法典論 全



第一編  緒論

第一章 法典編纂の性質

 法律に実質及び形体の二元素あり、一国の法律は果して国利を興し民福を進むべき条規を具うるや否やの問題は、これ法律の実質問題なり、一国の法令は、果して簡明正確なる法文を成し、人民をして容易く権利義務の在る所を知らしむるに足るや否やの問題は、是れ法律の形体問題なり、法律の実質は善良なるも、若しその形体にして完美ならざれば、疑義百出、争訟止まず、酷吏は常に法を曲げ、奸民はしばしば法網を免るるの弊を生ぜん、法律の形体は完備せるも、若しその実質にして善良ならざれば、峻法酷律をして倍々その蠱毒を逞うせしむるの害あらん、ある人、実質美にして形体具わらざる法律を例えて、多病の才子となし、形体完備して実質善良ならざる法律を例えて、妖姿の毒婦となし、実質形体二つながら備わらざる法律を、不具の痴漢に比したり、蓋し実質は法律の精神なり、形体は法律の体躯なり、故に一国の法律をして金科玉条たらしめんとせば、実質形体共に備わらん事を立法者に求めざるべからざるなり。

 法典編纂とは、一国の法律を分科編制して公力ある法律書となすの事業を云う、或は既存の法令を整理編集して法典となす事あり、或は新設の法令を彙類編纂して、一篇の法典となす事あり、故に時としては法典編纂と法典編成との区別を立る学者ありと雖も、法学者の法典編纂論と称するものは、法律実質の良否を論ずるにあらずして、法典編纂の目的、方法、順序、体裁、文章、用語等の事を論究するものを云う、故に法典編纂論は、固より法律の形体論に属すべき者なりとす。法典編纂の事業は法律の形体に大変更をなすものなれば、立法者はこの機会を利して、法律の実質に大改正を加うる事少なからず、故に一国に法典編纂の挙あるに当たりては、往々旧制存廃の可否、新設条規の利害損得等の議論を生ずるものなり、然れども此の如き法律の実質問題は、むしろ政治論に属すべき者にして、純然たる法典編纂論に非らず、ただ之を法典編纂論の併発問題として観るべきのみ。

 実質は本なり、形体は末なり、然れども法律の外形は民権の消長に重大なる関係を有する事、殆ど法律の実質に劣らず、若し法律の文章用語にしてその意義明瞭ならざるか、またはその真意の理会し難きものある時は、人民は之に依りて己の権利を守り、之に拠りて己の義務を尽くすを得ず、在昔希臘(ギリシャ)にディオニシャス(Dionysius)と云える暴君あり、一の法令を発する毎に、これを数十丈の柱頭に懸け、人民をして之を読む能はざらしめて、以て無辜の良民を冤罪に陥れたるの伝説あり、立法者にして殊更に難文を草し、好んで奇語を用い、常人の之を理会する能わざるを意とせざる者は、ディオニシャスの徒たるを免るる能わざるなり、また羅馬(ローマ)に於て、十二銅表の法を制定する以前は、国法は概ね皆な不文法にして、独り貴族(Patricianus)のみ古法舊例の知識を専有し、平民(Plebeianus)の之を知るを許さず、貴族はまた平民の不知を利して、しばしば法律を濫用し、貴族の権威を拡張し、平民の権利を蹂躙せんとせしを以て、平民の不平常に絶えず、ついに内乱の端緒を啓き、平民は貴族に迫りて国法を銅表に銘じて、これを公市場に掲示せしむるに至れり、これを以って観れば、法律の明確なるは、人民の権利の一大保障たるや知るべきのみ、若し黔首を愚にし「民をして依らしむべし、知らしむ可らず」の古政策を採らば止む、苟も法治の新主義に則り「民をして知らしむべし拠らしむべし」となさば、法律の外形論は毫も忽にすべからざるの大問題と称すべきなり。


第二章  法典編纂論の沿革

 帰納的哲学の始祖は、また法典編纂の始祖なり、古来印度、支那、希臘(ギリシャ)、羅馬(ローマ)等の学者にして、たまたま法典の事に言及せし者ありと雖も、之を法理的に論述せし者は、蓋しベーコン氏(Lord Bacon)を以って嚆矢とす、同氏が英王ゼームス第一世(James I)に上れる「英國法典編纂の奏議」(Proposal to King James of a Digest to be made of the Laws of England)「英國法律修正按」(Proposal for amending the Laws of England)「法律淵源論」(Tractatus De Fontibus Juris)の三書は、皆な法律の形体論にして、今日に至る迄、採て以て法典編纂の原規となすべきもの少なからず、今ここに法律淵源論中の一節を摘載して、氏が法律の外形に重きを置きたる一班を示すべし。

 「法律の最高品位はその正確なるにあり、正確ならざるの法は公正なる法と称す可らず、鐘鼓若し不明の音を発すれば、誰か戦陣の規律を守る者あらんや、法令若し不明の声を発すれば、誰かその条規に遵う者あらんや、これ法は前に告て後に打たざる可からざる所以なり、古人曰く「最良の法律は、判官の裁量に最小の余地を存す」と、蓋し至言と称すべし、而してその能く之を致す者は、法文の正確なるにあるのみ」

 実利哲学の始祖ジェレミー,ベンサム(Jeremy Bentham)は、法典編纂論中興の祖とも称すべき人なり、現今欧米諸国に行はる、Codification(法典編纂)なる語は、同氏の鋳造する所に係ると云う、氏が法律の実質改良に畢生の力を尽せしは、世人の熟知する所なり、然るに晩年に至り、法律外形上の改良の必要なるを悟り、第十九世紀の始めに於て、盛んに法典編纂論を唱え、魯西亜(ロシア)帝アレキサンダル(Alexander I)、合衆国の大統領マヂソン氏(Madison)に書を呈して、法典編纂の事業を委託せられんことを請い、またしばしば各国の政府に書を贈りて、法典編纂の必要性を説き、自ら進んでその任に当らんことを求め、且つ法典編纂に関する書十有余巻を著はせり、後にも記す如く、氏が諸外国になしたる法典起草の請求は、悉く謝絶せられたりと雖も、その学説は、近世諸国法典編纂事業の発動機たりしは、人の認知する所なり。

 近世法典編纂論に於て、最も有名なる者は、チボー(Thibaut)サビーニ(Savigny)両氏の法典編纂争議なり、第十九世紀の始めに当たり、独乙(ドイツ)国は佛(フランス)帝ナポレオン(Napoleon)の為に蹂躙せられ、殆どその自由を失わんとせしが、一千八百十四年に至り、始めて佛国(フランス)の覊絆を脱するを得たり、ここに於て、従来外国の侵略を受けたる反動として、国家的思想大に勃興し、日耳曼民族(ジャーマン民族)一致団結して、独乙祖国の独立を維持せざる可からずとの感情は、日に月に人民の胸中にさかんなるに至れり、此時に当たり、「ハイデルベルグ」大学教授チボー氏は、「独乙国普通民法の必要」(Ueber die Nothwondigkeit eines Allgemeinen Buergerlichen Rechts fuer Deutschland)と題せる小冊子を著わし、独乙連邦諸国に通すべき民法を編纂するの必要を痛論せり、その説の要旨に曰く、今や独乙諸国は佛国の覊絆を脱して、新たにその自由を回復したりと雖も、国内龜柝して、群雄割拠の勢を為せり、これ実に国家危急存亡の秋なり、苟くも国民たる者は苟くも日耳曼人たる者は、大に国民的思想を発揚し、連邦諸国間の小異を棄て大同を採り、一致協同して佛国の餘勢を蕩掃し、以って独乙全国の独立を維持せざる可からず、而してその能く之を致す者は、独乙全国の普通民法編纂なり、独乙連邦の法律統一(Rechtseinheit)を為し各連邦人民をして同一の法律の下に棲息せしむるは独乙国の独立を鞏固にするの基礎なりと云うにあり、氏はまた曰く、

  余は信ず、我邦の民法は既に改定すべき時機に迫りたるを、余はまた信ず、独乙連邦の諸政府は、今にして各国の私を捨て、全国の公に徇い、一致協力して独乙国普通民法々典の編纂を成すにあらざれば、永く国民をして利福を稟けしむる能わざることを

チボー氏の法典編纂論は、たちまち全国の問題となり、その勢力殆んど世論を傾けたり、然るに当時「ベルリン」大学の教授たるサビーニ氏は、「立法及法學に關する現今の要務」(Vom Beruf unserer Zeit fuer Gesetzgebung Rechtswissenschaft)と題せる論文を著し、非法典編纂論を唱えて、大にチボー氏の論説を駁したり、その論の要領を摘記すれば、法律は固と人民の総意より生ずる発達物にして、立法者の私意に基く創製物に非らず、ゆえに法律の人民中に発達するは、恰も人文の開化と共に国語の発達するが如き者にして、立法者は濫りにその発達を妨げ、または擅に之を製作すべきものに非らず、加之、現今独乙国に於ては、法学未だ発達せず、法律上の観念を精確に言い表すべき言語、また未だ完備せざるを以て、独乙諸国民権の基礎たる法典を編纂するは、その時機未だ熟せざるものと謂うべし、然れども今若し新たに佛国の覊絆を脱したる諸国にして、曩きに継受したる佛国法典を廃するの必要あるものは、その法典を廃して、更に従来の普通法及び各国法を回復し、而して立法事業は、政治的諸法律を除くの外は、暫く時の必要に随い、或は単行法を設け、或は疑点を確定するに止まるべし、また普魯西(プロシア)、墺多利(オーストリア)の如き、既に法典を有する国に於ては、大に歴史的法律学研究を奨励して、独乙普通法と独乙各国法との関係を調和するを力めざるべからず、若し独乙普通法と独乙各国法との歴史的研究にして進歩するときは、自然に独乙各国の法律学上の一致を来たし、ついに連邦諸国の法律を統一するの地を成すにいたるべしと言うにあり、この小冊子は、素と時事論の為に立案せるものなれども、サビーニ氏が始めて歴史派法学の主義を発達せし者にして、法学史の一大時期を成せるものなり、而して氏の謂わゆる法律学の振興、法律思想の普及は、法典編纂に欠く可らざる準備たるは、ついに世論の是認する所となり、独乙諸国は、為に法律学の振興を力むるに至れり、その後独乙国の法律は、実に著しき進歩を為し、且つ「関税同盟」(Zollverein)の設立、独佛戦争の如き事件は、倍々法律の統一を促したるを以って、為替法、商法、憲法、刑法、治罪法、訴訟法、裁判所構成法等の諸法典は、追次完成し、遂に一千八百七十四年に至り、六十年以前にチボー氏の熱心に主張せる、全国普通民法の編纂に着手するに至れり、蓋しチボー氏は、独乙諸国の連合独立の基礎は、法律の統一に在るを信ずるの余り、法典編纂の奏功を期するの急激に失し、サビーニ氏は歴史法学上、法律は国情民俗の反照たるを信ずるの余り、不文法に重きを置くに過ぎ、両氏共に中正を得る能はざりしと雖も、恰も遠心求心の二力、互に相引きて惑星の軌道を生ずるが如く、チボー、サビーニ両氏の勢力互に相制し、一方にありては、法学を振興して、法律思想の普及、及び法律語の完備を力めたるが為に法典の準備漸く完きに至り、また一方に在りては、頻りに普通民法法典を促がしたるが為に、遂に之を実行するに至り、両氏の意見は今や共に始めて貫徹するを得たり、於是乎両氏の霊、始めて地下に瞑すと謂うべきなり。


第三章  法律家と法典編纂

 法典編纂は固より政府の挙行すべき事業たりと雖も、その国の法律家全体の翼賛を得るに非ざれば、容易にその功を奏する能わざる者なり、蓋し一国の法律思想未だ進歩せず、国民中、また未だ法律家と称する一団の種族を生せざる時に於ては、固より法律家の賛助を得るの必要存することなしと雖も、その既に法律学を振興し、学者、裁判官、代言人等の増加する国に於ては、謂わゆる法律族(Juristenstand)なる者民間に起りて、その国の立法司法の業に対し隠然勢力を有するに至るものなり、ゆえに法典編纂の業の如きは、法典発布の後、之れが実地に任ずべき裁判官、代言人、及び之れが注解批評に従事せんとする法学者等に於て、之を不可とする時は、その編纂の成り難きや、敢て論を待たざる所なり。

 独乙国に於ては、チボー、サビーニ両氏の争議がありてより、法典編纂の可否に関して、法律家は二派に分かれ、互に論争せしが、一千八百六十年に至り、独乙諸国の法学者は、法曹協会(ユリステンターク/Juristentag)なるものを設立し、毎年一回独乙連邦中の一都府に於て会合せんことを期し、独乙諸国の法律統一を実行するの方法を講ずるを以って、その目的の一とせり、同年第一回会議を伯林府(ベルリン)に於て開きたる時に墺多利(オーストリア)の博士ウンゲル氏(Unger)は、独乙諸国の普通民法制定の第一着歩として、債権篇(Obligationenrecht)を編纂するの必要なる事、及び同会は委員を派して、各邦政府に建議する事の二箇条を発議せしが、博士フオン,ヴェヒテル氏(Von Waechter)は、左の如き修正案を提出せり、

  「本会は、独乙普通民法編纂の時期已にその必要に迫りたるを認め、切に之れが編纂を希望す、然れども、若し現今未だ直ちに之を実行する能わざる事情ありとせば、債権篇のみの編纂あらんことを希望す」

右の修正案は、遂に同会の採用する所となれり、その後毎年の会議に於て、ブルンチュリ(Bluntschli)等を始め、有名なる法律家は、独乙法律を統一するの策を講じ、しばしばその意見を提出したるを以って、独乙帝国政府は全国法律家の賛助を得て、刑法、治罪法、訴訟法及び民法の編纂を成功するを得たり、蓋し法曹協会は、独乙国の法律編纂に与りて大に力ありと称すべし。

 英国に於ては、ベンサム氏始めて法律改良(Law Reform)を主唱せし以来、改進主義の政治家及び一般人民の法典編纂請求の叫呼は、日を追て高声となるに係らず、法律家は之れに対して却て冷淡なる感情を懐くものの如し、政治家及び公衆が頻りに法典編纂を促がす所以のものは、英国の法律は数万の判決例、数千の単行法、複雑積累して、法律専攻の士と雖も、容易に之を知る能わざるを憂うればなり、法律家が之れに対して冷淡なるは、種々の理由ありと雖も、要するに或は単行法は法典に優るを確信して、法典編纂を非とし、或はその事業の困難なるを熟知して、容易に口を開かず、或は懶惰にして、法律改良の事に思考を費やさず、また或は法律の錯雑なるは、却て法律家に利益ありと誤信するに由る、而して特に熱心に法典編纂を主張せし者は、ただスチーブン氏(Sir James Fitzjames Stephen)ホルランド氏(Holland)その他少数の法律家ありしのみ、近頃に至り、法典編纂の必要を唱うる者、漸く多きを加えたりと雖も、法律家全体の熱心なる賛助を得ざるを以って、未だ法典編纂の事業を為すに達せざるものの如し。

 我邦現今の法典編纂事業は、明治九年九月元老院に勅して訴訟法を起草せしめたるに始まる、続て明治十年司法省中に刑法編纂及び民法編纂の二課を置きて、二法の編纂に従事せしめ、十二月更に治罪法取調掛を設けたり、明治十三年に至り刑法、治罪法の二法典を完成して之を公布せり、同年また民法編纂局を設け、司法卿大木喬任氏を以て局長となし、佛人ボアソナード氏(Boissonade)をして之を起草せしむ、十九年、遂に財産篇、収得篇を脱稿せり、同年政府は民法編纂局を廃し、更に法律取調委員を置き、編纂事業を継続せしめたり、而して前の民法財産篇及び収得篇は、一旦元老院の議に付せられしも、都合により再び内閣に引戻し、之を法律取調委員に下付されたり、委員は非常の勉励を以て、日夜編纂に従事し、遂に明治二十二年に至り、草案の全部を脱稿せりと云う、また商法の編纂は、明治十四年に商法編纂局を置くに始まり、寺島宗則氏之が長となり、独乙人リョースレル氏(Roesler)をして之を起案せしめたり、然るに明治二十年廃局となるに及び、法律取調局は、その草案を引継ぎたり、訴訟法は明治十七年さらに訴訟法編纂局を置き玉乃世履氏、三好退蔵氏相継いで之が長になり、独乙人テヒョー氏(Techow)その草案を起草す、而して是れまた法律取調局の引継ぐ所となれり、法律取調委員は、草案の取調を了りて、之を内閣に呈し、内閣は直ちに元老院に回付して、之を議定せしめたり、ここに於て民法、商法、及び裁判所構成法の四法典は、明治二十二年中に発布せらるべしとは、既に「公けの秘密」に属したり、法学士会は、すなわち春季の総会に於て、全会一致の決議を以て、法典編纂に関する意見書を発する事、及び委員を派して、同会の意見を内閣諸大臣、及び枢密院議長等に開陳する事の二ヶ条を議決せり。

 右の決議により、法学士会の発したる意見書は右の如し、

法典編纂ニ關スル法學士ノ意見

  法典編纂ノ大事業タル固ヨリ論ナキノミ、歐州ニ在テモ独國英國ノ如キハ夙ニ負望ノ士ニ托シテ之レカ編纂ニ従事セシメ、勉勵幾歳月ヲ費消シ、稿ヲ更ムルコト又数次、而シテ尚ホ且未タ公然発布スルニ至ラス、其事業困難ニシテ慎重ヲ要スルト知ルヘキ也、然ルニ聞ク所ニヨレハ、政府ハ法典編纂ノ奏功ヲ期月ノ間ニ促スノミナラス、続テ其成稿ヲ発布セラレントスト、是レ豈ニ急激ニ失シ、至難ノ事業ニ處スル道ニ非サルナキヲ得ンヤ、我々漫ニ其事業ノ困難ヲ恐レテ、之ヲ放擲セシメンコトヲ望ムニ非ス、然レドモ法律學ノ発達、明法ノ士ノ輩出ニ於テ、我邦ノ遠ク及ハサル、彼英獨諸国ニ於テスラ容易ニ成シ得サルコトヲ視レハ、法律編纂ノ速成ヲ期セラルルハ、国家ノ為ニ畏懼セザルヲ得ス。

  法典編纂ノ可否ニ付テハ、歐米法學者ノ議論區々ニシテ、今日ニ至ルモ、未ダ一定シタリト謂フ可カラズ、元来法律ハ社会ノ進歩ニ伴フ可キ者ナルニ、一旦法典ヲ定ムルコトハ、他日缺遺ヲ發見シ、不便ヲ感スルコトアルモ、輙ク之ニ變更ヲ加フ可カラス、缺アレバ即チ之を補ヒ、弊アレバ即チ之ヲ矯ム可シトハ、席上ノ論ニシテ、法典ノ下ニ立ツ國民ノ容易ニ実行シ能ハサルコトタルハ、事実ニ照シテ明カナリ、又法律ハ、之ヲ遵奉スヘキ國民ノ必要ニ隨テ起ルヘキモノナルニ、法典ヲ編集スルニ当テハ、朝令暮改ヲ避ケ、後來社会ノ變遷ヲ豫想シテ、之レニ備ヘンコトヲ期スルガ故ニ、其必要未タ生セザルニ先ンシテ法條ヲ設ケ、國民ヲシテ遵守ニ苦マシムルコトナシトセス、是レ學者ガ容易ニ法典編纂ヲ可トセザル所以ナリ。

  夫レ歐州諸國ニ於テ、所謂法典編纂ナル者ハ專ラ既存ノ法例ヲ編輯スルノ義ニ過ギズ、假令變改スル所アルモ、亦只舊慣故法ヲ修正加除スルニ止マル、然ルニ我邦ノ法典編纂ハ、之ト異ニシテ、專ラ歐州制度ヲ模範トスル者ナレバ、舊慣故法ヲ參酌スルコト、殆ンド有名無実ニシテ、要スルニ其大躰ハ新規ノ制定ナルヲ以テ、彼我編集ノ難易得失、決シテ同日ノ談ニ非ラザルナリ、且聞ク商法訴訟法ハ、独乙人某々氏ノ原按ニシテ、民法ハ佛國人某氏ノ原按ナリト、我々固ヨリ邦ノ異同ニヨリ是非ノ評ヲナスニアラス、唯恐ルル所ハ此數氏ノ間ニ於テ、充分ノ協議ナキカ爲メ、彼此互ニ牴觸ヲ來スノミナラス、其學派亦異ナルカ爲ニ、法典全部ニ對スル主義ノ貫通セサルニ在リ。

  政府カ法典編纂委員ヲ設ケテ、法律取調ニ從事セシメラルルハ、我々ノ非議スル所ニ非ラス、唯其成功發布ヲ急ニセサランコトヲ希望スルナリ、惟フニ我邦社会ハ、封建ノ舊制ヲ脱シ百事改進ノ際ニシテ變遷極リナキカ故ニ、今例規習慣ヲ按シテ法典ヲ大成セントセハ、封建ノ舊制ニ依ル可カラス、又專ラ歐米ノ制度ニ則ル可カラス、其事業実ニ困難ニシテ、強テ之ヲ遂クル時ハ、民俗ニ背馳シ、人民ヲシテ法律ノ煩雑ニ苦シマシムルノ惧アリ、故ニ今日ニ於テハ、必要不可缺所ノ者ニ限リ、單行法律ヲ以テ之ヲ規定シ、法典全部ノ完成ハ、暫ク民俗風俗ノ定マルヲ俟ツニ若カサルナリ、葢一國ノ法典ヲ草スルハ、固ヨリ教科書論文ヲ著スト同シカラス、躰裁美、論理精ナリト雖モ民情風俗ニ適セサレハ、之ヲ善法ト謂フ可カラス、故ニ法典ヲシテ圓滑ニ行ハレシメント欲セハ、須ラク草案ノ儘ニテ之ヲ公ケニシ、假スニ歳月ヲ以テシテ廣ク公衆ノ批評ヲ徴シ、徐ロニ修正ヲ加ヘテ完成ヲキスヘキナリ。

