|研究|けんきゅう}}と{{r|勉焉|べんえん}}たる{{r|学習|がくしゅう}}の{{r|結果|けっか}}なり、{{r|第二|だいに}}は{{r|良善|りょうぜん}}なる{{r|生涯|しょうがい}}と{{r|合理的|ごうりてき}}{{r|信仰|しんこう}}の{{r|結果|けっか}}なり、{{r|然|しか}}して{{r|第三|だいさん}}は{{r|唯一|ゆいいつ}}の{{r|信仰|しんこう}}に{{r|[[wikt:&#x9B2E;|&#x4C17;]]|くじ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|與|あた}}へらる、{{r|何|なん}}となれば{{r|信仰|しんこう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|知識|ちしき}}は{{r|空|むなし}}うせられ、{{r|活動|かつどう}}は{{r|終|おわり}}を{{r|告|つ}}げ、{{r|五感|ごかん}}は{{r|贅物|ぜいぶつ}}となりて{{r|不用|ふよう}}に{{r|属|ぞく}}すればなり。ゆえに{{r|此|この}}{{r|界限|かいげん}}より{{r|降|くだ}}れば{{r|降|くだ}}る{{r|程|ほど}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|尊|たっと}}ばるべくして、いよいよ{{r|降|くだ}}ればいよいよ{{r|尊|たっと}}ばるべし。{{r|而|しか}}して{{r|地|ち}}と{{r|地|ち}}に{{r|属|ぞく}}するものに{{r|達|たっ}}する{{r|時|とき}}は、{{r|知識|ちしき}}は{{r|悉|ことごと}}くを{{r|管理|かんり}}し、{{r|知識|ちしき}}なくんばすべての{{r|行為|こうい}}は{{r|悪|あ}}しく{{r|且|かつ}}{{r|不十分|ふじゅうぶん}}なるべし。しかれども{{r|霊魂|れいこん}}がその{{r|直覚|ちょっかく}}を{{r|高|たか}}く{{r|挙|あ}}げ、その{{r|概念|がいねん}}を{{r|上天|じょうてん}}の{{r|事|こと}}に{{r|及|およ}}ぼして、{{r|有形|ゆうけい}}の{{r|目|め}}に{{r|見|み}}えざるものと{{r|肉体|にくたい}}の{{r|権|けん}}にあらざるものとを{{r|考|かんが}}ふる{{r|時|とき}}は、すべては{{r|信仰|しんこう}}により{{r|組織|そしき}}せらるべくして『{{r|世々|よよ}}に{{r|讃美|さんび}}せらるる』〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#9:5|ロマ九の五]]〕{{r|主|しゅ}}{{ul|イイスス}} {{ul|ハリストス}}は{{r|此|この}}{{r|信仰|しんこう}}を{{r|我|われ}}らに{{r|賜|たま}}ふべし。「アミン」。