「シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の一」の版間の差分

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<< {{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|事|じ}}{{r|項|こう}}に{{r|就|つい}}て{{r|問答|もんどう}}。>>
 
問 {{r|人心|じんしん}}は{{r|悪|あく}}に{{r|向|むか}}はざらんが{{r|為|ため}}に{{r|如何|いか}}なる{{r|[[wikt:|鏈]]鎖|れんさ}}にて{{r|縛|しば}}らるべきか。
 
答 {{r|恒|つね}}に{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}に{{r|従|したが}}ひ{{r|生命|せいめい}}の{{r|教|おし}}へに{{r|富|と}}むを{{r|以|もっ}}て{{r|縛|しば}}らるべし。けだし{{r|意|い}}の{{r|[[wikt:放恣|放恣]]|ほうし}}を{{r|抑|おさ}}へんがために、かくの{{r|如|ごと}}く{{r|有力|ゆうりょく}}なる{{r|[[wikt:|鏈]]鎖|れんさ}}は{{r|他|た}}に{{r|之|これ}}あらざるなり。
 
問 {{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|者|もの}}の{{r|進行|しんこう}}の{{r|終極|しゅうきょく}}は{{r|何|なん}}の{{r|処|ところ}}に{{r|之|これ}}ありや、その{{r|学習|がくしゅう}}は{{r|如何|いかが}}して{{r|完|まっと}}うせらるべきか。
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問 {{r|誰|たれ}}か{{r|才|さい}}{{r|智|ち}}ある{{r|者|もの}}と{{r|当然|とうぜん}}に{{r|名|な}}づけらるべきか。
 
答 {{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}に{{r|界限|かぎり}}のあるを{{r|真実|しんじつ}}に{{r|暁|さと}}る{{r|者|もの}}{{r|是|これ}}なり。{{r|彼|かれ}}は{{r|犯罪|はんざい}}にも{{r|界限|かぎり}}を{{r|置|お}}くを{{r|得|う}}べし。けだしいかなる{{r|知識|ちしき}}{{r|或|あるい}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|通暁|さとり}}は{{r|之|これ}}より{{r|高尚|こうしょう}}なるか、{{r|即|すなはち}}{{r|人|ひと}}が{{r|智慧|ちえ}}{{r|附|つ}}けられ、{{r|欲望|よくぼう}}の{{r|悪臭|あくしゅう}}に{{r|汚|けが}}されたる{{r|一|ひとつ}}の{{r|部分|ぶぶん}}をも{{r|有|ゆう}}せず、{{r|又|また}}{{r|欲望|よくぼう}}の{{r|甘|あま}}きに{{r|留|とど}}めらるる{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|何等|なにら}}の{{r|汚点|おてん}}をも{{r|有|ゆう}}せずして、{{r|此|この}}{{r|生命|せいめい}}より{{r|出|いで}}て{{r|不朽|ふきゅう}}に{{r|入|い}}るを{{r|暁|さと}}るより{{r|高尚|こうしょう}}なるものありや。けだしもし{{r|何人|なんびと}}か{{r|天|てん}}{{r|地|ち}}{{r|万物|ばんぶつ}}の{{r|奥秘|おうひ}}に{{r|透徹|とうてつ}}せんが{{r|為|ため}}に、その{{r|思想|しそう}}を{{r|練|ね}}り、{{r|発明|はつめい}}と{{r|観察|かんさつ}}とによりてもろもろの{{r|知識|ちしき}}に{{r|富|と}}むも、その{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|罪|つみ}}の{{r|汚|お}}{{r|[[wikt:|穢]]|かい}}にけがされ、{{r|心中|しんちゅう}}の{{r|希望|きぼう}}に{{r|於|おい}}ては{{r|証明|しょうめい}}を{{r|受|う}}けざるに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|希望|きぼう}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|幸|さいわい}}に{{r|入|い}}りたりと{{r|思|おも}}ふならば、{{r|世|よ}}に{{r|彼|かれ}}より{{r|愚|ぐ}}なる{{r|人|ひと}}やある、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}は{{r|世|よ}}に{{r|向|むかっ}}て{{r|不断|ふだん}}{{r|進行|しんこう}}するにより{{r|彼|かれ}}をただ{{r|此世|このよ}}の{{r|希望|きぼう}}にみちびきしのみなればなり。
 
