藤村詩抄
自序
若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四卷
をまとめて合本の詩集をつくりし時に
遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。
うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。
傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帶びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壯大と衰頽とを照せり。
新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた僞りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寢食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。
詩歌は靜かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦鬪の告白なる。
なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされてわれも身と心とを救ひしなり。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。
藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの卷とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
〈[#改ページ]〉
抄本を出すにつきて
二十五六といふ青年時代が二度と自分の生涯には來ないやうに、最初の詩集も自分には二册とは無いものだ。その意味から、曾て私はこれらの詩を作つた當時のことを原本の詩集のはじに書きつけて置いたこともある。
明治二十九年の秋、私は仙臺へ行つた。あの東北の古い靜かな都會で私は一年ばかりを送つた。私の生涯はそこへ行つて初めて夜が明けたやうな氣がした。私は仙臺名影町の宿舍で書いた詩稿を毎月東京へ送つて、その以前から友人同志で出してゐた雜誌『文學界』に載せた。それを一册に集めて、『若菜集』として公にしたのが、私の最初の詩集だ。私の文學生涯に取つての處女作とも言ふべきものであつた。その頃の詩の世界は非常に狹い不自由なもので、自分等の思ふやうな詩はまだ/\遠い先の方に待つてゐるやうな氣がしたが、兎も角も先蹤を離れよう、詩といふものをもつと/\自分等の心に近づけようと試みた。默し勝ちな私の口脣はほどけて來た。
心の宿の宮城野よ
亂れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聽き
悲しみ深き吾眼には
色無き石も花と見き
(草枕)
私が一生の曙はこんな風にして開けて來た。
明治三十一年の春には私は東京の方に歸つてゐて、第二の集を出した。それは『一葉舟』とした詩文集で、その中には『若菜集』以後仙臺で書いた『鷲の歌』の外に、東京に歸つてからの詩數篇をも納めたものである。同じ年の夏、郷里の木曾へ旅して、福島にある姉の家で『夏草』を書いた。私の第三の詩集だ。
私が信州小諸へ行つてあの山の上の町に落ちつくやうになつたのは、翌三十二年のことであつた。そこで私はまた詩作をはじめて、第四の詩集をつくつた。『落梅集』はその全部が千曲川の旅情ともいふべきものである。
私の青春の形見ともいふべき四卷の詩集は、明治二十九年より三十三年へかけ前後五年に亙つて、それ/″\別册として公にしたものであつたが、三十七年の夏に『一葉舟』や『落梅集』から散文の部を省いて、合本一卷とした。私の詩集として世に流布してゐるものがそれである。
さういふ私は今、岩波書店の主人から普及叢書の一册として、この詩集の抄本をつくることを求められた。思ふに、原本の詩集を縮め、僅かの省略を行ひ、たゞ形を變へるといふだけのことならば、抄本をつくることもさう骨は折れまい。しかしそれでは意味はすくない。長い月日の間には原本の詩集も幾度かの編み直しと改刷とを經たものであるが、更に私は編み方を變へて、此の抄本をつくることにした。尤も、詩集としての内容にさう變りのあらう筈もないが、編み方に意を用ひたなら、抄本は抄本として意味あるものとならうかと思ふ。
これを編むにつけても、もつと私は嚴しく選むべきであつたかとも考へる。今になつて見ると『若菜集』の中に、仙臺時代以前に書いた二三の古い詩を見つける。『君と遊ばむ』『流星』なぞがそれで、さういふものは省いたらとも考へたが、自分の出發の支度はそんなところにあつたことを思ひ、未熟なものも一概にそれを省き去る氣になれなかつた。原本の詩集のうち、一番多くを省いたのは『夏草』の中からで、『若菜集』や『落梅集』からも長短數篇を省いた。題目等もこの抄本にはいくらか改めて置いたものもある。すべてはこれらの詩を書いた當時の自分の心持に近づけることを主にした。
思へば私が『若菜集』を出したのは、今から三十一年の前にもあたる。この古い落葉のやうな詩が今日まで讀まれて來たといふことすら、私には意外である。頭髮既に白い私がこれを編むのは、自分の青年時代を編むやうなものである。この抄本をつくるにつけても、今昔の感が深い。
昭和二年五月
〈[#改ページ]〉
藤村詩抄目次
自序
抄本を出すにつきて
――――――――
若菜集より
序のうた
草枕
二つの聲
松島瑞巖寺に遊びて
春
一 たれかおもはむ
二 あけぼの
三 春は來ぬ
四 眠れる春よ
五 うてや鼓
明星
潮音
おえふ
おきぬ
おさよ
おくめ
おつた
おきく
醉歌
哀歌
秋思
初戀
狐のわざ
髮を洗へば
君がこゝろは
傘のうち
秋に隱れて
知るや君
秋風の歌
雲のゆくへ
母を葬るのうた
合唱
一 暗香
二 蓮花舟
三 葡萄の樹のかげ
四 高樓
ゆふぐれしづかに
月夜
強敵
別離
望郷
かもめ
流星
君と遊ばむ
晝の夢
四つの袖
雞
林の歌
一葉舟より
鷲の歌
白磁花瓶賦
銀河
きりぎりす
春やいづこに
夏草より
子兎のうた
晩春の別離
うぐひす
かりがね
野路の梅
門田にいでて
寶はあはれ碎けけり
新潮
落梅集より
常盤樹
寂寥
千曲川旅情の歌
一
二
鼠をあはれむ
勞働雜詠
一 朝
二 晝
三 暮
爐邊雜興
黄昏
枝うちかはす梅と梅
めぐり逢ふ君やいくたび
あゝさなり君のごとくに
思より思をたどり
吾戀は河邊に生ひて
吾胸の底のこゝには
君こそは遠音に響く
こゝろをつなぐしろかねの
罪なれば物のあはれを
風よ靜かにかの岸へ
椰子の實
浦島
舟路
鳥なき里
藪入
惡夢
響りん/\音りん/\
翼なければ
罪人と名にも呼ばれむ
胡蝶の夢
落葉松の樹
ふと目はさめぬ
縫ひかへせ
〈[#改丁]〉
若菜集より
明治二十九年――同三十年
(仙臺にて)
〈[#改丁]〉
序のうた
なさけある手にも
あたゝかき酒となるらむ
葡萄棚ふかくかゝれる
こゝろある人のなさけに
蔭に置く房の三つ四つ
そは歌の若きゆゑなり
味ひも色も淺くて
おほかたは
うたゝ寢の夢のそらごと
〈[#改ページ]〉
草枕
夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の
さみしきかたに飛べるかな
若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり
流れて
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ
かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらむ
われもそれかやうれひかや
野末に山に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ
殘れる秋の花を見て
行くへもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな
身を
ゆふべの雲の雨となり
身を
あしたの雨の風となる
されば
風に吹かれて
道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ亂れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ
心の
亂れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聽き
悲み深き吾目には
あゝ
味ひ知れる人ならで
誰にかたらむ冬の日の
かくもわびしき野のけしき
都のかたをながむれば
身にふりかゝる
袖の氷と閉ぢあへり
みぞれまじりの風
小川の水の薄氷
氷のしたに
流れて海に行く水か
啼いて
雲に隱るゝかさゝぎよ
光もうすき
涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな
かなしや醉うて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを醉ひ泣く忍び
聲もあはれのその歌は
うれしや物の
野末をかよふ人の子よ
なに
やさしや年もうら若く
まだ初戀のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隱るゝその姿
野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海
朝は
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは
暮はさみしき
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ
さみしいかなや荒波の
岩に碎けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて
遠く湧きくる海の
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの
まだうらわかき野路の鳥
嗚呼めづらしのしらべぞと
聲のゆくへをたづぬれば
緑の
それも初音か鶯の
春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の
春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の
磯邊に高き
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらむ
〈[#改ページ]〉
二つの聲
朝
たれか聞くらむ朝の聲
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空に
そこに
そこに
そこに色あり
そこに聲あり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
暮
たれか聞くらむ暮の聲
霞の
煙の
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに
飛ぶ
こゝに影あり
こゝに夢あり
こゝに闇あり
こゝに永きあり遠きあり
こゝに
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隱るゝ
〈[#改ページ]〉
松島瑞巖寺に遊びて
古き扉に身をよせて
飛騨の
葡萄のかげにきて見れば
菩提の寺の冬の日に
ほられて薄き葡萄葉の
影にかくるゝ
姿ばかりは隱すとも
かくすよしなし
うしほにひゞく磯寺の
かねにこの日の暮るゝとも
こひしきやなぞ甚五郎
〈[#改ページ]〉
春
一 たれかおもはむ
たれかおもはむ鶯の
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の
あゝよしさらば
うたひあかさん春の夜を
梅のにほひにめぐりあふ
春を思へばひとしれず
からくれなゐのかほばせに
流れてあつきなみだかな
あゝよしさらば花影に
うたひあかさむ春の夜を
わがみひとつもわすられて
おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば
たもとににほふ梅の花
あゝよしさらば琴の音に
うたひあかさむ春の夜を
二 あけぼの
雲とならばやあけぼのの
雲とならばや
やみを出でては光ある
空とならばやあけぼのの
空とならばや
春の光を
水とならばやあけぼのの
水とならばや
鳩に履まれてやはらかき
草とならばやあけぼのの
草とならばや
三 春は來ぬ
春はきぬ
春はきぬ
初音やさしきうぐひすよ
こぞに
谷間に殘る白雪よ
葬りかくせ
春はきぬ
春はきぬ
さみしくさむくことばなく
まづしくくらくひかりなく
みにくくおもくちからなく
かなしき冬よ行きねかし
春はきぬ
春はきぬ
淺みどりなる
とほき
さきては
春はきぬ
春はきぬ
霞よ雲よ
氷れる空をあたゝめよ
花の
眠れる山を吹きさませ
春はきぬ
春はきぬ
春をよせくる
蘆の
霞に醉へる雛鶴よ
若きあしたの空に飛べ
春はきぬ
春はきぬ
うれひの芹の根は絶えて
氷れるなみだ今いづこ
つもれる雪の消えうせて
けふの若菜と萌えよかし
四 眠れる春よ
ねむれる春ようらわかき
かたちをかくすことなかれ
たれこめてのみけふの日を
なべてのひとのすぐすまに
さめての春のすがたこそ
また夢のまの風情なれ
ねむげの春よさめよ春
さかしきひとのみざるまに
若紫の朝霞
かすみの袖をみにまとへ
はつねうれしきうぐひすの
鳥のしらべをうたへかし
ねむげの春よさめよ春
ふゆのこほりにむすぼれし
ふるきゆめぢをさめいでて
やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ
ねむげの春よさめよ春
あゆめばたにの
したもえいそぐ
たかくもあげよあゆめ春
たえなるはるのいきを吹き
こぞめの梅の香ににほへ
五 うてや鼓
うてや鼓の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて
世は春の日とかはりけり
ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとぢて
花と花とをぬふ絲は
けさもえいでしあをやなぎ
霞のまくをひきあけて
春をうかがふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春の
小蝶よ花にたはふれて
優しき夢をみては舞ひ
醉うて羽袖もひら/\と
はるの姿をまひねかし
緑のはねのうぐひすよ
梅の花笠ぬひそへて
ゆめ靜なるはるの日の
しらべを高く歌へかし
〈[#改ページ]〉
明星
浮べる雲と身をなして
あしたの空に出でざれば
などしるらめや明星の
光の色のくれなゐを
朝の
流れて海に出でざれば
などしるらめや明星の
なにかこひしき
深くも遠きほとりより
人の世近く
星の光に
野の鳥ぞ啼く
ゆふべの夢をさめいでて
細く棚引くしのゝめの
姿をうつす朝ぼらけ
朝には朝の
星の光の
あしたの琴は
まだうら若き朝の空
きらめきわたる星のうち
いちいと若き光をば
〈[#改ページ]〉
潮音
わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね
〈[#改ページ]〉
おえふ
われは
わが世の坂にふりかへり
いく
ながれの岸にうまれいで
岸の櫻の
われは
流れてそゝぐ
夢多かりし吾身かな
雲むらさきの
大宮内につかへして
月の光に照らされつ
雲を
霞をうかべ日をまねく
玉の
かゝるゆふべの春の雨
さばかり高き人の世の
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの
きらめき
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き
影かたぶけるごとくにて
春しづかなる
花に隱れて人を
秋のひかりの窓に倚り
ひとりの姉をうしなひて
大宮内の
けふ江戸川に
秋はさみしきながめかな
櫻の
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水
あゆみは遲きわがおもひ
おのれも知らず世を
若き
岸のほとりの草を
〈[#改ページ]〉
おきぬ
みそらをかける
人の
花の姿に
願ふ心のなかれとて
うまれながらの
芙蓉を
いま
あゝあるときは吾心
あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき
身は
たゞいたづらに
うたをうたふと思ふかな
戀に心をあたふれば
鳥の姿は
身の定めこそ悲しけれ
〈[#改ページ]〉
おさよ
あしたゆふべの
をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの
げに狂はしの身なるべき
この年までの
うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわが
流れて
やすむときなきわがこゝろ
心を笛の
笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり
笛を尋ぬる
はげしく深きためいきに
笛の
髮は亂れて落つるとも
まづ吹き入るゝ
吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙
短き笛の
長き
七つの
われ
鳥も梢に
われ
われ
蟲も鳴く
流るゝ水のたち歸り
散り行く花も
心の
うたへ
笛の
くるしむなかれ
しばしは笛の
落つる涙をぬぐひきて
靜かにきゝね吾笛を
〈[#改ページ]〉
おくめ
こひしきまゝに家を
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと
千鳥鳴くなり
こひには
やむよしもなき胸の火や
鬢の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし
流れて
君を思へば絶間なき
戀の
きのふの雨の
よひよひになくわがこひの
涙の瀧におよばじな
しりたまはずやわがこひは
梢の
しりたまはずやわがこひは
嗚呼
君にうつさでやむべきや
戀は吾身の
君は社の神なれば
君の
なににいのちを
われに
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなむ
心のみかは手も足も
吾身はすべて
思ひ亂れて嗚呼戀の
〈[#改ページ]〉
おつた
花
すがたに似たる
二つの影と消えうせて
世に
影より出でし影なれや
たすけもあらぬ今は身は
人なつかしき
時をし待たむ君ならば
かの柹の
かくいひたまふうれしさに
ことしの秋もはや深し
まづその秋を見よやとて
その
かくも色よき柹ならば
などかは早くわれに告げこぬ
人の命の
嗚呼かの酒を飮むなかれ
かくいひたまふうれしさに
酒なぐさめの一つなり
まづその春を見よやとて
夢の心地に醉ひたまひ
かくも樂しき酒ならば
などかは早くわれに告げこぬ
道行き
迷ひの歌をきくなかれ
かくいひたまふうれしさに
歌も心の姿なり
まづその聲をきけやとて
一ふしうたひいでければ
かくも樂しき歌ならば
などかは早くわれに告げこぬ
まことをさぐる吾身なり
道の迷となるなかれ
かくいひたまふうれしさに
かゝる
わがこの胸に指ざせば
かくも樂しき戀ならば
などかは早くわれに告げこぬ
それ秋の日の夕まぐれ
そゞろあるきのこゝろなく
ふと目に入るを手にとれば
あまりに惜しき色なれば
人に
〈[#改ページ]〉
おきく
くろかみながく
やはらかき
をんなごゝろを
たれかしる
をとこのかたる
ことのはを
まこととおもふ
ことなかれ
をとめごゝろの
あさくのみ
いひもつたふる
をかしさや
みだれてながき
かきあげよ
あゝ
きえぬべき
こひもするとは
たがことば
こひて死なむと
