「シリヤの聖イサアク全書/第二十五説教」の版間の差分

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<< {{r|知識|ちしき}}の{{r|三|みつ}}の{{r|方法|ほうほう}}の{{r|事|こと}}、その{{r|作|さ}}{{r|用|よう}}とその{{r|意味|いみ}}の{{r|同|おな}}じからざる{{r|事|こと}}、{{r|心|こころ}}の{{r|信仰|しんこう}}の{{r|事|こと}}、{{r|信仰|しんこう}}に{{r|隠|かく}}るる{{r|奥密|おうみつ}}なる{{r|富|とみ}}の{{r|事|こと}}、{{r|此世|このよ}}の{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}は、その{{r|方法|ほうほう}}に{{r|於|おい}}て{{r|信仰|しんこう}}の{{r|正直|せいちょく}}{{r|明白|めいはく}}と{{r|幾|いく}}ばく{{r|差異|さい}}ある{{r|事|こと}}。 >>
 
{{r|行|こう}}{{r|為|い}}の{{r|径|こみち}}と{{r|信仰|しんこう}}の{{r|路|みち}}とを{{r|経|へ}}て、{{r|頻|しき}}りに{{r|信仰|しんこう}}に{{r|進|しん}}{{r|歩|ぽ}}したる{{r|霊魂|れいこん}}は、もし{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|方法|ほうほう}}に{{r|再|ふたた}}び{{r|転|てん}}ずるならば、{{r|信仰|しんこう}}は{{r|直|ただち}}に{{r|跛|は}}{{r|行|こう}}し{{r|始|はじ}}めん、{{r|而|しか}}して{{r|相|そう}}{{r|互|ご}}の{{r|助|たすけ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|純潔|じゅんけつ}}の{{r|霊|たましい}}にあらはれ、{{r|正直|せいちょく}}{{r|明白|めいはく}}にして{{r|穿鑿|せんさく}}{{r|討究|とうきゅう}}に{{r|渉|わた}}るものには{{r|絶|たえ}}て{{r|入|い}}らざる{{r|精神|せいしん}}の{{r|力|ちから}}は{{r|失|うしな}}はるべし。けだし{{r|一|ひと}}たび{{r|信仰|しんこう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}に{{r|従|したが}}はしめ、しばしば{{r|経験|けいけん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|助|たすけ}}を{{r|試|こころ}}みたる{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|最早|もはや}}{{r|自己|じこ}}のことに{{r|掛|け}}{{r|念|ねん}}せずして、{{r|却|かえっ}}て{{r|驚愕|きょうがく}}と{{r|沈黙|ちんもく}}の{{r|為|ため}}に{{r|縛|しば}}らる、ゆえに{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|方法|ほうほう}}に{{r|再|ふたた}}び{{r|立|たち}}{{r|戻|もど}}りて{{r|之|これ}}を{{r|行為|こうい}}に{{r|使用|しよう}}する{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|然|しか}}らずんば{{r|倦|う}}まずして{{r|窃|ひそか}}に{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|監|かん}}{{r|視|し}}し、{{r|之|これ}}を{{r|慮|おもんばか}}りて、{{r|悉|ことごと}}くの{{r|方法|ほうほう}}により{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|之|これ}}を{{r|追尋|ついじん}}する{{r|神|かみ}}の{{r|照管|しょうかん}}は、{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|方法|ほうほう}}の{{r|反対|はんたい}}により{{r|奪|うば}}はれん、{{r|即|すなはち}}{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|力|ちから}}により{{r|自|みづ}}から{{r|充分|じゅうぶん}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|慮|おもんばか}}るを{{r|得|う}}べしと{{r|妄想|もうそう}}して、{{r|無智|むち}}になれるにより{{r|奪|うば}}はれん。