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2020年5月19日 (火) 21:57時点における版

正信念仏偈

おほ寿命いのちはかることのできぬ如来によらいみやうし、ひかりおもはかることのできぬ如来によらいをたのみたてまつります。

この如来によらいは、とほきいにしへ、法蔵ほふざうさついんのおすがたをあらはさせられたとき、ざい王仏わうぶつもと発心ほつしんなされて、諸仏しよぶつじやういんぎやうと、こくさうじやう人天にんてん善悪ぜんあくをみそなはし、このうへもなきしゆしようねがひをたて、たぐひまれなるおほきなちかひおこたまひ、五こふのあひだゆゐして、すくひのみちえらびとられ、かさねて、南無阿弥陀なむあみだぶつ御名みなを十ぱうかいつたへてかならず一さいしゆじやうすくはんとちかはせられました。

あまねく、はかることのできぬひかりほとりのられぬひかりへることのないひかりくらべものゝないひかり、すべてのひかりのうちのさいじやうひかり清浄きよらかなるひかり歓喜よろこびひかり智慧ちゑひかり、いつもえずてらたまひかりおもひつくすことのできぬひかりきつくすことのできぬひかりにちぐわつにもえすぐれたひかりはなちて、あらゆるかずおほきこくてらしてくださるから、このきとしけるものはみなこのひかりてらしをかうむります。

ほんぐわんにおちかひなされたみやうがうは、われらをまさしくじやううまるゝさだめてくださるはたらきであります。そのみやうがう至心まことしんじよろこばせやうといふ誓願ちかひがあればこそ、われらはしんじてわうじやうたゞしきたねじやうずるのであります。この信心しんじんたゞしきたねがみたされたら、このでは等覚とうかくくらゐとなり、のちではだいはんをさとるので、それとても、われかならめついたらしめたいといふ誓願ちかひ出来できてあるからであります。

しや如来によらいが、このでさせられたのは、たゞふかくしてひろきことうみのやうな弥陀みだほんぐわん旨趣おもむきかんがためであらせられます。五ぢよくあしさまなるときにおいてなやめるもろ人々ひとは、如来によらい如実まことことうけにしなくてはなりませぬ。

く一ねんしんくわん愛楽あいらくのみたされたこころおこすとき煩悩なやみをたゝず、この罪悪ざいあくふかきまゝにてすくはれ、はんのさとりをひらかせていたゞけるのであります。

ぼんしやうじやも、さてはぎやくざいしやうほふそしるいたづらものであらうとも、ひとしく如来によらいしんずれば、さながら、もろかはみづが、大海だいかいにながれて、おなしほあぢとなるやうに、いづれも同一どういつ法悦ほふえつさせていたゞくのであります。

おさつててたまはぬ仏心ぶつしんひかりが、つねにわれらをてらしておまもくださる。それによつて、しんの一ねんにもはや救済すくひうたがみやうやみはなくなつたけれども、むさぼおしみ、いかにくみの妄念まうねん雲霧くもきりのやうにつねに、真実まこと信心しんじん天空そらおほうてます。しかも、たとへばにちくわう雲霧くもきりおほはれても、そのしたまつたくらいことのないやうに救済すくひについてはふたゝ疑惑うたがひにおちることがありませぬ。

信心しんじんをいたゞいて、こゝろにお慈悲じひをうかべみて、敬虔けいけんな、よろこびのこゝろるやうになれば、たゞちに、よこさまに五悪趣あくしゆまよひのきやうかいをたちえるのであります。

きもあしきも、すべてのぼんは、如来によらいひろ誓願ちかひいてしんずるうへは、しや如来によらいは、このひとをさして「くわうだいなるすぐれたるかいのあるものよ、ふん陀利華だりけごとひとよ」とおめになります。

弥陀みだぶつほんぐわん念仏ねんぶつは、邪見じやけんなものや、憍慢けうまん人々ひとであつては、これをしんじてたもつことは、はなはかたい。かたなかかたいこと、これほどかたいことはありませぬ。

いんろん支那しなほん高僧かうそうたちは、すべてだいしやうしやくそんでなされた本懐おもひは、弥陀みだほんぐわんたまふにあることをあらはしめし、この如来によらい本誓ほんせいはわれらの根機ひとがら相応さうおうたまふことをあきらかにしてくだされました。

しや如来によらいりやうせんにあつて、大衆だいしゆげてのたまふやう、「のちの南天竺なんてんぢく龍樹りうじゆさつといふそうしゆつげんして、ことごと有無うむ邪見じやけんをうちくだき、だいじようじやうほふなる弥陀みだほんぐわんき、みづからもしんじて、くわん喜地ぎぢくらゐをさとつて、安楽あんらくじやうわうじやうするであらう」とあふせられました。

このけんおうじてしゆつげんせられた龍樹りうじゆさつは、りき修行つとめむつかしくて、りくたびするやうにくるしいものであることをしめし、りきのりぎやうやすくて、水道すゐだうをわたるやうにたのしいおもむきをしんぜしめ、弥陀みだぶつほんぐわんしんずれば、おのづから、すぐさまひつぢやう退たいくらゐ)にることができます。このうへはたゞよくいつも如来によらい名号みなをとなへて、このだい慈悲じひのこもつたぜいおんはうぜねばならぬとおふせられました。

天親てんじんさつは『じやうろん』をつくつて、そのをしへをとかれました。すなはちみづから尽十方じんじつぱう無礙むげくわう如来によらいしんじたてまつり、『だいりやう寿じゆきやう』によつて真実まことをしへあらはし、横超わうてうだいせいぐわん旨趣むねをひろくべられました。