問 {{r|誰|たれ}}か{{r|真実|しんじつ}}に{{r|最|もっとも}}{{r|剛|ごう}}なるか。
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問 {{r|病|やまい}}と{{r|困難|こんなん}}とが{{r|身体|しんたい}}を{{r|囲|かこ}}み、{{r|之|これ}}と{{r|併|あわ}}せて{{r|意思|いし}}は{{r|善|ぜん}}なるものを{{r|願|ねが}}ふの{{r|望|のぞみ}}とその{{r|最初|さいしょ}}の{{r|堅|かた}}きとに{{r|於|おい}}て{{r|弱|よわ}}るときは、{{r|我|われ}}ら{{r|之|これ}}を{{r|如何|いか}}に{{r|為|な}}すべきか。
 
答 {{r|一半|いっぱん}}は{{r|主|しゅ}}の{{r|跡|あと}}を{{r|追|お}}ふて{{r|行|ゆ}}けども、{{r|他|た}}の{{r|一半|いっぱん}}は{{r|世|よ}}に{{r|止|とど}}まりて、その{{r|心|こころ}}は{{r|此世|このよ}}にあるものより{{r|脱|だっ}}せず、{{r|自己|じこ}}を{{r|分割|ぶんかつ}}して、{{r|或時|あるとき}}には{{r|前|まえ}}を{{r|望|のぞ}}めども、{{r|或時|あるとき}}には{{r|後|うしろ}}を{{r|顧|かえり}}みる{{r|者|もの}}らを{{r|見|み}}ること{{r|稀|まれ}}なりとせず。ゆえに{{r|智者|ちしゃ}}は『{{r|二心|ふたごころ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|主|しゅ}}に{{r|就|つ}}くなかれ』といひ〔[[ベン・シラの智慧 第一章|シラフ(シラ)一の二十八]]〕{{r|蒔|ま}}く{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く{{r|穫|か}}る{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く{{r|就|つ}}くべしといへるは、{{r|思|おも}}ふに{{r|此|こ}}の{{r|自己|じこ}}を{{r|分割|ぶんかつ}}して{{r|神|かみ}}の{{r|睿智|えいち}}の{{r|路|みち}}に{{r|近|ちか}}づく{{r|者|もの}}らに{{r|教訓|きょうくん}}を{{r|與|あた}}ふるなり、{{r|主|しゅ}}も{{r|此|こ}}の{{r|不充分|ふじゅうぶん}}に{{r|世|よ}}を{{r|棄|す}}てて{{r|自己|じこ}}を{{r|分割|ぶんかつ}}したる{{r|者|もの}}らが{{r|肉体|にくたい}}の{{r|慾|よく}}を{{r|未|いま}}だ{{r|自|みづ}}から{{r|棄|す}}てざるにより、{{r|畏懼|いく}}と{{r|患難|かんなん}}とに{{r|口|くち}}を{{r|籍|か}}り、{{r|心意|しんい}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|否|いな}}{{r|確言|かくげん}}すれば{{r|思念|しねん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|後|うしろ}}を{{r|顧|かえり}}みるを{{r|知|し}}り、{{r|此|こ}}の{{r|心意|しんい}}の{{r|衰弱|すいじゃく}}を{{r|彼|かれ}}らに{{r|擲|なげう}}たしめんと{{r|欲|ほっ}}し、{{r|彼|かれ}}らに{{r|一定|いってい}}の{{r|教訓|きょうくん}}を{{r|告|つ}}げていへり『{{r|我|われ}}に{{r|従|したが}}はんと{{r|欲|ほっ}}せば{{r|先|ま}}づ{{r|己|おのれ}}を{{r|棄|す}}つべし』{{r|云々|うんぬん}}といへり〔[[マタイによる福音書(口語訳)#16:24|マトフェイ十六の二十四]]〕。
 
問 {{r|己|おのれ}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}を{{r|謂|い}}ふか。
 
答 {{r|十字架|じゅうじか}}に{{r|上|のぼ}}らんと{{r|準備|じゅんび}}せし{{r|者|もの}}は、その{{r|心|こころ}}に{{r|死|し}}の{{r|一念|いちねん}}を{{r|有|ゆう}}し、かくの{{r|如|ごと}}くして{{r|十字架|じゅうじか}}に{{r|上|のぼ}}り、{{r|現世|げんせい}}の{{r|生命|いのち}}に{{r|再|ふたた}}び{{r|分|ぶん}}を{{r|有|ゆう}}するを{{r|思|おも}}はざるならん。{{r|己|おのれ}}を{{r|棄|す}}つることを{{r|実行|じっこう}}せんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|者|もの}}も{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}し。