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天保十一庚子年十一月、松平大和守・酒井左衛門尉・牧野備前守所替仰付けられしかども、国替の諸候故有りて其事止みぬ。是迄種々の風説ありしが、其実を篤と聞き正しぬる故、委しくこゝに記置くもの也。

                     ​松平大和守名代​​     山内遠江守​​ ​

      出羽国庄内へ所替

右被仰付之旨、於御黒書院御縁頬、掃部頭殿御老中列座、越前守殿被渡之

                     ​酒井左衛門尉名代​​     酒井摂津守​​ ​

      越後国長岡へ所替

右被仰付之旨、於御黒書院溜、列座同前、御同人被渡之

オープンアクセス NDLJP:96      武蔵国川越へ所替       ​牧野備前守名代​​   牧野遠江守​​ ​

右被仰付之旨、於芙蓉之間、列座同前、御同人被渡之

但し大和守左衛門尉在邑中、備前守在京中之事、庄内・長岡共に被仰渡、当朝迄御所替の儀は実以て不相知、不計儀之由風聞有之。

酒井左衛門尉所替に付家中への触書

酒井左衛門尉出羽国庄内ゟ越後国長岡へ所替被仰蒙候に付、在所御家中への御触書之写。

今度御転領の儀は軽からざる事に付、一同心力を尽し、御家の為め専一に相心得、諸事油断無之様可致は勿論之儀、心付之事も有之候はゞ、無遠慮申出候。

一、面々家屋敷不取乱、樹木に至る迄猥に伐り取り申間敷候。

一、弐百年前ゟの御領地を離れ候儀に付、残多く存じ候儀人情に候得共、自然申間敷事を口外致し、公儀へ対し不敬の筋有之候由は、以ての外の事に候、万端相慎み穏便に可致候。召仕下々に至る迄、無用之雑談等致し不申様能々可申含候。

一、在町へ対し候ても、猥ケ間敷事無之様申附方可之候間、各〻右趣意之所等之致勘弁可被申付置候事。

  十一月

 右之趣、支配有之面々は支配下へも可申達候。


       御家中御給人へ

天保十一庚子年十一月朔日、所替之儀被仰出候処、酒井左衛門尉には在国の事故子息摂津守為名代登城有之候処、御老中御列座にて被仰渡候趣難有奉存候左衛門尉帰国中、追て御受可申上候旨にて、下城有之。則刻病気の御披露被致、御老中御礼廻り名代にて勤められ候由。

酒井侯と庄内一、酒井家庄内御拝領之有増承之候処、元祖左衛門尉には、東照神君御伯母聟にて、織田・武田之頃、常に先陣を勤められ候事は世の知れる所なり。三代目に至り、宮内大輔忠勝信州松代より、元和八年庄内御拝領仰出され候。同日出羽山形鳥居右京亮忠政、山形拝領の儀被仰出候処、左衛門尉忠勝申条には、出羽山形は最上源五郎義俊百万石の本城にて、庄内は枝城にも有之候故、山形にても被下置候はゞ、難オープンアクセス NDLJP:97存じ候旨申上げ、庄内は御受も之なく候処、台徳院殿御上意の旨を以て、土井大炊頭利勝を以て、庄内二郡一円に被下置候者、鶴ケ岡・亀ケ崎両城も有之、要害の場所にも有之、出州〔羽カ〕・奥州・蝦夷地迄締の為、家柄・戦功を見立て差置かれ候旨被仰渡候に付、忠勝御受を申上げ、家之面目と松代より引移り申候。

出羽国庄内田川郡鶴ケ岡〈八万石余、外に丸岡余目とて、御預り所二万八千石。〉同飽海郡亀ケ崎〈六万石余、外に分家酒井岩児守城地八千石。〉

  内高十九万六千石

田川郡五郷〈中川 京田 山浜 狩川 櫛引〉飽海郡三郷〈遊佐 荒瀬 御原田〉  両郡総物成三十年平均、米凡三十八万俵余。〈五斗入〉

同    同 金二万両計〈酒田運上 賀茂運上 浮組諸株運上〉

鶴ケ岡本城之内、三の丸に大督寺院有之、右之内二代家次公より、代々埋葬有之候。江戸表にて逝去有之候共、棺国送り埋葬に相成り候。先例家格也。幼年家督の節は、御目付とて国本へ御旗本御下向にて、国政御聞糺有之候。先例之家格也。

一、牧野家領越後長岡は、是又元和四年御拝領の土地にて、高十一万石余。米にて〆十六万俵計〈四斗五升入〉、新潟其外運上金一万余有之候由。

      同十二月上旬、御用番御老中御内願の写

庄内二郡一円、鶴ケ岡・亀ヶ崎両条拝領仕候儀は、二百十九年以来の事にて、奥羽蝦夷地迄の御締の為めに御座候へば、家柄・戦功・御由緒迄も思召候ての儀に御座候。今度無故所替被仰付、右御趣意も無に相成り、其上久敷扱来り候百姓の親みを捨て、代々の墓所に相離れ候事抔に至候ては、誠に不悲事共、筆紙に尽し難き次第に御座候。仍ては此上牧野家領し来候地所は勿論、庄内二郡の内飽海郡酒田は、是迄の通り被下置度、若又飽海郡御居置被下度候事不相成候はゞ、牧野家領し候新潟等は不申、魚沼郡にても御添地に被〔度脱カ〕候。爾右之通故なく二郡両城差上候筋合、何分御立被成下、規模首尾合に相成候御沙汰、偏に奉歎願候事に御座候。左も無之、其廉相立ち不申候ては、先祖・子孫・家来共并世間にも、面目無御座候次第を深く御憐察被成下、領地首尾合共前文之通り被成下候様奉存候。

  十二月                   酒井左衛門尉

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魚沼郡は会津松平肥後守御預り所、高六万石余。小千谷・十日町抔宣敷場所有之信州境迄一円の由。

     摂津守殿御内室おてつ殿ゟ、御父田安一位様へ被進候文の写。

酒井摂津守室おてつの書翰今度所替の仰蒙り、難有存上まいらせ候へ共、一同の歎の様子にて承り候へば、何の弁へなき心にも、只途方に暮れ居候処、庄内ゟも別紙の通り御歎申上候。猶承り候へば、庄内拝領の事は、台徳院様厚き思召もあらせられ候事にて、家の面目と家来共まで難有存まいらせ候。此度の所替仰付られ候て、左衛門尉・摂津守の心中も察入り、いか計か痛はしさ、私も安き心も致し申さず、歎はしく存ho~。其上此度の仰渡され、此儘にては先祖へ対し、後の世迄も恥辱、世上に面目も欠け、何か不調法の筋にても御座候様に聞え候はんと、左衛門尉申越せる事は、御縁続きも御座候へ共、両人へ対し候ては面目なく、何共気の毒、殊に庄内は二百余年の地に御座候へば、百姓をも親子の恩も同じ様になつき親み候処、俄に所替被仰付候ては、嘸々歎に堪へず、長岡へ引移り候事、家中下々の家居も不足の由にて候へば、末々はいか計り難儀の事と痛ましさ不便に存ぜられ、此頃は夜もふせりかね、朝夕の食事も通りかね候様に存ぜられまいらせ候差出がましき御願にて、何共恐入候得共、何卒左衛門尉・摂津守の心中も深く御察し遊ばし、面目欠け申さず、下々迄難有候歎に及び申さず候やう、偏に御厚う御慈悲を以て御取なし、憚ながら上様御聴にも入れ、御歎き遊ばし下され候はゞ、いか計り有、此上の御恩に存上まいらせ候。此節不快中筆。末略