 明治二十二年五月                   法學士會

右の意見書は、内外の諸新聞に登載せられ、法典編纂の可否に関して、大に世間の注意を促したり、然れども、我邦の人民は、既に久しく専制の治に慣れ法律は政府が人民を支配する具なりとの感想は、人民の脳中に浸染し、法律は自己の権利義務を確定するものなりとの感情は、未だ甚だ鋭敏ならざるを以って、法律を制定するは、政府の事業のみ、人民敢えて之に容喙すべきものにあらず、法典編纂の可否を論ずるは法律家の職務のみ、人民はかつてその利害に関せざるなりとなし、政治家を以って自ら任ずる者と雖も、法典編纂の事業に対しては、潜思熟考の労を採りし者甚だ少なし、是れ蓋し我邦の人民未だ法律生活の経験に富まず、自己の利害得失と法律との関係を明らかにせざるに由るなり。

 法学士会の意見書によれば、同会は絶対的に法典編纂を非とするにあらず、ただ法典編纂は最も慎重を要すべきものなるを以って、政府がその編纂の速成を期することなきを希望し、また我邦現今の如く、百事更新の時に際し、必要未だ生せざるの法条を設くる弊を述べ、今日に於ては、必要欠く可からざるものに限り、暫く単行法によりて之を規定し、法典全部の完成は民情風俗の定まるのを待ち予め草案を公けにして博く批評を徴し、徐ろに修正を加え、以ってその大成を期すべしと言うに在り、その説の可否は、暫く措き、法学士会が我邦立法上の大事業に対して、意見を提出せしは、善く法律家が国家に対するの責務を尽したるものと称せざるを得ず。


第四章 非法典編纂論

 法典編纂の問題は、第十九世紀の始より法律家の戦場となり、法典編纂の利害得失に関しては、可否の争陣相対峙して、有名の学者互に鎬を削るに至れり、法典編纂を非とするの論は、之を分ちて左の二種と為すを得べし。

            第一 絶対的非法典論

            第二 関係的非法典論

絶対的非法典論は何れの国の何れの時に於ても、国法を法典に編纂するは国家の不利なりとするものなり、関係的非法典論は、強ち法典を拒斥する者にあらずと雖も、ある時代ある場所に於ては、法典の編纂を不可となすものなり、関係的非法典論は、国勢民情によりてその論旨を異にすべきものなりと雖も、絶対的非法典論は、時と所によりてその論旨を異にせざるなり、いまここに絶対的非法典論者の説の大要を列挙すべし。

第一  法典は社会の進歩に伴ふ能はず

 社会は進動的の有機体なり、法典は静止的の無機物なり、社会は日々に変遷進化するものなれども、法典の編纂一たび成れば法律の形体固結して、社会の変遷に応ずる能はず、ゆえに社会の進歩するに従いて、法律と社会との関係は倍々相遠ざかるに至る、蓋し慣習法は、恒に社会の需要に伴いて進化するを得べく、単行成文法も、また社会の進歩に連れて、容易に之を変更改正するを得べし、然れども法典はその首尾貫通し、その法規は条項を追うて連接するを以て、俄然その一部を改めんとすれば、すなわち影響を全典の構造に及ぼし、為めに既に不要に属せる法則あるも、全典を改むる迄は、依然として之を存し、増補修正を要する法条あるも、全部の秩序を乱すを惧れて之を改めざるが如きの弊を生ず、吾人若し試みに欧州大陸諸国の法典を観れば、その改正の困難なるが為に、社会と法律との間の離隔を生じたるの例、実に鮮少にあらざるを発見すべし。

 仏蘭西の法典は如何、佛国に於ては、法典の編纂ありてより殆ど将に一世紀ならんとす、その間佛国社会の変遷は、実に大にして、政体はしばしば変更し、社会の状態また大に改まりたりと雖も、独り法典のみは依然として旧態を存し、その改正を加えたる条項は、割合に少なきにあらずや、是れ法典の完備にして、能く社会の変遷に応ずるが故にあらず、ただ法典を改むるの困難なるによるものなり。

 普魯西の法典は如何、普魯西に於ては、一千七百九十四年より「普魯西普通国法」(Allgemeines Landrecht)を実施し、続けて「スタイン、ハルデンベルヒ」(Stein-Hardenberg)の改正あり、その後また国情の変遷等により、法典中改正を要するもの頗る多く、為めに一千八百十七年十一月三日の閣令を以て、法典改正事務局を置き、大臣バイメ氏(Von Beyme)を委員長となし、その後司法大臣ダンケルマン氏(Dankelmann)カムプツ氏(Kamptz)サビニー氏等相継で之が、長となり、置局後三十一年を経過してなお改正の事業を果たす能はず、一千八百四十八年に至り、ついに之を廃せり、フォルステル、エッチュス氏(Forster-Eccius)の「普魯西民法論」に云えるが如く、実に法典改正事務局が、三十一年間に為したる事業は、ただ現行法の批評に過ぎざりしなり、是れに依りて観れば、「法典は法律を結晶せしむるものなり」結晶体は光彩燦然として、その外観甚だ美なりと雖も、生育発達の活力を具うる事なし、「法典は法律の弾力を減殺するものなり」、法令一たび法典中に編入せらるる時は、たちまち社会の需要に伴いて伸縮するの力失うものなり。

 オースチン氏(Austin)は「法典は社会の進歩に伴う能はず」との論に答えて、裁判例等に基く不文法こそ却て古例旧慣を保続して、社会の進歩を障害するの弊ありと謂えり、非法典論者は之を氏が沿革法理に通せざるに起因するの謬見なりとし、曰く、裁判例によりて発達したる法律の如く能く社会の進歩に伴うものはあらず、およそ訴訟はその時代に存在する事件より起るものなるを以って社会に新事態の生ずる事ある時は、必らず新種の訴訟を生ずべきものなり、故に航海盛かんにして海事訴訟多く、会社営業行われて会社訴訟生ずるが如く、裁判所はただ現時の社会に発生する事物の審判のみを事とするを以って、その裁判例に基きたる審判法は、社会に先ちて進むことなく、また社会に後れて止まることなし、成文法は之に異なり、立法者は、或は社会の需要未だ発生せざるに先ちて新法を設くることあり、或は社会の需要既に去りて、なお旧法を存することあり、単行法すら、なお社会の進歩と共に消長する能わざるの病あり、いわんや法典の如き成形体に於てをや。

 英国の学士ヘロン氏(Heron)は、自著「法理学史」中に法典編纂を論じて曰く、「法典の編纂は、一国立法史の最終時期に至りて行はるるものなり、一国の富裕、知識、文化の進歩、なお速なるときに当りては、決して法典を編纂する能わざるは、自然の法則なるが如し、是れ他なし、法典編纂の事業は、以て社会の迅速なる進歩に追従する能はざればなり、故に若し一国にして完全なる法典を編纂するを得るに至れば、その国民の進歩は既に止まりたるの徴候なりと謂はざるを得ず、彼の羅馬(ローマ)帝ヂュスチニヤン(Justinianus)の法典、及び佛帝ナポレオンの法典の如きは即ちその適例なり、ヂュスチニヤン帝の法典成りてより、羅馬法の進歩、及び羅馬国の開化は、その発達を止め、ナポレオン法典成りてより、佛国の富源及び人口は、更に増殖せざりしは、あまねく人の知る所なり」と、ヘロン氏は僅かに一二国の法典編纂の事業を観て、法典編纂は社会の進歩を止むるものなりとし、恰も亡国の凶兆なるが如く論じ去ると雖も、是れ固より速了の見のみ、おもうに法典編纂の事業は、大に社会の利益を進捗する事あり、また時としては社会の進歩を阻害する事少なからず、必竟法典編纂の是非は、その国の状態によりて定まるべきのみ。

第二  法典は法律の全体を包括する能はず

 一国の法律を法典に編制すと雖もその法典は決して同種の法令の全体を含む能はず、前にも論ぜしが如く、法典は一たび之を編成せば、容易に変更し難きものなるを以って、時勢の変遷に従い、しばしば改正を要すべき性質の法律は之を法典に編入するを得ず、若し之を加うる時は、かえって弊害を生ずることあり、例えば破産法の如きは、狡猾なる負債者が、その破産を逃避すべき遁路を見出すごとに、改正を加うべきものにして、現に英国の如き守旧の国にして、容易に法令を変更するを好まざる風なるにも係わらず、破産法のみは、三四年ごとに之を修正するの必要あるにあらずや、若ししばしば法典中の条文を改正する時は、後日全典の秩序を乱し、為に人をしてその有効なる部分と無効なる部分とを識別する能はざらしむるに至るべし。

 細密の規定を要する法律は、法典中に編入する能はず、何となれば、若し細密なる条項をも、一々法典中に編入せば、法典は殊に浩澣複雑に渉り、為めに法典論者が認めて法典の長所とせる簡明確実等の特性を減殺するに至るべければなり。

 右に挙げたる非法典論の第二項は頗る有力の反対論なるを以って、独乙帝国民法編纂委員は、一千八百七十四年九月の委員会に於て議定したる「編纂規定」(Arbeitsplan)の第二条に、民法々典の範囲を予定し、版権、専売権、意匠権に関する諸法律、山林法、鉱山法、銀行法及び世襲財産法等は、単行法を以って規定し、之を法典中に編入せざる事を定めたり。

第三  法典は単行法の必要を止むる能はず  

 社会は千態万状の変化を為すものなれば、法典を発布したる後と雖も、新事物の発生するごとに、新法令の発布を要するは論を待たず、故にいずれの国に於ても、法典編纂の後、更に多数の単行法を発して、社会の新事物を規定し、或は直ちに法典を改修するの必要を感ずるに至るものなり、往昔羅馬のジュスチニヤン帝は既に法典(Codex)及び法規提案(Institutes)の編纂を卒りたる後、なお百五十四個の新勅令(Novellae Constitutiones)を発したり、現今法典を有する諸国に於ても、法典発布の後、なお無数の単行法を発布するは、あまねく人の知る所なり。

 第三の非法典論も、また一理なきにあらず、余は常置修正委員を論ずるに当たりて、この弊害に対する救正方案を論述すべし、

第四  法典は裁判例の必要を止むるものにあらず

 法典編纂は法律の解釈の必要を増すものなり、一篇の法典の発布あるごとに、数百の註釈書の世に出づるは通常の現象なり、此を以て古来立法者は、法律家の、解釈を名として牽強付会の説を為し、大に法律の真意を誤る者あるを憂え、しばしば之れが禁止を謀りしも、いまだ一たびもその功を奏せし事なきは歴史上顕著なる事実なりとす、ジュスチニヤン帝の羅馬の法典を編纂するや、之が註釈を為すを厳禁せりと雖も、当時法学者は註釈と称せずして法典の意義を論定せし書を著す者頗る多かりしと云えり、羅馬帝国壊頽の後、伊太利ボロナ府に於て註釈派(Glossators)と称する学派興り、羅馬法典の註釈を事とするに至れり、普魯西のフレデリッキ大王(Frederick)墺多利のジョセフ第二世(Joseph II)等もまた法典の解釈を禁ぜんとせしが、みなその功を奏する能はず、ナポレオンの民法を制定するや、日ならずして市中すでにその註釈書を鬻ぐ者あり、ある人之をナポレオンに示す、氏嘆じて曰く「余の法典は既に失われたり」と、以て法典は之が註釈を避くるを得可からざるものなりとせば、法典の文意字義を確定する裁判例は、また法典を理解するの必要具たるに至る、故に法典は固より法律を簡約にし法律の知識を容易にするの効ありと雖も、法律の実況に通せざる編典主張者の想像する如き有効のものにあらざるなり、若し論者にして佛独諸国の法典註釈書と英米諸国の判決録との多寡を比較するあらば、蓋し思い半ばに過ぐる者あらん。

第五  法典編纂は必ずしも訴訟を減少するものにあらず

 世人或は思えらく、法典の編纂一たび成れば、代言人の嚢低たちまち空しかるべしと、是れまた法律歴史に通せざる憶説のみ、蓋し従来交錯累積せる法令を分類整理して、一篇の法律となす時は、或は為に訴訟を減ずるの結果を生ずることありと雖も、社会に大革命ありたるの後、新事態に応ぜんが為に、種々の新法を制定して、之を法典に編纂する時は、法典発布の後、著しく訴訟の数を増加するものなり、故に法典編纂は訴訟を減少するものなりと断定する能はず、加之法律は整備するに従いて法律家の必要を増す者なれば、法典一たび出て、法律家道路に餓死せんことを畏るるは、なお杞人が蒼穹の墜落せんことを憂いたるの類のみ。

 その他法典を排斥するの議論甚だ多しと雖も、概ね関係的非法典論にして、或は完全なる法典の編纂の事業の困難なるを説くに止まり、みな瑣々たる反対論たるに過ぎざるを以て、特に之を詳記するの価値あることなし、オースチン氏は、その法理学講義第二巻の結末に於て、非法典論を列挙し、詳かに之を反駁せり、故に若しその詳細を知らんと欲する者は、就て之を参考すべし。



第二編  法典編纂の目的

 法典編纂の目的は、種々の政策によりて定まるものなりと雖も、古来各国の立法史に拠りて、之を彙類すれば、大凡そ左の五政策中の一二に帰すべきなり。

 第一  治安策

 第二  守成策

 第三  統一策

 第四  整理策

 第五  更新策

一国法典編纂の挙は、右の五政策中ただその一に依るものあり、また時としては同時に二三策を兼用することあり、今ま本編に於て、各国立法史の実例に拠りて、之を説明すべし。


第一章  治安策の法典編纂

 干戈は戦乱の凶器なり、法律は治平の要具なり、故に一国に戦闘争乱の事ありて社会の秩序尽く紊乱し、また収聚すべからざる時にあたりて、能く之を回復するものは法律なり、往昔希臘(ギリシャ)アゼンス国の有名なるドラコ(Draco)の法典及びソロン(Solon)の法典の如きは治安策に出でたるものなり、当時アゼンスに於ては、君主政体既に廃せられ、政権は貴族中より選出されたる九人の執政官(Areopagus)に帰し、純然たる貴族政治行われ、且つ当時国法は尽く不文法なりし、を以て、執政官は法律の知識を専有するも、平民は如何なる法律の存在ずるやを知らず、故に動もすれば執政官は平民の無知に乗じて、その権力を濫用し、しばしば法律を枉げて平民を虐圧せり、平民は法律を知る能わざるを以て、冤抂伸ぶるに由なく、多年の不平鬱積して、遂に政府に迫りて、法律を公示せんことを要求せり、是に於て政府はドラコーに命じて成文の法典を編纂せしむ、俗に「ドラコーの血法」と称するもの即ち是れなり。

 ドラコーの法典は、一旦平民の不平を鎮め、国内の治安稍々回復せりと雖も、その後貴族の専横は倍々甚だしく、平民は倍々塗炭に陥り、怨望の声四方に充ち、国中殆ど寧日なし、是に於て、また執政官の一人なるソロンに法典の改正を委任せり、ソロンは寛大にして公平なる法典を制定し、紀元前五百九十四年に之を発布せり、平民の擾乱ここに於て始めて定まる、有名のソロンの法典即ち是れなり。

 羅馬の十二銅表の如きも、また内乱を鎮静するが為めに制定したるものなり、羅馬共和時代の始めに当りては、未だ成文法律の設けなく、貴族は不文法律の知識を専有し、動もすれば法律を左右して平民を抑圧せり、故に「退都之乱」起るや、法典の編纂は平民より貴族に対する要求の一条たりし、論争数回の後、遂に貴族は十大官(Decemvirs)を設けて、之れに政権を委任し、且つ之に法典編纂の任を負わしめたり、是れ実に紀元前四百五十一年なり、十大官は委員を希臘に派してその法制を取調べしめ、初め十章の法律を制定し、十箇の銅表に彫りて公市場に掲げ、翌年更に二章を追加し、また之を銅表に刻せり、著名なる十二銅表是れなり、是に於て数十年間結んで解けざりし、府民両族間の争乱も、始めて鎮定に帰するを得たり。

 昔し沛公關に入って秦の父老に約するに法三章を以てせしが如きも、固より騒乱を鎮静せんとする一時の政策に出でたるものと謂はざるを得ず、英王ジョン(John)が「ランニーミード」の原野に於て、大憲章(Magna Charta)を裁可せるが如きも、また内乱を静めんが為め、やむを得ざるに出でたる政策と謂はざるべからず、その他諸国の歴史上に擾乱革命の事ありたる後にはしばしば法典編纂の挙あるを観るは概ね、みな之に頼りて社会の秩序を回復せんとする目的に出でざるものなし。


第二章  守成策の法典編纂

 古より国家多難の際に当り、英雄豪傑の士の興るや、毎に一たび干戈を藉りて以て大に社会旧来の秩序を撹乱し既にその志を得て守成の謀を講ずるに当りては、必ず先ず法律を制定改良し、社会の秩序を回復するを以て、第一の善後策となさざるはなし、蓋し英雄豪傑の士と雖も、干戈に継ぐに法律を以てせざるものは仮令へ赫灼たる功名を一時に成すを得るも、永くその偉蹟を全うすること能わざるなり、源右府、豊太閤の如き、みな英雄の資を以て、一時の覇業を成せりと雖も、之を守るに法律を以てするの術を知らざりしが為に、墳土未だ乾かずして、覇業は既に破れたり、また北条、足利、徳川の三氏が、善く守成の功をなせし所以の者は、みな干戈を以て創業の器となし、法律を以て守成の具となせしによれり、かの北条氏の貞永式目、徳川氏の百ヶ条の如きは主として守成策に出でたるものと云うべし、足利氏は別に法典を制定せざるも、大に法制を整えて治民の術を講ぜしを観れば子孫十数世に連綿たりしも、また偶然ならざるを知るべし。

 支那の法典編纂事業の如きは、また概ね守成策に出でたるものなり、秦漢以来歴朝の創業者は、法典の編纂を為さざる者実に少なし、漢の丞相蕭何が律九編を作り、隋が天下を統一して隋律を作り、唐の太宗が、長孫無忌房玄齢等に勅して唐律十二篇を作らしめ、明の太祖が、刑部尚書劉惟謙等に命じて、明律三十篇を編纂せしめたるが如きは、その最も著名なるものなり。

 羅馬の驍将ジュリアス,シーザー(Julius Caesar)が既に全欧を征略し、私かに非望を懐き、帝業を為さんと欲するや、直ちに法典編纂を企てたり、然るに未だその事を果さずして身先ずブルータス(Brutus)カシヤス(Cacius)等の刺刀に斃れたり、その後ジュスチニアン帝は羅馬東帝国を隆盛にし、将軍ベリサリヤス(Belisarius)ナーセス(Narces)等を遣わして伊多利を回復し、亞弗利加を征略し、大いに中興の業を成すに当り、学士トリボニアン(Tribonianus)等に命じて法典編纂の事業を興し、遂に近世文明諸国の法典の基礎たる「コーデキス」(Codex)「パンデクト」(Pandecta)及び「インスチチュート」(Institutiones)の三法典を編成せり、そもそもジュスチニアン帝の編典の挙たるや、主として整理策に出でたるものなりと雖も帝国中興の業を守成せんとするの目的もまたその中に包括せしは、帝がインスチチュート法典を発布せし時の勅詔に依りて明らかなり。

 「朕惟うに、実祚の尊栄は啻に兵威を以て之を顕彰するのみならず、また法律を以て之を保維し、撥乱図治共にその正を得ざる可らず、故に羅馬帝国に君臨する者は、宜しく兵力に依りて公敵を威服し、法律に依りて罪過を阻圧し、戦勝者たると法律の保護者たるとの資格を兼備せざる可からさるなり。

  朕践祚の後、鋭意画策今や遂にその志を達するを得たり、顧うに蛮民は既に我兵威に服して我隷属となれり、亜弗利加及びその他の諸国は既に久しくして我に背きたりと雖も朕はここに天祏に頼りて之を回復し、また既に羅馬帝国の藩属となれり、是に於てか、万国の民尽く朕が制定発布せる法令を遵奉ずるに至れり、云々」

 英国に在りては、第九世紀の始めに於て、エグベルト(Egbert)王サキソンの七王国を統一せし以来、しばしば北蛮「デーン」人の猖獗なる襲撃に逢い、国中殆ど寧日なく、社会の秩序大に紊乱したり、アルフレッド大王(Alfred)の時に至り、漸く「デーン」人を駆逐して秩序を回復し「リベル、ジュヂシヤリス」(Liber Judicialis)と云える法典を編纂せるが如きは、守成策にしてまた治安策を兼ねたるものと云うべし。

 佛国に於てはナポレオン帝英邁絶倫の資を以て大志を懐き、外に在りては侵略簒奪を擅にし内にありては治安守成の術を講じシーザル、ジュスチニアンの浩図に倣い、未だ執政官たる時よりして、既に帝業の基礎を鞏むるの準備を為して法典編纂に従事し、僅々数月の歳月を以て夫の有名の五法典を発布せり、蓋しナポレオンの法典の如きは守成策の法典にしてまた統一策更新策を兼ねたるものなり。

