濃陽諸士伝記
濃陽諸士伝記
本書内容につきては、国書解題に記して云、
濃州諸士伝記 写本一巻
美濃出の諸士の伝記なり。守護の事、土岐氏来歴、斎藤氏由来、岐阜城主織田三代の事等より、保々氏の事、船田乱記等に至る二十九条あり。一名美濃諸士伝記ともいへり。
と記されたり。猶内容については、正法寺、瑞龍寺、大宝寺、美江寺、立政寺、梅之寺、崇福寺、常在寺等の名刹、又は土岐氏の氏神、斎藤氏の氏神、あるは稲葉山、岐阜城、長森城、川手城、大桑城、及び其の他数城を記載せり。
本書奥書に拠れば、寛永十五年の作なれども、作者を記さず。但一本に奥田利矩とあれば、同人の作なるべし。未だ其の伝記を詳にせざるは、遺憾とするところ【 NDLJP:6】なり。猶後賢の考を竢ちて、更に審にすることを得ば、幸甚といふべし。
大正四年七月
黑川眞道 識
例言【 NDLJP:6】一、読誦を平易ならしむる為め、語尾を補ひたるもの頗る多し。原本中反読の個所と読下しの個所と混交せるのみならず、且多くは語尾を示さゞるを以て、仮名を補ふにあらざれば、素読に堪ふべからざるもの多かりしが、本編には今此等の晦渋を除き得たりしと信ず。
一、地名中、現時の名称と合はざるもの或は之あるべしと雖も、原本中其文字の一定せるものは却て之を改めざりき。例へば佐和山を沢山と記せるも、其儘に従ひたるが如き是なり。
一、「濃陽諸士伝記」中稀に虫損の個所あれども、全く異本照合の方法なかりしを以て、其儘に止めたり。
一、括弧〔〕を附したる註記は、当編輯部にて補記せるものにして、括弧を用ゐざるも【 NDLJP:7】のは原本に記載しありしものなり。又原本の文字中左側に縦線を施したるは不審の儘校訂の途なかりしものを示す。
【 NDLJP:203】濃陽諸士伝記守護の事 当国は、東山道の歯舌なれば、古より守護国主、其人を選ばるゝ所なり。村上天皇の御宇に、多田満仲、当国の主に住し給ひてより、其子頼光・頼信迄、相続いで是に住す。頼光の嫡子讃岐守頼国・頼信の嫡子肥前守頼房、勅勘を蒙り解官せられ、頼義の二男加茂次郎義綱、後美濃守と号し、其任を拝し、其子義俊、相続いで是に住す。其後程を歴て、文治・建久の頃より、建治の頃迄、土岐光衡・梶原平三景時・相模守惟義・小笠原十郎四郎泰綱、代る〴〵当職に任ずと雖も、皆其身一代にて終る。又時移りて、後醍醐の天皇の御宇に、土岐頼貞、当国の守護職に任じてより、後奈良院の御宇迄、十一代当国を治す。天文の頃の国司、土岐左京大夫頼芸と号しけるが、家臣斎藤山城守【 NDLJP:204】秀龍入道道三逆心故に、土岐、守護職を離れ、頼芸、越前国へ落行く。是より左京大夫道三・一色美濃守義龍・斎藤右兵衛大夫龍興迄、三代の間当国を押領す。正親町院の御宇永禄七甲子年、平信長の為に国を奪はれ、龍興終に江州に落行きける故信長卿、清須より岐阜へ移り、秀信卿に至る迄、三代の間之を領す。慶長五庚子八月、秀信卿、石田三成が叛逆に組し給ふに依り、大神君、諸将に命じて之を征し給ふ。是より以来、当国の守護断絶す。 土岐氏来歴【土岐氏来歴】土岐は、清和の嫡流にて、代々禁庭護衛の名家、武名逞しき家なり。源頼光三代多田伊豆守国房、始めて当国土岐郡に住居し、美濃守と号す。五代の孫光衡の代に、当国守護職に任じ、氏を始めて土岐と改め、子孫長く繁栄し、末流数多なり。浅野・三栗は光衡より分る。小里・萩戸・猿子・郡戸・深沢・吉良・小宇津・石谷・芝居・相原・大竹嫡流として、饗庭・郡家・小弾正・八居・多治見・東池田・原・蜂屋・久尻・金山・土居二十二流は、光行より分る。船木・福光・外山・今峯・北方・小柿・荒川・井口・穂保・麻生・明智・墨俣は、頼定より分家。久々利・宇田・陶・江所・肥田瀬・羽崎も同流なり。萱津・鷲津・洲原・西郷・田原・月海は、頼忠より分る。満木・村山・大桑・佐良木・長山・本庄は、成頼より分る。梅戸・一色・菅沼も、同末流なり。総て子孫繁栄して、光衡より頼芸迄、二十一代五百余年、連続して当国に居住す。光衡は、郡戸に住す。其子光行を、土岐郡浅野の里に住せしめ、其後四代、相続いで浅野の郷に住す。頼定は、土岐郡高田の里に住す。其子頼遠は、土岐郡大富の里に住せしめ、建武の頃、厚見郡長森の城を構へて居住す。光衡より頼定迄、させる威勢もなかりしが、嫡子弾正少弼頼遠、尊氏公に属して、将軍家より、当国の守護職を給はり、次第に威光を輝し、仁木・細川の同列に加はり、天下の高家として、諸大名之を尊敬す。暦応五年九月、頼遠、法に背く事ありて、京都に於て誅せらる。舎弟園済坊、総領職に任ず。又甥の刑部大輔頼康、二代将軍義詮公より、美濃・尾張・伊勢三ヶ国の官領を許さる。始めて厚見郡川手府の城を構へて移り、大膳大夫と改め、入道して善忠と号す。頼遠の嫡子土岐右馬頭氏光・外山・今峯兄弟三人は、仁【 NDLJP:205】木右京大夫義長に組し、伊勢の国長野の城に籠る。将軍義詮公、大膳大夫頼康に命じて、之を討たしむ。外山・今峯は、翻つて頼康に組す。其後義長勢尽きて、将軍家に降参す。頼康舎弟明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄といふ。頼康の嫡子土岐大膳大夫頼行・左馬之助康政、将軍の命に背き、叛逆の色を立つる故、将軍義満公、同左京大夫頼兼に命じて、之を討たしむ。康政嫡子持頼は、永享十二年五月十六日、大和国にて生害し、当家の嫡流は、此時断絶す。左京大夫頼兼は、其氏族を捨て、公命を重んずる志、殊に此度の戦功を感じ思召し、土岐の総領職を頼兼に給はり、川手の城に移り、頼兼は、頼家より以来、池田郡に住する故、土岐西池田といふ。頼兼、始めて尾州萱津に住する故、萱津とも号す。左京大夫成頼と申すは、一色兵部少輔義範の〔虫損〕□□ 饗庭備中守義政が子にてありしなり。左京大夫頼兼の嫡子持兼、早世にて子なし。執事斎藤利永入道宗甫が計らひにて養ひ、持益の家を嗣がせたり。成頼には、息数多あり。嫡男美伊法師、元服して頼継と名乗り、東山殿に見え奉り、政の字を賜はり、政房と改む。二男は、大桑兵部大輔定頼・三男佐良木三郎尚頼とて、同腹の兄弟なり。四男四郎元頼は、当室の子にて、成頼も寵愛甚し。