けだし{{r|信仰|しんこう}}の{{r|光|ひかり}}が{{r|照|て}}らし{{r|始|はじ}}むる{{r|者|もの}}は、{{r|更|さら}}に{{r|祈祷|きとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|神|かみ}}に{{r|願|ねが}}ひ、『{{r|此|これ}}を{{r|我|われ}}らに{{r|與|あた}}へ{{r|給|たま}}へ』{{r|或|ある}}いは『{{r|此|これ}}を{{r|我|われ}}らより{{r|取|と}}り{{r|給|たま}}へ』といふ{{r|如|ごと}}くなる{{r|無耻|むち}}には{{r|最早|もはや}}{{r|至|いた}}らざるべくして、{{r|彼|かれ}}らは{{r|自己|じこ}}のことは{{r|少|すこ}}しも{{r|慮|おもんばか}}らざるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|真実|しんじつ}}なる{{r|父|ちち}}の{{r|彼|かれ}}らを{{r|庇|ひ}}{{r|蔭|いん}}する{{r|父|ちち}}たる{{r|照管|しょうかん}}を{{r|信|しん}}の{{r|霊妙|れいみょう}}なる{{r|眼|め}}を{{r|以|もっ}}て{{r|時々|ときどき}}{{r|目撃|もくげき}}すればなり、けだし{{r|彼|かれ}}は{{r|無量|むりょう}}に{{r|大|おい}}なる{{r|愛|あい}}を{{r|以|もっ}}ていかなる{{r|父|ちち}}の{{r|愛|あい}}にも{{r|卓越|たくえつ}}し、{{r|我|われ}}らの{{r|願|ねが}}ひ{{r|且|かつ}}{{r|慮|おもんばか}}り{{r|且|かつ}}{{r|想像|そうぞう}}するよりも{{r|更|さら}}に{{r|大|だい}}なる{{r|餘|あまり}}あるの{{r|量|りょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らに{{r|助|たす}}くべき{{r|力|ちから}}を{{r|殊|こと}}に{{r|有|ゆう}}するによる。
 
{{r|知識|ちしき}}は{{r|信仰|しんこう}}に{{r|反対|はんたい}}す。{{r|信仰|しんこう}}はすべて{{r|之|これ}}に{{r|属|ぞく}}するものに{{r|於|おい}}て{{r|知識|ちしき}}の{{r|法|ほう}}の{{r|破壊|はかい}}にして、{{r|且|かつ}}{{r|非|ひ}}{{r|霊的|れいてき}}なる{{r|知識|ちしき}}の{{r|破壊|はかい}}なり、{{r|知識|ちしき}}の{{r|定限|ていげん}}は{{r|捜索|そうさく}}と{{r|考究|こうきゅう}}となくんば{{r|何事|なにごと}}をも{{r|為|な}}すの{{r|権|けん}}を{{r|有|ゆう}}せずして、{{r|返|かえ}}つて{{r|彼|かれ}}は{{r|思|おも}}ふ{{r|所|ところ}}のものと{{r|欲|ほっ}}する{{r|所|ところ}}のものの{{r|能|あた}}ふべきや{{r|否|いな}}やを{{r|捜索|そうさく}}するにあり。されど{{r|信仰|しんこう}}は{{r|如何|いか}}なるか。{{r|彼|かれ}}は{{r|不正|ふせい}}にして{{r|近|ちか}}づく{{r|者|もの}}には{{r|止|とど}}まるを{{r|肯|がえん}}ぜざるなり。
 
{{r|知識|ちしき}}は{{r|討求|とうきゅう}}を{{r|待|ま}}たず{{r|行為|こうい}}の{{r|方法|ほうほう}}を{{r|待|ま}}たずんば{{r|認識|にんしき}}する{{r|能|あた}}はざるべし。これ{{r|真理|しんり}}に{{r|躊躇|ちゅうちょ}}する{{r|徴候|ちょうこう}}なり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|信仰|しんこう}}は{{r|工夫|くふう}}を{{r|凝|こ}}らし{{r|方法|ほうほう}}を{{r|詮索|せんさく}}するものにはすべて{{r|遠|とお}}ざかる{{r|思想|しそう}}の{{r|有様|ありさま}}の{{r|唯一|ゆいいつ}}、{{r|潔白|けっぱく}}、{{r|単純|たんじゅん}}なるを{{r|要求|ようきゅう}}するなり。