消息法語
- 西園寺殿の御妹の准后の御法名を、一阿彌陀佛とさづけ奉られけるに、其御尋に付て御返事
此事[1]は申入候しにたがはず。此體に生死無常の理をおもひしりて、南無阿彌陀佛と一度正直に歸命せし一念の後は、我も我にあらず。故に心も阿彌陀佛の御心、身の振舞も阿彌陀佛の御振舞、ことばもあみだ佛の御言なれば、生たる命も阿彌陀佛の御命なり。然ば昔の十惡五逆ながら請取て、今の一念十念に滅したまふ。有難き慈悲の本願に歸しぬれば、いよいよ三界六道の果報も由なくおぼえて、善惡ふたつながらものうくして、唯佛智よりはからひてあてられたる南無阿彌陀佛ばかり所詮たるべしとおもひさだめて名號を唱へ、息たえ命終る。これを臨終正念往生極樂といふなり。南無阿彌陀佛。
- 土御門入道前內大臣殿より出離生死の趣御尋に付て御返事
他力稱名は不思議の一行なり。彌陀超世の本願は凡夫出離の直道なり。諸佛源智のおもふところにあらず。況や三業淺智の心をもてうかがはんや。唯諸敎の得道[2]を耳にとどめず、本願の名號を口にとなへて、稱名の外に我心をもちひざるを無疑無慮乘彼願力定得往生といふ。南無阿彌陀佛ととなへて、わが心のなくなるを臨終正念といふ。此時佛の來迎に預て極樂に往生するを念佛往生といふなり。南無阿彌陀佛。
- 頭辨殿より念佛の安心尋たまひけるに書きて示したまふ御返事
念佛往生とは、我等衆生無始以來十惡五逆四重[3]謗法闡提[4]破戒破見等の無量無數の大罪を成就せり。これによつて未來無窮の生死に輪廻して、六道四生[5]二十五有[6]の間、諸の大苦惱を受べきものなり。しかりといへども法藏比丘[7]五劫思惟の智慧、名號不思議の法をさとり得て、凡夫往生の本願とせり。此願すでに十劫已前に成就せし時、十方衆生の往生の業に南無阿彌陀佛と決定す。此覺體阿彌陀佛といふ名にあらはれぬるうへは、厭離穢土欣求淨土のこころざしあらん人は、わが機の信不信淨不淨有罪無罪を論ぜず。ただかかる不思議の名號をきき得たるをよろこびとして、南無阿彌陀佛ととなへて息たえ命おはらん時、必ず聖衆の來迎に預つて、無生法忍[8]にかなふべきなり。是を念佛往生といふなり。南無阿彌陀佛。
九月朔日
辨 殿
- 結緣[9]したまふ殿上人に書きてしめしたまふ御法語
現世の結緣は後生の爲にて候へば、淨土の再會疑有べからず候。名號の外に機法なく[10]、名號の外に往生なし。一切萬法はみな名號體內の德なり。然ればすなはち南無阿彌陀佛と息たゆる處に、得無生忍なりと領解する一念を臨終正念とは申すなり。是卽十劫正覺の一念なり。南無阿彌陀佛。
三月九日
- 興願僧都念佛の安心[11]を尋申されけるに書きてしめしたまふ御返事
夫念佛の行者用心のことしめすべきよし承候。南無阿彌陀佛とまをす外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の樣樣に立をかるる法要どもの侍るを。皆諸惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者はかやうの事をも內捨て念佛すべし、むかし空也上人へある人念佛はいかが申すべきやと問ければ、「捨ててこそ」とばかりにてなにとも仰られずと。西行法師の選集抄に載られたり。是誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極樂を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申す念佛こそ、彌陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打あげ打あげとなふれば、佛もなく我もなく、まして此內に兎角の道理もなし。善惡の境界皆淨土なり。外に求べからず厭ふべからず。よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも念佛ならずといふことなし、人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくのごとく愚老の申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて愚老が申す事をも打捨て、何ともかともあてがいはからずして、本願に任せて念佛したまふべし。念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願に缺たる事なし。彌陀の本願に缺たる事もなく、あまれることもなし、此外さのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立かへりて念佛したまふべし。南無阿彌陀佛
興 願 僧 都
- 山門橫川の眞緣上人へつかはさるる御返事
此世の對面は多少の芳契、相互に一佛に歸する事これよろこびなり。生死は我執の迷情[12]、菩提は離念の一心なり。生死本無なれば、學すともかなふべからず。菩提本無なれば、行ずとも得べからず。しかりといへどもまなびざる者はいよいよまよひ、行ぜざるものはいよいよめぐる。此故に身をすてて行じ、心をつくして修すべし。このことはりは聖道淨土[13]ことば異なりといへども、詮ずるところこれ一なり。故に法華經には「我不愛身命但惜無上道」とすすめ、觀經には「捨身他世必生彼國」ととけり。しかれば聖道は自力の行自己の身命を捨て道をあきらむる事自然なり。淨土は他力の行なれば、身命を佛に歸して命つきてのち佛性を證す。然れば吾等ごときの凡夫は一向稱名のほかに出離の道をもとむべからず。阿彌陀經の中には、「念佛申すものは六方恆沙の諸佛の護念に預りて順次に決定往生する事疑なし」ととかれたり。唯南無阿彌陀佛の六字の外にわが身心なく、一切衆生にあまねくして名號これ一遍なり。兼て又紫雲天華の事稱名不思議の瑞相なれば、凡夫の測量におよばざるものか、凡情を盡して此華もよくわくべく候。阿彌陀經百卷仰のごとく結緣仕畢ぬ。穴賢。南無阿彌陀佛。
