「シリヤの聖イサアク全書/第二十七説教」の版間の差分

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<< {{r|知識|ちしき}}の{{r|第|だい}}{{r|二|に}}{{r|階級|かいきゅう}}。 >>
 
{{r|人|ひと}}が{{r|第一|だいいち}}の{{r|級|きゅう}}を{{r|棄|す}}てて{{r|真実|しんじつ}}なる{{r|思慮|しりょ}}と{{r|願望|がんぼう}}とに{{r|占有|せんゆう}}せらるるときは、{{r|霊性|れいせい}}の{{r|光|ひかり}}により、{{r|身体|しんたい}}の{{r|官能|かんのう}}を{{r|以|もっ}}ても、{{r|預|あらかじ}}め{{r|経画|けいかく}}せる{{r|左|さ}}の{{r|卓越|たくえつ}}なる{{r|行為|こうい}}を{{r|成|な}}さん{{r|即|すなはち}}{{r|禁食|きんしょく}}なり、{{r|祈祷|きとう}}なり、{{r|[[wikt:矜恤|矜恤]]|きょうじゅつ}}なり、{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|書|しょ}}を{{r|読|よ}}むなり、{{r|道徳|どうとく}}{{r|上|じょう}}の{{r|生活|せいかつ}}なり、{{r|慾|よく}}と{{r|闘|たたか}}ふなり{{r|云々|うんぬん}}。けだしすべて{{r|善|ぜん}}なる{{r|行|こう}}{{r|為|い}}と、{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|発見|はっけん}}せらるべきすべての{{r|美|び}}なる{{r|特質|とくしつ}}と、{{ul|ハリストス}}の{{r|庭|にわ}}に{{r|於|おい}}て{{r|奉|ほう}}{{r|事|じ}}に{{r|充|あ}}てらるる{{r|神妙|しんみょう}}なる{{r|方法|ほうほう}}とは、{{r|此|こ}}の{{r|知識|ちしき}}の{{r|第二|だいに}}の{{r|級|きゅう}}に{{r|於|おい}}てその{{r|力|ちから}}の{{r|活動|かつどう}}により、{{r|聖神|せいしん}}は{{r|之|これ}}を{{r|成就|じょうじゅ}}せしむるなり。{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|我|われ}}らを{{r|信仰|しんこう}}にみちびく{{r|経|けい}}{{r|路|ろ}}を{{r|心|こころ}}に{{r|指示|さししめ}}して、{{r|来世|らいせい}}の{{r|為|ため}}に{{r|旅装|りょそう}}を{{r|支度|したく}}せしめん。さりながら{{r|此|ここ}}に{{r|於|おい}}ても{{r|知識|ちしき}}は{{r|尚|なお}}{{r|外形的|がいけいてき}}なり、{{r|複雑的|ふくざつてき}}なり。{{r|彼|かれ}}はただ{{r|我|われ}}らをみちびきて{{r|信仰|しんこう}}に{{r|送|そう}}{{r|致|ち}}する{{r|途|みち}}なるのみ。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|知識|ちしき}}の{{r|更|さら}}に{{r|高上|こうじょう}}なる{{r|階級|かいきゅう}}のあるあり。もし{{r|誰|たれ}}か{{r|大|おい}}に{{r|発達|はったつ}}し、{{r|黙想|もくそう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|人々|ひとびと}}に{{r|遠|とお}}ざかると、{{r|聖書|せいしょ}}を{{r|読|よ}}むと、{{r|祈祷|きとう}}とその{{r|他|た}}すべて{{r|第二|だいに}}の{{r|知識|ちしき}}に{{r|関|かん}}するものの{{r|成就|じょうじゅ}}せらるべき{{r|善|ぜん}}なる{{r|行為|こうい}}とにその{{r|活動|かつどう}}の{{r|基|もとい}}を{{r|据|す}}えるときは{{ul|ハリストス}}の{{r|助|たすけ}}により、{{r|彼|か}}の{{r|階級|かいきゅう}}にも{{r|昇|のぼ}}せらるべき{{r|力|ちから}}を{{r|発見|はっけん}}せん。すべての{{r|秀|しゅう}}{{r|美|び}}なるものは{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}により{{r|行|おこな}}はるべくして、{{r|彼|かれ}}は{{r|亦|また}}{{r|行為|こうい}}の{{r|知識|ちしき}}とも{{r|名|な}}づけらる、{{r|何|なん}}となれば{{r|身体|しんたい}}の{{r|官能|かんのう}}に{{r|頼|よ}}り{{r|感覚的|かんかくてき}}{{r|作|さ}}{{r|用|よう}}を{{r|以|もっ}}てその{{r|行為|こうい}}を{{r|外部|がいぶ}}の{{r|階級|かいきゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|成|な}}せばなり。
 
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