  同十二丑年正月

庄内両郡田川・飽海百姓罷登り、御老中へ駕籠訴。酒井家永城の愁訴仕候事、追々百姓百姓〔衍カ〕罷登り駕籠訴仕り候。同閏正月、水野越前守殿御家老ゟ為御内意、飽海郡田の城は御残しに相成候積り被申候由。田安一位様より、右坂田城の儀御残に相成り候御内意有之候。同二月六日、御用番太田備後守へ御墓地一件、御願ひ被差出候。

     願出之写

私儀今般所替被仰付候につき、代々の遺骸改葬の儀可願の処、年久敷数代の古オープンアクセス NDLJP:99酒井左衛門の願書墓朽敗の程難計、何分掘発候儀難忍、又持運方甚だ以て心許なく、当惑至極仕候に付、無拠奉願候。右改葬候難渋の次第は、元和八年庄内拝領の砌、鶴ケ岡・亀ヶ崎両城の儀は、外藩警守の尊慮にて、家柄を為思召候て被下置候に付、永々守護可之旨被御渡候条、家に申伝へ書き留めも有之、専ら右の御趣意を相守り、永久守護の儀に付、入部の節、鶴ケ岡三の丸西南の隅へ菩提所建立仕り、大督寺引移し、二百二十年来代々の父祖、江戸にて死去候共、毎度奉願棺を庄内へ差下、右大督寺へ致理葬来り候に付、子弟並に家族の墳墓数多罷成申候。且又幼年家督の折、在所へ御目付御差下し、政事并に警衛向等、毎度御尋ね被成下候儀、庄内拝領の砌、台徳院様御深慮あらせられ候続きにも可御座、又前条の通り帰葬被仰付来候儀も、家柄御由緒の儀、思召他に異なる御趣意を被含、格別の御恩遇をも御表被成下候の御儀共可之歟、家の規模無此上、累代冥加の至りに奉存、永久不易安堵の領地と心得、墓所の儀無意念罷在候処、所替被仰付候に付、右代々数多之墳墓、今更如何共致方無之、前段の改葬難渋の次第に有之、今度他領に其儘に差置き候事は勿論父相成、去りなから二百二十年来、土中に腐朽致し居り候・堀発〔・屍脱カ〕の儀も、且又難忍、数多の棺槨嶮難遠路の持運、危殆の変不痛心進退相窮、当惑至極仕り候。依つて奉恐入何共難申上儀とは奉存候へ共、格別の御憐愍を以て、右大督寺地面永々被下置、是迄の通り御居置被成下度、此段無余儀願上候。右願の通り被仰付下置候はゞ、三の丸要害の儀は松平大和守へも申談、如何様にも取直候儀、猶又奉願城戸外ゟ墓所へ出入仕候事に致度候。右様罷成候上は、忌日年忌等の節、代参申付候ても差支無之、尤墓所荒癈に至り不申、難有仕合にて、此上の安心に奉存候。何分哀歎当惑の情実、深御扱取被成下、奉願候通被仰付下置度奉存候。以上。

  二月                    酒井左衛門尉

右の外歎願書数通并に百姓関訴数状有之候得共、長き文言にて、今便手間取得写不申候、後便入御覧申候。

    水野越前守様太田備後守様へ差上候書付の写

オープンアクセス NDLJP:100恐以書付御歎訴奉申上候。

庄内百姓の訴状一、出羽国庄内田川郡百姓・飽海郡百姓共一同奉申上候。此度酒井左衛門尉様所替被仰付候事、御沙汰御座候処、右二郡の百姓共、老若男女・子供迄皆々歎き沈み居申候。二百年前ゟ住居の殿様にて、御代々様ゟ預御厚恩、昔ゟの凶事には不申、八年以前の年は前代未聞の凶作にて、庄内の外に、御国にて餓死人其外数不知候様承及申候。又他所よりは御国へ袖乞に参候者大層に夥敷御座候得共、庄内殿様は御米・御金共沢山にて、在・町の者共へ被下置、其外にも沢山御拝借被仰付、諸国ゟ米穀大層に御買入被成御救被下候間、庄内は一人も袖乞・非人抔出候者無御座候間、御恩沢の程難有仕合なる御事、皆々泪を流し居申候。然る処年々の凶作に相成り、殿様には御金も尽き果て候て、殊の外御難儀に候て、諸国金持より金銀・米穀共借入れ成され候て、御救ひ被下置候て、其上昔ゟの拝借の御米・金共、夫々に下切に被下置候へ共、御時節大層に御損失奉掛候間、皆々涙を流し、此上は有間敷き殿様と難有仕合に奉存候処、不思寄御国替被仰付候て、長岡へ御入国遊され候ては、是迄莫大の御恩沢を蒙り奉報候期も無之、一同泣騒ぎ、殿様御留り候ゟ外無御座候と、精心に湯殿山・金峯山・羽黒山・鳥海山、其外共城下在々神仏様へ参詣も、何卒殿様是迄の通りに御出被遊候所新眼なきすかし居申候。乍恐右の通りに御座候間、御歎き申上候。庄内数代の百姓共、只今御高恩の可〔期脱カ〕御座候間、百姓共格別の御慈悲を以て、殿様永く庄内へ御在住被成候様、宜しく御沙汰被成下度、百姓共一同御歎き申上候。右は田川郡・飽海郡村々之者共不残罷出 御歎訴奉申上候心組の処、極内々にて談合候得共、ふと御領主の御耳に入候哉、皆々御差留厳敷御叱りを蒙り候に付、私共計り致夜抜、乍差越申上候。何卒格別の御慈悲を以て、殿様永く庄内へ被御座候様、百姓共一同必至ひしと御願奉申上候。右夫々御聞済被成下候はゞ、生々情々の難有仕合に奉存候、以上。

  天保十子年十二月        出羽庄内田川郡村々百姓共

    御公儀様御役所

     庄内ゟ江戸同家中へ文通の写

オープンアクセス NDLJP:101飛脚立て候に付、啓上仕候。殿様当廿一日弥々被御発駕候積り、扨て此節川北百姓大勢打寄り、願筋有之趣にて、最初は五丁野各地三千人程打寄り、紅白の織押立て、のぼりの内稲荷大明神と有之外の幟へは、願筋の訳記し、其外田畑踏荒申間敷く、或は萱乳等取散し申間敷くなどと相認め候趣に付、御代官其外色々の御役人罷出申含め候得共、其後酒田山王山西北大浜と申す処へ、川北三組之百姓二万三千人程打寄り、殿様御登を差留め申候積りの由、右に付御郡代の内阿部孫太夫殿、御郡奉行の内相良文左衛門殿出役、漸く申含為引取候趣、乍去是切にて相止事にも無之様相聞え、右打寄候大将と申すは、何れも有徳なる者の件にて、年は何れも二十代の者と相聞え申候。勿論米金等は何方より差出候哉と申す事も不相知候得共、沢山に集り候趣に相聞え申候。然る処、当十一日の夜所々へ建札致し候趣注進申出て候。其文言別紙の通りに御座候処、今日ゟ中川通其外の百姓、中川谷地へ貝吹立て打寄り、人数の次第未だ相知れ不申候。扨て此節に相成り候ては、御所替之儀も相止み候と申す事に、御殿向迄専ら取沙汰の趣に相聞え候。何卒風聞の通り相止候方に仕度心願に御座候。右可申上此に御座候、以上。