 普魯西国に於ては、フレデリッキ大王(Friedrich)践祚の後直ちに法典の編纂を企て、一千七百四十六年十二月卅一日の詔勅を以て、総理大臣フォン,コッセイ(Von Cocceji)に「普魯西王国普通法典」の編纂を命ぜり、是れ蓋し、王は普魯西中興の大業を鞏固ならしむるは、王国普通の法典を布くに在るを悟りたるによるなり、王は遂に一千七百四十九年、及び一千七百五十一年の両回に於て「フレデリック法典草案」(Projekt des Corpus Juris Fredericiani)を公布せり、その後訴訟法改修等の問題起こりたるが為に事業の進捗遅々たりしが、一千七百八十年に至り、再び閣令を発して民法改正に着手し、総理大臣カルメル氏(Von Carmer)をして之を総裁せしめ、スハレツ氏(Suarez)をして之れが立案に主任たらしめたり、改正民法草案は一千七百八十四年より一千七百八十八年に至る五年間に於て之を六回に分ちて公布し、その後政治家、法律学者、裁判官等より選出したる批評を参酌してさらに修正を加え、一千七百九十一年三月二十日の詔勅を以て、之を「普魯西国普通法典」(Allgemeines Gesetzbuch fuer die Preussischen Staaten)と称し、翌年六月より実施すべき旨を定めたり、然れども翌年四月に至りて、一旦その実施を延期せり、その後スアレツ氏は、再び政府の命により「最後修正」(Schluss Revision)を加え、法典編中より、公法及び政体に関する条項にして旧法に拠らざる部分を削除し、新たに之を「普魯西普通国法」(Allgemeines Landrecht fuer Koeniglichen Preussischen Staaten)と称し、一千七百九十四年二月これを公布し、遂に同年六月一日より実施することとなれり、蓋し「フレデリック法典」以来、普魯西国の法典編纂は、主として守成策に依りたりと雖も、傍ら整理策及び統一策を兼ねたるものなり。

 一千八百七十年の役に於て、独乙諸国は大に佛国に捷ち、新たに独乙帝国を建つるに当り、先ず帝国憲法を発布し、続て独乙刑法、治罪法、訴訟法、裁判所構成法等を発布し、また直ちに民法編纂の大事業に着手せり、是また建国事業の善後策にして、一方に在りては、新帝国の基礎を鞏くし、一方に在りては帝国各部の団結を固くせんとするに出たるものなり、然らば独乙帝国の編纂事業は守成策と統一策を兼ねたるものと云うことを得べし。

 第十八世紀に於て、英国は印度を征服し、また東印度会社の管轄権を収めて之を政府の直轄に帰せしめたる後、英国政府が第一に鋭意着手せしは立法事業なり、爾来マコーレー(Lord Macaulay)ピーコック(Sir Barnes Peacock)メイン(Sir Henry Maine)スチーブン(Sir James Fitzjames Stephen)等諸氏の熱心なる尽力により、僅々十三年間にして、印度訴訟法、印度刑法、印度治罪法、印度相続法、印度契約法、印度証拠法等の諸法典を編纂発布したり、かの旧守癖を以て有名なる英国人が、本国に於ては容易に法典編纂を為さざるに係らず、一たび印度の政権を握るに及びては、鋭意突進して、数百年来かつて法律を変更したる事なき印度に於て驟かに法典編纂の事を成せしは、蓋し種々の原因の存するありと雖も、要するに殖民政策の守成策に外ならざるなり。


第三章  統一策の法典編纂

 数国を併せて一国となしたる時に当り、立法者は全国の協和を謀らんが為に、国内各部の法律を斉一ならしむる政策を執ることあり、或は一国内に於て、過多の地方慣例等の存在するに当り、主治者は中央集権の政略を執りて、全国の法律を一轍に帰せしめんとすることあり、或は各州その法を異にするより不公平を醸し、不和を生ずるが如き弊あるを憂い、所謂「一国一法」(One Empire, One law)の主義に拠りて法典を編纂することあり、此の如き目的に出でたるものを統一策の法典編纂と云う。

 統一策の法典編纂は、歴史上顕著なる実例少なしとせず、英国に於ては北蛮「デーン」人を国外に放逐したる後、第十一世紀の始めに於て「デーン」法(Dane-lage)、「ウェスト、サキソン」法(West-Saxen-lage)、及び「メルセン法」(Mercen-lage)、の三法併び行われたり、エドガール王(Edgar)は、国内に数法併び行わるるの弊害あるを察し、国法を一軌に帰せしめんを企てたり、而して此事業は、王の孫エドワルド,ゼ,コンフェッソル王(Edward the Confessor)に至りてようやく之を完成せり、エドワルド王の法典は、その後散逸して今その巻帙完からずと雖も、その本源はアルフレッド王の法典に基き、イナ王(Ina)エッゼルベルト王(Ethelbert)等の法典を参酌し、前に挙げたる三種の法律を合わせたるものとす、是を英国の法律一統の始めとす、或は曰く現今英国に於て「普通法」(Common Law)と称するものは、エドワルド王が三法を併せて全国普通の法律を制定せるに起因せるものなりと。

 佛蘭西法典編纂の挙は、近世統一策の編典中最も顕著なるものなり、佛国は古来成文法国(Les pays droit ecrit)及び慣習法国(Les pays de droit coutumier)の二大別あり、ロアル河以南の諸国を成文法国と称し、主として羅馬法に基きたる法律行われ、ロアル以北の諸国を慣習法国と称し、主として地方慣例によりたる法律行わる、而して、成文法国慣習法国共にまた過多の小区劃に分れ、各固有の慣例行われたり、ボルテール氏(Voltaire)之を名状して、「佛国に於ては旅客が馬を更うるごとに法律を更う」と云えり。

 斯の如く国中に無数の特別法行わるるを以て、佛王ルイ第十一世(Louis XI)は、つとに之を統一せんことを企てたれども、その業未だ半ばならずして崩殂せり、またジェムーラン氏(Dumoulin)ダゲッソー(d’Aguesseau)等の如き学者は、佛国各地方の慣例及び詔勅等を纂集して法典となし、以て全国の法律を一途に帰せしめんとせしも、皆な志を得る能はざりき、蓋し数百年来慣行せる法律をにわかに変更するは容易の業にあらざるを以て、恰も大革命の如き変更あるか、またはナポレオンの如き大豪傑出で、人心に一大激動を興るに非れば到底成功すべからざるものなりとす、故に佛蘭西に大革命の生ずるや、革命党は直ちに法律を統一するの計画をなし、一千七百九十一年の憲法には、「全国普通民法法典を編纂すべし」との旨を明記せり、その後国民議会も、全国共通の民法及び刑法を編製すべきの公布を為し立法委員に命じて、一ヶ月を期して民法草案を創定せしめたり、因てカムバセーレ氏(Cambaceres)は、右の期限内に草案を完稿して之を国民議会に呈せしも、議会は当時の哲学的思想に符合せずとして之を棄斥せり、因てカムバセーレ氏は更に草案を改修して之を呈せしに、国民議会は、第二草案は簡略に失し民法の目録たるに過ぎずとしてまた之を採用せず、その後「管理政府」の時に於て「五百員議会」は民法編纂委員を選び、更にまたカムバセーレ氏をして之を立案せしめ、既に数巻を脱稿するに当り適々共和暦「ブルーメール」月第十八日、第十九日の変動を生じ、ついに之を議定するに至らず、ナポレオンの執政官(Consul)となるに及び、氏は共和八年「テルミドール」月第二十四日の命令書を以て民法編纂委員を置きトロンシェー(Tronchet)、ビゴー,プレアムヌー(Bigot-Preamneau)、ポルタリス(Portalis)及びマルビール(Maleville)の四氏を委員に選定せり、委員は非常に勉励を以て、僅々四ヶ月に足らざるの期限内に稿を脱し、その草案を大審院、訴訟院に回付して意見を諮詢しその後参議院「トリビューナー」等の審議に付し、最後に立法議会をして之を議決せしめたり、参議院及び「トリビューナー」より各々三名の説明委員を立法議会に出してその草案を討議せしめ、本院の議員はその議事を傍聴するのみにして、敢えて自ら之を討議せず、ただその採否の投票を為すに止まれり。前に述べたるが如き方法を以て、草案の全部を三十六回に議決して追次之を公布し、ついに共和十二年「バントース」月三十日(一千八百四年三月三十一日)の法律を以て、三十六の法律を合して三篇二千二百八十一条の法典となし、之を「佛蘭西民法」(Code Civil des Francais)と名けたり。

 右に略述せる佛国民法の起源によれば、第十六世紀の頃より学者にして往々法律統一の必要を説きたる者あり、また帝王にして之が実行を試みたる者ありたりと雖も、未だ之を成功するの時機至らず、佛蘭西大革命の変乱には、封建割拠の風を壊りて全国一致の基を開き、法権平等の主義を公告したるを以て、法律を統一するの機会始めて到達したり、故にカムバセーレ氏をして草案を立案せしめ、稿を更え議を累ぬれども未だ之を採用するに至らず、ナポレオン出で、始めてその大業を成功するを得たり。

 一千八百四年三月三十一日の法律第七条に曰く「民法発布の後は、羅馬法、勅令、普通慣例、地方慣例、諸裁判庁の定例、規則等にして、此民法に新たに規定せられたる事件に関するものは、都て法律の効力を失うべし」とあり、以て佛国の法典編纂は法律統一を以て主たる目的となせしや知るべきなり。

独乙国の民法編纂もまた統一主義に基きたるものなり、さきに独乙国が佛国の覊絆を脱するや、チボー氏は法律の統一を以て国民的思想を涵養し、独乙全国の一致協同を図るべしとの説を唱えたりと雖も、サビーニ氏等の反対説一旦勢力を得たるを以て、その後国民的法典編纂の企図を為す者なかりしが、独乙連邦制の益々鞏固に赴くに随い、財政上の団結によりついに法律統一の端緒を啓くに至れり、始め独乙連邦の関税同盟を起すや、当時独乙諸国は各商法の規定を異にせるが為めに、商業上に非常の不便を生ずるの事実はつとに連邦政府の注意を索き、ついに一千八百三十六年「ウュルテムベルグ」政府は関税同盟諸国の総会議に於て関税同盟諸国に共通すべき商法を制定すべしとの発議を提出せり、此発議たるや、同会議に於ては、確定したる結果を生ぜざりしと雖も、大に独乙各国商法統一の挙に刺激を与えたり、是に於て同盟諸国、就中普魯西、サキソン、ウュルテムベルグ、ブラウンシュワイグ、ナッソーの諸国は、此発議の趣旨に基き、漸を以て各国同一の商法を制定するの政策を採るに至れり、一千八百四十六年、関税同盟諸国の第八回総会議に於て、同盟諸国普通の為替条例編纂委員会を選定せり、是れ実に独乙諸国の法律統一の第一着歩なり、翌年十二月に至りその草案稿を脱せり、然れども関税同盟は固より財政上の団結にして、独乙各国に対し立法権を有するものにあらざれば、同会に於て草案を採用したりとて、直ちに普通為替法の効力を生ずべきものにあらず、故に各国政府は各別に同一の草案を採用して之を自国に布く事となし、同盟諸国の政府は、一千八百四十八年より一千八百六十二年に到る迄に各々之を自国に発布せり。

 かくの如く、独乙諸国は各自別個に同一の為替条例を採用したり、故にその規則は同一なるもその効力は各国の立法権により得たるものなれば、固より独乙普通法にあらずして各国の特別法なり、然れどもその名称は之を「独乙普通為替条例」(Allgemeine Deutsche Wechselordnung)と称せり、その後なお修補を要する条項頗るおおかりしを以て、一千八百五十八年、及び一千八百六十一年の両回に於て修正委員を選定し、新たに八ヶ条の増補規則を議定せり、「ニュルンベルグ為替法」(Nuernberger Wechselnovellen)と称するもの是れなり、此新法もまた一千八百六十七年に至る迄に、悉く同盟の採用する所となれり、北独乙連邦の設立もありて後、二法共に之を「連邦法律」(Bundesgesetz)と為し、新帝国設立の後、之を「帝国法律」(Reichsgesetz)となせり。

 独乙普通為替条例の成功は、ついに独乙諸国に共通すべき商法を制定するの必要を感ぜしむるに至れり、然るに一千八百四十八年の革命等の為に、未だ速に之に着手するの時機に至らず、一千八百五十三年、及び一千八百五十四年の両回の関税同盟会議に於ても、此事業の必要なるを議せしと雖も、未だその実績を挙るを得ざりし、然るに一千八百五十六年ババリヤ国委員の発議により、遂に独乙普通商法編纂の議を可決せり、此議決により、独乙各国より法律家及び商業家を選出して商法編纂委員となし、一千八百五十七年以来普魯西より提出せる原案を討議し、一千八百六十年に至り、ついに三回の審議を了り、連邦諸国は、一千八百六十一年より、一千八百六十五年に至る迄に、之を各国法として発布せり、然れ共その法典は「独乙普通商法」(Das Allgemeine Deutsche Handelsgesetzbuch)の名称を有せり、北独乙連邦建設の後、一千八百六十九年に至り、之を「連邦法律」となし、新帝国の建設と共に商法は「帝国法律」となり、始めて純然たる普通法となるに至れり。独乙普通為替条例及び独乙普通商法の編纂は、サビーニ、チボー両氏の争論以来学者政治家の胸中に蟠まれる疑問を解き普通民法典の地歩を為すに於て大に影響を与えたり、一千八百五十九年、独乙連邦中十ヶ国の政府は連邦議会に於て、諸国の民法刑法を斎一ならしむるの必要を発議し、また翌年に至り、民法中各国の人情風俗に関する親族法、相続法等は暫く措き、先ず各邦同一の債権法を採用するの必要あるを陳述せり、一千八百六十二年二月の連邦会議に於て、連邦共通の訴訟法及び民法債権編を編纂すべき旨を議決せり、然れども普魯西その他の諸国は之を連邦議会の越権の所為なりとし、委員を派遣するを拒みたるが為に、委員を選出せしはただ十ヶ国の政府あるのみ、委員はドレスデン府に集会して之を編纂せるを以て、此草案を「ドレスデン草案」(Dresdener Entwurf)と称せり、「ドレスデン草案」は、独乙連邦分裂等の事変により、ついに法律とならずして、止みたり、此時に当り、国中に行われたる民法はその種類頗る多く、羅馬法に基きたる普通法あり、独乙固有の慣例に基きたる普通法あり、北方諸国には普魯西民法、デンマルク民法行われ、中央諸国にはサキソン民法行われ、南方諸国には佛国民法に基きたる法律行わる、その他猶太法を始め、数十種の法律は境を接し並び行われたり、例えば普魯西に於ては、前に挙げたるサキソン法を除き、その他の諸国法は悉く行われたり、また全帝国中六ヶ国には、佛国民法行われ、その二三ヶ国には普通法行わるるが如く、帝国中の法律は実に錯雑混交を極めたり、故に独乙諸国の連合倍々鞏く成り行くに随い、成るべく独乙連邦諸国の人民間の区別を廃し、法権を統一し、全国民の権利義務を均一ならしめ、一国一法の主義を実践するの必要を観るに至れり、故に一千八百四十八年の革命の際に於て起草せる憲法草案第十三条に、「帝国主義は民法、商法、為替法、刑法、訴訟法を制定して、独乙国民の統一を計るべし」の明文を載するに至れり。

 一千八百六十七年に北独乙連邦を設立したる以後は独乙諸国の法律統一(Rechtseinheit)を主張する者益々増加したり、北独乙連邦の憲法を議定する際もミケル氏(Miquel)は帝国議会の立法権を民法の全部に及ぼさんことを発議せり、然るに議員ラスカル氏(Lasker)は、連邦議会の立法権は、刑法、治罪法、訴訟法、為替法、商法及び民法中の債権法(Obligationenrecht)に限り、人事篇、相続篇、財産篇の如きは、各邦特殊の人情風俗に基くものなれば、容易に之を統一し得べきものにあらず、暫く各邦の特別立法に任ずべしとの修正案を提出しその議ついに議会の可決する所となれり、因て北独乙連邦の憲法第四条第十三項には、帝国議会の立法権は債権法、刑法、治罪法、商法、為替法及び訴訟法に限るものとせり、一千八百六十九年に帝国議会に於て、ミケル氏は再び、憲法第四条第十三項を改正して、普通民法刑法、治罪法、訴訟法及び裁判所構成法に関する立法権を帝国議会に委せんことを発議せり、此動議に関する議事は、当時「権限―権限問題」(Kompetenz-Kompetenz Frage)と称せる議論、即ち「帝国議会は自己の決議により自己の権限を拡張するの権利ありや否」と云える憲法問題を生じ、此併発問題のために、主たる争点はかえってその力を失いたる如き有様なりしが、是れまた重要なる問題なりしを以て、双方共活発なる議論を生じたり、此議事に於て民法の立法権を帝国議会に与え、北独乙諸国に同一の民法を布くを可とせし者は、主として左の如き論拠を採れり、曰く

  普通民法の制定は各連邦の区別を廃して、人民間の隔心を除き、独乙全国民の一致を鞏くするの捷径たり、現に普魯西王国の如きは、国内の法律を斉一して大にその利益あるを観たり、加之、一千八百六十七年の改正により、独乙連邦の立法権中に民法の一部なる債券法を加えたりと雖も、民法各部は互に相連絡するものなれば、一部独立の編典は到底為し得べきものに非ず、すべからく民法を斉一にして法律統一を以て独乙国民一致の基礎と為すべしと。

独乙普通民法編纂を不可としてミケル氏の発議に反対せる者の議論は

  法律は国民の生活に親密なる関係を有するものなり、同一の民法慣例ありて、始めて同一の法律を布くを得べし仰も法典は之を機械的に製造し、以て国民の感情を鋳造し得るものにあらず、殊に親族篇、相続篇等の如きは、今にわかに全連邦に同一の法規を設くるを得べきものにあらず、加之、今日に在りて北独乙普通民法を制定すれば、此後に至り、南部諸国中連邦に加盟せん事を欲するものある時は、法律の異同は必ならず大なる障害を為すに至らん、且つまた、連邦の立法権を拡張する時は、漸く中央集権の弊を生じ、後年に至り連邦諸国は殆どその独立立法権を失うに至らん云々と謂うにあり。

ミケル氏は之に答えて、若し今にして連邦の諸国一致協同して普通民法を制定するにあらざれば、後年に至り、自己の民法法典を編制する能わざる諸小国は、挙な普魯西の如き大国の制定せる法典を採用するは、なおナポレオン盛時に、欧州南部の諸小国が佛蘭西民法を採用せるが如くならん、是時に当たり中央集権の弊と、国政偏重の害といずれがその一を択ぶべきや云々と、雙方の議論頗る激しかりしも、採決に至り、ミケル氏の動議は遂に大多数を以て採用されたり。

 一千八百七十二年教授ゴールドシュミット氏(Prof.Goldschmidt)がライプチヒ府に於て為せる有名なる講義は、当時の立法者をして民法中債権法のみを分別して普通民法を編纂することは、到底行う可からざるものたる理を悟らしめたり、故に一千八百七十三年十二月の法律を以て憲法第四条第十三項を改正し民法全体の立法権を帝国議会に与うるに至れり、ここに於て始めて独乙帝国民法上の統一を為すの基礎を置き、一千八百七十四年に民法編纂委員を設けて民法を起草せしめ、十三年、四ヶ月の星霜を経て、一千八百八十七年に至り之を脱稿せり、現行の民法草案是れなり、独乙帝国に於ては既に憲法、刑法、治罪法、商法、訴訟法、裁判所構成法の発布を了りたれば、若し此民法草案にして帝国議会の採用する所とならば、七十年来独乙国民の希望せる法律統一の大業は始めて完きを得べし。

 欧州の立法史に於て、最も著しき地位を占むる国は、伊多利なり、古代の羅馬法は、欧州諸国の淵源となり、中世ボローナ府の大学校は欧米諸国の法律学中興の基を開きたり、而して近世に於て、欧米諸国の法典編纂事業の先鞭を着けたるものもまた伊多利なり、一千七百二十九年、サボイ王ビクトル,アマデヤス第二世(Victor Amadeus II)始めて法典編纂を為せしより以来、欧州諸国は相次いで法典編纂の事業に着手するに至れり当時ネ―プルス王国に於ては、十一種の法律国中に並び行われたりしを以て、シャール,ド,ブールボン王(Charles de Bourbon)は、一千七百四十一年に法典編纂委員を置きて、全国の法律を一途に帰せしめんとせしが、不幸にしてその業を遂ること能はずして止めり。

 近世における伊多利の法典編纂事業は統一主義に基き守成策を兼ねたるものなり、サルヂニヤ王ビクトル,エマニュエル第二世(Victor Emanuel II)寛仁の政を施して大に民心を収攬し、内にはカブール伯(Count Covour)の輔弼あり、外にはガリバルヂ氏(Garibaldi)の戦略あり、ついに墺多利の覊絆を脱し、法王の政権を奪いて、伊多利全国を統一せり、一千八百六十一年国会の推す所となりて伊多利王の位に即くや、王は直ちに先刻の法律を一途に帰せしめ、倍々王国の基礎を鞏ふせん事を図りて、法典編纂委員を置きたり、当時伊多利王国中に行われたる法律は、「ナポレオン法典」、「シシリー法典」、「サルヂニヤ法典」、「墺多利法典」、「パルマ法典」、「タスカニー法典」、「ティチノ法典」、及び羅馬法王の発せる法令等にして、交互錯雑を極めたるを以て、王は之を調和整斉して、唯一の法典に編成せん事を命ぜり、一千八百六十五年、民法、商法、治罪法の諸法典成り、翌年より之を実施せり、独り刑法の編纂に至りては、廃死刑論の為に大にその発布を遅延せり、始め民法の起草者たりし、ピザネリ氏(Pisanelli)の立案せる草案は、一千八百六十三年に脱稿し、之を代議士院に提出するに及び、マンチニ氏(Mancini)の廃死刑論の為に争議を生じたりと雖も、ついに代議士院はその草案を採用せり、然るに之を元老院に回付するに及び、廃死刑論再び発し、その争議の為に、原案はついに廃棄に帰せり、一千八百六十八年に起草せる草案もまた廃死刑の可否に関し委員と裁判官との議相協はずして、ついに成功するに至らず、一千八百七十四年、司法大臣ビリヤニ氏(Vigliani)刑法編纂に着手せしが、内閣の更迭により、マンチニ氏その事業を継続し、その後ついに商法の起草者たる司法大臣ザナルデリ氏(Zanardelli)に至りて之を成功せり、伊多利は新刑法の制定により、従来国中に併び行われたるサルヂニヤ、タスカニー、ネープルスの三刑法を廃し、始めて全国普通の法典を布くを得たり。