けだし{{r|十字架|じゅうじか}}とは{{r|如何|いか}}なる{{r|患難|かんなん}}をも{{r|受|う}}けんとの{{r|意思|いし}}{{r|是|これ}}なり。{{r|主|しゅ}}は{{r|此事|このこと}}の{{r|何故|なにゆえ}}かくの{{r|如|ごと}}くなるべきかを{{r|教|おし}}へんと{{r|欲|ほっ}}するや、{{r|告|つ}}げていへり、{{r|此世|このよ}}に{{r|生|い}}きんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|者|もの}}は{{r|真生命|しんせいめい}}の{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|亡|ほろ}}ぼさん、しかれども{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}に{{r|於|おい}}て{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|亡|ほろぼ}}す{{r|者|もの}}は、{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|得|え}}ん、〔[[マタイによる福音書(口語訳)#10:25|マトフェイ十の二十五]]〕{{r|即|すなはち}}{{r|十字架|じゅうじか}}の{{r|路|みち}}を{{r|進行|しんこう}}してその{{r|足|あし}}を{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|立|た}}つる{{r|者|もの}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|得|え}}んと。されどもし{{r|誰|たれ}}か{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}のことを{{r|更|さら}}に{{r|慮|おもんばか}}るならば、これその{{r|出|い}}でて{{r|患難|かんなん}}に{{r|向|むか}}ひし{{r|希望|きぼう}}を{{r|彼|かれ}}は{{r|自|みづ}}から{{r|奪|うば}}へるなり。けだし{{r|此|この}}{{r|念慮|なんりょ}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|患難|かんなん}}に{{r|近|ちか}}づくを{{r|許|ゆる}}さずして、{{r|彼|かれ}}が{{r|此|この}}{{r|念慮|ねんりょ}}に{{r|従|したが}}ふにより、{{r|漸々|ぜんぜん}}{{r|彼|かれ}}を{{r|誘|いざな}}ふて、{{r|苦行的|くぎょうてき}}{{r|有福|ゆうふく}}なる{{r|生涯|しょうがい}}の{{r|中|うち}}より{{r|引|ひき}}{{r|去|さ}}るべくして、{{r|彼|かれ}}を{{r|征服|せいふく}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は{{r|此|この}}{{r|念慮|ねんりょ}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|増々|ますます}}{{r|成長|せいちょう}}せん。{{r|我|われ}}を{{r|愛|あい}}するにより、『{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|生命|せいめい}}をその{{r|心|こころ}}に{{r|於|おい}}て{{r|亡|ほろぼ}}す{{r|者|もの}}は、』{{r|間然|かんぜん}}する{{r|所|ところ}}なく{{r|傷|そこな}}はれずして、{{r|永遠|えいえん}}の{{r|生命|いのち}}に{{r|守|まも}}られん、『{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|其|その}}{{r|生命|いのち}}を{{r|亡|ほろぼ}}す{{r|者|もの}}は{{r|之|これ}}を{{r|得|え}}ん』とは{{r|即|すなはち}}{{r|此義|このぎ}}を{{r|示|しめ}}すなり。されば{{r|猶|なお}}{{r|此世|このよ}}に{{r|於|おい}}て{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}の{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|全|まった}}く{{r|亡|ほろぼ}}すに{{r|自|みづ}}から{{r|備|そな}}へよ。もし{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|亡|ほろぼ}}すならば、{{r|主|しゅ}}は{{r|亦|また}}{{r|同|おな}}じ{{r|意味|いみ}}にていへり、『{{r|汝|なん}}に{{r|永遠|えいえん}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|與|あた}}ふること』{{r|我|わ}}が{{r|汝|なん}}に{{r|約|やく}}せし{{r|如|ごと}}くせん〔[[ヨハネによる福音書(口語訳)#10:28|イオアン十の二十八]]〕。