  二月十二日                 平瀬林左衛門

    磯部立玄様

    皆々様

     庄内にて認め差上候書付之写

庄内百姓の願書乍恐以書付御申上候事。私共庄内の百姓共に御座候。此度御殿様御所替被仰付候御逹御座候旨、誠に以て驚き入り奉存候。扨て御殿様の儀は、御代々様ゟ蒙御高恩、昔よりの凶作又は変事の年柄は不申上、既に八ケ年已前巳年は、前代未聞の凶作にて、庄内の外の御国々にては、餓死人其数不知様に承り候折柄、他所ゟ国許へ袖乞の者多く参候に付、驚転仕り候。其節庄内の御殿様には、在町之者へ御米大造に被下置、其外にも色々御拝借等被仰付、諸国ゟ米穀大造に御買入御救被成下候間、於庄内は袖乞・非人抔は一人も出候者無御座候間、老若男女弥々御国恩難有迚、感涙を流し、此国恩奉報度由、日々心掛罷在候へ共、引続き年々凶作オープンアクセス NDLJP:102にて、庄内二郡の百姓共、町人に至る迄所持の品物売払ひ、或は質物に置き尽し、此上親妻子ちりに相成候ゟ外無之体に相成候仕合に付、御殿様にも御不便に被思召、以前の御救其外御物入等被在候。御金も尽き果て候て、以ての外御難儀被御成候上にも、諸国の金持衆ゟ大造に御借入被成候て、御救被成下、其上昔ゟ御拝借米・金夫々に被下切に被成下候得共、御年貢御取立は不足に相成り候上、其外年々窮民救米等迄莫大に被下置候へば、御時節大造の御損失奉懸候へ共、先は町在の者共再生の心地にて、如此難有御殿様は有間敷く、夜は縄をなひ筵を織り、又は商の土地にては品物売数の内ゟ、一文・二文の溜銭致し差上げ、少しも御苦労薄に成行候はゞ、夫々御国報之気差にも可相成と奉存候処、此度思召不寄御所替と承り候へば、庄内二郡の百姓老幼男女共、上を下へと驚き騒ぎ、或は悲歎の誠を以て、目も当られぬ風情にて、其上国中の御扶持頂戴候程の金持は、皆々御供仕り度と奉願上候由、三年ゟ続いての凶作にて、皆々労れ居候処に、当年は作合も宜敷くと悦び居り候得共、稲刈入合取仕候処、考へ候ゟは劣り候作合にて、御年貢上納仕り候共、此節ゟ□食薩張り無之に付、色々御救方被下米等を奉願、人々の親方衆へも、夫々食并に金銀等借り入れ可申処、夫等のねだりも不相成事にて、途方にくれ、どう考へ候ても難立体に奉存候。今度御所替に相成り候はゞ、御跡へは猶々難有候御殿様被仰御越候て、結構に御手段被成下候ても、在町の金持衆皆々長岡に参り候事に御座候へば、前条申上候通り極窮の我々計り相残候迚、是迄とは違ひ大造淋敷き御国と相成可申と、一向ひたすら歎騒ぎ仕候。此上は只々御殿様奉止候外無御座候迚、先達て御歎に罷登候者も御座候に付、国中厳敷き御穿鑿にて、中々隣村へも通ひ相成難く、御仕置被仰付候へば、乍思罷登り兼ね、只々能き便宜も可参哉と、今日か明日かと相待居候得共、如何なる様子に御座候哉、一向安否も相聞不申候は、御締りの厳重なる故、先登の人々ゟ便り有之候ても、何方にてか被取上候事哉と案じ居無心許、密かに申合せ相登り度存候へば、口々御固めの御役人中厳重にて、中々可通抜様も無之、拠無く三十四日の日を送り候へば、老若男女の者共、尚更歎き悲み、誠に心中思計難忘、不止事、我々申合せ、道もオープンアクセス NDLJP:103なき山谷の白雪を踏み、身命いとひなく漸々罷登申候儀に御座候。二百年来御高恩の御殿様には別れ申上候儀故、大勢の百姓共御不便に被思召、何卒庄内に御殿様永々御在住に被成下候様、乍恐厚く御取扱被成下置候はゞ、二郡の百姓共難有仕合に奉存候。為其差急ぎ以書付御願申上候。已上。

  子十二月                    庄内百姓

     御役所様

  天保十一子十二月廿三日、庄内出立、翌丑正月廿日江戸着。

庄内百姓駕籠訴の人々​御老中​​太田備中守様御駕籠人​ ​    飽海郡遊佐郷八日時村     四郎吉・長五郎

​同​​水野越前守様​ ​       上ノ新田館中村       善三郎・藤七

​同​​脇坂中務大輔様​ ​      鹿沢村・中島村   治右衛門・三郎左衛門

​同​​井伊掃部頭様​ ​       手島村・丁坪村     信左衛門・彦四郎

     閏正月廿八日、川北大庄屋ゟ来状之写

川北大庄屋の書翰飛札御意候。昨日も一通り善作ゟ申上候通り、川北三郷之御百姓、五丁野谷地へ相詰め、私共不申扱、佐平田之仲間共、私共役人召連右場所へ罷越し見届候処、追々駆集り候人数凡八九百計も可之哉、集居候に付、何等の趣と糺し候処、去年中西松組之者江戸表へ罷登り候得共、願空敷く御下げに相成り、其後川北ゟ罷登御駕籠訴訟願書差出候処、御取受無之、書付御返に相成り、残念至極に奉存候迚、被御引移候へば、二百年余の御恩沢を蒙り候儀、深難有奉存候間、一同に被召連下置候様、鶴ケ岡御城下へ罷登御願申上度段申聞候間、兼々御達之通り、大勢打寄候儀御停止之上、御城下へ罷登候儀甚だ不宜候間、罷登申間敷候。人々歎願之儀は、早速殿様へ御重役ゟ被申上候間、別払申候様、様々申諭候処、昨廿七日七ツ時過ぎ、皆々罷帰り候処見届け、私共引返申候。馳付候者途中にて行逢候者も、前段之趣申聞候。相詰め候者共、手道具等持参の者一人も無之、外に異変の次第無御座候に付、今日郡御奉行へも御届如斯に御座候。急々御上へ被仰上下度願上候。以上。

  閏正月廿八日

オープンアクセス NDLJP:104                         ​荒下郷大庄屋​​ 相馬東助​​ ​

                          堀善右衛門

                          佐藤八右衛門


    佐藤仁惣治様

    渡辺儀兵衛様

    村上伊之助様


     平田村・牧曽根村建札之写

平田村牧曽根村の建札兼ねて及相談候江戸表へ御歎に罷登候儀、西郷の衆と相願ひ、空しく御返しに相成候に付、二の手川北衆は艱難を致し、御訴訟首尾能く致し、願書を差上候得共、御取上不相成候。寝ても起きても歎かは敷く奉存候。依ては迚も人少々にては、御国中我々は歎き候処も御取上不相成候に付、此上は最早御談に及び候通り、二郡の総百姓罷登り、御すがり付、御歎可申上事に可仕候間、皆々様左様御承知可下候。以上。

、黒の丸印の簇筵にて拵立て、村々半鐘打ち相集り候由。

、先頃御下しに相成候者、公事場へ相願候積にて、又々罷登り候哉之旨相聞ゆ。

、先達て罷登り候十一人の者共、江戸小塚原を通り候節、晒首二ツ有りしを見て、我々も定めて如斯に可相成間、此内に不同心の者あらば、是ゟ国元へ可帰、弥々同心に候はゞ、血判可致候と申し、一同同心にて血判致し、江戸へ被着候由。夫より旅宿へも我々御成敗にも相成候はゞ、跡々の儀宜敷御取計ひ可下、又庄内へも其段早速に為御知遣可下と呉々相願ひ、取置料の金子遣置候との事の由。