第四章  整理策の法典編纂

 法律は社会の進歩するに随い複雑に赴くものなり、原始社会にありては、民族淳朴にして人事未だ甚だ繁劇ならず、数条の政令は以て人民を制御するに足れり、故に古代の法律は極めて簡約にして、一国の成文法は僅かに数十条に超えざるもの多きに居る、近頃希臘のクレータス州に於て発掘せる「ゴルチン」(Gortyne)の古法は、法廷の石壁に刻みたる十二条の法令に過ぎず、羅馬に於て始めて制定発布せる成文法は、公市場に掲げたる十二銅表なり、本邦上宮太子の憲法は十七箇条に過ぎず、貞永建武の式目、徳川氏の律令の如きも、之れを現今の法令に比すれば、繁箇固より日を同して語る可らず、近江朝廷以来の律令格式は、頗る完備したる者なりと雖も、後世朝綱一たび弛び、武門政権を執るに至りて、乱世相継ぎ、社会退歩し、法令もまた簡約を主とするに至れり。支那に於ては、帝堯五刑を制せりとの伝説あり、その他三代に律令の端緒ありたるは、書礼等の古典に徴して知るを得べしと雖も、その規定は極めて簡単なるものなりしが如し、その後鄭の子産、晋の范宣公の鼎銘の律と称する者の如き、その条項は固より之を知る能わずと雖も、その鼎に銘したるを以て観れば、簡短なる法令なりしや知るべきなり、戦国の時、魏の文侯の臣季悝始めて法経六篇を作り、その後漢の蕭何は之を増補して律九篇を作れり、三国の時、魏律は十八篇となり、晋律は二十篇となり、次て南北朝より隋唐明清に至り、その律典は各増損する所ありたれども、要するにその条項は漸々に精密に赴きたるが如し、英国に於ては、今上ヴィクトリア女皇(Queen Victoria)の治世五十年に発したる法令の数は、「ノルマン戦捷」以来五百年間に発したる法令より遙かに多しと云う、また以て法令は社会の進歩と共に細密複雑に赴くを知るべし、蓋し社会に新事物発生するに従い、之を規定するの新法律を要するは、恰も人智の開発するに従い、新思想、新事物増加し、随って之を言い表すべき言語の増加するに等しきものなり、是に依りて之を観れば、法令の粗密は正さに社会の進歩と正比例をなすべきものにして、夫の法令は世の澆季となるに随いて繁雑に赴くとする如きは、固より社会進化の顕象に通ぜざるの説と謂はざるを得ず。

 かくの如く、法令累積して煩雑を極むるに従い、人民は法令を知ること甚だ難く、才能学識あるの士と雖も、法律を専攻する者にあらざれば、容易に之を知悉するを得ざるに至る、その弊たるや、恰も古代不文法時代に於て、「民をして依らしむべし知らしむ可らず」の主義の行われたる時の如く、法律の知識は法律家の専有する所となり、法律は所謂「公けの秘密」の如きものにして、之を天下に公布するにも係らず、「法の不識は免さず」との原則あるにも係らず、一般の人民は、実際之を知る能わざるに至る、是に於てか、立法者は複雑せる法令を彙類輯集し、成るべく人民の知り易き体裁に編成して一篇の法典となす、是を整理策の法典編纂と云う。

 羅馬の法典編纂は、整理策に出でし者多きに居る、共和時代の始めに於て、貴族(Patricianus)と平民(Plebeianus)との軋轢は、終に成文法典の発布を促したりと雖も、その法令はわずかに十二銅表に過ぎざりし、その後羅馬は四境を征服し、国勢漸く隆盛に赴くに及んで、十二銅表の法令は、以て羅馬社会の新事物を規定するに足らず、是に於て法律家は、名を十二銅表の解釈に仮りて、その実多数の新規例を作り出したり、是れなお英国の法官が普通法の適用と称して、無数の新判決例を作り出せしと一般なり、その後羅馬の武威倍々振い、当時の文明世界を席巻して、その版図に帰せしむるに至り、タイバル河畔の蕞爾たる一小都府は、たちまち世界の首府となれり、加之、属隷諸外国との交通は、駸々として日に頻繁に赴むき、社会の事物、その面目を一新せり、是に於て、新たに外事裁判官(Praetor Peregrinus)を設けて内外交渉事件を審理せしめたり、そもそも外事裁判官は、在職期限僅かに一年にして、その就職の際、各告示書(Edictum)を発してその審理の標準を公示せり、然るに年々歳々、告示書相続き、後任者は前任者の告示書を増損して、社会の変遷に応せしむるにより、帝国の時代に至りては、告示書は頗る浩瀚複雑のものとなれり、然るにハドリアン帝(Hadrianus)の時に学士サルヴィヤス,ジュリヤヌス(Salvius Julianus)なる者あり、従来の告示書を整理して一篇の法典に編成す、此私撰法典は、紀元一百三十一年、元老院の議決を以て法律の効力を付与せられたり、即ち有名なる「永久告示書」(Edictum Perpetuum)にして、之を羅馬整理策編典の嚆矢とす、蓋し十二銅表以来、羅馬の法源は年を経るに随い漸く増加し、共和政の末年に至りては、既に複雑を極めたるはシセロー(Cicero)がその著書中に当時「法令、元老院令、判決例公認学説、裁判官の告示書、慣習、及び条理」等数種の法源ありたるを云いしを以て知るべし。

 羅馬帝政の時に及び、立法機関の運動は、大にその速力を増し、前に挙げたる法源の外、なお勅令(Constitutiones)なる一大法源を加え、爾来法令は倍々増加し、帝政時代の半に至りては、羅馬人は之を評して律書は「数頭の駱駝に積載すべし」と云うに至れり、是に於てディオクレシヤン(Diocletianus)の時、学士グレゴリアン(Gregorianus)は、ハドリヤン帝よりディオクレシヤン帝に至る迄に発したる勅令を編纂して、私撰法典と為し、紀元三百八年の頃之を出版せり、後世「グレゴリアン法典」(Codex Gregorianus)と称するもの是なり、その後ヴァレンチニアン帝(Valentinianus)幷にヴァレンス帝(Valens)の時、学士ヘルモヂニアン(Hermoginianus)なる者あり、「グレゴリアン法典」を増補し、主としてヂオクレシヤン、マキシミアン(Maximianus)両帝の勅令を編纂し、紀元三百六十五年の頃之を出版せり、即ち「ヘルモジニアン法典」(Codex Hermoginianus)と称する者是れなり、此二法典は固より私撰法典なれども、羅馬世界に法典の便利を知らしめたるものは、是れを以て始とす、その後テオドシュス第二世(Theodisius II)に至り、帝もまた勅令の浩澣なるを憂え、有名なる法律家アンチオカス(Antiochaus)を委員となし、「グレゴリアン」「ヘルモジニアン」二法典を模範として法典を編纂せしめたり、之を「テオドシアス法典」(Codex Theodosianus)と云う、蓋し羅馬帝にして法典編纂の事業をなせしは帝を以て始めとす。

 ジュスチニアン帝登極の時に当り、羅馬法の改正は困難なりと雖も、また必要なる事業となれり、是より以前十世紀間に累積せる法令及び学説は、当時既に数千巻に達し、如何なる富力も之を購求する能わず、如何なる智能も之を理解する能わざるに至れり、故に帝はつとに法典編纂の大業を図り、即位の後直ちに当時有名なる法学者、裁判官、代言人十名を撰びて委員となし、トリボニヤン(Tribonianus)を総裁とし、古来の法令を取捨増損して法典を編成せしむ、委員は十四ヶ月の後にその業を卒り、紀元五百二十九年四月之を公布せり、「コーデキス法典」(Codex)是れなり、然れども未だ幾ならずして改正の必要を生じ、帝は更にトリボニアンを委員長として第一法典を修正せしめ、紀元五百三十四年に第二法典を発布したり、是を「Codex Repetitae Praelectionis」と称す、即ち増補法典の義なり、帝はまた第一法典を発布するの後、紀元五百三十年十二月、更に十六名の委員を命じ、トリボニアンを総裁とし、古来有名なる法学者の著書中より、最も当世に適切なる学説を採摭し、之を彙類編纂して一篇の法典と為さしむ、委員は非常の勉励を以て、二千有余巻の法律書中より三十九大家の学説を抜粋し、始めその成功を十年に予期せしも、僅かに三年にしてその業を卒えたり、帝は紀元五百三十三年十二月之を裁可し、「シゼスタ」または「パンデクタ」の名称を付して公布したり、帝はまた法律を学修する者の便に供するが為、一個の小法典を編纂する事を企て、トリボニヤン、テオフィラス(Theophilus)及びドロテアス(Dorotheus)の三氏にその編集を命ぜり、三氏は、ガイヤス(Gaius)の教科書に倣いて之を編集し、紀元五百三十三年に至りて完成し、直ちに之を発布す、「インスチチュート法典」是れなり、近世欧州諸国の法典は、概ねみなジュスチニヤン帝の法典に基きたるものなり。

 ババリヤは独乙連邦中、最も法律の錯雑せる国にして、第十九世紀の初めに当りては、同国中に六十二種の民法並び行われたりと云えり、故にババリヤの政府は、つとに普通民法を制定して、人民を同一法律の下に棲息せしむる事に尽力し、一千八百九年、有名なる法学者フォイエルバツフ氏(Feuerbach)に命じ、佛蘭西民法に基づきたる民法草案を立案せしめたれども、中途にして之を止め、翌年新に法典編纂委員を命じ、ババリヤ国固有法に基づきたる法典を起草せしめたるも、また終にその事を果さず、その後アレチン氏(Von Aretin)に命じて起草せしめたる草案は、既に裁可を経て、一千八百十八年十月一日より実施する都合ありしも、事故ありて、復之を中止したり、然れども、法典を編纂して法律の統一を為すの必要なるは、既に世論も認むる所なりしを以て、同年五月の憲法第十八章第七項には、「全王国に共通すべき民法及び刑法を制定すべし」との明文を掲げたり、その後ゲンネル氏(Goenner)は第四草案を起草したれども、裁可を経るに至らずレオンロッド氏(Leonrod)代りて委員となり、墺多利民法に拠り、第五草案を作り、一千八百三十四年に脱稿復命したるも、また採用せられず、その後十年を経過し、一千八百四十四年に至り、更に五名の立法委員を置き、民法編纂を命ぜしが、未だその結果を公にするに至らずして止みたり、夫より復た十年を経過し一千八百五十四年に至り、新たに民法編纂委員を置き、遂に七篇四千五百八十三条の法典草案を完成せり、一千八百五十八年に、審査委員を置きて之を修正せしめ、その議定の順序を追いて之を公にせり、即ち一千八百六十年には、総則及び債権編草案を発布し、一千八百六十四年に、財産編草案を公布し、以て汎く公衆の批評を求め、なお委員以外の法律家にして、意見を提出する者ある時は、之を理由書中に記載し、且つ之に対して謝意を表せり。

 ババリヤ国は、一千八百六十一年に、フォイエルバフ氏の立案に係る有名なる刑法を発布せり、然れども民法編纂の業に至りては、委員を更え、草稿を改むる事、前後八回の多きに及べりと雖も、国中数十種の法律を調和整斉する事の困難なるが為に、ついにその結果を観ずして止めり。

 サキソン国民法編典の挙は、既に第十八世紀の半に始まれり、一千七百六十三年、政府は始めて法典編纂委員を置きて、民法の草案を起草せしめ、一千七百九十一年に再び法典編纂委員を置き、一千八百十九年に至り、一旦之を解けり、一千八百四十六年に至り、政府はヘルド氏(Geheimrath Held)に民法編纂委員を命ぜり、同氏は一千八百五十二年に草案を脱稿し、翌年に至り之を公刊し、また同時に之を国会に提出せり、国会は審査委員を選びて之を調査せしめ、審査委員を終りたるの後、政府は之を引戻せり、是れ、法典草案に対する法律家の意見、及び国会委員の議事により、政府は草案の不完全なるを悟りたればなり。

 その後一千八百五十六年に至り、政府はまた新たに民法編纂委員を置き、大審院長ランゲン氏(Von Langenn)をして之が長たらしめたり、同委員はヘルド氏起稿の草案に基き、四年を経過してその稿を脱し、ついに一千八百六十三年に国会の議決を経て「サキソン王国民法」を発布し、一千八百六十五年三月より之を実施せり。

 第十八世紀以来、独乙連邦諸国にして、民法々典の編纂を企てし者頗る多しと雖も、その能く功を奏せし者は、特に普魯西サキソン等の一二国あるのみ、蓋しサキソン国の法典編纂は純然たる整理主義に基き旧を棄てず、新を加えず、ひとえに現存の法令を整備排列し、之を簡明正確なる法典と成すにあり、故に委員の論定する所は、全く法律の外形体裁に止まりて、実質の改正に及ばず、政治論に纏綿する事甚だ少なかりしを以て、国会に於ても喙を容るるの余地少なく、為めにその発布を速かならしむるを得たりと云えり。


第五章 更新策の法典編纂

 法律は社会の進歩に伴うものなり、故に一国に大革命ありて、社会の事物一新し、人心に激変を生じたる時は、法律もまた之に応じて激変を為さざるを得ず、此時に当り、立法者たる者、一時に法典を編纂して社会の新事態に応ぜんとする事あり之を更新策の法典編纂と云う。

 紀元五百六年、ヴィシュゴッス(Visigoths)王アラリック(Alaric)が発布したる「ブレヴィアリアム」(Breviarium)法典は、アラリック王新たに羅馬に克ち凱旋の後、その文化を自国に輸入し、北蛮の文物制度に大変革を生じたるが為めに、その新事態に応ぜんと欲して制定したるものの如し。

 魯西亜の法典編纂事業の如きは、概ねみな更新策に出でたるものの如し、一千六百四十九年に、「アレキシー,ミケロヴィッチ」(Alexy Michaelovich)帝は、始めて「ウロゲニー」(Ulogenie)と称せる法典を発布したり、然るにペートル帝(Peter)践祚の後、鋭意欧州の文明を自国に輸入せるを以て、たちまち魯西亜の風俗に激変を生じ、為に、「ウロゲニー」法典の改修を要するに至れり、此に於て、ペートル帝は法典を編纂せんことを欲し、一千七百年に法典編纂委員を設けたり、その後女帝カセリーン第二世(Catherine II)は、モンテスキュー(Montesquieu)、プーフェンドルフ(Puffendorf)、ベッカリア(Beccaria)等の諸学士の書を読んで大に感激し、一千七百六十七年に法典編纂委員を改選し、新筆の勅書を以て、委員に法典編纂の主義を示せり、ニコラス(Nicholas)帝に至り、帝は有名なる法律家スペランスキー氏(Speranski)を委員長とし、「ウロゲニー法典」より帝の即位に至る迄の法令を編集し、之を「ソブラニー,ペルボー法典」(Sobranie Pervoe)と称せり、帝はまたスペランスキー氏に命じて帝の即位以来一千八百三十二年に至る迄、七年間に発したる法令を編纂して増補法典となさしめ、之を「ソブラニー、ウトロー法典」(Sobranie Vtroe)と称せり、また右の二法典に基づき、一千八百三十二年に羅西亜帝国法律全典(Svod Zakonov Rossiiskoi Imperii)と称せる三万八千条の大法典を発布したり。

 我邦の法典編纂事業は、更新策の編典中最も著しき者なり、明治維新の際、内は封建を廃止して政権統一し、外は交通を拡張して泰西諸国の文明を輸入し、文物制度を始めとし、教育、商業、工業等に至る迄、一として政体の変更と、外交の開通との影響をこうむらざるなし、為に他国の歴史に於て、数百年に観る可き変動を、僅々二十余年間に観るに至れり、かくの如く社会の事物に激変を生ずる時は、また之に応ずる法律を制定するの必要を生ずるや論を竢たず、故に維新の後、封建を廃して諸侯の政権を中央政府に収むるや、先ず律書を先修して天下の刑政を画一に帰せしむるの要あるにより、明治二年十月、刑部省に勅して律書を編集せしむ、刑部省は、水本成美、鶴田晧等の諸氏を委員として律書編制に従事せしむ、明治三年律六巻成り、之を奏進す、名けて新律綱領と曰い、同年十二月之を頒布す、そもそも此新法は、大寶律令及び徳川氏の法例を参酌し、傍ら唐明諸律を折衷したるものにして、その編纂の目的は、更新策と統一策守成策等を兼ねたるものなるは、司法省の上奏及び大木司法卿の奏議によりて之を知るを得べし、明治六年三月、司法省改定律例を奏進す、その表に曰く

  条例草案修撰方ニ成ル、乃チ謄寫進奏謹ンデ上裁ヲ請フ、抑モ新律ノ撰タル、干戈騒擾ノ後、大政維新ノ初ニ成リ、所謂律ノ大網ニシテ、以テ万変ノ罪状ヲ盡スニ足ラズ、況ヤ、制度日ニ進ミ。禁令月ニ新ニシテ。律獨旧例ヲ固守ス可カラザル者アリ。昨春以来用刑ノ現実ニ就キ、網領ノ未ダ盡クサザル所ヲ敷衍シ、或ハ政躰更革ニ因沿シ。律ノ權衝ヲ改正シ、竟ニ三百余条ヲ成ス、分テ三巻ト爲シ以テ上ル、嗣後日進ノ政務ニ従ヒ、更ニ改更ス可キ者アリト雖モ、猶ホ歳月ヲ積ムニ非ザレバ、其全備ヲ期ス可カラズ、姑ク此巻ヲ頒テ以テ律ノ未ダ盡サザル所ヲ補正セバ、全圖ノ問擬將ニ支吾スル所ナカラントス

同年六月、改定律例三巻を頒ち、以て新律網領と並び行わしめ、七月十日より之を実施す、右の上表に依りて観るも、改定律令の編纂は更新策に出でたるや知るべし。

 明治九年一月、司法卿大木喬任氏刑法改修の議を奏す、その表に曰く

  法律ハ治國ノ重器安民ノ要具タリ、維新ノ際各藩異治ノ餘ヲ承ケ、法律統一スル所ナシ、乃チ刑部ニ勅シテ刑律ヲ撰定シ以天下ノ耳目ヲ一ニス、今ヤ政治日ニ新ニ外交月ニ昌ナリ、法亦隨テ周備セザル可カラス、本省職司法ニ在リ、法制ノ得失固ヨリ其建議ス可キ所、乃チ職制ニ據リ新法ヲ起草シ以テ進奏スル所アラントス、因テ僚員ニ命ジテ各國ノ律書ヲ比較参考シ、以テ寰宇普通ノ成典ヲ編セシメ、本年内ヲ以テ古ヲ改メ新ヲ施スニ至ランコトヲ期ス云々。

同年九月元老院に勅して訴訟法の起草を命ず、大木司法卿また治罪法、民法、商法等編纂の事を上疏す、明治十三年七月、新刑法、治罪法成る、依て之を頒布し、十五年一月一日を以て実施の期とす、前に挙げたる奏議によるも、我現行刑法、治罪法は更新策の法典たるや知るべし。

 明治維新の革命は、独り政体の変更のみに止まらず、封建制度の廃止、外交貿易の開通、教育、商業、工業、印刷、礼儀、風俗等に至る迄、古今未曾有の大変動を生じ、現今の日本を以て、之を二十年以前の日本に比すれば、殆ど新天地を開きたるの観あり、故に法制もまた此激変に応じて進歩せざる可からず、是れ蓋し我政府が蹶然一挙して概括なる法典を発布するに如かずとし、憲法、民法、商法、訴訟法、裁判所構成法等を起草せし所以なり、而して憲法は明治二十二年二月を以て発布せられ、裁判所構成法は明治二十三年二月を以て発布せられたり、此を以て之を観れば、我邦の法典編纂も、また更新策に基く者なりと謂わざるを得ず。



第三編  法典の体裁

 法典編制の体裁は、古今その軌を一にせざるが如しと雖も、試みに諸国の成典を採りて、審らかにその結搆を観る時は、錯雑交伍せる法令条規中自ら一定の標準存する者のごとし、或は法律発達の順序に随いて編制せる者あり、或は法令発布の年月を追うて之を菟集せる者あり、或は国字の順序に拠りて法規を整理せる者あり、また或は論理的分類法によりて法規を排列する者あり、故に法典はその編制の体裁上より左の四種に分つを得べし。

   第一 沿革体の法典

   第二 編年体の法典

   第三 韻府体の法典

   第四 論理体の法典

右に挙げたる四種の法典中、論理体の法典と称するものは、その範囲甚だ広く、前の三種を除き、権利義務の性質、行為の性質、法規の軽重、実施の頻罕等、いやしくも一定の標準に拠りて法規を排列するものは、悉く之に属すべきものとす。


