「氷の涯」の版間の差分

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:オスロフは黒い鬚(ひげ)を顔いちめんに生やした六尺五、六寸もある巨漢であった。碧(あお)い無表情な眼をキョトンと見開いている風tきが、いかにも純粋のスラブらしかった。いつも茶色がかった狩猟服や、青いコールテンの旅行服を着込んで、堂々と司令部に出たりはいたりしていた。そうかと思うとバッタリ姿を見せなかったりしたので、最初のうちはどこかの御用商人かと思っていたが、どうしてどうして極東ロシアにおける屈指の陰謀政治家ということがそのうちにだんだんと首肯されてきた。
:第一に驚かされたのは彼の居室になっている四階のりっぱさであった。たぶん、以前に一等の客室か貴賓室にあてていたものであったろう。大理石とマホガニーずくめの荘重典麗を極めたもので、閉め切ってある大舞踏室なぞを隙見(すきみ)してみると、ロシア一流の黄金ずくめの眼も眩(くら)むような装飾であった。
:ハルビン市中の商人という商人は皆、彼にお辞儀をしていた。なかには、わざわざ店を飛び出して通りがかりの彼と握手しに来る者もいた。この辺一流の無頼漢や、馬賊の頭目と呼ばれている連中なぞも裏階段からコソコソ出入りshていた一方に、彼が銀月という料理屋で開く招宴には、日本軍の司令官新納(にいろ)中将閣下も出席しなければならなかったらしい。
:彼は別に大した財産を持っていなかったが、金を作ることには妙に得ていたという。のみならず持って生れた度胸と雄弁で、日米露中の大立物を、片端から煙に巻いて隠然たる勢力を張りつつ、白軍のセミヨノフ、ホルワットの両将軍を左右の腕のように使って、シベリア王国の建設を計画していたものだそうな。自分の所有家屋を、軍隊経理と同価格の賄つきで、日本軍司令部に提供したのも、そうした仕事について日本軍と白軍の連絡を取るのに便利だからといって、進んで日本軍当局に要請したものであったという。
:ところがこの頃になってまたすこし風向きが変ってきたという噂(うわさ)も伝わっているようであった。
:白軍の軍資金が欠乏したために活躍が著しく遅鈍になった。ホルワット将軍は、病気と称して畑の向うの旧ハルビンの邸宅に寝ているらしく、彼が行っても容易に面会しない。同時にセミヨノフ将軍も以前のように彼の手許へ通信をよこさなくなった。それは日本当局が貪欲(どんよく)な両将軍を支持しなくなったのに原因しているということであったが、そのために立場がなくなった彼は目下躍起となって日本軍の司令部に食ってかかっているという。
:「閣下よ。窓から首を出してハルビンの街を見られよ。ロシア人の性格はあのとおり曲線を好まないのだ」……といって……。
:むろんこれは我々司令部の当番仲間だけが、勤務中に聞き集めた噂の総合だったからそのような噂はドンナ将来を予告しているかはもちろんのこと、はたして事実かどうかすら保証できないのであったが、しかし何にshてもハルビンを中心にしたオスロフの勢力が大したものであることは周知の事実であった。そのせいか司令部の中をチョコチョコと歩きまわる日本の将校や兵卒が、彼を見るたんびに仰向けになって敬礼する恰好(かっこう)がこの上もなく貧弱で、滑稽(こっけい)に見えた。
:彼は以上陳(の)べたような偉大な勢力を象徴するりっぱな建物の中に、タッタ三人の家族を養っていた。まっ白髪(しらが)の母親と、瘠(や)えこけた鷲鼻(わしばな)の細君と、それから現在、僕がこの手紙を書いているすぐ横で湯沸器(サモワル)の番をしいしい編物をしているニーナと……。
:ことわっておくがニーナはけっして別嬪(べっぴん)ではない。コルシカ人とジプシーの混血児だと自分でいっているが、そのせいか身体が普通よりズット小さい。濃いお化粧をすると十四、五ぐらいにしか見えない。それでいて青い瞳(ひとみ)と高い鼻の間が思い切って狭い細面で、おまけに顔いちめんのヒドイ雀斑(そばかす)だから素顔の時はどうかすると二十二、三に見える妖怪(ばけもの)だ。ほんとの年齢は十九だそうで、ダンスと、手芸と、酒が好きだというから彼女のいう血統は本物だろう。
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:彼ら黒襟の諸君は、だからこうして威儀を正しながら偶然の機会を待っているのであった。犯人が高飛びをするとなれば必ず鉄道線路を伝うに相違ない。それ以外の地域はまだ交通、生命の安全を保障されていないのだからその要所要所に網を張っておけばキット引っ掛るに相違ないという確信を持っているらしかった。しかもその要所要所に見張っている黒襟の諸君がやはりコンナふうに、その要所要所で一団となって、威儀を正しているであろう光景を想像すると何ともハヤ、たまらないアクビがコミ上げてくるのであった。
:そいつを我慢しいしい向いの家のカポトキンの時計台が報ずる十一時の音を聞いた時にはもはや、トテモ我慢できない大きなアクビが一つ絶望的な勢でモリモリと爆発しかけてきた。ソイツを我慢しようとして俯向(うつむ)きながら両手を顔に当てようとすると、その時遅くかの時早く、その欠伸が真正面の中尉殿の顔に公々然と伝染してしまった。そこで待っていましたとばかり上席から末席にわたって一つ一つに欠伸玉の受け渡しが始まったが、しかし感心なことにそのややこしいアクビのリレーが片づいても笑う者なぞ、一人もいなかった。間もなく元のとおりのモノスゴイ、静粛な捜索本部に立帰ってしまったのであった。
:僕は後悔shた。僕を捜索本部の当番の刑に処した上等兵を怨んだ。汽車の通らない停車場の待合室よりもモット無意味だと思った。
:しまいには自分自身が厳然たる憲兵に取り巻かれ、第三等式の無言の拷問を受けている犯人みたようなものに見えてきた。……これじゃ、とても辛抱しきれない。いよいよやりきれなくなったら「私が犯人です」といって立ち上ってやろうかしらん。そうしたら、いくらか退屈がしのげるかもしれない……なぞ途方もないことまでボンヤリと空想し始めていた。そのうちにヤット昼食の時間が来た。
:僕は本部の連中に、弁当のライスカレーとお茶を配った。それから自分の食事をすまして地下室へ降りると、そこでまた、悲観させられた。当番連中がいっせいに僕の周囲に集まって来て、