よみいでし
あつきなさけは
みちのためには
ちをながし
くにには死ぬる
をとこあり
治兵衞はいづれ
忠兵衞も名の
ために
あゝむかしより
こひ死にし
をとこのありと
しるや君
をんなごゝろは
いやさらに
ふかきなさけの
こもるかな
小春はこひに
ちをながし
梅川こひの
ために死ぬ
お七はこひの
ために燒け
高尾はこひの
ために
かなしからずや
清姫は
こひゆゑに
やさしからずや
佐容姫は
石となれるも
こひゆゑに
をとこのこひの
たはふれは
たびにすてゆく
なさけのみ
こひするなかれ
をとめごよ
かなしむなかれ
わがともよ
こひするときと
かなしみと
いづれかながき
いづれみじかき
〈[#改ページ]〉
醉歌
旅と旅との君や我
君と我とのなかなれば
醉うて袂の
醒めての君に見せばやな
若き命も過ぎぬ
樂しき春は老いやすし
君くれなゐのかほばせは
君がまなこに涙あり
君が眉には
堅く結べるその口に
それ聲も無きなげきあり
名もなき道を説くなかれ
名もなき旅を行くなかれ
甲斐なきことをなげくより
來りて
光もあらぬ春の日の
獨りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智惠に
老いにけらしな旅人よ
心の春の
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
わきめもふらで急ぎ行く
君の行衞はいづこぞや
とゞまりたまへ旅人よ
〈[#改ページ]〉
哀歌
中野逍遙をいたむ
『秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴臺舊譜壚前柳、風流銷盡二千年』、これ中野逍遙が秋怨十絶の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、豫州宇和島の人なりといふ。文科大學の異材なりしが年僅かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の餘唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を寫せしもの、『寄語殘月休長嘆、我輩亦是艶生涯』、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。
思君九首 中野逍遙
思君我心傷 思君我容瘁
中夜坐松蔭 露華多似涙
思君我心悄 思君我腸裂
昨夜涕涙流 今朝盡成血
示君錦字詩 寄君鴻文册
忽覺筆端香 窻外梅花白
爲君調綺羅 爲君築金屋
中有鴛鴦圖 長春夢百禄
贈君名香篋 應記韓壽恩
休將秋扇掩 明月照眉痕
贈君双臂環 寶玉價千金
一鐫不乖約 一題勿變心
訪君過臺下 清宵琴響搖
佇門不敢入 恐亂月前調
千里囀金鶯 春風吹緑野
忽發頭屋桃 似君三兩朶
嬌影三分月 芳花一朶梅
潭把花月秀 作君玉膚堆
かなしいかなや流れ行く
水になき名をしるすとて
ながき
かなしいかなやする墨の
いろに染めてし花の木の
君がしらべの歌の音に
薄き命のひゞきあり
かなしいかなや前の世は
みそらにかゝる星の身の
人の命のあさぼらけ
光も見せでうせにしよ
かなしいかなや同じ世に
生れいでたる身を持ちて
友の契りも結ばずに
君は早くもゆけるかな
すゞしき
葡萄のたまとまがふまで
その面影をつたへては
あまりに
同じ
同じいのちのあさぼらけ
君からくれなゐの花は散り
われ
かなしいかなやうるはしく
さきそめにける花を見よ
いかなればかくとゞまらで
待たで散るらむさける
かなしいかなやうるはしき
なさけもこひの花を見よ
いといと清きそのこひは
消ゆとこそ聞けいと早く
君し花とにあらねども
いな花よりもさらに花
君しこひとにあらねども
いなこひよりもさらにこひ
かなしいかなや人の世に
あまりに惜しき
かなしいかなやはたとせの
ことばの海のみなれ棹
磯にくだくる
うれひの花とちりにけり
かなしいかなや人の世の
きづなも捨てて嘶けば
つきせぬ草に秋は來て
聲も悲しき天の馬
かなしいかなや
流るゝ水の岸にさく
ひとつの花に照らされて
〈[#改ページ]〉
秋思
秋は
秋は來ぬ
風の來て
青き葡萄は紫の
自然の酒とかはりけり
秋は來ぬ
秋は來ぬ
おくれさきだつ
みな
笑ひの酒を悲みの
盃にこそつぐべけれ
秋は來ぬ
秋は來ぬ
くさきも
たれかは秋に醉はざらむ
智惠あり顏のさみしさに
君笛を吹けわれはうたはむ
〈[#改ページ]〉
初戀
まだあげ
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
人こひ
わがこゝろなきためいきの
その髮の毛にかゝるとき
たのしき戀の
君が
林檎畑の
おのづからなる
問ひたまふこそうれしけれ
〈[#改ページ]〉
狐のわざ
庭にかくるゝ小狐の
人なきときに
秋の葡萄の樹の影に
しのびてぬすむつゆのふさ
戀は狐にあらねども
君は葡萄にあらねども
人しれずこそ忍びいで
君をぬすめる吾心
〈[#改ページ]〉
髮を洗へば
髮を洗へば紫の
足をあぐれば
われに隨ふ
目にながむれば
まきてはひらく
手にとる酒は
若き
耳をたつれば
きたりて
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ
あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな
〈[#改ページ]〉
君がこゝろは
君がこゝろは
風にさそはれ鳴くごとく
それかきならす玉琴の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそはきこゆめれ
あゝなどかくは觸れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾こひに
觸れたまはぬぞ恨みなる
〈[#改ページ]〉
傘のうち
かわく
顏と顏とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
亂れて匂ふ
戀の一雨ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の
染めてぞ燃ゆる
雨になやめる足まとひ
歌ふをきけば梅川よ
しばし
いづこも戀に
それ忠兵衞の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
手に手をとりて行きて
〈[#改ページ]〉
秋に隱れて
わが手に植ゑし白菊の
おのづからなる時くれば
一もと花の
秋に
〈[#改ページ]〉
知るや君
こゝろもあらぬ
聲にもれくる一ふしを
知るや君
深くも
底にかくるゝ
知るや君
あやめもしらぬやみの夜に
知るや君
まだ
胸にひそめる琴の
知るや君
〈[#改ページ]〉
秋風の歌
さびしさはいつともわかぬ山里に
尾花みだれて秋かぜぞふく
しづかにきたる秋風の
西の海より吹き起り
舞ひたちさわぐ
飛びて行くへも見ゆるかな
桐の梢の琴の
そのおとなひを聞くときは
風のきたると知られけり
ゆふべ
あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて
ゆふべの鶉巣に
ふりさけ見れば
色はもみぢに染めかへて
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢ
道を傳ふる
西に東に
吹き
いたくも吹ける秋風の
見ればかしこし西風の
山の
悲しいかなや秋風の
秋の
人は
げにかぞふればかぎりあり
舌は
聲はたちまち
高くも
世をかれがれとなすまでは
吹きも
あゝうらさびし
落葉と共に
風の
〈[#改ページ]〉
雲のゆくへ
庭にたちいでたゞひとり
秋海棠の花を分け
空ながむれば行く雲の
〈[#改ページ]〉
母を葬るのうた
うき雲はありともわかぬ大空の
月のかげよりふるしぐれかな
きみがはかばに
きゞくあり
きみがはかばに
さかきあり
くさはにつゆは
しげくして
おもからずやは
そのしるし
いつかねむりを
さめいでて
いつかへりこむ
わがはゝよ
ますらをも
みなちりひぢと
なるものを
あゝさめたまふ
ことなかれ
あゝかへりくる
ことなかれ
はるははなさき
はなちりて
きみがはかばに
かゝるとも
なつはみだるゝ
ほたるびの
きみがはかばに
とべるとも
あきはさみしき
あきさめの
きみがはかばに
そゝぐとも
ふゆはましろに
ゆきじもの
きみがはかばに
こほるとも
とほきねむりの
ゆめまくら
おそるゝなかれ
わがはゝよ
〈[#改ページ]〉
合唱
一 暗香
はるのよはひかりはかりとおもひしを
しろきやうめのさかりなるらむ
姉
わかきいのちの
をしければ
やみにも春の
せめてこよひは
さほひめよ
はなさくかげに
うたへかし
妹
そらもゑへりや
はるのよは
ほしもかくれて
みえわかず
よめにもそれと
ほのしろく
みだれてにほふ
うめのはな
姉
はるのひかりの
こひしさに
かたちをかくす
うぐひすよ
はなさへしるき
はるのよの
やみをおそるゝ
ことなかれ
妹
うめをめぐりて
ゆくみづの
やみをながるゝ
せゝらぎや
ゆめもさそはぬ
いづれかよるに
にほはまし
姉
こぞのこよひは
わがともの
うすこうばいの
そめごろも
ほかげにうつる
さかづきを
こひのみゑへる
よなりけり
妹
こぞのこよひは
わがともの
なみだをうつす
よのなごり
かげもかなしや
木下川に
うれひしづみし
よなりけり
姉
こぞのこよひは
わがともの
おもひははるの
よのゆめや
よをうきものに
いでたまふ
ひとめをつゝむ
よなりけり
妹
こぞのこよひは
わがともの
そでのかすみの
はなむしろ
ひくやことのね
たかじほを
うつしあはせし
よなりけり
姉
わがみぎのてに
くらぶれば
やさしきなれが
たなごゝろ
ふるればいとど
やわらかに
もゆるかあつく
おもほゆる
妹
もゆるやいかに
こよひはと
とひたまふこそ
うれしけれ
しりたまはずや
うめがかに
わがうまれてし
はるのよを
二 蓮花舟
しは/\もこほるゝつゆははちすはの
うきはにのみもたまりけるかな
姉
あゝはすのはな
はすのはな