、二月朔日又々庄内大浜千余人相寄り、願書差出候て、二日には三千人計り鶴ケ岡御城下へ罷出で、願書持参之由、朔日差出候願書は、大庄屋へ留置候由に相聞え候。

、同三日心珠院様御法事にて、大督寺へ御参詣可之旨、昨日被仰出に御座候に付、早朝より坂上と申す町へ人数集り居り候由、爰に願の趣も可之趣取沙汰致し候処、此日殿様御病気にて、御参詣相止み候。但御供揃申上げ、御召替もオープンアクセス NDLJP:105相済候上御延引、八郎右衛門殿御名代相勤め申され候。昨〔日カ〕夜中、御家老始不寐に所々御固め、御下知有之候哉之由。

     乍恐以書付奉願上候。川北村百姓の願書

                              私共儀は川北百姓共に御座候。此度御殿様御所替被蒙仰候段、一同奉驚入候。元来私先祖ゟ蒙御高恩、当国に永久相続罷在候処、如何成凶作、又は往昔ゟ種々の変御座候年柄は不申上、莫大之御米・金等迄被下切被仰付、誠に以て無借財同様に罷成候間、右御高恩を荷ひ、昼夜一同農業出精仕り、民之竈も賑敷時節に相成り悦び居り候処、此度不存寄御所替被仰、何共苦々敷く、一同歎悲之不止事、先達てゟ乍恐追々江戸へ委細以書付愁訴罷登候者も御座候に付、又々一統罷登り申度奉存候へ共、夫にては却て御為筋に不相成趣にて、村々日々夜々に御役元ゟ厳重に被仰含候儀共、御尤も承知乍仕居、江戸表御左右相待罷在候処、此節御雑説には御座候へ共、御所替日延に相成り、又は川北御添地にも可相成抔、専ら風聞御座候に付、少々は猶予仕り居候処、当月中御発駕にて、御殿様江戸へ被御登候趣奉承知、再び驚転を仕候て、願上候筋も御座候へ共、差掛り候儀、今度被御登候て、又々御下り遊され候儀難斗奉存候へば、二百余年の憂歎悲之愁傷罷在候仕合に付、此度御登の儀は御延引被成下、庄内に永久被御在城候様、御止め申上候外無御座候事と、一同打寄り評議仕り候間、此段御取上げ無御座候事にては、農業植付出精行届かせ候て、跡ゟ江戸表へ御迎に罷登り申すべく候より外無御座候間、此段得と被聞召訳、左様可相成様、此度の御登り御延引被成下候はゞ、大小の百姓一同難有仕合に奉存候。為其乍恐御書付を以て、奉願上候。以上。

  丑二月                    川北総百姓

    御役所様

〈右書付、二月二日庄内御家老松平甚三郎殿へ、川北総百姓共の内、重立候者大勢にて持参。若又御取用無之候はゞ、同三日殿様大督寺へ御参詣之節、御駕籠訴可仕心組の処、甚三郎殿速に被留置、右百姓へ酒肴大造に被下罷帰候由。〉

オープンアクセス NDLJP:106

     被仰渡

其方共二百廿年来、先祖代々蒙御恩沢候百姓共の事に候へば、此度御所替御残り多く奉存上候儀は、尤も至極之事、亦殿様にも其方共先祖ゟ、代々農業出精致し、御年貢諸役も、畢竟其方共本務不怠故と常々御悦びの所、思召候は、地に付居候其方共の心中も同様の事にて、其方共心中も深く察入り候は同じ道、其方共殿様を大切に奉存上候はゞ、殿様、公儀を大切に被思召候も御同様の御事にて、御由緒の被在候御家柄に候へ共、無他事御一筋被御恭敬候儀には、如此公儀を被御尊敬候に付ては、万一其方共儀、殿様の御事斗は奉存上手前勝手の心得違よりして、御違背らしき筋仕出候はゞ、却て殊の外被御心配度々被仰出も有之事に候。其方にも能々御尊慮を奉勘弁、殿様御為めと奉存上候はゞ、御為めに不相成様之事仕出不申様に、此所は肝要に心得可申。此筋合能々勘弁仕候て、如斯物々敷き振舞いはれなき願ひまでは有るまじき事にて、是併し其方共の心にしては、公儀への御勤筋被御立候処には、心付く場も無之、ひたすら殿様の御恩沢をしたひ奉りし心よりして、深雪嶮敷難路を忍びて、江戸へ出訴をも致し候へ共不相叶。外には手段もなく、兎に角も御発駕候旨聞き伝へ、前後の弁なく、今度被御登候て、再度此地へ被御下間敷と一途に〔思カ〕び迫り、御留め申上げ、又は御跡ゟ江戸へ一同可罷登と存付候は、愚昧の誠心無余儀次第、不便至極に心中一同感涙に及び候事共に候。此心入の次第、神仏も加護可有。尤も殿様にも深く御不便に被思召候に付、被御尊慮、大和守様へも御願方も可在事、尤も是迄の御振合を以て、夫食御貸渡等の次第迄、委しく不御申送候事故、相談方の儀不心掛、此已後別て農業等出精致し、貢物・納物遅滞無之様、総て御役人中ゟ被仰出候事相守り、御思沢蒙り候殿様への御恩送りと可存候。然らば後来安栄にも可之と被安心候御事に候。此段厚く申合候様にとの御沙汰に候。尚委細御上にて可申聞候。

  丑二月

オープンアクセス NDLJP:107     酒田御足軽目付山口五四郎殿ゟ来状之写

山口五四郎の書翰先月廿八日、川北御百姓六七百人五丁野谷地へ打寄申候。只長岡へ御供被仰付下度旨、鶴ヶ岡へ願出申度き相談にて、打寄り候者三四千人、所々村々にて差留め申候由に相聞き、右に付難捨置、御頭中へ申上候処、御在番所御差図にて被仰付候者、角次郎太・金太夫・久太外一人、五丁野谷地へ罷越候処、大庄屋其外肝煎も相詰め居り候由、木綿一反の幟差立。〈下写なし。〉

     所々建札之写


      覚

所々建札の写一、此度御所替被蒙候段、両郡中一同愁傷難忍、已に十一月中両郷組中十二人、江戸表へ御歎訴に罷登候処、空しく御下げ被成、続いて川北ゟ十一人罷登り首尾能く為仕課候へ共、願書御下げ戻に相成り候段、川北一同心外に存じ、又々二の手先月中出立、猶三の手も差出候哉に相決候。人数は乍恐、御殿様御発駕御留め奉申上度くと、五丁野谷地・大浜其外へ一万余人打寄り候儀、全く以て二百余年蒙御恩沢候儀につき、御郡中一同の人情勿論に可之、差控ては対川北恥入候。乍去大勢騒立候ては、対公儀御済、却て御為筋に不宜。尚此上にも不止事候はゞ、厳しく御仕置可仰付御旨、御重役之御方ゟ度々御廻符にて被仰達、尚組々へ御役元ゟ、日々夜々厳重に御達有之、川南郷中の儀は、御膝元近く別て恐入、無余儀差控罷在候へ共、心外不止事、田川郡組の内ゟ投身命密に申合ひ、尚又便にも兼々申合通り山浜・横川両組は東山、狩川・中川・原田三組は中川各地へ打寄り候趣致約定候処、今般御中陰被仰達候間、一先差控可罷在候。若其内弥々御転領御日限被仰逹御詰候はゞ、右人数の内江戸へ罷登り、乍恐御訴訟可申上と存候。於然は御跡御領主様へ御敵対に罷成候に付、御仕置可仰付と覚悟に候。右訴訟人共御引渡に相成候はゞ、相残候組々一同為打寄評定之通り、長岡へ御慕ひ申上度旨可願。若御取上げ無御座候はゞ、無拠御跡に残り、組々手分を定め、御境目口々場所見立、一同餓死可仕所存相聞え候間、相図次第組々村々御一同片時も猶予なく、早速場所へ相詰可申候。右は往古の変難、近くは十オープンアクセス NDLJP:108年已来莫大の蒙御救、一同無難助命罷在候。弐百余年の可御高恩は此時也。若し身命を惜み不参の輩は、人面獣心に候。右為承知建札候。以上。