故に長男政房を押込め、元頼に家督を立てんと、当室思ひ立ち斎藤が家臣石丸利光を語らひ、大宝寺の開堂に事寄せ、政房並に斎藤公時僧都を討たんと謀りしが、事顕れて本意を達せず。其後明応五年六月廿日、城田寺に於て、元頼并に石丸利光以下、悉く自殺す。同年の秋、成頼、池田の安国寺にて剃髪し、法名を宗委と号す。世を政房に譲り、川手城に移らしむ。自分は方県郡城田の庄に閑居す。同六年四月、川手の正法寺を、瑞龍寺と号す。政房は、神仏を崇め、上を敬し下を愍み、仁義正しき名将なり。息子多し。長男太郎盛頼も、万人に勝れたる良将なり。永正十四丁丑年、家督を継ぎ、同十六己卯年、父政房逝去し給ふ。法名承隆寺宗寿と号す。其頃京都西の郡松波庄五郎といふ商人、斎藤・長井が家へ出入しけるを、音曲の上手にて、長井藤左衛門酔乱して、政房に見えしむ。天晴発明なる者故に、政房甚だ寵愛あり。長井が家老西村三郎左衛門といふ者早世して、家を続ぐべき子なき故、此松波に家を続がせ、西村勘九郎と名乗り、斎藤の家臣になす。盛頼申さるゝは、此者、面魂、何さま大事を企てん相あり、親しむべき【 NDLJP:206】者にあらずとて、出仕を停止せられける。勘九郎深く憤り、盛頼の舎弟方県郎鷺山の城主頼芸に近付き、時々謀叛を勧め、盛頼を亡し、頼芸を家督に立てんと謀る。頼芸も年若く、血気の勇将なれば、西村が深き巧をも知らず、兄を討ち、総領職に立たんと思ひ、大軍を催し、川手の城を攻めたり。俄の事なれば、遠路の幕下の者共一人も来らず。【土岐頼芸兄盛頼を追ふ】防ぐべき便なければ、盛頼も城を明け、越前の朝倉の方へ落行き給ひけり。夫より頼芸総領職となり、川手の城へ移り給ひけるが、世の中物騒しければとて、長井豊後守利隆を城代として、川手の城に差置き、其身は山県郡大桑に、城を構へて移り、諸国の使節、或は官使と雖も、川手府にて対面、他国の者は、大桑の地に入る事能はず。扨又西村勘九郎は、頼芸の代となりければ、次第に勢強くなり、享禄三年正月十三日、主人長井藤左衛門長弘を害し、斎藤の家を奪ひ、長井新九郎正利と名乗り、追付立身し、斎藤山城守秀龍と号す。頼芸の舎弟三男を、三郎伊豆守治頼。四男は、勢州梅戸へ養子、民部大輔光尚。五男は揖斐五郎光周、六男は鷲巣六郎光就、七男は七郎丹後守頼満、八男は八郎頼香とておはしける。治頼は、常州の信太の城に、江戸崎の城主なり。七郎頼満・八郎頼香へ、斎藤秀龍、京都より美女を呼下し、我娘として彼両所へ遣し、親しくなり、密に謀を以て、兄弟共に害せんとす。頼満は、心賢き人にて、害すべき便なければ、毒にて害す。弟頼香は、天文十三年八月、織田信秀、濃州へ攻入る時、不動寺にて、頼香は山城守が家来松原源六に討たる。幼子一人あり。家臣名和某、下野国に伴ひ落ち、那波の庄にて生長す。揖斐五郎光親は、大桑落城の後、尾州へ退去。其後当国に移り、宇多にて逝去。鷲巣六郎光就は、駒野といふ所にて逝去。息女三人あり、一人は、揖斐周防守室なり。一人は、和田将監に賜はる。今一人は、何れの室とも知れず。又政房に女子一人あり。佐々木六角判官義賢室なり。盛頼、後に頼純と改め、天文十五年、斎藤退治の為め、朝倉義景を語らひ、美濃国へ攻入り、山県郡大桑の城にて逝去。法名南泉寺玉峯元鞋と号す。美濃守頼芸の息子多し。嫡子を、北美伊太郎法師といふ。父頼芸、愛宕山権現を崇敬あり、此神の使者は、猪なる故、童名を猪法師と付けらる。生れ付、叔父頼純に、姿心共に違はず、器量は、国中無双の美男なり。然るに父頼芸、常に斎藤秀龍を寵愛の余り、剰へ国中の成敗を、彼【 NDLJP:207】に任せ置かれける。山城、元来心中に大望ありければ、己が味方にもなるべき者は、功もなきに賞を与へ、末々は仇ともなるべき者は、様々讒を構へ科に落す。国主頼芸も、斎藤が申す事は、理非を弁へず、或は誅罰し、或は国を追ひ出し、所領を没収せらる。是に依つて国中も穏ならず。太郎法師此事を聞きて、揖斐五郎光親と共に、斎藤を執権職に置かれん事然るべからずと、父頼芸を諫め申されけれども、御承引の色もなし。太郎若年なれども、器量人に勝れたれば、密に山城を討ち、国中の憤を散ぜんと思ひ給ひける折節、太郎法師并に一門の勇士、幕下の小童数輩、的を射ける所に、秀龍、乗打無礼して通りける。太郎法師を始め、小里孫太郎・原弥太郎・萩原彦次郎、其外的矢を以て、殿中迄押込みたり。其時太郎法師は、秀龍法外の体、主従の礼を忘れ、奇怪の仕方言語に絶えたり。依つて村山越後が末子市之丞其外若輩者、秀龍が出仕の帰り、夜に入り、廊下の暗所にて待受け、只一討と左右より切懸くる。秀龍は、劔術の達人なれば請流し、漸う遁れ帰りしが、末の大事を思ひ、太郎法師の御事を、様々頼芸へ讒訴しける。太郎御曹子・揖斐五郎殿、御心を合せられ、御謀叛の思召立と讒す。流石父子兄弟の間、頼芸も不審にて時過ぎぬ。然る所に、如何なる運にや、揖斐五郎来り給ひ、去頃鷲巣六郎同道にて、瑞龍寺へ参詣仕る所、鳥羽の新道にて、斎藤山城に参り合せ候所に斎藤馬上乍ら礼義もなく、横合に本道へ通り候故、奇異の曲者と存じ、六郎追懸けしに、山田が館の辺にて見失ひ候。総て太郎法師へも、常々の不礼、言語に述べ難し。是皆御寵愛に誇り、往昔の凡卑を忘れて、御家嫡を始め一門の面々に法外の働、口惜く存候。其上、国の成敗を、彼に御任せ置かれ候所、非道数多し。国中の恨、甚だ少なからず。此者は、追付御家の仇となるべき間、秀龍が首を、我々に賜はり候へと、願ひ申されけれども、兎角頼芸御返答なく、秀龍が申す所偽なし、謀叛の企に疑なければ、速に太郎法師と揖斐五郎を害せんと、思召立ち給ひける色見えければ、近臣林駿河守正道・杉山刑部丞正定・佐倉修理忠正・真野新之允吉重・同三之允以下、諫め申しけるは、昔より讒臣を信じて後悔多し。虚実も御糺しなく御生害とは、後に御悔み思召さば、甲斐あるまじ。是非思召止まり給ふべしと、理を尽し諫めけれども、讒言止まざりければ、密に太郎を害すべしと仰ある由、太郎伝へ【 NDLJP:208】聞き、村山越後守芸重・国島将監隆重・中島監物正宣を御頼み、則ち取迎へ奉り、越後入道が村山の要囲に入れ奉る。秀龍此事を聞きて、頼芸の下知と偽り、押寄せたり。村山よりも南の手へは、原・羽賀・内藤・正木。東の手へは、河野・平井。北へは大西・片桐・中条等、道を遮つて待懸けたり。