このさつは、くわしくほんぐわんりきかうのこゝろによつて、きとしけるものをさいしやうがために、一心いつしんのことはりをあらはし、どくうみごと名号みなしんずれば、かならず、このにあるうちから、じやうしやうじやかずつらなぶんとなり、のちれんざうかいじやう)にいたり、すぐさま眞如しんによほふしやうめうをさとることができ、そのゝちは還相げんさうのはたらきをなして、煩悩なやみはやしにも神通ふしぎちからをあらはし、生死まよひそのにもおうしめして、すべてのしゆじやうさいするのであるとべられました。

支那しなりやうてんは、いつも曇鸞どんらんだいたまふところむかつてさつとあがめてきやうらいいたされました。もと、神仙しんせんをしへおもんぜられたこともあつたが、だい流支るし三蔵さんざうからじやうをしへさづけられて、そのせんぎやうきすてゝ、たのしくにじやう)のみちせられました。

天親てんじんさつの『じやうろん』に、ちうをくはへて、はうわうじやうする因果いんぐわは、すべてりき誓願ちかひによることをあらはさせられました。きてじやううまれてさとるも、かへりてけがれたるこくしゆじやうをすくふのも、ともりきのなさしめたまふとしる、そのりきしんずる信心しんじんは、まさしくわうじやう決定さだめしめらるゝたねであります。

それであるから、まどひにんだわれらぼんも、この信心しんじんをおこせばじやううまれ、たゞちにしやうそくはんふことのわかるはんしようすることができます。そしてかならはかりなき光明くわうみやうのかゞやくじやうわうじやうしたうへは、やがてあらゆるしゆじやうこと教化けうくわすくふことができるとしめされました。

だうしやくぜんしやくそん一代いちだい教説をしへを、しやうだうじやうの二もん分判わかたせられ、しやうだうもん今日けふのわれらには到底たうていさとがたきことをきはめ、たゞ、じやうもんひとつだけが、われらの通入つうにふられることをあかされました。そこでりきではげむ万善ばんぜんしよぎやうをしりぞけ、もっぱどく円満えんまんせる名号みなしんじとなふることをすゝめられました。

ねんごろに三しんじゆんしん、一しん相続心さうぞくしん)と、それの反対はんたいなる三しん信心しんじんじゆん信心しんじんいち信心しんじん相続さうぞく)のことはりををしへ、像法ざうほふ末法まつぽふ法滅ほふめつだいにわたつて一くわんせる大道だいだうをのべ、慈悲じひをもつてしゆじやうをみちびきたまふ。一しやうのあひだ罪悪ざいあくつくつてゐるものも、このひろちかひをしんずれば、安養やすらかな浄土みくににいたつて、不思議ふしぎなる證果さとりひらくことををしへられました。

善導ぜんだうだいは、あやまれるりうえて、ひとりたゞしいぶつあきらかにしめされ、みちこゝろかけながらもぢやうぜん散善さんぜんりき迷執めいしふのすたらぬもの、また「みちこゝろかけぬ五ぎやくあくのいたづらもの、そのいづれをもあはれんで、われらの信心しんじんみやうがうたねとなり、光明くわうみやうたすけとなつてくださるむねあらはし、ほんぐわんぶつあふがしめたまひ、われらぎやうじやまさしく金剛こんがう信心しんじんをうけて、お慈悲じひをよろこび、一ねんほんぐわん旨趣むねにかなふときは、だいおなじく三にんにんにん信忍しんにん)をて、やがてほつしやうのさとりをひらいて常住じやうじゆうたへなるたのしみのきやうかいになれる」としめされました。

源信げんしんそうは、くわしくしゃくそんだい教法けうほふ開説かいせつしてはんせられたうへで、たゞひとへに安養あんやううまるゝ大法だいほふしんじまたれを一さい人々ひとにおすゝめなされました。すなはち専修せんしう執心しふしんふかく、雑修ざふしゆ執心しふしんあさきことをはんじやくなされ、その雑修ざふしゆあさこゝろのものは化土けどうまれ、専修せんじゆふかこゝろのものは、はううまるゝことわりを、きつぱりとべんじやうりつなされました。

そしてきはめておも悪人あくにんは、たゞぶつみやうとなふるのみによつて、すくはるゝことをしめし、われもまた如来によらい摂取せつしゆ光明くわうみやうのうちにまもられてある、われらは煩悩なやみまなこがくらんで、如来によらい光明くわうみやうたてまつることはできないけれども、だい如来によらいむことなくしてつねてらしたまふのであるとよろこばれました。

ほん源空げんくうしやうにんは、あきらかにほとけをしへをきはめ、善悪ぜんあくぼんあはれんで真宗しんしうけうしようをこの片州へんしうほんおこし、せんぢやくほんぐわん念仏ねんぶつを、この弘布ぐふせられました。

「われら、生死輪まよひいへにあるのはうたがひのこゝろにつながれてるからである、すみやかに寂静しづかなるはんのみやこにるには、かなら信心しんじんでなくてはならぬ」とおほせられました。

きやうせつしんひろめたまふさつたちや、本宗ほんしう祖師そしたちは、ほとりなききはめてにごれる悪人あくにんをすくふめに、かゝるのり御説おとくだされました。道俗だうぞくをとはず、今時いまどき人々ひとは、ともこゝろおなじうして、たゞこれらの高僧かうそうがた宣説せんせつしんぜねばなりませぬ。

出典

  • 意訳聖典 国立国会図書館 デジタルコレクション

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