「シリヤの聖イサアク全書/第二十六説教」の版間の差分

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{{r|知識|ちしき}}は{{r|肉体|にくたい}}の{{r|望|のぞみ}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|時|とき}}は{{r|左|さ}}の{{r|方法|ほうほう}}を{{r|引誘|いんゆう}}して{{r|之|これ}}と{{r|一|いつ}}にならん、{{r|富|とみ}}なり、{{r|虚栄|きょえい}}なり、{{r|修飾|しゅうしょく}}なり、{{r|身|み}}の{{r|安佚|あんいつ}}なり、{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|処|しょ}}するに{{r|便利|べんり}}にして、{{r|発明|はつめい}}と{{r|芸術|げいじゅつ}}と{{r|学問|がくもん}}とに{{r|新規|しんき}}を{{r|出|いだ}}す{{r|言|ことば}}の{{r|智慧|ちえ}}を{{r|勉|つと}}むると、その{{r|他|た}}すべて{{r|此|こ}}の{{r|有形|ゆうけい}}{{r|世|せ}}{{r|界|かい}}に{{r|於|おい}}て{{r|身|み}}を{{r|飾|かざ}}る{{r|所|ところ}}のもの{{r|是|これ}}なり。{{r|此|これ}}らの{{r|特別|とくべつ}}なる{{r|方法|ほうほう}}に{{r|依|よ}}れば、{{r|我|われ}}らが{{r|既|すで}}に{{r|言|い}}ひ{{r|且|かつ}}{{r|定|さだ}}めたる{{r|如|ごと}}く、{{r|知識|ちしき}}は{{r|信仰|しんこう}}に{{r|反対|はんたい}}するものとならん。{{r|彼|かれ}}は{{r|裸体|らたい}}なる{{r|知識|ちしき}}と{{r|名|な}}づけらるべし、{{r|何|なん}}となればすべて{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|慮|おもんばかり}}を{{r|排除|はいじょ}}し、{{r|肉体|にくたい}}の{{r|優勝|ゆうしょう}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|無智|むち}}{{r|陋劣|ろうれつ}}を{{r|心中|しんちゅう}}に入れて、すべて{{r|慮|おもんばか}}る{{r|所|ところ}}のものは{{r|全|まった}}くただ{{r|此世|このよ}}の{{r|為|ため}}なればなり。{{r|視|み}}よ、{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}の{{r|自己|じこ}}に{{r|対|たい}}する{{r|意見|いけん}}は{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}し、{{r|言|い}}へらく{{r|知識|ちしき}}は{{r|奥密|おうみつ}}に人を{{r|統治|とうぢ}}する{{r|思想|しそう}}の{{r|力|ちから}}にして、{{r|人々|ひとびと}}を{{r|監視|かんし}}し、{{r|全|まった}}く人の{{r|為|ため}}に{{r|慮|おもんばか}}る{{r|神聖|しんせい}}の{{r|後見|こうけん}}たることは{{r|何|なん}}の{{r|疑|うたがい}}の{{r|之|これ}}あらんと。ゆえに{{r|彼|かれ}}は{{r|世界|せかい}}の{{r|統治|とうぢ}}を{{r|神|かみ}}の{{r|照管|しょうかん}}に{{r|帰|き}}せずして、すべて{{r|人|ひと}}に{{r|於|おけ}}る{{r|善|ぜん}}なるものと、{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|有害|ゆうがい}}なるものより{{r|人|ひと}}を{{r|救|すく}}ふと、{{r|陰|いん}}にも{{r|陽|よう}}にも{{r|我|われ}}らの{{r|性|せい}}に{{r|随伴|ずいはん}}する{{r|困難|こんなん}}なるもの、{{r|及|およ}}び{{r|多|お}}くの{{r|反対|はんたい}}なるものより{{r|人|ひと}}を{{r|警戒|けいかい}}する{{r|天然|てんねん}}の{{r|預防|よぼう}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|人|ひと}}{{r|自己|じこ}}の{{r|勉励|べんれい}}と{{r|自己|じこ}}の{{r|方法|ほうほう}}の{{r|結果|けっか}}なる{{r|如|ごと}}く{{r|思|おも}}ふなり。