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船は岬から岬へ、島から島へと麗しい航路を進んでゐた。瀨戸内海の日沒――艫の一條の泡が白い路となつて消えてゆく西には太陽の榮光はもう大方は濃い青に染んでしまつた雲の緣を彩つてゐたが、船の進んでゆく東の方はもう全く暮れてしまつて、美しい星が燦き初めてゐた。
夏の終り、私は九州地方の旅を終へて家へ皈る途中であつた。烈しい日射(ひざし)は、もう甲板に蒸暑いニスの匂ひをたてなくなつたし、海面のギラギラする反射もお(を)さまり、空氣も冷たくなつたので、食事を濟ませた船客たちがぞろぞろ上甲板を賑はせてゐた。
その中の一人だつた私も、食事で汗になつた肌衣を着かへて、學校の制服の釦もルーズに快い海風を孕ませて左舷の風景から右舷の風景へと甲板を步いてゐた。
愛想のいゝ金モールの服を着た事務長といふのが子供と一緒になつて輪投げをしてゐる。それを中心に船客が取りまいて面白そママうに見てゐた。私はいまもその船員の快活な笑顏を覺えてゐる。赧(赤)ら顏の、ひげを靑く剃つた、深い溝の樣な笑窪のある そしてその眼つきには子供を馴れさすに充分なみ(魅)力があつた。その事務長が可愛い服をきた女の兒や男の兒をきゃっ云はせながら上手に輪なげをやつた。そして間相間(あいまあいま)には周圍の奥さんや娘さんにその半分の笑みを送つてゐた。
西に下りてゆく太陽の引く最後の裳裾――その豪奢な黄金の緣どりも細くなつてゆき、濃く暮色にそめられた雲と雲との間には  ひすい(ゐ)色に澄み透つた空氣が丁度美しい液體の樣に充たされてあつた。
然しもうそれも除(徐)ろにではあるが眼に見える樣な變化で夜の帳にかくされて行つた。
燈臺が明滅しはぢママめた、島の深い暗色の蔭に靑い燈を掲げた船が匍ふ樣に進んでゐた。どこの港の火か鏤めらえた寶石の王冠が置かれてある樣に見えて來た、まだその遠くにはやはりその樣なきらめくものゝかたまりが夜光虫の群れの樣にうようよ蠢く樣に見えた。
白い帆の船も島の天鵞絨の樣な質をもつた濃い藍の背景を幻しママの樣に、變に明るく過ぎて行つた。
空には撒き散らされた星が、美しい天蓋をもうすつかり飾つてゐた。
その下を船は、快い機關の震動を傳へながら〇(はし)つてゆく――海面を切る舳は二本の長いうねりを兩側につけて、そのうねりに乘つた船は、沈む程搖られ、搖られながら後へ後へ消えてゆく。
人々はその漁船か、帆前船の墻(檣)につけた燈が大搖れに搖れるのを興がつて眺めてゐるのである。
私は午過ぎに乘つた時から涼しい喫煙室で、戰爭と平和とをその夕方頃まで讀み耽けつてゐた。ナターシヤ達の獵にゆく所、降誕祭の夜、などの美しい敍述を讀む頃、私は他愛もなくその中に誘ひ込まれてしまつてゐた。身も心もといふ風に。そして私はそんなにまでなつていゝものかと疑つたりした。この樣な美しさは――あまりに龍宮の樣である。私自身が威嚴を捨てさせられる樣な美しさである、――そう思ひながらも私は溺れてゆくものが死の恍惚に愧(魅)せられて苦しいもがきをやめてしまふ樣に、魔術にかゝつた様になつてしまつた。
そしてあのアナトリー・クラーギンがナターシヤを捕虜(とりこ)にしやママうとする所に來た時、私は不安な豫感に捕はれて、
「あゝ、いけない、いけない。」を何度も繰返したのだつた。丁度それが今現在目の前に起つてゐることかの樣に。そしてその都度、私は活字の上から眼を放して、救を求める樣に周圍を眺めた、微睡してゐる、ボーイや繪葉書をかいてゐる人の上を。――そして私はその都度ためいきをついた。
私がその活字を離れて食事をすませて甲板を步いてゐる時も、私の心は絕えず片手に持つてゐるその本に心をひかれた。然しその日沒の美しさの瞬間事の變化もまた私の心を握つて離さなかつた。……(缺)


本のことをこんな風に忘れさへした。――海を見てゐる私の氣持が不自然に嬉しいのでどうも變だと思ふ。その嬉しいのは一體何故なんだらう。私はそれをとママうとう最後に探りあてる。――美しい小説が私を待つてゐる一方、私は美しい風景にとりまかれてゐる。――そして私はその間で間誤ついてしまふ程だつた。一時に積み切れない觀(歡)喜で私は心の變な搖ぎを感じた。