{{r|視|み}}よ、{{r|彼|かれ}}らは{{r|如何|いか}}に{{r|相反|あいはん}}するか。{{r|信仰|しんこう}}の{{r|家|いえ}}は{{r|幼児|おさなご}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|概念|がいねん}}と{{r|単純|たんじゅん}}なる{{r|心|こころ}}なり。けだし{{r|言|い}}ふあり、{{r|心|こころ}}の{{r|正直|せいちょく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}を{{r|讃美|さんび}}せりと、{{r|又|また}}{{r|言|い}}ふあり、『{{r|爾|なん}}らもし{{r|轉|てん}}じて{{r|幼児|おさなご}}の{{r|如|ごと}}くならずば{{r|天国|てんごく}}に{{r|入|い}}るを{{r|得|え}}ず』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#18:3|マトフェイ十八の三]]〕。されど{{r|知識|ちしき}}は{{r|心|こころ}}とその{{r|概念|がいねん}}の{{r|正直|せいちょく}}{{r|明白|めいはく}}の{{r|為|ため}}に{{r|網|あみ}}を{{r|立|た}}てて{{r|之|これ}}と{{r|反対|はんたい}}す。
 
{{r|知識|ちしき}}は{{r|天然|てんねん}}をその{{r|悉|ことごと}}くの{{r|経路|けいろ}}に{{r|保護|ほご}}する{{r|天然|てんねん}}の{{r|法則|ほうそく}}なり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|信仰|しんこう}}は{{r|天然|てんねん}}より{{r|高|たか}}く{{r|進行|しんこう}}す、{{r|知識|ちしき}}は{{r|天然|てんねん}}の{{r|為|ため}}に{{r|破壊|はかい}}{{r|的|てき}}なるものを{{r|自|みづ}}から{{r|容|い}}るるを{{r|敢|あえ}}て{{r|試|こころ}}みずして{{r|此|これ}}より{{r|遠|とお}}ざかる、{{r|然|しか}}れども{{r|信仰|しんこう}}は{{r|容易|たやす}}く{{r|之|これ}}を{{r|許容|きょよう}}す、{{r|言|い}}へらく、『{{r|爾|なん}}{{r|蝮|まむし}}と{{r|毒蛇|どくじゃ}}とを{{r|踏|ふ}}み、{{r|獅|しし}}と{{r|大蛇|だいじゃ}}とを{{r|踏|ふ}}まん』〔聖詠九十の十三([[詩篇(口語訳)#91:13|詩編聖詠九十の十三]]〕。{{r|知識|ちしき}}は{{r|畏懼|いく}}を{{r|伴|ともな}}ひ、{{r|信仰|しんこう}}は{{r|希望|きぼう}}を{{r|伴|ともな}}ふ。{{r|人|ひと}}は{{r|知識|ちしき}}の{{r|方法|ほうほう}}に{{r|導|みちび}}かるる{{r|程|ほど}}、{{r|畏懼|いく}}の{{r|為|ため}}に{{r|縛|しば}}られて、{{r|之|これ}}より{{r|免|まぬか}}るる{{r|自由|じゆう}}を{{r|享|うく}}る{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|信仰|しんこう}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|者|もの}}は{{r|直|ただち}}に{{r|自由|じゆう}}{{r|自主|じしゅ}}なる{{r|者|もの}}となりて、{{r|神|かみ}}の{{r|子|こ}}の{{r|如|ごと}}くあらゆるものを{{r|権|けん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|自由|じゆう}}に{{r|利用|りよう}}す。{{r|此|この}}{{r|信仰|しんこう}}を{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}はすべて{{r|造|ぞう}}を{{r|受|う}}けたるものを{{r|天然|てんねん}}に{{r|指麾|しき}}すること{{r|神|かみ}}の{{r|如|ごと}}くならん、{{r|何|なん}}となれば{{r|信仰|しんこう}}には{{r|神|かみ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|新|あらた}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}を{{r|造成|ぞうせい}}し{{r|得|う}}べき{{r|力|ちから}}を{{r|與|あた}}へられたること、{{r|録|ろく}}していふ{{r|如|ごと}}くなるによる、{{r|言|い}}ふあり、{{r|欲|ほっ}}するあるや{{r|万物|ばんぶつ}}は{{r|汝|なん}}の{{r|前|まえ}}に{{r|現|あら}}はれん〔[[ヨブ記(口語訳)#23:13|イオフ(ヨブ)二十三の十三]]〕。