第一章  沿革体の法典

 古代の法典は法律発達の順序に随いて編制せるものなりとは英国の碩学メイン氏の始めて論証せる所なり、そもそも法律あれば必らず制裁あり、権利あれば必らず救正あり、法律ありと雖も制裁なくんば、死文徒法に均しく、権利ありと雖も救正なくんば、虚名空称たるに過ぎず、是れ主権者が制裁救正を設くる所以なり、蓋し権利義務は本なり主なり、制裁救正は末なり客なり、故にベンサム氏は権利義務を確定する法律を主法(Substantive Law)と称し、その救正の手続を規定する法を助法(Adjective Law)と称す、民法、刑法等は主法なり、訴訟法、治罪法等は助法なり、故に純然たる理論によれば、法典の排列法は、主法に始まり助法に終り、主法は法典の主位を占め、助法は法典の賓位にあるべきものなるが若し、然るに古代法典の編集法は、全く此順序を倒にし、客たり末たる助法は法典の開巻に居り、主たり本たる主法はかえって法典の巻末に位せり、是れ他なし、古代の法典は一に法律発達の順序に従うて編制したるものなるを以てなり。

 古代社会に於ては、主権者は予め国民万般の関係を規定すべき法則を設くることなくただ聴訟司獄の官を置きて人民の争訟を断せしむるに止まる、然るに社会の組織簡単にして、人事未だ複雑ならざる時代に在りては、争訟疑獄の種類もまた甚だ少く、同種の判決随いて多し、是に於て、断案の先例は、自然に法律の効力を有するに至る、是れ所謂審定法なるものにして、人民がその行為の規矩、曲直の標準を確知するの始めなり。

 かくの如く、法律は助法先きに起り、主法後に発達するものたるは、近世沿革法理学者の論証する所なり、故に訴訟法は民法商法に先立ちて起り、治罪法ありて後刑法具わる、是れ古代の法典は、当今法理学者が適当の順序と思惟する排列法を転倒し、法典の首めに訴訟法、治罪法、裁判所構成法等を置き、民法、商法等に属する法規は、かえって之を巻尾に列する所以なり。

 試みに世界最旧の法典と称する印度のメニュー法典を観るに、第一編より第七編に至るまでは、全く宗教及び兵事に関し、第八編に至り、始めて法律に及べり、而して第八編に於ては、初めに法廷及び訴訟の事を規定し、後に至りて民法、刑法に関する法規を挙げたり、その第一章に曰く、

  「国王若し聴訟を親らせんとする時は、「ブラメン」の僧侶及び顧問官を随え、威儀粛然として、以て法廷に臨む可し。」

その二章に曰く

  「国王は服飾、衣冠を質素にし、法廷に立ち、或は座し、右手を挙げ、以て両造の争訟を聴く可し」。

而して第三章以下に於て十八種類の争訟を規定せり、「メニュー」の法典は、宗教、道徳及び法律を混同したるものなり、また印度に於て純粋の法典とも称すべき「ナラダ」法典の如きも、またその冒頭に於て十八種の争訟を挙げ、法典の全体を争訟の種類によりて区別せり、即ち助法を基礎として主法を排列したるものの如し、今その冒頭に掲げたる法文を観れば、

 「訴訟の八成分とは第一国王、第二法官、第三陪席判事、第四法典、第五会計官、第六書記、第七誓証の黄金及び火、第八飲料の水を云う、

  十八種の訴訟とは賃金催促、物品寄託、組合商、寄贈物横領、服従の契約違背、給金催促、他人財産売渡、売品引渡の請求、売買違約、違令、境界の争論、夫婦の義務、相続の争論、暴行、暴辱、殴打、賭博、及び雑件なり、」

「ナラダ」法典は右に掲ぐる如く、助法に基づきて主法を排列せり、例えば賃金催促の部に於て、賃借に関する一切の権利義務を列し、相続の争件の部に於て、相続法を掲ぐるが如し。

 羅馬法の基礎たる十二銅表の順序を観るに、第一表は訴訟法に関し、訴訟の第一歩たる被告召喚等の事を規定す、第二表には対審判決証人呼出等の事を規定し、第三表には負債、第四表には家長の権、第五表は相続法及び後見法、第六表は財産、第七表は家屋等に関する規則、第八表は私犯法及刑法、第九表は公法、第十表は喪儀、第十一表は結婚法、第十二表は雑種の規則を含有せり、以て訴訟法即ち助法を先にし、かえって民法人事編財産編等の主法を後にしたるを観るべし。

 ハドリヤン帝の時、サルビヤス、ジューリヤナスの編纂せる「永久告示法典」の排列法も、十二銅表に倣いたるものにして、第一編は召喚に関し、第二編は対審に関し、第三編は付託物に関し、第四編は窃盗に関し、第五編以下に於て主法に関する法規載せたり。

 テオドシヤス法典の排列法は左の如し

  第一巻 裁判所構成法  第二巻 訴訟法  第三、第四、第五巻 契約法、遺族法、及び相続法  第六、第七、第八巻 行政法  第九巻 刑法  第十、第十一巻 租税法  第十二巻乃至第十五巻 地方行政法  第十六巻 寺院法

 ジュスチニアン帝の「コーデッキス」法典の排列法は次の如し、

  第一巻 寺院、裁判官  第二巻 訴訟、代言人  第三巻 訴訟、地役  第四巻 付託  第五巻 婚姻、後見  第六巻 奴隷、相続、遺族  第七巻 時効、判決及び控訴  第八巻 養子、贈与  第九巻 犯罪  第十巻 財政、公務  第十一巻 船舶、土木  第十二巻 位階、職業

 また帝の「パンデクト」法典の排列法は左の如し

  第一巻 総則  第二巻 裁判官  第三巻 物件法  第四巻 質入法、賃借法、婚姻法、後見法等  第五巻 遺族法  第六巻 相続法、債権法  第七巻 契約法、私犯法、刑法、控訴法、市府法、解釈法

 東帝レオ(Leo)の発布せる「バシリカ」法典(Basilica)は、前に挙げたるジュスチニアン帝の二法典と、その編纂以後に発したる勅令とを合併編纂して、法典となしたるものにして、全典を分ちて六十巻とせり、

  第一巻 「カトリック教法」  第二巻 法令  第三巻 僧正職  第四、第五巻 寺院  第六巻 官吏  第七巻乃至第十巻 裁判所訴訟手続  第十一巻 契約  第十二巻 組合  第十三巻乃至第二十六巻 付託保障等  第二十七巻 所有権の争訟  第二十八巻乃至第三十巻 婚姻  第三十一巻乃至三十三巻 親子  第三十四 婚姻  第三十五巻乃至第四十五巻 遺族、後見、相続  第四十六巻 身分  第四十七巻 贈与  第四十八巻 解放  第四十九巻 恩主  第五十巻 所有権、占有権  第五十一巻 抗弁、時効  第五十二巻 債務、訴訟  第五十三巻 船舶  第五十四巻 市府  第五十五巻 農業  第五十六巻 租税  第五十七巻 軍政  第五十八巻 地役  第五十九巻 葬祭  第六十巻 刑律

 西班牙(スペイン)のアルフォンゾ第十世(Alphonso X)が一千二百五十八年に発布したる「シェテ、パルチダス」(Siete Partidas)法典もまた沿革体によるものなり、その排列法左の如し、

  第一巻 宗教法  第二巻 国王及官吏  第三巻 訴訟法  第四、第五巻 契約法  第六巻 相続法  第七巻 刑法

 丁抹(デンマーク)国王クリスチヤン第五世(Christian V)が一千六百八十五年に発布せる有名なる法典は、全部を六巻に分ち、第一巻に訴訟を置きしは人の知る所なり。

 また「フランク」人種の古法中、最も著名なる「サリカ」法(Lex Salica)の如きも、第一編を「デ、マンニレ」(De Mannire)と題し、法廷召喚の法令を掲げ、第二編より第八編に至るまで、窃盗の法を規定せり。

 また愛蘭(アイルランド)の古法典「センカス、モール」(Senchus Mor)の如きも、法典の冒頭に於て物品差押の法を掲げたり、メイン氏の説によれば、物品差押は往時希臘羅馬日耳曼及び印度等に於て訴訟を始むるの方法にして、一の争訟起るや、先づ被告の財産を差押え、之を以て被告を出廷せしむるの担保となせり、故に愛蘭の古法に於て、物品差押の法律を首章に掲げしは、その訴訟法の第一歩たるを以てなりと。

 右に挙げたる法典の排列法は、概ねみな訴訟法を法典の冒頭に置けり、その期せずして此に至る所以のものは、蓋し古代の法典編成法は、法律発達の自然の順序に依りたればなり、而してジュスチニヤン帝の「コーデッキス」法典、レオ帝の「バシリカ」法典以来、往々宗教法及び帝王に関する法を法典の巻首に置くものあり、是れ宗教及び王室に関する諸法令は、国法中最も尊重すべき法規なるを以て、之を宝典の首に置き、法規の軽重に随いてその順序を定むるの主義を採るに至ればなり。


第二章  編年体の法典

 整理策に基きたる法典にして、法令発布の順序に従い、年月を追うて編纂するもの、之を編年体の法典と称す、羅馬以来、この編纂法に依るもの頗る多し、例えば羅馬の「グリゴリヤン法典」、「ヘルモジニヤン法典」の如きは、共に発布の年月に従いて、勅令を編纂したるものなり、また紀元四百三十八年、テオドシヤス第二世の発布したる法典は、全編を十六巻に分ち、各巻を章に分ち、章ごとに法令発布の年月に従い之を編集せり、故にテヲドシヤス法典はその全体は沿革体に拠り、その各章は編年体に依りしものなり、ジュスチニヤン帝の「コーデキス法典」はその全典を分ちて十二巻となし、巻を分ちて篇となし、篇ごとに年月の順序に従いて法令を排列せり、また帝の死後に編纂せる新法典「ノーベレ、コンスチチューショニス」(Novellae Constitutiones)の如きは、紀元五百三十五年より五百六十五年に至るまでに発したる勅令をその発布の年月を追うて、編纂したるものなり。

 近世の諸国の法典にして、編年体を採用するもの甚だ少なし、前に掲げたる魯西亜の法典、「ソブラニー、ペルボー」及び「ソブラニー、ウトロー」の二法典の如きは、編年体に依りたるものなり、「ソブラニー、ペルボー」法典は、一千六百四十九年より一千八百二十五年ニコラス帝即位の時に至るまでの勅令を編纂したるものにして、「ソブラニー、ウトロー」法典は、ニコラス帝即位の時より一千八百三十二年に至るまでの勅令を編纂したるものなり、二法典共に詳明なる索引を付して、以て捜索に便利ならしめたり。

 編年体の法典は、その編纂の容易なると、法令の新旧を知るの便利ありと雖も、他の編纂法の如く、尽く同一の事項に関する規定を整理合併し、大網細目を分ち、秩序整然たる条項に改鋳せず、ただ年月の順序を追いて法令を駢列するに止まるを以て、法典の巻帙は自から浩瀚に渉り、為めに法を簡明にするの効を欠くものの如し、かの魯西亜帝国法律全典「スヴヲッド、ツァコノー」の法条が、三万八千条の多きに至りしも、蓋し編年体の法典に基づきて編集したるが故なるべし。


第三章  韻府体の法典

 法律の規定を分かちて、之を国字に配当し国字の順序に従いて整列せるもの、之を韻府体の法典と云う、恰も法律のいろは引字典の如きものにして、例えば隠居は「い」の部、婚姻は「こ」の部、契約は「け」の部に編入するが如し。

 我輩の知る所に依れば、合衆国メリーランド州の法典は韻府体編纂法唯一の適例なり、同州は一千八百五十三年に於て、法典編纂委員を置きたるに、委員は法典の体裁に新機軸を出し、はじめて韻府体に依りて法典を編纂し、従来四十巻の法令全書を縮小して二巻の法典となし、Abatement(障害斥除)よりWildfowl(野禽)に至るまで、すべて「エビシ」の順序(Alphabetical Order)を追うてその法条を排列せり。

 韻府体の編纂法を主張する論者は曰く、法典は国民一般の使用に供する為めに設くるものにして、執法者の為めにのみ編成するものに在らず、若し一国の法規を字典体に編纂する時は、法律家たると常人たるとを問わず、いやしくも文字を識る者は必要の法規を法典中に捜出するは、掌を指すよりも易し、是れ韻府体法典特有の長所なりと。

 韻府体編纂法は、その性質上、成るべくその法規を細分して、之を国字に配当せざるべからず、若し之を細分せざれば、為めに韻府体特有の便利を失うに至らん、然れども之を細分するの弊害たるや、同一の事件に関する法規を悉く同一の場所に列する能はず、故に若し一事に関する法規を知らんと欲する時は、予めその全体を総括すべき学識なかる可らず、若し然らずしてその法規を看出す時は、或はその一班を窺うて全豹を知らず、通則を索めて変則をさぐらず、知らず識らず法規に背くが如き事なしとせず、故に常人の便利を主として編纂せる韻府体法典もしばしばその目的を誤る事ありと云はざるを得ず。

 仮に韻府体法典は、常人の為に便利なりとするも、司法官、行政官、代言人の如く、法律の実施に任ずる者、及び学士、学生の如く法理の講究に従事する者に対しては、韻府体法典の不便、固より言うを待たず、是れ韻府体法典は、同一の事件に関する法規の大綱細目整然として同一の場所に列らざるを以てなり。


第四章  論理体の法典

 論理体の法典とは、論理学上の彙類法に従いて、法典中の条規を排列するものを云う、歴史上沿革体によらずして論理体を用いし者は、蓋し紀元五百三十年ジュスチンヤン帝の発布せる「インスチチュート」法典を以て始とす、此法典は素と帝がトリボニヤン等に命じて、学生の教科書の為に編纂せしめ、後ち之に法律の効力を付与したる者なれば、その排列法は、帝の発布せる他の諸法典に異なりて、全典を人事法(Jus Personarum)物件法(Jus Rerum)及び訴訟法(Jus Actionum)の三部に分てり、而して此排列法は学士ガイヤス氏(Gaius)の「羅馬法要領」(Institutiones)に倣いたるものなり。

 中世以来、羅馬法を継受したる諸国は、「インスチチュート」法典の排列法を用いたるもの頗る多し、就中普魯西の「フレデリッキ法典」、佛蘭西の「ナポレオン法典」を始とし、白耳義(ベルギー)、伊太利等の民法は、皆な此類別に随いて編纂せり。

然るに近世に至り、独乙諸国の法典にして、往々羅馬式に拠らずして編制せるものあり、一千八百六十五年のサクソン国の民法は、全典を五巻二千六百二十条に分かちたり、その順序は左の如し、

 第一巻、総則  第二巻、物件法  第三巻、債権法  第四巻、親族法  第五巻、相続法

ババリヤ国民法草案もまた之を五巻に分ちて、

 第一巻、総則  第二巻、債権法  第三巻、物件法  第四巻、親族法  第五巻、相続法

となし、その草案理由書に於て、債権篇を法典の首部に置きたる所以を説明して曰く、「債権法を第一に置きたる理由は、特に債権法は、法律的諸関係中重要なる部分を占むるのみならず、その原則は私法中他の部分より援引し来る者甚だ少なく、却て他の部分の準則となる者多ければなり」と。

 独乙帝国民法草案は、全典を分ちて五巻二千百六十四条となす、その排列法はババリア国民法草案に倣いて、

 第一巻、総則  第二巻、債権法  第三巻、物件法  第四巻、親族法  第五巻、相続法

となせり、かくの如く独乙諸国が新式の編纂法を用ゆるに至りしは、ヒューゴ(Hugo)チボー等の諸学士が民法を論ずるに当り、羅馬式はその分類潤大に過ぎて、却て実用に遠きを憂え、私法の全部を細別して総則、物件法、債権法、親族法、相続法の五部となし、而して後進の学者も、また之を以て便利なりとし、此分類法を採用したるに因れり、蓋し羅馬式の排列法は学士ガイヤス氏の「羅馬法要領」に基き、独乙式の排列法はヒューゴ、チボー諸氏の教科書に起因するものとす。

 従来欧州諸国の民法は、皆な羅馬式編制法に倣いて人事編を法典の首部に置きたりしに、独乙帝国民法草案はババリヤ民法草案の新式を採用して、債権篇をその首部に置きたるは、実に法典編纂史中の一大変革にして、能く近世の法律思想に伴いたるものと謂うべし、そもそも古代の法律に於て人々の権利義務は、身分に付属するもの多く、例えば華族時代に於ては、財産は悉く家産なるを以て、家長独りその所有権を有し、従って契約譲渡等の権もまた家長に属したり、之に反して家族は全く財産を有する権なく、随って契約譲渡等の権を有する事なかりき、また相続法の如きも、古代に於ては謂はゆる家督相続即ち家長権相続にして、財産相続にあらず、ただ家長権を相続するの結果として、家産をも継受したるに過ぎず、故に当時に在りては、財産編も契約編も相続編も皆な親族編の副則とも称すべきものなり、故に一千有余年前、羅馬に於て家族制度はなお盛んに行わるるに当り、人事編を以て法典の首部に置きたるは、固よりその当を得たるものと謂わざるを得ず、然れどもメイン氏も云える如く、社会の漸く発達し、家族制度衰えて個人制度之に代り、社会の単位は一家族より一個人に変ずるに及びては、身分法の範囲漸く狭隘となり、一個人の権利義務は、身分によりて定まらずして、契約によりて定まるもの多きを占むるに至る、メイン氏が「社会は身分より契約に進む」と云いし所以のもの、実に茲に存す、之れを要するに、古代の社会に於ては、人の権利義務は、身分によりて定まるもの多く、契約によりて定まるもの極めて少なし、近世の社会に於ては、人の権利義務は概ね契約によりて定まり、身分によりて定まるもの少なしとす、然るに欧州諸国は、家族制度既に跡を絶ち、一個人、社会の単位を為すにも拘らず、なお族制時代の編纂法を墨守するは、実に怪訝に堪えざるなり、是れ因襲の久しき、学者敢てその可否を探求せざるに由ると雖も、抑もまた学者の歴史的研究に暗かりしによるものと云わざるを得ず、独乙はサビーニ氏以来、沿革法程学盛んに行われ、ついに羅馬式の編纂法は近世の社会に適せざるを悟り、その法典を編纂するに当りて、債権篇を以て法典の首部に置き、第一に契約法を載せたるは、実に法典編纂法の一大進歩と称すべきなり。



第四編  法典編纂委員

 法典の編纂は美術の如し、法典の起草者は、一錐の筆端を以て、億兆の権利義務を畫がき出すものなり、故に法典を編纂するに当りては、起草者その人を択ぶを最も慎重を加えざるを得ず、博覧強記の法学者、必らずしもその任に適せりとなす可らず、詞藻富贍の文章家、必らずしもその任に適せりとなす可らず、唯夫れ正確なる判断力と厳蕭なる辭章とを兼ね、歴史に通じ、哲学に明らかにして、博く内外の法律に通暁する者、特に能く此重任に当るを得べし、然れども、此の如き人を得るは、固より易からず、是を以て、古来法典を編纂せんとするものは、先ず之が委員を設け、協同合議して法典を起草せしめ、数人の長所を籍り、以て之を大成するを常とす、今茲に委員の種類を列挙すれば、左の四種となす。

  第一  準備委員

  第二  起案委員

  第三  審査委員

  第四  修正委員


第一章  準備委員

 準備委員とは法典編纂委員の組織、法典の体裁順序、及び編纂方法を議定する為に設くるものにして、独乙帝国民法編纂の時之を置きたるを以て嚆矢となす、始め一千八百七十三年十二月の憲法改正に由り、独乙帝国議会は、普通民法の立法権を得たるを以て、翌年二月に至り、連邦議会は、先ず準備委員を設けて、法典編纂規定を議定せしめんことを議決し、当時有名なる学士、ゴールドシュミット、キューベル、(Von Kuebel)シェリング、(Von Schelling)ノイマイル、(Von Neumayr)及びウェーベル(Von Weber)の五氏を撰んで準備委員となせり、委員は十四回の会議を開き、「編纂規定」を議定して、之を連邦議会に提出せしに、議会は僅少の修正を加えて之を採用し、以て後日法典編纂委員の拠るべき準則となせり。

 準備委員の設置に関しては、或は之を以て無用となし、却て法典編纂の手続を煩わしくするの弊ありと論ずる者あれども、立憲国に於ては、先ず準備委員を設け、編纂規定を作らしめ、予め立法議会の認可を受け置く時は、法典全体の結搆に関して、既に一たび議会の同意を得たるものなるを以て、他日その全典を脱稿して議事に付するに及びては、大にその編制に関する反対論を滅し、議会の否決の為に、法典の大部分を修正するが如き手数を省く事あり、加之独乙民法草案編纂の如く分担立案の方法を採る時は、その編纂に先ちて、最も正確なる編纂規定を要するは、固より論を俟たざるなり。


第二章  起案委員

 起案委員は法典の文案起草の事に任ずるものなり、古来諸国の法典は、別に準備委員を設けずして、直ちに起案委員を置き、法典の主義結搆体裁等を始とし、立案定稿の事に至る迄、一に之に任ずるを常とす、而して起案委員一人にして法典を立案する者、之を単独起案委員と称し、数人の起案委員にして法典の各部を立案する者、之を分担起案委員と称す、此委員の数は、固より一定したる者に非らず、故に若し純然たる単独起草の法に依る時は、委員は一人に過ぎずと雖も合議提案の法に依る時は、事業の難易その他種々の事情によりて、その数を増減すべきものとす、例えば羅馬の「テオドシヤス法典」の編纂委員は十六名、ジュスチニヤン帝の「コーデキス法典」の編纂委員は十名、「パンデクト法典」の委員は十六名、「インスチチュート法典」は三名なり、また佛蘭西民法の編纂委員は四名にして、独乙新民法の委員は十一名なるが如し。

