「シリヤの聖イサアク全書/第二十八説教」の版間の差分

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{{r|聴|き}}くべし、{{r|人|ひと}}はいよいよ{{r|練修|れんしゅう}}し、{{r|神|しん}}に{{r|属|ぞく}}するものを{{r|受|う}}けて、その{{r|生涯|しょうがい}}を{{r|見|み}}えざる{{r|天軍|てんぐん}}と{{r|匹|ひつ}}{{r|似|じ}}し{{r|得|う}}ることを、けだし{{r|天軍|てんぐん}}の{{r|勤|つとめ}}を{{r|行|おこな}}ふは、{{r|感覚|かんかく}}{{r|上|じょう}}に{{r|行|おこな}}はるる{{r|行為|こうい}}を{{r|以|もっ}}てするには{{r|非|あら}}ずして、{{r|智慮|ちりょ}}により{{r|成|な}}る{{r|所|ところ}}のものに{{r|於|おい}}てするなり。{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}が{{r|地|ち}}に{{r|属|ぞく}}するものと、{{r|地|ち}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|行為|こうい}}の{{r|慮|おもんばかり}}より{{r|高|たか}}く{{r|昇|のぼ}}せられ、{{r|内部|ないぶ}}に{{r|隠|かく}}れて{{r|眼目|がんもく}}の{{r|達|たっ}}せざるものを{{r|思念|しねん}}するを{{r|試|こころ}}み、{{r|慾|よく}}の{{r|放蕩|ほうとう}}の{{r|起|おこ}}るべきものを{{r|或|あ}}る{{r|方法|ほうほう}}により{{r|軽|かろ}}んじて、{{r|天|てん}}に{{r|向|むか}}ひ、{{r|信仰|しんこう}}に{{r|従|したが}}つて{{r|来世|らいせい}}を{{r|慮|おもんばか}}り、{{r|我|われ}}らに{{r|約束|やくそく}}せられしものを{{r|願望|がんぼう}}して、{{r|不可思議|ふかしぎ}}なる{{r|奥義|おうぎ}}を{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|時|とき}}は{{r|信仰|しんこう}}そのものは{{r|此|この}}{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}を{{r|呑|の}}み、{{r|之|これ}}を{{r|変|へん}}{{r|化|か}}して、{{r|新|あらた}}に{{r|之|これ}}を{{r|生|う}}まん、{{r|因|よ}}りてその{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}は{{r|全|まった}}く{{r|神|しん}}となるを{{r|致|いた}}す。
 
その{{r|時|とき}}{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}は{{r|思想|しそう}}に{{r|属|ぞく}}すると{{r|感覚|かんかく}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|本体|ほんたい}}の{{r|性|せい}}を{{r|統治|とうぢ}}する{{r|神妙|しんみょう}}{{r|不可思議|ふかしぎ}}なる{{r|働|はたらき}}を{{r|智力|ちりょく}}にて{{r|想像|そうぞう}}しつつ{{r|無|む}}{{r|形|けい}}なる{{r|者|もの}}の{{r|範囲|はんい}}に{{r|羽|う}}{{r|翼|よく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|高翔|こうしょう}}し、{{r|触|ふ}}るる{{r|能|あた}}はざる{{r|洋海|ようかい}}の{{r|深|ふか}}きに{{r|関係|かんけい}}するを{{r|得|え}}て、{{r|単純|たんじゅん}}にして{{r|機微|きび}}なる{{r|智力|ちりょく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|曉|さと}}り{{r|得|え}}らるべき{{r|霊界|れいかい}}の{{r|奥義|おうぎ}}を{{r|探|さぐ}}らん。その{{r|時|とき}}は{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}は{{r|彼|か}}の{{r|不死|ふし}}{{r|不朽|ふきゅう}}の{{r|生命|せいめい}}に{{r|存|そん}}する{{r|所|ところ}}の{{r|秩序|ちつじょ}}にしたがひて{{r|霊的|れいてき}}{{r|活動|かつどう}}の{{r|為|ため}}に{{r|覚醒|かくせい}}せられん、{{r|何|なん}}となれば{{r|猶|な}}{{r|此処|このところ}}に{{r|於|おい}}ても{{r|思|し}}{{r|想|そう}}{{r|上|じょう}}の{{r|復活|ふっかつ}}を{{r|奥密|おうみつ}}に{{r|受|うく}}るものの{{r|如|ごと}}く、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|一般|いっぱん}}の{{r|復新|ふくしん}}の{{r|真證|しんしょう}}となせばなり。
 