かげはみえけり
いけみづに
ひとつのふねに
さをさして
うきはをわけて
こぎいでむ
妹
かぜもすゞしや
はがくれに
そこにもしろし
はすのはな
こゝにもあかき
はすばなの
みづしづかなる
いけのおも
姉
はすをやさしみ
はなをとり
そでなひたしそ
いけみづに
ひとめもはぢよ
はなかげに
なれが
あらはるゝ
妹
ふかくもすめる
いけみづの
葉にすれてゆく
みなれざを
なつぐもゆけば
かげみえて
はなよりはなを
わたるらし
姉
荷葉にうたひ
ふねにのり
はなつみのする
なつのゆめ
はすのはなふね
さをとめて
なにをながむる
そのすがた
妹
なみしづかなる
はなかげに
きみのかたちの
うつるかな
きみのかたちと
なつばなと
いづれうるはし
いづれやさしき
三 葡萄の樹のかげ
はるあきにおもひみたれてわきかねつ
ときにつけつゝうつるこゝろは
妹
たのしからずや
はなやかに
あきはいりひの
てらすとき
たのしからずや
ぶだうばの
はごしにくもの
かよふとき
姉
やさしからずや
むらさきの
ぶだうのふさの
かゝるとき
やさしからずや
にひぼしの
ぶだうのたまに
うつるとき
妹
かぜはしづかに
そらすみて
あきはたのしき
ゆふまぐれ
いつまでわかき
をとめごの
たのしきゆめの
われらぞや
姉
あきのぶだうの
きのかげの
いかにやさしく
ふかくとも
てにてをとりて
かげをふむ
なれとわかれて
なにかせむ
妹
げにやかひなき
くりごとも
ぶだうにしかじ
ひとふさの
われにあたへよ
ひとふさを
そこにかゝれる
むらさきの
姉
われをしれかし
えだたかみ
とゞかじものを
かのふさは
はかげのたまに
手はふれで
わがさしぐしの
おちにけるかな
四 高樓
わかれゆくひとををしむとこよひより
とほきゆめちにわれやまとはむ
妹
とほきわかれに
たへかねて
このたかどのに
のぼるかな
かなしむなかれ
わがあねよ
たびのころもを
とゝのへよ
姉
わかれといへば
むかしより
このひとのよの
つねなるを
ながるゝみづを
ながむれば
ゆめはづかしき
なみだかな
妹
したへるひとの
もとにゆく
きみのうへこそ
たのしけれ
ふゆやまこえて
きみゆかば
なにをひかりの
わがみぞや
姉
あゝはなとりの
いろにつけ
ねにつけわれを
おもへかし
けふわかれては
いつかまた
あひみるまでの
いのちかも
妹
きみがさやけき
めのいろも
きみくれなゐの
くちびるも
きみがみどりの
くろかみも
またいつかみむ
このわかれ
姉
なれがやさしき
なぐさめも
なれがたのしき
うたごゑも
なれがこゝろの
ことのねも
またいつきかむ
このわかれ
妹
きみのゆくべき
やまかはは
おつるなみだに
みえわかず
そでのしぐれの
ふゆのひに
きみにおくらむ
はなもがな
姉
そでにおほへる
うるはしき
ながかほばせを
あげよかし
ながくれなゐの
かほばせに
ながるゝなみだ
われはぬぐはむ
〈[#改ページ]〉
ゆふぐれしづかに
ゆふぐれしづかに
ゆめみむとて
よのわづらひより
しばしのがる
きみよりほかには
しるものなき
花かげにゆきて
こひを泣きぬ
すぎこしゆめぢを
おもひみるに
こひこそつみなれ
つみこそこひ
いのりもつとめも
このつみゆゑ
たのしきそのへと
われはゆかじ
なつかしき君と
てをたづさへ
くらき
かけりゆかむ
〈[#改ページ]〉
月夜
しづかにてらせる
月のひかりの
などか絶間なく
ものおもはする
さやけきそのかげ
こゑはなくとも
みるひとの胸に
忍び入るなり
なさけは
なさけをしらぬ
うきよのほかにも
朽ちゆくわがみ
あかさぬおもひと
この月かげと
いづれか聲なき
いづれかなしき
〈[#改ページ]〉
強敵
一つの花に蝶と蜘蛛
小蜘蛛は花を
小蝶は花に醉ひ顏に
舞へども舞へどもすべぞなき
花は小蜘蛛のためならば
小蝶の
花は小蝶のためならば
小蜘蛛の糸をいかにせむ
やがて一つの花散りて
小蜘蛛はそこに眠れども
いづこともなくうせにけれ
〈[#改ページ]〉
別離
人妻をしたへる男の山に登り其
女の家を望み見てうたへるうた
あすは
誰か聞くらむ旅人の
あすは別れと告げましを
われのみものを思ふより
戀はあふれて
君に涙をかけましを
君がなさけに知りもせば
せめてはわれを
呼びたまふこそうれしけれ
あやめもしらぬ
くるしきこひの
罪の
こひて死なむと思ふなり
誰かは
誰かは前にさける見て
花を
戀の花にも戲るゝ
二つの
人の命を春の夜の
夢といふこそうれしけれ
夢よりもいやいや深き
われに思ひのあるものを
梅の花さくころほひは
蓮さかばやと思ひわび
蓮の花さくころほひは
萩さかばやと思ふかな
待つまも早く秋は
わが踏む道に萩さけど
濁りて待てる吾戀は
清き
〈[#改ページ]〉
望郷
寺をのがれいでたる僧のうたひし
そのうた
いざさらば
これをこの世のわかれぞと
のがれいでては住みなれし
いざさらば
住めば佛のやどりさへ
なぐさめもなき心より
流れて落つる涙かな
いざさらば
心の油濁るとも
ともしびたかくかきおこし
なさけは熱くもゆる火の
こひしき
〈[#改ページ]〉
かもめ
波に生れて波に死ぬ
戀の
夢むすぶべきひまもなし
闇き
流れて歸るわだつみの
鳥の行衞も見えわかぬ
波にうきねのかもめどり
〈[#改ページ]〉
流星
人待ち顏のさみしさに
ゆふべの空をながむれば
雲の宿りも捨てはてて
何かこひしき人の世に
流れて落つる星一つ
〈[#改ページ]〉
君と遊ばむ
君と遊ばむ夏の夜の
青葉の影の下すゞみ
短かき夢は結ばずも
せめてこよひは歌へかし
雲となりまた雨となる
晝の愁ひはたえずとも
星の光をかぞへ見よ
樂みのかず
夢かうつゝか天の川
星に假寢の織姫の
ひゞきもすみてこひわたる
梭の遠音を聞かめやも
〈[#改ページ]〉
晝の夢
花橘の袖の香の
みめうるはしきをとめごは
さめて忘るゝ夜のならひ
忘れがたくはありけるものか
ゆめと知りせばなまなかに
さめざらましを世に出でて
うらわかぐさのうらわかみ
何をか夢の名殘ぞと
問はば答へむ目さめては
熱き涙のかわく間もなし
〈[#改ページ]〉
四つの袖
をとこの
お夏の髮にかゝるとき
をとこの早きためいきの
をとこの
お夏の手にも觸るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき
をとこの黒き目のいろの
お夏の胸に
をとこの
お夏の口にもゆるとき
人こそしらね嗚呼戀の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎
〈[#改ページ]〉
雞
花によりそふ
いづれあやめとわきがたく
さも似つかしき
姿やさしき
かたちを恥づるこゝろして
花に隱るゝありさまに
品かはりたる
雄々しくたけき
とさかの色も
黄なる
尾はしだり尾のながながし
問うても見まし
よそほひありく
いひたげなるぞいぢらしき
畫にこそかけれ
それにも通ふ一つがひ
霜に侘寢の朝ぼらけ
雨に入日の夕まぐれ
空に一つの明星の
闇行く水に動くとき
日を迎へむと
露けき朝の明けて行く
空のながめを
燃ゆるがごとき
雲のゆくへを
闇もこれより隣なる
聲ふりあげて鳴くときは
人の
明けはなれたり
いざ
あなあやにくのものを見き
見しらぬ
あしたの空に鳴き渡り
草かき分けて
妻戀ふらしや
ねたしや露に
朝日にうつる影見れば
雪をあざむくばかりなり
かくと見るより堪へかねて
羽がきも荒く飛び走り
蹴爪に土をかき狂ふ
筆毛のさきも
二つの
たがひに蹴合ふ
蹴るや
爪も折れよと蹴返しぬ
蹴られて落つるくれなゐの
血汐の花も地に染みて
二つの
たがひにひるむ風情なし
そこに聲あり涙あり
爭ひ狂ふ四つの
あな仆れけむ聲高し
一聲長く悲鳴して
あとに仆るゝ
あたりにさける花紅し
あゝあゝ熱き涙かな
あるに甲斐なき妻鳥は
せめて一聲鳴けかしと
なにとは知らぬかなしみの
いつか
思ひ亂れて
鳴くや
我を戀ふらし
姿も色もなつかしき
花のかたちと思ひきや
かなしき
花にもつるゝ蝶あるを
鳥に
おそろしきかな其の心
なつかしきかな其の
鳥の命のもろきかな
火よりも燃ゆる戀見れば
見よ動きゆく大空の
照る日も雲に薄らぎて
花に色なく風吹けば
野はさびしくも變りけり
かなしこひしの
冷えまさりゆく其姿
たよりと思ふ一ふしの
いづれ
よりそふごとくかの
なにとはなしに身をよする
あないたましのながめかな
さきの樂しき花ちりて
空色暗く
雲にかなしき野のけしき
行きてかへらぬ鳥はいざ
いづれあやめを踏み分けて
野末を歸る二羽の
〈[#改ページ]〉
林の歌
力を
うちふる斧のあとを絶え
春の
いろさまざまの春の葉に
おのづからなるすがたのみ
五葉は黒し椎の木の
枝をまじふる白樫や
枝と枝とにもゆる火の
なかにやさしき若楓
山精
ひとにしられぬ
たのしみの
ふかきはやしを
たれかしる
ひとにしられぬ
はるのひの
かすみのおくを
たれかしる
木精
はなのむらさき
はのみどり
うらわかぐさの
のべのいと
たくみをつくす
きたれかし
山精
かのもえいづる
くさをふみ
かのわきいづる
みづをのみ
かのあたらしき
はなにゑひ
はるのおもひの
なからずや
木精
ふるきころもを
ぬぎすてて
はるのかすみを
まとへかし
なくうぐひすの
ねにいでて
ふかきはやしに
うたへかし
あゆめば蘭の花を踏み
ゆけば
袂にまとふ山葛の
葛のうら葉をかへしては
色よき實こそ落ちにけれ
岡やまつゞき
いとなだらかに行き延びて
ふかきはやしの谷あひに
亂れてにほふふぢばかま
谷に花さき谷にちり
人にしられず朽つるめり
せまりて暗き
やゝひらけたる
春は
しげりて廣き熊笹の
葉末をふかくかきわけて
谷のかなたにきて見れば
いづくに行くか瀧川よ
聲もさびしや白糸の
青き
若き
山精
ゆふぐれかよふ
たびびとの
むねのおもひを
たれかしる
友にもあらぬ
やまかはの
はるのこゝろを
たれかしる
木精
かなしみの
まくらにつたふ
なみだこそ
ふかきはやしの
たにかげの
そこにながるゝ
しづくなれ
山精
鹿はたふるゝ
たびごとに
妻こふこひに
かへるなり
のやまは枯るゝ
たびごとに
ちとせのはるに
かへるなり
木精
ふるきおちばを
やはらかき
青葉のかげに
