「西班牙犬の家」の版間の差分

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:正面へ廻って見ると、そこも一面の林に面していた、ただここへ来て一つの奇異なことにはその家の入口は、家全体のつり合いから考えてもひどく贅沢(ぜいたく)にも立派な石の階段をちょうど四級もついているのであった。その石は家の他の部分よりも、なぜか古くなってところどころ苔(こけ)が生えているのである。そうしてこの正面である南側の窓の下には家の壁に沿うて一列に、時を分たず咲くのであろうと思える紅い小さい薔薇(そうび)の花が、わがもの顔に乱れ咲いていた。そればかりではない、その薔薇の叢(くさむら)の下から帯のような幅で、きらきらと日にかがやきながら、水が流れ出しているとしか思えない。私の家来のフラテはこの水をさも甘(うま)そうにしたたか飲んでいた。私は一瞥(いちべつ)のうちにこれらのものを自分の瞳(ひとみ)へ刻みつけた。
:さて私は静かに石段の上を登る。ひっそりしたこの四辺(あたり)の世界に対して、私の靴音(くつおと)は静寂を破るというほどでもなく響いた。私は「おれは今、隠者か、でなければ魔法使いの家を訪問しているのだぞ」と自分自身に戯(たわむ)れて見た。そして私の犬の方を見ると、彼は別段変った風もなく、赤い舌を垂れて、尾をふっていた。
:私は'''こつこつ'''と西洋風の扉(とびら)を西洋風にたたいて見た。内からは何の返答もない。私はもう一ぺん同じことを繰り返さねばならなかった。内からはやっぱり返答がない。今度は声を出して案内を乞うてみた。依然、何の反響もない。留守なのかしら空家(あきや)なのかしらと考えているうちに私は多少不気味になって来た。そっと足音をぬすんで――これは何のためであったかわからないが――薔薇のある方の窓のところへ立って、そこから脊(せ)のびをshて内を見まわして見た。
:窓にはこの家の外見とは似合わしくない立派な品の、黒ずんだ海老茶(えびちゃ)にところどころ青い糸の見えるどっしりとした窓かけがしてあったけれども、それは半分ほどしぼってあったので部屋のなかはよく見えた。珍らしいことには、この部屋の中央には、石で彫って出来た大きな水盤があってその高さは床の上から二尺とはないが、その真中のところからは、水が湧(わ)き立っていて、水盤のふちからは不断に水がこぼれている。そこで水盤には青い苔が生えて、その附近の床――これもやっぱり石であった――は少ししめっぽく見える。このこぼれた水が薔薇(そうび)のなかから'''きらきら'''光りながら蛇(へび)のようにぬけ出して来る水なのだろうということは、後で考えて見て解った。私はこの水盤には少からず驚いた。ちょいと異風な家だとはさきほどから気がついていたものの、こんな異体の知れない仕掛(しか)けまであろうとは予想出来ないからだ。そこで私の好奇心は、一層注意深く家の内部を窓越しに観察し初めた。床も石である。何という石だか知らないが、青白いような石で水に湿った部分は美しい青色であった。それが無雑作に、切り出した時の自然のままに面を利用して列(なら)べてある。入口から一番奥の方の壁にこれも石で出来たファイアプレイスがあり、その右手には棚が三段ほどあって、何だか皿見たようなものが積み重ねたり列んだりしている。それとは反対の側に――今、私がのぞいている南側の窓の三つあるうちの一番奥の隅の窓の下に大きな素木(しろき)のままの裸の卓があって、その上には……何があるのだか顔をぴったりくっつけても硝子(ガラス)が邪魔をして覗(のぞ)き込めないから見られない。おや待てよ。これはもちろん空家ではない。それどころか、つい今のさきまで人がいたに相違ない。というのはその大きな卓の片隅から、吸いさしの煙草(たばこ)から出る煙の糸が非常に静かに二尺ほどまっすぐに立ちのぼって、そこで一つゆれて、それからだんだん上へゆくほど乱れて行くのが見えるではないか。
:私はこの煙を見て今思いがけぬことばかりなので、つい忘れていた煙草のことを思い出した。そこで自分も一本を出して火をつけた。それからどうかしてこの家のなかへはいって見たいという好奇心がどうもおさえきれなくなった。さてつくづく考えるうちに、私は決心をした。この家の中へはいって行こう。留守中でもいいはいってやろう。もし主人が帰って来たならば私は正直にわけを話すのだ。こんな変った生活をしている人なのだからそう話せば何ともいうまい。かえって歓迎してくれないとも限らぬ。それには今まで荷厄介にしていたこの絵具箱が、私の泥棒でないという証人として役立つであろう。私は虫のいいことを考えてこう決心した。そこでもう一度入口の階段を上って、念のために声をかけてそっと扉をあけた。扉には別に錠もおりてはいなかったから。