  丑二月                    川田統一郎

     川南組々村々惣中

黒瀬橋東へ〈大小札二枚〉 押江村へ〈大札一枚〉 加藤村へ〈小札一枚〉 地方長沼海道へ〈同断〉 藤島村大橋詰〈大札一枚〉 押江村・対馬村〈同断〉 長沼村〈小札一枚〉 〆

     庄内江戸御屋敷ゟ公儀へ御届書之写

庄内江戸屋敷より公儀へ届書左衛門尉只今迄の領分出羽国庄内、田川・飽海両郡百姓共数百人、或は数千人、或は一万人余打群立ち、最寄々々騒がしく相集り候段、郷方役人共ゟ訴出候に付、早速郡奉行代官并目附役の者等、右場所へ差出し、打寄候趣意為承候処、今度左衛門尉所替被仰付、永く引離れ候儀相歎き、祈祷等の為め打寄り候趣、或は長岡へ供致し度く、或は江戸へ供致し度き旨可申立為めに打寄趣申聞無謂無筋の願ひ心得違ひの趣、精々為申諭候処、孰れ致承知退散候趣、在所表ゟ申越候。全く愚昧の百姓共、一途に久来の離別を惜み候ゟの事のみ。外に子細無御座候得共、多人数物騒しく相集り候事に御座候間、此段御届申上候。以上。

  三月                    ​酒井左衛門尉内​​      関茂太夫​​ ​

     庄内ゟ江戸表へ御届書

庄内より江戸表への書状此間家来の者ゟ御届申上候通り、唯今迄の恩誼を相慕ひ、所替被仰付候に付、永々引離候儀相歎き、大勢所々へ打寄り、長岡へ供致し度抔、無謂申立候に付、役人共差出し、心得違の趣達て利害為申諭候処、孰も致承伏一旦は引取候へ共、其後又々大勢の百姓共度々相集り、既に昨廿日には凡三四万人に及び候て、兎角同様無謂申立は、対公儀候ても恐入り候筋故、尚其内役人共差出し、心得違不埓之旨、精々申含め相宥め悉く致従腹退散候得共、多人数度々群立候儀に付、尚此段御届申上候。已上。

  二月廿一日                 酒井左衛門尉

 此書付、江戸へ三月七日御届に相成候由。右之通に御座候。

オープンアクセス NDLJP:109     丑六月廿一日、御差出の御聞置書写

酒井左衛門の聞置書私是迄の領分田川・飽海両郡の百姓共、兎角愁訴之一念相止不申、最前ゟ夫々急度申諭し、手当向無油断申付置候者勿論に御座候得共、不身命忍出、度々及御駕籠訴訟、既に越前守殿ゟ御沙汰向御座候に付ては、猶又厳く密に為手当、役人共土着同様差出し、厳しく制止置候処、誰魁首と申すも無之、夜中等五人・七人・八九人宛密に忍出て、無路深山を抜出で、又は小船に取乗り風波を侵し、先々月末ゟ先月上旬迄、余程多人数罷登候の由相聞え、其向役人共不取敢致手分追駆つれど、中途ゟ為引返候者も有之、兼て最上越後筋へ足軽共差出置候手にて差戻候も有之、又右役人共差留候を恐れ、何方へ潜居候哉、一向不相知者も多分にて、役人共無拠此表迄致参着、御府内口々は不申及四方其最寄に無之所迄手当相増し、船路等も悉く致穿鑿押捕、屋敷へ引取候人数為相改候処、庄内抜出候人別に相違無之、尤追々罷登候次第、具に遂糺明候処、別に子細無之、全く引離候を悲み、永城歎訴之心掛、又は長岡へ是非罷越度抔無謂事のみ申聞候。且又右抜出候者共の内、彼此人数追々三百余人、仙台領通り候処、松平陸奥守役人致出張、多人数の儀に付通行差留め、逐一承糺候上、再三利害為申聞、右之内五人引留め、其余は不残引返し右之趣同人役人ゟ、在京家来共へ及掛合、差留置候五人の者も引渡受取候段申越候。私庄内発足前、丁寧懇志に申諭し致承服、其後も無油断役人共為出張、増手当厳重に致置候得共、表向は農稼出精の様為相見、夜分等忍々抜出で、無路深山を越え或は小船にて海上相廻り、剰へ仙台領相通り、被差留候砌、彼是愁訴等、愚昧の者共不埒至極の致方、於私迷惑至極存じ候間、夫々急度咎申付置候。道中ゟ引戻し候者も余程有之候得共、此表にて押捕へ候人数も二百人に余り及び申候。近々手分け為致警固差下可申、此節柄少人数にも無之、御関所罷通り、其上於仙台領の始末、他に引合にも相成り、尤も最初ゟ無油断手当者致置候処、御沙汰向も有之、猶又厳密申付置候得共、前段之次第にて、何分無拠恐入奉存候。依て猶取締方精々沙汰致し置き候。此段御聞置被成可下候。以上。

  六月                    酒井左衛門尉

オープンアクセス NDLJP:110

同五月中、庄内二郡百姓、仙台領通行三百人余有之、伊達弾正殿御出馬御利解、三百人余庄内へ御返し、五人五月末酒井家代官中村右門へ御引渡し候始末、御評議の上公儀御届書之写

松平陸奥守より庄内百姓の事聞届出の書松平陸奥守国許玉造郡の内、尿前と申処へ、去月五日、羽州庄内田川郡・飽海郡の百姓共、松島一見の由にて、五人・七人と申様、追々三百余人相成候に付、怪しき儀と通行差留め、先以て右最寄り駅場々々に止宿為仕置、其筋役人差出、尚承届候得共、委細別紙書取之通り、数百年来御高恩を受け、今更離散不悲歎、方々ゟ身命を抛候ても、御所替御沙汰止みに相成候様仕り方願の旨、無幾応申出、右様の事は不容易恐入候事に御座候間、再三利害申諭候得共、落涙一言之申開無之、尚又種々相諭候に及納得仕、依ては外に子細も無之候に付、右人数の内五人相残し、外者共帰村為仕、右之趣酒井左衛門尉役人へ、其筋役人共ゟ及掛合、役人出張の上、右五人の者も引渡申候。尤も右百姓共願書可受取儀に無御座候間、其儘差戻候之旨、国許役人共ゟ申聞候。如前文大勢挙て領内へ相越し、悲歎恋慕の状、不容易儀に御座候間、此段御聞置被下度候。以上。