されど{{r|汝|なん}}は{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}に{{r|留|とど}}まるならば、{{r|我|わ}}が{{r|約束|やくそく}}と{{r|未来|みらい}}の{{r|幸福|こうふく}}に{{r|於|おけ}}る{{r|保証|ほしょう}}とを{{r|猶|なお}}{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}に{{r|実際|じっさい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|汝|なん}}らに{{r|示|しめ}}さん。{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}を{{r|軽|かろ}}んずるときは、{{r|永遠|えいえん}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|得|え}}ん。{{r|此|こ}}の{{r|武装|ぶそう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|出発|しゅっぱつ}}する{{r|時|とき}}は、{{r|凡|すべ}}て{{r|患難|かんなん}}{{r|憂苦|ゆうく}}と{{r|思惟|しい}}せらるる{{r|所|ところ}}のものは、{{r|汝|なん}}の{{r|眼中|がんちゅう}}に{{r|軽|かろ}}んぜられん。けだし心が{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}く{{r|武装|ぶそう}}せらるるときは、{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|戦|たたかい}}もなく、{{r|死|し}}の{{r|危|あやう}}きに{{r|臨|のぞ}}みて{{r|憂愁|ゆうしゅう}}することもあるなし。ゆえにもし{{r|人|ひと}}は{{r|未来|みらい}}の{{r|有福|ゆうふく}}なる{{r|生命|いのち}}を{{r|望|のぞ}}むが{{r|為|ため}}に{{r|此世|このよ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|自己|じこ}}の{{r|生活|せいかつ}}を{{r|憎|にく}}まずんば、{{r|毎時|まいじ}}{{r|毎刻|まいこく}}{{r|来|きた}}る{{r|所|ところ}}の{{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|患難|かんなん}}と{{r|労苦|ろうく}}とを{{r|全|まった}}く{{r|忍耐|にんたい}}する{{r|能|あた}}はざる{{r|所以|ゆえん}}を{{r|確|かく}}として{{r|知|し}}らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。
 
問 {{r|如何|いかん}}して{{r|人|ひと}}は{{r|従前|じゅうぜん}}の{{r|習慣|しゅうかん}}をすてて、{{r|欠乏|けつぼう}}と{{r|苦行的生活|くぎょうてきせいかつ}}に{{r|慣|な}}るべきか。
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答 {{r|身体|しんたい}}は{{r|奢侈|しゃし}}と{{r|懦弱|だじゃく}}とに{{r|資|たす}}くるものの{{r|為|ため}}に{{r|囲|かこ}}まるる{{r|間|あいだ}}は、その{{r|必要|ひつよう}}を{{r|充|み}}たさずして{{r|生活|せかつ}}するを{{r|甘|あま}}んぜざらん、{{r|而|しか}}して{{r|身体|しんたい}}が{{r|凡|すべ}}て{{r|懦弱|だじゃく}}を{{r|生|しょう}}ずるものより{{r|除|のぞ}}かれざる{{r|間|あいだ}}は、{{r|智|ち}}もその{{r|体|たい}}を{{r|奢侈|しゃし}}より{{r|止|とど}}むるあたはざるべし。けだし{{r|奢侈|しゃし}}と{{r|浮華|ふか}}との{{r|観場|かんじょう}}がその{{r|前|まえ}}に{{r|開|ひら}}かるるありて、{{r|懦弱|だじゃく}}に{{r|資|たす}}くる{{r|所|ところ}}のものを{{r|殆|ほとん}}ど{{r|毎時|まいじ}}{{r|見|み}}ざることなき{{r|時|とき}}は、{{r|火焔|かえん}}の{{r|如|ごと}}き{{r|欲望|よくぼう}}{{r|起|おこ}}りて、{{r|彼|かれ}}を{{r|衝動|しょうどう}}すること{{r|焼|や}}くが{{r|如|ごと}}くならん。