{{r|知識|ちしき}}を{{r|弄|もてあそ}}ぶ{{r|者|もの}}の{{r|自己|じこ}}に{{r|対|たい}}する{{r|意見|いけん}}はかくの{{r|如|ごと}}し。{{r|彼|かれ}}はその{{r|経画|けいかく}}の{{r|如|ごと}}く{{r|万事|ばんじ}}{{r|成|な}}るべしと{{r|妄想|もうそう}}す、{{r|此|この}}{{r|点|てん}}に{{r|於|おい}}ては{{r|彼|かれ}}は{{r|此|こ}}の{{r|有形|ゆうけい}}{{r|世界|せかい}}を{{r|治|おさ}}むるの{{r|掌理|しょうり}}{{r|無|な}}しと{{r|主張|しゅちょう}}する{{r|者|もの}}らと{{r|一|いつ}}に{{r|帰|き}}す。さりながら{{r|彼|かれ}}は{{r|身体|しんたい}}の{{r|為|ため}}に{{r|不断|ふだん}}{{r|慮|おもんばか}}るなく、{{r|懼|おそ}}るるなくして{{r|居|お}}るあたはず、{{r|故|ゆえ}}に{{r|小胆|しょうたん}}、{{r|悲|ひ}}{{r|哀|あい}}、{{r|絶望|ぜつぼう}}、{{r|魔鬼|まき}}の{{r|為|ため}}の{{r|恐|おそ}}れ、{{r|人々|ひとびと}}の{{r|為|ため}}の{{r|恐|おそ}}れ、{{r|賊|ぞく}}の{{r|風説|ふうせつ}}、{{r|死|し}}の{{r|伝聞|でんぶん}}、{{r|疾病|しっぺい}}に{{r|於|おけ}}る{{r|掛念|けねん}}、{{r|必要|ひつよう}}なるものに{{r|欠乏|けつぼう}}するの{{r|心配|しんぱい}}、{{r|死|し}}の{{r|恐|おそ}}れ、{{r|災難|さいなん}}{{r|及|およ}}び{{r|悪獣|あくじゅう}}の{{r|恐|おそ}}れ、{{r|及|およ}}びその{{r|外|ほか}}すべて{{r|此|これ}}に{{r|類|るい}}するものと、{{r|時々|じじ}}{{r|刻々|こくこく}}{{r|昼|ひる}}も{{r|夜|よる}}も{{r|動乱|どうらん}}して{{r|航海者|こうかいしゃ}}に{{r|波|なみ}}を{{r|傾注|けいちゅう}}する{{r|海|うみ}}に{{r|似|に}}たるものとは{{r|彼|かれ}}を{{r|主宰|しゅさい}}するなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|神|かみ}}を{{r|信|しん}}ずる{{r|働|はたら}}きにより{{r|自己|じこ}}に{{r|対|たい}}する{{r|慮|おもんばか}}りを{{r|神|かみ}}に{{r|負|お}}はしむる{{r|能|あた}}はざるによる。ゆえにすべて{{r|彼|か}}れ{{r|自己|じこ}}に{{r|関係|かんけい}}するものに{{r|於|おい}}てはその{{r|方法|ほうほう}}を{{r|考|かんが}}へ、{{r|工夫|くふう}}を{{r|凝|こら}}すが{{r|為|ため}}に{{r|占領|せんりょう}}せらるるなり。さればその{{r|発明|はつめい}}の{{r|方法|ほうほう}}が{{r|一|いつ}}の{{r|或|あ}}る{{r|場|ば}}{{r|合|あい}}に{{r|於|おい}}て{{r|不成効|ふせいこう}}となり{{r|了|おわ}}れども、{{r|奥密|おうみつ}}なる{{r|照管|しょうかん}}をも{{r|窺|うかが}}はざるにより、その{{r|時|とき}}{{r|彼|かれ}}は{{r|之|これ}}を{{r|妨|さまた}}げて{{r|之|これ}}に{{r|反対|はんたい}}する{{r|人々|ひとびと}}と{{r|争|あらそ}}はん。
 