  六月                     松平陸奥守

     同六月廿一日大御目附へ御届書之写

今般左衛門尉所替被仰付候に付、庄内領の百姓共、去冬已来度府仕り、御老中様方を始め、其外御役向へも御駕籠訴仕り候段、左衛門尉儀は不申、於家来共も深く奉恐入、在所表取締の儀は、兼々無油断申付置候へ共、猶又在々・村々へ役人共差出し能々利解為申聞取鎮め、領内境口々へ其番人相増し厳重為相守、於御当地は当春巳来、諸方往還筋千住・松戸・板橋・新宿・品川等の宿々へ目附役・足軽中間四五人宛止宿為致置、庄内百姓共見当次第取押へ候手当仕り、御府内旅籠屋へも右百姓共致止宿候はゞ、早速致注進候様申付置き、其外両下馬御役屋敷辺へも、日々目附役下座見足軽等差出置き、其後追々罷登り候百姓共、旅籠ゟ注進申越し、又は下馬にて取押へ候者共、是迄庄内表へ差下し候。右百姓共、其節に相糺候共、領内往還出口々々は厳敷警固有之通行難相成、鳥海山・月山等の深山幽谷を相越え、オープンアクセス NDLJP:111険岨の艱難を不厭、道も無之山路を抜出で、海辺の者共は漁船又は手船等にて、他領へ罷出候趣申聞候、尤も路用に貯へ無之者は、田畑・家財等を売払ひ、中には妻子を奉公に差出し、路銀調達之者も有之由に御座候。一体辺鄙愚昧の百姓共、一図に凝固り無謂歎願申立候条、不埒至極にて御座候へ共、何分両郡百姓共一致の儀には、農業に相障り、厳しく各申付候事も相成り兼ね、誠に当惑仕候。既に先達て水野越前守様ゟ御逹之趣も御座候間、左衛門尉儀は不申、家来共一同奉恐入、領内手当向猶又厳重申付置候。然る処今度又々百姓共多人数領内罷出候趣相聞候に付、郷方掛り役人郡奉行・郷目附・代官手代の者召連れ、近国往還筋諸方へ手分致し、見当り次第引戻し候手当には罷出候処、中途ゟ引戻も有之、最上越後筋へ兼て足軽共差出置候手にて、引戻も有之候得共、右様役人共罷登り候を承伝へ、弥々間道に潜居候哉、往還筋にては其後見当り不申候。段々罷登り御府内近辺宿々へ右役人共罷出居り、追々罷登り候百姓共、品川・松戸・板橋は勿論、向寄に無之口々船路迄悉く致手当、見当り取押へ、屋敷へ引入候者共、此節迄都合二百廿三人に相成申候。右の者共夫々相糺候処、庄内両郡の百姓其申合せ、左衛門尉永城之儀、猶又歎願の為、密々四五人或は七八人宛忍出で候処前条の通り領内口には不申及、間道迄も厳重手当有之候間山詣道者に相紛れ、他領へ罷越し、或は漁船にて越後路へ罷出で、其外御大名様方領内御通行の節、夫役に出候者直様罷登候由に有之、右何れも往還筋不罷通、野道・畑道を撰み通行致し、止宿等不仕、行当次第野宿致し罷登り候内、途中にて落合ひ、一群十人・廿人と相成り出府仕候趣、段々遂糺明候処、別に子細無之、兎角引離れ候を悲み、永城歎訴之心掛、又は長岡へ是非召連呉候様存詰候外無之候旨、種々愚昧の不弁より無謂事申聞候。右の外に三百人余り仙台領通行致候処、多人数無謂通行の儀に付被差留、精々預利解漸致納得、領分へ引戻し、其内五人被差留、在所役人彼方御役人引合之上、是又引戻し候趣、右に付於在所、夫々役人共猶又精々取調の上捕押へ、前文中途より為引戻候者も彼是弐百人余に相聞え申候。尚又取押への為め、近国へ追々役人共差出し、境目口には申すに及ばず、海辺・山路厳しく手当中付置き候得共、何分庄内二郡の百姓共、一同オープンアクセス NDLJP:112一図に死を相極め存詰め候事に相聞え候付ては、自然制止方行届兼候姿にも相聞え可申哉と、一統甚以て心配当惑仕候。此段幾重にも厚く御含被成下候様仕り度奉存候。已上。

  六月                   ​酒井左衛門尉内​​   関茂太夫 ​​ ​

丑七月十七日御老中御連名、御奉書到来、明十二日四ツ時可登城之旨、御不快故為御名代、本田隼人正様〈江州膳所若殿也〉御登城之処、御老中列座之上、水野越前守様被仰渡

所替中止

思召有立、今度所替不御沙汰、其儘庄内領被下置候。

                     ​酒井左衛門尉名代​​     本田隼人正  ​​ ​

思召有之、不所替長岡領被下置候。

                     ​牧野備前守名代​​     牧野玄蕃頭若殿​​ ​

所替、大蔵大輔願置候次第有之、二万石御加増被付仰候。

                     ​松平大和守名代​​     山内遠江守土佐之分家​ ​

右恐悦被仰出候。本田隼人正様御下城は、八ツ時少し過にも相成候得共、江戸中評判は昼時頃より致し候哉、同日着六ツ時止、庄内両郡の百姓何れも隠居り候哉、又何方にて相図仕り候哉、五人組・十人組として、西瓜一宛献上とて、相集り候人数凡三四百も可之候歟、右の者御役家又は外御大名様方へ入込み奉公致し、或は乞食又は其日過ぎの商ひ、色々姿変へ入込み有之候哉、前段御召捕の余りに御座候。右之趣態々飛脚之者申居り候事。

早追にて恐悦庄内へ被仰下候御使者、

                     ​御使番三百石​​    奥津弥伝次​​ ​

右神田橋十二日八ツ時出立、庄内十六日夜六ツ時着。道中追々人足定式十二人之処、五六十人駕に付、庄内着の頃は百姓共も駕につき、追々六七百人に相成申候。

一、庄内其夜市中夜通にて往来ばた向□て酒宴開き候由、誠に賑々しき儀に御座候。

   天保十二丑七月十七日ゟ同八月朔迄庄内御郡中恐悦献上 左之通

オープンアクセス NDLJP:113庄内百姓の献納金​  田川山浜郡加茂​​金貮千両 秋野茂右衛門​​ ​、一​金七百両 酒田二の町中​​ ​、一​   酒田​​金千両 伊藤四郎右衛門​​ ​

​    鶴ヶ岡​​金三百両 金屋幸右衛門​​ ​、一​     同別家​​金二十両 金屋富治郎​​ ​、一金五十両 脈屋大策、一金百両 肴屋大八木、一金三百両 西海三郎右衛門、一金二百両 村井千右衛門、一金百両西海有次、一金三百両 鷲田長兵衛、一​   長兵衛別家​​金二百両 鷲田仁兵衛​​ ​、一金百五十両 西海五兵衛、一金百両 西海順吉、一金二百両 三井、一金五十両 大山御領酒屋中、一金百両 田林半九郎、一金十五両三日町問屋中、一銭百貫文、八日町旅宿屋中、一金百両 永井喜兵衛、一金十両 三日町与助、一金三両一歩・銭八貫三百五十文 八日町小前者共、一金五十両三日町帯屋、一御□五ヶ年献上、​     御家中足軽​​外に金三十両 三浦菊三郎​​ ​、一金五十両 柴田慶蔵、一​     新堀村​​金三百両 孫右衛門​​ ​、一金二百両 同村勘蔵、一金百両  ​添川村​​鈴木弥一右衛門​​ ​、一​    羽根田​​金五十両 喜右衛門​​ ​、一金二十両 金子民弥、一米百俵 新奥屋弥右衛門、一金二百俵 田中徳右衛門、一金百俵 小野田吉右衛門、一餅五重(〈差渡五尺〉​美濃​​藤島​​ ​ 組、一同五重・同こんぶ細切長沼組、一弐斗入十樽・鰹節二連 田沢組、一御樽五荷・鰹節昆布 添川組、一上々白搗十俵・鰹節二連 黒川組、一昆布二十・御肴代金子五十両・御樽一荷 京田組、一御樽一荷・御肴代 ​ 御預り所下余目​​金五十両 御田組​​ ​、一てんこ一台・たなご四台由良組一餅二重・するめ​  黒川​​一把 能役者中​​ ​、一餅二重狩川組、一三斗入酒二樽・しほ鮎二桶本郷組、一長芋五十本・昆布二把・酒一樽・肴代金五十両京田組、一御酒一荷・鰹節五連 跡組、一御樽肴・鰹節 田沢組、一五重三俵餅・白木五斗入之酒銘鶴命亀の寿石持かじか青龍寺百姓、