{{r|視|み}}よ、{{r|是|こ}}れ{{r|知識|ちしき}}の{{r|三|みつ}}の{{r|方法|ほうほう}}にして{{r|体|たい}}と{{r|霊|れい}}と{{r|神|しん}}とに{{r|於|おけ}}る{{r|人|ひと}}の{{r|一切|いっさい}}の{{r|経過|けいか}}は{{r|之|これ}}と{{r|結合|けつごう}}せらるるを。{{r|人|ひと}}が{{r|悪|あく}}を{{r|善|ぜん}}より{{r|別|わか}}ち{{r|始|はじ}}むる{{r|時|とき}}より{{r|此|この}}{{r|世|よ}}を{{r|出|い}}づるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}、人の{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|知識|ちしき}}は{{r|此|こ}}の{{r|三|みつ}}の{{r|程度|ていど}}に{{r|存|そん}}す。{{r|既|すで}}に{{r|述|の}}べたる{{r|如|ごと}}く、{{r|三|みつ}}の{{r|程度|ていど}}に{{r|於|おけ}}る{{r|一|ひとつ}}の{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}はすべての{{r|不義|ふぎ}}{{r|不法|ふほう}}の{{r|充満|じゅうまん}}をも、{{r|義|ぎ}}の{{r|充満|じゅうまん}}をも、{{r|精神|せいしん}}のすべての{{r|秘|ひ}}{{r|密|みつ}}の{{r|深|ふか}}きに{{r|関|かん}}するものをも{{r|生|しょう}}ずべくして、{{r|或|あるい}}は{{r|善|ぜん}}に{{r|昇|のぼ}}るべく、{{r|或|あるい}}は{{r|悪|あく}}に{{r|降|くだ}}るべく、{{r|或|あるい}}は{{r|善|ぜん}}と{{r|悪|あく}}の{{r|中間|ちゅうかん}}にある{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}の{{r|悉|ことごと}}くの{{r|活動|かつどう}}は{{r|此|この}}{{r|中|うち}}に{{r|在|あ}}るなり。{{r|此|これ}}らの{{r|程度|ていど}}を{{r|諸|しょ}}{{r|神父|しんぷ}}は{{r|名|な}}づけて{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}{{r|的|てき}}、{{r|反|はん}}{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}{{r|的|てき}}、{{r|及|およ}}び{{r|超|ちょう}}{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}{{r|的|てき}}といふ。これ{{r|三|みつ}}の{{r|方針|ほうしん}}にして、{{r|聡明|そうめい}}なる{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|記憶|きおく}}は{{r|之|これ}}により{{r|或|あるい}}は{{r|昇|のぼ}}るべく、{{r|或|あるい}}は{{r|降|くだ}}るべくして、{{r|既|すで}}に{{r|述|の}}べたる{{r|如|ごと}}く、{{r|人|ひと}}は{{r|或|あるい}}は{{r|自然|しぜん}}により{{r|義|ぎ}}を{{r|為|な}}すべく、{{r|或|あるい}}はその{{r|記憶|きおく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|自然|しぜん}}より{{r|高|たか}}く{{r|取|とり}}{{r|去|さ}}られて、{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}{{r|以|い}}{{r|外|がい}}に{{r|神|かみ}}を{{r|直覚|ちょっかく}}すべく、{{r|或|あるい}}は{{r|出|い}}でて{{r|豚|ぶた}}を{{r|牧|ぼく}}すること{{r|彼|か}}の{{r|魔鬼|まき}}の{{r|群|むれ}}と{{r|共|とも}}に{{r|働|はたら}}きて{{r|思慮|しりょ}}{{r|分別|ふんべつ}}の{{r|富|とみ}}を{{r|費|ついや}}したる{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}くならん。
 
::{{r|三|みつ}}の{{r|知識|ちしき}}に{{r|就|つき}}て{{r|述|の}}べたる{{r|事|こと}}の{{r|要略|ようりゃく}}
