法隆寺古今目録抜萃
法隆寺者推古天皇即位十五年〈丁卯〉歳聖徳太子卅五之御建立御本尊者奉為橘豊日天皇造営金銅薬師三尊之霊像也有数寺号所謂
法隆学問寺 聖国寺 七徳寺 来立寺 法龍寺 鳥路寺 往生所寺
以上七寺号此外又觴里故云鵤寺云鵤僧寺云々上宮王院者太子御住所故名上宮王院〈見二巻伝即鵤宮也〉
太子御影但於此有多義但当寺相伝者唐本御影也唐人為結縁申詣御前其人前為彼応現給而間書二複一本留日本一本持帰故云唐本御影聖人云非唐人百済阿佐之前現給形云々摂政関白〈兼経岡屋殿〉宣更非他国之縁日本人装束其昔皆如此也
太子御誕生者有壬辰癸巳甲午三説但多紛者壬辰説也付之法隆寺金堂釈迦光銘相違次太子御入滅有三説四十九満五十五十一也但四十九者依阿佐佐礼言四十九歳也云々次満五十是流布説也壬長誕生至辛巳歳御入滅与癸巳御誕生壬午歳入滅也此二説共有相違也先説者違釈迦光銘後説者違阿佐佐言次五十一者依壬辰誕生壬午入滅之義此又相違多也此中癸巳誕生壬午入滅者満五十也以之為正説付此義守屋合戦并用明天皇御入滅者太子十五歳丁未歳也是併任光銘文岡寺露盤銘文然者法隆寺御生年卅五〈丁卯〉即推古天皇十五年令建立給也阿佐伝灯演説四十九歳者第二年南無仏已後也総上件年代違二巻伝然而敏達天皇即位第二年御誕生得意次第次第御年当年代更無相違任金堂釈迦光銘文云誕生癸巳敏達二年御入滅満五十壬午者用明元年者太子御生年十三歳乙巳也次歳合戦并用明入滅者丙午歳也
物部大臣 蝦夷大臣二男也此大臣之祖母守屋大臣妹也故云物部父方蘇我氏也此加前者蘇我大臣六人也
太子黒駒者中宮寺前理塚名駒廟今藤福寺也
太子伝目録 松子伝云〈一巻伝〉菩薩僧一巻〈生生事注〉平氏伝〈各二巻伝〉障子伝〈絵料〉補闕伝一巻本願縁起御手印緑起十二巻伝〈在宇治宝蔵〉本園記百巻之内六巻云々大唐七代記文元興寺緑起上宮聖徳太子伝等抄之或密注秘文等也年代記等
御生年廿四乙卯歳慧慈法師法華経中此句間落一字宣云々此事二巻伝不見何字然而有云序品日月灯明仏有八王子等文中此有之一字妹子将来経有之故指供養於世尊為求無上慧之二句此非一字故此事能々可思云々但薬王品二句之事不胸臆或抄物之子定海常毎見此伝暦落字不審不息爰去年冬十月十五日有人談曰叡山静闍梨往年相語云我昔以有事縁遠至西海彼之間転読為勤而有遠商授与細字法華経一帖曰予為交関方物向于高麗国彼国之王寺伝授斯経曰弘法在意為備流布云々其経薬王品中勤行大精進捨所愛之身半偈下有二句之文云々定海従聴斯語身心無聊常自念言慧慈高麗人也受太子之開示早還本土今従彼国所伝経中新有二文句者疑是慧慈帰国之後以太子之金言流布彼国歟為散矇味鎮祈此事遂以今年二月廿四日適届静闍梨之処尋得彼経二句之文所謂供養於世尊為求無上慧是也加之闍梨語曰往年経廻鎮府之日有一上人奉持法華披見其経薬王品中捨処愛之身偈下更以朱字書此二句又以朱書勘注云両岳大師令伝受天台大師之時有此二句云云定海如此視聴事已忽詣斑鳩上宮王院宝蔵開検妹子請来経無有【 NDLJP:133】当子斯時亦自念言太子所将来経空以飛去世無流布本之故今人不知其文聴此静公一言按彼太子之伝暦南岳慧思大師者太子前身也六生子衡山之嶺世世修無上道事是浮華難取真実然不求信受他人為散暗味于已意而己子時永久四年丙丙三月六日〈庚子〉浪迹沙門釈定海染筆記之当于太子滅後四百九十箇年矣永久四年〈丙申〉七月廿二日書了僧覚春件上人始相談給時随喜写之云云今按此事此旨又殊勝也然則依二巻之伝落一字之説者序品有八王子之中有字歟依定海之伝落二句之説者二巻伝落一字誤旨也二義取捨後聖悉之耳云々後冷泉院御時天喜二年甲午九月在誑惑聖其名云思禅入太子御廟崛現不思議作法爰時人疑太子御舎利破損之分為令注進勅宣申下以法隆寺三綱康仁令蒙入御廟門即康仁奉拝見御棺一御棺有頭骨髑髏一計余更無者或云三御棺中東御棺中在御身只御容儀如存日之時床上寝給薫異香廟中如心中月晴爰住随喜思弥感涙難押云々已上二説中後説正説云々即康仁覆袖面目気下詠曰
あるや君なきやひならむ玉くしけおほつかなさにぬるゝ袖かな
即以此由奏帝王聞食在御感以此康仁被任官符寺主 又康仁歌云〈又云院御尋云々〉
やつみゝの君にとひけむしつせ本マヽのゆかり 人こそしらはしるらめ
即従其時以来弥以康仁子孫為法隆寺重代相伝所司今此仏子顕真康仁八代苗裔也但今者絶件子孫更以無人或又土佐院中院御時元久年中太子御廟寺之僧浄戒顕光二人構誰惑入廟中盗取太子御牙歯遊行于世界或売買或勧物人云々此僧二人者本当麻之住□也後移住太子随東大寺勧進上人南無阿弥陀仏俊乗房即以此歯奉納于身内奉造十一面観音伊賀国造大伽藍名新大仏云々其浄戒顕光云太子実如容儀存日如眼床上云云然則先康仁寺主説今浄戒顕光言同無異義以知太子住金身体御事矣
写本云此挟紙書分者最初書写外不慮感得之間不移時日写畢
于時応永五年六月十日
御井寺〈又云三井〉法名法琳流寺記曰
右寺斯奉為小治田宮御宇天皇御代〈歳次壬午〉上宮太子起居不安于時太子願平此寺也所以高橋朝臣預寺事者膳三穂娘為太子妃矣太子薨後以妃為檀越今此高橋朝臣等三穂娘之苗裔也
時寛正四年〈癸未〉閏六月十三日書写畢 円祐之
右法隆寺古今目録抄抜萃元禄乙亥以専寺弥勒院蔵本抄之
明治三十四年十月校了 近藤圭造
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。