{{r|愛|あい}}を{{r|剿絶|しょうぜつ}}する{{r|善悪|ぜんあく}}{{r|認識|にんしき}}の{{r|樹|き}}は{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}に{{r|植|うえ}}{{r|附|つけ}}らるるなり。ゆえに{{r|彼|かれ}}は{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}の{{r|小|しょう}}なる{{r|錯誤|さくご}}とその{{r|過失|かしつ}}とその{{r|弱点|じゃくてん}}とを{{r|捜|さが}}し、{{r|人|ひと}}の{{r|師|し}}となると、{{r|言|ことば}}を{{r|以|もっ}}て{{r|逆|さか}}ふと、{{r|狡獪|こうかい}}なる{{r|発明|はつめい}}と{{r|詭計|きけい}}とを{{r|用|もち}}ふるを{{r|人|ひと}}に{{r|勧|すす}}め、{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|陵辱的|りょうじょくてき}}なる{{r|他|た}}の{{r|方法|ほうほう}}にも{{r|助|たすけ}}を{{r|假|か}}らんとす。{{r|彼|かれ}}には{{r|高慢|こうまん}}と{{r|驕傲|きょうごう}}とあり、{{r|何|なん}}となればすべて{{r|善|ぜん}}なる{{r|行為|こうい}}を{{r|自己|じこ}}に{{r|奪|うば}}ふて{{r|神|かみ}}に{{r|帰|き}}せざればなり。しかれども{{r|信仰|しんこう}}はその{{r|行為|こうい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|帰|き}}す、ゆえに{{r|自負|じふ}}することあたはず、{{r|録|しる}}して{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いは}}く『{{r|我|われ}}を{{r|堅|かた}}むる{{ul|ハリストス}}に{{r|由|よ}}りて{{r|能|よく}}せざる{{r|所|ところ}}なし』と〔[[ピリピ人への手紙(口語訳)#4:13|フィリッピ四の十三]]〕、{{r|又|また}}{{r|言|い}}ふ、『{{r|我|われ}}に{{r|非|あら}}ず{{r|乃|すなはち}}{{r|我|われ}}と{{r|偕|とも}}にする{{r|神|かみ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}なり』と〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#15:10|コリンフ前十五の十]]〕。{{r|然|しか}}るに{{r|福|ふく}}なる{{r|使徒|しと}}が『{{r|知識|ちしき}}は{{r|誇|ほこり}}を{{r|致|いた}}す』〔[[コリント人への第一の手紙(口語訳)#8:1|コリンフ前八の一]]〕と{{r|言|い}}ひしは、{{r|是|こ}}れ{{r|神|かみ}}を{{r|信|しん}}ずると{{r|神|かみ}}を{{r|望|のぞ}}むとを{{r|以|もっ}}て{{r|溶解|ようかい}}せられざる{{r|如上|にょじょう}}の{{r|知識|ちしき}}につきて{{r|言|い}}ふものにして、{{r|真実|しんじつ}}の{{r|知識|ちしき}}を{{r|言|い}}ふにあらず。{{r|願|ねがは}}くは{{r|之|これ}}あらざらんことを。
 
{{r|真実|しんじつ}}の{{r|知識|ちしき}}は{{r|之|これ}}を{{r|得|え}}たる{{r|者|もの}}の{{r|心霊|しんれい}}を{{r|完全|かんぜん}}にして、{{r|謙遜|けんそん}}ならしむること、{{ul|モイセイ}}、{{ul|ダワィド}}、{{ul|イサイヤ}}、{{ul|ペトル}}{{r|及|およ}}びその{{r|他|た}}の{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}を{{r|完全|かんぜん}}にしたる{{r|如|ごと}}くなるべし、{{r|彼|かれ}}らは{{r|人性|じんせい}}の{{r|尺度|しゃくど}}にしたがひて{{r|此|こ}}の{{r|完全|かんぜん}}なる{{r|知識|ちしき}}を{{r|賜|たま}}はりぬ。