山城は、城田寺を経て、改田に陣を取る。村山・国島・中島は、聞えたる勇士なれば、鵜飼山の砦の城に陣を取り、敵を広野に引受けて相戦ふ。斎藤方の兵過半討たる。揖斐五郎光親・頴与三左衛門尉光兼・原紀伊守光広・片桐縫殿之助為春・遠山加藤太正景・松井越後守宗信・小森肥後守道親・染江与左衛門尉直友・山田兵庫介重勝・佐藤新左衛門尉信通河田隼人入道常久・内藤十郎左衛門尉森重・河野杢助通房・大西太郎左衛門尉勝祐・平野宮内丞光行・中条左近将監家忠・国枝修理亮能重・玉井治郎兵衛尉祐重・蔭山崎部助定重等、一人当千の勇士馳せ加はり、大軍に及びける。此事近国に隠なく、平信秀之を聞き、君臣父子兄弟和睦させんと、尾州より馳せ来り、両陣を駈廻り噯ひければ、漸う其日の軍は止みにけり。斯くて頼芸に申して、両陣を引かせらる。其後江州佐々木定頼は、太郎法師の母方の祖父、又越前の朝倉義景は従弟なれば、使者を以て無事を告知らす。両将馳せ来り、和睦の上は仔細あらじ。さり乍ら秀龍が所存計り難しとて、太郎法師を、越後入道の許に願け置きたり。其後秀龍、入道して道三と号し、猶も国の政道を、心の儘に取行ふ。国中の諸士を、我儘に進退す。依つて斎藤が威勢は、次第に強くなる。国守頼芸は、追日勢衰へければ、此時土岐家を亡し、国主とならずんば、いつの時をか待つべきと、入道道三、敷万の軍勢を催し、天文十一年八月、俄に大桑の城を取囲み、終に八月廿四日攻落す。【道三、頼芸を逐ふ】国主頼芸は、主従七騎にて、城の後青波といふ所へ出で、夫より山本数馬が在所岐礼の郷迄落ち給ふ。〈大桑落城の訳、井頼芸の御行方、又山本数馬が事は、大桑城の所に記す。〉夫より山を伝ひ、越前の朝倉義景の許へ落ち給ふ。是よりして土岐数代の守護職、此時に断絶す。其二男次郎法師は、兄の太郎御勘気の後、家嫡となし給ふ。平信秀烏帽子子として、一色小次郎頼秀と名乗り、次郎法師は、一色左京亮頼師と申す。三郎は早世なり。女子一人、四男を四男左衛門尉、五男を五郎左衛門尉と申す。太郎法師は、後宮内少輔頼栄と改め、息子多し。長男小太郎正義、後に越後守光義といふ。村山が娘の腹【 NDLJP:209】なり。村山の家にて成長す。次男小次郎、茂頼三左衛門尉といふ。祖父稲葉良通入道一族が携にて、永禄十七年七月廿七日、厚見郡西の庄立政寺にて、将軍義昭公へ目見あり。昭の字を賜はり、織部正昭頼と改む。三男小次郎は、一鉄の養子として、同八月義昭公へ仕へ、江州御発向の御供して、稲葉靭負佐頼永と名乗り、後に勘解由良頼と改む。四男又次郎、後に主税助栄興といふ。其後掃部助光栄と改む。女子何れの室とも知らず。扨左京助頼師の嫡子左馬助、次男縫殿之助といふ。左馬助嫡子を内匠介、其長子出羽守、二男は兵庫助といふ。大樹の御幕下に仕へける。頼師、後は京都に往き、見松斎宗臣といふ。天正十年冬、頼芸、七郎兵衛尉を使として、累代相伝の旗幕・太刀・甲・胃・系図・綸旨・御教書、其外家の軍記等を譲らる。四男左衛門、後に道庵と号す。其子四郎左衛門は、徳川頼宣公に仕へ、後宗見といふ。五郎左衛門は、主水正と改め、入道して久安と号す。長子を主水といふ。其子を市正といふ。其子を大膳亮といふ。各大樹に仕ふ。縫殿之助嫡子を、九左衛門といふ。其子を円右衛門といふ。尾州亜相公に仕ふ。其外土岐氏族は、頼芸の正流にあらず、庶流なるべし、出羽守頼隆と、播磨守光俊・蜂屋・石谷の正流は、大樹の御幕下。近江守光重正流石谷は、井伊掃部頭直孝の家にあり。長門守忠頼と〔〈二字虫損〉〕日向守光秀と叔姪なり。明智の家にて、嫡家の忠頼大樹の御幕下なり。原の正流隠岐守久頼は、慶長五年〔〈二字欠字〉〕合戦に生害す。子孫池田郡東野の郷六野井に住居す。又松平安芸守・森美濃守長政・成瀬隼人正の三家に、原の末孫あり。又中務丞政頼が子孫あり。小里出羽守正流の子孫和田助右衛門が末は、松平丹波守の家にあり。満喜の末道鉄が子孫は、池田輝政と前田利綱の家にあり。此外彼氏姓と称する者、繁多なれども、皆後に出づるの系図にして、信ずるに足らず。始に六十三流の氏姓たるに依つて、歴代其氏族に随つて、其聞え伝ふる所を記し、後世の為に残し置く。又近来問考の趣、爰に之を記す。 斎藤氏由来【斎藤氏来歴】斎藤氏は、利仁将軍の後胤にて、数代越前国の住人なり。中頃より長井の斎藤と称【 NDLJP:210】す。斎藤帯刀左衛門尉親頼は鳥羽院御宇に、始めて美濃国の目代に住してより、中務丞頼茂迄、相続いで当国の目代なりしが、延文の頃より、土岐大膳大夫頼康、美濃・尾張・伊勢の官領を許され、依つて権威甚だ盛なりし故、いつとなく彼家臣となりぬ久しく当国に住するに依り、子孫数多なり。林・長井・岡・疋田・加藤・水野・牧野・青山・安田・藤井・小野・汲田・松波・和田・羽田・花村・名倉・曽我部・近藤・赤塚・後藤・佐藤・堀・前田・吉原・河合・都築・中村・矢木・青木・松井・豊田・白木・大谷・安東・各務・加賀野江・三井・村山等なり。嫡家は、斎藤越前守利永帯刀左衛門尉といひ、入道して宗甫といふ。代々土岐殿の執権にて、国中の政務を執行ふ。嫡子斎藤越前守利藤、相続いで執事たりしが、嘉吉年中より、日蓮宗に帰依して、川手府に持是院を建立し、其後自ら爰に住して、政務を嫡子新四郎利国に譲り、文明十一乙亥年三月、利藤卒す。開善院権大僧都妙椿と号す。利国嫡子新四郎利良、次郎長井豊後守利隆、利親の嫡子新四郎利良、次男右衛門尉利賢なり。長井藤左衛門迄、相続いで執事職たりしが、享禄三年正月十三日、家臣西村勘九郎が為に害せらる。此勘九郎は、上北面にて、松波左近将監藤原基宗の庶子にて、西の郡の者なりしが、京都妙覚寺に随身して、学は顕密の奥旨を究め、弁舌富楼那に劣らず、近代の名僧にて、法蓮坊といひける。如何なる悪魔の心か入替りけん、或時三衣を脱ぎ還俗して、西の郡山崎屋といひて、松波庄五郎と名乗り、毎年美濃国へ来り、油を売りけるが、常在寺日護上人吹挙にて、斎藤・長井の一族へ出入せさせけり。元来此男、出家の時よりも、遊山翫水を好みける故、乱舞音曲に堪能なりしかば、長井藤左衛門、請じぬる事限なし。大守も其行跡を乱し、酒宴遊興を好み給ふ故、藤左衛門、折を以て大守へ目見させける。大守寵愛甚しく、御側近く召されけるに、弁舌利口人に勝れける故、甚だ賞し給ふ。