葬れよ
ふゆのゆめぢを
さめいでて
はるのはやしに
きたれかし
今しもわたる
春はしづかに吹きかよふ
林の
風のしらべにさそはれて
みれどもあかぬ白妙の
雲の羽袖の深山木の
わかれ舞ひゆくすがたかな
しばしと見ればあともなき
高き行衞にいざなはれ
千々にめぐれる
花にも迷ひ石に倚り
流るゝ水の音をきけば
山は危ふく石わかれ
削りてなせる
碎けて落つる
湧きくる波の瀬を早み
花やかにさす春の日の
獨り苔むす岩を攀ぢ
ふるふあゆみをふみしめて
浮べる雲をうかゞへば
下にとゞろく
澄むいとまなき岩波は
落ちていづくに下るらむ
山精
なにをいざよふ
むらさきの
ふかきはやしの
はるがすみ
なにかこひしき
いはかげを
ながれていづる
いづみがは
木精
かくれてうたふ
野の山の
こゑなきこゑを
きくやきみ
つゝむにあまる
はなかげの
水のしらべを
しるやきみ
山精
あゝながれつゝ
こがれつゝ
うつりゆきつゝ
うごきつゝ
あゝめぐりつゝ
かへりつゝ
うちわらひつゝ
むせびつゝ
木精
いまひのひかり
はるがすみ
いまはなぐもり
はるのあめ
あゝあゝはなの
つゆに醉ひ
ふかきはやしに
うたへかし
ゆびをりくればいつたびも
かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも
もつ筆にせむ
いつしか淡く茶を帶びて
雲くれなゐとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり
たどる林もひらけきて
いと靜かなる湖の
岸邊にさける花躑躅
うき雲ゆけばかげ見えて
水に沈める春の日や
それ
雲紫となりぬれば
かげさへあかき水鳥の
春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ
迷ふひとりのわがみだに
〈[#改丁]〉
一葉舟より
明治三十年――同三十一年
(仙臺及び東京にて)
〈[#改丁]〉
鷲の歌
みるめの草は青くして海の
流れ藻の葉はむすぼれて蜑の小舟にこがるゝも
あしたゆふべのさだめなき
とくたちかへれ夏波に友よびかはす濱千鳥
もしほやく火はきえはてて岩にひそめるかもめどり
蜑は苫やに舟は磯いそうちよする波ぎはの
削りて高き
いかづちの火の岩に落ち
寢みだれ髮か
葡萄の酒の濃紫いろこそ似たれ
波のみだれて狂ひよるひゞきの高くすさまじや
身は
見よ老鷲はそこ白く赤すぢたてる大爪に
岩をつかみて中高き
げに
わが若鷲はうちひそみわが老鷲はたちあがり
小河に
いづれこゝろのおくれたり高し
わが若鷲は
湧きて流るゝ
このめる蔭は行く春のなごりにさける花躑躅
わが老鷲は肩剛く
烈しき風をうち凌ぐ
藤の花かも胸の
げにいかめしきものゝふの
張りひろげたる老鷲のふたゝびみたび
踴れる胸は
力あふれて空高く舞ひたちあがるすがたかな
黒岩茸の岩ばなに生ふにも似るか若鷲の
紋は花菱舞ひ扇ひらめきかへる
わが老鷲を吹くさまは
たゝかふためにうまれては
うたむかたむと小休なき熱き胸より吹く
色くれなゐの
一こゑ深き
羽袖のうちにつゝまれて姿はいつか消えにけり
あゝさだめなき
細くかゝれる
薄紫のうつろひに樂しき園となりけらし
命を岩につなぎては細くも絲をかけとめて
かたくつきたる一つ
霜ふりかゝる老鷲の
夏の光にてらされて岩根にひゞく
碎けて深き
日影にうつる雲さして行くへもしれず飛ぶやかなたへ
〈[#改ページ]〉
白磁花瓶賦
みしやみぎはの白あやめ
はなよりしろき
いかなるひとのたくみより
うまれいでしとしるやきみ
根ざしも清き泉より
にほひいでたるしろたへの
こゝろのはなと君やみむ
さばかり清きたくみぞと
いひたまふこそうれしけれ
うらみわびつるわが友の
うきなみだよりいでこしを
ゆめにたはふれ夢に醉ひ
さむるときなきわが友の
名殘は白き
あつきなみだの殘るかな
にごりをいでてさくはなに
にほひありとなあやしみそ
戀の
きゆるためしぞなしといへ
あまりに薄き
友のこのよのいのちなれ
やがてさかえむゆくすゑの
ひかりも待たで夏の夜の
短かき夢は
花と散りゆきはかなさや
つゆもまだひぬみどりばの
しげきこずゑのしたかげに
ほとゝぎすなく夏のひの
もろ葉がくれの
夏の光のかゞやきて
さつきの雨のはれわたり
たのしきときやあるべきを
胸の青葉のうらわかみ
落ちてくやしき
いのちは薄き蝉の羽の
ひとへごろものうらもなく
はじめて友の
緑のいろの夏草の
あしたの露にぬるゝごと
深くすゞしきまなこには
戀の雫のうるほひき
影を
流るゝ水を慕ふごと
なさけをふくむ口脣に
からくれなゐの色を見き
をとめごゝろを
戀の
いとけなきかなひとのよに
智惠ありがほの戀なれど
をとめごゝろのはかなさは
友の得しらぬ外なりき
あひみてのちはとこしへの
わかれとなりし世のなごり
かなしきゆめと思ひしを
われや忘れじ夏の
月はいでけり夏の夜の
青葉の蔭にさし添ひて
あふげば胸に忍び入る
ひかりのいろのさやけさや
ゆめにゆめ見るこゝちして
ふたりの膝をうち照らす
月の光にさそはれつ
しづかに友のうたふうた
たれにかたらむ
わがこゝろ
たれにかつげむ
このおもひ
わかきいのちの
あさぼらけ
こゝろのはるの
たのしみよ
などいたましき
かなしみの
ゆめとはかはり
はてつらむ
こひはにほへる
むらさきの
さきてちりぬる
はななるを
あゝかひなしや
そのはなの
ゆかしかるべき
かをかげば
わがくれなゐの
かほばせに
とゞめもあへぬ
なみだかな
くさふみわくる
こひつじよ
なれものずゑに
まよふみか
さまよひやすき
たびびとよ
なあやまりそ
ゆくみちを
ふとき心はありながら
薄き命のはたとせの
名殘は白き
たをらるべきをいのちにて
はなさくとにはあらねども
うれひをふくむ
あゝあゝ清き
つもりもあへず消ゆるごと
なつかしかりし友の身は
われをのこしてうせにけり
せめては白き
消えにしあとの野の花の
色にもいでよわが友の
いのちの春の雪の名殘を
〈[#改ページ]〉
銀河
ながむれば
星の
おとろへて
遠きむかしの
ゆめのあと
こゝにちとせを
すぎにけり
そらの
よのひとの
汲むにまかせて
わきいでし
天の河原は
かれはてて
水はいづこに
うせつらむ
ひゞきをあげよ
織姫よ
みどりの空は
かはらねど
ほしのやどりの
今ははた
いづこに梭の
あゝひこぼしも
織姫も
今はむなしく
老い
夏のゆふべを
かたるべき
みそらに若き
星もなし
〈[#改ページ]〉
きりぎりす
かげにきて
うたひいでしに
くらぶれば
ことしも同じ
しらべもて
かはるふしなき
きりぎりす
耳なきわれを
とがめそよ
うれしきものと
おもひしを
かくまでに
なりけるか
同じしらべに
たへかねて
草と草との
花を分け
聲あるかたに
たちよりて
蟲のこたへを
もとめけり
花をへだてて
きみがため
聞くにまかせて
うたへども
うたのこゝろの
かよはねば
せなかあはせの
きりぎりす
〈[#改ページ]〉
春やいづこに
かすみのかげにもえいでし
糸の柳にくらぶれば
いまは小暗き
あゝ
春やいづこに
色をほこりしあさみどり
わかきむかしもありけるを
今はしげれる夏の草
あゝ
春やいづこに
梅も櫻もかはりはて
枝は
醉うてくづるゝ夏の夢
あゝ
春やいづこに
〈[#改丁]〉
夏草より
明治三十一年
(木曾福島にて)
〈[#改丁]〉
子兎のうた
ゆきてとらへよ
大麥の
われらがつくる
青くさかりと
なるものを
たわにみのりし
穗のかげを
みだすはたれの
たはむれぞ
麥まきどりの
きなくより
かゝるまで
ゆふづゝ沈む
山のはの
こだまにひゞく
はたけうち
われらがつくる
青くさかりと
なるものを
ゆきてとらへよ
大麥の
畠にかくるゝ
小兎を
〈[#改ページ]〉
晩春の別離
時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらむ
さらに長きはなかるらむ
君を送りて花近き
緑に迷ふ鶯は
白き光は佐保姫の
春の
これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
岸の光にまよふとき
東
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし
沈める波に
流れは空し法皇の
水にうつろふ山城の
みやびの
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに
空行く鷲に窮むらむ
春去り行かば青丹よし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
古き
いかに
深き思に沈むらむ
さては秋津の島が根の
南の
囘りて進む
鳴門に落ちて行くところ
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の踴るを望むとき
いかに胸うつ
君が血潮のさわぐらむ
または名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松
舞子の濱のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狹霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の聲を聞くときは
いかに浦邊にさすらひて
遠き
げに君がため山々は
雲を停めむ浦々は
磯に流るゝ
揚げむとすらむよしさらば
野邊のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り
もなかに遊べ
流れを
神をも呼ばひ谷々の
鬼をも
あゝ
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある
九つの
かんさびませしとつくにの
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり
げにや
君にしあれば君がため
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらむ
さらば名殘はつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
見よ影深き
煙をふくむ藤の花
北行く鴈は
霞に沈み鳴き歸り
君を送るに似たりけり
あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も櫻も散りはてて
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜むな家づとの
一枝の筆の花の色香を
〈[#改ページ]〉
うぐひす
さばれ
雀の
うたふをきくや鶯の
すぎこしかたの思ひでを
はじめて谷を出でしとき
うちに望みはあふるれど
行くへは雲に
露は緑の
霜は
あしたに野邊の雪を
ゆふべに谷の水を飮む
さむさに爪も凍りはて
絶えなむとするたびごとに
また
くしきいのちに歸りけり
あゝ
冬のなげきをしらざれば
にほひ亂るゝ梅が香を
凍れる露を飮まざれば
下に萌え立つ若草を
げに春の日ののどけさは
暗くて過ぎし冬の日を
思ひ忍べる時にこそ
いや樂しくもあるべけれ
梅のこぞめの
かざしつ醉ひつうたひつゝ
さらば春風吹き
〈[#改ページ]〉
かりがね
さもあらばあれうぐひすの
たくみの奧はつくさねど
または
しらべのほどはうたはねど
まづかざりなき一
涙をさそふ秋の
長きなげきは
なほあまりあるかなしみを
うつすよしなき
などかく秋を呼ぶ聲の
人の心を亂すらむ
あゝ秋の日のさみしさは
羽袖もいとゞ
浮べる雲に
菊より落つる花びらは
聲を放ちて叫ぶとも
たれかいましをとゞむべき
星はあしたに冷やかに
露はゆふべにいと白し
風に隨ふ桐の葉の
枝に別れて散るごとく
たちかへり鳴け秋のかりがね
〈[#改ページ]〉
野路の梅
風かぐはしく吹く日より
夏の緑のまさるまで
梢のかたに葉がくれて
人にしられぬ梅ひとつ
梢は高し手をのべて
えこそ觸れめやたゞひとり
わがものがほに
ながめ
やがて鳴く鳥おもしろく
行きかふ人の目に觸れて
落ちて
〈[#改ページ]〉
門田にいでて
遠征する人を思ひて娘の
うたへる
草とりの
身のいとまなき
忘るゝとには
あらねども
まぎるゝすべぞ
多かりき
夕ぐれ
手にとりて
こゝろ靜かに
人の得しらぬ
思ひこそ
胸より
流れけれ
あすはいくさの
遠きいくさの
門出なり
せめて別れの
涙をば
名殘にせむと
願ふかな
君を思へば
わづらひも
照る日にとくる
朝の露
君を思へば
かなしみも
夏の雨
君を思へば
光をまとふ
星の空
君を思へば
花のやど
胸の思ひは
つもれども
こひなれば
君が光に
消えばやとこそ
〈[#改ページ]〉
寶はあはれ碎けけり
老いたる鍛冶のうたへる
さなり
うせにけり
なにをかたみと
ながめつゝ
こひしき時を
忍ぶべき
ありし昔の
香ににほふ
帶よけむ
黒髮の
かざしの
帶はあれども
ひきまとふべき
すべもなし
うちかざすべき
すべもなし
ひとりやさしき
とゞまりて
あしたにもまた
ゆふべにも
われにともなふ
おもひあり
あゝたへがたき
くるしみに
おとろへはてつ
をりをりは
面影さへぞ
力なき
われ
うちふるひ
ほのほの前に
はげめばや
胸にうつりし
亡き人の
見ゆるかな
あな面影の
わが胸に
たのしさは
やがてつとめを
いそしみて
かなしみに勝つ
涙なり
思ひなり
いでやかひなの
折るゝまで
けふのつとめを
いそしまむ
〈[#改ページ]〉
新潮
一
磯邊に遊ぶあさゆふべ
やがて
身の
七月夏の
兄もろともに
力をふるふ
いづれ
波間に響く櫂の歌
すなどりすべく漕ぎくれば
鴎の夢も冷やかに
浮び流るゝ
目にも
まなこをあげて落つる日の
きらめくかたを眺むるに
羽袖うちふる
物にかゝはる
飄々として鳥を吹く
風の力もなにかせむ
そつ彦むかし引きならす
せめて舟路のしるべせよ
げにその高き
白き
風を
深紫の雲の色
はや暮れて行く
行くへや遠き鶻隼の
もろ
天の柱の影暗く
雲の
輝きかへる
西に傾く夏の日は
遠く
見ようるはしの
見ようるはしの空の星
北斗の
望みをさそふ天の花
とはの宿りも
光を仰ぐためしかな
きらめくかたを窺へば
魚行くかげは見えわかず
流れは
觸れてかつ鳴る
二
またゝくひまに風吹きて
舞ひ
あるは
あるは
光は離れ星隱れ
みそらの花はちりうせぬ
高く
みるまに暗く覆はれて
目にすさまじく變りけり
聞けばはるかに
いと
風吹き起るをりをりの
波の響に慣れしかど
かゝる
うたがはるゝは聞かざりき
こゝろせよかしはらからよ
な恐れそと叫ぶうち
あるはけはしき
あるは
落つるにまがふ
溢るゝばかり
たとへば波の
梢をふるひふるごとく
舟は枯れゆく秋の葉の
枝に離れて散るごとし
舟うごかすと見るうちに
げに消えやすき
落ちてはかなくなれるごと
海の
あゝ思のみはやれども
怒りて高き
人の命は春の夜の
夢とやげにも夢ならば
いとど悲しき夢をしも
見るにやあらむ海にきて
まのあたりなるこの夢は
これを思へば胸滿ちて
流るゝ涙せきあへず
今はた櫂をうちふりて
波と戰ふ力なく
死して
身を舟板に
波にまかせて流れつゝ
聲を放ちて泣き入れば
げに底ひなきわだつみの
上に行方も定めなき
時には遠き
光なき世に流れ落ち
朽ちて行くかと疑はれ
時には頼む人もなき
沈むかとこそ思はるれ
あゝあやまちぬよしや身は
おろかなりともかくてわれ
もろく果つべき命かは
照る日や月や上にあり
かくと心に定めては
波ものかはと
亂れて燃ゆる影青し
わづかに頼む心より
消えてはもゆる闇の
その靜かなる光こそ
危ふきばかりともすれば
波にゆらるゝこの舟の
行くへを照らせ燐の火よ
海よりいでて海を焚く
青きほのほの影の外
道しるべなき今の身ぞ
碎かば碎けいざさらば
波うつ櫂はこゝにあり
たとへ舟路は暗くとも
世に勝つ道は前にあり
あゝ
〈[#改丁]〉
落梅集より
明治三十二年――同三十三年
(小諸にて)
〈[#改丁]〉
常盤樹
あら雄々しきかな傷ましきかな
かの常盤樹の落ちず枯れざる
常盤樹の枯れざるは
百千の草の落つるより
傷ましきかな
其枝に懸る朝の日
其幹を
など行く旅の
など電の影と馳するや
蝶の舞
花の笑
など遊ぶ日の世に短きや
など其醉の早く醒むるや
蟲草の葉に悲めば
鳥潮の音に驚けば
一時にして既に雪
木枯高く秋落ちて
自然の色はあせゆけど
坤軸遂に
ものみな速くうらがれて
長き寒さも知らぬ間に
獨りし立つは何の力ぞ
白銀の花霏々として
吹雪の煙
四方は氷に閉されて
江海も
空を凌ぐは何の力ぞ
立てよ友なき野邊の
ゆゝしく高く立てよ常盤樹
山の命も老いなむか
谷の響も絶えなむか
あしたには葉をうつ霙
ゆふべには枝うつ霰
千草も知らぬ冬の日の
嵐に叫ぶうきなやみ
いづれの日にか
氷は解けて
其葉の涙
消えむとすらむ
あゝよしさらば枝も
終の色の落ちなむ日まで
雲浮かば
無縫の天衣
風立たば
不朽の緒琴
おごそかに
立てよ常盤樹
あら雄々しきかな傷ましきかな
かの常盤樹の落ちず枯れざる
常盤樹の枯れざるは
傷ましきかな
〈[#改ページ]〉
寂寥
岸の柳は低くして
羊の群の繪にまがひ
野薔薇の幹は埋もれて
流るゝ砂に跡もなし
麓をめぐる河水や
魚住む淵に沈みては
鴨の頭の深緑
花さく岩にせかれては
天の鼓の樂の音
さても水瀬はくちなはの
かうべをあげて奔るごと
白波高くわだつみに
流れて下る千曲川
あした炎をたゝかはし
ゆふべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす淺間山
あゝ北佐久の岡の裾
御牧が原の森の影
夢かけめぐる旅に寢て
安き一日もあらねばや
高根の上にあかあかと
燃ゆる炎をあふぐとき
み谷の底の青巖に
逆まく浪をのぞむとき
かしこにこゝに
その味ひはにがかりき
あな
獸の足の跡のみか
舞ひて見せたる大空の
鳥のゆくへのそれのみか
さてもためしの燈火に
若き心をうかゞへば
人の命の樹下蔭
花深く咲き花散りて
枝もたわゝの智慧の實を
味ひそめしきのふけふ
知らずばなにか旅の身に
人のなさけも薄からむ
知らずばなにか移る世に
假の契りもあだならむ
一つの石のつめたきも
萬の聲をこゝに聽き
一つの花のたのしきも
千々の涙をそこに觀る
あな
あはれの外のあはれさも
智慧のさゝやくわざぞ是
かの深草の露の朝
かの象潟の雨の夕
またはカナンの野邊の春
またはデボンの岸の秋
世をわびびとの寢覺には
あはれ鶉の聲となり
うき旅人の宿りには
ほのかに
羊を友のわらべには
日となり星の數となり
夢に添ひ寢の農夫には
はつかねずみとあらはれて
あるは形にあるは
色ににほひにかはるこそ
いつはり薄き
いづれいましのわざならめ
さなりおもては冷やかに
いとつれなくも見ゆるより
深き心はあだし世の
人に知られぬ
むかしいましが雪山の
佛の夢に見えしとき
かりに姿は花も葉も
根もかぎりなき藥王樹
むかしいましが沅湘の
水のほとりにあらはれて
楚に捨てられしあてびとの
熱き涙をぬぐふとき
かりにいましは長沙羅の
ゆふべ悲しき秋風に
香ひを送る
またはいましがパトモスの
離れ小島にあらはれて
歎き仆るゝひとり身の
冷たき夢をさますとき
かりに
首はゆふべの空の虹
衣はあやの雲を着て
足は二つの火の柱
默示をかたる言の葉は
高きらつぱの天の聲
思へばむかし北のはて
舟路侘しき佐渡が島
雲に戀しき天つ日の
光も薄く雪ふれば
毘藍の風は吹き落ちて
梵
岸うつ波は波羅密の
海潮音をとゞろかし
朝霜ふれば袖閉ぢて
衣は凍る鴛鴦の羽
夕霜ふれば現し身に
八つのさむさの寒古鳥
ましてや國の罪人の
安房の生れの
あな
ひとりいましにあらずして
天にも地にも誰かまた
そのかなしみをあはれまむ
げに晝の夢夜の夢
旅の愁にやつれては
日も暖に花深き
空のかなたを慕ふとき
なやみのとげに責められて
袖に涙のかゝるとき
汲みて味ふ
にがき誠の一雫
秋の日遠しあしたにも
高きに登りゆふべにも
流れをつたひ獨りして
ふりさけ見れば鳥影の
天の鏡に舞ふかなた
思ひを閉す白雲の
浮べるかたを望めども
都は見えず
來りてわれと共にかたりね
〈[#改ページ]〉
千曲川旅情の歌
一
小諸なる古城のほとり
雲白く
緑なす