{{r|故|ゆえ}}に{{r|贖罪者|しょくざいしゃ}}たる{{r|主|しゅ}}はその{{r|跡|あと}}に{{r|従|したがっ}}て{{r|行|ゆ}}かんことを{{r|約束|やくそく}}したる{{r|者|もの}}に、{{r|裸体|らたい}}にして{{r|世|よ}}より{{r|出|い}}づべきを{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く{{r|誡命|かいめい}}し{{r|給|たま}}へり、何となれば人は凡て{{r|懦弱|だじゃく}}に{{r|資|たす}}くる{{r|所|ところ}}のものを{{r|先|ま}}づ{{r|自|みづ}}から{{r|抛棄|ほうき}}して、その{{r|後|のち}}{{r|事|こと}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}せんを{{r|要|よう}}すればなり。{{r|主|しゅ}}も{{r|自|みづ}}から{{r|魔鬼|まき}}と{{r|戦|たたかい}}を{{r|始|はじ}}むるや、{{r|最|いと}}{{r|無趣味|むしゅみ}}なる{{r|野|の}}に{{r|於|おい}}て{{r|開戦|かいせん}}し{{r|給|たま}}へり。{{ul|パウェル}}も{{ul|ハリストス}}の{{r|十字架|じゅうじか}}を{{r|己|おの}}れに{{r|任|にな}}ふ{{r|者|もの}}に{{r|邑|ゆう}}より{{r|出|い}}づべきを{{r|勧告|かんこく}}す。いへらく『{{r|我|われ}}らは{{r|彼|かれ}}の{{r|辱|はずかしめ}}を{{r|任|にな}}ひ、{{r|邑外|ゆうがい}}に{{r|出|い}}でて{{r|彼|かれ}}に{{r|就|つ}}くべし』〔[[ヘブル人への手紙(口語訳)#13:13|エウレイ十三の十三]]〕、{{r|何|なん}}となれば{{r|主|しゅ}}は{{r|邑外|ゆうがい}}に{{r|於|おい}}て{{r|苦|くるしみ}}をうけたればなり。けだし{{r|人|ひと}}は{{r|世|よ}}とすべて{{r|世|よ}}にある{{r|所|ところ}}のものより{{r|己|おのれ}}を{{r|分離|ぶんり}}するや、その{{r|従前|じゅうぜん}}の{{r|習慣|しゅうかん}}と{{r|従前|じゅうぜん}}の{{r|生活|せいかつ}}の{{r|有様|ありさま}}とを{{r|速|すみやか}}に{{r|忘|わす}}れて、{{r|此|これ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|永|なが}}く{{r|占有|せんゆう}}せられざらん。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|人|ひと}}を{{r|世|よ}}と{{r|世|よ}}の{{r|事物|じぶつ}}に{{r|近|ちか}}づかしむるにより、{{r|直|ただち}}にその{{r|智力|ちりょく}}を{{r|弱|よわ}}めん。ゆえに{{r|此|こ}}の{{r|救済的|きゅうさいてき}}{{r|及|およ}}び{{r|苦行的|くぎょうてき}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|大|だい}}なる{{r|進歩|しんぽ}}を{{r|為|な}}すが{{r|為|ため}}に、{{r|特|こと}}に{{r|協力|きょうりょく}}して{{r|之|これ}}を{{r|導|みちび}}くは{{r|何物|なにもの}}なるを{{r|知|し}}らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|修道士|しゅうどうし}}の{{r|庵|いおり}}の{{r|貧|まづ}}しく{{r|欠乏|けつぼう}}なる{{r|状態|じょうたい}}にあらんことと、{{r|修道士|しゅうどうし}}の{{r|為|ため}}に{{r|庵|いおり}}は{{r|空虚|くうきょ}}にして、{{r|安息|あんそく}}の{{r|望|のぞみ}}を{{r|挑発|ちょうはつ}}すべきものを{{r|一|いつ}}も{{r|蓄|たくは}}へざらんことは{{r|有益|ゆうえき}}にして、{{r|此|この}}{{r|戦|たたかい}}に{{r|助|たす}}くるなり。けだし{{r|人|ひと}}を{{r|懦弱|だじゃく}}ならしむる{{r|原因|げんいん}}より{{r|遠|とお}}ざかるときは、{{r|人|ひと}}は{{r|二様|によう}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|於|おい}}て、{{r|即|すなはち}}{{r|内部|ないぶ}}と{{r|外部|がいぶ}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|於|おい}}て{{r|危|あやう}}きを{{r|免|のが}}れん。かくの{{r|如|ごと}}く{{r|安逸|あんいつ}}に{{r|資|たす}}くるものを{{r|自|みづ}}から{{r|遠|とお}}ざくる{{r|人|ひと}}はその{{r|欲望|よくぼう}}を{{r|起|おこ}}すものの{{r|近|ちか}}きに{{r|居|お}}る{{r|者|もの}}に{{r|比|ひ}}すれば{{r|労|ろう}}せずして{{r|勝利|しょうり}}を{{r|得|え}}ん。けだしここには{{r|二倍|にばい}}の{{r|苦行|くぎょう}}あるなり。
 