其頃長井が家老西村三郎左衛門早世して、家を継ぐべき子なし。国守より、此庄五郎を家督に言付けて、西村勘九郎と名乗り、長井の家臣となる。天性発明なる者故に、藤左衛門心に叶ひ、家中残らず此西村に思付きけり。西村つく〴〵と、国の政道を計り見るに、大守頼芸・執事長弘、共に浅慮短才にして、政道猥なれば、我智略を以て、当国を従へん事、掌の内にあり。先づ主人長弘を害し、其後国主をも討取り、一国平均に治めんと、心中に大望を【 NDLJP:211】思立ちけるを、知る人更になかりけり。享禄三年正月十三日、家中を語らひ、主人長井藤左衛門長弘夫婦を害しける。斎藤・長井の一族大に怒り、急に押寄せ討取らんとす。西村密に囲を出でて、大守の御方へ逃参りける。斎藤の一族、大守へ願ひ、首を刎ねんと憤りけるを、国主不便を加へ、常在寺の日運上人を以て、長井の一族に御詫ある。斎藤・長井の一族、猶以て立腹し憤りけれども、君命なれば力なく、和睦致しける。藤左衛門幼少の子一人あり。勘九郎親分になり、後見して、成長の後、執権職を継がすべき契約に相究め、此訳に依つて、長井新九郎正利と改め、其後藤左衛門子成長に及べども、家を渡すべき色もなし。【道三美濃を押領す】自分執権職を司り、国中の政務を執行ふ。斎藤山城守秀龍と改め、入道して道三と号す。天文十一年に、国守頼芸をも攻出し、当国を押領す。国中の諸士、出仕せざるを亡し、幕下に属せば、所領安堵せさせ、一国平均に治め、近国迄も、其命を重んぜずといふ事なし。嫡子新九郎義龍、二男を勘九郎といふ。後に孫四郎と称す、文珠の城主なり。三男喜平次といふ。後に玄蕃と号す。女子三人、織田信長の室と、金森五郎八妻・三木休庵妻なり。藤左衛門長弘の子成長の後、長井隼人道利とて、関の城主なり。嫡子新九郎義龍を、美濃守を兼ね左京大夫になし、稲葉山の城を譲り、我身は鷺山の城に隠居す。義龍は、頼芸の種子にて、道三の子にあらず。此仔細は、頼芸常々道三を寵愛し、身近く侍りしなり。頼芸の妾に、三芳野とて美女あり。道三望み深く、執心の体見えける故、頼芸より賜はりけるが、此女、頼芸の子を懐姙してありけるが、追付誕生す。是れ義龍なり。童名を新九郎といふ。道三、義龍に世を譲りけれども、如何なる所存かありけん、二男の孫四郎を、左京亮に改め、総領職に立てんと思ひ、義龍を隔つる体見えければ、義龍口惜く思ひける折節、関の城主長井隼人佐来り給ひ、君は前の大守の種にて侍れば、道三と父子に非ず、君臣にて、其上尊父頼芸公、道三が為に国をも奪はれ給へば、御父の仇なり。我が為には、父母の敵、主君の仇なり。君思召立ち給はゞ、土佐御一族は申すに及ばず、斎藤・長井の一族、其外旧臣の面々馳せ集り、道三を亡し、土岐の御家を守立て申さんと諫め申しける。依つて近臣日根野弘龍・長井助直と謀り、舎弟二人を、稲葉山の下屋敷へ招き寄せ、日根野備中守弘龍に仰せて討たせられ、此旨使者を以て、【 NDLJP:212】道三に告知らす。道三大に怒りて、弘治二年の春、国中の勢を催しけれども、皆義龍の勢に加はり、十が一も鷺山へは参らず。義龍は父子の義を思ひ、斎藤を一色と改めて、土岐家相伝の旗を立てらる。一色左京大夫、義龍の味方に加はり集る。土岐の一族には、揖斐周防守・原紀伊守・船木大学助・石谷近江守・明智十兵衛・田原式部・衣斐与三左衛門・高山伊賀守・同右近・土居左京亮・本庄民部少輔・遠山刑部少輔・一色宮内権少輔・土岐小次郎・鷲巣六郎左衛門尉・曽我部内蔵助・池田又太郎・蘆敷右京亮・山県三郎兵衛・蜂屋兵庫頭・金山次郎左衛門・相応掃部介・八居修理亮・池田勝三郎・浅野十郎左衛門・肥田玄蕃・多治見修理亮・大桑次郎兵衛・小里出羽守・萩原孫次郎・郡家七郎・猿子主計・牛牧右京亮・外山修理・金沢源八・落合掃部。其外他家幕下の輩には、伊賀伊賀守・氏家常陸介・不破河内守・稲葉伊予守・武井肥後守・竹越摂津守・岩田民部・山田兵庫・井戸斎助・近松新五左衛門・斎藤八郎左衛門・同石見守・市岡大和守・石丸主殿・小塩四郎左衛門・蔭山掃部・長井将監・堀将監・鷲巣九郎兵衛尉・栗原右衛門尉・跡部将監・鷲見大学・深尾下野・武藤淡路守・佐美左衛門・上田加右衛門・筑間左衛門・石河駿河守・大塚飛騨守・中条左近入道・内藤市祐・那波上野入道大昌永・同内匠介・松山刑部・佐倉修理・林主水正・親市太郎左衛門・野村越中守・平井宮内羽賀五郎左衛門・日比野下野守・長屋美濃守・下村丹後・梶原平九郎・立田大蔵・高屋大炊助・和田六郎・松井七右衛門・同勘兵衛・同喜右衛門・浅岡新八・向井加賀・兼松右京・臼田宮内・宮田左衛門・青木新左衛門・佐藤和泉・山岸勘解由・豊田民部・土倉左京・石井遠江守・村山兵庫・同主税介・玉井次郎左衛門・国枝八郎・四松右京・後藤右馬亮・関谷兵庫助・岡主馬・高井加右衛門・松原源吾・馬淵源左衛門・那波助右衛門・奥田内記・高田源蔵・岡部兵助・箕浦喜左衛門・矢代左衛門・堀部新左衛門・古田左近将監・和田主馬・各務右近・河合織部、此等を始として、在国の諸士、郷村の地侍、名を知られたる輩は、我も〳〵と馳せ集り、岐山の上下に満満たり。道三方へは、川島掃部助惟重・神山内記義鑑・林駿河守正道入道・道家助六定重・同彦八郎・林主馬・堀池備中守・黒田監物・河田隼人正・同新左衛門・内藤新十郎・松原次郎左衛門・奥田造酒・高橋修理・竹中遠江守・岩井弾正・牧村兵庫・改田大学・同図書・大沢次郎左衛門・続額右京・中村惣助・河野図書入道務元武部式部・同斎蔵・井上加右衛【 NDLJP:213】門・木田掃部・箕浦市郎兵衛・渡部源内・市橋庄九郎・遠出修理亮・守屋中将・安東刑部・原中務・片桐縫殿之助・篠田新左衛門・氏田平左衛門・中島石見・一柳右近将監・加藤右馬助・大西太郎左衛門・多田新左衛門・長山新助・真鍋外記・今井修理・大塚藤三郎・近藤壱岐守・加納兵庫・鵜飼外記・国枝三河守・毛利宮内・森弥四郎・田村将監・山内伝兵衛・桑原十郎左衛門・所新左衛門・山田九蔵・早川藤治・鷲見新藤次・梶原孫三郎・水野民部・飯沼杢助・世斐修理亮入道・三山内蔵助等なり。此小勢を以て、義龍の大軍と戦ひ、利あるまじとて、道三は長良の中渡へ打出で、川島掃部・神山内記・林駿河守入道道慶・道家助六などといふ家臣、川を隔てゝ相戦ふ。