 起案委員は法理学者、裁判官及び代言人より組織せざる可らず、従来諸国の法典編纂に於て、ただ学者、裁判官のみを以てその委員を組織し、代言人を加うること甚だ稀なりしは、大なる欠点と称せざるを得ず、然れ共是れ蓋し歴史上の理由の存するありて、古来法律の制定は政府の事業にして、民間の喙を容るべきものにあらずとなせるに由れりと雖も、代言人は、素と裁判官と倶に法律の解釈運用を以てその常識となすものなるを以て、特に従来の法典の実施に関し経験を有するのみならず、また将来の法典の実施に任ずるものなれば、学識を有し経験に富める代言人を択びて、之を委員中に加えざる可からず、殊に訴訟法編纂等の事業に至りては、編纂委員中、代言人の割合を多くして、状師社会の利益を代表せしむるは最も必要の事と謂はざる可らず。

 また、法典起案委員は、その国中に存する各学派より撰任せざるべからず、凡そ半開以上の諸国に於ては、その国法は、必らず固有法継受法の二元素より成る、即ち自国固有の風土民族に基きて制定したるもの、之を固有法と謂い、他国の法律を斟酌折衷し、之に模倣して制定したるもの、之を継受法と称す、故に一国の法律は数系に分れ、従って法律学者もまた数派に分るるものとす、例えば、我国に於ては、我国固有の風俗習慣に基きたる法律あり、中古以来隋唐明清の法例に倣いたる法律あり、近世に至って、英米独佛より継受したる法律あり、是を以て我国の法律学者もまた数派に分れ、我国固有の法律に通暁するものあり、支那法律に熟達する者あり、英吉利法律家あり、独乙法学者あり、佛蘭西法学者あり、夫れ此の如く、国中に数派の法律学者あるときは、法典編纂委員は、成るべく各学派を代表すべき法律家を以って之を組織せざるべからず、例えば独乙に於ては、帝国内に独乙固有法、羅馬法に基きたる普通法、佛蘭西民法等、数種の法律行われ、之が為に法律学者もまた数派に分るるを以て、独乙民法編纂規定第四条に於て、

 「独乙民法編纂委員会は著名なる法学者及び法律実際家より組織すべし、但し成るべく独乙帝国内に行わるる各種の法律を代表せしむるを要す」

との規定を定めたり、之に依て編纂委員十一名の中、三名はプロシヤ民法に通ずる法律家、三名は独乙普通民法に通ずる法律家、一名はサキソン法律に通ずる学者、一名は佛蘭西民法に通ずる学者、一名はバーデン法律に通ずる法律家を撰び、之に羅馬派法学者(Romanisten)の泰斗と仰がれたる教授ウィンドシャイド氏、(Prof.Windscheid)及び日耳曼(ドイツ)派法学者(Germanisten)の巨擘と称されたる教授ロート氏(Prof.Roth)の二名を加えて編纂委員を組織し、以て独乙帝国中に存する各種の学派を代表せしめたり。

 此の如く数種の学派より委員を組織するときは、法典の草案を議定するに当って、しばしば各学派間に争論を生じ、之が為めに編制事業の困難を増し、またその草案完成の期日を遷延することあり、現に独乙民法の編纂の如きは、各種の学派より組織したるを以て、その草案を議定するに当り、議論数途に分れ、甲論乙駁、少しも絶ゆるの間なく、その草案を完成するに至る迄、実に十三年四ヶ月の星霜を費やせり、此の如く編纂の困難を増し、草案完成の期日を遷延するの不便あれども、之を彼の一学派のみを以て委員を組織し、為に不完全なる草案を作るの弊を生ずるものに比ずれば、遠く之に優れりと謂わざるべからず、然れども若し一国の政略上、法典の編纂を急にするの必要存し、寧ろ拙速に失するも、その巧遅を須つの暇なき時に於ては、或は一学派のみを以て委員を組織するの止むを得ざる事なしと謂う可らず。

 編纂委員を数派の法律家中より組織するときは各派互に意見を異にし、之が為に法典全体の主義一定せざるの恐れあり、故に此の如き組織によりて、委員を設るときは、その委員長たる者は、各学派に兼通し、聡明公平にして、正確なる識見と鋭利なる判断力を具有するの人ならざるべからず、若し委員長その人を得ざるときは、法典の脈絡貫通せず、動もすれば法典中矛盾する法文を観るの虞なしとせず、委員長の撰任誠に重しと謂うべし。

 墺多利民法の編纂委員は、その設置の数最も多きものなり、一千七百五十三年、女皇マリア,テレジャの詔勅によりて組織されたる民法編纂委員は、先づ編纂の綱領を定め、全典の分類、法文の立案、法典の体裁、起草の順序を議定して、各委員をして分業的に各部を立案せしめ、脱稿する時は直ちに之を審査委員の議に付し、審査委員はその意見を付して之を編纂委員に還付するの方法を採れり、於是「プラーグ」大学の教授アゾニ氏(Azzoni)編典の綱領を作り、各部の法案は、之を各委員に分担せしめたり、之を第一回の編纂委員とす、然るに各委員は此方法を非とし、法典全部の起草を一人の委員に専任し、脱稿の後、之を委員会の審議に付せんことを主張せりと雖も、政府は遂にその議を容れず、その後二年を経て、委員はなお未だ第一巻をも脱稿せざりしを以て、政府は一旦委員を解散し、改めて法典の編纂をアゾニ氏及びホルツェル氏(Holzer)の二氏に命ぜり、之を第二回の編纂委員となす、アゾニ氏は中途に死亡せしを以て、ツェンケル氏(Zenker)之に代れり、新委員は一千七百六十七年に、法典草案八巻を脱稿したれども、女皇は、之を裁可せず、一千七百七十二年に至り、ホルテン(Horten)に命じ、草案を改選せしめたり、之を第三回の編纂委員となす、ホルテン氏はアゾニ氏等の草案に基きて法典を起草し、之を増補削減し、一千七百八十二年に至り、人事篇を脱稿せり、皇帝ジョセフ第二世(Joseph II)に至りフオン,キース氏(Von Kees)をして之を修正せしめ、一千七百八十六年十一月一日、ついにその草案を公布せり、之を第四回の編纂委員となす、ジョセフ第二世崩殂の後、レオポールト第二世(Leopold II)は第五回の編典委員を勅任し、フオン,マルチニ氏(Von Martini)をして委員長たらしむ、委員は一千七百九十四年より一千七百九十六年に至る迄の三年間に於て、法典草案三篇を脱稿し、之を三回に分ちて公刊し、而して各州に於て草案調査委員会を設けて之を審議せしめ、また殊に各大学に送付し、その意見を諮問せり。

 その後政府は新たに法典修正委員を命じ、一千八百一年より一千八百六年に至る迄に、各州調査委員の提出せる意見書に基き、法典草案を修正せしめたり、之を第六回委員とす、一千八百六年より一千八百八年に至る迄、また新たに委員を命じて草案を審査せしめたり、之を第七回委員とす、右の草案は、参事院の議決を経て、一千八百十年七月七日、ついに法典として発布せられ、一千八百十一年六月一日の詔勅により、一千八百十二年より之を実施せり、実に墺多利民法は、マリヤテレザ女皇の詔勅以来、編纂委員を更ること七回、歳を累ぬること五十七年にして遂に之を発布するを得たり。


第三章  審査委員

 審査委員は法典起案委員の立案定稿したる草案を調整する為に設くる者にして、政治家、経済学者、法学者、判事、代言人、実業家、及び行政諸官省の代表者等により組織し、種々の点より法典を議論して、その意見を起案委員に提出せしむるものとす、此委員の組織は固より法典の性質によりて定まるべきものなり、例えば商法の審査委員には有名なる商業家を加うる事多く、訴訟法の審査委員には、判事代言人を加うる事多きが如し。

 審査委員の職務は、法典草案を調査し、之に関する意見を提出して、編纂委員の参考に供するに止まるものなり、而してその意見の採否は、一に編纂委員に任ぜざる可らず、若し之に草案修正の権を与うる時は草案を定稿するの権もまた審査委員に移るべきを以てなり、墺多利の法典編纂は、一千七百五十三年、女皇マリヤ,テレザが始めて委員を設けたる時より、編纂委員と審査委員とを並べ置くの方法を採り、また一千七百九十六年に於て、法典草案を脱稿したる時は、各州に調査委員を設けて、意見を提出せしめたれども、その意見を取捨するの権は、之を編纂委員に任じたり。


第四章  修正委員

 法典は静止し、社会は進動す、故に法典と社会は常に相離るるの傾勢あり、法典編纂の後と雖も、社会に新事物の発生するあり、旧事態の廃棄するありて、一盛一衰、変動常なしと雖も、法典はなお旧に依りてその形を改めず、是れ修正委員を設けて、法典発布以後の新法を整理し、法典を修正せしむるを要する所以なり、蓋し法典編纂の事業は、決して法典の発布に終るものにあらず、法典一たび成りて之を発布するや、直ちに立法部内に常置法典修正委員を設け、法典以後の新法と法典とを整理調和せしめ、以て法典修正の準備をなさざる可らず、故に若し常置修正委員の組織にしてその当を得ば、非法典論者の「法典は法律の化石なり」と称するが如き病を治癒するを得べし、若し此委員の組織にしてその宜しきを得ば、法典は恰も喬木の如く、能く社会の進歩に伴いて鬱蒼たるを得べきなり。

 常置委員の職務は概ね左の如し。

 一 常置修正委員は、立法部より送付したる新法案と法典との関係を取り調ぶる事。

 一 常置修正委員は、各高等裁判所の新判決例及び法典の適用に関し疑議ありたる点を取り調ぶる事。

 一 法典の解釈に関し、法学者または実務法律家中に議論ありたる点を取り調ぶる事。

 一 法典の条項中不都合あり、または無用に属したる部分を取り調ぶる事。

委員は右に挙がるが如き調査を遂げ、法典改正の準備を為し、而して一定の期限内には、必らず法典を改正し、且つ毎年法典備考書を出版して、一年間に、法典の条項に変更を生じたる点を明示し、以て裁判官他の便に供すべし。

 若し右の如き委員を設けざる時は、年を経るに随い、法典と単行法と並び行われ、為に法典の長所と称する法律を簡明にするの効を失うに至るべし、

 常置法典修正委員を置くの制は、蓋し魯西亜に始まる、魯西亜の「スヴォツド、ツァコノー」は三万八千条の大法典なりと雖も、常置修正委員は、毎年法典の順序に随い、新法を排列編集したる法典付録を出版し、且つ常に法典改修の事務に従事す、一千八百四十三年に於ける「スウォツド、ツァコノー」法典の改選も、全く此常置委員の手に成れりと云う。

 エモス氏(Sheldon Amos)は修正委員を二種に分かち一を常置委員とし、常に法典の解釈適用、及び之に関する判決例等を調査せしめ、一を臨時委員として十年毎に之を新選し、常置委員と合体して法典を改纂せしむべしと云えり、此説もまた採るべき所あるが如し。


第五章  編纂委員長

 法典を編纂するに当りては、之が委員長たるもの最もその人を得ざるべからず、而して、委員長を撰任するに、三種の方法あり、第一、その人たる元来法律家に非らざるも、位高く官貴きを以て、之を委員長となし、以て法典編纂事業の重きを示すことあり、例えば、我大寶律の編纂に於て、刑部親王を総裁と為せしが如き是れなり、第二は、法律家中最も錚々たる人物を撰んで委員長となし、主として之に編纂の事業を委任する事あり、例えば羅馬に於て、テオドシヤス第二世の法典編纂事業に、アンチオカスを委員長となし、またジュスチニヤン帝の法典編纂に、トリボニヤンを委員長となし、「フレデリク法典」の編纂にスアレツ氏を以てその委員長となせしが如し、右に列挙せる場合に於ては、その法典の草案たる、主として委員長の手に成りたるものにして、他の委員はただ之を補助して、審議校訂を為せしに過ぎず、第三は、学識経験兼備せる法律家を択んで委員長となし、以て委員の事業を総督せしむることあり、例えば独乙の新民法編纂に於て、帝国高等裁判所長、兼枢密院顧問博士、パッペー氏(Pape)を以て委員長となせしが如き是れなり。

 法典編纂委員長たる者は、その任極めて重きを以て、之を択ぶに当ては、最も慎重を加えざるべからず、即ちその人たる、資性公平にして、学理に明らかに、実務に通達せざるべからず、殊に分担起草合議定案の編纂法に依る時は、その委員長たる者、最も鋭敏なる判断力を以て、委員長の事業を総督するに非ざれば、到底能く編纂事業を完結し、その草案を整理すること能わざるべし。


第六章  外国人委員

 独立国にして法典編纂の業を外国人に委任したるの例は、立法史上極めて稀なる顕象と云わざるを得ず、我邦はしばらく措き、我輩の知る所によれば、一千八百三十三年希臘に於て刑法治罪法を編纂するに当り、政府は独乙ババリヤ国の学士マウレル氏(Mauerer)に託して之を起草せしめたり、是れ殆ど、立法史上唯一の例なるが如し、然れども是れ歴史上の理由の存するありて、単に外邦の学士を聘して法典を起草せしむる者と、大にその事情を異にするものあり、希臘は本と土留其の版図に属せしが、一千八百三十年、欧州諸大国の保護により、遂に回々教政府の覊絆を脱して独立国となり、独乙ババリヤ国のオット親王(Prinz Otto)を迎えて、王位に登らしめたり、故に王は故国の学士に托して法典を起草せしめたる者の如し。

 モントネグロ国民法は、一千八百八十八年四月を以て発布し、同年六月より之を実施したり、此民法は、魯国オデサ大学の教授ボギシック氏(Bogisic)の立案に係る者にしてまた是れ外人をして法典を立案せしめたるの一例なり、然れどもモントネグロ国は、その実魯西亜の保護国たるは、人の知る所にして、ボギシック氏は、魯西亜アレキサンドル帝(Alexander)の命を受けて、モントネグロ国の法典編纂に従事し、その編纂入費も魯国政府に於て悉く之を弁じたるは、モントネグロ王ニコル第一世(Nicol I)が、民法発布の詔勅に於て之を明言し、且つ魯帝の優渥なる保護によりて、法典編纂の大業を致すを得たるを感謝せり。

 埃及国(エジプト)に於て、一千八百六十九年に発布せる裁判所構成法は、英、佛、独、伊、墺、魯より各二名、米国より一人、埃及より二名の委員を撰出し、カイロ府に於て合議編纂せるものにして、その他の諸法典もまた皆な埃及の法律家と、外国の法律家の協議編成せるものなりと云う、是れ埃及はこと独立国にあらずして、欧州諸国の保護国たるを以て、勢い外国人と協議するの必要ありたるに由れるものの如し。

 印度の訴訟法、刑法、治罪法、証拠法、契約法、相続法等は、皆な英国の有名なる法律家、マッコーレー氏、(Lord Macaulay)マクレオッド氏、(Sir J. M’cleod)ミレット氏、(Millet)ピーコック氏、(Sir Barnes Peacock)メイン氏、スチーブン氏等の立案に係わりたる者なりと雖も、印度は固と英国の藩属なるを以て、是れまた外国人立案の法典と称すべからず、ただ当時立法の全権は英国人に帰せしを以て、法典の草案も英国人の手に成りたるものと云うべきのみ。

 ベンサム氏は、近世法典編纂論の始祖とも称すべき人なる事は、既に緒論に於て之を述べたり、氏は一千八百十四年五月魯西亜に法典編纂の挙あるを聞き、書をアレキサンダル帝に上りて、法典立案の任に当らん事を請いたり、その書は頗る長文にして、茲にその全文を載する能わざるを以て、僅かにその首尾を譯述して、氏が熱心の一班を示すべし。

  外臣ジェレミー,ベンサム、謹んで書を皇帝陛下に上り、立法事業に関して、陛下に奏請する所あらんとす、臣年既に六十六歳、その中五十有余年は、潜心して法制事業を攻究せり、今や齢已に高し、若し陛下の統治し給う大帝国の立法事業改良の為に、臣の残躯を用いて、臣をして敢て法典編纂の為に微力を尽すを得せしめば、臣が畢生の望は之を充たすになお余りありと謂うべし(中略)

  今や戦闘の妖雲は全欧を蔽えり、陛下若し数行の詔勅を臣に賜わらば、臣は直ちに治平の最大事業に着手すべし、陛下若し幸に此大事業を臣に命ずるあらば、その重任を負うの栄譽と、之に伴う満足とは、陛下が臣に賜う所の唯一の賞典なり、その他の報酬は臣の決して之を受くるを肯んぜざる所なり、(下略)

翌年四月に至り、帝は墺多利に在り、ビヤナ府よりベンサム氏に手書を贈りて、氏の厚意を謝し、且つ「朕は曩に任じたる法典編纂委員に、若し疑点ある時は、之を先生の高識に質すべき事を命ずべし」云々と云い、併せてその厚意を謝するの紀念として、高価なる指輪を贈与せり、ベンサム氏は再び長文の書を上りて、苟くも金銭上の価格を有する恩賜は、外臣が敢えて受くる所にあらずと云いて之を返戻し、而して委員は必らず氏の意見を乞うを肯とせざるを以て、帝の命令はただ氏に対するの礼遇たるに止まるべきを予言し、且つ詳細に法典編纂の主義手続等を説明し、再びその任に当らん事を奏請せしも、遂に魯帝の容るる所とならずして止めり。

 一千八百十一年ベンサム氏は書を合衆国大統領マヂソン氏(Madison)に贈りて、合衆国法典編纂の必要を説き、自ら進んで、その立案の任に当らん事を請いしに、マヂソン氏は、その後五年を経て返書を送り、「方今欧州に於て法典編纂の事業に適任なるは、先生を以て第一とすと云えるロールド,ブローハム(Lord Brougham)の説は、余の悦んで同意を表する所なりと雖も、奈何せん、合衆国に於ては、法典編纂の挙に対する種々障害ありて、容易に之を実行すべき見込みなし」云々の辞柄を以て之を謝絶したり、然れども氏の法典編纂に対する熱心は固より一回の蹉跌を以て冷却すべきものにあらず、氏はその目的の達す可からざるを観るや、再び諸州の法典を立案せんと欲し、一千八百十四年、書をペンシルバニヤ州の知事に贈り無報酬にて法典立案の業に従事せん事を請いたれども、また容れられざりし、然るに、氏はなお進んで、合衆国各州の知事に書を送りて、法典立案の任に当らんと欲するの希望を陳べ更に「英人ジェレミー,ベンサムより合衆国人民に贈る書」と題せる冊子を公刊して法典編纂の必要を説き、苟くも愛国の士は挙つて此事業を賛助せざる可からざる所以を痛論せり、終りに至り「余は暫く茲に親愛なる諸君と訣別す、諸君若し他日余に此の事業を托する事あらば、余は諸君の属望に負かざる忠僕たるを誤らざるべし、ジェレミー,ベンサム」と書せり、然れども合衆国諸州の人民及び政府は、一もベンサム氏の勧請に応ずる者なし、一千八百二十二年ベンサム氏は既に七十五歳の高齢に達せるも、その畢生の力を法典編纂の事業に尽さんと欲する熱望は、老て倍々熾んにして、遂に一国に対して法典編纂を提議するを熄め「改進主義を抱持する総ての国民に対する法典編纂の提議」(Codification Proposal addressed by Jeremy Bentham to All Nations professing Liberal Opinion)と題せる書を著はして、文明諸国に法典編纂を勧告し、且つ外国人を法典草案の起草者と為すの利を説きて、外国人立案の法典は公平なり、何となれば内国人の如く黨派若くは種族等に関する偏見なければなり、外国人立案の法典は精完なり、何となれば、衆目の検鑿甚だ厳なればなり、独り外国人はその国情に明らかならず、その民俗に通ぜざるの弊ありと雖も、法典の組織は、各国大抵その基礎を同うする者なるを以て欠点と為すに足らず、況やその細則に至りては、之を内国の法律家に謀るを得るをやと、終わりに臨んで博くその委属に応ずべきを公言せり、氏はまた書を欧州諸国の立法議院に寄せて、法典立案の必要を説き、その委託を勧請せるも、ただ希臘革命政府、葡萄牙(ポルトガル)等の一二国が氏の意見を諮詢したるに止まり、法典編纂の事業に至りては、几案寂然、遂に一紙の聘托を得ずしてその生を終れり、ベンサム氏の博学宏才を以て、心を法典編纂に委ねること、五十有余年、当時氏の著書は既に各邦の国語に翻釈せられ、氏の学説は既に一世を風靡し、その雷名は天下に轟然たり、此碩学にしてその素懐の天下に容れられざるは、何うや、是れ他なし、法典編纂は一国立法上の大事業なるを以て、之を外国人に委託するは、其国法律家の大に愧ずる所にして、且つ国民的自重を傷くるの感情甚だ大なればなり、而してベンサム氏は実に之を悟らざるなり、再三再四、各国政府に書を寄せ、各国人民に勧告し、再三再四失敗しても、亳も挫折せず倍々老豪の精神を振うて、各国の人民に控訴し、遂に之を容れられざるに至りて、なおその原因を悟らず、是れ蓋しベンサム氏の胸宇の潤大なる、世界を家とし、人類を友とし、曾て国民的感情等の存するを知らざりしによれり、故に氏は外国人をして法典を立案せしむるは、却て之を内国人に托するに優れりとするの論に付加して、各国の立法議会に於ても外国人を議員たらしむべきを説き、例えば西班牙(スペイン)の如き国に於ては、英、佛、魯、伊、葡諸国の人民各一二名を国会議員に加うるの利あるを論ぜり、以てベンサム氏の眼中国境なきを推すに足るべし、人或は此論を読で、ベンサム氏の迂なるを嗤う、然れども、ベンサム氏のベンサム氏たる所以のもの、実に此に在りて存す。