  鶴亀の齢も永く御城持猶も石持添へ奉るなり

  日本に御名のかゞやく鏡餅御国たもちて民のしり餅

     庄内ぶし飽海郡中川北の踊歌

 ​かけごゑ​​ 御所替もおやめになりました。​​ ​やれおめでたう存じます。

  万代の君をとゞめて我等まで豊なる世に大泉

   養老の滝のようたのそして大浜焼腹合せて婚礼のさいたようたの

  汲むとも尽せぬ亀ヶ崎草木もなびく時津風

   目出度ひ酒井そのはやりうたで一ツおとろて

オープンアクセス NDLJP:114   はや船錠で留る君の御船は国のつなよい。松も色増す時なれや。

右の外酒田金持衆献上金未不相定、第一本間家一統、矢橋・大屋酒田郡中追々献上、鶴ヶ岡にては地方林其外未定に候由。

     大坂御舘入御永城恐悦献上

〈御扇子料〉一白銀五枚 上田三郎右衛門、〈御馬具料〉同五百枚〈御蔵元〉米屋喜兵衛、〈御肴料〉同五十枚肥前屋篤兵衛、〈御扇子料〉同二枚 大津屋新助、〈同〉金一両〈篤兵衛手代〉肥前屋十兵衛、〈御酒料〉白銀五十枚〈摂州神戸〉俵屋利三郎、同五十枚、〈同二つ茶台〉木屋藤左衛門。

八月廿日於大阪、御蔵屋敷・大阪御舘入・神戸其外船掛り口入迄御料理下され候事。

                   ​酒井左衛門尉家来留守居​​        関茂太夫​​ ​

右之者儀、去子十一月朔日、主人領分替被仰付候上は、歎願致迚相戻り候筋は無之処、主家の為めと存じ迷ひ、一己の取斗ひを以て、元御側衆水野美濃守家来西川滝之進其外へも歎願いたし候段、聢と音物等相贈候儀は無之共、右始末不埓につき、押込申付け候。

                         ​同人家来郡代役​​  石川権兵衛​​ ​

右之者儀、主人領分替於在所表、同役共領内の者へ申渡し候処、領主の離別を歎き、去る子十一月已来、追々百姓共御当地へ出で、重き御役人方へ御駕訴致し、主人方へ引渡しに相成、在所表へ差出候者有之、不便に存じ候迚、自分心得を以て、聊かながら手当金差遣し候段、既に外百姓共賞美受け候儀と心得違ひ致し、尚又駕訴致し候仕儀に至り候段、麁忽の取計ひ、右始末不埒につき押込申付け候。

  八月十二日

 右矢部左近将監宅に於て申渡。

  以上庄内大坂蔵屋敷ゟ、右館入上田三郎右衛門が借り得て写せる所也。

、先達て庄内の沙汰申上候。全く実説と被存候、漸く右所替止み候に付、相分り申候。先達ての儀も申出候風説申触す訳も有之候。此節川越不取沙汰にて、誠に大和守様にも面目無之次第也。

オープンアクセス NDLJP:115、大和守様御家来小熊小仲太・鈴木宗蔵其外八人計り、四月朔日立にて川越ゟ庄内へ罷越し、何角の取調に罷下り候由。此人々庄内家中の内、両三人并当時浪人者、御領分高持百姓の内、数多大和守様方に相成り、右役人へ□を以て附従ひ、江戸表へも罷越、大和守様へ入込み、或は家来になりし者も有之。大和守様引移の上にて、何れも夫々に役付度き趣を願ひ、追従致し、金子五百金も差上げ、御紋付をも拝領せし者も有之候由。多くの農商何れも一統に信義を尽せる中にも、又斯様なる不埒者も有之故、此者共は追つて取締の上、欠所・追放等相成候由に承り申候。是迄にも庄内の悪説を申触し候も、川越の不評言語に絶したる事故、是を妨げんとて、一是等の悪徒等川越の役人共と申合せて、跡形もなき事を事々しく言触せし者なるべし。酒井家の由緒歎願の趣、悉く道理に当り、領中一統の愁訴投身命の鉄石心、天下の人をして大いに感動せしむるに至ること、全く数代仁政を施し、民を撫育せられしに、当侯又至りて仁君なる事顕然たる事也。又川越の不評なることは、言語同断なることなり。

右庄内の一件の如きは、神君世を知召してより、元和已来、天下に無類の事にして、酒井家代々仁政を施せし積善顕れ、当侯の仁慈諸人の知る所なり。此故に国人幼子の慈母を慕ふが如くなるに至る。実に諸侯の亀鑑となるべき事なり。

     牧野備前守様御所替に付、在江戸御家中へ被遣候書付之写

此度所替仰せ蒙り難有き事に候。乍去宝性院殿御武功を以て、拝領以来二百廿四年苦楽を共に致し候地所、自分代に至り他所へ引移り候条悲歎の至り、家中の者共同様に可之、殊に銘々先祖よりの墓所に離れ、其外万事幾許の哀愁深く察入り痛心の事に候。然れ共公命に依つては水火をも辞すべからざる家柄の儀、殊更大家の跡へ移転命蒙り候はゞ難有可存之処、万一不心得之眼中唱へ、又は不慎の次第等有之候ては、公儀に対し恐れ多く、家に対し不孝之事に候。唯々勝手向差支の時節、当惑之至りに候得共、含も有之候間、一統艱難を忍び平穏其事に引移相済し、家中風説の外聞宜しき様致し方也□心掛け候儀、第一之誠忠に候条、急々末々の者オープンアクセス NDLJP:116迄希ふ所に候。猶自分心中委細頼母へ申含め、不遠差し下し候。

〈牧野侯は先年より京都諸司代を勤め、仙洞様御崩御等の御大礼等を相勧め、過分の物入等これありし事は、諸人の能く知れる所にして、勝手向の困窮なるは左もあるべき事に覚ゆ。所替の入用、京都町人を頼みて手当せられしが、其事止みし故、之を断られしと云ふ噂なりし。 〉