敵も味方も同家の臣、殊に道三の旗大将林駿河守入道と、義龍の旗大将林主水道正は、伯父甥の事なれば、互に恥を重んじ下知をなす。其外の軍勢も、或は父子或は兄弟・従弟、皆同国の侍にて、皆一家の事なれば、後日の誹を恥ぢ、命を軽んじ攻戦ふ。道三終に打負けて引退き、山県郡北野村に、鷲見美作守が住みたる明城へ楯籠り、林道慶は、鷺山に向城を構へて楯籠る。道三は北野より、城田寺村へ移り、岐阜の景気を窺ひて居けるが、道三、時節や好しと思しけん、同二年四月十八日、再び中の渡へ打出で、同廿日迄、息をも継がず攻戦ひ、終に道三打負け、頼み切つたる兵五十余人討死す。道三も、廿日の暮方、城田寺を指して落行く所を、小牧源太道家・長井忠左衛門通勝・林主水道政、追懸けて攻伏せ、道三の首を、道政討取り、【道三討たる】後の証拠として、忠左衛門、道三の首の鼻をそいたりけり。義龍、実検畢り、長良川の辺に捨てたりしを、小牧源太、土中に葬る。今に斎藤塚といふは是なり。此源太、生国は尾州の者にて、幼少より道三側に近仕せしが、非道多き故、憤深く恨みし故、人多き中に、道三を追討しけれども、主従の好捨て難くや思ひけん、道三の首を葬りける。抑道三若かりし時は、僅なる身にてありしが、末符を謀り智深くして、損益のみに心を用ひ、天命を恐れず、利口弁舌にて人を懐け、義を露程も知らずして、一生の悪事、第一は先づ主君長井藤左衛門長弘を害し、斎藤家を奪ひ、国守御兄弟の御中を悪しくなし、終に太郎頼純を攻落し、土岐殿の末子両人を毒殺し、頼芸の御嫡子太郎法師殿を、議を構へ流浪せさせ、其外国中の大名を、或は毒害し、或は謀刑に落し、終に国主頼芸を攻出し、当国を奪ひ取り、猛威富み溢れ、一往栄えけれども、【 NDLJP:214】天其不義を許し給はねば、其子義龍に討たれ、首を道路の街に捨てられ、悪名を天下に残しけるこそ口惜しけれ。義龍、実に土岐殿の御子にて、道三の種にあらねども、胎内より斎藤道三に下され、道三の養育にて成長し、斎藤の家督を請け乍ら、其恩を忘れ、父道三を討ちし事、実に逆なる事共なり。去程に義龍は、道三を亡し、本望を遂げし故、斎藤・長井の一族を呼出し、所領を安堵させ、心を合せて、国中の政務を執行ひ、義龍、斎藤の種にあらざる事を存ぜられしかば斎藤を一色と改め、源氏の姓と号し、已に道三を討たんと思立ちし時より、斎藤を名乗れば、父子の義あり。藤原氏を改め、源氏と称すれば、土岐殿の御子にて、君臣の別なり。其一色とは、土岐殿の簾中は、一色氏の娘なればなり。又多田満仲の御末、一色と名乗らるゝ口伝あり。又厚見郡一色といふ所に、土岐殿の屋形あり。世の人、一色殿と称すともいへり。義龍、器量世に勝れたる勇将なれば、国中に靡かぬ草木もなく、井の口の大将とて仰ぎけるが、【義龍死去】永禄四辛西年五月十一日、病に臥して逝去し給ふ。常に禅法に帰依し、心源を明らめ、辞世の偈に、三十余年、守護人天、刹那一句、仏祖不伝。行年卅五。法名雲峯玄龍居士と号す。快川和尚の筆を仮りて、辞世の偈を、寿像の上に書記す。永禄元年より、伝灯寺和尚に帰依し、国中の寺院の法式を定む。是れ偏に彼僧の所意に依つてなりとて、国中の僧大に擾乱す。扨又家督を、嫡子喜太郎義興に譲らる。右兵衛大夫美濃守に歴任す。斎藤の余裔共と心を合せ、国中の政務を執行ふ。斎藤の名跡なればとて、又斎藤と名乗らる。是より先づ浅井備中守長政が娘、名を近江といひけるを嫁す。江州浅井氏は、道三の代より、折々当国を奪はんとす。義龍の計略にて、聟舅になりし故、龍興の代には、江州は心易くなり、佐々木は、土岐の一族なれば、別条なし。甲州晴信、折々井の口近所迄押寄せける。信長は、故道三の聟なれば、上には別条なき様なれども、義を思はざる勇将なれば、如何なる底意かありけん、越前の朝倉義景も一族なれども、美濃守頼芸敗北の後よりは、当国を奪はんと思慮あり。過ぎにし天文年中にも、折々押寄せ、根尾・徳山抔と戦ひ、或は糟川口より打出で、岩手・高橋・長江・斎藤・稲葉・国枝抔と戦ひ、鍬原合戦には、堀池備中抔と、手痛く戦ふと見えたり。度々の合戦に勝利なし。然れども斎藤が世を奪ひ返して、土岐殿へ参らせ【 NDLJP:215】ん為なりといへり。当世の風俗なれば、底意覚束なし。然れども元来一騎なれば、無事にせばやと思付き、朝倉常寿坊を、人質に越さるゝ故、越前には無事なり。大略四方治まりて、近来の静謐と見えたり。其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。容儀世に勝れける故、信長妾にせばやとて、龍興へ談ぜられける。龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の為には姪なれば、其妻死後に遣し難し。況や妾などとは、緩怠過ぎたる申分、当家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の当家たり。彼は今勢に乗じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す条、返す〴〵も奇怪なり。彼等は武衛の臣にてありけるものをと申されける。此事を誰か伝へけん、信長聞きて、元来怺へぬ勇者なれば、憎き物の申分かな。いざ押寄せて攻亡さんとて、大勢を率し、当国へ打入り、是より美濃・尾張不和になり、度々の合戦、其数を知らず。終に永禄七甲子年八月下旬、信長数万騎の勢を率し、稲葉山の四方を放火して取囲む。其頃西方四人とて、龍興の旧臣不破河内守道貞・安藤伊賀守守龍・氏家常陸介直元・稲葉伊予守良通、此四人心替りし、龍興を背き、尾州へ内通す。斯くて城怺へ難しとて、噯を入れ、義龍には、是非なく城を明け、関の城へ立退き、叔父長井隼人佐通利・長井忠左衛門道勝等を従ひ、江州浅井氏の許へ落行き、其後朝倉義景に組し天正元癸酉年八月八日、越前の敦賀にて討死。長井は、後に井上小左衛門と改め、義昭公へ組しけり。元亀二年末八月廿八日、摂州白川原にて討死。法名徳翁道舜と号す。其子井上小左衛門兄弟、秀吉公に仕へて、黄纔の人数にて、天下に武勇の隠なし。慶長二十年五月六日、井上小左衛門定利、道明寺の戦に討死。行年五十歳。法名宗朴といふ。