{{r|人|ひと}}はその{{r|住所|じゅうしょ}}の{{r|整頓|せいとん}}{{r|設備|せつび}}の{{r|為|ため}}に{{r|必要|ひつよう}}なるものを{{r|欠|か}}く{{r|時|とき}}は、{{r|人|ひと}}の{{r|要求|ようきゅう}}も{{r|易|たや}}すく{{r|軽|かろ}}んぜらるべく、その{{r|要求|ようきゅう}}を{{r|適宜|てきぎ}}に{{r|充|み}}たさざる{{r|可|べか}}らざる{{r|緊要|きんよう}}の{{r|時|とき}}に{{r|於|おい}}ても、{{r|人|ひと}}は{{r|之|これ}}を{{r|視|み}}るに{{r|欲望|よくぼう}}を{{r|以|もっ}}てせず、{{r|何等|なんら}}の{{r|微物|びぶつ}}を{{r|以|もっ}}ても{{r|体|たい}}を{{r|悦|よろこ}}ばしめずして、{{r|之|これ}}を{{r|見|み}}ること{{r|或|あ}}る{{r|軽|かろ}}んずべきものを{{r|見|み}}るが{{r|如|ごと}}くし、{{r|食|しょく}}に{{r|近|ちか}}づくも{{r|之|これ}}を{{r|甘|あま}}んずるが{{r|為|ため}}にあらず、{{r|性|せい}}を{{r|助|たす}}けて{{r|之|これ}}を{{r|堅|かた}}むるが{{r|為|ため}}にせんとす。かくの{{r|如|ごと}}きの{{r|勉励|べんれい}}は{{r|速|すみやか}}に{{r|人|ひと}}を{{r|導|みちび}}きて{{r|憂|うれ}}ひず{{r|哀|かなし}}まざる{{r|意思|いし}}を{{r|以|もっ}}て{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}せしむるに{{r|至|いた}}らん。ゆえに{{r|凡|すべ}}て{{r|修道士|しゅうどうし}}と{{r|戦|たたか}}ふものをば、{{r|之|これ}}を{{r|避|さ}}けんが{{r|為|ため}}に{{r|疾足|しっそく}}して、{{r|後|あと}}を{{r|顧|かえり}}みづ、{{r|彼|かれ}}と{{r|開戦|かいせん}}せんとするものと{{r|交通|こうつう}}せず、{{r|之|これ}}を{{r|一見|いっけん}}するだも{{r|節制|せっせい}}して、もし{{r|近|ちか}}づき{{r|来|きた}}るときは、{{r|出来得|できう}}るだけ{{r|之|これ}}に{{r|遠|とお}}ざかるは、{{r|勉励|べんれい}}なる{{r|修道士|しゅうどうし}}に{{r|適当|てきとう}}なり。{{r|予|よ}}が{{r|此事|このこと}}を{{r|言|い}}ふはただ{{r|腹|はら}}の{{r|為|ため}}に{{r|言|い}}ふにあらず、すべて{{r|修道士|しゅうどうし}}の{{r|自由|じゆう}}の{{r|誘|いざな}}はれ{{r|且|かつ}}{{r|試|こころ}}みらるべき{{r|誘惑|ゆうわく}}と{{r|戦|たたかい}}とにみちびき{{r|入|い}}れんとするものにつきて{{r|言|い}}ふなり。けだし{{r|人|ひと}}は{{r|神|かみ}}に{{r|来|きた}}るときは、すべて{{r|左|さ}}の{{r|件々|けんけん}}を{{r|節制|せっせい}}することを{{r|神|かみ}}と{{r|約束|やくそく}}するなり、{{r|即|すなはち}}{{r|婦人|ふじん}}の{{r|面|おもて}}を{{r|窺|うかが}}はざること、{{r|美|び}}なる{{r|容顔|ようがん}}を{{r|見|み}}ざること、{{r|何物|なにもの}}に{{r|対|たい}}しても{{r|願望|がんぼう}}を{{r|抱|いだ}}かざること、{{r|奢侈|しゃし}}に{{r|耽|ふけ}}らざること、{{r|装飾|そうしょく}}せる{{r|衣服|いふく}}を{{r|見|み}}ざること、{{r|俗人|ぞくじん}}が{{r|開設|かいせつ}}したるすべての{{r|陳列場|ちんれつじょう}}を{{r|窺|うかが}}はざること、{{r|彼|かれ}}らの{{r|言説|げんせつ}}を{{r|聴|き}}かざること、{{r|及|およ}}び{{r|之|これ}}を{{r|好着|こうちゃく}}せざらんことを{{r|約|やく}}す、{{r|何|なん}}となれば{{r|慾念|よくねん}}は{{r|凡|すべ}}て{{r|此|これ}}らのものと{{r|接近|せっきん}}するにより、{{r|大|おい}}なる{{r|勢力|せいりょく}}を{{r|得|え}}て{{r|苦行者|くぎょうしゃ}}を{{r|懦弱|だじゃく}}にし、その{{r|思想|しそう}}と{{r|企図|きと}}とを{{r|変|へん}}ぜしむるによる。それ{{r|或|あ}}る{{r|善|ぜん}}なるものを{{r|一見|いっけん}}するは、{{r|真|しん}}の{{r|熱心者|ねっしんしゃ}}の{{r|同意|どうい}}を{{r|喚起|かんき}}して、{{r|善|ぜん}}を{{r|成|な}}すに{{r|傾|かたむ}}かしむるならば、{{r|之|これ}}と{{r|反対|はんたい}}なる{{r|所|ところ}}のものも{{r|心意|しんい}}を{{r|圧|あっ}}して、{{r|之|これ}}を{{r|奴隷|どれい}}にする{{r|勢力|せいりょく}}を{{r|有|ゆう}}すること{{r|明|あきらか}}なり。