{{r|彼|かれ}}はすべてのものを{{r|存在|そんざい}}せざるより{{r|生|しょう}}ぜしむること{{r|度々|たびたび}}なり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|知識|ちしき}}は{{r|物質|ぶっしつ}}なくんば{{r|一物|いちぶつ}}も{{r|生|しょう}}ぜしむる{{r|能|あた}}はず。{{r|知識|ちしき}}には{{r|天然|てんねん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|與|あた}}へられざるものを{{r|生|しょう}}ぜしむる{{r|程|ほど}}の{{r|自負|じふ}}あらず。{{r|然|しか}}り、{{r|如何|いか}}にして{{r|彼|かれ}}は{{r|之|これ}}を{{r|生|しょう}}ぜしむべきか。{{r|水|みづ}}の{{r|流|なが}}るる{{r|性|せい}}はその{{r|瀬|せ}}に{{r|顕然|けんぜん}}たる{{r|足跡|あしあと}}をうけざるべく、{{r|火|ひ}}に{{r|近|ちか}}づく{{r|者|もの}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|焚|や}}かん。もし{{r|之|これ}}を{{r|敢|あえ}}てする{{r|者|もの}}あらば{{r|禍|わざわい}}{{r|之|これ}}に{{r|従|したが}}はん。
 
{{r|知識|ちしき}}は{{r|警戒|けいかい}}して{{r|己|おのれ}}を{{r|之|これ}}より{{r|保護|ほご}}し、{{r|此|この}}{{r|界限|かいげん}}を{{r|踰|こ}}ゆることを{{r|如何|いかん}}しても{{r|肯|がえん}}ぜざるなり。しかるに{{r|信仰|しんこう}}は{{r|自由|じゆう}}の{{r|権|けん}}を{{r|以|もっ}}てすべてに{{r|超越|ちょうえつ}}す、{{r|言|い}}へらく『{{r|汝|なん}}{{r|火|ひ}}の{{r|中|なか}}を{{r|過|すぐ}}るとき{{r|焚|や}}かるることなく、{{r|河|かわ}}も{{r|汝|なん}}らを{{r|溺|おぼ}}らさず』〔[[イザヤ書(口語訳)#43:2|イサイヤ四十三の二]]〕{{r|信仰|しんこう}}は{{r|凡|すべ}}ての{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|此事|このこと}}を{{r|行|おこな}}ひしこと{{r|屡|しばしば}}なり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|知識|ちしき}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|此事|このこと}}に{{r|試|こころ}}むべき{{r|場|ば}}{{r|合|あい}}の{{r|此処|ここ}}にあらはるるありとも、{{r|彼|かれ}}は{{r|之|これ}}に{{r|対|たい}}して{{r|決行|けっこう}}せざること{{r|疑|うたがい}}なし、けだし{{r|多|おお}}くの{{r|者|もの}}は{{r|信仰|しんこう}}により{{r|火|か}}{{r|焔|えん}}に{{r|入|い}}り、{{r|火|ひ}}の{{r|焚|や}}き{{r|尽|つく}}す{{r|力|ちから}}を{{r|止|とど}}め、{{r|無害|むがい}}にしてその{{r|中|なか}}を{{r|経過|けいか}}し、{{r|海|うみ}}の{{r|急湍|はやせ}}を{{r|陸|くが}}の{{r|如|ごと}}く{{r|進行|しんこう}}したりき。これ{{r|皆|みな}}{{r|天然|てんねん}}より{{r|高|たか}}く、{{r|知識|ちしき}}の{{r|方法|ほうほう}}とは{{r|反対|はんたい}}にして、{{r|知識|ちしき}}はその{{r|悉|ことごと}}くの{{r|方法|ほうほう}}と{{r|法|ほう}}とに{{r|於|おい}}て{{r|空|むな}}しきを{{r|示|しめ}}せり。{{r|知識|ちしき}}は{{r|如何|いか}}に{{r|天然|てんねん}}の{{r|界限|かいげん}}を{{r|守|まも}}るを{{r|見|み}}るか。