子孫大坂乱の後、稲葉典道に仕へ、加治田の城主新五郎が子斎藤斎宮は、岐阜中納言秀信卿に仕へ、小姓となりしが、慶長五年八月廿三日の落城の前に、足立中書・武藤助十郎三人、白昼に女に出立ち城を忍び出でて長良川を越え、北山へ落行く。其子孫、松平大和守直基に仕へ、今に彼家にあり。内蔵介利光が子孫は、大樹の御旗下にあり。右衛門尉利賢が娘は、稲葉良通の妻なり。右兵衛尉治利が娘は、稲葉内匠介正成が妻なり。八郎左衛門利行の養子和田五郎左衛門直行は、主君龍興の家宝を数多奪ひ取りて、信長へ参らせ、織田の臣とな【 NDLJP:216】る。其弟松井勘兵衛は、一日一夜の戦に、数ヶ所の疵を蒙り、東美濃へ落行き、遠藤六郎左衛門許に蟄居す。其子孫、今に郡上の城主に属す。斎藤石見守が末子六郎利兼は、武儀郡の洞戸村に蟄居す。其子孫今にあり。和泉利胤の娘は、明智左馬之助母なり。慶長の頃迄、加賀野江の城に、加賀野江弥八郎、三井の城に、三井弥市・花村修理亮、皆彼末孫なり。三井が子孫は、加賀利長の家にて、本田安秀が麾下に属す。加賀野江・花村は、秀信卿に組して、其後子孫、其名を隠して知れず。 岐阜城主織田三代の事【織田氏の興廃】織田家は、葛原親王十三代の後胤、新三位中将越前守平資盛より十二代の末孫、織田弾正忠敏定といひて、越前、尾張両国の守護を〔〈脱字アルカ〉〕、斯波左兵衛督義敏の家臣なり。義敏の三職を、織田弾正忠敏定・増沢甲斐守祐徳・朝倉左衛門尉繁景とぞ申しける。増沢甲斐守謀叛を企て、渋川左衛門太夫義廉を語らひ、主の義敏を害す。依つて将軍義政公より、織田・朝倉に、謀叛人を誅戮の御教書を、文正元丙戌年下され、応仁より長享年中迄、相戦ふ事度々なり。終に謀叛人甲斐守を討取り、長享二年、越前を朝倉、尾張を織田に給はる。二代の孫月巌長子、尾州勝幡の城主備後守信秀の長子織田上総介信長と申すは、故道三の聟なりけれども、当国を奪はん事を謀り、義龍逝去の後、度々美濃国へ攻入り、所々の戦、其数を知らず。或時信長、大勢を率し井の口へ押寄せ、瑞龍寺西方町にて大に戦ひ、織田の大族大分討たる。其死屍を取集めて、一塚を築く。織田塚是なり。此塚、雨降る日、曇りたる時は、土中に鬨の声を揚ぐる。里人恐れて、高桑の雲外といふ禅僧を頼み、頌を作り塔婆を立て、懇に追善しけり。其後怪事止みにけり。頌曰、一塔巍々碧空〔特色烤肉御一〕、従来将謂名英雄、戦場秋暮好時節、釼樹刀山黄落風。信長猶も計略を廻らし、永禄七年九月朔日、終に稲葉山の城を攻落し、龍興を追出し、城主となり給ふ。江州佐々木を退治して上洛す。天下の武将に備はり、正一位右大臣に歴任す。岐阜の城を、嫡子三位中将信忠卿に譲り、天正四年に、江州安土に城を構へて移り給ふ。【信長信忠弑せらる】天正十壬午年六月二日に、土岐明智光秀が為に、御父子共に京都に於て御生害あり。寿四十九歳なり、諡官総見院殿贈【 NDLJP:217】大相国一品泰巌大居士と賜ひ、信忠卿は、大雲院殿仙巌と号す、寿廿六歳なり、其後信忠卿の嫡子中納言秀信卿、清須より岐阜に移り給ふ。御幼年たるに依つて、信忠の御舎弟織田三七郎信孝、後見の為め当城に住居し給ひしが、越前柴田修理亮勝家が語らひにて、羽柴筑前守秀吉を亡さんとす。【信孝自尽】依つて天正十一年、尾州内海にて生害あり。行年廿六。辞世の詞、
昔より主をうつみの野間なれや因果を待てや羽柴筑前
其後三位法印一路の息大納言秀俊、其頃三好少将といひけるを、後見に附けらる。太閤朝鮮征伐の時、発向して、肥前の名護屋にて病死する。其後よりは、前田徳善院法印玄以に、何事も仰合されたり。然る所慶長五庚子年、石田治部少輔三成、逆心を企て大乱を起す。折節岐阜中納言を、味方に引入れ奉らんとす。秀信卿は、関東陣御供の御人数たりしを、石田一向頼み申し、川瀬左馬之助を使者として、是非秀頼の御手を引かせ給ひ候様にと、段々申述ぶる故、木造左衛門・百々越前守に御密談ありけるに、両人、口を揃へて申しけるは、既に関東御発向の御人数として、今更御変改とは本意にあらず、其上君の御事は、前将軍信長公の嫡孫に渡らせ給へば、天下の主にもなり給ふべき御身を秀吉に掠められ、当城に蟄居し給ふを、口惜しとは思召されず、石田に組し給はんなどとは、言甲斐なき御所存かな。必ず思召止まり給ふべしと、理を尽し諫めけれども、御承引の色もなし。両臣重ねて申しけるは、両家の御事は、御父中将信忠卿の御遺言にも、前田徳善院玄以の差図を、何事も用ふべき旨、仰置かれ候へば、一先づ玄以の差図を請ひ、其上にて返事然るべしとて、両臣は宿所に帰り、上京の支度しける。其頃の出頭人樫原但馬といひける者あり、治部少より、莫大の金銀を充へ、秀信卿を味方に引込み、本意を遂ぐる程ならば、其方も大国の主になさんと、一巻の誓紙を書きて、但馬が方へ送りける。木造・百々、此儀を夢にも知らず上京しける。夜に入りて、彼出頭人樫原但馬を始として、入江左近伊達平左衛門・高橋徳斎此四人を、中納言の寝間へ召され、此度の一儀如何と、御密談ありければ、何れも申しけるは、大坂御奉行并西国大名、残らず一味の上は、天下一統に、奉行方と相見え申候。然る上は早速御同心の御返事有之候はゞ、秀頼公も御満足に思召し、治【 NDLJP:218】部少も、早速の御返答、大慶に存ぜられん。後日の思入も、宜しく候はんと申しける。本より秀信卿の御所存、少しも違ふ事なければ、早く同心し給ひ、石田が使者を殿中へ召され、【秀信大坂方に組す】御盃を給はり、老臣の面々に御相談もなく、四人の出頭人を御供にて、忍びやかに沢山へ越え給ふ。是れ御運の尽きぬる印、是非もなき次第なり。木造・百々の旧臣は、此儀を夢にも知らず、夜を日に継ぎて上京し、徳善院の差図を請けて帰る。折節鳥本の町へ、石田、人を出し、秀信卿は、是に御入候間、入来せられよといふ。両人、扨は当家の滅亡近きにあり。口惜しき次第なりとて、足摺をすれども甲斐ぞなき。さり乍ら是非もなし。透間もあらば、治部少と刺違へんと思ひ込み、使と打連れ、沢山へ立寄れば、色々引出物をし饗応す。三成も思慮深き者なれば、両人の心中を推量し、急ぎて覚悟やしたりけん、刺違ふべき隙もなく早や御立あるべしとて中納言の御供して岐阜に帰り、木造、涙を流し申しけるは、時移り事変じて、貴賤位を易ふ。