{{r|而|しか}}して{{r|黙想|もく}}する{{r|心意|しんい}}と{{r|遇会|ぐうかい}}するものは、{{r|或|あ}}る{{r|大|だい}}なるものには{{r|非|あら}}ずして、ただ{{r|之|これ}}を{{r|戦闘|せんとう}}{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|陥|おとしい}}るるのみなるも、これ{{r|亦|また}}{{r|既|すで}}に{{r|大|だい}}なる{{r|損失|そんしつ}}なり、{{r|即|すなはち}}{{r|心意|しんい}}そのものを{{r|平安|へいあん}}なる{{r|状態|じょうたい}}より{{r|混乱|こんらん}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|随意|ずいい}}に{{r|陥|おとしい}}るるなり。
 
それ{{r|奮闘|ふんとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|試|こころ}}みられたる{{r|老|ろう}}{{r|苦行者|くぎょうしゃ}}の{{r|一人|いちにん}}は、{{r|鬚|ひげ}}なくして{{r|婦人|ふじん}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|青年|せいねん}}を{{r|認|みと}}め、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|思念|しねん}}の{{r|為|ため}}に{{r|害|がい}}ありとなし、その{{r|苦行|くぎょう}}の{{r|為|ため}}に{{r|毒|どく}}なりとなせしならば、{{r|此聖人|このせいじん}}の{{r|入|い}}りて{{r|兄弟|けいてい}}を{{r|接吻|せっぷん}}するを{{r|躊躇|ちゅうちょ}}したりしを、{{r|誰|たれ}}か{{r|之|これ}}を{{r|等閑|とうかん}}{{r|視|し}}してこれ{{r|我|わ}}が{{r|事|こと}}にあらずと{{r|為|な}}すを{{r|得|え}}ん。{{r|賢|けん}}なる{{r|老人|ろうじん}}は{{r|熟々|つらつら}}{{r|思|おも}}ふやう『もしただ{{r|是夜|このよ}}に{{r|於|おい}}て{{r|此処|ここ}}に{{r|之|これ}}と{{r|相|あい}}{{r|類|るい}}する{{r|事|こと}}のあらんを{{r|少|すこ}}しにても{{r|思|おも}}ふならば、これ{{r|亦|また}}{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|大|だい}}なる{{r|害|がい}}とならん』と。ゆえに{{r|彼|かれ}}は{{r|入|い}}らずして{{r|告|つ}}げていへり、『{{r|子|こ}}よ{{r|予|よ}}は{{r|恐|おそ}}れず、さりながら{{r|何|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|予|よ}}は{{r|徒|いたず}}らに{{r|自己|じこ}}に{{r|向|むか}}つて{{r|戦|たたかい}}を{{r|起|おこ}}すを{{r|願|ねが}}はんや。{{r|之|これ}}と{{r|相|あい}}{{r|類|るい}}する{{r|何事|なにごと}}をか{{r|想起|そうき}}するは、{{r|心|こころ}}に{{r|大|だい}}なる{{r|混乱|こんらん}}を{{r|生|しょう}}ぜん。{{r|餌|えば}}は{{r|此|この}}{{r|身|み}}の{{r|各|かく}}{{r|肢|し}}にかくるるありて、{{r|之|これ}}により{{r|大|だい}}なる{{r|戦|たたかい}}は{{r|人|ひと}}に{{r|臨|のぞ}}まん、されば{{r|人|ひと}}は{{r|自己|じこ}}を{{r|保護|ほご}}して、その{{r|来|きた}}らんとする{{r|戦|たたかい}}をば{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|緩|ゆる}}うして、{{r|逃走|とうそう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|救|すく}}はれんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}よ、{{r|何事|なにごと}}か{{r|接近|せっきん}}し{{r|来|きた}}るときは、たとひ{{r|己|おのれ}}を{{r|善|ぜん}}に{{r|強|し}}ゆといへども、{{r|常|つね}}に{{r|之|これ}}を{{r|見|み}}、{{r|且|かつ}}は{{r|之|これ}}を{{r|願|ねが}}ひつつ{{r|早|はや}}くも{{r|危|あやう}}きに{{r|瀕|ひん}}せん』。
 