{{r|知識|ちしき}}の第一の{{r|級|きゅう}}は{{r|神|かみ}}に{{r|進行|しんこう}}する{{r|行為|こうい}}の{{r|為|ため}}に{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|冷|ひややか}}にせん。第二の{{r|級|きゅう}}は{{r|信仰|しんこう}}の{{r|階段|かいだん}}にあるものに{{r|速|すみやか}}に{{r|進行|しんこう}}するが{{r|為|ため}}に{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|暖|あたた}}めん。第三の{{r|級|きゅう}}は{{r|活動|かつどう}}を{{r|休|きゅう}}{{r|止|し}}して、{{註|これ未来の状態なり}}{{r|未|み}}{{r|来|らい}}の{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}を{{r|楽|たのし}}む{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}の{{r|独一|どくいつ}}{{r|練習|れんしゅう}}なり。さりながら{{r|性|せい}}は{{r|死者|ししゃ}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|状態|じょうたい}}と、{{r|肉体|にくたい}}の{{r|重|おも}}きとより{{r|高挙|こうきょ}}せられて、{{r|他|た}}の{{r|乖|かい}}{{r|離|り}}する{{r|知識|ちしき}}より{{r|一層|いっそう}}{{r|上|うえ}}なる{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}を{{r|以|もっ}}て{{r|成全|せいぜん}}せらるることは{{r|未|いま}}だ{{r|全|まった}}く{{r|能|あた}}はざる{{r|如|ごと}}く、{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}も{{r|欠点|けってん}}を{{r|有|ゆう}}せざる{{r|完全|かんぜん}}の{{r|為|ため}}に{{r|勤|つと}}むることも、{{r|世|よ}}の{{r|為|ため}}に{{r|死|し}}することも、{{r|肉体|にくたい}}の{{r|性|せい}}を{{r|全|まった}}く{{r|棄|す}}つることも{{r|能|あた}}はざるなり。しかして{{r|人|ひと}}は{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|お}}る{{r|間|あいだ}}は{{r|此|これ}}より{{r|彼|かれ}}に{{r|移|うつ}}る{{r|過渡|かと}}の{{r|状態|じょうたい}}にあり。{{r|或|あるい}}は{{r|人|ひと}}の{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|貧|ひん}}にして{{r|一物|いつもつ}}なき{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く、{{r|性中|せいちゅう}}に{{r|賦|ふ}}されたる{{r|道徳|どうとく}}の第二の{{r|級|きゅう}}なる{{r|中間|ちゅうかん}}の{{r|級|きゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|勤|つとめ}}を{{r|行|おこな}}ふを{{r|俄|にわか}}に{{r|始|はじ}}め、{{r|身体|しんたい}}の{{r|性|せい}}の{{r|助|たすけ}}によりて{{r|為|な}}すあるべく、{{r|或|あるい}}は{{r|子|こ}}たるの{{r|神|しん}}を{{r|受|う}}けし{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く{{r|自|じ}}{{r|由|ゆう}}の{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}に{{r|止|とどま}}り、{{r|價|か}}{{r|値|ちょく}}に{{r|循|したが}}ひて{{r|與|あた}}ふる{{r|者|もの}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|楽|たのし}}みて、その{{r|行|こう}}{{r|為|い}}の{{r|謙遜|けんそん}}に{{r|新|あらた}}に{{r|帰|かえ}}らん、これ{{r|身体|しんたい}}の{{r|助|たすけ}}によりて{{r|行|おこな}}はるる{{r|行為|こうい}}なり。{{r|而|しか}}して{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|此|これ}}らを{{r|守|まも}}るは、{{r|敵|てき}}をして{{r|此|この}}{{r|悪世|あくせい}}に{{r|於|おい}}て{{r|得|う}}る{{r|所|ところ}}の{{r|餌|えば}}を{{r|以|もっ}}ても、{{r|同|おなじ}}く{{r|亦|また}}{{r|錯乱|さくらん}}せる{{r|[[wikt:偏|偏]]|へん}}{{r|[[wikt:頗|頗]]|ば}}の{{r|思|おもい}}を{{r|以|もっ}}ても、{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|捕|とら}}へしめざらん{{r|為|ため}}なり。{{r|蓋|けだ}}し人は{{r|肉体|にくたい}}の{{r|戸|と}}の{{r|帷|い}}{{r|幕|まく}}の{{r|中|うち}}に{{r|閉|とじ}}{{r|籠|こ}}めらるる{{r|間|あいだ}}は、{{r|希望|きぼう}}を{{r|有|ゆう}}せざるなり。