第五編  法典編纂の手続

 法典編纂は、通常左の如き手続を経るべきものとす。

   第一  編纂規定を定むる事。

   第二  法典の範囲を定むる事。

   第三  法典の主義を定むる事。

   第四  法典の本位を定むる事。

   第五  法典の綱領を定むる事。

   第六  法典の文体を定むる事。

   第七  法典の材料を定むる事。

   第八  法典の条項を立案する事。

   第九  立案協議会を開く事。

   第十  草案審議会を開く事。

   第十一 草案及び理由書を公布する事。

   第十二 意見書審査掛を設くる事。

   第十三 第二次審議会を開く事。

   第十四 草案を議決し之を上進する事。

本編に於ては、右に列記せる諸項を略説すべし。


第一章 法典編纂規定

 法典編纂規定は、予め政府に於て之を制定し、編纂委員をして之に拠らしむる事あり、或は独乙帝国民法編纂の如く、準備委員をして之を制定せしむる事あり、または編纂委員をして自ら之を議定せしむる事あり、以上三種の方法中、第三を以て最も便利なるものとす、必竟編纂委員は、その国第一流の法律家を選抜して、之を組織すべきものなるを以て、独乙の如く別々に準備委員を設くるは、その手続鄭重なるに似て、却って重複たるを免れず、特に重複なるのみならず、編纂委員は他人の作りたる準縄に覊束せらるるを以て、往々不便を感ずるの事なしとせず、現に独乙民法編纂委員の如きも、準備委員の制定したる編纂規定を補充して、自ら編纂準則(Arbeitsplan)を議定するの必要あるに至れり。

 編纂規定は、委員たる者の遵守すべき手続をしめし、委員会の議事規則、委員長及び各委員会の職務、立案、審議、修正の手続細則にのみ止まるものあり、或は編纂規定に於て、法典の結搆、体裁、主義等をも定むるものあり、若し政府または準備委員に於て、編纂規定を定めて、之を編纂委員に交付するの方法を採る時は、法典の性質をも、編纂規定に於て定むるを通常とす、然れども編纂委員をして編纂規定を制定せしむる時は、編纂規定はただ編纂手続の準則を定むるのみにして、法典の結搆体裁等は、別に委員総会に於て、之を議定するを常とす。


第二章  法典の範囲

 法典の範囲は便宜上より定まるべきものにして、必らずしも一種の法律の全部を一個の法典に編入するを要せざるなり、例えば民法法典中より、商事に関する法を分ちて、之を商法法典となし、刑法法典中より、軍人の犯罪に関する部分を分かちて、之を陸海軍刑法とするが如きは、その最も著名なるものなり、その他単行法を以て規定するを便利なりとし、之を法典中に掲げざるものまた少からず、我刑法第五条に於て

  「此刑法に正条なくして、他の法律規定に刑名あるものは、各その法律規則に従う」

とあるを観ても、刑法法典中に含まれざる刑事法規あるを知るべし、然るに今若し民法法典には、悉く民事の諸法規を掲げ、刑法法典には、悉く刑事の諸規定を挙ぐる時は、却って種々の不便弊害を生ずる事あり、故に法典編纂委員は、その編纂規定を議定するに当り、予め法典の範囲を画定せざる可らず。

 法典中に編入す可らざる法律は、その種類頗る多しと雖も、今茲にその重なるものを挙ぐれば、

  一 単行法に付属せる法規、例えば、郵便罰則は、郵便法に付属せしめ、租税に関する罰則は、租税法に付属せしむるを以て便利とするにより、之を刑法に掲げざるが如し。

  一 しばしば変更するを要する法律。

  一 実施期限を有する法律。

  一 特に細密なる規定を要する法律。

  一 一地方若くは一種の人民中にのみ施行さるる特別法。

  一 商業法、工業法、農業法、森林法、海上法等の如く、一種特別の規定を要する法律。

等なり、独乙帝国民法編纂委員の編纂準則第二条にも、民法法典の範囲を議定して、商法、海上法、為替法、郵便法、山林法、礦山法、専売法、特許法、版権法、商標法等、その他十余種の法律を除外せり。

 法典は法律全体を含むべきものなりとの説は、古来往々学者政治家間に行われ、而して立法者が一たび法典を発布するや、悉く他の単行法を廃せんとし、之が為に却て法典の実施に妨害を生じたる事あり、また時として、立法者は一種の法規を網羅して、悉く之を法典中に収めんとし、却て失敗せる事あり、是れエモス氏が、「従来の編典者は、しばしばその怯懦に失し、また或はその大胆に過まてり」と云いし所以なり。

 一千八百七十九年、英国の国会に提出せる刑法草案(Draft of the Criminal Code)は、スチーブン氏が二十五年を費して収集せる材料に基き、判事ブラックボルン、(Lord Blackburn)判事バーレー、(Justice Barry)判事ラツシ、(Justice Lush)及びスチーブン氏の四氏編集委員となりて之を議定せし者とす、此草案に対し、英国判事コーボルン(Lord Chief Justice Cockburn)の提出せる意見書は、頗る精密なる批評にして、国会は直ちに「議員文書」(Parliamentary Paper)として之を公刊せり、その書中、氏が刑法草案中第一の欠典なりとして排斥せしものは、同草案が刑法の全体を含まざるに在り、氏は曰く、「凡ろ完全なる法典は、その編纂の当時に在って、効力を有すべき法規を悉く総括して余すことなきを以て必須の要件とす、若し此の要件を具うる時は、法律を執行する者、及び法律に服従する者、共に容易にその法規の全部を窺う事を得べし、また敢て浩瀚なる法令全書中に散乱せる夥多の単行法を捜索するを要せざるなり、若し之に反して、法典は同種の法律の全部を掲げず、単行法令によりて、之を補充するの必要ありとせば、法典編纂の目的は果たして安くにかある」と、以て氏は法典の目的は、同種の法律の全部を総覧して、一篇の律書に収むるにありとするを観るべし、然れども古来各国の立法史上、未だ能く此の如き法典を編纂したる者あらず、スチーブン氏は、「十九世紀雑誌」に於て、此意見書に答弁して、英国刑法中、法典に編入す可からざるものあるを弁明せり、蓋しコーボルン氏等は、法典は無限の範囲を有すべきものとし、スチーブン氏等は、法典を有限の範囲を有すべきものとなせるが如し。


第三章 法典の主義

 法典編纂委員たる者は、先ず第一に法典の主義を確定せざる可らず、例えば憲法を編纂するに当りては、国家主義に依るべきか、君主主義に拠るべきか、将た民主主義を執るべきかを決せざるべからず、また民法人事篇に於ては、家族主義に依るべきか、個人主義に依るべきかを決し、財産篇に於ては、完全所有権の主義に依るべきか、有限所有権の主義に拠るべきかを決し、相続篇に於ては、分配主義に依るべきか、総領主義に拠るべきかを決せざるべからず、また商法に於ては、保護主義、助長主義、放任主義等の諸主義中、孰れに拠るべきかを定めざるべからず、また刑法に於ては、所謂罪悪必罰の正理なるものに基く、絶対主義に依るべきか、また対立主義に基きて、復讐、恐赫、改良、防御等の諸主義中孰れを択ぶべきか、将た折衷主義を執るべきかを定めざるべからず、また、治罪法、訴訟法に於ては、口訴主義に依るべきか、書訴主義に拠るべきか、将た聴訟主義に基くべきか、審糾主義を執るべきか、を定め、裁判所構成法に於ては、合議裁判を執るべきか、単独裁判の主義を択ぶべきかを定めざるべからず、その他一個の法典を編纂するに当り、法典全体に通ずべき大主義、その一部の基礎となるべき小主義等にして、予め委員の議定を要すべきもの少なからず、是等は、法典の主義に付て、ただその一班を示したるに過ぎず、要するに、若し委員たる者、その始めに当り法典の主義を確定せざるときは、全典の脈絡貫通せず、彼此相矛盾するが如き虞あらん。

 一個の法典を編纂するに当り、その基礎とする主義を定むるには、必らず他の諸法典の主義と調和一致せんことを勉めざるべからず、若し憲法に於ては国家主義を執りながら、民法に於ては社会主義を基礎とするが如く、数種の法典、互にその主義を異にするあらば、何を以て能く一国各種の法律、互に相依り、相扶け、以て国家の安寧を保持し社会の交易を増進することを得んや、法典編纂に従事するもの深く慮る所なかるべからず、殊に学派を異にする諸法律家をして、一国の諸法典を分担編纂せしむる時は、各法典間に脈絡貫通せず、彼此互に抵触するの恐れあれば、之が編纂委員たる者は、深思熟考、以て事に従わざるべからず。


第四章  法典の本位

 法典を編纂するに当り、先ずその法典中の条規は、如何なる標準に基きて分類排列すべきやを画定せざる可からず、凡そ法律の規定する所の者は、一として権利義務に関せざるものなきを以て、法典の基礎を定むるにも、またその標準を権利義務の孰れにか求めざるべからず、而して法典を権利の区別によりて分類編纂し、法典中の条規は、皆な権利を画定するを以てその目的とし、義務は権利を全からしむる為に存するものとするものとし、都て権利を主位に置き義務を客位に置くものを、権利本位の法典とす、之に反し義務の類別によりて法典を彙纂し、義務を本とし、権利を末とし、法典中の条規は悉く人民の義務を規定するを以てその目的とし、義務あるが為に権利存するものなりとなすものを、義務本位の法典とす、また便宜に随い、或る部分は権利を本とし、他の部分は義務を主とするが如き編纂法によりたるものを、複本位の法典とす、而してその孰れの本位を以て、法典編纂の標準となすべきやに付ては、学者間その説を異にし、ベンサム氏、オーグュスト,コント氏、(Auguste Comte)ボヂソン氏、(Shadworth Hodgson)等は義務本位の説を主張し、オースチン氏等は之に反して権利本位の編纂法を可とし、またミル氏、(John Stuart Mill)エモス氏等は複本位の説を採れり、然れども今歴史上より之を観れば、古代に在ては、権利なる観念未だ発達せず、法律は君主が人民に下したる命令にして、人民は之に対して服従の義務あるのみとなせしを以て、当時の法律は、悉く義務を以てその本位となせり、然るに近世に至り、権利の思想稍発達し、法律は人民の権利を保護する者なりとの主義漸く行わるるを以て、法律も権利を本位とし、義務を権利の客なりとなすに至れり、故に古代の法典は、皆な義務本位の法典にして、近世の法典は、概して皆権利本位の法典なりと謂うべし、然れども佛蘭西民法等の如きは、その本位未だ一定せず、所有権の法理は権利本位に基き、地益は義務本位によるが如く、また単本位に依りたるにもあらず、複本位に依りたるにもあらざるものの若し、実に之を以て変遷時代の編纂法と称するを得べし、また一千八百七十九年、オーストラリヤのビクトリア国に於て、立法議会に提出せる普通法典(The General Code of Victoria)草案の如きは、近世に於て、全く義務本位に基きて編纂せる特例と称するを得べし。

 近世の法典は権利本位を主とするものなれども、公法中の法規の如きは、概ね義務本位に依らざる可からざるを以て、法典の悉く権利本位に基づくべきものなりと云うを得ず、例えば租税法徴兵令等の如きは、純粋なる義務本位の法規なり、また刑法の如きは、公益を害し、若くは人の生命、身体、栄譽、自由、財産等を害するを禁じたる法規なり、而して此法禁の結果として、人民に生命、身體等の権利を生ずるものなれば、義務は刑法の直接の結果にして、権利はその間接の結果なりと謂わざるべからず、之を要するに、以上述べたる如く、国家の全體を定むるには、到底唯一の本位に依ることを得ず、必竟法典の性質によりその本位を定むるべきものなり。

 トマス,ツルネリー氏(Thomas Thornely)は「法典の新本位」と題せる論文を著はして、法典の本位を権利若くは義務に採る時は、種々の不便を生ずるものなれば、宜しく「行為」(Conduct)を以て法典の本位と為すべしと論ぜり、今その説の要領を挙ぐれば、法律は総て人民の行為を規定するものなり、法律は或る行為を命じ、また或る行為を禁ずるものなり、権利は或る事を為し得るの資格たり、義務は或る事を為し、若くは為さざるべきの強制たり、故に行為は法律の目的物と称するを得べし、然らば則ち行為を以て法律の本位とし、行為の種類によりて、法典を分類排列するを以て、最も穏当とす、例えば総ての行為は左の如くするを得べし。

(甲)不法行為  公判即ち犯罪

         私犯、即ち民事犯

(乙)適法行為  命ぜられたる行為、例えば納税、兵役等の如く、国家に対し行うべきもの、及び負債償還等の如く、一個人に対して行うべきもの、(絶対義務、対立義務)

         許されたる行為、例えば所有権に属する行為の如く、一般に対しなし得るべきもの及び債主権に属する行為の如く、一個人に対してなし得べきもの、(対世権、対人権)

ツルネリー氏の主張せる行為本位は、往々古来諸国の法律に於て行われ、頗る便利なるものなりと雖も、法律は固と人民の行為を牽制するを以て直接の目的となすものにあらず、権利義務を定めて、人民をして趨避する所を知らしむるものなれば、之を法理学上より論ずれば、固より権利義務を以て法律の本位とするの優れるに如かざるなり。


第五章 法典の綱領

 法典の各条を立案するに先だち、法典全体の順序、及び法条排列の大綱を定めざる可らず、抑も綱領(Plan)は法典の骨組にして、法典全体の結搆、之に拠りて定まるものなれば、綱領の立案は、最も鄭重なる手続きを要するものなり、是を以て、或は委員長自ら之に任ずる事あり、或は委員中最も学理に精き者を撰びて之に命ずる事あり、また或は委員会に於て合議立案する事あり、独乙の民法編纂の時に於ては、準備委員を設けて綱領を議定せしめ、編纂委員をしてその綱領に従いて立案せしめたるが如き是れなり、また時としては、汎く法典の綱領を募集する事あり、綱領既に議定されたる時は、編纂委員は先ず之を公刊して、法律家の批評を徴し、その意見を参酌して綱領を確定せざる可らず、蓋しその綱領に於て、予め法律家の意見を参酌する時は、後に草案を公刊する時に至りて大体論に関する異見少く、為に法典の結搆を更改するが如き手数を省くを得べきなり。

 普魯西普通民法の編纂の如きも、第一に法典綱領の制定を以て始めたり、委員はその綱領に随い、法典を数編に分ち、一編毎に、当時普魯西国に行われたる羅馬法、慣習法、成文法、裁判例等を収集し、その存すべきものと、廃すべきものとを分別し、なお新たに増補すべき法規をも議定し、始めて之を法典の正文に綴り直したり、此立案は、クライン氏(Klein)主任たりしが、之を修正して最後の草案となせるは、スハレツ氏なり。


第六章  法典の文体

 法典の文章用語は、法典の価値に重大なる関係を及ぼすべきものなり、故に若し法典の文辞にして高遠斬新ならんか、その法典たる独り執法者及び専門家の用を為すに止り、到底一般人民をして之を理解せしむること能わざらん、若し法典の文意字義にして曖昧模糊たらんか、詐欺行われ、争訟熄まず、無辜の良民をしてしばしば法綱に陥らしむる如き害を生ぜん、ベンザム氏曾て法律の文辞を以て宝玉に比せり、実に法典の価値は、その文章用語によりて定まると謂うも、敢て過言にあらざるなり。

 法典の文章用語は、平易簡明にして、成るべく多数人の了解し得べきを専一とせざる可らず、古代に於ては、法律を以て治民の要具となせしを以て、その文章用語は独り執法者のみ之を了解すれば、固より足れりと雖ども、近世に於ては、法律を以て権義の利器となすを以て、苟くも人民たる者は、尽く之を知らざる可らず、立法者たる者も、また之を人民に知らしむるを以てその務をなさざる可らず、彼のデンマルクのクリスチヤン第五世の法典は、茅屋の細民に至るまで、家ごとに必らず一部を備え、バイブルと共に之を棚上に飾りたりと、世人傅えて以て美談となす、一国の立法者たるものは、必らず此の如く法律の普及せんことを期せざるべからず、一千八百六十六年、英国に於て、女帝の勅選せる法律取調委員は、その復命書中に於て、人民をして普ねく法律を知らしむるは国家の義務(National Duty)なりと提言せり、その言に曰く

 「陛下の臣民は国法を遵奉すべき義務を有し、法禁を知らざるの故を以て、その匪行の責を免かるる能はず、(中略)故に及ぶ可き丈けは、法律の条文を平易にし、成るべく多数の人民をして法規を熟知せしむること、実に国家の義務たり、是れ臣等の確信する所なり云々、」

由是観之、法文を簡明にするは、法治主義の基本なりと云はざるを得ず、然れども非法律家論者の時に請求する如く、全く通俗の文辞を以て法典を起草する時は、或は之が為に法典を浩澣ならしめ、或は、通俗語の意義漠然たるが為に、疑惑を生じ、争訟を醸す等の虞なしとせず、然れども或論者の唱うる如く、法律の文体は、法度森厳侵すべからざるの威風を具へざるべからずと為すは、必竟に法律を以て蒼生を駕御するの機器とせる謬見に基くものとす、之を要するに、成るべく難澁なる文辞を用いず、勤めて通俗の文法に依るべしと雖も、法律上慣用の術語(Technical Term)の如きは、その意義既に久しく確定し、通俗語を以て之に代用すること能わざれば、必らず之を用いざるを得ざるものとす。

 独乙民法編纂委員は、一千八百七十四年九月十九日の会議に於て、法典中の法律語は成るべく独乙固有の言辞を用ゆべしとの決議をなし、羅馬法傅来の法律語は、既に普ねく人の慣用するものの外は、総て之を採用せざりき、また意義の厳正なるを要するときは、新たに術語を鑄造せしこと少なからず。

 法典の文章用語は、成るべく正確にして、読む者悉く同一の意義に解すべきものならざる可らず、法律の病は文意字義の曖昧なるより大なるはなし、酷吏の法律を曲ぐるも、愚民の法禁に触るるも、奸徒の法綱を免かるるも、皆な職として法文の不明なるに由るものとす、法文の明確ならざる可らざるは、前章既に之を詳論したるを以て、今また茲に之を贅せず。

 法典中の用語の意義を明らかにする方法一にして足らず、或は佛蘭西民法の如く、法典の正条中に於て、所有権、地役、契約その他重要なる用語に定解を下すものあり、或は英国近世の法律の如く、法令中に解釈文(Interpretation Clause)なるものを挿むものあり、また印度刑法、印度契約法の如く各条に範例、説明等を付加するものあり、また英国一千八百七十三年の高等裁判所条例(Supreme Court of Judicature Act,1873.)の如く法典の末尾(第一百条)に於て、法典中疑義を生ずべき用語に定解を施すことあり、また或は一千八百七十五年の高等裁判所条例、(Supreme Court of Judicature Act,1875.)の如く、付属の末尾(付則第六十三条)に於て、法典中の重なる用語に解釈を下すことあり、蓋し法典の本体中に解釈文を挿むよりは、寧ろ之を法典付則とするに優されるに如かざるが如し。

 法典は社会の変遷に伴随する能わずとは、常に非法典論者が法典の一大欠点として指摘する所なり、故に法典を編纂する者は、成るべく此欠典に陥らざるの方法を講ぜざるべからず、而して近世の制法学者は、その救済法を論じて、法典の条文は成るべく原則を示すに止まり、細則を掲ぐべからず、若し条文細微に渉る時は、社会の事物に些小の変動あるも、直ちに之を改正するの必要を生ずべしと云えり。

 法文の繁簡精粗は、その法典の種類によりて定まるものなれば、その中或は細則に渉るべきものあり、或は原則に止むべきものありて、到底一徹に之を概論するを得ず、例えば、訴訟法、治罪法等の如き手続法は、その性質上細密の規定を要するものなり、行政法、商法も之を民法に比すれば、その条項また自から細密ならざるべからず、之に反して、憲法、民法、刑法等の如きは、原則、副則、変則に止まりて、成るべく細密に渉らざるを要す、今若し法典の条文を概括なる汎則に止むる時は、星移り物換り、社会の状態全く一変するにあらざれば、之を改正するの必要を観るに至ることなし、故に法典の種類により、繁簡その冝しきに適せざる可からざるは勿論なりと雖も、事情の許す限りは、務めてその細則を省かざる可からず。

 独乙帝国民法編纂委員は、一千八百七十四年九月十九日の委員会の決議により、民法の条文は成るべく原則、副則、変則等に止め、細則に渉らざるを以てその主義となせり、新民法草案の大にその条項を省略したるは、蓋し之に基づくものなり。

 独乙帝国新民法草案は、全典二千一百六十四条より成り、之を帝国の南部に行わるる佛蘭西民法に比すれば、一百十七条を減じ、中央部に行わるるサキソン民法に比すれば、四百五十六条を減じ、北部に行わるる普魯西民法に比すれば、殆どその三分の一なりと云う。