{{r|信仰|しんこう}}は{{r|如何|いか}}に{{r|天然|てんねん}}より{{r|高|たか}}く{{r|踰|こ}}えて、{{r|彼処|かしこ}}にその{{r|進行|しんこう}}の{{r|路|みち}}を{{r|啓|ひら}}くを{{r|見|み}}るか。{{r|知識|ちしき}}の{{r|此|この}}{{r|方法|ほうほう}}は{{r|大略|だいりゃく}}{{r|五|ご}}{{r|千年|せんねん}}の{{r|間|あいだ}}{{r|世|せ}}{{r|界|かい}}を{{r|統御|とうぎょ}}したりしも、{{r|人|ひと}}は{{r|幾何|いくばく}}もその{{r|首|こうべ}}を{{r|地|ち}}より{{r|挙|あ}}げて{{r|造物主|ぞうぶつしゅ}}の{{r|力|ちから}}を{{r|認識|にんしき}}するあたはず、{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らの{{r|信仰|しんこう}}が{{r|照|て}}らし{{r|始|はじ}}めて、{{r|我|われ}}らを{{r|暗|やみ}}より{{r|脱|だっ}}し{{r|才|さい}}{{r|智|ち}}の{{r|無益|むえき}}なる{{r|高超|こうちょう}}に{{r|任|にん}}ずる{{r|浮世|うきよ}}の{{r|行為|こうい}}と{{r|之|これ}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|空|むな}}しき{{r|従属|じゅうぞく}}とを{{r|免|のが}}れしむるに{{r|至|いた}}れり。{{r|然|しか}}るに{{r|今|いま}}や{{r|我|われ}}らは{{r|動揺|どうよう}}せざるの{{r|海|うみ}}と{{r|乏|とぼし}}きを{{r|告|つ}}げざる{{r|宝|たから}}とを{{r|発見|はっけん}}したるも、{{r|更|さら}}に{{r|又|また}}{{r|涓々|けんけん}}たる{{r|泉|いづみ}}に{{r|離|はな}}れ{{r|去|さ}}らんを{{r|願望|がんぼう}}す。たとひ{{r|大|おい}}に{{r|富|と}}むといへども{{r|乏|とぼし}}きを{{r|告|つ}}げざる{{r|知識|ちしき}}はあらじ。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|信仰|しんこう}}の{{r|宝|たから}}は{{r|天|てん}}も{{r|地|ち}}も{{r|容|い}}れざるなり。{{r|信|しん}}の{{r|希望|きぼう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|信|しん}}を{{r|固|かた}}めらるる{{r|者|もの}}は{{r|何物|なにもの}}も{{r|決|けっ}}して{{r|失|うしな}}はざるべくして、{{r|有|ゆう}}せざるものあるときは{{r|人|ひと}}は{{r|信仰|しんこう}}を{{r|以|もっ}}てすべてを{{r|包有|ほうゆう}}せん、{{r|録|ろく}}して{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}し、『{{r|祈祷|きとう}}の{{r|時|とき}}{{r|信|しん}}じて{{r|求|もと}}むる{{r|所|ところ}}は{{r|悉|ことごと}}く{{r|之|これ}}を{{r|得|え}}ん』〔[[マタイによる福音書(口語訳)#21:21|マトフェイ二十一の二十一]]〕{{r|又|また}}{{r|言|い}}ふ『{{r|主|しゅ}}は{{r|近|ちか}}し、{{r|何事|なにごと}}をも{{r|慮|おもんばか}}るなかれ』〔[[ピリピ人への手紙(口語訳)#4:6|フィリッピ四の六]]〕。
 
{{r|知識|ちしき}}は{{r|之|これ}}を{{r|求|もと}}むる{{r|者|もの}}を{{r|保護|ほご}}する{{r|為|ため}}に{{r|常|つね}}に{{r|方法|ほうほう}}を{{r|尋|たず}}ぬ。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|信仰|しんこう}}は{{r|言|い}}ふ『もし{{r|主|しゅ}}は{{r|家|いえ}}を{{r|造|つく}}らずば、{{r|造|つく}}る{{r|者|もの}}{{r|徒|いたずら}}に{{r|労|ろう}}す、もし{{r|主|しゅ}}は{{r|城|しろ}}を{{r|守|まも}}らずば、{{r|守|まも}}る{{r|者|もの}}{{r|徒|いたずら}}に{{r|警醒|けいせい}}す』と〔聖詠百二十六の一([[詩篇(口語訳)#127:1|詩編聖詠百二十の一]]〕{{r|信仰|しんこう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|祈祷|きとう}}する{{r|者|もの}}は{{r|自護|じご}}の{{r|方法|ほうほう}}を{{r|決|けっ}}して{{r|利用|りよう}}せず、{{r|之|これ}}が{{r|助|たす}}けを{{r|求|もと}}めざるなり。