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{{r|善導|ぜんだう}}{{r|大|だい}}{{r|師|し}}は、あやまれる{{r|時|じ}}{{r|流|りう}}を{{r|超|こ}}えて、ひとりたゞしい{{r|仏|ぶつ}}{{r|意|い}}を{{r|明|あきら}}かに{{r|示|しめ}}され、{{r|道|みち}}に{{r|心|こゝろ}}かけながらも{{r|定|ぢやう}}{{r|善|ぜん}}{{r|散善|さんぜん}}の{{r|自|じ}}{{r|力|りき}}の{{r|迷執|めいしふ}}のすたらぬもの、また「{{r|道|みち}}に{{r|心|こゝろ}}かけぬ五{{r|逆|ぎやく}}十{{r|悪|あく}}のいたづらもの、そのいづれをもあはれんで、われらの{{r|信心|しんじん}}は{{r|名|みやう}}{{r|号|がう}}が{{r|因|たね}}となり、{{r|光明|くわうみやう}}が{{r|縁|たすけ}}となつてくださる{{r|旨|むね}}を{{r|顕|あらは}}し、{{r|本|ほん}}{{r|願|ぐわん}}の{{r|仏|ぶつ}}{{r|智|ち}}を{{r|仰|あふ}}がしめたまひ、われら{{r|行|ぎやう}}{{r|者|じや}}が{{r|正|まさ}}しく{{r|金剛|こんがう}}の{{r|信心|しんじん}}をうけて、お{{r|慈悲|じひ}}をよろこび、一{{r|念|ねん}}、{{r|本|ほん}}{{r|願|ぐわん}}の{{r|旨趣|むね}}にかなふときは、{{r|韋|ゐ}}{{r|提|だい}}{{r|希|け}}に{{r|同|おな}}じく三{{r|忍|にん}}({{r|喜|き}}{{r|忍|にん}}、{{r|悟|ご}}{{r|忍|にん}}、{{r|信忍|しんにん}})を{{r|獲|え}}て、やがて{{r|法|ほつ}}{{r|性|しやう}}のさとりをひらいて{{r|常住|じやうじゆう}}の{{r|妙|たへ}}なる{{r|楽|たのし}}みの{{r|境|きやう}}{{r|界|かい}}になれる」と{{r|示|しめ}}されました。
{{r|源信|げんしん}}{{r|僧|そう}}{{r|都|づ}}は、くわしく{{r|釈|しゃく}}{{r|尊|そん}}一
そして{{r|極|きは}}めて{{r|重|おも}}き{{r|悪人|あくにん}}は、たゞ{{r|仏|ぶつ}}{{r|名|みやう}}を{{r|称|とな}}ふるのみによつて、{{r|救|すく}}はるゝことを{{r|示|しめ}}し、われもまた{{r|彼|か}}の{{r|如来|によらい}}の{{r|摂取|せつしゆ}}の{{r|光明|くわうみやう}}のうちにまもられてある、われらは{{r|煩悩|なやみ}}に{{r|眼|まなこ}}がくらんで、{{r|如来|によらい}}の{{r|光明|くわうみやう}}を{{r|見|み}}たてまつることはできないけれども、{{r|大|だい}}{{r|悲|ひ}}の{{r|如来|によらい}}は{{r|倦|う}}むことなくして{{r|常|つね}}に{{r|照|てら}}したまふのであると{{r|悦|よろこ}}ばれました。
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