四月廿二日
眞 緣 上 人
- 或人念佛の法門を尋申しけるに書きてしめしたまふ御法語
念佛往生とは念佛即往生なり。南無とは能歸の心、阿彌陀佛とは所歸の行、心行相應する一念を往生といふ。南無阿彌陀佛と唱へて後我心の善惡是非を論ぜず、後念の心をもちひざるを信心決定の行者とは申すなり。只今の稱名のほかに臨終有るべからず。唯南無阿彌陀佛なむあみだ佛ととなへて、命終するを期とすべし。南無阿彌陀佛。
- 或人法門を尋申しけるに書きてしめしたまふ御法語
春すぎ秋來れども、すすみ難きは出離の要道。花ををしみ月をながめても、おこりやすきは輪廻の妄念なり。罪障の山にはいつとなく煩惱の雲あつくして、佛日のひかり眼にさへぎらず、生死の海には常時に無常の風烈しくして、眞如の月やどる事なし。生を受くるにしたがひて苦しみにくるしみをかさね、死に歸するにしたがひて闇きよりくらき道におもむく。六道の街にはまよはぬ處もなく、四生の扉にはやどらぬ栖もなし。生死轉變をば夢とやいはん現とやいはん。これを有といはんとすれば、雲とのぼり烟と消えて、むなしき空に影をとどむる人なし。無といはんとすれば、又恩愛別離のなげき心の內にとどまりて腸をたち魂をまどはさずといふことなし。彼芝蘭の契[14]の袂に屍をば愁歎の炎にこがせども、紅蓮大紅蓮[15]の氷は解ること有るべからず。鴛鴦の衾の下に眼をば慈悲の淚にうるほせども、焦熱大焦熱の炎はしめることなかるべし。徒に歎き徒にかなしみて、人も迷ひ我もまよはんよりは、はやく三界苦輪の里を出で程なく九品蓮臺の都にまふづべし。爰に苦惱の娑婆はたやすくはなれがたく、無爲の境界は等閑にしていたる事を得ず。適本願の强緣にあへる時、いそぎはげまずしては、いづれの生をか期すべき。他力の稱名は不可思議の一行なり。超世の本願は凡夫出離の要道なり。身をわすれて信樂し、聲にまかせて唱念すべし。南無阿彌陀佛。
- 上人いささか御惱おはしましけるとき書きて門人にしめしたまふ御法語
夫生死本源の形は、男女和合の一念、流浪三界の相は愛染妄境の迷情なり、男女形やぶれ、妄境おのづから滅しなば、生死本無にして迷情ここに盡ぬべし。華を愛し月を詠ずるややもすれば輪廻の業、佛をおもひ經をおもふともすれば地獄の焰、ただ一念の本源は自然に無念なり。無念の作用は眞に法界を緣ず。一心三千[16]に遍ずれども、本より已來不動なり。然といへども自然の道理をうしなひて、意樂の懇志を抽んで、虛無の生死にまよひて幻化の菩提をもとむ。かくのごときの凡卑の族は、厭離穢土欣求淨土のこころざしを深くして、息たえ命終らんを喜び、聖衆の來迎を期して彌陀の名號をとなへ、臨終の命斷のきざみ、無生法忍にかなふべきなり。南無阿彌陀佛。
弘安七年五月二十九日
- 最後の御遺誡[17] 〈門人聖戒師の筆授なり〉
五蘊[18]の中に衆生をやまする病[19]なし。四大[20]の中に衆生をなやます煩惱[21]なし。但本性の一念にそむきて、五欲を家とし、三毒を食として、三惡道の苦患をうくる事自業自得果の道理なり。しかあればみづから一念發心せんよりほかには、三世諸佛の慈悲もすくふことあたはざるものなり。南無阿彌陀佛。
- ↑ 【此事】一阿彌陀佛の法名のこと。
- ↑ 【諸敎の得道】顯密權實の諸敎の得道。
- ↑ 【四重】殺、盜、婬、妄の四重禁。
- ↑ 【闡提】(Icchāntika)斷善根、信不具足と譯す。本來解脫の因を缺きて、到底、成佛する能はざるもの。
- ↑ 【四生】胎、卵、濕、化の四生。
- ↑ 【二十五有】衆生の輪轉する生死界を廿五種に分ちたるもの。四州、四惡趣、六慾天、梵天、無想天、五那含天、四禪天、四空處天。
- ↑ 【法藏比丘】彌陀の因位の名。
- ↑ 【無生法忍】無生法とは所詮の法なり。忍とは能證の慧なり。無生を得る慧なるが故に無生忍となづく。
- ↑ 【結緣】衆生が佛道を修行せんが爲に佛法僧に因緣を結ぶことを云ふ。
- ↑ 【名號の外に機法なく】南無の二字は機なり。阿彌陀佛の四字は法なり。名號の外に機法なきなり。其機法一體する端的が卽ち往生なれば、亦名號の外に往生なきなり。
- ↑ 【安心】法に依り確信安住して動かざること。
- ↑ 【生死は我執の迷情】生死流轉することは、我執の迷情に由る謂なり。
- ↑ 【聖道淨土】聖道門、淨土門の意、聖道門とは自力の修行をなして灰身滅智すること、淨土門とは他力の本願に乘じて淨土に往生すること。
- ↑ 【芝蘭の契】香はしき交りのこと。
- ↑ 【紅蓮大紅蓮】八寒地獄の第七、第八の並稱。
- ↑ 【一心三千】天台宗にて、一念の心に三千の諸法を具有すること。
- ↑ 【最後の御遺誡】正應二年八月二日聖戒として書せしむること六條緣起に見ゆ。
- ↑ 【五蘊】色、受、想、行、識。
- ↑ 【病】身病。
- ↑ 【四大】地、水、火、風。
- ↑ 【煩惱】心病。
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