私は甲板を罩めてゐる、ほの明るい暗の中に服裝がどううも私の學校と思はれる一人の人の影を見出した。
本當はそれに氣が付いたのはその時が初めてゞはなく、私が晝間本に讀みふけつてゐる時二三度目の前をかすめたのを知つてたおであつたが、その時の私はその人を別にどうとも考へる餘地がなかつたのだつた。
然し今度は、その人を確め樣とする氣が湧いて來た。私はこんな旅先で同じ學校の生徒に會ふのが慕(懷)しかつた。若しや私のよく知つた友達かも知れない。――と私はその人に近よつてやみの中をすかして見た。彼方でも私の顏をかなり注意して見た。その人は私の學校の人に相違なかつた。然し私は少し自分の人慕(ママしさを直ぐあらわママせる程の率直さを持つて醫なかつたのでしばらく躊躇つてゐた。私がなにげなくその人の方へ近づくと一緒にその人がまた私の方をちらと見たので私は大膽になつて問ひかけて見た。
「あなた、三高の方ですね。」
「あゝ、貴君も。晝から氣がついてたんですが。」
私達はそれから種々なことを話し出した。
何の科の何年。學校の話。夏休みに行つた所の話。――その人が繪が好きらしくスケッチブックを持つてゐた。屋島は夜でしつかりわからなかつたがと云つて私が氣がつかなかつた屋島のスケッチを見せて呉れた。
それから畫家の話。
私はそんな話を續けてゆくうちに今までの氣持のよさがなほもなほも高められてゆくのを感じた。
背のすらりとした、「巴里の少女」といふロダンの彫刻に似た容貌の、その若々しい靑年の心に、私の話が素直に傳へられ、朗かに反響して來るのを私は樂しいものにきいてゐる。それ斗りか私の目の前を燈臺の赤や白の光の明滅や船の安全燈の搖らぎが絕えず過ぎて行き、頭の上には星を鏤めた莊(壯)麗な天蓋が靜々と滑つてゆく。
海の風は冷くなつて私達はそう云ひあひながら服の釦をはめた。帽子をぬぐとその氣味のいゝ風は私の髪を一方に吹きつけた。太い煙突から出る煙はその風になびつけられて斜後(ななめうしろ)の海面を傳つて長く長く匐つてゐた。
何を漁つてゐるのか小形の漁船がたくさん火を點してゐた。私達の汽船は時々それの極く近くを通つた。私達はしばらくの間物も云はずに汽船の伸ばしてゐる兩腕の樣な舳からの高いうねりがそれらの舟をさらうママのを見てゐた。墻(檣)の火で船の中がよく見える程近いものもあつた。然しうねりがゆく前に船頭は舵を使つてうねりと舟との角度をうまくさせるので そのうねりが死ぬ無分別に船を搖するが決して水などは入らないことが段々確められて來て、水が入りはしないかといふ好奇心も、殘酷ではなくなつてゆくのだつたが、まだそれでもがちゃがちゃ音がしたりするのが面白くて、近いのが來る度に、私達は聲をたてゝ笑つた。
「一體何がつれるんでせうね。」
「さあ……」
「ね、あれ魚が泳いでるんぢやないでせうか。それ、あのうねりの後に光つてるでせう。」
「さあ、うねりの飛沫でもないが……」
「あれは……そうだ!夜光虫ですよ。」
「さあ、時々、少しあちらでも光つたりしますね。波の光にしちや靑すぎる樣だし……」
「ね、また光つた。ね、あの邊を見てゝ御らん。あゝそれ!」
「あゝ……。」
時々波のうねりがくだける所に燐光の樣に燦く光があつた。その靑い光に白つぽい波の穗や、水玉が明るく反射(てりかへ)されてゐた。
「夜光虫でもなさそうですね。」
「やはり波の色なんでせうか」
「いつまで經つても殖えもしなけれやへりもしない。――夜光虫といふ奴は綺麗ですね。」
そういふ風に話はいくらでも續けられて行つた。C――君の素直な心、それから美しいぐるりの情景、そして私が晝から涵つてゐた美しい小説の影響は、相ひ互ひに組みあつて私の氣持をいくらでも押し出してゆくのだつた。
然し私は時々私自身を冷かに省みた。
「お前はまたC――君にお前自身をいゝ人間である樣に印象させてしまつた。
强ひて云へばお前は相手に與へる印象の奴隷になつてお前の像をC――君の中に一つ一つ建設して行つたのだ。」
そしてその反省は私のその頃の生活の所産であつた。
私の一つの性質を裏切る他の樣々な性質を私はどうしても見のがすことが出來なかつた。私はそうして幾人もの友人を裏切り、幾つもの生活の矛盾を犯して來たのだつた。――そして私は自分の多樣な人格が否めなかつた。
然しその時のC――君との會話で 私がその冷かな反省に止つてゐたのは極く僅かの間だけだつた。私は種々なものゝ暗示や影響から脱れ得なかつた。そして私が未知の人に話しかける時、習慣の丁寧な言葉で――その語調の故に話しが 私のよき印象のための話になつてゆくのであつたが、私は何といつてもその樣によく話しをするといふこと 私の未知な人に私のいゝ印象を與へる……(缺)
 

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