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「真美大観/森祖仙筆猿猴圖」の版間の差分
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== 猿猴図(絹本着色) 森祖仙筆==
*三幅対中の二幅
*各幅竪三尺五寸一分、横一尺二寸九分
*侯爵伊達宗徳蔵
[[:w:森祖仙|森祖仙]]、名は守象、字は叔牙、祖仙(晩年狙仙と改む)は其号にして、又霊明庵とも称す。延享4年(西暦1747年)に生まれる。摂津西宮の人、あるいはいう九州長崎の人なりと。後、大阪に移住す。初め狩野の流れを汲み、種々の画を作りしが、既にして大に悟る所あり、限りあるの手腕をもって力を多方に用いるの道に大名を成す所以にあらざるを思い、もっぱら心を写猿の一途に傾注したりしかば、その猿の画はよく入神の妙を極め、果たして一世の称誉を博するに至れり。伝えいう、その始め長崎に在るの日、一猟者に托して一猿を得たり。すなわちこれを庭樹に繋ぎ、自らその傍に横臥して、猿の形状動作を写すこと幾回なるを知らず。ある日紙上に浄写して某士の鑑を乞う。某いわく、惜しむらくはこれ人家養畜の猿にして山中自在の猿にあらずと。ここにおいて山中に入り、切磋年を重ねて大いに得る所ありきと。而して生平の起居動作の如きも、宛然猿の如くなりきという。けだしその技に熱心なるより、ついに猿猴三昧を発得して然りしにあらざるを得んや。その所作の猿図が、逼真の妙を極むるは、たまたまもって俗眼を悦ばしむるに足るも、いまだ雅賞に値せずという者あれども、これ過酷の評のみ。試みにこれに掲ぐる二図を見よ。一は玲瓏たる老幹に母子の春猿を写して自愛の情満幅に溢れ、一は半枯の樹梢に一雙の愁猿を画きて将に客膓を寸断せんとするの趣きあるにあらずや。かの緻密なる写生をもって一派を開きし[[:w:円山応挙|円山応挙]]の如きも、それ動物を書くや、祖仙の筆法を参酌したりという、良に故ありというべし。この画は彼れが壮年の作なるべし。祖仙の死は文政4年(西暦1821年)にあり、時に75歳なりという。
=== 原文 ===
*三幅對中の二幅
*各幅竪三尺五寸一分、横一尺二寸九分
*侯爵伊達宗徳君藏
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祖
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仙|森祖仙]]、名は守象、字は叔牙、祖仙(晩年狙仙と改む)は其號にして、又霊明庵とも稱す、延享四年(西暦一七四七年)生る、摂津西宮の人、或いはいふ九州長崎の人なりと、後、大阪に移住す、初め狩野の流れを挹み、種々の畫を作りしが、既にして大に悟る所あり、限りあるの手腕を以って力を多方に用ゆるの途に大名を成す所以にあらざるを思ひ、専ら心を寫猿の一途に傾注したりしかば、その猿の畫は能く入神の妙を極め、果たして一世の稱誉を博するに至れり、傅へいふ、其始め長崎に在るの日、一獵者に托して一猿を得たり、乃ち之を庭樹に繋ぎ、自ら其傍に横臥して、猿の形状動作を寫すこと幾回なるを知らず、一日紙上に浄寫して某士の鑑を乞う、某云く、惜むらくは是れ人家養畜の猿にして山中自在の猿にあらずと、是に於て山中に入り、切磋年を重ねて大いに得る所ありきと、而して生平の起居動作の如きも、宛然猿の如くなりきといふ、蓋し其技に熱心なるより、遂に■猴三昧を發得して然りしにあらざるを得んや、其所作の猿圖が、逼真の妙を極むるは、たまたま以て俗眼を悦ばしむるに足るも、未だ雅賞に値せずといふ者あれども、これ過酷の評のみ、試みに此に掲ぐる二圖を見よ、一は玲瓏たる老幹に母子の春猿を寫して自愛の情満幅に溢れ、一は半枯の樹梢に一雙の愁猿を畫きて将に客膓を寸斷せんとするの趣きあるにあらずや、かの緻密なる寫生を以て一派を開きし[[:w:円山応挙|圓山應舉]]の如きも、其動物を書くや、祖仙の筆法を参酌したりといふ、良に故ありといふ可し、而して此畫は彼れが壮年の作なる可し、祖仙の死は文政四年(西暦一八二一年)にあり、時に七十五歳なりといふ。
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