けだし{{r|知識|ちしき}}は{{r|何|いづれ}}の{{r|処|ところ}}にも{{r|畏懼|いく}}を{{r|讃|さん}}{{r|美|び}}すること{{r|睿智者|えいちしゃ}}の{{r|言|い}}ひし{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いは}}く『{{r|主|しゅ}}を{{r|畏|おそ}}るる{{r|者|もの}}の{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|福|さいわい}}なり』〔[[ベン・シラの智慧 第三十四章|シラフ(シラ)三十四の十五]]〕。されど{{r|信仰|しんこう}}は{{r|如何|いか}}なるか、{{r|録|しる}}して{{r|言|い}}ふあり『{{r|懼|おそ}}れて{{r|溺|おぼ}}れんとす』と〔[[マタイによる福音書(口語訳)#14:34|マトフェイ十四の三十]]〕{{r|而|しか}}して{{r|又|また}}{{r|言|い}}ふあり『{{r|爾|なん}}らは{{r|奴|ど}}たる{{r|者|もの}}の{{r|復|ふたた}}び{{r|懼|おそれ}}を{{r|懐|いだ}}く{{r|神|しん}}をうけたるに{{r|非|あら}}ずして、{{r|子|こ}}たる{{r|神|しん}}{{r|即|すなはち}}{{r|神|かみ}}を{{r|信|しん}}ずると{{r|望|のぞ}}むとの{{r|自由|じゆう}}によるものを{{r|受|う}}けたり』〔[[ローマ人への手紙(口語訳)#8:15|ロマ八の十五]]〕{{r|又|また}}{{r|言|い}}ふあり、{{r|彼|かれ}}らを{{r|懼|おそ}}るるなかれ、{{r|彼|かれ}}らの{{r|面|おもて}}を{{r|避|さく}}るなかれと。{{r|畏懼|いく}}には{{r|常|つね}}に{{r|疑|ぎ}}{{r|念|ねん}}を{{r|伴|ともな}}ひ、{{r|然|しか}}して{{r|疑|ぎ}}{{r|念|ねん}}は{{r|審問|しんもん}}を{{r|伴|ともな}}ひ、{{r|審問|しんもん}}は{{r|用|もち}}ふべき{{r|方法|ほうほう}}を{{r|伴|ともな}}ひ、{{r|用|もち}}ふべき{{r|方法|ほうほう}}は{{r|知識|ちしき}}を{{r|伴|ともな}}ふ。ゆえにその{{r|考究|こうきゅう}}と{{r|審問|しんもん}}に{{r|於|おい}}て{{r|畏懼|いく}}と{{r|疑|ぎ}}{{r|念|ねん}}は{{r|常|つね}}に{{r|認|みとめ}}{{r|得|え}}らるるなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|知識|ちしき}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|時|とき}}にもすべてに{{r|於|おい}}て{{r|成功|せいこう}}するにあらざることは{{r|是|これ}}より{{r|先|さき}}{{r|我|われ}}らが{{r|證|しょう}}せし{{r|如|ごと}}くなればなり。けだし{{r|知識|ちしき}}と{{r|智慧|ちえ}}の{{r|方法|ほうほう}}が{{r|茲|ここ}}に{{r|幾|いく}}ばくも{{r|助|たす}}くることの{{r|全|まった}}く{{r|能|あた}}はざる{{r|困難|こんなん}}なる{{r|事|じ}}{{r|情|じょう}}の{{r|相|あい}}{{r|集|あつ}}まりて{{r|衝突|しょうとつ}}すると、{{r|多|おお}}くの{{r|危|き}}{{r|険|けん}}を{{r|充|み}}ち{{r|満|み}}てる{{r|機会|きかい}}の{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|遭遇|そうぐう}}するとは{{r|屡々|しばしば}}{{r|之|これ}}あればなり。しかれども{{r|他|た}}の{{r|一方|いっぽう}}には{{r|人間|にんげん}}の{{r|知識|ちしき}}の{{r|全力|ぜんりょく}}を{{r|極|きわ}}むるも{{r|拒|ふせ}}ぐことの{{r|能|あた}}はざる{{r|困難|こんなん}}に{{r|於|おい}}て、{{r|信仰|しんこう}}は{{r|此|これ}}らの{{r|困難|こんなん}}の{{r|一|ひとつ}}にも{{r|毫|ごう}}も{{r|打|うち}}{{r|負|まか}}されざるなり。