     乍恐以書付御歎願奉申上

庄内百姓歎願書酒井左衛門尉領分、羽州庄内田川・飽海両郡十八ヶ村百姓総代三十三人の者共、一同奉申上候。去る子年十一月中領主所替仰せ蒙られ候趣承知仕り、一同驚入り奉り悲歎愁傷に堪ず罷在候。元来当御領主の儀は、二百二十ヶ年已前御出国、初めて鶴ヶ岡御再興有之候程の儀と承知仕り候。元来右両郡之儀は、湿地多□□にて、最上川其外川々数多有之、荒地同様にて全く御高丈け無之程の場所、多年御丹誠遣され御手元御入用にて、右川々屈曲水吐等宜しらざる場所は、夫々堀割或は海辺へ切落し、種々御手入在らせられ、水損等の災害無之様罷成、其上追々新田畑開墾等遊され、近年御高並に罷成り候趣、然る処往古より変難有之候年柄は、莫大の御高恩を蒙り領内の者共一同安堵に相続仕り、就中近年に相成り、去る巳年当領の儀は、前代未聞の大凶作にて、餓死にも可及候処、領主役場に於て、総家中へ格外の省略仰付られ、右余米を以て領内百姓共へ御救被成下、其上精力衰へざる様にとの御趣意を以て、鮭塩引・鰹節等迄、村々家々人別にて下し置かれ、在町の分は日日米穀御手当又は拝借等仰付けられ、諸国より米穀莫大に御買ひ入れ、御撫育被成下候に付、孤独の者に至る迄餓死仕らず候段、誠に以て広大無辺の御恩沢、重々難有一同感涙を流し、右御高恩九牛の一毛も奉報度く心掛け、農業出精罷在候へ共、兎角連年凶作相続き、別して去る申年迄は当領内冷気強く、村々諸作共皆無にて、必至ひしと難渋至極仕り凌ぎ方尽き果て、如何とも取続ぐべき手段無之、此上は乍恐御領主様にも如何可成下哉に奉存候訳は、当御領主様御代に相成り、京都御名代再度迄御勤め遊され、其上御役向にて御物入多く、内連年の凶作、其度に百姓共御扱ひ方に付、莫大の御借財遊され候由に御座候へ共、猶又役場に於て、諸国身元宜しき者共より、金銀御借入被成下候て、又々巳年同様夫々御手当被成下、其オープンアクセス NDLJP:117上前々ゟ拝借之米穀金銀は、残らず被下切に被成下置、御年貢は格別の御宥免、不足の御取立に相成候に付、領内の者共一同無借同様に罷成り、猶又極く困窮の者共へは、別段の御救米銭被下置、其外古着類・夜具等に至る迄御恵み被下置候段、誠に以て莫大の御仁徳、言語・筆紙に難申上、誠に難有仕合奉存候、此上は百姓共之丹誠を抽でて農業相励み、粉骨砕身の余情を以て、聊かづつも返納済銭仕り、少しは御恩徳奉報度、一同昼夜心掛罷在候処、此段存寄らず所替仰せ蒙られ候に付、領内百姓共闇夜に灯火を失ひ、赤子の母に放れ候如く、老幼男女共一同悲歎に堪へず、昼夜飲食も仕らざる程に愁傷仕り罷在候。右奉申上候通り、御恩君に奉離候儀何とも難忍、領内百姓共精進潔斎仕り、銘々居村の鎮守氏神は申すに及ばず、領内霊山・霊社・仏閣へ祈誓をかけ、只管御領主様御永城在らせられ度く願ひ奉り、各々手の舞ひ足の踏む所も覚え申さず、愁側仕り候折柄、領主よりは御歎願等の儀は決して難相成旨、領内一同へ厳重に被仰渡御取締にて、厳しき所をも奉犯、去る子年十一月下旬嶮岨の深山雪中を潜り、漸く出府仕候処、領主屋敷にて御差留に相成り、厳重の御手当にて空しく国許へ御差下に相成り、其上慎み被仰付、猶又御境目口々には役人を増して差置かれ、歎願等心得違ひの者共は、厳密の御調にて御取締に御座候へ共、如何にも心外不止事、同十二月下旬より当丑二月迄に、四ヶ度忍び出でて江戸表へ罷登り、御役方様へ縋り愁訴奉申上候処、御取上は無之候へ共、御理解被仰諭、領主屋敷へ御引渡に相成候ては、空しく御国許へ御差下に相成候得共、前々申上げ奉り候通り、御恩君に離れ奉り候儀、各々一命に懸け忍び難く、御領内の者共一同申合せ、所々の広場々々へ二三万人又は三四万人、或は五六万人づつ追ひ数ケ所へ相集り、幸ひ此節御領主様御在城被遊候儀に付、向後御参府の儀御差留め申上奉るべき旨にて、何卒御永城被成下、領内一同の百姓共御撫育被成下、安堵之思ひ仕候様只管御歎願申上げ奉り候得共、更に御取上げ無之、且此時節柄大勢打ち寄り候ては、一揆の姿に相聞え、公儀様に対し奉り済され難き旨、厳重に仰付られ、御察し計りの段一同恐入り奉り、深く慎み候へ共、兎角一日片時も忍び難く、止む事を得ず御領主様御参府遊され候儀、組々村々密々申合オープンアクセス NDLJP:118せ、嶮岨の深山幽谷を数日野宿仕り、度々出府の上重き御役方様御駕に縋り、愁訴奉申上候得共、是又御取上無之、一同歎かはしく弥々以て悲歎に沈み、夫々伊勢参宮を初め、諸国の名山諸州の神社・仏閣より、霊山・霊社の諸寺院代拝相立て、参籠祈祷・修法等怠りなく執行仕り候儀に付、定めて諸天神明の霊験可有御座候と一筋に願ひ上奉り候処、未だ御永城之被仰出も無之候は、時至り申さず哉、是迄都合七ケ度の歎願も空しく罷り成り候上は、最早や外に縋り奉るべき方無之候と、深く恐入り奉り候得共、水戸様御城内へ罷越し御歎願申上げ奉り候処、色々御教訓被成下候得共、御取上無之候に付、愚昧の百姓共弁へもなく様々手配勘定仕り、然る上は御隣国様方へ御愁訴奉申上候ゟ外有之間敷事に奉存、極く密々夜中人跡無之山々谷々樹蔭より、追々五十人宛落合ひ、都合三百余人に罷成候て、仙台様御領分尿前御番所へ差かゝり候処、御差留に相成り御糺の上、段々御調を蒙り候につき、私共御領主様所替の儀につき、御歎願申上げ奉り候段有体申上候処、如此大勢にて騒ぎ立て、如何敷く相聞え却て御領主の御為筋と相成間敷くと、厚く御教訓成し下され候へ共、乍恐押し返し深く御歎願奉申上候処願書は御預り成し下され、右人数の内五人は江戸表へ御伺ひの上御沙汰有之候迄と、御残に相成り、あと三百余人皆国元へ罷帰候様にと厚く御諭を蒙り候に付帰村仕り候。猶又会津様御儀は、御同席様にも在らせられ候様奉承知候に付、是又御歎願奉申上候処、前条同様の御理解にて御内々仰せ含められ候者、水戸様・仙台様御方へ御問答の上、猶又御同席中様へ御内談在らせらるべく候趣御諭を蒙り、難有帰国仕り罷在候処、此節に至り川越より御役人方御引移りの由、中には御家内御召連にて御出での方有之候趣承り及び候。其上江戸表よりの御飛脚御模様承り候処、弥々日限御催促等在らせられ候由承知仕り候て、国中一同の人気猶々騒ぎ立ち、荒々敷く罷成り、愚痴文盲の百姓共此上如何の儀相働可申哉も難計奉存候。乍恐当御代御治世より二百五十余年以来御静謐に相治り候御世、此庄内より如何之次第出来可仕哉、右に付ては尚御屋形様へ縋り奉申上、歎願御取扱奉願上候より外御座なくと存じ、先頃中より三ヶ度迄も罷出候へ共、山々・谷々打越し候内、領主役人方に見咎められ御差留に相オープンアクセス NDLJP:119成り、其上度々御取締を犯し奉り候儀に付、津々・浦々漁船迄も御差留に相成り候得共、人力の一心不止事、此度押して罷出、乍恐領内百姓為総代、私共斗り御国許へ推参仕り候。何卒格別の御憐愍を以て、尚領主御永城成らせられ、領内百姓共一同永く安堵に相続き仕候様、御慈悲御仁恵の御取扱被成下置候はゞ、国中一同御仁恵之段、生々世々忘却仕る間敷、難有仕合奉存候。偏に御救助の御憐愍、一同伏して奉願上候以上。

  天保十二丑年六月         ​酒井左衛門尉領分​​   羽州庄内田川飽海両郡百姓惣代​​ ​

                         菅野村 永蔵

                          外三十二人

     久保田御領主様

右書面丑六月廿二日、佐竹侯於御領分御川狩に御出張の処へ願ひ出で候に付、川狩延引、直に御城内へ御引取り御評定の上、七月二日於江戸、御屋敷留主居田代新左衛門取扱ひ、公辺へ進達、同十二日願済に相成。
 此書面天保十四癸卯年三月廿一日江戸住人

 
 
 

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