けだし{{r|不|ふ}}{{r|完全|かんぜん}}なる{{r|世|よ}}に{{r|完全|かんぜん}}の{{r|自|じ}}{{r|由|ゆう}}あるなし。すべて{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|為|な}}す{{r|所|ところ}}は{{r|活動|かつどう}}と{{r|連綿|れんめん}}として{{r|已|や}}まざる{{r|研修|けんしゅう}}とにあれども、{{r|信仰|しんこう}}の{{r|為|な}}す{{r|所|ところ}}は{{r|動|どう}}{{r|作|さ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|行|おこな}}はるるには{{r|非|あら}}ずして、{{r|純|もっぱ}}ら{{r|心霊|しんれい}}{{r|上|じょう}}の{{r|活動|かつどう}}により{{r|心神|しんしん}}の{{r|智|ち}}{{r|的|てき}}{{r|想像|そうぞう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|実行|じっこう}}せらるるなり、ゆえに{{r|彼|かれ}}は{{r|感覚|かんかく}}よりは{{r|極|きわ}}めて{{r|高|たか}}し。けだし{{r|信仰|しんこう}}は{{r|知識|ちしき}}より{{r|精|せい}}{{r|微|び}}なること、{{r|知識|ちしき}}は{{r|感覚|かんかく}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|物|もの}}より{{r|精|せい}}{{r|微|び}}なる{{r|如|ごと}}し。{{r|此|こ}}の{{r|行為|こうい}}〔{{r|即|すなは}}ち{{r|神|かみ}}に{{r|大悦|たいえつ}}すること〕を{{r|得|う}}るを{{r|賜|たま}}はりし{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}は{{r|信仰|しんこう}}の{{r|力|ちから}}により{{r|彼|か}}の{{r|超|ちょう}}{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}なる{{r|行|こう}}{{r|為|い}}の{{r|楽|たのし}}みに{{r|居|お}}るなり。
 
{{r|知|し}}るべし{{r|信仰|しんこう}}とは{{r|崇拝|そうはい}}せらるべき{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|実在|じつざい}}と、{{r|神体|しんたい}}その{{r|者|もの}}のすべてに{{r|超絶|ちょうぜつ}}する{{r|特別|とくべつ}}なる{{r|性|せい}}と、{{r|我|われ}}らが{{r|性|せい}}を{{r|受|う}}けて{{r|肉体|にくたい}}となれる{{r|不可思議|ふかしぎ}}なる{{r|摂理|せつり}}〔{{r|此|こ}}の{{r|信仰|しんこう}}は{{r|極|きわ}}めて{{r|高|たか}}しといへども〕との{{r|差別|さべつ}}に{{r|関|かん}}して{{r|人|ひと}}の{{r|有|ゆう}}するものを{{r|言|い}}ふにはあらず、{{r|却|かえっ}}て{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|光|ひかり}}により{{r|霊底|れいてい}}に{{r|輝|かがや}}き、{{r|智力|ちりょく}}の{{r|證明|しょうめい}}により{{r|心|こころ}}を{{r|堅|かた}}めて、{{r|何|なに}}らの{{r|疑念|ぎねん}}にも{{r|遠|とお}}ざかる{{r|希望|きぼう}}の{{r|確実|かくじつ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|動揺|どうよう}}せざる{{r|信念|しんねん}}を{{r|言|い}}ふなり。{{r|而|しか}}して{{r|此|この}}{{r|信仰|しんこう}}は{{r|耳|みみ}}に{{r|聞|き}}くことの{{r|増|ぞう}}{{r|加|か}}により{{r|顕|あら}}はるるには{{r|非|あら}}ずして、{{r|霊底|れいてい}}に{{r|隠|かく}}るる{{r|奥|おう}}{{r|秘|ひ}}を{{r|見|み}}ると、{{r|肉体|にくたい}}の{{r|子|こ}}の{{r|目|め}}には{{r|隠|かく}}るれども、{{ul|ハリストス}}の{{r|法|ほう}}を{{r|学|まな}}びて、{{ul|ハリストス}}の{{r|晩餐|ばんさん}}により{{r|養|やしな}}はるる{{r|者|もの}}には{{r|神|しん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}せらるる{{r|不可|ふか}}{{r|見|けん}}{{r|神妙|しんみょう}}なる{{r|富|とみ}}を{{r|見|み}}る{{r|心神|しんしん}}の{{r|目|め}}に{{r|顕|あら}}はるるなり、{{r|主|しゅ}}の{{r|言|い}}ひし{{r|如|ごと}}し、もし{{r|我|わ}}が{{r|誡|いましめ}}を{{r|守|まも}}らば、{{r|汝|なん}}らに{{r|撫|ぶ}}{{r|恤|じゅつ}}{{r|者|しゃ}}、{{r|真実|しんじつ}}の{{r|神|しん}}を{{r|遣|つか}}はさん、{{r|世|よ}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|接|う}}くる{{r|能|あた}}はず、{{r|彼|かれ}}は{{r|凡|およそ}}の{{r|真理|しんり}}を{{r|汝|なん}}らに{{r|教|おし}}へん〔[[ヨハネによる福音書(口語訳)#14:17|イオアン十四の十七、二十六]]〕。