{{r|地中|ちちゅう}}には{{r|多|おお}}くの{{r|埋没|まいぼつ}}せる{{r|薬物|やくぶつ}}を{{r|見|み}}るべきも、{{r|夏|なつ}}は{{r|炎熱|えんねつ}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|何人|なにびと}}もこれを{{r|知|し}}らず、{{r|然|しか}}るに{{r|滋潤|じじゅん}}{{r|至|いた}}りて{{r|清涼|せいりょう}}なる{{r|空気|くうき}}の{{r|力|ちから}}に{{r|触|ふ}}るる{{r|時|とき}}は、{{r|各|かく}}{{r|薬物|やくぶつ}}の{{r|地中|ちちゅう}}{{r|何処|いづこ}}にか{{r|埋|うづ}}まりしものあらはるるなり。かくの{{r|如|ごと}}く{{r|人|ひと}}も{{r|黙想|もくそう}}の{{r|恩寵|おんちょう}}と{{r|節制|せっせい}}の{{r|温暖|おんだん}}に{{r|居|お}}るときは、{{r|実|じつ}}に{{r|多|おお}}くの{{r|慾念|よくねん}}より{{r|休止|きゅうし}}せん、{{r|然|しか}}れどももし{{r|世事|せいじ}}に{{r|関渉|かんしょう}}するならば、その{{r|時各|ときかく}}{{r|慾念|よくねん}}は{{r|起|おこ}}りてその{{r|首|こうべ}}を{{r|昂|あぐ}}るを{{r|見|み}}ん、{{r|矧|いわん}}や{{r|安息|あんそく}}の{{r|香気|こうき}}に{{r|触|ふ}}るる{{r|時|とき}}に{{r|於|おい}}てをや、{{r|予|よ}}が{{r|之|これ}}を{{r|言|い}}ふは、{{r|此|この}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|お}}る{{r|間|あいだ}}、{{r|死|し}}せざる{{r|間|あいだ}}は、{{r|誰|たれ}}も{{r|自負|じふ}}に{{r|陥|おちい}}らざらんが{{r|為|ため}}なり、{{r|且|かつ}}{{r|予|よ}}はすべて{{r|邪|よこしま}}なる{{r|生活|せいかつ}}にみちびく{{r|所|ところ}}のものを{{r|避|さ}}け、{{r|且|かつ}}{{r|之|これ}}に{{r|遠|とお}}ざかり、{{r|苦行的|くぎょうてき}}{{r|戦闘|せんとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おい}}に{{r|人|ひと}}に{{r|助|たす}}くる{{r|所|ところ}}のものを{{r|示|しめ}}さんと{{r|欲|ほっ}}するなり。{{r|或|あ}}る{{r|想起|そうき}}の{{r|我|われ}}らに{{r|耻|はぢ}}をかうむらしむるものを{{r|畏|おそ}}るること{{r|又|また}}{{r|之|これ}}と{{r|同|おな}}じく{{r|良心|りょうしん}}を{{r|蹂躙|じゅうりん}}せざることと{{r|之|これ}}を{{r|軽|かろ}}んぜざることは、{{r|常|つね}}に{{r|我|われ}}らに{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|終|つい}}に{{r|我|われ}}らは{{r|身体|しんたい}}を{{r|一時|いちじ}}{{r|野|の}}に{{r|遠|とお}}ざくるを{{r|試|こころ}}み、{{r|之|これ}}をして{{r|忍耐|にんたい}}を{{r|得|え}}せしめん。しかれども{{r|最|もっとも}}{{r|重要|じゅうよう}}なるは、おのおの{{註|{{r|此事|このこと}}は{{r|各人|かくじん}}の{{r|為|ため}}に{{r|心|こころ}}を{{r|痛|いた}}ましむべしといへども{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|人|ひと}}は{{r|最早|もはや}}{{r|何|なに}}も{{r|恐|おそ}}るる{{r|所|ところ}}あらざるべし}}{{r|何処|いづこ}}にありとも、{{r|戦|たたかい}}の{{r|原因|げんいん}}となるものより{{r|遠|とお}}ざかるに{{r|尽力|じんりょく}}するにあるべし、これ{{r|需要|じゅよう}}が{{r|生|しょう}}じ{{r|来|きた}}らん{{r|時|とき}}、その{{r|要求|ようきゅう}}を{{r|充|み}}たすべきものの{{r|近|ちか}}きにあるがため{{r|之|これ}}に{{r|陥|おちい}}るを{{r|免|まぬか}}れん{{r|為|ため}}なり。
 
問 {{r|種々|しゅじゅ}}の{{r|引誘|いんゆう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|絶|た}}ちて{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|入|い}}る{{r|者|もの}}は、{{r|罪|つみ}}と{{r|戦|たたか}}ふに{{r|如何|いか}}なる{{r|起初|きしょ}}を{{r|為|な}}し{{r|如何|いか}}に{{r|奮闘|ふんとう}}し{{r|始|はじ}}むべきか。