若草も藉くによしなし
しろがねの
日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど
野に滿つる
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飮みて
草枕しばし慰む
二
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを
明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水卷き歸る
嗚呼古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に
〈[#改ページ]〉
鼠をあはれむ
星近く戸を照せども
戸に枕して人知らず
鼠古巣を出づれども
人夢さめず驚かず
情の海の淡路島
通ふ千鳥の聲絶えて
やじりを穿つ盜人の
寢息をはかる影もなし
長き尻尾をうちふりつ
小踊りしつゝ軒づたひ
煤のみ深き
夜をうかがふ古鼠
光にいとひいとはれて
白齒もいとど冷やかに
竈の隅に忍びより
ながしに搜る鰺の骨
闇夜に物を透かし視て
暗きに遊ぶさまながら
なほ聲無きに疑ひて
影を懼れてきゝと鳴き鳴く
〈[#改ページ]〉
勞働雜詠
一 朝
朝はふたゝびこゝにあり
朝はわれらと共にあり
埋れよ眠行けよ夢
隱れよさらば小夜嵐
けふの命の
よそほひせよと叫ぶかな
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく
風に嘶く馬もやれ
雲に
語らず言はず聲なきも
人を勵ます其音は
野山に谷にあふれたり
流るゝ汗と
落つるやいづこかの野邊に
名も無き賤のものゝふを
來りて護れ
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく
風に嘶く馬もやれ
あゝ綾絹につゝまれて
爲すよしも無く寢ぬるより
薄き
活きて起つこそをかしけれ
酒か涙か
迷か夢か皆なあらず
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく
風に嘶く馬もやれ
さながら土に繋がるゝ
重き鎖を解きいでて
いとど暗きに住む鬼の
口には朝の息を吹き
骨には若き血を纏ひ
胸に驕慢手に力
霜葉を
野に出でよ野に出でよ
稻の穗は黄にみのりたり
草鞋とく
風に嘶く馬もやれ
二 晝
誰か知るべき秋の葉の
落ちて樹の根の
重く聲無き石の下
清水溢れて流るとは
誰か知るべき
稻穗のたわに實るとき
花なく香なき
共に來て蒔き來て植ゑし
田の
野邊の
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
血潮は草に流さねど
力うちふり鍬をうち
天の
わが
見よ日は高き青空の
端より端を弓として
今し父の矢母の矢の
光を降らす眞晝中
共に來て蒔き來て植ゑし
田の
野邊の
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
胸滿ちくれば火のごとく
骨と髓との燃ゆる時
土と
汗と
緑にまじる黄の莖に
烈しき息のかゝる時
共に來て蒔き來て植ゑし
田の
野邊の
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
思へ名も無き
遠きに石を荷ふ身は
夏の
ほまれ短き夢ならじ
こゝに音無し聲も無し
勝ちて桂の冠は
わづかに白き頬かぶり
共に來て蒔き來て植ゑし
田の
野邊の
刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を
三 暮
揚げよ
稻葉を高くふりかざせ
日暮れ
落つる日や
行く道すがら眺むれば
秋天高き夕まぐれ
共に蒔き
共に植ゑ
共に稻穗を刈り乾して
歌うて歸る今の身に
ことしの夏を
かへりみすれば
嗚呼わが
わなゝきふるふ
この日怖れをかの日に傳へ
この夜望みをかの夜に繋ぎ
門に立ち
野邊に行き
ある時は風高くして
青草長き谷の影
雲に嵐に稻妻に
ある時は夏寒くして
山の鳩啼く森の下
たまたま虹に
末のみのりを祈りてき
それは逝き
これは來て
餓と涙と送りてし
同じ自然の
今は思ひのなぐさめに
光をはなつ秋の星
あゝ勇みつゝ踊りつゝ
家路に通ふ森の道
眠る
皆な土くれの苔
霧立つ空に入相の
精舍の鐘の響く時
あゝ驕慢と
力を息に吹き入れて
勝ちて歸るの勢に
揚げよ樂しき秋の歌
〈[#改ページ]〉
爐邊雜興
散文にてつくれる即興詩
あら荒くれたる賤の山住や顏も黒し手も黒しすごすごと林の中を歸る藁草履の土にまみれたるよ
こゝには五十路六十路を經つつまだ海知らぬ人々ぞ多き
炭燒の烟をながめつゝ世の移り變るも知らで谷陰にぞ住める
岡のべに通ふ路には野苺の實を垂るゝあり摘みて舌うちして年を經にけり
大豆を賣りて皿の上に載せたる鹽鮭の肉鹽鮭何の磯の香もなき
年々の暦と共に壁に煤けたる錦繪を見れば海ありき廣重の筆なりき
たまたま伊勢詣のしるしにとて送られし貝の一ひらを見れば大わだつみのよろづの波を
品川の沖によるといふなる海苔の新しきは先づ棚の佛にまゐらせて山家にありて遠く海草の
〈[#改ページ]〉
黄昏
つと立ちよれば垣根には
露草の花さきにけり
さまよひくれば夕雲や
これぞこひしき門邊なる
瓦の屋根に烏啼き
烏歸りて日は暮れぬ
おとづれもせず
螢と共にこゝをあちこち
〈[#改ページ]〉
枝うちかはす梅と梅
枝うちかはす梅と梅
梅の葉かげにそのむかし
われは君とし遊びてき
空風吹けば雲離れ
別れいざよふ西東
青葉は枝に契るとも
緑は永くとゞまらじ
水去り歸る手をのべて
誰れか流れをとゞむべき
行くにまかせよ嗚呼さらば
また相見むと願ひしか
遠く別れてかぞふれば
かさねて長き秋の夢
願ひはあれど
くだけて時を
わが髮長く生ひいでて
額の汗を覆ふとも
甲斐なく
罪多かりし草枕
雲に浮びて立ちかへり
都の夏にきて見れば
むかしながらのみどり葉は
蔭いや深くなれるかな
わかれを思ひ逢瀬をば
君とし今やかたらふに
二人すわりし青草は
熱き涙にぬれにけり
〈[#改ページ]〉
めぐり逢ふ君やいくたび
めぐり逢ふ君やいくたび
あぢきなき夜を日にかへす
吾命
君あれば戀のあけぼの
樹の枝に琴は懸けねど
朝風の來て
面影に君はうつりて
吾胸を靜かに渡る
雲迷ふ身のわづらひも
紅の色に
流れつゝ
いと熱き思を宿す
知らざりし道の開けて
大空は今光なり
もろともにしばしたゝずみ
新しき眺めに入らむ
〈[#改ページ]〉
あゝさなり君のごとくに
あゝさなり君のごとくに
何かまた優しかるべき
歸り來てこがれ侘ぶなり
ねがはくは開けこの戸を
ひとたびは君を見棄てて
世に迷ふ羊なりきよ
あぢきなき石を枕に
思ひ知る君が
樂しきはうらぶれ暮し
泉なき砂に伏す時
青草の
悲しき日樂しきはなし
悲しきはふたゝび歸り
緑なす野邊を見る時
樂しき日悲しきはなし
その笛を今は頼まむ
その胸にわれは
君ならで誰か飼ふべき
〈[#改ページ]〉
思より思をたどり
思より思をたどり
獨りして遲く歩めば
月
おぼつかな春のかすみに
うち
仄白き空の鏡は
俤の心地こそすれ
物皆はさやかならねど
鬼の住む暗にもあらず
おのづから光は落ちて
吾顏に
其光こゝに映りて
日は見えず
其影はこゝに宿りて
君見えず遠の山川
天の戸は雲かあらぬか
草も木も眠れるなかに
仰ぎ視て涕を流す
〈[#改ページ]〉
吾戀は河邊に生ひて
吾戀は河邊に生ひて
根を
枝延びて緑なすまで
北のかた水去り歸り
晝も夜も南を知らず
あゝわれも君にむかひて
草を藉き思を送る
〈[#改ページ]〉
吾胸の底のこゝには
吾胸の底のこゝには
言ひがたき
身をあげて
君ならで誰かしらまし
もしやわれ鳥にありせば
君の住む窻に飛びかひ
羽を振りて晝は
深き音に鳴かましものを
もしやわれ
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思を
その絲に織らましものを
もしやわれ草にありせば
野邊に
かつ靡きかつは
その足に觸れましものを
わがなげき衾に溢れ
わがうれひ枕を浸す
朝鳥に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ
このこゝろ何か寫さむ
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ傳ふべきなれ
〈[#改ページ]〉
君こそは遠音に響く
君こそは遠音に響く
入相の鐘にありけれ
幽かなる聲を辿りて
われは行く
君ゆゑにわれは休まず
君ゆゑにわれは仆れず
嗚呼われは君に引かれて
暗き世をわづかに搜る
たゞ知るは沈む春日の
目にうつる
なつかしき聲するかたに
花深き夕を思ふ
吾足は傷つき痛み
吾胸は溢れ亂れぬ
君なくば人の命に
われのみや
あな
君もまた同じ
手引せよ
〈[#改ページ]〉
こゝろをつなぐしろかねの
こゝろをつなぐ
鎖も今はたえにけり
こひもまこともあすよりは
つめたき砂にそゝがまし
顏もうるほひ手もふるひ
逢うてわかれををしむより
人目の關はへだつとも
あかぬむかしぞしたはしき
形となりて添はずとも
せめては影と添はましを
たがひにおもふこゝろすら
裂きて捨つべきこの世かな
おもかげの草かゝるとも
君し住まねば吾胸は
つひにくだけて荒れぬべし
一歩に涙五歩に血や
すがたかたちも空の虹
おなじ照る日にたがらへて
永き別れ路見るよしもなし
〈[#改ページ]〉
罪なれば物のあはれを
罪なれば物のあはれを
こゝろなき身にも知るなり
罪なれば酒をふくみて
夢に醉ひ夢に泣くなり
罪なれば親をも捨てて
世の鞭を忍び負ふなり
罪なれば宿を逐はれて
花園に別れ行くなり
罪なれば刃に伏して
紅き血に流れ去るなり
罪なれば手に手をとりて
死の門にかけり入るなり
罪なれば滅び碎けて
嗚呼
戀の火にもゆるたましひ
〈[#改ページ]〉
風よ靜かにかの岸へ
風よ靜かに
こひしき人を吹き送れ
海を越え行く旅人の
八重の汐路をかき分けて
行くは僅に舟一葉
底
君安かれと祈るかな
海とはいへどひねもすは