 左の対比表は、ヤコビ氏(Jacobi)の民法草案論中に掲げたるものなり、依りて以て独乙新民法は旧法を簡短ならしめたるの一班を窺うに足るべし。

        普魯西民法          独乙帝国民法草案      

占有法     二百五十条          二十八条

地役法     二百四十八条         十四条

使用権法    一百八十六条         六十三条

質権法     五百三十五条         一百六十四条

貸借法     一百八十六条         六条

贈与法     一百四十一条         十四条

賃借法     三百六十八条         四十六条


第七章  法典の材料

 法典の条項を立案するに当りては、委員は先ずその材料を定めざる可らず、而してその材料を定むるには、左の如き順序を経べきものとす。

  第一、現行法令、慣習、判決例及び学説を収集し法典の彙類法に随って之を分類する事。

  第二、参考となるべき外国法を収集し、之を分類する事。

  第三、現行法令、慣習等を淘汰し、法典に編入すべからざる部分を削除する事。

  第四、改正若くは、新設すべき法規を定むる事。

右の手続を経て、法典の材料は確定し、起案委員は始めて之を各編各章に配当し再び之を各条各欵に分かつものとす。

 独乙民法の編纂は、三段の手続を経て完成したるものなり、即ち初めに独乙固有法、羅馬法に基きたる普通法、サキソン法、デンマルク法、佛蘭西法、及びその他帝国中各地方に行わるる諸法例を網羅収集し、次に淘汰の法により、その短を棄てその長を存し、終りに之を調和糾合して法典の条項を立案せり、而して全典を分ちて五編となし、各主任委員をして之を分担せしめ、毎年数週間委員の総会を開きて、その大綱を議定し、且つ各委員担当の部分を齟齬矛盾等の虞なからしめたり、是より先き政府は、一千八百七十八年を以て委員の脱稿復命するの期となせしが、その事業の困難なるが為めに、之を果たす能わず、また一千八百八十年を以て草案を連邦会議に提出するの期となせしも、是またその業を了うるに至らず、後ち一千八百八十一年に至りその草案略ぼ脱稿せしを以て、委員中より之が修正委員を撰定し、順序を正し、文体を整一にし、各条に号数を付する等の事をなし、各編之を委員の会議に付し、以て全典の第一次審議会を開き、一千八百八十七年第二次審議会を了り、委員長はその草案に理由書を添えて、之を帝国総理大臣に提出し、翌年に至り、連邦会議はその草案及び理由書を交付したり、委員会の議事録によれば、委員は前後七百三十四回の委員会を開きたるものの如し。

 サキソン民法は、始めヘルド氏起稿の草案に基づき、更に之を編纂したるものにして、一千八百五十六年、十一名の委員を選び、大審院長ランゲン氏を以て之が委員長となし、起稿者ヘルド氏(氏の死後、ジーベンハール氏(Siebenhaar)之に代る)を原稿説明委員とせり、その他行政諸官衙より委員を派してその議に参加せしめたり、今その編纂の方法を観るに、先ず委員の総会に於て、法典全部の大綱を議定し、各部の条項は、担当委員を定めて之を立案せしめ、而して原案の脱稿するときは、復た総会議に付して之を議定するものとす、委員は総会議を開くこと二百四十五回、担当委員会をひらくこと八十三回、四年の歳月を経過して、纔かに之を脱稿せり、於是一千八百六十年に草案及び理由書を公刊し、且つ之を国会に廻付せり、国会は之を修正して政府に還付し、一千八百六十三年に之を法典として発布し、一千八百六十五年三月一日より之を実施せり。

 英国の人民は保守の精神に富み、飜然旧を捨て新に移るを肯しとせず、故に古来政治上の変革少なからずと雖も、他国の革命の如く、旧制を掃蕩して、百時新制に就くが如き激変あることなし、是を以て「ノルマン戦捷」以来未だ嘗て治安策、守成策、統一策、更新策に基づきたる法典編纂の必要を生ずる事あらざりしなり、然るに所謂普通法(Common Law)なるものは、古来の慣習に基づきたる不文法なりと称するに係らず、社会の進歩と共に、斬新なる判決例を生じ、為めに漸くその容量を増し、遂に英国の不文法は、数百巻の判決録中に埋没せらるるに至れり、而して成文法と雖も、その発布は数百年間に渉るを以て、また漸次に積累して、法律専攻の士すら、なお之れが捜索に苦しむに至れり、故に英国の法典編纂論は一に整理策に基づき、法典編纂とは、成文法、不文法の規則を彙類編纂して、一篇の法律書となすの事業なりとせり、エドワルド第六世の勅詔中に「朕は複雑冗長なる法令を平易簡約なる律書に編纂し、人民をして容易に法禁を知るを得せしむるの時機あるを希望するものなり」との語あれども、王は之を実践する能わず、その後ロールド,ベーコンはしばしばジェームス王に法典撰修の事を奏議せしが、王は遂に之を容れず、以後法律の改良は、主として実質上の改良に止まりて、形体上の改良の必要を説く者絶てなかりしが、第十九世紀の始めに当り、ジェレミー,ベンサム氏熱心に法典編纂の必要を唱えしより、ピール(Sir Robert Peal)ロールド,ブローハム(Lord Brougham)の如き、卓識の政治家は、大に法律家の形体改良の事に尽力するに至れり、然るに英国の法律は数百巻の法令全書、判決録等に包含せらるを以て、その既に数百年間不要に属したる法令にして、なお未だ廃止せられざるものあり、また既に破毀せられたる判決例にして、なお判決録に載せらるるものありて、現時効力を有するものと交互錯雑し、容易に之を識別すべからず、是を以て假令法典を必要なりとするも、直ちにその編纂に着手する能わず、故に著実なる政治家は、英国の法律を整理するには、次の如き順序を践むべしとなせり。

  第一 徒法削除(Expurgation)

  第二 法令彙集(Consolidation)

  第三 成典編集(Codification)

 第一、徒法削除  徒法削除とは、数百年来既に無用に帰したる法令を撰出して、之を廃止するを云う、是れ英国の如き法律の複雑累積せる国に於ては、法典編纂に欠く可からざるの準備なりとす、一千八百五十四年、ロールド,クランウォールス(Lord Cranworth)の上奏によりて、「成文法委員」(Statute Law Commission)を撰び、当時既に無用に帰したる法令にして、なお未だ廃棄せられざるものを撰出して、一時に之を廃止するの法規を作らしめたり、此時より政府はしばしば削除法(Expurgation Acts)を発布して、現今に至るまで、その既に不要に帰したる法令三千有余を廃止する旨を公布せり、依て以て英国の法律の複雑せるを観るに足るべく、また以て法律整理の必要なるを知るべし。

 第二、法令彙集  法令彙集とは同種の事件に関する単行法及び判決例を集めて、之を一箇の条例となすを云う、例えば会社に関する数百の単行法、数千の判決例を編集整理して、之を一箇の会社条例となすが如し、斯の如き法律整理法は、恰も小法典編纂に均しきものなるを以て、法典編纂の予備としては、最も便利なるものなり、此の法例彙集の擧は、ロバート,ピール氏が、一千八百二十六年より一千八百三十二年に至る迄に行いたる、刑法改修を以て始とす、一千八百三十三年、ロールド,ブローハムの組織せる刑法委員は、「刑法総則の草按」を起草し、之を上院に提出したれ共、遂に採用せられず、一千八百五十三年、ロールド,クランウォールスは刑法を彙集することに関し、各裁判官の意見を詢いしに、裁判官はいずれも皆之を以て非となせり、然れどもクランウォールス氏は固く執て動かず、遂に有名なる「刑法整理条例」(Criminal Law Consolidation Acts,1861)を制定したり、刑法整理条例とは、正従犯条例、財産毀害罪条例、証書偽造罪条例、貨幣偽造罪条例、人身毀傷罪条例の六法を総称するものなり、是より以来、英国政府は、倍々意を法律形体の改良に注ぎ、一千八百六十六年、有名なる法律家十二名を選抜して委員となし、成文法及不文法の編纂彙類の方法を取調べんことを命じたり、是に於て英国は法律制定の方法に著しき進歩を顕わし、商船条例、会社条例、実産讓与条例、為替条例、破産条例等、従来数百の判決例、数十の単行法令中に分離散在せし法規を収集編纂して、整然たる成文法となすに至れり。

 第三、成典編纂  単行法令及び単行判決例を収集して、之を条例となし、各条例を彙類編纂して、之を法典となすは、蓋し英国立法の順序なり、刑法、治罪法、訴訟法の如く、成典の必要極めて多きものと雖も、必らず右の順序を践むものの如し、現行訴訟法の如きも、第十九世紀に至り、しばしば単行法を発して之を改正し、一千八百六十年の「普通法訴訟条例」(Common Law Procedure Act,1860)によりて、普通法の訴訟法は一個の条例となり、一千八百七十三年及び一千八百七十五年の両回に於て、「高等裁判所条例」を制定し、裁判所構成法及び訴訟法の大改革を行いたり、「高等裁判所条例」は裁判所構成法及び訴訟法を併せたる法典なり。

 英国刑法、治罪法の草案は、大法官ケルンス伯(Lord Chancellor Cairns)の命により、スチーブン氏の起草せるものなり、一千八百七十八年、検事長ホルカル(Attorney-General Holker)之を議院に提出せしが、議院は判事ブラッキボルン(Lord Blackburn)、ラッシ(Lord Justice Lush)、バレー(Justice Barry)及びスチーブンの四氏に草案審査委員を命じたり、翌年に至り、委員は草案に修正を加えて議院に復命せり、然れ共当時議院は議事の蝟集せるが為に、その議事に着手する能わず、一千八百八十二年、政府は再び治罪法草案を議院に提出せしが、またも之を議決するに至らず、故に刑法治罪法は、草案脱稿以来、今日に至りて、殆んど十余年を経過するも、なお未だ公然発布するに至らず、而して民法、商法等の如きは、既に徒法廃止の業を卒りたるにより、政府は方今専ら同種の法例を整理して、条例をなすを力むるものの如し。


第八章  法文の起草

 法典の条文は、一人にて之が原案を起草する事あり、之を単独起草の編纂法とす、また法典の綱領に基き、各編の立案を数人の委員に分担せしむる事あり、之を分担起草の編纂法とす、単独起草、分担起草共にその稿を定むるに当りては、委員の衆議によるべきものなり、単独起草の方法によれば、法典の文章体裁、共に整一にして首尾貫通することを得べしと雖も、民法の如きは、範囲極めて広く、一人の学士にしてその全部を担当するは、甚だ困難なるを以て、止むを得ず分担起草の法によらざるべからず、而して各担当委員は、しばしば立案協議会を開きて、各部互に脈絡を通じ、毫もその間に杆格なからんことを勉め、草案脱稿の後は、之を草案審議会に付して、能くその各部を調和整理し、以て全典の文章体裁を修正せざる可からず。

 太古の法典は、単独起草の方法によれるもの多し、印度メニューの法典、希臘ドラコの法典、ソロンの法典等は、蓋し一人の手に成りたるものならん、我国中世の上宮太子の「十七憲法」、羅馬のサルヴィヤス、ヂュリヤナスの「永久告示法典」「グレゴリヤン法典」「ヘルモヂニヤン法典」等の如きは、皆な単独起草の方法によりたるものなり、近世の法典にして単独起草の法によりたるもの少なからず、就中フェイエルバフ氏(Feuerbach)のババリヤ国刑法に於ける、フィールド氏(Dudley Field)のニューヨルク州法典に於ける、スチーブン氏の英国刑法草案に於けるが如きは、その最も著名なるものなり、我邦の刑法、治罪法は、ボアソナード氏の起草に係りたるものにして、而して商法草案はリョースレル氏、訴訟法草案はテヒョー氏の起草に成りたりとの世評あるを以て観れば、是等の草案は、皆単独立案合議定案の方法に拠りたるものの如し。

 独乙民法草案は、分担起草合議定案の方法に拠りたるものにして、編纂委員は、準備委員の議定せる法典綱領に随い民法全典を五編に分かち、一編ごとに主任起案委員を定めたり、故に十一名の編纂委員中、一名は委員長にして編纂事業を綜理し、法典全体の整頓を司り、五名は協議委員となりて、各起案委員の協議を受け、且つ委員会に於て、原案に対しその意見を陳ぶる者とす、斯の如く分担起草に拠りたる草案は、委員総会に於て之を審議し、損益修正の後ち始めて草案となせり。

 独乙民法編纂委員の姓名、及び各自の専任は左の如し、

    一 委員会           パーペ氏(Pape)

    一 総則主任          ケブハルト氏(Gebhardt)

    一 債権法主任         リューベル氏(Ruebel)

    一 物件法主任         ヨホー氏(Johow)

    一 親族法主任         プランク氏(Planck)

    一 相続法主任         シュミット氏(Schmitt)

    一 協議委員会         デルシャイド氏(Derscheid)

                    クールバウム氏(Kurlbaum)

                    ロート氏(Roth)

                    ウェーベル氏(Weber)

                    ウインドヤイド氏(Windscheid)

此外、なお別に有名なる学士裁判官等、九名を選んで編纂補助委員(Huelfsarbeiter)となせり。

 分担起草の編纂法は、法典全体の斉一を欠き、法条の主義文体、共に区々に渉るの弊あるを以て、合議定案を為すの時に於て、全典の主義及び文法を一轍に帰せしむるは頗る困難なりとす、独乙民法草案の編纂は十三年四ヶ月を要し、その中七年一ヶ月を起草に費し、六年三ヶ月を議定に費せしは、必竟分担起草、合議定案の編集法によりたるを以てなり、学士ラッソー氏(Rassaw)は分担起草の法を非として、分担起草の編纂法は、法典の完成を遅滞せしむるものなりと論ぜり、ビヤハウス氏は之に対えて曰く、「独乙国がその唯一の民法法典を得るに十年の遅速あるは、固より重大の事なりと雖ども、之を我国の法律家が全能力を尽して、完全なる法典を作るに比すれば、蓋し瑣々たる小事のみ」と。


第九章  草案の公布

 古代の社会に於ては、法律は君主が人民を統御するの具なりとせるを以て、近世の如く必らず、法令を公布することあるなし、我邦上宮太子の十七憲法、北条氏の貞永式目、徳川氏の御定書百ヶ条等は、皆な官吏の執務規定の如きものにして、普ねく人民に公布せしものに非らず、所謂「法在有司 民不周知」の有様なり、御定書百ヶ条の奥書にも、「右之趣達上聞 相極候其掛御役人之外不可有他見者也」とあるを以て、当時の政府は、「民をして依らしむべし、知らしむ可らず」の主義に基き、深く法令を秘したるものなるを知るべし、斯の如く法令すら之を秘密にする時代に於ては、人民をして法律の制定に参与せしめざるは、固より論を待たざるなり、然れども近世に至りては、その主義一変し、法律は以て人民の権利義務を確定保護するの具なりとなし、「民をして知らしむべし、拠らしむべし」との主義を採用し、啻に法令を公布するに止まらず、立法議会を公開し、人民をして法案の議事を知らしむるを必要とするに至れり、抑も法律は、強て人民をして之を遵奉せしむるものにして、人民の利害に直接の関係を有するものなれば、固より之を秘すべきものに非ず、況んや法典編纂の如きは、至重至大の事業にして、軽々に之を確定すべきものならざるに於てをや、法典の草案を秘密にするは、専制主義の制法術なり、如何となれば、是れ立法の議事を秘密にするに均しければなり、法典の草案を公布するは、立憲主義の制法術なり、如何となれば、法典の公布は立法議会の公開に均しければなり、故に文明諸国に於ては、必らずその草案を公布し、以て一国の与論を窺い、また裁判所、大学校、法律家、学者、政治家、及び法典に密接の関係を有する実業家等には、特に之を送付してその意見を徴し、而して委員中より意見書審査掛を選定し丁寧に之を調査せしめ、なお再三再四の校訂を経て、草案を確定すべきものとなせり、その草案に関する意見及び批評を徴する時に当て、委員は公衆に対し平気虚心にしてその意見を容るべきを公示せざるべからず、否らざれば公衆は意見を提出するも、委員の丁寧に咀嚼せずして之を排斥せん事を恐れ、為に所思を吐露せざる者なしとせず、また草案を公布せずして、単に学者裁判官等にその意見を諮詢する時は、成るべくその多数の意見を徴せざる可らず、否らざれば議論或は一派に偏重するの虞なしとせず、また意見提出には充分の時間を与えざる可らず、若し然らずして或は既に草案を立法部の議事に付するの日に迫りて、法律家の意見を諮うが如き事あらば、その諮詢を受けし者は、熟慮潜心して草案を考究するの暇なく、之が為に却て軽々しく草案を非議する者あるに至らん、故に草案の公布と意見の諮詢には、充分なる討究の時間を与えざる可らず、またその意見書は、後日之を編纂して、理由書と共に公刊せざる可らず、是れ意見を提出する者の労を従労に帰せしめず、その意見の在る所を永く公衆に示さんが為なり、一千八百七十九年、英国議院は判事長コーボルン氏の提出せる刑法草案の批評を「議院文書」として公刊せしが如きはその一例証と謂うべし。

 法典編纂の大業を外国人に委任するは自国に適任の法律家なきを自白するものなれば、その国の法律家の最も慚愧すべき所なり、然れども外国の碩学大家の意見批評を乞うはまた最も希望すべき所なり、殊に未だ立法事業に練熟せざる国柄にありては、草案を外国有名の法律家に送りて、之れが学術上の批評を求むるは、法典を完全ならしむるの良手段と称せざるを得ず、普魯西民法の如きは、一千七百八十四年より一千七百八十八年に至るの四年間に、全典の草案を六回に分ちて之を公布し、汎く公衆の意見を徴し、その価値ある意見を提出せし者には、特に勲位を授けてその功を表旌せり、政府はまた草案を国内に公布せしのみならず、独乙全国及び墺多利の諸大学校、裁判所、有名なる法律学者、裁判官、代言人、政治家等には、特に之を送付して、その批評を乞えり、政府の公明正大なる斯くの如く、以て公議を容れんとするを示したるにより、愛国の士は、学者と実際家とに別なく、進んでその意見を提出せる者甚だ夥しく、後にその意見書を編集するに及び、三十九大巻を為に至れり、此に於て委員はスワレツ氏(Suarez)の指揮によりて「意見書抜粋」(Extractus monitorum)八巻を編纂せり、スワレツ氏はまた意見書の調査報告書を為りて之を公にしたり、斯の如く普国政府は数多の意見書を得たるを以て、委員は之に拠りて草案を修正改竄せし所甚だ多し、修正既に卒るに及び、その改正草案を再び委員会の審議に付したり、その注意の周到なる此の如きを以て、普魯西普通民法はその実欠点少なからずと雖ども、その割合には私議誹謗する者無かりしと云う、之に反して墺多利政府は、民法を編纂するに方りて、唯だ自国の大学校、裁判所、法律家等にのみその草案を送付して汎く独乙諸国の大学校及び法律家等の意見を求めざりしを以て、その民法は之を普魯西民法に比するに、敢て劣る所なかりしと雖も、独乙諸国の法学者は、厳しくその編纂方法の不当なるを非議したり。

 独乙民法編纂準備委員会の議定せし編纂規定第八条に於て、

  「民法草案は起案委員の第一読会の後ち、直ちにその理由書を添えて之を公刊し、且つ之を連邦議会政府に送致すべし」

と定めたり、その趣意書に依れば、法典の草案は、起案委員の第一読会を終る迄は、委員全体の意見未だ確定せざるものなるを以て、之を公布すべからず、故に第一読会に於て、草案確定する時は、直ちにその理由書と共に之を公布し、汎く法律家、実務家の意見を徴すべしと為せり。

また九条に曰く、

  「委員は第一読会を終るの後ち、直ちに意見書審査掛を置き、連邦諸政府及びその他の者より提出せる意見または修正案を整理編集して、之を審査し、以て第二読会の議案となすの準備をなすべし、」

右の編纂規定に従い、起案委員の第一読会を終るや、政府は直ちにグッテンターク(Guttentag)書肆に托して、草案一巻理由書五巻を刊行発売せしめたり、その草案緒言の結末に曰く

  「連邦議会は、一千八百八十八年一月三十一日の会議に於て、法典の第一読会草案を、その理由書と共に公にせんことを議決し、その実施を帝国総理大臣に委託せり、是れ本書を公刊する所以なり、冀くは法学者、司法官、及び実務家諸氏は本案を熟読して、各その批評及び修正案を帝国総理大臣に提出せられんことを。」

現今欧州中法学者の淵叢と称せらるる独乙国に於て、有名の法学者、裁判官十一名を精選し、十三年余の歳月を費して議定せし民法草案にして、なお辞を卑うにして汎く与論を徴すること此のごとし、法典編纂事業の至重至難なる、以て知るべきなり。


第十章  草案の上進

 法典草案の上進は、編典事業最終の手続なり、抑も委員は始め政府若しくは立法議会の命を受けて、法典の編纂に従事する者なれば、その草案の確定する時は、之を上進して立案事業の終わりたるを復命せざる可らず、此の如く復命上進したる草案も、政府または立法議会に於て之を採用せざるが為めに、法典の公力を享けずして止みたるもの、カムバセーレ氏の佛蘭西民法草案を始とし古来諸国の立法史上、多く其例を見る所なり、故に法典の草案にして、政府之を容れ、議院之を可決し、君主之を裁可する時は、編纂の事業は茲に全くその終を告ぐる者とす。

 法典編纂の事業を以て、美名を青史に垂るる者、古来甚だ多し、就中希臘のライカルガス王、羅馬のジュスチニヤン帝、丁抹(デンマーク)のクリスチヤン第五世、普魯西のフレデリック第二世、佛蘭西のナポレオン帝を以て最も著名なる者とす、歴史家ギボン氏曾てジュスチニヤン帝の偉業を称して曰く、「ジュスチニヤン帝の戦争者たる虚栄は、早く已に一片の塵芥と化し去りて、またその影跡を止めず、帝の立法者たる芳名は、永く記念碑に銘して萬古磨滅する事なし」、とまたナポレオン帝の如きも、その兵威は全欧を席巻し、阿非利加を振動せりと雖も、功業の赫々たるは、その法典の諸国立法の模範となりたるに如かず、蓋し帝が「朕は法典を手にして後世に臨むべし」と言えるも、自らその文勲の遠く武功に優るを知りたるを以てなり。

 由是観之、法典編纂は「経国之大業、不朽之盛事」なり、之に与かる者、その栄や最も大なり、法典編纂は国家千載の利害、生民億兆の休戚、由て以て定まる所なり、之に与かる者、その任や極めて重し、斯の大栄譽に酬ゆるの道果して如何、斯の重責任を尽すの道果して如何。

                                 法典論 終

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