けだし{{r|人間|にんげん}}の{{r|知識|ちしき}}はその{{r|徒|と}}の{{r|為|ため}}にすべて{{r|天然|てんねん}}に{{r|遠|とお}}ざかる{{r|所|ところ}}のものに{{r|近|ちか}}づくことを{{r|禁|きん}}ず。{{r|然|しか}}れども{{r|信仰|しんこう}}の{{r|力|ちから}}を{{r|此|これ}}に{{r|於|おい}}て{{r|察|さつ}}すべし、{{r|信仰|しんこう}}は{{r|之|これ}}を{{r|学|まな}}ぶ{{r|者|もの}}の{{r|前|まえ}}に{{r|何|なに}}を{{r|提出|ていしゅつ}}するか。{{r|録|しる}}して{{r|言|い}}へり『{{r|我|わ}}が{{r|名|な}}によりて{{r|魔鬼|まき}}を{{r|逐|おい}}{{r|出|いだ}}し、{{r|蛇|へび}}を{{r|捉|とら}}へ、{{r|毒|どく}}を{{r|飲|の}}むとも{{r|彼|かれ}}らを{{r|害|がい}}せざらん』といへり〔[[マルコによる福音書(口語訳)#16:17|マルコ十六の十七]]〕{{r|知識|ちしき}}はその{{r|法|ほう}}に{{r|依|よ}}り、{{r|凡|すべ}}てその{{r|途|みち}}を{{r|進行|しんこう}}する{{r|者|もの}}に、すべての{{r|事|こと}}に{{r|於|おい}}てそれを{{r|始|はじ}}むる{{r|以前|いぜん}}にその{{r|終|おわり}}を{{r|審問|しんもん}}し、{{r|然|しか}}る{{r|後|のち}}{{r|始|はじ}}めんことを{{r|提出|ていしゅつ}}す。これその{{r|事|こと}}の{{r|終|おわ}}りが{{r|人力|じんりょく}}を{{r|尽|つく}}くしたる{{r|限|かぎ}}りに{{r|於|おい}}て{{r|困難|こんなん}}と{{r|遭遇|そうぐう}}することのあらはるるや、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|徒|いたずら}}に{{r|労|ろう}}するを{{r|免|のが}}れん{{r|為|ため}}なり、{{r|事|こと}}の{{r|困難|こんなん}}にして{{r|成就|じょうじゅ}}する{{r|能|あた}}はざるものとならざらん{{r|為|ため}}なり。されど{{r|信仰|しんこう}}は{{r|如何|いか}}に{{r|言|い}}ふか。『{{r|信|しん}}ずる{{r|者|もの}}には{{r|能|よ}}くせざることなし』〔[[マルコによる福音書(口語訳)#9:23|マルコ九の二十三]]〕{{r|何|なん}}となれば{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|能|あた}}はざる{{r|所|ところ}}なければなり。{{r|吁|ああ}}{{r|言|い}}ふ{{r|可|べか}}らざる{{r|何|なに}}らの{{r|富|とみ}}なるか。{{r|信仰|しんこう}}の{{r|波|なみ}}と{{r|信仰|しんこう}}の{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|大|おい}}に{{r|注|そそ}}がるる{{r|奇異|きい}}なる{{r|宝|たから}}とに{{r|富|と}}む{{r|如何|いか}}なる{{r|海|うみ}}なるか。{{r|信仰|しんこう}}と{{r|共|とも}}にする{{r|進行|しんこう}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|善心|ぜんしん}}と{{r|如何|いか}}なる{{r|満足|まんぞく}}と{{r|慰|い}}{{r|安|あん}}とに{{r|充|み}}ち{{r|満|み}}たさるるか。その{{r|軛|くびき}}は{{r|如何|いか}}に{{r|易|やす}}くして、その{{r|活動|かつどう}}は{{r|幾何|いくばく}}{{r|甘|あま}}きか。
 
問 {{r|信仰|しんこう}}の{{r|甘|あま}}きを{{r|甞|な}}むるを{{r|已|すで}}に{{r|賜|たま}}はりて、{{r|更|さら}}に{{r|誠実|せいじつ}}なる{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}に{{r|轉|てん}}ずる{{r|者|もの}}はその{{r|行為|こうい}}を{{r|何人|なんびと}}に{{r|比|ひ}}すべきか。