{{r|此|これ}}ら{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}の{{r|知識|ちしき}}は{{r|常|つね}}に{{r|非常|ひじょう}}なる{{r|直覚|ちょっかく}}と{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|黙示|もくし}}と{{r|霊界|れいかい}}の{{r|高尚|こうしょう}}なる{{r|直観|ちょっかん}}と{{r|言|い}}ひ{{r|得|え}}ざる{{r|奥義|おうぎ}}との{{r|為|ため}}に{{r|呑|の}}まる、ゆえにその{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|彼|かれ}}らの{{r|眼中|がんちゅう}}に{{r|塵芥視|じんかいし}}せらるるなり。されど{{r|他|た}}の{{r|知識|ちしき}}はそれに{{r|相応|そうおう}}して{{r|自負|じふ}}す、{{r|何|なん}}となれば{{r|暗中|あんちゅう}}を{{r|往来|おうらい}}し、その{{r|有|ゆう}}する{{r|所|ところ}}のものを{{r|地上|ちじょう}}にあるものと{{r|比|ひ}}して、{{r|之|これ}}に{{r|價|あたい}}を{{r|附|ふ}}し、{{r|更|さら}}に{{r|極|きわ}}めて{{r|美|び}}なるもののあるを{{r|知|し}}らざるによる。{{r|人|ひと}}{{r|皆|みな}}{{r|高慢|こうまん}}に{{r|引|ひき}}{{r|入|い}}れらる、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}らは{{r|地上|ちじょう}}にありて、その{{r|生涯|しょうがい}}を{{r|肉体|にくたい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|秤|はか}}り{{r|自己|じこ}}の{{r|行動|こうどう}}に{{r|依頼|いらい}}して、{{r|人智|じんち}}の{{r|及|およ}}ばざるものを心に{{r|考|かんが}}へざればなり。されば{{r|彼|かれ}}らは{{r|此|こ}}の{{r|波間|はかん}}に{{r|漂|ただよ}}ふ{{r|間|あいだ}}は{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|圧|あっ}}せらるるなり。しかれども{{r|聖人|せいじん}}は{{r|光栄|こうえい}}{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|道徳|どうとく}}に{{r|大|おい}}に{{r|進歩|しんぽ}}してその{{r|活動|かつどう}}は{{r|上方|じょうほう}}に{{r|向|むか}}ひ、その{{r|思|おもい}}は{{r|発明|はつめい}}の{{r|事|こと}}と{{r|空|むな}}しきものの{{r|慮|おもんばか}}りに{{r|離|はな}}れ{{r|去|さ}}らず、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}らは{{r|光|ひかり}}の{{r|中|うち}}を{{r|行|ゆ}}きて、{{r|迷|まよ}}ふあたはざればなり。ゆえにすべて{{r|神|かみ}}の{{r|子|こ}}を{{r|認識|にんしき}}する{{r|光|ひかり}}に{{r|遠|とお}}ざかりて、{{r|真実|しんじつ}}より{{r|離|はな}}れたる{{r|者|もの}}は、{{r|此|この}}{{r|狭路|きょうろ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|来往|らいおう}}す。これぞ{{r|知識|ちしき}}の第一の{{r|級|きゅう}}にして{{r|之|これ}}により{{r|人|ひと}}は{{r|肉体|にくたい}}の{{r|慾|よく}}に{{r|従|したが}}ふ。ゆえに{{r|我|われ}}らは{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}を{{r|非|ひ}}{{r|難|なん}}し、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|信仰|しんこう}}に{{r|反|はん}}するものとするのみならず、{{r|道徳|どうとく}}の{{r|何|なん}}らの{{r|働|はたらき}}にも{{r|反|はん}}するものと{{r|為|な}}す。
 
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