{{r|彼|かれ}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|人|ひと}}に{{r|居|お}}る{{r|此|この}}{{r|聖|せい}}なる{{r|力|ちから}}と、{{r|常|つね}}に{{r|人|ひと}}を{{r|庇|お}}ふ{{r|此|この}}{{r|庇蔭|おい}}と、すべての{{r|有害|ゆうがい}}なるものを{{r|人|ひと}}より{{r|反拒|はんきょ}}して、{{r|霊魂|れいこん}}にも{{r|身体|しんたい}}にも{{r|之|これ}}を{{r|近|ちか}}づかしめざる{{r|此|この}}{{r|思想|しそう}}の{{r|堅|かた}}きとを人に{{r|指示|さししめ}}す。{{r|清明|せいめい}}にして{{r|霊妙|れいみょう}}なる{{r|智|ち}}は、{{r|信仰|しんこう}}の{{r|目|め}}を{{r|以|もっ}}て{{r|此|この}}{{r|力|ちから}}を{{r|冥々|めいめい}}に{{r|感知|かんち}}すべくして、{{r|此|この}}{{r|力|ちから}}は{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}に{{r|於|おい}}ては{{r|殊|こと}}に{{r|之|これ}}を{{r|実験上|じっけんじょう}}に{{r|領|う}}けて{{r|認識|にんしき}}するなり。
 
しかれども{{r|此|この}}{{r|力|ちから}}は{{r|信念|しんねん}}の{{r|強|つよ}}きを{{r|以|もっ}}て{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|諸部|しょぶ}}を{{r|焼|や}}くに{{r|火|ひ}}を{{r|以|もっ}}てする{{r|如|ごと}}くなる{{r|撫|ぶ}}{{r|恤|じゅつ}}{{r|者|しゃ}}{{r|自|みづ}}からなり。ゆえに{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|神|かみ}}を{{r|望|のぞ}}み、{{r|突進|とっしん}}して{{r|如何|いか}}なる{{r|危難|きなん}}をも{{r|軽|かろ}}んじ、{{r|信仰|しんこう}}の{{r|翼|つばさ}}に{{r|乗|の}}り{{r|有形|ゆうけい}}{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|上|うえ}}に{{r|高|たか}}く{{r|挙|あ}}げられて、{{r|常|つね}}に{{r|酩酊|めいてい}}する{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}くなり、{{r|智|ち}}は{{r|神|かみ}}の{{r|測|はか}}る{{r|可|べか}}らざるものを{{r|学|まな}}ぶに{{r|謹慎|きんしん}}{{r|注意|ちゅうい}}するものとならんことを{{r|習|なら}}ひつつ、{{r|神|かみ}}の{{r|照看|しょうかん}}に{{r|驚愕|きょうがく}}し、{{r|神|かみ}}の{{r|性|せい}}を{{r|悟|さと}}る{{r|純然|じゅんぜん}}なる{{r|直覚|ちょっかく}}と{{r|冥々|めいめい}}なる{{r|観察|かんさつ}}とをなさん。けだし{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}を{{r|成|な}}す{{r|者|もの}}の{{r|来|きた}}りて{{r|顕然|けんぜん}}と{{r|之|これ}}を{{r|啓示|けいし}}するを{{r|賜|たま}}ふに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、{{r|信仰|しんこう}}は{{r|神|かみ}}と{{r|聖者|せいしゃ}}との{{r|間|あいだ}}に{{r|言|い}}ふ{{r|可|べか}}らざる{{r|機|き}}{{r|密|みつ}}の{{r|執行|しっこう}}を{{r|務|つと}}むべく、{{ul|ハリストス}}の{{r|恩寵|おんちょう}}により、{{r|我|われ}}らも{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}に{{r|於|おい}}て{{r|之|これ}}を{{r|賜|たま}}はること{{r|聘|へい}}{{r|質|ち}}の{{r|如|ごと}}くならん、しかれどもその{{r|真正|しんせい}}{{r|現実|げんじつ}}に{{r|至|いたり}}ては、{{r|彼処|かしこ}}に{{ul|ハリストス}}を{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}と{{r|共|とも}}に{{r|天国|てんごく}}に{{r|於|おい}}て{{r|之|これ}}を{{r|賜|たま}}はらん。「アミン」。