治部は、江州北の郡地下人の子たりしを、邪智増長しけるに依つて、秀吉公に仕へ、五奉行の数に加はると雖も、天性卑賤の者ぞかし。義を知り道を存ぜば是へ参り、御頼をぞ申上ぐべき筈なるに、今勢に乗じて、往昔の凡卑を忘れ、君を沢山に招き寄せけるこそ、返々も奇怪なれ。其上玄以の差図にも、早く関東御出立然るべき旨申越されたり。如何思召候やと申しけれども、今度江州に御越の上は、今更関東御出勢は、叶ひ難く候へば、治部少、近日当城へ可罷越旨、願ふ所の幸なり。当城に於て、治部を討取り給はゞ、余党の輩は、力を落し退散して、天下静謐し、御家繁昌ならん。其上家康公も、如何計御満足に思召さん。組手なく候はゞ、某を組手に仰付けらるべし。君の御心一つにて、天下の大乱、忽に治る事に候へば、早く思召立ち候へと申しければ、旧臣の面々も、此儀尤然るべしと、一統に、早々御心を決せられ候へと諫めけれども、秀信卿、樫原但馬父子が、逆謀に引入れ奉る上は、曽て御承引無之こそ、御運の末とぞ覚えける。近所なれば、黒野城主加藤左衛門尉、郡上城主稲葉右京亮、犬山城主石川備前守を御頼あり、其外国中の大小名、郷村の地侍を狩催され、謀叛の色を立て給ふ。此事関東へ聞えければ、急ぎ退治せよとて、井伊兵部少輔・本多中務大輔を御目代として、数万の軍勢を差上せらる、既に八月十四日、尾州清須に着きて、川越【 NDLJP:219】の評定あり。黒田の渡は、池田三左衛門尉・浅野左京大夫・有馬玄蕃・松下右京・山内対馬守・一柳監物。川下小越の渡は、福島左衛門大夫・長岡越中守・京極侍従・黒田甲斐守・加藤左馬助・藤堂佐渡守・井伊兵部少輔・本田中務、乗越ゆべしと定めて、八月廿一日の宵より、黒田村の西堤の下に陣を取り、池田輝政の臣伊木清兵衛・村山織部寛頼など、当国の案内者なれば、相図の狼煙をも待たずして、八月廿二日の卯の刻に、木曽川を乗越え、中納言秀信卿は、川手村閻魔堂迄御出馬ある。有知の城主佐藤陸左衛門方秀・木造左衛門・百々越前守・飯沼十左衛門を、武者大将として、足軽千計に騎馬武者五百にて、新加納へ馳せ向ひ、川岸堤下に於て、合戦之あり。此時は、一柳監物、木曽川の先陣なり。其外諸軍勢一同に、木曽川を乗越え、面も振らず切つて懸る。岐阜方には、木造左衛門・飯沼勘平真先に進みて、足軽には、千余挺の鉄炮を打たせ、一足も引かじと攻戦ひ、一柳が臣大塚権太夫と、岐阜武者藤田権左衛門と渡り合ひ、大塚、藤田を討取る。然る所へ飯沼勘平馳せ来り。権太夫を討取る。夫より池田備中守と鎗を合せ、暫時戦ひしが、池田が突く鑓を、請け損じ、飯沼は、備中守に討たれける。武市忠左衛門は、一柳の手へ生捕にせらる。前田半左衛門も討死す。津田藤三郎は、赤繞懸けて、兼松又四郎は、黄緑を懸けて渡し合ひ、時移る迄戦ひけるが、終に勝負なく、互に相引にぞしたりけり。使番佐々弥三郎も討たる。其外岐阜方の武者、大半討たれ、大将防ぐに叶はず引退く。関東の大勢、一戦に利を得て、岐阜武者の跡を慕ひ、川手村の西、荒田の橋迄攻寄する所に、百々越前守・飯沼十左衛門、殿して乗廻し〳〵、静に岐阜へ引入りけり。川手村にて、津田藤三郎返し合せ、踏止まりて、比類なき働して相支ゆる。加納前にて、滝川平市・中崎伝左衛門、其外五人取つて返し、足軽を押廻し防ぎ戦ひ、此勢にて、寄手の勢も引返し、其夜は新加納長森辺に陣を取る。中納言殿、岐阜へ御帰城ありて、組頭の面々を召寄せ、今日の合戦無下に打負け、剰へ岐阜へ逃籠るなどと、後日の評判も無念なり。軍の勝負は、勢の多少に依らず、時の仕合たるべし。其上治部少も、後詰可致候間、明日の合戦、一際頼入るの間、城の木戸を慥として、討死仕る様に、侍中へ申聞かせよとの事にて、面々組中を呼集むるに、今日新加納へ馳向ふべき兵は、大半討死し、今日俄に抱へたる新参の輩は、大【 NDLJP:220】方落行き、十人組は纔に三四人ならでは見えず。危き籠城とは思ひ乍ら、
貞和五年正月、楠正成戦死の後、其妻嫁して、池田の家に来り、池田兵庫助教正を生む。教正嫡子六郎佐正、是より累世を経、起つて池田に城を構へ、爰に住す。津の国の池田と、世にいひ伝ふるは誤なり。美濃国の在名なり。
【各城主の事】厚見郡加納の城は、斎藤帯刀左衛門尉利永、文安二乙丑年八月、沓井郷に要害を築き、川手の城の後見たり。代々執権の嫡伝たる者、是に住す。長井豊後守利隆も、当城の主たり。天文年中より、暫く城主断絶す。慶長五年の乱の後、神君御父子、所々御見分ありて、城改築。同六辛巳年より、奥平美作守信昌に賜はる。慶長廿年卯三月四日逝去。法名久昌院殿前作州大守泰雲道安大禅定門と号す。加茂郡兼山の城主は、森三左衛門可成が嫡子森武蔵守長一、是に住す。始は森勝蔵といふ。天正十二年に、尾州長久手合戦に、鉄炮に中り、大久保七郎右衛門が与力本田八蔵に討たるるなり。行年廿二歳。法名鉄囲秀公と号す。是れ作州の大守忠政父なり。岩村の城主は、森長一の舎弟森蘭丸住するなり。関の城主長井隼人道利、長井藤右衛門長弘が子なり。永禄七甲子年九月、義興没落の節、関の城を捨て、江州へ落行く。鵜沼【 NDLJP:237】の城主大沢六郎左衛門は、永禄の始め、秀吉調略を以て味方とす。大沢は、聞ゆる大剛の兵故、又心を変ぜん事を恐れ、信長卿、密に害せんと計り給ふ由を聞き、鵜沼城を落去し、其行方知れず。苅安の城主遠藤六郎左衛門尉は、東下野守常利が聟なり。是れ郡上遠藤の祖なり。苗木の城主は、苗木久兵衛尉開基なり。明智十兵衛尉は、土岐の氏族にて、可児郡明智庄に住居あるに依つて、在名なり。後に信長卿に仕へ、日向守光秀と名乗る。牛牧の城主は、牛牧右京亮武儀郡牛牧なり。多治見の城主は、多治見修理亮。外山・根尾・徳山は、土岐の氏族の在名なり。根尾の城には、往昔新田左中将義貞の舎弟脇屋刑部卿義助居住なり。後、堀口美濃守も、当城の主たり。北山の四家は、岩手・高橋・長江・国枝なり。岩崎山の要害は、斎藤道三砦なり。太郎丸の城主は深尾和泉。伊目良の城主は、伊目良次郎左衛門、岩利の領主は、大岡左馬之助。跡部の領主は跡部将監。御座野村の要害は、稲葉元塵の砦なり。上中村の城主は、纈纈右京、額纈源五、源頼朝卿より当郷を賜はり、数代此所に住す。伊目良谷合の城主は、臼井平太夫。小津山の城主は高橋但馬。妻不の城主は妻木源次郎。津野の城主は、池田庄九郎信輝是に住す。