「題杜律巻後奉呈妹氏蘭雪軒」の版間の差分

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 萬曆壬午春 荷谷子識}}
| 『杜律<ref>杜甫の律詩を精選して抄出した本。</ref>』一冊、{{ruby|邵|しょう}} 文端公 {{ruby|寶|ほう}}の{{ruby|鈔|しょう}}する所、{{ruby|虞註|ぐちゅう}}に比し{{ruby|尤|もっと}}も簡明にして{{ruby|讀|よ}}むべし。{{ruby|萬曆|ばんれき}}{{ruby|甲戌|こうじゅつ}}<ref>明の万暦2年(西暦1574年)。</ref>、{{ruby|余|よ}} {{ruby|命|めい}}を{{ruby|賀節|がせつ}}<ref>慶賀節。特に明の皇帝の誕生祝いのこと。</ref>に{{ruby|奉|ほう}}じ、旅して{{ruby|通川|つうせん}}に{{ruby|泊|はく}}す。{{ruby|陝西|せんせい}}の{{ruby|擧人|きょじん}} {{ruby|王|おう}}君 {{ruby|之符|しふ}}に{{ruby|遇|あ}}い、{{ruby|話|はなし}}に接して日を{{ruby|盡|つ}}くし、分かるるに臨んで、余に{{ruby|是|こ}}の書を贈る。余 {{ruby|巾箱|きんそう}}に{{ruby|寶藏|ほうぞう}}して年有り。今 玉を奉ずるを{{ruby|輟|やめ}}め、汝 一たび{{ruby|覽|み}}て、{{ruby|其|そ}}れ余が{{ruby|勤厚|きんこう}}の意を負う無くして、少陵<ref>杜甫の通称。由来は、漢の宣帝と許皇后の陵墓「杜陵」、特に、小さい方の許皇后の陵墓「少陵」のそばに住んでいたことから、自ら「少陵野老」と称したことにちなむ。</ref>をして聲を{{ruby|希|うす}}めしむるも、{{ruby|復|ま}}た班氏の手より{{ruby|發|はっ}}せしむれば{{ruby|可|か}}ならん。
 
 {{ruby|萬曆|ばんれき}}{{ruby|壬午|じんご}}<ref>万暦10年(西暦1582年)。</ref>の春 {{ruby|荷谷子|かこくし}} {{ruby|識|しる}}す。
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==訳文==
 この『杜律』1冊は、文端公 {{ruby|邵宝|しょうほう}}が抜き写ししたもので、元の{{ruby|虞集|ぐしゅう}}が{{ruby|集註|しっちゅう}}した『杜律』に比べて、ずっと簡明で読みやすい。{{ruby|万暦|ばんれき}}{{ruby|甲戌|きのえいぬ}}の年、私は慶賀使<ref>明の皇帝の誕生祝いに送られる使節。</ref>としての命を承け、中国に旅して通川<ref>かつて陝西省に存在した。</ref>に滞在した。陝西省の挙人王之符君に出会い、話し込んで丸一日が過ぎ、分かれる際、この一書を贈ってくれた。私は、布貼りの箱に入れて宝のように保管して何年か経った。いまこの宝物をし頂いておくのはめて、あなたが一度見てみて、それで私の勤めて大切にする気持ちを尊重することなく、杜甫がその声を薄められても、再び{{ruby|両班|ヤンバン}}<ref>朝鮮王朝時代の世襲の士大夫(文臣)階級の事。本来は武官の家系である{{ruby|武班|ムバン}}と文官の家系である{{ruby|文班|ムンバン}}に二つ(両班)に分かれるが、朝鮮王朝では武官は一等下に扱われており、文班だけを両班と呼ぶ場合もある。今日では紳士の代名詞。</ref>の手から発せられれば良いのだ。
 
 {{ruby|万暦|ばんれき}}{{ruby|壬午|みずのえうま}}の年の春、私、{{ruby|許&#31688;|ホボン}} 号は{{ruby|荷谷|かこく}} {{ruby|識|しる}}す。
 
==注釈==