波とはいへど夜もすがら
緑の草と思ひ寢よ
もし海怒り狂ひなば
われ
いといと深き
其嵐をぞなだむべき
樂しき
ふたゝびみたびめぐり逢ふ
あゝ緑葉の
今は海にも思ひ知る
破れて胸は紅き血の
流るゝがごと滴るがごと
〈[#改ページ]〉
椰子の實
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
實をとりて胸にあつれば
海の日の沈むを見れば
思ひやる八重の
いづれの日にか國へ歸らむ
〈[#改ページ]〉
浦島
浦島の子とぞいふなる
遊ぶべく海邊に出でて
釣すべく岩に上りて
長き日を絲垂れ暮す
流れ藻の青き葉蔭に
隱れ寄る魚かとばかり
手を延べて水を出でたる
うらわかき
名のれ名のれ
わだつみに住める
思ひきや水の中にも
黒髮の魚のありとは
かの
われはこれ
わだつみの神のむすめの
乙姫といふはわれなり
捨てて來し海へは入らじ
あゝ君の胸にのみこそ
けふよりは住むべかりけれ
〈[#改ページ]〉
舟路
海にして響く艫の聲
水を撃つ音のよきかな
大空に雲は
潮分けて舟は行くなり
靜なる空に透かして
青波の深きを見れば
流れ藻の浮きつ沈みつ
緑なす草のかげより
湧き出づる泉ならねど
おのづから滿ち來る汐は
海原のうちに溢れぬ
さながらに遠き白帆は
群をなす
吹き送る風に飼はれて
わだつみの野邊を行くらむ
雲行けば舟も隨ひ
舟行けば雲もまた追ふ
空と水相合ふかなた
諸共にけふの
〈[#改ページ]〉
鳥なき里
鳥なき里の蝙蝠や
山へ宗助海へ幸助
黄瓜花さき夕影に
蝉鳴くかなた桑の葉の
露にすゞしき山道を
海にうらやむ幸助のゆめ
磯菜
舟干すかなた夏潮の
鰺藻に響く海の音を
山にうらやむ宗助のゆめ
かくもかはれば變る世や
幸助鍬をかたにかけ
宗助網を手にもちて
山へ宗助海へ幸助
霞にうつり霜に暮れ
たちまち過ぎぬ春と秋
のぞみは草の花のごと
砂に埋れて見るよしもなし
さながらそれも
胸の青雲いづこぞや
かへりみすれば跡もなき
宗助のゆめ幸助のゆめ
ふたゝび百合はさきかへり
ふたゝび梅は青みけり
深き緑の樹の蔭を
迷うて歸る宗助幸助
〈[#改ページ]〉
藪入
上
朝淺草を立ちいでて
かの深川を望むかな
片影
こひしき家に歸るなり
籠の雀のけふ
いとまたまはる藪入や
思ふまゝなる吾身こそ
空飛ぶ鳥に似たりけれ
大川端を來て見れば
帶は淺黄の染模樣
うしろ姿の小走りも
うれしきわれに同じ身か
柳の並樹暗くして
墨田の岸のふかみどり
靜かに波にひゞくかな
白帆をわたる風は來て
鬢の
花あつまれる浮草は
われに添ひつゝ流れけり
潮わきかへる品川の
沖のかなたに行く水や
思ひは同じかはしもの
わがなつかしの深川の宿
下
その名ばかりの鮨つけて
やがて
いとまごひして見かへれば
あゆみは重し愁ひつゝ
岸邊を行きて吾宿の
今のありさま忍ぶにも
忍ぶにあまる
家をこゝろに浮ぶれば
夢も冷たき
西日悲しき
まばら朽ちたる裏住居
南の
垣に短かき草箒
人に昔を語り顏
風吹くあした雨の
すこしは世をも知りそめて
むかしのまゝの身ならねど
かゝる思ひは今ぞ知る
身を世を思ひなげきつゝ
流れに添うてあゆめばや
今の心のさみしさに
似るものもなき眺めかな
夕日さながら畫のごとく
岸の柳にうつろひて
汐みちくれば水禽の
影ほのかなり隅田川
茶舟を下す舟人の
聲
水をながめてたゝずめば
深川あたり迷ふ夕雲
〈[#改ページ]〉
惡夢
少年の昔よりかりそめに相知れるなにがし、獄に繋がるゝことこゝに三とせあまりなりしが、はからざりき飛報かれの凶音を傳へぬ。今春獄吏に導かれて、かれを巣鴨の病床に訪ひしは、舊知相見るの最後にてありき、かれ學あり、才あり、西の國の言葉にも通じ、宗教の旨をも味はひ知り、おほかたの藝能にもつたなからず、人にも侮られまじき程の品かたちは持てりしに、其半生を思ひやれば實に慘苦と落魄との連鎖とも言ふべかりき。かれは春の日の長閑に暖かなる家庭に生ひたちて、希望と幸福とを一身に荷ひたりしかど、やがて獄窓に呻吟せしの日は人生流離の極みを盡したる後なりき。あはれむべし、死と狂と罪とを除きて他にかれの行くべき道とてはあらざりしなり。われは今、かれが惡夢を憐むの餘り、一篇の蕪辭囚人の愁ひをとりて、みだりに花鳥の韻事を穢す、罪の受くべきはもとよりわが期する所なり。
其耳はいづこにありや
其胸はいづこにありや
この心誰に告ぐべき
秋蠅の窓に殘りて
日の影に飛びかふごとく
あぢきなき
伏して寢ねまたも目さめぬ
吾床は乾く間も無し
黒髮は霜に衰へ
若き身は歎きに老いぬ
春やなき無間の谷間
潮やなき紅蓮の岸邊
熱き火の燃ゆる罪のみ
戀の矢も朽ちて行く世に
いつまでか骨に刻みて
時しらず
空の鷲われに來よとや
なにかせむ自在なき身は
天の馬われに來よとや
なにかせむ
いかづちの火を吹くごとく
この痛み胸に踊れり
なかなかに罪の
濃き陰の暗にこそあれ
いとほしむ人なき我ぞ
隱れむにものなき我ぞ
血に泣きて聲は呑むとも
世を知らぬをさなき昔
香ににほふ
すゝりなく恨みの日より
吾蟲は
わがいのち
その惡を舞ふにやあらむ
わがこゝろ悲しき鏡
その夢を見るにやあらむ
人の世に羽を撃つ
今更に我をうみてし
亡き母も恨めしきかな
父いかに
妻いかに
この道を忘れたまふや
この空を忘れたまふや
いかなれば歎きをすらむ
その父はわれを捨つるに
いかなれば忍びつ居らむ
その妻はわれを捨つるに
くろがねの窓に縋りて
浮雲や遠く懸りて
履みなれし丘にさながら
さびしさの訪ひくる外に
おとなひも絶えてなかりし
吾窓に鳴く音を聽けば
人知れず涙し流る
人の身は鳥にもしかじ
あゝ
いづくにか漂ふやらむ
照れる日の光はあれど
わがたましひは暗くさまよふ
〈[#改ページ]〉
響りん/\音りん/\
響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は蹄をふみしめて
故郷の山を出づるとき
その黒毛なす
その紫の兩眼は
青雲遠く望むかな
枝の緑に袖觸れつ
あやしき鞍に跨りて
馬上に歌ふ一ふしは
げにや遊子の旅の情
あゝをさなくて國を出で
東の磯邊西の濱
さても繋がぬ舟のごと
夢長きこと二十年
たま/\ことし歸りきて
昔懷へばふるさとや
蔭を岡邊に尋ぬれば
野草は深く荒れにけり
菊は心を驚かし
蘭は思を傷ましむ
高きに登り草を藉き
惆悵として眺むれば
涙流れてかぎりなし
ふたゝび言ふに足らじかし
あゝよしさらばけふよりは
日行き風吹き
あやにたなびくかなたをも
白波高く八百潮の
湧き立ちさわぐかなたをも
かしこの岡もこの山も
いづれ心の宿とせば
しげれる谷の野葡萄に
秋のみのりはとるがまゝ
深き林の
秋の光は
響りん/\音りん/\
うちふりうちふる鈴高く
馬は
雲に嘶きいさむとき
かへりみすれば
〈[#改ページ]〉
翼なければ
朽ちはつべしとかねてしる
光なければ埋もれて
老いゆくべしとかねてしる
知る人もなき山蔭に
朽ちゆくことを厭はねば
牛飼ふ野邊の寂しさを
かくれがとこそ頼むなれ
獨り戸に倚り眺むれば
ゆふべ
牧場の草に
〈[#改ページ]〉
罪人と名にも呼ばれむ
歸らじとかねて思へば
嗚呼涙さらば
駒とめて路の樹蔭に
あまたたびかへりみすれば
輝きて立てる白壁
さやかにも見えにけるかな
吾駒の歩みも遲し
愁ひつゝ蹄をあげて
雲遠き都にむかふ
戰ひの世にしあなれば
野の草の露と知れれど
吾父の射る矢に立ちて
消えむとは思ひかけずよ
捨てよとや紙にもあらず
吾心燒くよしもなし
捨てよとや筆にもあらず
吾心折るよしもなし
そのねがひ親や
このおもひ子や新しき
つくづくと父を思へば
吾袖は紅き血となる
海にまで入らではやまじ
はらからやさらば
〈[#改ページ]〉
胡蝶の夢
胡蝶の夢の人の身を
旅といふこそうれしけれ
宿といふこそをかしけれ
青き山邊は吾枕
花さく野邊は
星縫ふ空は
さかまく海は
いづこよりとは告げがたし
いづこまでとは言ひがたし
いま日の光いま嵐
來る
人のさかりをかりそめに
夏といはむもおもしろや
あゝわれひとの知らぬ間に
心の色は褪せ易し
胸うち掩ふ
若き命もいくばくぞ
かんばせの花紅き子も
あはれや早く翁顏
あるひは高く撃てれども
翅碎けて八重
あるひは遠く舞へれども
望は落ちて塵
譽も聲も浮ける雲
すぐれし才はいづこぞや
涙も夢も草の雨
流れて更に音も無し
思うて誰か傷まざる
歩みて誰か迷はざる
人の命を
賤も
晝には晝に遊ぶべし
夜には夜に遊ぶべし
破りはつべき世ならねば
身は狂ふこそ悲しけれ
捨てつ拾ひつこの命
行きつ
〈[#改ページ]〉
落葉松の樹
思はなにか慰まむ
旅寢は胸も病むばかり
沈む憂は醉ふがごと
獨りぬる夜の夢にのみ
たゞ夢にのみ山路を下る
〈[#改ページ]〉
ふと目はさめぬ
ふと目は覺めぬ五とせの
心の醉に驚きて
若き
はや吾春は老いにけり
夢の
昔は何を知れとてか
今は何をか思へとや
折れて泣きしは戀なりき
荒き胸にも一輪の
花をかざすは戀なりき
勇める馬の狂ひいで
風こゝちよき青草の
野邊を蹄に
又は
胸より熱き火を吹きて
汲めど盡きせぬ眞清水の
泉に
若き心の躍りては
こがれつ醉ひつ筆振れば
筆神ありと思ひてき
あゝうつくしき花草は
咲く間を待たで
そは何故のうき世にて
人に誠はありながら
戀路の末はとこしへの
冬を
黒髮われを覆ふとも
血潮はわれを染むるとも
花
思は胸を
繪筆うちふる吾指は
歎きのために震ふかな
涙に濡るゝ吾紙は
かはりはてたる吾命
かはりはてたる吾思
かはりはてたる吾戀路
かはりはてたる吾
この世はあまり
あたら吾身は夢ばかり
なぐさめもなき
境に泣きてさまよふわれは
〈[#改ページ]〉
縫ひかへせ
縫ひかへせ縫ひかへせ
涙に濡れし其袂
縫ひかへせ縫ひかへせ
君が衣を縫ひかへせ
縫ひかへせ縫ひかへせ
捨てよ昔の夢の
やめよ甲斐なき物思
縫ひかへせ縫ひかへせ
腐れて何の袖かある
縫ひかへせ縫ひかへせ
薄き羽袖の蝉すらも
歌うて殼を出づる世に
縫ひかへせ縫ひかへせ
君がなげきは
とく新しき世に歸れ
この著作物は、1943年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。