其後信長卿より、尾州犬山の城を給はり、是に移る。浅野の城主は、浅野十郎左衛門、土岐の末流なり。蜂屋の城主は蜂屋兵庫頭。加治田の城主は、斎藤新五郎。岐阜中納言秀信卿の家臣なり。上有知の城主は佐藤六左衛門。秀信卿の家臣なり。北野の城主は鷲見美作守。其後弘治二年、斎藤父子合戦の時、道三当城に籠る。村山の城主は、土岐の一族蘆敷・村山等、数代是に住居す。村山越中守入道も、当城の主たり。此外彦坂・右谷等にも、土岐の氏族住すといへり。鵜飼の要囲は、村山家の砦なり。其後斎藤道三入道も、此所に要囲せり。黒野の城主は、加藤左衛門尉光長、西美濃安藤家の氏族なり。久しく当城に住す。城田寺の城主は、美濃守正房嫡子太郎盛頼是に住す。明応の年、正房の舎弟四郎元頼・家臣石丸利光以下討死の所なり。其後斎藤の家臣交代是に住す。往昔左京大夫成頼、方県郡城田の庄に閑居す。持是院法印の日記に、城田・城田寺の訳知らず。我れ城田の里人にて、成頼の旧跡を尋ぬるに、其館跡といひ伝へたる所なし。然れば城田寺の事か。又城田辺に、正木といふ所には、古城の跡ありといふ。山内の先【 NDLJP:238】祖掃部介実通、城田に住居といへり。江戸〈今は河渡と書く〉の城主井戸十郎は、奥州の産なり。当城を造立し、廿余年居住す。其後安八郡曽根城主稲葉一鉄、当城を攻取り、十郎を追落し、嫡子右京亮を、当城に差置き、我身は曽根に住す。其後右京亮は、郡上の城へ移り、江戸の城は、年々に頽破し、慶長に破却し畢。此城屋敷、南は城切の川あり、夕部が池の流迄なり。北は寺田村境、東は大河、西は日詰の橋際なり。城の台二十間四方、常の居住は、台の西にあり。井戸十郎は、三百貫の少知なり。右京亮は二万余石、但し曽根の割地なり。此城構、井戸十郎とは相違に見えたり。井戸氏の領地は、黒野の加藤に奪はるゝ由、漸く城を守る計の由。一鉄、殿中の修理増補せし故、一城の名を得たり。小柿村の古城主は小柿助六、其後安藤伊織盛元。本田村の要囲は、一鉄の臣稲葉長右衛門。北方の城主は、安藤道足三男七郎左衛門。天正十壬午年六月八日、父子兄弟五人討死。美江寺の城主、和田八郎・和田佐渡・和田将監・随門院可心并に杉本市兵衛、代々土岐の幕下なり。天文十一年九月三日の夜軍に、城を焼落し、防ぐに堪へずして城を去る、十七条の城主は、土岐頼貞の四男次郎頼胤、草創の地なり。其後二階堂三蔵・其子安右衛門尉是に住す。其後仙石権左衛門秀豊・和田五郎兵衛利詮領なり。其後時代遥に隔りて、享禄年中より、林氏、要害を改築して住居す。林駿河守・越智正次・次男惣兵衛尉迄、城主たり。天正六年四月三日卒す。法名亮月宗本と号す。十九条の城主織田勘解由左衛門は、尾州犬山の織田十郎左衛門舎弟なり。永禄五年五月三日の夜、平信長卿と斎藤龍興と、軽海村にて合戦の時討死。高田村の要害は、山田兵庫頭が弟蘆敷又三郎是に住す。後に山田丹後と改む。其後稲葉一鉄砦に囲む。道塚村の城主種田信濃守。元亀二年五月十二日の夜、太田村にて討死。今宿村の城主種田助六郎は、信濃守と一所に討死。直江の城主は、助六・弟種田彦七。後丸毛三郎兵衛と改む。青柳の城主は小寺掃部。小野村の城主は横幕帯刀信兼。大塚村の城主は松井九郎直清。市瀬村の城主は桑原治右衛門。江崎の城主は林権内。加賀野江の城主は日比大三郎・加賀野江弥八郎。森部の城主は不破壱岐守。墨俣の城主は信長卿の砦なり。竹ヶ鼻の城主は不破源六、其後杉原五左衛門。三井の城主は三井弥市。福束の城主は丸毛三衛兵衛。松木の城主は徳永法印。【 NDLJP:239】高次の城主は高木十郎左衛門。今尾の城主は丸尾兵庫。太田・中島の要害は原隠岐守砦なり。菩提山の要害は竹中半兵衛。今須の城主は長井八郎左衛門。白樫の城主は長井藤左衛門尉長弘。後、長良の館に移る。揖斐の庄北方の城は、天文の始め逆臣斎藤道三が為に土岐の氏族蟄居の所なり。九郷の城主は稲葉権之丞。池尻の城主は飯沼勘平、後、片桐半右衛門。又後、一柳伊豆守住す。市橋の城主は市橋九郎左衛門。北方の城主は吉田休三入道。加納の城主は名和和泉守。曽根の城主は稲葉伊予入道一鉄、後、西尾豊後守是に住す。西の保の城主は不破河内守、後、木村惣右衛門。南方の城主は久瀬民部。八居の城主は八居修理亮。野村の城主は織田河内守。山口の城主は古田織部。見延の城主は原掃部。軽海の城主は、軽海長勝草創の地なり。其後土岐家より、砦の要囲を給はり、稲葉家代々居住。応仁二子年、稲葉元塵入道、御座野村遠見山に要害を構へ是に移る。天正年中より、一柳伊豆守・越智直末住居し、同十八寅年、相州小田原陣にて討死。後、城主断絶。直末は、岐阜今泉にて成長し、童名市助といふ。此舎弟四郎左衛門直守、秀吉公より召出され、監物と改め、尾州黒田の城主にて、三万五千石領す。曽我部村の城主は曽我部内蔵助。別府村の城主は広瀬隼人。穂積村の城主は長井雅楽頭。長松の城主は武光式部。本郷の城主は国枝大和守。文珠の城主は、往昔中納言定家卿の旧館の地なり。船木山といふ。後、小笠原十郎泰綱居住。祐向山といふ。長井勘九郎も是に住す。大垣の城は、足利十二代の将軍義晴公の御下知として、牛谷川を形取り、天文四乙未年、宮川吉左衛門尉、始めて築きて居住す。其後、城主代々なり。織田播磨守・竹越道陳。永禄二未年より氏家卜全。元亀二辛未年より氏家左京。天正三亥年より木下美濃守秀長。天正六年より加藤作内。天正九年より氏家内膳。天正十一未年より池田勝入。同十二年より三好孫七郎秀次。同年十二月より一柳伊豆守。同十七年より三万石羽柴少将 秀勝。同十九卯年より三万石伊藤長門守 。慶長四亥年三万石伊藤彦兵衛尉 、石田三成逆心に組し、同五年庚子四月討死。同六年より石川長門守康道。同十二年より五万石石川日向守 家成。同十四年より五万石石川主殿頭忠従 。元和二丙辰年より五万石松平甲斐守忠良 。寛永元年より 四万五千石松平因幡守 。同年五万石岡部内膳長盛 。同十年より六万石松平越中守定綱 。同十二年より十万石戸田左門氏鉄。
濃陽諸士伝記大尾この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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